唐詩に詠じられた杜甫の墓(下)
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(2) . 人文科学 ・社会科学編)第五十二巻 第 一号 平成十三年九月 北海道教育大学紀要 (. 唐詩に詠じられた杜甫 の墓 ( 下). 北海道教育大学札幌校漢文学研究室. 潅頂何必須醍醐. 我吟杜詩清入骨. 西有松寺東岸無. 臨湘之浜麓之隅. 白 日は照らさず末陽県. 濯頂 何 ぞ必ず しも醍醐を須 いん. 我. 西に松寺有 るも東岸 に無 し. 湘 に臨む の浜. 杜詩を吟ず れば清 らか にし て骨 に入る. 麓 の隅. 白 日不照末陽県. 明珠 大 貝 採り て尽き んと欲す. 正. 明珠大貝採欲尽. 峠蛤. 秋. 峠蛤空満赤沙湖. 今. 藤. 今 我題詩亦無味. 賢を懐 い古を覧 て長呼を成す. 後. 懐賢覧古成長呼. 如かず 興罷り て江を 過ぎ て去 るに. 皇天厄死飢寒躯 皇天は厄死せしむ飢寒の躯. 不如 興罷過江去. 己 に好 月 の帰途 に明らかな る有り. おわ. 我 詩を 題す るも亦味無く. 空 しく満 つ赤沙湖. 本稿は、前稿 「 唐詩に詠じられた杜甫 の墓 ( 上) 北海道教育大学語学文 」(. 巳有好月 明帰途. 行」 の冒頭 の句 、. こと. 冒 頭 から し て、杜 甫 の大 暦 四年 ( 七 六九 )夏 の作 と さ れ る 「 岳 麓 道 林 二寺. 道林寺 は、長沙 の西、岳麓山 のふもと にあ った寺 であ る。催 珪 のこ の詩 は. し. 学会 「 語学文学」 第 三九号、 二〇〇 一・三) に引き続き 、唐詩中 に杜甫 の墓 がど のよう に詠 じられ て いたか に ついて、若干 の考察を試 みよう とす るも の であ る。. 、及び韓愈 「 『 前稿では、戎最 「 来陽繁夜行」 ( 全唐詩』巻二七0) 題社工 部墳」 ( 薬夢弼会箸 『 集註草堂杜工部詩外集』唱酬附録、『 全唐詩続補遺』巻 五)を、杜甫 の墓を詠 じた唐代 におけ る早 い例と みなす ことは、かなり無理. 玉泉之南麓山殊. を意 識し て いるよう に、 ここで言う 「 杜詩」 は 「 岳麓道林 二寺行」 を指 し て. 麓山殊なり. があ る こと を 述 べた。そ れ では確 実 に杜甫 の墓を 詠 じた詩 と考え ら れ る の. 道林林墾争盤粁 道林も林墾争 いて盤粁す. 玉泉 の南. は 、 誰 の詩 であ ろう か 。. 五九 一) に触 れ ておき た い。 こ の詩 自体 は杜甫 の墓を 詠 じたも のではな い. い る。 杜 詩 が 清 ら か であ る と いう のは 同 じ 詩 中 の、. 本論に入る前に、窪珪の 「 『 道林寺」 ( 文苑英華』巻三四二、『 全唐詩』巻 が 、 明 ら か に杜 甫 の死 に 言 及 し て いる か ら であ る 。. 5 3.
(3) . . 正 秋 藤 後. 香厨松道清涼倶. 塔劫宮謄壮麗敵 香厨. 塔劫 松道. 宮矯 清涼倶 にす. 壮麗敵 し. 1} (. 冒 頭 に、. 年少因何有旅愁 年少 何 に因り て旅愁有 る. 欲為東下更西遊 東 下を為 さんと欲 し て更 に西 に遊 ぶ. とあ る ことからす ると 、窪 珪は李商隠 よりは年少 であ った。従 って、少なく. 楚辞』離 騒 の、 皇 天」 の句 は 『 と いう句 などを踏まえ た表現 であ ろう 。 「. 皇天無私阿号 皇天 私阿無く お. とも 西暦 八百年代 の前半 には杜甫 は末 陽 で死 んだと いう 話 が流布 し て いた こ. ここ. まつ. 紫菊馨香覆楚酒 紫菊 の馨香 楚酒を鷺う. 経未 陽杜 〔一作今林〕 工部 墓」 ではな いだ ろう か。 の七律 「. { 3). 八三三ー 九 〇九) 本 題 にもど ろう。杜甫 の墓を初 め て詠 じた のは、羅隠 (. 二. と は確実 であ る。. 覧人徳霧錯輔 人 の徳を覧 て霧 に輔けを 錯く の句 を踏まえ な がら、皇 天も 飢 寒 に苦 しむ杜 甫 を憐 れ ん でく れ ること は な か ったと いう のであ ろう 。窪 珪は、杜甫 が長沙 から未水 に入り、飢寒 のため 全 唐 詩』 の小 に莱 陽県 で窮 死 したと考え て いた のであ る。窪 珪に ついて、 『 伝は、以 下 のよう に記す 。 催 残、字 夢 之、嘗 寄 家荊 州。登 大 中 進 士第 、由 幕 府 拝 秘 書 郎。為 珪県 令 、有恵 政。官 至侍 御。詩 一巻。. つな. 旅魂目是才相累 旅魂 自ず から是 れ才 め て相 い累 がる. ‘. 鍵君江畔雨粛騒 君を江畔 に繁れば 雨露 騒たり. 第 に登り、幕府由り 秘書郎 に拝せら る。棋 県 の令 と為り、恵政有り。官 は. 閑骨何妨家更高 閑骨 何ぞ妨げ ん家 の更 に高きを. 八四七ー 八七 三) の進士 の 荏 珪、字は夢之、嘗 て荊 州 に寄家す。大 中 ( 侍御 に至 る。詩 一巻。. 屈原宋玉憐君 鯉 屈原 ・宋玉 君 が処を憐れ み. ひさ. 臓慶喪来空嚢蹴 験駿 喪わ れ来 って空 しく蓬服し 新 唐 書』 こ の記 述 は、 『 新 唐書』巻 七十 二下、宰 相世系表 二下、同じ く 『 北夢 蹟言』 唐掠言』巻十 一、孫光憲 『 巻 六十、芸文志 四、 さら には王定 保 『. 幾駕青蝿緩衝陶 幾たびか青嬢 を駕 し て骸陶を緩く せ ん. 「 東 城晩 歓」 の冒頭 に、 紫菊」 は、白 居易 「. 芝蘭衰後長蓬嵩 芝蘭 衰え し後 長しく蓬嵩あり. 窪 珪 に ついて」 巻 三な ど から構 成 され たも のと考え ら れ るが、松 岡秀 明 「. 為洪県 q東京経済大学人文自然科学論集」七七、 一九八七 ・: ; が、「 令 、有恵 政。 」 と いう部 分 は、晩 唐 の荏 珪ではなく 、同姓 同名 の別人 であ る 大明 一統志』が節 携県志』 が記録 したも のを 『 初唐 の荏 残 の事 績を 明代 の 『. 涼風冷露粛索天 涼風 冷露 粛索た ろ天. 荒涼た る田. 全唐詩 』小伝 が これを無 批判 に取り こんだ記述 であ ることを 録 し、さら に 『. 紫菊 黄嵩紫菊蕃恐源田 黄嵩. ^ 2). 八 一ニー 八 五八) の 「 送窪 狂往 西 川」 の 明らか にし て いる。ま た、李商隠 (. 6 3.
(4) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). とあ ること からす ると、単 に秋 のむ らさき の菊花を いう のではなく、廃漉 に 紗 紗臥荊 衡. 遅遅恋屈宋 紗紗. 遅遅とし て屈宋を恋 い. 重華と揺 の圃 に遊ば ん. 青料を駕 し て白蛸 を勝 にし. 吾与重華遊号揺之 圃 吾. 駕青叫 号鯵白蛸. と いう 句 が 見 え て いる。 ま た 、 『 楚 辞 』 九 章 ・渉 江 に、. 荊 衡 に臥 す. 咲 く 花 と いう イ メ ー ジ を 持 った 語 であ る よ う だ 。. 旅魂驚く. 露 下り 天高 くし て秋気清く. 「 旅魂」 は、杜甫 の 「 夜」 に、. 露 下天高秋気清 独夜. とあ るから、末 聯は、杜甫 が憧れ て いた屈 原と宋 玉 の墓も末陽か ら近 いのだ. 空山独夜旅魂驚 空山 とあ って旅 の心を言う が、 ここは旅先 で死 んだ杜甫 の魂を言う。 こ の句 は、. から 、彼らは青 い龍 に車を引 かせ て慰 め にく るだ ろう 、と言う のであ る。. ろう 。 「閑 骨 」 は 他 の 用 例 を 見 出 せ な いが 、 第 四 句 は 、 ひ っそ り と 地 下 に 眠. ばしば 科挙 に応 じたも のの落第 し ており、威 通十 一年 ( 八七 0)秋 に落第し. こ の詩 の制作時期 はは っき りしな い。羅隠 は大中六年 ( 八五 二)以降、し. ( 5). 漂泊 の旅を続けた杜甫 の魂も よう やく落ち着き 場所を得た ことを言う のであ る杜甫 の遺 骨 にと って、墓 が高 く な ろう と 関 わ り は な いと 言う のであ ろう. た 時 に は 憤 って 、 も と の名 であ る横 を 隠 に 改 め て いる 。 こ の間 、 何 回 か 郷 里. 曲二首Lへ其 の 一〉 の冒 頭 の句 、 章曲花無頼 章曲 花無 頼なり. ・. また、「 寄南城章逸人」 ( 『 全唐詩』巻六五七)でも、杜甫 「 奉陪鄭騎馬章. 少 陵杜甫兼有文 少陵 の杜甫 兼 ね て文有 り. 洛 陽貰誼目鉦太叩 洛 陽 の買誼 自 ず から命無 く. のよ う に詠 じ て いる 。. 六 五) があ るば かり でなく、 「 湘南春 日懐古」 ( 『 全 唐詩』巻 六 五 六) では次. 羅隠 は、杜甫 の理解 者 でも あ った。彼 には 「 題杜甫 集」 ( 『 全 唐 詩』巻 六. ( 6). 衡 陽 市 ) の主 簿 と な って い る か ら 、 こ の時 のも のか も し れ な い。. しかし、成 通十 二年 の夏 には短期間だ が、来陽からほど 近 い衡 陽県 ( 湖南省. か。雑草 が繁茂 し てしま ったた め に香 草 が枯 れ てしまう ことを 言う 第 六句. 芝蘭を敗 るは. の断江新城県 ( 断江省新 登県)と長安 を往復す るほか、各 地を旅 し て いる。. 擁塞敗芝 蘭 擁塞 荊杷盛 んな ればなり. は、杜甫 「 種高菅」 に、. 衆多盛荊 妃 衆多. と あ る のを 踏 ま え る であ ろう 。 「 種 高 菅 」 の序 に 、. 進 ま ざ る こと を 傷 み 、 因. ・ ::・ 傷時君子、或晩 得微禄 、糠刺 不進、因作此詩。 ・ ::・ 時 の君 子 、 或 いは 晩 に 微 禄 を 得 て、 鍵 朝 り て此 の詩 を 作 る 。. と 言 って いる よ う に 、 真 に才 能 のあ る者 が 埋 も れ て いる こ と を 嘆 い て いる の. であ る。杜甫 が屈原と 宋玉 に共感を寄せ て いた こと は彼 の何篇か の詩 に見え て いるが、例えば、 「 送章 二判官」 には、. 7 3.
(5) . 正 秋 藤 後. 家家悩殺人. 家家. を 踏 ま え つ つ、. 人を悩殺す. . 風戯 題 四韻 、奉簡鄭十 三判官」 など の詩篇を念 頭 に置きな がら、困難 に遭 っ. ても 乗り越え るよう に沈光を激励 し て いる のであ る。 こ の詩は鄭谷自身 が束. 陽 の杜甫 の墓を訪 れ て詠 じたも のではなく、光 の旅 の途次 におけ る行動を想. ば 「 『 全唐詩』巻 六七 四) で、次 のよう に詠 じ て 峡中寓止 二首」へ其 の ; (. 像 したも のであ る。 しかし彼 が杜甫 の生涯 に共感を寄 せ て いた ことは、例え. 杜甫詩中章曲花 杜甫 の詩 中 章曲 の花. いること からも 明らか であ ろう。. 小県結茅茨 小県 茅茨を結ぶ. 荊州未解囲 荊州 未だ囲みを解かず. 至今無頼向豪 毅 今 に至 るも無頼 にし て豪家 に向かう と詠 じ て いる。羅隠が杜詩 に親し んで いた証拠とな ろう 。 ( 8). 『 文苑英華』巻 二 送田 〔 沈〕 光」 ( 八四八?ー九 ○九?)の 「 次 に鄭谷 (. 九晒低迷誰間我 五湖 に流浪 し て君を悲しむ べし. 九 晒 に低迷し て誰 か我 に問わ ん. 八 二、『 全唐 詩』巻六七 六)を見 よう 。. 五湖流浪 可悲 君 書を著 し ては笑破す蘇司業. 全唐詩』巻 六九 三)も 杜甫 の墓 に言 及し て いる。陳 陶 の 英華』巻 三 ○五、 『. 子美すら猶お此 の如 し. 著書笑破蘇 司業. 賦詠 し ては鄭広文と斉 しから んことを 思う. 経歴 はは っきり しな いが、若 いころには科挙登第を 果たせず、 そ の後 、福建. 子美猶如此. 賦詠思斉鄭広文. 樟を 理め ては好 んで三百首を携え. 洪崖 江西省南昌市 ) の西山 ( 八四九) こ ろからは洪 州 ( を旅 し、大 中 三年 (. 翻然 敢え て悲 しま じ. 理神好携 三百首. 風 に阻まれ ては須く幾千分を飲む べし. 山)に隠居してい雫. 翻然 不敢悲. 阻風須飲幾千分. 東陽 の江 口 春山緑なら ん. 蘇 司業と. 工部を傷 み. 各 お の三尺. 却 って開解を成 し て君が心を果す. 開 解 す。)とあ. るよう に、は っき りと 理解す る意 であ って、失意 のう ち に没 した杜甫 と李白. 其 の説は注洋 ・奥 美 にし て、関節 注 洋奥 美 、関節 開解。 」(. 其説 大唐故殿中侍御史瀧西李府君墓誌銘井序」に、「 「 開解」は、韓愈 「. 却成 開解果君心. 両地孤墳各 三尺 両地 の孤墳. 采 石江 辺弔翰 林 采 石 の江辺 翰林を 弔う. 東 陽山 下傷 工部 束 陽 の山 下. 『 文苑 果陳陶」 ( 八四六ー 九 ○四) の 「 鄭谷と ほぼ同時代を 生きた杜 萄鶴 (. 束陽江 口春山緑. 働果 し て応 に尋 ぬ べし杜甫 の墳. ぉさ. 働実応 尋杜甫墳. 鄭谷が長安 で科挙 登第 を目指 し て いた時期 に、南方 へ旅立 つ知人を見送 っ. 旧. 九 日五首」へ其 の三 〉の句 、 た詩 であ る。 こ の詩 の鎖聯は、杜甫 「. 旧与蘇司業. 兼随鄭広文 兼ねて随う鄭広文 機船苦 週樟」 「 銅官渚守 風」 「 を踏まえ て いる。また頭聯も 、晩年 の杜甫 の 「.
(6) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). の墓は荒 れ果 てて いる のだ から、ま し て陳陶 の墓 はさぞ やと思わ れ、悲 しま と 言え る であ ろうo. の句 があ る。 不遇だ った時期 の杜萄鶴もまた、杜甫 に深 い同情を寄 せ て いた. 園裏. 先生 の塚. 空余八封樹 空しく余す八封樹 尚対 一茅堂 尚お繍う 一茅堂. 鳥蹄春更傷 鳥瞬き て春更 に傷む. 園裏先 生塚. 『 全 唐詩』巻 七 一← 曹松 の 「 奥陳陶処士」 ( ◇ も杜甫 の墓 に言及 し て いるo. れ てな ら な いと 言 う の であ ろ廼 o仮 に陳陶 の没年 が乾符 六年 ( 八七九) こ ろ. ・ こ のころ杜萄鶴 は最初 の科挙 に落第し て九華山 ( であ るとすれ随 、 安徽 省青 陽県 の西) に入 って いた。 郷里を離れ て南方を流浪 したあげく 、不遇 のまま 死んだ陳陶 に鄭谷自身 の不遇感も重ね られ て いる。. 、「 冬末目長沙瀞桂嶺留献所知」、「 題衡陽 杜荷鶴には 「 冬末同友人淀漸湘」 いることから考え て、彼 が実際 に杜甫 の墓を訪ねた こと はなくとも、そ の墓. 白 日埋杜甫 白 日 杜甫を埋め. 隠士山 居」 など の詩 があり 、洞庭 湖 の南、長沙から桂嶺 に至る 一帯を旅 し て の様 子 は熟 知 し て いたも のと 考え られ る。ま た、彼 の 「 経 青 山 弔李 翰 林」. 陽 皇天 東陽を鱒す 皇天無実甲. 如何せん稽古 の力あ る に. 今全唐詩』巻六九 一)も杜甫 の墓 に言及し て いる。. 如何稽古力. 先生道 日新 青山. 先生. 一詩人. 明月 の夜. 道 日び新 たな るに. が見 てと れる。また尾聯は、陳陶 が十分な学識を有 し て いな がらなかなか報. 甚だ荘発た ろを. 青山 明月夜 千古. いら れ な か った こと を 言 う 。. 報答甚荘荘 報答. 千古 一詩人 天地は空 しく骨を鎗し. 何為先生死 何為れぞ先生の死せる. 天地空鉛骨 声名 は身 に傍 わず. ( 洪 崖 山) に隠 居 し て いた ことを 述 べ てお いた。曹 松 にも 「 乱後 入洪 州 西 山」、「 再到洪州望 西山」 など の詩があ って、彼もまた西山 に住 ん で いた こと. 先 に、陳陶 が大中 三年 ( 八四九) ころから、洪 州 ( 江西省南昌市 ) の西山. 2) ( 1. 「 白 日」 と 「 皇 天」を対 にした領聯 には、明らか に窪珪 「 道林寺」 の影響. 声名 不傍身 な. 此 に来き て吟郷と作さしめ ん. まね. 誰移来陽 家 誰か末陽 の家を移 し 来此作吟郡. 未 だ達 せず 、嘗 て乱を避け て来 り て洪 都 の西山 に栖む。)とあ り 、彼 が 西山. が知 られ る。 『 唐才子伝』巻十 には、 「 早未 達、嘗避乱来栖洪都 西山 。 早に 」( 誰か未陽 の杜甫 の墓を移 し て、青山 ( 安徽省当塗 県 の東南) の李白 の墓 の. に入 った時期 に ついて、 『 中華書 局、 一九 九 0。曹 唐才 子伝校 箸』第 四冊 (. 元寺棲隠伝 には陳陶 に関し て、. 八八 0)前後 と推定 し て いる。 さら に、 『 年 ( 宋高 僧伝』巻 三十、唐 洪 州 開. 隣居と させ てく れ な いだ ろう か、と 言う の であ る。杜 荷鶴 の 「 寄温 州 窪 博. 県宰 は不仁 にし て工部 は餓え. 松 の項 の執筆 は周祖誤と買晋華 )は、黄巣 の軍が江准 ;帯を席巻 した広 明元. 県宰 不仁 工部餓. 酒家 は識 る無 くし て翰 林 は醒めたり. 士」 には、. 酒家無 識翰 林醒. 平常与貫休 ・処黙 ・情陸為詩道之遊、沈顔 ・曹 松 ・張凝 ・陳昌 符皆 処士. 9 3.
(7) . 正. 秋. 藤 後. 也、為 唱酬之友。 平常は貫体 ・処黙 ・僑陸と詩道 の遊を為 し、沈顔 ・曹 松 ・張凝 ・陳昌符. . 斐譜斐説倶有詩名。説官至補閥、譜終於桂嶺仮官宰。同作湘江吟、説詩. 云、吟余 潮入浦 、坐久焼移 山。譜詩 云、風回山火断、潮落岸氷高。経杜甫. 墳 、説云、擬掘孤墳破、重教大雅生。譜 云、名終埋 不得、骨且朽何妨。景. と いう 記事 があ ることからす ると、曹 松も晩年 の陳陶と交 流をも って いた の. 終 る。 同 に湘江吟を 作 る、説 の詩 に云う 、吟余 り て潮は浦 に入り、坐す る. 斐諸 ・斐説は倶 に詩名有り。説は官 は補闘 に至り、譜 は桂嶺 の仮官宰 に. は皆な処士な るも 、唱酬 の友 と為 る。. 九 〇 一。 四月 に天 ではなか ろう か。曹松 は七十歳を過ぎ た昭宗 の光化 四年 (. こと久 しくし て焼は山 に移 ると。譜 の詩 に云う 、 風回り て山火断え 、潮落. 同語意倶 別。. 復と改 元) にな って進士 に登第 し、 五老棲と号 され て いる。 しかし、西山 に. ち て岸氷高 しと。杜甫 の墳を経しとき 、説は云う 、. 孤墳 の破 れしを掘り て. 名 は終 に埋 ること得ざ れば. 果陳陶処士」 であ っ な自身 の感慨を 陳陶と杜甫 の人生 に重ね て詠 じた のが 「. あ っても 、 不 遇 感 を 抱 い て いた こ と に 変 わ り は な か った であ ろう 。 そ のよ う. ち 果 て る の に ま か せ よ う と いう の で あ って 、 確 か に 「語 意 」 は 異 な っ て い. のであり、斐譜 の句 は、杜甫 の名声 は後 世 に伝 わ って いく のだ から遺 骨は朽. 斐 説 の句 は、大雅 の精神 を復活 させ るため に杜甫 の墓を 発掘 しよう と いう. す. 擬掘孤墳破. 重ね て大雅をし て生ぜ しめんと擬. 名終 埋不得. 骨 は且 つ朽ち ること何 ぞ妨げ ん. つい. 骨且朽何妨. と 。 譜 は 云う 、. 重教大 雅生. のび. 入 る以前 には、 一時期、建州刺史 の李頻を 頼 った こと はあ ったも のの、不遇 な生活を送 って いた。 『 唐才子伝』巻十 には、 初在建 州依李 頻、頻卒後 、往来 一無所遇。 初 め建 州 に在 り て李頻 に依 り 、頻 の卒後 、往 来す るも 一の遇 せら るる所 無 し。. 奥 胡 処士」 二篇、 たと 考え ら れ る。曹松 には、「 実 陳陶 処士」 のほか にも 「. 杜少 銭注杜詩』唱酬 題詠 、及び仇兆繋 『 る。 このう ち蓑 説 の詩は、銭謙益 『. と 。景は同じきも 語意 は倶 に別 る。. 弔李 翰 弔建 州 李 員 外」、 「 弔 買島 二首」、 「 「 奥 李 頻員 外」 など の異 人詩 や 「. 東 陽詞志』を出典と し て次 のよう 陵集詳註』諸家詠杜 の条 では、 いず れも 『. と言 側o 西山 に入 って以後 は、詩友 と の交 流 によ って心 慰 めら れ る こと は. 古塚」 など の墓地を詠ず る詩 が残 林」 など の弔人詩 、 さら には 「 弔北都」、「. に全 篇 を 引 用 し て い る。. 5} { 1. さ れ て いる 。 彼 に こ の類 の詩 が 多 いこ と も 、 彼 の 不 遇 と 大 き く 関 わ って いる. 騒人久不出 騒人 久 しく出 でず. であ ろう 。. 唐 王朝 が滅亡す る前年、す でに朱全忠 が長安 に入 って いた哀帝 の天祐 三年. 安得国風清 安 んぞ国風 の清 らかな るを得 ん. 擬掘孤墳破 孤墳 の破 れしを掘り て. 江 西省桂林市 ) の人 であ る斐 説 ( 九 〇六)、とも に進士 に及第 した、桂州 ( 経杜甫墳」 が伝え られ て いる。 『 詩 話 総 亀』 と斐 譜 の兄弟 には、それ ぞれ 「. 重教大雅生 重ね て大雅を し て生ぜ しめんと擬. 皇天高莫問 皇天 高くして問う莫く. 前集巻十 三、警句 門中 に、宋 ・藩若沖 『 郡閣雅談』を出典と し て引用 され る 一文 は 以 下 のよ う な も の であ る 。. 0 4.
(8) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). 白 酒恨難平 白 酒 恨 みて平らかなり難 し. 誰 が人 か此 の情を知 らん. 惟快寒江上 悩快 たり寒江 の上 誰人知此情 6 ( 1). 杜甫 の死因 に ついては、鄭 処藷 『 明皇雑録補遺』 に、次 のよう な記述があ る こと が 知 ら れ て いる 。. 杜甫後 漂寓湘樟間、旅於衡 州未陽県、顔為令 長所厭。甫投 詩於宰 、宰遂 致牛 炎白 酒以遺 、甫飲 過多 、 一夕而卒。集中猶有贈嘉未陽詩也。 杜 甫 は 後 に湘 ・運 の間 に 漂 寓 し 、 衡 州 未 陽 県 に 旅 し 、 頗 る 令 長 の厭 う 所. 無計避煙塵 計 の煙塵を避く る無き を. と言 い、ま た 「 旅中作」 の前半 には、. 其如俵与寒. 人 に投じ ては去く こと易しと 言 い. 其 れ俵えと寒 さとを如 せ ん. いかん. 妄動遠地山 妄動 し て遠く山を 拠 つ. 投人言去易. 口を 開 いては貧 は難しと説く. ゆ. 開 口説貧難. と 言 って いる 。 さ ら に、 「旅 次 衡 陽 」 の尾 聯 に は 、. 晩秋 紅燕 の裏. 詩を宰 に投じ、宰 遂 に牛炎 ・白酒を致け て以 て遣 るに、甫 晩秋紅璃裏. 十宿. と為 る。甫. 飲む こと多き に過ぎ、 一夕 にし て卒す。集中 に猶 お爵未陽 に贈 る詩有 るが. 十宿寄 漁船. 切 実 な も の に感 じ ら れ て いた こ と であ ろう 。. とあ るから、杜甫と同じく末 陽を船 で旅 し て いた袋説 にと って、杜甫 の死は. 漁 船 に寄 す. ごとき なり。. 白 酒」 の語 があ ることからす ると 、斐 説は杜甫 の死は白 酒 の過 第六句 に 「 飲 によ るも のと信 じ て いたよう であ る。杜甫 の死因 に ついてはさまざまな議. 砦迫 ・乱. さて 『 礼 部侍郎酵廷珪 下状 元 及第。初 唐才 子伝』巻 十 の蓑 説 の条 には、 「. 九) は、杜甫 が東 陽 に埋葬された ことを詠ず る。ただし、 こ の詩 は貫休 が実. 一三?〕)の 「 読杜工部集二首」へ其の二V( 『 全唐詩』巻八二 禅月集』巻七、『. 次 に晩唐 の詩僧 二人 の詩を見 てお こう。まず 、貫休 ( 八三 ニー 九 一二 〔 九. 年砦迫 乱離、奔走道路。 」( 礼部侍郎蒔廷珪 の下 の状 元及第。初年. 際 に杜甫 の墓を訪 問し て作 ったとは考え られな い。. 論がな され て いるが、本論 では触 れな い。. 離すれば 、道路 に奔走す。)とあり、 『 唐詩紀事』巻 六十 五 の斐 説 の条 では、 間 に 遊 ぶ 。) と 言 って い る よ う に 、 こ の両 詩 は 彼 ら が 科 挙 の受 験 のた め に 郷. 孤舟出濁城 孤舟. 甫也道亦喪 甫 や道. 濁城より出づ. 亦喪われ. 「 遭乱 、故富 不達、多 遊江湖間。 乱 に遭う、故 に富 は達せず 、多 く江湖 の 」( 里と 長安 を往 復 し た時、ま た は科挙 に登第 し た のち に 「 江 湖 の間」 を 「 奔. 彩墓終 不搬. 終 に綴 れず. お. 走」 し て いた時 のも のであ ろう。斐説も補 闘 ・礼部員外郎 の官 に就く前は多. 白 雪更能軽 白雪 更 に能く軽 し. 名斉李白名. 名は斉し李白 の名. 命薄相如命 命は薄し相如 の命. 彩墓. く の辛酸を嘗 め て いた。例え ば 「 旅行聞冠」 の尾聯 には、 自慰為旅客 自 ら葱ず旅客と為り て. 1 」 △丁.
(9) . 正 秋. 藤 後. 城中詩価大. 明君知不知. 荒外. 城中 詩価大 な るに. 明君. 知 るや知 らざ るや. 不知東陽令 知らず東陽の令 荒外 土墳卑. 薄 雨 時無く し て滴 り. 穴 有り て吹く. はかあな. 土墳卑 し. ひく. 何以葬先生 何を 以 てか先生を葬 るを 薄 雨無時滴. 蛮 風有穴吹 蛮 風. 「 彩墓」 は彩筆と 同じ。 ここは、江湾と 五色 の筆 の故事 を踏まえ つつ、杜 白 雪」 は楽 府琴曲 の名 ではあ 甫 の傑 出 した文 才を 言う のであ ろう 。ま た、 「. 政是垂頭腸翼時. 君 に向 って此 の物を求む るを免 れず. 政 に是れ頭を垂れ翼を賜 るる時. と 言う。 こ の二篇 の詩は、斉己が慮山を 離 れ、濁地 へ行 こうと し て荊州 に出. 不免向 君求此物. まさ. 刻 紙歌」 に、 「 腸週」 は、意気温喪し てなすす べがな いさま。 顧況 の 「. 魂 魂往来疲 魂 魂 往 来 し て疲 るな るべし. 唯だ応 に李大白と 唯応 李大白. 腰間 印 は侃 ぶ黄金 の重きを. 秋 日有 酬」 に、 るが、例えば 羅隠 「. 腰間印 侃黄金重 巻裏. 詩 は裁す白 雪 の高きを. 巻裏詩裁白 雪高 と いう 用例 があ るよう に、 これも杜甫 の高潔な詩 篇を指 し て いる。 ”} (. 白蓮 八 六 四ー 九 四三) は、 三篇 の詩 (いず れも 『 長 沙 の人 であ る斉 己 ( 次未 陽 全 唐 詩』巻 八 四 三) で杜 甫 の墓 を 詠 じ て いる。ま ず 、 「 集』巻 六、 『 作」 を見よう o. 八九 一ー 九 四八) に留 め ら れ て余 儀 な く 龍 興 寺 の僧 正 と た時 に、高 従 誠 (. 山 の東林寺 に住 ん で いた こ ろに書かれたも のであ ろう 。しかも この詩 は、斉. 九二 一)以前、彼 が長沙 の岳麓山 にあ る道林寺 や瞳 な った後梁の龍徳元年 (. 衡陽. 己が実際 に杜甫 の墓を見 て詠 じたも のであり、低く土が盛 られた墓 の描 写は. 遮岳復沿湘 岳を遮り復た湘に沿う 衡 陽又東 陽. 北帰を思う に堪えざ る に. 又東 陽. 不堪思北帰. し いが親密 に墓を訪 問し合う ことを言う。. 他 に見 られな い貴重 なも のであ る。尾聯は、杜甫 の死後も 、彼と李白 のたま. 猿沢多 く. 従此入南荒 此れより南荒に入る 旦夕. 師 は調挙 師欲調挙。 」( 「 依韻酬謝尊師見贈 二首」へ其 の ; は、自注 に、 「. 日一 夕多猿沢. 掩留少 雪霜 潅留 し て雪霜少 なし. 奇を捜 ぬ ること久 しく. 重来経漢浦 重ねて来りて漢浦を経. 偏傷杜甫墳 偏に杜甫の墳を傷む. ひと・ ス. 南 国捜奇久 南 国. いたも のであ るが、謝尊 師 の詩は残 らな い。. . せ んと欲す。)と いう よう に、謝 尊師 が科挙 に赴く に際 し て贈 られ た詩 に酬 側帳とし て文章を学 ぶ. 因経杜公墓 因りて杜公 の墓を経 憶恨学文章. 鵬週 斯 に腸 る. 次に 「 弔杜 工部墳」を引 こう 。. 鵬超腸於斯. 2 4.
(10) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). 人見 ること稀 に. 又去き て嵩雲 に入る 青山当 日見. 今 に至 るも 聞 こゆ. 日に当 って見え. 百年工部墳 百年 工部の墳. 又去入嵩雲 旧別 白 酒至今聞 白 酒. 青山. 旧別人稀 見 事漸く聞 こゆ. 後唐荘宗李存 最代梁 、目 開封遷都洛 一九九七)は、 「 新朝」 の句 に ついて、 「 登科記考』巻 二十 五によれば 、後唐 ( 九 二三ー 九 陽。故称新朝。 」 と言う 。 『. 中 国歴代僧詩全集』晋 ・唐 ・五代巻 下 ( 当 代中国出版社 、 沈玉成等 主編 『. 閑処倣明 君. ら連州 への帰途、末陽を 通 った時 の作 であ ろう か。そうだとす れば 、 これが. したと いう 風説が流布 し て いた こと が知られる。 この詩は、あ る いは金 陵か. 経 過し て いる。ま た、第 六句 から 、当時も杜甫 が 「 白 酒」 の過飲 によ って没. 第 四句 は杜甫没後ほぼ百年 が経過 した ことを言う が、実際は 二百年前後が. 経過時 弔君. 経過し て時 に君を 弔う のみ. 惟有為 詩者 惟だ詩を為 る者有 り て. つく. 新朝事 漸聞 新朝 莫将高尚跡 高 尚 の跡を将 て おご. 三 九 二四) のこと であ る。 こ の詩 に見 ニ六)が科挙を 開始 した のは同光 二年 (. 唐末 五代 にお いて杜甫 の墓を詠ず る最後 の詩と いう こと にな る。. 閑処 し て明君 に徽 ること莫かれ. スる杜甫 の墓 は、北方から再び南方 にや って来 た謝尊師が尋ねたも のであ る え が、 五代十国 の時期 にな っても、杜甫 の墓は来 陽 にあ ると信 じられ て いた こ. 「 未 陽杜 工部詞堂」 があ る。 こ の詩 は 『 全唐詩』巻七百七十 五に収 録 され て. ここで付 言し ておく が、本論中 にはあえ て取りあげ なか った詩 に、徐介 の. 杜少陵集詳 註』諸家詠杜 の条 に、 ここ で斐説と蓑譜 の詩と 同じく仇 兆繋 『. は いる が、同 巻 の冒 頭 にあ る窪 江 の小 伝 に、 「 詩 一首。 以 下 世 次 爵 里 倶 無. と を 示 し て いる 。. 『 未陽同志』を出典として引かれる孟賓千 「 未陽杜工部墓」 ( 詩題は孫望輯. 考 。」 ( 詩 一首 。 以 下. 倶 に 考 う る 無 し 。) と 言 う よ う に 、 徐 介. 録 『 全唐 詩 補 逸』巻 一六 によ る)も 見 てお こう。孟賓 千 の伝 は 馬令 『 南唐. の経歴そ の他 に ついては全く手 がかりがな い。 こ の詩 は 『 詩話総亀 』前集巻. 世 次 ・爵 里. 書』巻 二十 三、帰 明 伝 下、 『 唐 才 子 伝』巻 十 な ど に見え る。 これ ら によ れ. 一六、留 題門 に 『 青蹟集』を出典と し て、. 9 ^ 1}. ば 、孟賓 千は運州 ( 九 四四。七月 に開 広東省連県) の人。後晋 の天福九年 (. 衡州末 陽有杜甫洞、過客 題詩多突 。欧 陽文忠 公独称徐介之詩云 、 ・ ::・. 運と改 元) の進 士。 登第 ののち、洛陽を 離れ て郷里 に帰り、楚国 ( 九 二七ー. 九五 一)を 建 て て いた 馬氏 に仕え た。馬 氏 が敗 れ ると 南唐 に仕え 、吉 州 従. よう に、徐介が唐 人 であ ると いう のは疑問 であ る。詩は以下 のと おり。. 中華書局、 一九六四)が宋代の項に収録する 甫巻』上編 唐宋之部第 一冊 (. と いう 一文 の後 に引かれ る。 しかし、華文軒編 『 古 典文学研究資料 桑編. 1 ( 2). 徐 介 の詩 を 称 し て云 う 、 :::。. 衡州末 陽 に杜甫 洞有 り、過客 の詩を題す るも の多 し。欧陽文 忠 公は独り. 更 に甚だ し葉 の綾紛た ろ. 杜. 事 、豊 城県令を 歴任 し、 い った ん隠居 した のち、後主李燈 によ って水部郎 中 0) ( 2. に任じられ て南都金 陵 ( 南京市) に出 たが南唐 の末期 に致仕 し、連州 に帰 っ て北宋 の太平興国年 間 ( 九七六ー 九 八三) の初 め に没 した。. 更甚葉績紛. 一夜 束江の雨. 南遊何感 恩 南遊 し て何をか感 思す る. 一夜来江雨. 3 4.
(11) . 正. 秋 藤 後. 手接渦羅水 天心. 手は接す泊羅 の水 存す る所を知 る. 天心知所存. 伝 は次 のよう に言う 。. 来たり て大夫 の魂 に伴 わしむ. 卒、年 五十九。. 遮 至、渉 旬 不得 食、県令 具舟 迎 之、 乃得 還。令 嘗 錯 牛 炎 白 酒、大 酔 一昔. 大暦中、出樫唐 、 下江陵、訴況 ・湘以登衡山。因客未陽、瀞岳 洞、大水. 来伴大夫魂 流落 し て千古を 同じく し. 故教工部死 故に工部死して 流落同千古 風騒. 嘗. 未 陽県令 の爵某 より牛肉 と白 酒を贈 ら れ、それ の食 べ過ぎ 、飲 み過ぎ がも. 杜甫が未陽 にお いて大水 に会 い、食糧を得 ることが出来ず に いたとき 、. 記』大修館書店、 一九七 五所収 ) の注 は、以 下 のよう に述 べて いる。. こ の 一文 に ついて黒 川洋 一 「 杜甫伝」 ( 唐代 の詩 人ー そ の伝 小 川環樹編 『. て牛炎と白 酒を鏡 るに、大酔 し て 一昔 にし て卒す、年 五十 九。. おく. て食を得ず 、県令 は舟を具え て之を 迎え 、 乃ち 還 ることを得 たり。令. り て東陽 に客たら んと し て、岳 詞 に涛 ぶに、大水 連 か に至り、旬 に渉り. 大 暦中、堰唐 より出 で、江陵 に下り、玩 ・湘を振り以 て衡山 に登 る。因. 風騒共 一源 消凝と し て往事を 傷めば. 一源を共 にす. 消凝傷往事 斜 日隠額 垣 斜 日 額 垣 に隠 る 「 大夫」 は屈原。 「 消凝」 は消魂と 同じ。. 三. 元模の 「 『 唐故 工部員外郎杜君墓 係銘井序」 ( 元氏長慶集』巻 五六)の 「係 」 に は 、. と 思われ る。後 世は未 陽 での死 に疑 問を抱く学者が多 く、杜甫 は末陽 より. 明皇雑録補遺 』 にもとづく と で亡く な ったと いう のは、晩唐 の鄭処謡 の 『 扇舟 下荊 ・楚間、寛以寓卒 、旋蹟岳 陽。享年 五十九 。. 舟を 回らし て、長沙 にもどり、さら に北上し て洞庭 湖 に入り、岳 州 のあた. し ろ前 々年 の冬 、岳州 より 長沙 に赴 くとき の作とす る のがよ い。. の詩を杜甫 の絶筆と見 ようとす るが、 そ の根 拠は薄弱 であり、 こ の詩 はむ. 葬 られた か ら と い って、杜甫 が岳 州 で亡 く な ったと いう こと には な るま 風 の疾き に舟 中 に枕 に伏 し て懐 いを 書 す、 一 ニ十 六韻」 い。ま た後 人 は、 「. 「 杜 君墓係」 に、 「 岳陽 ( 岳 州) に旅覆 す」と あ る こと であ るが、岳 州 に. と 思わ れ る。未 陽 死亡 説を 否定 す る後 人 の 一つの根 拠 は 元穫 の手 にな る. れ て いることから考え れば 、やはり杜甫 は東 陽 で亡くな った のではな いか. の戎豆 の 「 未陽繁夜行」 詩 に、杜甫 が東 陽 で亡くな ったと いう こと が歌わ. り で病を得 て亡くな ったとす る。 しかしながら、杜甫 の死後まも な いこ ろ. 扇 舟も て荊 ・楚 の間 に下り、寛 に寓す るを以 て卒 し、旋 り て岳 陽 に覆 す。享年 五十九。 と 言 い、 「銘 」 に は 、. 維 元和之葵 巳、専 某月某 日之佳辰、合憲 我杜子美於首 陽之前山。 維 れ元和 の葵巳、尊 に某 月某 日 の佳辰、合し て我が杜 子美を首陽 の前山 ほうむ. にま る 。. と 言 って、杜甫 の没 した 地を 明記 しな い。ま た、 『 新 唐 書』巻 二百 一、杜甫.
(12) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). 末陽繁夜行」 に ついて、作者 が戎豊 前稿 で述 べたよう に、 いわ ゆる戎豆 「 末 陽繁夜行」を 杜甫 の死を傷 んだ 詩 であ るとす ること であ る こと、ま た、 「. 子美曾吟処 子美. 曾 て吟 ぜし処. 陽 で没 したと認識 し ており、か つそ の末陽 にあ った墓を詠 じ て いて、例外は. いる ことは確 か であ る。以後も 杜甫 の墓を詠 じた晩唐 の諸詩人 が、杜甫 は未. 経未陽杜 工部墓」 が未 陽 の杜甫 の墓を詠 じ て 詩 が杜甫 の死を詠 じ、羅隠 の 「. 陶処士が いた。杜甫 の死 への強 い関心 は彼ら の交流 の中 で芽 生え 、そ の共 通. る 。 ま た 、 彼 ら の交 流 の 一つの場 と し て洪 州 の 西 山 が あ り 、 そ の中 心 に は 陳. 、「 『 『 全唐詩』巻八四四)が残 ってい 松先輩」 ( 全唐詩』巻八三九) 寄曹松」 (. 契 陳陶 処 士」を作 った曹 松とも交 流 があ り、 「 と言 って いる。斉 己 は 「 贈曹. 吾師復去吟 吾が師も復た去き て吟 ず. 見られな い。極端 な政情 不安 の中を生き た晩唐 の詩 人たち が、特 にそ の科挙. の関心と情報 の共有 が杜甫 の墓を詠ず る晩唐 の詩を 生んだ のではな いだ ろう. に つ い て は 大 い に 疑 問 が 残 る 。 し か し な が ら 、 少 な く と も 窪 珪 の 「道 林 寺 」. 登第以前 にお いて、自己 の苦渋 の体験を杜甫 のそれと重ね 、晩年 の杜甫 の漂. か。. . 、落款為 「 部杜公之墓」 景定奏亥 ( 宋理宗景定四年 ・公元 一二六二年)県. 約有両米的墓堆居其中。墓堆南面的護塔上鍵有 一決小石碑、上刻 「 有唐工. 蕩然無存。此墓占地約半畝、呈 正方形、 四周 囲有近 一米高 的石欄 秤 、直径. 末陽杜墓在来陽城北県 一中校園内。這裡曾是杜公詞和杜陵書院的遣赴、 前些年還有杜甫堂 ・杜甫像 ・ 「 杜陵書院」石碑等、今僅存孤墳 一座、余皆. のよ う に 述 べ て いる 。. ・葦県 ( 葦義市 ) ・優師 の杜甫墓を紹介 し、束陽 の杜甫墓 の情況 に ついて次. 「 さ て、懸建 国 「 杜甫 四墓考」 ( 草堂」 一九 八七年第 一期) は、束 陽 ・平江. 泊生活 に強 い共感を寄せたこと が、杜甫 の死と墓を詠 じ させた背 景 にあ った と考え られ る。 ま た、杜甫 の墓を詠 じた晩唐 の詩人たち の間 に、それぞれ交 流があ った こ とも無 視 でき な い。詳細 は省く が、 そ の 一方 の中心 には鄭 谷と 羅隠 が位置し 『 献銭 銭塘別羅隠」 ( 全唐詩』巻 六九 一)と 「 て いた。例え ば、杜荷鶴 には 「. 『 『 全唐詩』巻六九二)があるし、斐説には 「 全 塘県羅著作判官」 ( 寄貫休」 ( 唐詩』巻七 二○)があ って、. 山中 に て精しく論ぜ し時を. くわ. 億昔与吾師 憶う昔 吾師と 山中精論時. 令 王爾立」。 :::墓 的東 面 不遠 処就是未河、現 傍能 通 航、北 可 下衡 陽 ・洞 庭、南 可達糊州。. 杜甫 の真 の墓は偶師 のそれ であ るとす る説が有力 のよう であ る。 し かし、. . 「 『 全唐 詩』巻 八三八)が残 され て いる。斉 己 は鄭谷とも親 寄銭塘羅給事」 (. 晩唐 五代 の詩人たち は、杜甫 は末陽 で没 し、墓も東陽 にあ ると認識 し て いた. 『 全 唐 詩』巻 六 五七)があ っ と言う 。 さ ら に、羅隠 に 「 和 禅 月大 師見 贈」 ( 『 全唐詩』巻 八三0) があり、斉己 にも て、貫休 には 「 懐銭塘羅隠章魯封」 ( 『 次韻 全唐詩』巻 八 三九、同巻 八 四 0)、 「 密な交 流 があ り、 「 寄鄭 谷郎 中」 (. の であ る 。. ( 続完). 、「 、「 『 全唐詩』巻八三九) 『 全唐詩』巻八三九) 鄭谷郎中」 ( 傷鄭谷郎中」 ( 実 『 全唐 詩』巻 八四三)などと い った詩があ る。 これ に加え て斉己 鄭谷郎 中」 (. は濁地の貫体に寄せた 「 『 全唐詩』巻八四 一) で、杜甫 を話題 に上 寄貫休L ( せ、. 5 4.
(13) . . 正 秋 後 藤. 八 一0) の進 士 であ る唐扶 ( 1)元和五年 ( ?ー 八三九)が開成 の初年 に ( 福州刺史 ・御史 中丞 ・福建 団練観察使 に赴任す る途次 の作と考え られる. 壁間杜甫真少 恩. 両嗣物色採 拾尽. 晩来 正 に健な ること呑 む べき が如 し. 光彩. 壁間 の杜甫. 両嗣 の物色 真 に恩少な し. 採拾 し尽くす. 『 全唐詩』巻四八八)に、 「 使南海道長沙題道林岳麓寺」詩 (. 晩来光彩更勝射 筆鋒. 更 に騰射す れば. 筆鋒 正健如 可呑. 『 全唐詩』 遊道林寺 四絶亭観宋杜詩版」 ( の句があ る。ま た、斉己 には 「 巻 八 四 0) が あ り 、 起 聯 に は 、. 宋杜詩 題在 風騒 此 に到 って真なり. 宋杜. 詩題在り. 風騒到此真. と 言 って いる こと か ら、晩 唐 に至 って道 林寺 には宋之 間と杜 甫 の詩 が 「 詩 版 」 と な って いた こ と が わ か る 。. ( 2)松岡論文 は、窪 珪 に ついて論じた唯 一の論文 であ ろう。 同論文は窪 珪 の事 跡を 詳細 に考 証 ・復 元 した上 で、 「 果李 商隠」詩 に ついて考 察す る 道 林 寺 」 詩 にも 触 れ 、 次 のよ う に述 べ て いる 。 も の であ る が 、 彼 の 「 よ り 重 要 な こ と は 、 杜 甫 と の関 わ り が 、 こ の詩 に 語 ら れ て いる こと. 意す べき は、窪 珪 の詩と杜甫 のこ の詩 は、杜詩 が 三十 二句 と、句 数 こ. そ 違 え 、 古 詩 の 「通 押 」 の範 囲 が 、 全 く 一致 し て いる こ と であ る。 :・. ・ :時 間 を 越 え た 「 和 詩 」 と も 考 え ら れ る。. 漸江古籍出版社、 一九九 五)に拠 っ ( 羅隠集校注』( 3)引用は播慧恵 『 た。. 全唐 詩』巻 六六 二は、「 ( 4) こ の句 、 『 屈 原宋 玉郷 君 処」 ( 屈 原と 宋 玉と 君 に郷 し て態 る) に作 るo. 漢 語 大 詞典』は、「 碑 碍 上 的蛸頭 装 飾。倍指 碑 ( 5)「 青嬢」に つ いて 『. 褐 。」 と 言 い、 こ の句 を 典 拠 と し て引 い て いる が 、 そ れ で は 意 味 が 通 り ・ に く い。. 羅隠 集 校注 』 に拠 っ 末 陽」 に作 る。 こ こは 『 ( 羅 昭諌集』 は詩 題を 「 6) 『 た。. ・. 尚」 に作 る。 『 向」を 「 甲乙集 』巻 三 に従 っ 全唐詩』は、 こ の句 の 「 7) 『 ( た 。. 集作 田」と 言う 。 こ の点 送沈光」 に作り、 「 ( 8) 『 文苑英華』 は、詩 題を 「. に ついて、厳寿激 ・黄 明 ・越 昌 平 『 上 海 古 籍 出版 社 、 鄭 谷詩 集 箸注 』 ( 校」 は、 一九九 一) の 「. 沈光」、疑 非 是。唐 才 子 伝 題、 「田」 下原校 「一作 沈」、英華 即作 「. 鄭 谷詩集編 未詳」とす る。 一方 で、偉義 『 と指 摘し、 田光 に ついては 「. 沈光 、呉興人、成 通七年礼部侍 郎越鴨 下進 土。 」 其時 谷年方十 巻 八、 「 六、尚 未 至長安 、 又詩 中以 杜 甫 作比 、而 沈為 呉 興 人 帰 途 無 因 至 江 湘. 白 日 照 ら さ ず 」 に は 、 こ の経 緯 が 含 ま れ て いる か も し れ な い。 る。 「. 校 記」 は、 「田光、英華 年校注』 ( 華東 師範大 学出版社、 一九九 三) の 「. であ る。 ・ ::・ 詩中 の 「 未 陽 県 」 は 、 杜 甫 が 運 州 よ り 乱 を 避 け て、 湘 水. 厄死 飢寒 の躯」 は、杜甫 の放浪とそ の死を物語 って い. 也。. ‐ ::・「 黄天. 編年」 の項 では、 ・戊簸作沈光。沈之遭際頗与詩合 、疑是。 」と 言 い、「. を 南 下し、彬 州 に行 こう と し て、大 水 に て引 き 返 し てき た 地点 であ. る。唐代 にお いて、杜甫 と そ の詩 に、詩 中 で言 及す る数 少 いも のと. 八七三) の作と推定 し て いる。 次 のよう に成 通 一四年 ( の宋 以 後 の こ と であ る 。 :::ま た 、 彼 が 吟 じ た 「杜 詩 」 と し て、 推 測. 『 此賦 乃 一片宮商 也。』後 群為 間従事 。 」蛸目測州刺史為福建 観察 使在. 孫 光憲 北夢 頚 言 七、前 進 士 沈光 有 洞 庭 楽 賦、章 八座 螺 謂 朝 賢 日、. ママ. 言 ってよ いであ ろう。杜甫 の神聖化と杜甫 への山 のよう な言及は、次 される のは杜甫自身 の 「 獄麓山道林 二寺行」 が考え られ る。 そし て注. 6 4.
(14) . 唐詩に詠じられた杜甫の墓 (下). 乾 符 三年 至 五年 、 「 謂朝賢」 必 是刺 潤前在朝作官 之 時 、約為成 通 末。 光作洞庭楽賦当亦在 此時。詩言東 陽応尋杜甫墳 、必是送光赴湖南。因 繋 成 通 十 四年 春 。. 八 五 一)と し、 『 鄭 谷詩 鄭 谷詩集 嚢注』 は大 中 五年 ( 鄭谷 の生年を 『 集編年 校注』 は大中 二年とす ると ころから見解 の相違 が生じたも のであ. 巴街書社、 一九八七 『 続編) 』 鄭谷行年考」 ( 唐詩人行年考 ( る。護優学 「 八 唐詩大系』が生年を会昌 二年 ( 所収) が、疑 いを残 し つつ、聞 一多 『 鄭谷詩集 箸 注』 の指 摘 は 四 二)とす る のに従 って いる のを 認めれば 、 『 成 立 し な い。. 創 元社、 一 禅 月大 師 の生涯 と 芸 術』 ( ( 9)陳 陶 に ついては、小林大市 郎 『 陳陶 の 陳 陶と の交 遊」、 二 「 洪 州 遊 学」 のう ち、 一 「 九 四七)第 三章 「 没年 に就 いて、及び 他 の二三 の詩 友 に就 いて」 のそ れ ぞ れ の項 に詳 し 小 詩 国」 が 西 山 い。 こ のう ち 「陳 陶 と の交 遊 」 は 、 陳 陶 を 中 心 と し た 「 に 形 成 さ れ た こと に 関 し て、 次 のよ う に 述 べ て いる 。 陳 陶 の み が 西 山 の主 と し て、 恐 ら く 昭 宗 の初 年 ま でも 生 存 し 、 ::・ ・ 長 く 遠 近 の景 仰 を あ つめ る よ う に な った 。 彼 を 欽 慕 し て相 つ い で其 処. 、 0 全唐 絶句 選釈』 ( 北京 出版 社 、 一九 八七) ( 1) こ の句 に ついて 李 長路 『 『 十. む. 、陳 、以 、李 陳陶 陶的 的更 更不 的墳 尚且 荒蕪 不必 論了 了、 李 ・ ・杜 杜名 家的 且荒 蕪、 末後 後二 二句 結言 、 ・ 必論 名家 墳尚 詩末 詩 句結. 故実陳陶特別悲痛。. と述 べ、葉森梶 『 杜荷鶴詩 選』 ( 黄 山書社 、 一九 八八)は、. 這句意為 、由於李 ・杜 的遭遇給了我啓発、使我明白 了許多道 理、従. 陳陶 )的遭遇更加感到悲 憤。 而対価 ( と 言 って い る 。. 陳陶考」と「 『 全唐詩』作者小伝正補」 に拠る。 ( 口)注 ( 9)に挙げた 「. 2 大連出版社、 一九九七)は、「 ( 詳注全唐詩』 ( 稽古 1)林徳保 ・李俊主編 『. 因博 通経書而仕途得意 。 」 と言う。 力」 に ついて、 「. 3) 『 ( 唐才 子伝校嚢 』第 四冊は、曹松 が李頻 のも と に いた時期 に ついて、 1. 八七 五ー 八七 六)、卒 於 三年 十 一月 李 頻刺建 州在 乾 符 二 ・三年 間 (. 或梢前。松依 李頻、亦在 此 二年 間。 と 言う 。. 4 同在湘 江」 に作 る。 ( 唐詩紀事』巻 六 五は、 「 1) 『 5) この句 に関し て、宋 ・陶岳 『五代史補』巻 四 に引 かれ る 『 厨 氏世胃』 ( 1 は、次 のよう な逸話を伝え る。. に 来 遊 し 、 或 は 終 に そ こ に住 め る 者 に 、 朱 慶 余 、 貫 休 、 方 千 、 曹 松 、. 胡粉、斉己、尚顔 及び李成 用等 があり、要す るに大中威通以後 、 こ の. 凝為 人不撰、好 該譜。嘗覧斐 説経杜工部墓詩 日、擬璽 孤墳破 、重教. 為 人は不霧 にして、該譜を好 む。嘗 て斐説 の杜 工部 の墓. 大雅生。因 日、如此、斐 説 乃劫墳賊耳。聞者大笑。. 隠士 の君臨せ る 一種 の小詩 国が西山 に 一時栄え る に至 った のであ る。 全唐 詩』巻 七 四五 に付 された小伝 が、唐 の詩 人 であ る陳 陶 と ま た、 『. ( 厨)凝. を経 る詩 に、孤墳 の破 れしを掘り て、重ね て大雅を し て生 ぜしめんと. 南 唐 の隠士 であ る同姓 同名 の陳 陶を 混 同 したも のであ る こと に ついて 全唐詩』作者 小伝正補」 (いず 陳陶考」、 及び郁賢賠 ・陶敏 「『 は、陶敏 「. 擬と 日うを覧 る。因り て日く、此 の如くなれば、斐 説は 乃ち劫墳 の賊. す. れも 、郁賢賠 ・陶敏 『 唐代文史考論』洪葉文化事 業有 限公司、 一九九九. な る のみと 。 聞 く 者. 6 開元天宝遺事十種』 ( 上海古籍出版社、 一九八五)所収 ( 1)丁如明輯校 『. 大 いに笑 う 。. 所 収 ) に指 摘 が あ り 、 彼 の生 涯 を 以 下 の よ う にま と め て いる 。. 陳陶 ( 約 八 ○ 八 〜約 八 七 九)、字 嵩 伯、長 江 以 北 人、具 体 籍 貫 不. ”)斉 己 の生卒年 に ついては様 々な説があ るが、 ここは後晋 の天福 八年 に (. 明皇雑録補遺』 に拠 る。 の 『. 、 、 、 。 、詳 応進士拳 不第 大和中南遊闘 ・断 復漫遊蘇 ・敵 ・桂 ・尊 干謁 地方官吏。大 中 三年隠居南昌西山。. 卿.
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部を観察したところ,3.5〜13.4% に咽頭癌を指摘 し得たという報告もある 5‒7)
それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒
それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒
それは︑メソポタミアの大河流域への進出のころでもあった︒ 最初の転換期であった︒
の繰返しになるのでここでは省略する︒ 列記されている
彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に
一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと
夫婦間のこれらの関係の破綻状態とに比例したかたちで分担額