• 検索結果がありません。

ハイチ革命研究序説(II) : プランテーションと奴隷

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "ハイチ革命研究序説(II) : プランテーションと奴隷"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)Title. ハイチ革命研究序説(II) : プランテーションと奴隷. Author(s). 浜, 忠雄. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 36(1): 33-47. Issue Date. 1985-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4472. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 1) ハイチ革命研究序説 (1 -- プランテー ショ ンと奴隷 --. 浜. 忠. 雄. は じめ に. 前稿「ハイ チ革命研究序説(1)--黒人奴隷制, 法と現実--」(本誌第35巻第1号)において, 筆者 は, ハイチ革命に結実する黒人奴隷の解放主体形成にかかわる第1の前提条件としての黒人奴 隷制 について, 主としてこれを法制度的側面 から考察した. ついで本稿では, プランテーショ ン経 営とその下での奴隷の在り方について検討を加 えることにする, と はいえ, この場合 にもまた資料. 上の制約が大きく, 利用できる研究文献が少ないため, 本格的◎全面的な検討 は困難である, さし あたりは, 入手 しうる断片的知見を可能な限り集めることによって, おおま かな鳥鰍図を得ること で満足 しなけれ ばならない.. 1. 概. 観. ハ イ チ 島(ま た はエ ス パ ニ ョ ー ラ 島) はカ リ ブ 海 の ほ ぼ 中央 に位 置 し, キ ュ ー バ につ ぐ大 き さ(お およ そ 北 海 道 の面 積 に等 しい) を も つ 島 で あ る, 1697 年 のラ イ ス ワ イ ク 条 約 によ っ て フラ ンス 領 と. な っ た サ ン;ドマ ン グ は, こ の ハ イ チ 島 の西 側 3 分 の 1 で, トル チ ュ, ゴ ナー ブ,ノミッ シ ュ およ び ケー. ュミ ッ トの付属小島を含めた総面積 は約2万8千平方キロメートルである,. i l l l ア ン シ ャ ン・レ ジ ー ム に お い て, サ ンニドマ ン グ は 「ア ン チィ ュ の真 珠」 (Per e des Ant es )と. も 「カ リ ブ の女王」(Reine de Caralbes) と も 呼 ば れ た, そ れ は, 単 に, こ の 島 の景 観 - - 海 と空. の青 さ, 白 い浜 辺, 榔 子 の緑 - - を謂 っ たも の な の で はなく, な に よ り も, サ ソードマ ソ グ に お ける. 砂糖, コーヒー, インディ ゴ, コトソなどの生産が 「植民地開発史上もっ とも瞳目にあたいする」 ( 1 )発展を遂げ かくしてフランス に巨大な富をもたらしたことを端的に表現した (Eoウィ リアムズ) , ものにほかならない.1 8世紀フランスの対外貿易と経済発展にとって,仏領植民地なかんずくサンニ ドマングを中心とする西イン ド植民地 が果たした役割 が決定的 に重要であっ たことは, 例 えば,「フ 2 ( 〉 「西イン ド諸島がなかっ たなら ランスの対外貿易 は完全 に植民地 に依存していた」(Aoジロー) , 3 ( ) 「革 命 前 夜 フラ ンス の海 上 貿 易 は フラ ン ス の 貿 易 収 支 は赤 字 に な っ て い た ろ う」 (Goマ ルタ ン) ,. 輝かしい外観を呈している. ……一連の戦争で蒙 っ た損失にもかかわらず, 通商活動 は拡大するの をやめなかっ た. 海上貿易の規則的拡大は, ルイ16世の時代の経済的諸困難をおおいかくすほどの 4 ( )な どを はじ め と して つ と に指 摘 さ れ て き た と こ ろ で あ る が 最 も の で あ っ た」 (Joメ イ ェ ー ル) , ,. 近の内外の諸研究も, 旧来の研究の資料的不備を補いつつ, 改めてこの周知の事実に実証的裏付 け 33.

(3) . 浜. 忠 雄. 5 ) を 与 えて い る の で あ る( .. しかしながら, そのような研究の深化 にもかかわらず, 植民地の内部構造に関しては, ほとんど 照明 が与 えられていないというのが実際である. それは, 研究視角の不在 ということもさることな がら, 信頼 に値する資料 が決定的 に不足 しているという事情にも由来している. 例えば, フランス とサソニドマソグとの間の貿易について はややたち入っ た検討を可能 にする統計資料を有 している が, そもそも植民地 において砂糖やコーヒー がどの程度生産されたか, あるいはその動態や, プラ. ンテーショ ンの構造, 土地所有の規模と分布, 黒人奴隷の労働力構成等について知るのに不可欠な 初歩的資料すら得られていないのである. 表1にまとめた数値 は, ながく植民地行政官を務めたことがあり, 革命期 にはいわゆる「マシャ ツ l iac ク o ク ラ ブ」 ( e C1ub Mass. i 「フ ラ ン ス 植 民 者 連 絡 協 会」 Soc et6 Correspondante des. Col i ons Franca s の 別 称) の 理 論 的 領袖 と な っ たモ ロoドゥ・サ ンニメ リ が, そ の著 書 (Moreau de Saint-Mery D i Z 云々”8 の 廟財oγ電 解 露 ね P〃”〃 scγめ力o 7 opogmp廟q“e 2Z q“e , P毎s , “諺彰 POZ , e lade lphi ルαれFα肉e de /為Z e e dβ 鉱 物Z-Domば れg“8 s , 2 vol , Phi ,1797-1798)で 挙 げ た も の だ が, こ. れらは, 革命前夜サンニドマングの「現勢」 を示すほとんど唯一の資料であっ て, 今日に至るまで多 く の研 究 書 が, サ ンニドマ ソ グ の 人 口 や プ ラ ン テ ー シ ョ ン につ い て 言 及 す る 際 に利 用 し て き たの も こ. の数値なのである. しかし, これらの数値だ けでは, 細かな分析 はまっ たく不可能であり, たかだか以下の諸点を読. み と り, 指 摘 し う る に と どま る で あ ろ う. 第 1 . サ ンニドマ ン グ の 総 人 口 は約 52 万 人 だ が(ち な み に,. 現在のハイチ共和国 はその10倍の51 0万人である) , 州単位でみると, 北部 と西部がほぼ等 しく, 南部 は両州 に比べてやや少 ない, ただし, 州毎の面積 は, おおよそ, 北部 が6,70 0平方キロメート ル, 西 部 11,500 平 方 キロメ ー ト ル, 南 部 9,800平 方 キ ロメ ー ト ル で あ る か ら, 北 部 州 の人 口 密 度 は. 最も高く,他の2州の2倍前後となる.白人,有色自由人,黒人奴隷の層別人口構成 はそれぞれ8パー セ ン ト弱, 5 パ ー セ ン ト強, 87 パ ー セ ン トと なる が, こ の 構 成 比 に お い て は, 州 毎 にみ て も 極 立 っ. i i ere た差 を 発 見 し え な い. 第 2 e) ), イ . 農 園 を作 付 品 目 別 に, 砂 糖 園 (sucrer , コ ー ヒ ー 園 (cafe indi i i i t t t き と ) コ ト カ カ ) 毎 コ ー ヒー ン ディ ゴ園( ン ( ) オ 園 ( にみ る r 園 n n r r o e e c o o e e c a c a o e g , , ,. とインディ ゴが最も多く, いずれも3,100をこえ, 砂糖とコトンがほぼ同数の800弱となり, カカ オはわずか50 に と どま る. た だ し, と く にイ ン ディ ゴ と コ トン は同 じ農 園 で 栽 培 す る場合が頻 々 発. 見さ れ, 《indigoterie-cotonnerie》 と表 記 さ れ る が, こ う し た ケ ー ス を サ ンニメ リ が どの よ う に扱 っ. たかは定かではない. しかし, ここで問題 なのは, 上記のような数値で示された農園を, 通常 「大土地所有制と不自由 6 ( }と規定 労働力の結合のう えに立っ た植民地収奪のための前近代的 な生産組織=商業的大農企業」 さ れ る プ ラ ン テ ー シ ョ ン と 同 一 視 して よ い か と い う 点 で あ る. プ ラ ン テ ー シ ョ ン- - ア ン シ ャ ン o ion)の用 語 が一 般 的 に用 い られ る が tat レ ジ ー ム 期 の仏 領 植 民 地 で は, む しろ「居 住 地」 (habi. の. 数を表わそうとするとき,研究書 によって違いがあり,先 に示 した農園数をそのまま プランテーショ ) 農園の所有者数をも ってプランテーショ ン数 とする場合とに分かれるのであ 7 ン数とする場合と( ,. る. 後 者 を 代 表 す る の は Toooオ ッ ト で あ っ て, 彼 は 「ノ・イ チ 革 命 前 夜」 の プ ラ ンテ ー シ ョ ン数 を, 8 ( ) 砂 糖 655 , コ ー ヒ ー1,962 , コ トンニイ ン デ ィ ゴ を 398 と 計 算 して い る の で あ る . プ ラ ンテ ー シ ョ ン. を 「生産組織=商業的大農企業」 とするなら, オッ トの分類の方が適当のように思われるが, その 場合でも, プランテーショ ン経営の在り方に関する個別・具体的な研究によって裏付 けられなくて. は な ら な い で あ ろ う. ま た, サ ソーメ リ は, 農 園 数 を 挙 げる の み で, 作 付 面 積 を 記 して く れ て い な い.. 披見の限りで, 品目別作付面積を試算しているのは, 唯一, EoC・ミ シエ ルの研究だ けである, し 34.

(4) . 工) ハイチ革命研究序説 (1 図1 18世紀末の仏領サン;ドマソグ. a M l e s i l t s c o a .N. A C A R A N C 1 s PF 北. 部. 州. O a i b L 圏. . ・ , , 喝 、 G i on v a e、 01 02 0 . \ (スペイン領サント・ドミンゴ) . k oo 1 鴎 . 0 5 . 西 G o n a v e島. 、ー. も陶 、 ○ 1 M i b l i s r e a a ー ’A h L r c a a e y 》 部. 州. 亀 ◎ も、 , rA UP R t N C E P I ュ R. 、 0 e g an .,,,,,,,,,, .・・ , 、 , ,, , ,▼ ′ 山, , , , ,, , , ,ー ,. ,‐ -.・ ‐・・ ‐ー ー ー ▼ 十 十 ▼ ー ・ . . . ・ ’ . ・ . ・ . . ”・ ””. ・ ・ ‘ ・ “ ・ ・ . ‐ ‐. i OT b . \ u r o n . ・.・・・・,.・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ , \ os t s 。i 一. 南 .L OJ , 部 州 a c 風 e 、. (注) ◎ は州都, 州境界線は, 1776年12月20日の王令による,. 衷 1 革命前夜サン‐ドマ ソグの現勢 (その1) 北 部 州 人 口. 人. 白. 有 色 自 由 人 黒 人 奴 隷. 農 園 数 他 の 産 業 家 畜. 合. 計. 砂 イ ン プ ィ ト コ コ ー ヒ カ カ. 糖 ゴ ソ ー オ. 16,000 (8,2) 9,000 (4.6) 170,000 (87,2). 195,000 (100). 288 (36,3) 443 (14,1) 66 (8.4) 2,009 (64,5) 7 (14.0). 西 部 州 14,000 (7.2) 12,500 (6.4) 168,000 (86,4). 194,500 (100). 314 (39,6) 1,804 (57.3) 541 (68,6) 811 (26,0) 7 (14,0). 10,000 (7.7) 6,500 (5,0) 114,000 (87.3). ) 130,500 (100. 191 (24,1) 903 (28.7) 182 (23,1) 297 (9,5) 36 (72.0). 計. 合. ) 40,000 (7,7 28,000 (5.4) 452,000 (86.9) 520,000 (100). ) 793 (100 3,150 (100) ) 789 (100 ) 3,117 (100 50 (100). レ ン ガ 工 場. 46 125 19 11 6. 80 155 10 8 O. 56 90 O 10 O. 182 370 29 29 6. ば ど. 15,000 24,000 88,000. 18, 000 17,000 99,000. 7,000 9,000 63,000. 40,000 50,000 250,000. タフィ ア精留所 石 灰 焼 か ま か わ ら工 場 皮 なめ し工 場 馬 ら 馬. な. 4 より作成 3 06 .2 (出典) Saint-Mery,op .13 .1 .1 ,5 ,c効,t ,pp ,p (注). 南 部 州. カッコ内, 人口は州ごとの層別構成比, 農園数 は作付品目 ごとの州別構成比, 35.

(5) . . 浜. 忠 雄. か し, そ れも, コ ー ヒ ー の面 積 を欠 落 さ せ てし・る の だ が, 参考 ま で に示 せ ば, 砂 糖 が 74,323 ヘ ク タ ー 9 ) ル, イ ン デ ィ ゴ 82,174 ヘク タ ー ル, コ トソ 20,321 ヘ ク タ ー ル, カ カ オ 2,803 ヘク タ ー ル で あ る( .. ともあれ, こうした資料上の制約の下では, プランテーショ ンを基軸とする生産構造の在り方を, サンニドマソグの全体 について検討するのは断念せざるをえない, ここでは, 先 に引いたいくつかの. 数値のほかに, 1788年のフランス向 け輸出 (量と額) の品目別構成を示す数値を一覧化した表2を 作 成 して おく に と どめ た い.. 表 2 革命前夜 サソードマ ソグの現勢 (その2). 砂 コ イ. 農 園 数. 目. 品. ヒ. ー ン. デ. ィ. 糖. 793. ー. 3,117 3,150. ゴ. コ. ト. ソ. 力. 力. オ. 作 付 面 積. シ ョ ン 数. (ヘク タ ー ル). 量(千カソタル). 額(千リーブル). 74,323 . り. 2,065 788. 80,074. 82,174 20,321. 9. ,麗. } 〆. 789 50. 1 7 88年のフランス向け輸出. プラ ンテ ー. 2,803. 82 12. 71,672 9,373 21,368. 905. 3 34 06 i -Ma 農園数:Sa nt ry . .2 .1 .1 .1 ,5 . 凋ん t ,t ,pp ,p , OP iv Zのめ〃 s ee Pr 1 旋 風鯛””” RBひo t プラ ン テーション 数:T.○.ot , .of Tennes .(Un , ,ヱ 89‐ヱ804 ,7 1 97 3) 6 p . . , 968) ′ o Domi ngo l ≠おれ 品α訪ね物 y sα加Z O DO粥勿go ③ 作付面積:E.C che “ , ,Pp ,1 , (Sant . Mi ,LQ R勿o 1 8 7-1 . i e“ 24 8 Zり“c rade o創欄牝gcα鰯Zメ メe 卿 Fmmβ α 超 万7 ④ 1 788年 のフラ ンス向 け輸 出:j .Tar ,Lec 4 9 7‐7 i 972 ″夢朔e ) s , .74 ,2 ,t ,pp ,(Par ,1. (出典) ① ②. 註 i l l 44 { 1 ) E. Wi ams 7 ⑦” 2d s彰健か ) 96 8年) , C物 物産s“ ,(London ,19 . 中山毅訳『資本主義と奴隷制』(理論社, 1 , 141 頁. l t ( 2 ) A. Gi rau s dg c Pβ oあれZ賜物〃 β『 dB /宅あわZわれ のお“”ね (Paris .1 .187 , , P“mZ ,1895) ,p ,t i i t 3 ( ) G. Mar n sわかe αβ 花s c超りαga d鯛s Z e s のめ幼B S おα 7 2仰ぎ s gs (Par s .139 . , 冴Z ,1948) ,p ’ ( 4 )J s B解諺粥e 例〆瓦ぎ 〆“ XV2ZZes館じれ (Pari , Meyer ,249 , , 乙 研削e粥e煽 れα郷のs dα那 加 d ,p ,1969) T d L Z 幼 Z α 超 〆 F d ( 5 ) 代 表 的 に は, J 超 / セ 定 霧 a r r a e e の“ 2 “ 2 8 た β の o β α 万 8 郡創 7 2 鑑 “ 8 如粥e , , .L物〆閉めれ メ i z ‘ 活ぎみ〃〃 〆〃 《ZE尤〆閑グ》 〆β ヱ 63 ヱZ89 s , (Par ,1972)の ほか, 服部 春 彦氏 によ る一 連 の研究, 「18世 紀. 後半におけるフランスの植民地貿易」( 『西洋史学』 18世紀におけるフランス対外貿易の展 , 第97号,1975年) ,「 『京都大学文学部研究紀要』 開過程」( 第1 9号 1 9 ) など 7 9年 . , , ) 『経済学辞典』(大月書店, 19 ( 6 7 9年) 8頁, , 81 ( 7 ) こ う した例 は多 い が, 代表 的 に は, T. G. Steward, 77 2 8 鼠の“”“ 尺eりo/彰われ , ヱ79ヱ わ ヱ804 , (New York, 1914 T L S 尺 〆のわ 物 S D 初 W 7 d d d 7 1 9 1 4 t t t 1 疑 お 虎 ) r ( ) り れ o粥 o r o a e α 7 2 e s o だ粥 g, p , . .; . . .15 な ど. ,p , ,p 7 i 4 U f T P t 1 物 品 の ” 尺 8 9 8 0 1 9 7 3 6 ( 8 ) T. ○. ot 粥郷 ヱ ( ) オ n o e n n e s s e e r 7 2 o v ” 勿 ” p . . , , , , , . . ットが依拠 し i E i Z ere de Fi 云 L 幼の C Z あ t の D 庇 函 た 資 料 は, Min ぎ 加須 β s nance ” o “ s D 粥m s s れ c加増彰 d γ s 卿 B〆ゆα中γ q , Z7 Z 7 2〆 O g創霧毎 の云“彰” α解 の2α鋤s CO ’ 2 s de S幼” Do粥物g”〃 o 7 2α β 超 /〆 メ z ‘ 30 御“ ヱ826 , 勿 釧愛媛Z , ’07do i Z 鑑 のれあ“”彦“ i Zわれs d8 Z ⑦ 〃れZ QZα d s po s 7 2“のぼg メメ 粥の s“れα鰯, (Par s .511-517 で あ る ,1831) pp. が, 筆者は入手しえていない.. l 彰7物 y sα”お Do“““go ( 9 ) E, C, Mi che 7 ngo 2 息の≠ ,17一18 , ミ シェ , LQ Reの 粥瓦6 , (Santo Domi ,1968) , pp ル も 農 園数 を そ のま ま プラ ンテー シ ョ ン数 と して いる. ただ, イ ン ディ ゴ, コ トン, コ ー ヒー につ いて はサ ン=〆. リのと同じ数値をあげているが, 砂糖は7 9 3 , カカオは69としている. また彼は, 他の作物の作付面積もあげて いる. とうも ろ こ し16,482 . , マ ニ オク 23,787 , 粟 15,306 , き ぴ9,120 (いず れも ヘクタ ー ル). 36.

(6) . . 1) ハイチ革命研究序説 (工. 2。 プ ラ ンテ ー シ ョ ンの 構 造 サ ソニドマ ソ グ の プ ラ ン テー シ ョ ン に 関 す る. 図2. イ ンディ ゴ園の概念図. 個別研究も多数存在しているわ けではない. 1 8 世紀フランスの植民地貿易において圧倒的に重. 要であっ たのは砂糖 およびとりわ け世紀後半に 急伸長 したコーヒーであっ たから, 可能ならば 砂 糖 あ る い はコ ー ヒ ー の プ ラ ン テ ー シ ョ ン の在. り方 について検討 したいところである が, 満足. な研 究 が 得 ら れ て い な い. そ の た め, こ こ で は,. 筆者が入手 しえているもののうち最も詳 しい,. フ ラ ン ソ ワ ◎ ジ ロ によ るイ ン ディ ゴ プ ラ ン テ ー. 塵慶三 ; 馳駆 勝 機. -. 7雲 霞・醸 喜界. ぞ. シ ョ ン に 関 す る 個 別 研 究 (F. Gi rod, ひれe ば た““”e coあれば〆β so“s /謬れじ eれ γ奪ば朔8 . Lα /定 圧ecq“eZ 危 粥ば. Sの 可-Do 7 ”Zれg“8 , ヱ724. i -ヱ796 Par s ,1970) に依 拠 しつ つ, 随 時, 他. の研究から得られる知見 にも言及することとし た い, ま ず, ジ ロ の 著 書 に収 め られ て いる イ ン ディ ゴ 園 の 概 念 図(図 2)か ら み よ う, こ れ は, エ ケ. 家所有のインディ ゴ園を図示 したのではなく,. ご く 一 般 的 な モ デ ル と し て, 1770 年 に ポ ー ヴェ ◎ ラ ゾオ なる 人 物 によ っ て 描 か れ たも の で. ある. 周囲に潅概溝をめぐらした農園 は正確 な 長方形をなしている が, 農園の形がこのように. 方形をなすのが普通であっ たらしいことは, 別 ) によっ ても確認できる. ただ図2 の図版(図3 の概念図では, 土地の区画や建物の配置 などが きわめて規則的に描かれているため, 農園が大. (出典) Gi Z Z rod , 0汐 ,c . ,60 . ,p 図3 1790年のサソニドマソグ (西部外 ずサン ◎ マルク近 郊, 部分). 変整然とかつ閉鎖的に編成されたものであるか のような印象を与 えるが, 実際には, も っ とラ フで開放的であっ たろうことが, やはり別の図. )によって知られる, むしろ図2で重要 版(図4 なのは, 農園の土地利用とその編成の在り方 が まことに端的に表現されていることである, す な わ ち, 農 園 は 一 般 に, ① 奴 隷 主 の 邸 宅. ’ (grand case) を 中 心 に 奴. 隷. ・ 屋 (case a. ) neg r s e , 倉庫, 家畜放牧場, 乾燥場, 砕断場を 置いた, 農園のいわ ば中核的空間, ②主要作物. 栽 培 地 (こ こ で はイ ン ディ ゴ 畑) , ③ マ ニ オ ク,. 〆〆”な e ee rcαの郷 (出典) F s godの宿 るo〆 .Thき , Nβ 〆 i 2) に所 収 97 r -Do〃”〃g e s猿7 7 ‘ ず 〃 s ,(Par ,1 の地図より, 37.

(7) . 浜. 忠 雄. バ ナナ, とうも ろこし 粟などの副次的作物の , 耕作地 および奴隷用食料畑,④叢林 および草地,. 図4 農園 ( 1 8世紀末の図版). ず, その比は農園によってまちまちである‐ ま. 璽璽麗. I搬sa v i鵬spmrl鮎 た’ 奴 隷用 食 潮田(P. ) と は, 黒 人 奴 隷 が 「自 分 の 計 算」 で耕 negres. :. 、鰍. .・. す土地 の ことだ が, 必ず しもすべ て の プラ ン テ ー シ ョ ン に お い て 確 保 さ れ たも の で は な い よ う で あ る,. 繍. ・. 樵. 細. R. ′. -, ,需 ~. 繋灘厭 園. 手 ・ ,・. ‐. ・. .. さ て, エ ケ 家 は, そ の 家 系 を 古 く ま で 辿 る こ. と はで き な い が,17 世 紀 後 半 に はア ブ ヴィ ル で. 小間物商を営み,17 20年頃にはパリ に出 て,「取. iant 引 商 人」 (negoc ) と し て 《Bourgeoi s de. Par i s》 と な っ て い た こ と が 判 っ て い る の, エ. (出典) G i t t A.Ma t aux e r ne au .Hano , 肋効 能 霞s Cdomes F フ伽 ”盤se′ 〆e rβ功αmzo” i d 93 0 8 脳o〃d e s e‘ ” 乃伽α 如硲′ ,(Par ,1 9 33 0 ー1 ) .1 .45 . ,t ,p. ヶ家 が初 め て サ ンニドマ ン グ に進 出 した の は1724年 の こ と で あ る. こ の年 西 イ ン ド植 民 地 と の 貿 , 易 に関 す る「イ ン ド会 社」 (Compagni e desl nde s--1719年設立)の排他的特権が廃止されて 本. , 国の主要港都のすべての貿 易商人が自由にこれに参加で きるよう になっ た が この機会を捉 えた ,. Antoi ne Hecquet は単 身 サ ンニドマ ン グ に 渡 っ た, 彼 は砂 糖 や イ ン デ ィ ゴ な ど の 植 民 地 産 品 の ほ か. 小間物の取引 きを行う一方, 早くも1727年 にはCap Fran ai s の近 郊, Fonds-B1ancs 地 方 に36 カ. ロ(約 40 ヘク タ ー ル. 1 カ ロ carreau は1,13 ヘク タ ー ル)の 土 地 の 払 下 げを 受 けて いる 価 格 はわ . 2 ) ず か118 リ ー ブ ル で あ っ た と い う( (こ こ に い う リ ー ブ ル は, 当 時西 イ ン ド植 民 地 で用 い られ た いわ ’Amβr ivre d ique》 で あ っ て 本 国 で の 《l ゆ る 《l ivre tournoi s》 と等 価 で は な い. 後 者 は前 者 の お , お よ そ 3 分 の 2 で あ る か ら, 《l i と約 vre tournoi に換 算 す s》 る 79 リ ー ブ ル と な る. し か し, 以 下 で i はいちいち換算せず に《l vr e 寸Amきrique》 の ま ま で 示 す). エ ケ 家 の プ ラ ン テ ー シ ョ ン に つ い て や や 立 ち 入 っ て 分 析 で き る の は 1767 年 と1782 年 の 財 産 相 ,. 続時に作成された 「資産目録」( lnven i t ) が不 完全ながら残されていることによる. 表3では, a r e この両年 について主要項目を整理 したが, まず, 17 67年の資産構成からみておこう. 総資産28 3,457リー ブルのうち最大の比重を占めるのは黒人奴隷計106名分の評価額であって , 全体の約46パーセントに達する. 次 に構成比の高いのは貸付金で 総額で9万リーブルを超 えてい ,. る. Antoine Hecque t はか な り 早 い時期 か ら 「金 貸 し」 に熱 心 だ っ た よ う で 判 明 して い る分 だ け , で,1741 年 か ら1760 年 ま で の 20 年 間 に都 合 7 回 計 1 563 リ ー ブ ル 1763 年 に1 235 リ ー ブ ル 1765 , , , , 年 2,132 リ ー ブ ル, さ ら に1766 年 に は実 に80 274 リ ー ブ ル と い う 巨 額 の 貸 付 けを行 っ て い る の で ,. 3 ) 建物と土地の不動産が占める割合 は14パ ーセントである 建物の内訳 は 農園内の奴隷主 ある( . . ,. t Dauphi 邸 が 6,000 リ ー ブ ル, For n に所 有 し た 邸 10,000 リ ー ブ ル, 奴 隷 小 屋 が 11 棟 分 で 2 400 , ブ リ ー ル, ラ タ ニ ア 覆 小 屋 6,000 リ ー ブ ル, 倉 庫 と 鳩 小 屋 が そ れ ぞ れ 2 000 リ ー ブ ル と な っ て い ,. 4 ) 奴隷小屋 は その規模も構造も不明だが 評価額からみて大変粗末なも のであ たろうこと る{ は . っ , , 容易に想像 しえよう. 土地の総面積 は212 カ ロ(240 ヘ ク タ ー ル) と い う広 大 なも の で あ る, エ ケ 家 によ る 土 地 獲 得 に つ い て は, 前 述 し た1727 年 の 36 カ ロ の ほ か 1730 年 の32 カ ロ 1745 年 の 20 カ , , ロ, 1753 年 の 64 カ ロ が 判 明 して い る だ けで あ る. 土 地 評 価 額 6 000 リ ー ブ ル は 212 カロ全体 に対 , ,. す る も の で は なく, 172 カロの未耕地を除く 「耕地」4 0力口分の評価 額である. . また, 「耕地」 のう. 38.

(8) . 1) ハイチ革命研究序説 (1 i 単位:l e d’Amきrique vr. 表 3 エケ家の資産構成 項. 目. 動. 産. 宝. 石. 1767 年. 1782 年. 4,130 1,965. 12,577. 計. 小. { 蓑 奴隷 墓 計. 小 馬. ー フ. o. 有. 角. ノ、. 物. 動. 類. 羊. 言十. 小. O. 360. 金. 現. 縄人 紅 焔 凝 0 6 リ1ー ム1. 6,455 59,100. 130,580. リ○ムx U. ( 4 6 1%) .. イ. ン. デ. ゴ. ィ. 他. の. そ. 言 十. 小 建. 物. 土. 地,. 計. 小. 貸 合. 付. 虹. ( 3. 3 7%). 13,050. (1. 7%). 7頭 25 21. 531. (4, 1%). 53. 5,874. 具. 用. 255,650. 20. 8,200 2,958. 11,689. (1, 7%). 18. 12,450 16,430. 53人. 12,577. 測. 42,600. リ月ム’ ワQ十J. (2, 3%). 1,900 1,900. (0 7%) .. 5,874. (0. 8%). 178,443. 34,600. 6,000 40,600. ( 1 4. 3%). 金. 92,233. 計. 283,457. 197,800. 376,243. ( 4 9, 6%). ( 3 2 5%) ,. 94,937. ( 1 2, 5%). 1 ( 00%). 758,344. ( 1 00%). 9‐ 80 により作成 Z 2 f (出典) Gi rod ,4 , .c ,pp ,7 , 0汐. 4 カ ロ は叢 ち, 10 カ ロ(11.3 ヘ クタ ー ル)が イ ン デ ィ ゴ, 6 カロ が粟類の栽培に充てられ, 残りの2 5 パ ーセン ( ) パ 積 わ ず か5 ゴ 「 ト 面 の ー セ ン 全 地 2 林 で あ っ た . し た が っ て, イ ン ディ 畑 は 耕 」 の 5 , la ‐ ト にす ぎ な い, ジ ロ は, こ う し た 土 地 利 用 の 在 り 方 の う ち に, 土 地 取 得 そ の も の の「投 機」(SPきCu i り き t 「 ) であ 投 n gocan i t ) 的性格を見出し, また, 総じて, 1767年段階のエケ家 は 取引業者 ( , on 6 ( 〉 づ と結 い d t る t あ た 論 けて e ) で も 」 l 金 貸 し ( u r a r e n e t r e ) で あ り っ g ( u e u r p , 機家 sp c a , 15 年 後 の 1782 年 に は, エ ケ家 の 総 資 産 は758,344 リ ー ブ ル ヘ と, 約 2.7 倍 に膨 張 し て い る. こ の i s》 に換 算 し て 約 50 万 5千 リ ー ブ ル)は, プ ラ ン テ ー シ ョ ン と して どの 程 etoumoi 資産規模(《l vr 度 にラ ンク さ れる も の な の か, 全 国 統 計 が存 在 し な い た め判 定 困 難 で あ る が, フラ ン ソ ワ ー ズ ◎ テ. 7 ) 海外貿易委託業 務を行 う合資会社 としてボル ドー に設 立 された《La ゼ女 史の研究 によれ ば( , i e》 に業務委 託 した西 部州 の計63 の プ ラ ン テ ー シ ョ ン の t et C Mai son Henry Romberg , Baps. 17 89年現在の平均資産は, 50万リー ブルないし55万リーブ ルと推定されているところから判断し て, ほぼ中位程度のものとみてよ さそうである, 82年にかけてのエケ家の資産増加の最大の要因 は, 建物 と土地の不動産評価額 が 17 67年から17 67年で14パーセント程度だっ 9倍強)ことにあり, 総資産中に占める割合も17 飛躍的 に増加 した(. たの が,1782 年 に は実 に50 パ ー セ ン ト にも 達 す る こ と と な っ た の で あ る, だ が, 残 念 な こ と に,1782. 82年の土地の総面 積 年の建物およ び土地の評価額の細かな内訳 は不明である, 判 っ ているのは,17. が553 カ ロ(625 ヘ ク タ ー ル)で あ る こ と と, 197,800 リ ー ブ ル と い う評 価 額 が, 1767 年 の そ れ と は 39.

(9) . 浜. 忠 雄. 違っ て, この総面積 に対するものであるということだ けである エケ家のイ ンディ ゴ園があ た地 っ . 域 が 当 時 《Savanes Longues》 と 呼を れた草原地 帯であっ たことを考慮する なら 1 7 8 2年 におい , て,「耕地」とりわ けインディ ゴ畑 に充てられた面積 に著 しい増加があっ たとは考 えにくい しかし . , にも か か わ らず, こ の 15 年 間 に341 カ ロ(385 ヘク タ ー ル)も の 土 地 を 新 た に取 得 して い る こ と は ,. 動産, 宝石, 現金, 家畜, 用具, 貸付金など, その他の資産の占める割合 が減少ないし微増した に とどまる事実ととも に注目に値するものであり ここでも 先 に述べた土地取得 における投機的性 , ,. 格を看取できると思われる. エケ家の場合 のように, 所有総面積のうち主要作物作付面積がたかだ か数パ ーセントにしかなら な い と い う ケ ー ス は, 披 見 し た い く つ か の プ ラ ン テ ー シ ョ ン の な か でも 異 例 で あ る が 資 産 の な か ,. で土地がきわめて重要 な割合を占めるという点 はすべての プランテーショ ンに共通 して指摘 しうる. と こ ろ で あ る. 例 え ば, リ ュ カ なる 人 物 が 西 部 州 に所 有 したイ ン ディ ゴ プ ラ ン テ ー シ ョ ン (全 面 積 130 カ ロ, そ の う ちイ ン ディ ゴ 畑 は50 カロ) の1 783年現在の資産総額 は 17 82年のエケ家のそれ. ,. と 大 差 の な い813,712 リ ー ブ ル で あ っ た が そ の 内 訳 も 動 産 6 446 リ ー ブ ル (0 8パ ー セ ン ト) , , , . , 奴 隷 215,455 リ ー ブ ル(26.5 パ ー セ ン ト) 家 畜 2 421 リ ー ブ ル(0 3 パ ー セ ン ト) 建 物 82 100 リ ー , , . , , ブ ル(10.1 パ ー セ ン ト) 土 地 360 000 リ ー ブ ル(44 2 パ ー セ ン ト) 貸 付 金 147 289 リ ー ブ ル(18 1 , , . , , .. パーセント)と, エケ家の資産構成とほぼ同様であり 建物と土地の不動産資産 はやはり全体 の543 , . 8 ) パ ー セ ン ト に達 す る の で あ る( .. 建物, 土地とならんで資産増加の重要な要 因になっているのが 奴隷の評価 額の上昇である 1767 , . 年 に10 6名だっ た奴隷 は17 82年 には141名 に増 え, 評価額はほぼ倍化 している, さいわい 17 , 67年 と17 82年以外の年次 の奴隷数 および176 9年 から177 8年までの1 0年間の購入奴隷数も判っている ので, 表4と表 5に示 しておいた. ただし, 奴隷 にかかわる事項 はすべて次章でまとめて検討する こ と にす る.. 土地, 建物および奴隷 の評価額の著しい増加 のため 貸付金の占める割合 は相対的に低下するこ , ととなっ たが, なお9万 5千リー ブルという高額な水準を保 っている , こうしてみてくると, ジロが1767年段階のエケ家 について特徴づ けた三重の性格 すなわち 「取 , , 引業者」 と 「投機家」 と 「金 貸 し」 の三位一体性 は, 17 82年の時点についても基本的に同様 に指摘 することができよう.. エ ケ家 の 「資 産 目 録」 か ら知 り う る 点 は以 上 の 諸 点 で あ る が 次 に プ ラ ン テ ー シ ョ ン に お ける , ,. 奴隷の在り方 に目を向 けよう.. 表 4 エケ家 の奴隷数 年. 次. 奴 隷 数. 表 5 エケ家の新規購入奴隷数 年. 次. 購入奴隷数. 1767年. 106名. 1769~70年. 1773. 142. 1770~72年. 23. 1776. 175. 1772年 8月. 2. 1778. 181. 1782. 141. 1791. 150. 2 (出典) Gi 0 rod .c誌 . .1 , 0沙 ,p. 1773年 9月. 7名. 8. 1775年. 38. 1776年. 14. 1778年 2月. 14. 合. 計. 備 合 計9,600リー ブル. 合計38,000なし・し39,000リ ー ブ ル 合 計5,000リ ー ブ ル. 合 計24,200リ ー ブ ル. 男8名, 女6名. 106. (出典) Gi 09‐11 0 により作成 rod . αZ . .1 , OP ,pp 40. 考.

(10) . 1) ハイチ革命研究序説 (1. 註 ’ ( 1 ) F. Gi rod , Lα 危粥”彰 鼠ecq“〆 な Sdm-Do粥 粥g“8 , ヱ724 , U“e 尤“”“〃 のめ”幻を 節硲 /α%dBね 〆亀す朔8 i -ヱ796 s . .11-12 , (Par ,1970) ,pp. ( 2 ) ぁ溺, PP・16一22, ズ メ { 3 ) ′る ,38一39 , ,PP. 4 ( ) ′bid .50一51 . ,PP ( 5 ) ヱる媛, P.47. ( ) /誘d 6 ,51 , ,P 云のZ Z 云c o“s》. 乙α 7 ”〆so 7 2 ( o o”s dg s姉可‐Do粥効g“e 7 ) F. Thきsee , 《乙Zdsoれ 〆あのZ , M宅oc彰“な る◇メメメメs g e ヱ;を3-ヱ793 (Par i 9 2 1 7 がハイ チ共和 を承 認 した 8 2 品e“り ) フラ ンス 国 の は1 5年 ′ 尺o s 7 ”加 増, β物財 勿 Cf , , , ,. のことだが, その際フランスはハイチに総額1億5千万フランの賠償を課した. これを元資としてフランス政府 は, 1827年 か ら1833年 の間 に, サソードマ ソ グ の 旧 プ ラ ンタ ー に対 して, 1789 年 現 在 の 財産 評 価 額 の10 パ ー セ. ントを支払った, 本文中の平均資産はこの賠償高から逆算したものである, ちなみに, ジロによれば, エケ家へ ivre の 賠 償 額 は, 44,460フ ラ ン で あ っ た, し た が っ て 1789年 の 時 点 の 財 産 評 価 額 は444,600 フ ラ ン, 《l i dAmer que》 に換 算 して666,900 リー ブ ル と なり, 1782年 に比べ て12 パ ー セ ン ト程 度 減 少 し て い る こ と と な フ る. Gi rod カ . , 凋ん P .144 ,( ) ( 8 ) Thesee z 〉 , メオ ・64 ・ リp ,(. 3. プ ラ ンテ ー シ ョ ン に お け る 奴 隷 図5. ジ ロ の 著 書 は,1767 年 と 1782 年 の エ ケ家 の「奴. 隷名簿」 を収録 している, その一部 は図5に示 し たが, みられる如 く, 名簿には, 名前, 出生地,. 178 2年のみ) 年齢のほか, 「格印」 の有無 ( , 備考 欄 には特別 な仕事を割当て られている場合 の職. 種◎病気り子供の場合 は母親の名 前, および評価. ェヶ家 の 「奴隷名 簿」 (1782年, 部分). N OM. 与 えてくれる. 以下, やや詳 しく紹介し, 分析 し. 4 ・N G 1 o 1 n. ①. 奴 隷 数. 名 簿 は両年 とも奴隷 を男 性 femmes), (. ), ommes. 女性. 男 児 (enfants males あ る い は. 6 1 1t tes ま た は 1 l ) ) に区分 し e s gargons , 女児 ( e. て記載 している. ただし, 成人と子供とを区別す 67年の場合 る基準 は必ず しも一定しておらず,17. は15 歳 を 境 に して い る が,1782 年 の名 簿 で は,12. 歳から1 6歳の者でも,成人の欄 に記載されている. 者もあれば, 子供の欄 に記載されている者もある. C o o n g. C o o n g. P l 3 5- a u 6 1 d 3 ‐C a u c 3 7 t .H e c o r 3 8 t ‐N u e n e p 3 9 I 強引 ‐ 町 J. て お き た い,. P R I X 5 ( 力 l . l 5 ( .刃 2 0 { ) o ,. C l 達 o e 3 4 l 一 a d ‐L o e. 額 が記 載 さ れ て お り, プ ラ ン テ ー シ ョ ン に お ける. 奴隷の在り方を考察するための有力 な手がかりを. GE N A T I ON A. C o n o g 》. S S VA T I ON B E R E TAMP E O O I L uEMP o h i e t e l m e u x 8 }劉 sa e L n i m 槌 鯉 p t n a a l r e e p p i l d i e t 0》 v u n a r e 2 a ep l 5か 縄 a 1 u a r a t a n s a n n e m - 頃 p i l a 1 o e v e 5 0》 暇 t s a m e 壁 n p t 国 r e n e a p p. 6 5》 4 5》 8》 1. 4 0 i J 一v e u x a u e sN a o g ( メ I. 8 0か. C o n - 抑. 4 5》. 4 P j j h C ご l 2 t t ‐ ‐ o e e o s c 「 p 3 J i 4 - u t e r p. 8》 1. 掌 キ .B o t e mp s n. M b 8》 e1 a c o m. 5 4 i d ‐T e r C C 4 6 i d o . u o n o n g p , C 陀 l i h 4 7 J t o e -a Cnc 8 j レ コ i 4 - u ‐ e a n s d i tB o n c a 》 A d 4 ) a 9 t r i ‐L I e 川 外 l 5 0 S i i o tM o n . a l e C … a n g C e l 5 h i 軸 l 1.C o e 1 e s 5 鯵 i 2 t t ‐白 濯抄 a ゑ e 》 p 5 j躯 i r 3 - I IG I. M l i t u 簿. 6 0》 7》 1 2 4》 8 0》. 2 2 ( め , l 5 { め .. i l l td e ay 町 o e mo r d i l u o 辞d e s e s ap p l l e C e $ s 0 l e a h i i 0 t 六 t r 劉 m e e m e m a l n e p 凶 e 5 3 0 0 u 引 》 a v e e 5 d 2 ( め t u xa a l m e p 一 鞄 . ’ ・ - 1 t u u r a u 陀 n es e t s a e 題 n m p a i m m o l e e ed ( 刃 t t i ub 鮎 8 s a n s ゑ m ee s l o r p p i 鳩 a u c g e d l 8 ( 刃 l t r ee a mp e 鱒 u r , i l l td mo 『 e av a r o e d i l e u s 燈P I e s 〆 綿d p 1 1 ” 惣 C e lm鯖 舵 『 l o nゑ P T o u p危e e i o u V a l l m r e n e mo 5 ( 鳩 2 , t a a 陀 n e p p 足陀e l td t a ( メ j r o 急 s a p mp et mb n 馴 l e i d i l i t mo l e 踏 め u o n m 6 e 2 { め t 鱒 n sa l 【 n e p , 3 30 0 》. . 4 0》 疎 e i l l l w a c m e y h 8 》 民陀e 1 t 盈 mp e l d i 団陀 e v t a u n 3 5》, c ( 児層「. e i m mo r e l 3 { P . 2 6 ( 粉 , 2 5 { 力 . 3 3 ( 粉 .. Zん p (出典) Gi 7 rod ,c .12 . , 0妙 41.

(11) . 浜. 忠 雄. という具合である. 名簿の区分に従 えば, 1767年の計1 06名の奴隷の内訳は, 男性34名, 女性3 1 名, 男児18名, 女児23名であり,17 82年の計141名の内訳は, 男性5 3名, 女性5 0名, 男児18名, 女児2 0名である. ただ し, 17 82年の名簿にはすで に死亡 した5名, 逃亡中ないし逃亡 の科で「裁判 中」 と備考 のある者2名を含んでいる, この15年間の名簿上の増加 は35名 (男性と女性がともに. 19名増, 子供 は3名減) である,. と こ ろ で, 前 掲 の 表 4 に示 し た よ う に, エ ケ 家 の 奴 隷 数 は激 しく 変 化 し て い る ・ . 1767 年 か ら1778. 年までは一貫 して増加 したが,1 77 8年から1782年までのわずか4年間に実 に40名減少 しているの である. 17 67年から177 8年までの増加が, 同時期 にあっ た計106名 ( 176 7年の現数と同じ) に及. ぶ新規購入によるものであることは明瞭だが, それにしても, 実増が75名 にとどまることに注目 し. なけれ ばならない. このこと は--出生, 死亡, 購入, 転売など年次毎の動態が不明のため 正確 , な算定 は不可能だ が--奴隷の 「消耗率」 がきわめて高かっ たことを示すも のである. ちなみに , 1767年の奴隷のうち178 2年の名簿にも名を残 しているのは, 106名中44名(男性:34名中7名 , 女性:31名中8名, 男児:18名中10名, 女児:23名中1 9名)にすぎない, 逃亡 した奴隷もあっ た ようだがごく少数であり, 転売の形跡はないから, 残りの62名の大部分, 成人に限れば65名中52 名(ちょ うど8割) はこの15年間に死亡 したものと推定される. ま たこの人数がこの期間の全死亡 数 とイ コ ー ル で な い こ と は い うま で も な い. な ぜ な ら, こ の期 間 中 に 購 入 な い し出 生 し た者 で ま ,. たこの期間中に死亡 してしま っ た奴隷 は, いずれの名簿にも記載されないからである. ドゥ ビアソ が 調 査 し た プ ラ ン テ ー シ ョ ン に お い て は 1786 年 か ら1787 年 ま で の 1 年 間 に 奴 隷 は116 名 か ら , ,. 13 3名 へと17名増 えたが, その内訳 は, 出生が5名, 死亡10名, 購入22名であっ た. また 同じ , フランテーショ ンの17 86年の成人奴隷98名 (男性57名, 女性41名) のうち, 17 90年までの存命 者 は計67名 (男性40名, 女性27名) であり, 4年間で3割強 の31名 (男性17名 女性14名) が , 死 亡 して い る の で あ る. ドゥ ビ ア ン は, 奴 隷 の 死 亡 率 を 年 8 パ ー セ ン ト 出 生率 を 4 パ ー セ ン ト と ,. 計算し, また, 奴隷主 は一般 に, 奴隷の可働年数を15年程度と考 えていたらしい, と指摘 してい 1 } る( .. ②. 名. 前. 奴 隷 の 名 前 はす べ て フ ァ ー ス トネ ー ム の み で記 載 さ れ いわ ゆ る フ ァ ミ リ ー ネ ー ム は付 さ れ て い , な い. 約 7 割 が た は, フラ ン ス 人 が 用 い る ご く 普 通 の名 前 で あ る - - 例 え ば 男 性 で は Paul jean , , ,. Char l l な ど 女 性 で は Mar es i ianne che e ‐ , Georges , C1aude ,Jacques , Mi , ,Jeanne , Mar , Cather. ine Cec i l e col e な ど- -. つ い で 目 に つ く の は, Cesar , , Ni , Venus , Adam, Neptune , N6ron ,. ter などの歴史上あるいは神話上の人物 にちなんだ名前である 同名の者がいる場合 には 例 え Jupi . ,. i ば, Mar i i t te-Mar i l l e-C1 ai re l の よ う に記 さ れ て い る, e e-Jeanne esl es l , Pe , Mar , Char , Char ア フ リ カ 生 ま れ の 奴 隷 で 生 来 の名 前 の名 残 り を 名 簿 に と ど め て い る の は Jean-Loui t Bonca s di , と記 載 され た 1名 だ けだ が, そ れ も,Jean-Loui s の名 の 奴 隷 が他 にも う 1 人 い た た め の よ う で あ る.. 植民地生まれ, アフリカ生まれの別なく, 黒人奴隷はすべてカトリックによる洗礼名をも って呼 ばれたのであり, その点は, エケ家の奴隷名簿に限 らず 披見 しえたいくつかの名簿すべて に共通 , して い る,. ③. 出 生 地. i t 名 簿 の《na on》の欄 に は, 出生 地 が記 入 されて いる. 植民 地 で生ま れ た黒 人 はク レオール l きo ) 混血 ( r 児も 植民地 生ま れで ある こと に は変 わ り はない が, ク レオール黒人 と 区別 して c e ,. lat 《mu re》 と表 記 さ れ る. ク レ オ ー ル と混 血 児 以 外 は ア フ リ カ 生 ま れ だ が そ の 場 合 に は Congos , , ,. Nagos などの地名で記載されている. 「不明」(《?》) の者も若干いるが おそらく 多くは出生 , , 42.

(12) . 1 1) ハイチ革命研究序説 (. 地名を特定できないアフリカ生まれの黒人 と思われる. ェヶ家の黒人奴隷の出 生地別構成を一覧にしたのが表6である. 両年とも最も多いのはクレオー ル で あ っ て 6 割 前 後 を 占め る, とく に子 供 は, 1782 年 の女 児 1 名 を 除 い て, す べ て ク レ オ ー ル で あ る, ア フリ カ 生 ま れ の な か で はコ ン ゴ が 最 も 多 く, そ の 他 は現 在 の ガ ー ナ, ダ ホメ, ニ ジ ェ ー ル,. リ ベリアの諸地域の出身者である, 表 6 エケ家 の奴隷 の出生地別構成 性. 男. 女. 男. 性. 児. 女. 合. 児. 計. 1767年 1782年 1767年 1782年 1767年 1782年 1767年 1782 年 1767年 4. 明. 不. 血. 混. ク レ オ ー ル 卦江 i nas. 3 I. O. 2. 23. 18. 60. 89. 21. 28. O. 4. O. 2. I. I. O. 6. O. 1. 5. I. O. O. I. 4. 20. 15. 33. 16. 19. 5. 9. 4. Nagos. I. I. i Qu ambas. I. O. Foedas. I. O. 5. O. 入江壱surades. I. O. O. 4. I. O. O. 計. 合. O. I. I. i 卦4and ngues Aradas. 18. 18. I. Agu ias ハなaco r nbes. 13. O. I. O. CongoS. I. 10. 1782 年. 5. O. 1. O. I. 5. I. 2. 1. 3. O. 34. 53. 31. 50. 18. 18. 男. 児. 23. 20. 106. 141. 女. 児. 合. 計. 1 ZL PP 21- 32より作成 (出典) Gi rod .1 .c , 0汐. 表 7 サソニドマソグの奴隷の出 生地別構成 男 ク. レ. オ. ー. ル. 性 336. 女. 性 363. 206. 216. ( ) * 1,127 ( * 62 }. 血. 1. 16. 18. 17. アフリカ生れ計 ′C ongoS. 1,036 403. 543. 21. 5. 141. 19. 5. Aradas. 86. 122. 2. Nagos. 88. 5 9. 147. 89. 50. 139. 73. 24. 97. 39. 29. 68. N[ozanbiques. 43. 6. 49. Mi nas. 混. 内 工bos Bambaras Igal 3nE { Si. 訳. { ) * 212. 25. 19. 44. ’or C6te d. 27. 1. 28. Haoussas. 25. 1. 138. 91. 1,373. 922. 、そ 合. 1,606 568. の. 他 計. ( * } 27 227. 24 5. 238. 2,778. * )の部分は 合計と内訳 があわないが 原文のままとLた. (注) { , , ’Z F A N t ’ 及ば ‘ ‘ i e i l l l i i i B”” グ81 sde s Ant es’ r nesde ses c ave (出 典) G.Deb en g , , . , ome XXIX,Sar , Z , Leso 4 1 9 6 5 5 6より作成 N 3 7 B ( ) ~ s o , . ,P , , 43.

(13) . 浜. 忠 雄. 「ア ン チィ ュ の 奴 隷 の 出 生 地」 に関 す る ドゥ ビ ア ソ の調 査 によ れ ば 1756 年 か ら1797年 ま で の サ , ソニドマ ソ グ の大 小 60 余 り の プ ラ ン テ ー シ ョ ン の 計 2 778 名 の 奴 隷 を 出 生 地 別 に区分 す る と 表 , , ,. 7 の よ う な結 果 が え られ る. エ ケ家 の場 合 と は逆 に こ こ で は 混 血 児 を 含 む ク レ オ ー ル が 4 割 ア , , , フ リ カ 生 ま れ が 6 割 程 度 と な っ て い る. 注 目 す べ き は ク レオ ー ル に は男 女 の差 が ほ と ん ど な い の , に対 して, ア フ リ カ 生 ま れ の 成 人 は, 男 性 が 女 性 の お お よ そ 2 倍 で あ る こ と と ア フ リ カ 生 ま れ の ,. 子供 はごく少数であることである. いうまでもなくそれ は, 成人男子を優先する労働力政策=黒人 奴隷貿易の結果で ある. 黒人奴隷の出生地別構成 の如何 が, 当該 プランテーショ ン経営の性格を規 定する本質的要 素であっ たとは考 えられないが,ただ,同じ ドゥ ビアンが行 っ た逃亡奴隷(ma ) r ron s に関する調査 によれば, 17 89年11月 から1790年3月 までに逮捕され出生地の判明 した逃亡奴隷. 468 名 の う ち, ア フ リ カ 生 ま れ が 395名 (84.4 パ ー セ ン ト) で あ っ た の に対 して ク レ オ ー ル は73 , 2 )と い う点 か らみ て ア フリ カ 生 ま れ の 黒 人 奴 隷 に依 存 す る プ ラ ン 名 (15.6 パ ー セ ン ト) で あ っ た{ ,. テーショ ンほど, 相対的に不安定性を蔵 していたと推定できるであろうか. 披見 した 「奴隷名簿」 の う ち, ク レオ ー ル 比 率 が 最 も 高 か っ た の は, ブ ル ト ン o デシャ ペルなる人物が所有 した砂糖プラ ン テ ー シ ョ ン (全 面 積 355 カロ. , うち砂糖 きび畑 は45 カ ロ) だ が, こ こで は, 1785 年 1月 現 在 142. 名(男 76名, 女 66 名)の う ち ク レ オ ー ル は3 分 の 2 の 95 名 を 占 め テ ゼ 女 史 は 「こ の プ ラ ン テ ー , , 3 シ ョ ン で は, 奴 隷 に対 す る 保 護 政 策 (Pol ) i ique conservat t i r ce) が 採 られ た」 と 指 摘 して いる( .. ④. 年. 齢. 名簿に記載された奴隷の年齢が はたして正確 なものかどうか, はなはだ疑問である. なぜなら , 年齢不明の者が1767年の場合9名(男性4名, 女性2名, 男児3名 女児0名) 178 4名・ (男 , , 2年 は1 性10名, 女性1名, 男児2名, 女児1名) もあり, また, とくに17 67年の名簿に顕著なのだが, アフリカ生まれの奴隷 のほとんどすべてが5歳きざみで記入されているからである. 両年の名簿をもとに, 年齢が記載されている分 について分布を図示 したのが図6である いずれ . の場 合 も 年 齢 構 成 は きわ め て 歪 つ で あ っ て, およ そ 「ピ ラ ミ ッ ド」 の 体 を な して い な い 1767 年 と .. 17 82年と比較して顕著なのは,1767年の場合 に男女とも20歳台がきわめて少数であるのに対 して , 17 82年の場合 には10歳台後半から20歳台までがかなりの厚みをも っていることであり 年齢不明 , 分を加味 しても, この基本的特徴 は変わらないと思われる.1767年の成人の平均年齢 は男性42歳 , 図6. エケ家の奴隷人口 「ピラミ ッ ド」 1782年. 1767年. 70~ 65^ ‐69 60- ‐64 55- ‐59 50~54 45^ ‐49 4 0~4 4 00000 35^ ‐39 30- -34 25- ‐29 20{ r24 △△ 15- ‐1 9 -l d △△△△ 10- △△△△ 5‐ ー9 △△△△△△ 0~. { )○ 00〇 00〇 △△ △△△△△△. 8800. △△△△△○ △△△△△△ △△△△△△△△△. 80- - 75^ ‐79 70- ‐74 65- ‐69 △ クレオール 60- ‐64 ◎ 混 血 55- ‐59 ○ アフリカ生 れ 50- -54 ? 出生地不明 45~4 9 40- ‐44 ◎△ 35-‐39 30^ ‐34 △△ △△ 25~29 △△△△ △△△△△ 000△△△△△ △ 20~24 000000△△△△△△△△△ M △△△ 1 ~1 5~ 1 9 △△△△△ 0000△△△ △△△ 10~14 △△ △△△ 5 △△△△△ 5~ ~9. 8 8. 男性6 0名 す 21- 132 により作成 (出典) Gi ず rod .c .1 , 0沙 り pp 44. 年. 齢. 絵8 . △△△○00? △△△△△○ △△△△△△△△○ △△△△△△ △△△△△△00 0 △ △△△△△△ △△△△△△△◎〇 △△△△△△△.

(14) . 1) ハイチ革命研究序説 (1. 786年) T 1 our コーヒー園 (. 17 85年) R naud コッ トン・インディ ゴ園 ( ay. 60- 4 ‐6 5 8。 5- ‐5 9▲. △△ △?. △△△△△○ △△△△○○o △△○○○ ○○○○00. 7名 男性5. 年. 令. ・ ~4 9 ?? 45 o o△ 4 0- -4 4 △△△00 ○○○△ 3 5^ ‐39 △△○ -34 △△△△△△△○ ○○○○△△ 30- ??○○00△△ 9 △△△△○ 000△△△△△◎ 25- ‐2 0 ‐24 △△△△△○○ oo△△△△△△△△ 2 - -19 ◎◎△△△△△△△ △△△△△△△△△◎ 15- 4 ◎◎△△△△△△△ -1 0△△△△△△△△ to- -9 ◎△△△ △△△△△△△ 5- △△△△△ △△△△△. o888. 男性76名. 女性44名. 783年) イ ンディ ゴ.コッ トン園 (1. . -54 000△△ 50-. 年. 令. 6名 女性6. 7 1 85年) Br elles 砂糖園 ( es chap etto l ID. 2 2 2- 36 により作成 きe Z (出典) Tha ん pp s ,2 ,c , 0沙. 82年 には男性28歳, 女性29歳となり, エケ家の奴隷労働力 は明らかに若 返 6歳である が,17 女性3 り が は か られ て い る と み て よ い. こ う し た年 齢 構 成 の変 化 が, ク レオ ー ル の 子 供 た ち の 成 長 も さ る. ことながら, アフリカ黒人の大量購入によるところ が大きいと推察される. 黒人奴隷の性別, 年齢別, 出生地別構成 が個々 の プランテーショ ンで一様でないのはいうまでも ない. こ こ で は, 参 考 ま で に, テ ゼ 女 史 の研 究 で 取 り あ げ られ た4 つ の プ ラ ン テ ー シ ョ ン の 奴 隷 名. ) 簿をもとに作成した人口 「ピラミッ ド」 を示しておく (図7 . ⑤. 熔. 印. 奴 隷主 は, 自 らの所有 する奴隷 で ある こ とを明確 にす る ため に, し ば し ば 奴 隷 の胸 に焔 印. tampe) を 捺 し た と いわ れ る が, 必 ず しも す べ て の 奴 隷 に対 し て 行 っ た の で は な い よ う で あ る. (6 i l l 82年までの所有者である Marc-Antoine de 17 68年から17 17 82年の名簿によれ ば《De Wa y》( e r e d 9 名(約 l ly に ち な む) Wai , 《l etampe》, 《 eux きtampes》 な ど の 記 載 の あ る の は, 141名 中 3. 3名, クレオール3名) 3割)である, そのうち, 男性は53名中16名(アフリカ生まれ が1 , 女性は. 50 名 中 22 名(ア フ リ カ 生 ま れ 9名, ク レ オ ー ル 13 名)で, 成 人 の み に つ いて み れ ば4 割 弱 と なる.. 15歳) だ けである. 子供では, ただひとりのアフリカ生まれの女児 ( 気 ⑥ 病 67年では, 成人男性のうち「不具」 名簿には, 有病者 についての備考 がある,17 ,「病 ,「右腕不具」 「 が4名であ 「 「 疾」 , 病疾」 , 「左脚虚弱」 などが6名. 女性では, 狂人」 のほか 不具」 , 「右腕 に癌」 782年の名簿では, 有病者 は極立 って増え, とくにまた天燃痘 に る, 子供について は記載 がない, 1 関する記載 が目立つ. すなわち, 単 に「天燃痘」 とある者のほか, 「天燃痘の跡あり」 , 「天燃痘によ. 女児4名) り死亡」 , 「天燃痘のため施療院入り」を合わせて13名(男性4名, 女性3名, 男児2名, 45.

(15) . 浜. 忠 雄. で あ る. こ れ に, 「ヘ ル ニ ア」 「ヘ ル ニ ア 重 症」 「盲 目」 「左 腕 不 具」 「聾」 「病 弱」 「腕 骨 折」 , , , , , , ,. 「梅毒で鼻が腐 っている」 「足を失なう」 などの1 3名(男性8名, 女性4名, 男児0名, 女児1名) , を加 えると, 有病者 は合計26名, 全体の2割近く にも達する 記載された病名 の多くは伝染病か外 . 科的なものである (それ自体, 奴隷主 の関心の所在を示すものだが) から これに内科的なものを , 加 えるならば, 有病率 は相当に高かっ たと考 えられる, 後述のよう に 有病の奴隷 の評価額は著 し , く 低 い,. ⑦. 母子関係. 17 67年の名簿では4 1名中38名,17 82年の名簿で は3 8名中32名の子供について, 備考欄に母親 の名前が書かれて いる. 母親の名前 の記載がない17 67年の3名 は年齢も不明,17 82年の6名 は「孤 児」3 名, 「天 燃 痘 で 死 亡」2名 ア フ リ カ 生 ま れ が1 名 で あ る こ こ で は 1767 年 の場 合 につ い て , . ,. だ け述べるが, 母親の実数 は17名で その名前 はすべて「女性」の欄に発見できる 17名のうちで , .. はク レ オ ー ル が や や 多 く 11 名, ア フ リ カ 生 ま れ は6 名 で あ る 子 供 の数 で み る と 「4 人」と「3 人」 . ,. がそれぞれ3名, 「 2人」 が6名, 「 1人」 が5名となる. いうまでもなく既 に死亡した子供 の名前 は 名簿に登場 しないから, 出産経験者 はさらに多くなる はずである, 父親の名前 は記載されていない ため, 奴隷の 「家族」 の在り方まで は立ちいれない.. ⑧ 評 価 額. 最後 に評価額をみよう. 17 67年の成人男性の評価額 は, 「不具」あるいは「廃疾者」 と備考され評 価額をもたない3名を除 けば, 最低800リー ブル (50歳 彼も 「廃疾者」 とある) から最高3000 , , リ ー ブ ル(45 歳 と 30 歳 の 2 名. と も にア フリ カ 生 ま れ で 《indigot i i er》, 《charpent er》 と備 考 ,. されているからとくに技傭が認 められているのであろう) まで幅があるが 人数的には2000リー , , ブ ル (13 名) と 1 800 リ ー ブ ル (8 名) が 多 い 単 純 平 均 は1 842 リ ー ブ ル と なる 女 性 で は 「狂 , . , , ,. 人」 または 「不具」 で評価額がない5名を除 けば 最低500リー ブルである 最高 は2500リーフ , . , ル で, こ の Zabeth Di eu という名の40歳のクレオール女性 は,2人の子供の母親で 奴隷主邸で働 , く 「様 ざま な才能 の持主」 である. 女性の単純平均 は1 638リーブルとなり 男性より1割程度低 , , くなる. 子供の場合 は男女間の格差 はみられず おおむね1歳 につき100リーブルの評価額である , . 総じて, 高齢者や有病者 の評価額 は低く,20歳台ないし40歳台までの年齢層 またとくに「有能」 , と認め られ特別 の仕事に就いている者の評価額 は高いが そうした特徴 は17 82年の場合も同様であ ,. る. 1782 年 の 男 性 の最 高 額 は5 500 リ ー ブ ル(20 歳 ク レオ ー ル) で 次 い で 高 い の が35 歳 で「監 , , , 督 者」 (commendeur)の 任 に あ る ク レ オ ー ル の 5 000 リ ー ブ ル で あ る 女 性 の最 高 額 は3 300 リ ー , , , ブ ル だ が 彼 女 は30 歳 のク レ オ ー ル で 「看 護 人」 (hospi i tal ere) で あ る. 1782 年 の場 合 成 人 男 性 , , の平 均 評 価 額 は2,423 リ ー ブ ル, 成 人 女 性 は2 081 リ ー ブ ル と な り 1767 年 に比 べ 2 割 な い し3 割 , ,. 程度上昇して いる,. 1782 年 の 成 人 男 性 の平 均 評 価 額 は お お よ そ 2 400 リ ー ブ ル と い う こ と だ が い っ た い どの程度 の , , ’Amer 一 応 の 目 安 を 得 て お き た い. 2 400 リ ー ブ ル( l ivre d ique)を 《l ivre tournoi s》 , に換 算 す る と1,600 リ ー ブ ル と な る. 他 方 Foリ ュ ー デ の 研 究 が 示 す と こ ろ によ れ ば 1789 年 当 時 , , のパ リの労働者 の日当(名目)は, 建築労働者で30 ス ー(20 ス ー で1 リ ー ブ ル) 石 工 職 人 40 ス ー , ,. 金額な の か,. 錠前職人あるいは大工職人で50スー, 彫刻師 金細工師などの熟練職人で100スーである( 4 ) 仮り , . に, 中間の綻前職人 あるいは大工職人を基準 にとるなら 1600リーブルという金額は640日分の日 ,, 当, つまり約2年分の賃金 に相当することとなる. 衣食等の費用がつ け加わるとしても わずか2年 , 分の賃金相当額で終身 労働を強制 しうるという角度からみれば 奴隷 はたしかに安価な労働力であ , り, 少 なくともそ の点, 普通3年 間しか拘束できなかっ たいわゆ る「年季契約奉公人」 ( )の engagさ 46.

(16) . 1) ハイチ革命研究序説 (1 比 で は なし・し, 「ク レオ ー ル の 子 供 を 一 人 前 に なる ま で育 て る 方 が20 歳 の ア フ リ カ 黒 人 を 買 うよ り. 5 ( )という奴隷主の見方も その限りでは 根拠をもっ てし・よう, しかしなが ら エケ家 も高くつく」 , , , の場合 がそうであるように, プランテーショ ン経営を一定水準で維持 しあるいはさらに増強するに は, 若々 しし・労働力としてのアフリカ黒人を絶 えず補給しなけれ ばならなかっ たという点からみれ ば, 大変高価な出費であっ たということができよう. 以 上, 主 と して ジ ロ の 研 究 に依 拠 し な が ら, 革 命 前 夜 サ ンニドマ ン グ に お ける プ ラ ン テ ー シ ョ ン と. その下での黒人奴隷の在り方を概観 してきた, 冒頭に述べたような資料上の制約のため に, われわ れ が垣間見 ることのできたのは, あくまでもその表層部分にすぎないことを十分認識 した上で, ま. 804 91年8月 の黒人蜂起にはじまり1 た, 前稿と本稿 における予備的考察にふま えて, 次稿では,17 年の独立宣言 に至るハイチ革命の展開過程 を追跡することとしたい, ハイ チ革命そのものが, 黒人 奴隷制植民地の構造的特質を逆 に照射することになるであろ う.. 註 iごre (1743一1799)“ i er Neuf de Saint-Domingue: Un Colon ( 1 ) G, Debien,”Dans un Quart ,une cafe , 諺化 P i 1 0 6 1 0 9 1 9 5 6 dans EZ 〆 XV 江戸 ね ) 一 A鰯 ” と の ( r a s ”β s s s e . . ,pp , , ’ ’ ‘Les or laves des Ant i l les OZ γ B”“ 〆8 r廓紡ぎ加『 FmれCαお すAルZ lgmes des’esc qz犯 人Z ( 2 ) Debien,‘ , , 及ばZ s3-4 ( i tome xx工X,S己r e B, No , ,789 , 1967) ,P. Z Z ( 3 ) Thesee, 〇わ . . .54-60 .C ,PP ( 4 ) Foリューデ 『フランス革命と群衆』(前川貞治郎, 野口名隆, 服部春彦共訳, ミ ネ ル ヴァ 書 房), 339頁, ’ i i -Domi nt ngue’ er Neufde Sa ( 5 ) Debien,”Dans un Quart .107 . ,p (本学助教授o岩見沢分校). 47.

(17)

参照

関連したドキュメント

しい昨今ではある。オコゼの美味には 心ひかれるところであるが,その猛毒には要 注意である。仄聞 そくぶん

題護の象徴でありながら︑その人物に関する詳細はことごとく省か

線遷移をおこすだけでなく、中性子を一つ放出する場合がある。この中性子が遅発中性子で ある。励起状態の Kr-87

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

社会的に排除されがちな人であっても共に働くことのできる事業体である WISE