東京の明治維新 錦絵にみる町方住民の意識と維新政府の統治
20
0
0
全文
(2) な意識を探る上での絵画資料の有効性などが注目される。. ではとらえ得ない明治初年の民衆意識の構造や、そのよう. 動する情勢のなかで佐幕か官軍側かといった単純な二分法. 筆者は、これまで幕末維新期の都市社会の実態を研究し てきたが、都市についても、右記の諸研究が提起する、流. での講演「東京の明治維新─危機に陥る「首都」で人びと. なお、本稿は、二〇一九年五月に開催された大阪経済大 学日本経済史研究所主催 黒正塾 第一七回春季歴史講演会. の一端を窺うのに適した素材だといえよう。. が重視される。その点からも、危機的状況下での民衆意識. 絵の画題に何を選ぶかは、錦絵の受け手の意識に沿うこと. 本稿では、これらの成果にも学びつつ、江戸東京に生きた. はどう生き抜いたか─」の前半部分を中心に、その後得た. (. 庶 民 の 維 新 変 革 を め ぐ る 意 識 の 一 端 を 探 り、 そ れ が、 寛. 知見を加えて再構成したものである。本稿では、維新期の. (. 政・天保改革以来為政者が苦慮してきた江戸東京の統治に. (. 旧幕臣の動向に触れた講演の後半部分については言及して. 一 江戸の人びとは新政府をどうみていたか. る。ここでは、それらのなかでまだ言及の少ない、商品や. の流通とその背景にある民衆の批判的精神が注目されてい. いては奈倉哲三により近年大きく研究が進み、政治的情報. 事件を次つぎに引き起こしていたのである。江戸市中は恐. 江戸薩摩藩邸に浪士・草莽らを集め、御用盗と称する強盗. ていた。西郷隆盛の密命を受けた薩摩藩士伊牟田尚平らが、. 慶応三 (一八六七)年一〇月の大政奉還以後、江戸では、 幕府との戦端を開くことを狙う薩摩藩による挑発が激化し. ) 錦絵「降御影街賑」. サービスの宣伝に種々の時事情報を加味するタイプの錦絵. 怖に陥った。その年の五月末には京・大坂、七月には東三. ( (. を取り上げ、当該時期の文献史料と照らし合わせながら見. (. いないことをお断りしておきたい。. (. ど の よ う な 影 響 を 与 え た の か を、 絵 画 資 料 も 用 い な が ら 窺ってみたい。 検討する時期としては、慶応三 (一八六七)年秋から明 治二年夏までの時期を中心とし、慶応三年から明治二年に かけて刊行されたいくつかの錦絵を分析対象とし、維新官. (. 河と西遠江でいわゆる御札降りを伴う、ええじゃないかの. 僚の書翰、町方住民の日記なども参照する。諷刺錦絵につ. 1. (. ていくこととする。商業的な目的を本旨として作成する錦. (. 2.
(3) 図 1 降御影街賑(国立歴史民俗博物館蔵). 乱舞がはじまっていた。近年、これを討幕派の企てとする (. (. 説は否定され、愉快犯的な行為を契機とする熱狂とされて. いるが、西国から東海道における御札降りやええじゃない. かの乱舞が薩摩・長州両藩を軸とする討幕勢力を利する状. 況を生んでいたことは確かであった。しかし、江戸では、. そのような状況は起こらなかった。ここでは、「降御影街. (. (. 賑」と題された錦絵を素材として、この時期の江戸庶民の 意識を探ってみよう。. 図 の錦絵「降御影街賑」は、一八六七 (慶応三)年一 二月の改印を持つ錦絵で、新春に上演予定の「碁太平記白. を集めた気合の入った体制での制作といえよう。. 向け脂ののった絵師国周に中堅を加えた三名と新進の彫工. 兵衛は有力な地本問屋の一人でもあり、新春の芝居興行に. 藤定吉 (彫工定) 、 版 元 は 人 形 町 具 足 屋 で あ る。 具 足 屋 嘉. 背景は同門の豊原 (橋本)周延と柳斎周秀が補筆、彫は遠. のぶの市村家橘を、大首絵を得意とする豊原国周が描き、. 文を述べる澤村訥升、主役宮城野の澤村田之助、相手役し. 石噺」を予告する錦絵である。「乍憚口上」と題した予告. (. このような強力な布陣が組まれているのは、新春興行と いうだけでなく、名優の名を恣にしてきた澤村田之助の復. 3. (. 1.
(4) 活興行という話題性のある興行だったという点も指摘でき よう。田之助は、持病の悪化に伴いジェームス・カーティ ス・ヘボンの執刀により左足膝上を切断するという不幸に. か。. ) 江戸の御札降りと「踊らぬ江戸」. たっても周到な体制が組まれたのである。. 行として企画された錦絵であった。それだけに、制作にあ. ね、新春を言祝ぐという、幾重にも目出度さを強調する興. 田 村 貞 雄 に よ る 詳 細 な 検 討 が あ り、 江 戸 で の 御 札 降 り は. 御札降りは続発していた。しかし、江戸ではそれが熱狂的. たとみられ、「降御影街賑」を見るまでもなく、江戸でも. 慶応三年夏から始まった西国、東海地域の御札降りとえ えじゃないかの熱狂の情報は、すでに江戸にも伝わってい. (. この絵のなかでは、御札降りは、訥升の「乍憚口上」で 語られると同時に、三人の役者の背景としてその情景も描. 「江戸市中の治安の極度の悪化に恐怖した庶民の切なる願. 見舞われていた。そのめでたい復活に御札降りの奇瑞を重. かれている。「ある夜、御札七枚、弟が宅の屁に降せゐひ. 望の表現というべき」であるが、 「世直しへの願望は基底. かの. ふた. (. (. な歓迎を得ることはなかった。この点については、すでに. し故、信心きもにめいじて、もつたいなくも彼御札ニて足. にあるとはいえ、解放感溢れた「ええじゃないか」を展開. たく (庇ヵ) くたら. をなでたるに、ふしぎやいたミもとかくばかり、是にてハ. しえなかった」点が指摘されている。その最大の理由は、. しんしん. ひ さ 〴〵 御 な つ か し き 御 ひ ゐ き の 御 尊 顔 拝 さ る ゝ 事 よ と. 薩摩藩の挑発による市中の治安悪化であった。 「降御影街. めの錦絵であった。では、この目論見は成功したのだろう. 呼ぶ話題であり、まさに時事的要素を組み込んだ宣伝のた. 札降りの奇瑞も、名優田之助の動向も人びとの強い関心を. が降る様子が描かれている。訥升の口上にあるように、御. 湯屋の軒端などに、伊勢神宮、水天宮をはじめとする御札. 大阪市立大学所蔵「奥三郎兵衛家文書」に含まれる「慶. 史料一点を紹介しておこう。. ものとして、田村貞雄の網羅的調査に含まれていない新出. は、そのような御札降りへの江戸の人びとの意識を物語る. はなく、江戸は「踊らぬ江戸」であったのである。ここで. 付近の木綿問屋の軒先が描かれ、田之助、家橘の背後には、 賑」に題名に込められた「賑」わいが町方に出現すること. (. ゆへ. て」という訥升の口上の背後には、御札降りがあった本町. 2. 4.
(5) 応丁卯霜月望日記簿」は、和泉国日根郡嘉祥寺村出身、江. 其 ま ゝ 船 を い だ し、 扇 橋 藤 屋 別 荘 へ 行、( 中 略 )夜 四. 右の史料には、柳橋の料理茶屋梅川付近から船で遊興に 出 か け る 際 に 川 面 に 札 が 降 り、 船 中 で 札 を 乾 か し て 芸 妓. ツ過帰省 (. 戸で魚問屋を営み幕府肴役所の取締役も勤めていた和泉屋 三郎兵衛の日記の一冊で、慶応三年一一月一五日に書き始 (. めた簿冊である。一二月二日には、次のような記述がある. 御札降りが身近に起こっていたことがわかる。芸妓は大事. ( 蓮 妓 )が 懐 に 入 れ た 様 子 が 記 さ れ て お り、 江 戸 市 中 で も. △梅川かた己ら柳橋よりやね船へ乗込候処、蓮妓も乗. に札をしまったとあるが、全体としては怪しみながらも格. (△は、筆者三郎兵衛が「珍事印」として記入したもの) 。. 船、既ニ出船ト存候処、空中ゟ守護札如きもの飛下、. 別に有り難がるといった反応はなく、三郎兵衛たちは予定. トアリ. 右ノ手下ニ小童蓮花を携ルアリ、左右ニ曰、 為悦衆生故 現無量神力 . 東都寿賀茂. 今一枚ハ文字斗りニシ而. . 奉信敬子育稲荷大明神 稲荷山霊感院 . (虫 損). 右之札なり、不取敢船中ノ戸■■西日ニ晒シ、又爐火 (虫損). △始末不分明ニ候得共風説. くの江戸民衆にも共有されていたと思われる。. まりかね」といった表現に見られる薩摩藩への敵意は、多. 日条であるが、「酒井様」という表記にたいして、 「薩もた. ていた。以下引用は、「慶応丁卯霜月望日記簿」十月二五. ている庄内藩酒井家管轄の新徴組との間では銃撃戦も起き. を代表する商人が軒並み襲撃され、市中見廻りを命じられ. 幕府財政にも深くかかわる本両替商中井新右門など、江戸. た。著名な酒問屋鹿嶋利右衛門、町方御用達仙波太郎兵衛、. 一方、三郎兵衛は、同年一〇月以降、多発していた御用 盗という集団的な強奪・殺人事件を警戒し怒りをみせてい. ハ、一枚ハ老人白狐を袖之下ニシ、其狐熱鍵を口ニ含、 通り遊興し帰宅している。. (虫損). 河 水 ニ 浮 ム、 蓮 姫 不 思 議 也 ト 申 ■ 故、 手 ニ と り ミ れ. (. ア テ ヒ ド ル、 蓮 姫 之 ヲ 懐 ロ ニ ス、 船 子 皆 ■ 怪 ト ス、. 5. - - - - -. - - - - -.
(6) 輪屋敷も同断、此火之口田町三丁目へ夜出候よし追々. 終は火かけ焼払ニ及、夫ゟ嶋津公屋敷も火をかけ、高. 人数㊉屋敷へ乱入、薩之士を或ハ殺害し、或ハ縛り、. もたまりかね、又々発砲いたしいたし候ニ付、酒井様. 邸─筆者注)へ懸込候よし、追々ニ打立被成候処、薩. 御繰出ニ相成候処、右浪人、七曲り之㊉屋敷 (薩摩藩. 処、酒井様方ニも弐三人手負人有之、夫ゟ直様御人数. は、戊辰戦争の勃発もあって行われなかったのである。. るはずはなく、それどころか、新春の訥升・田之助の芝居. あった。しかし、このような状況下で御札降りが歓迎され. だ芝居の興行宣伝、すなわち商業目的で刊行されたもので. 人びとの関心の高い御礼降りという時事的話題も入れ込ん. す一つの原因にもなっていくのである。 「降御影街賑」は、. 結果となり、薩長を軸とする新政府の統治の困難を生み出. になれば、それは一方で江戸市中の強い反発を引き起こす. 承り候処、芝御門ハ諸侯方抜身馬上ニて御固メ、或ハ. 「降御影街賑」の内容と板行時の市中の情勢を概 以上、 観してきたが、商業目的を兼ねた錦絵という点に注目する. 浪人体之者、芝三田三丁目酒井様屯所へ発砲いたし候. 生首を提、奔走いたし候者も見エ申し候、新し橋真田. と、いくつかの特徴が浮かび上がってくる。一つは、錦絵. ( マ マ ). 様門前御座候ハ数大名御固メ、橋上通路ニ成不申候よ. の 内 容 に は さ ま ざ ま な 種 類 が あ る が、 商 業 目 的 の 刊 行 で. (. し、中々一方ならぬ二第ニ御座候、江戸橋ハ、壱万石. あっても、時事的報道を組み込むことで人びとの関心を惹. (. ニシテ加様御固メニ候、江戸橋利介宅店先ハ、武士の. き効果があると予想される場合、積極的に報道要素を組み. (次 第). 休息所ニ相成候よし、今迄㊉強盗之風説有之候ニ付、. (. 込む戦略が取られることである。 「降御影街賑」にはその. (. 今日ニ至り発覚いたし候やニ相見エ申し候. (1. に、それまでの挑発事件の犯人が薩摩であったことが明確. ニ至り発覚致候やニ相見エ申し候」と言い切っているよう. 薩摩側は挑発の目的を達した。しかし、三郎兵衛が「今日. しい現象ではあるが、それに付随する新政府側への親近性. 時事的な報道の難しさも窺える。御札降りは、たしかに珍. う点でみると、「降御影街賑」は必ずしも成功しておらず、. ような制作意図がよく現れている。しかし、二つ目に、御 ㊉は薩摩藩を指すが、幕府軍を軍事行動に走らせようと する薩摩の挑発は、一二月末には右のような戦闘に発展し、 札降りを組み込むことが興行宣伝に効果的だったのかとい. (1. 6.
(7) かを瞥見しておこう。. 概略之処観察致候ニ、官軍之威令更ニ無之、旗下之徒. は、江戸の庶民感情にはそぐわないものであった。その点. はないか。もちろん「降御影街賑」の制作にあたってもそ. 頗軽侮を加へ、決て恭順之体ニ無之、甚以切歯憤懣ニ. からみれば、三つ目の特徴として、商業目的の達成という. のような配慮は十分になされ、それゆえ奇瑞として目出度. 不堪事ニ候、何分今日之形勢ニてハ、御威武厳然相立. 同年閏四月一〇日に関東大監察使として江戸行きを命じ られた三条実美は、到着後、岩倉具視に以下のように状況. さを強調する口上も書かれた。しかし、結果的には市中に. 不申而は何程寛仁之御沙汰も無詮事と相成可申存候、. 主目標を叶えるためには、顧客の関心の高さだけでなく、. 充満していた危機感や反薩摩の感情には合致せず、薩摩の. 徳川家御処置之処も未発表不仕候、緒戦旗下鎮定ハ見. を書き送っている。. 戦略が見えてくるにつれて的の外れた宣伝に終わったとみ. 留 無 之、 必 戦 ニ 相 成 候 勢 と 存 候、( 中 略 )今 日 当 府 之. その内容が顧客の心情に沿っていることが重要だったので. られる。. (. 政治の行方を見つめながらも、新政府への反感を隠すこと. 前年以来の経験をもつ江戸の民衆は、固唾をのんで戦局と. 八)年四月江戸城を接収し統治に着手することとなった。. 以上、若干の資・史料から江戸の民衆感情を垣間見てき た が、 新 政 府 軍 は こ の よ う な 状 況 下 で、 慶 応 四 ( 一 八 六. であった。これによって、旧幕府方を一日で鎮圧、市中を. が実行に移され情勢を変えたのは、五月一五日の上野戦争. 三条は武力鎮圧以外に手段はないと考えていた。この判断. ていた時期である。新政府の威令が通じない状況のなかで、. 江戸開城後とはいえ、戊辰戦争は関東でも一進一退でそ の帰趨は定かではなく、江戸湾の制海権も旧幕府方が握っ. (. 形勢ニてハ、二百万石を賜候而も旗下沸騰致候時ハ可. 致、八十万石ニても鎮定可致ハ鎮定致候. はなかった。ここでは、江戸開城から本格的な東京統治が. 圧倒した新政府は、ようやく江戸における統治行政に着手. ( ) 新政府軍の江戸開城から東京統治へ. 始まる明治元年秋までの動向を概観しながら、江戸・東京. することができるようになったのである。. (1. の民衆統治が新政府にとっていかに困難な課題であったの. 7. 3.
(8) 新政府は、五月一九日に江戸鎮台を設置し、寺社、町、 勘定の旧三奉行所を廃止、市政、民政、寺社裁判所として. が終結すると、九月以降、新政府の課題は、天皇の東京行. 駿府七〇万石に封じた。この段階でようやく新たな体制作. らかに固定的に与するとは限らず、状況に応じ自らの欲求. はじめにで述べたように、江戸周辺地域で展開した戊辰 の内乱期の民衆については、近年、旧幕府と新政府のどち. 幸実現に集約されていく。. りに着手することが可能になったのである。三条は、岩倉. や必要に即して主体的な政治判断を行う姿が明らかにされ. 旧幕府の統治機構を継承し、五月二四日には、徳川家達を. に 宛 て て、「 今 日 之 当 地 之 形 勢、 先 大 体 ニ 鎮 定 可 仕 見 込. てきた。また、江戸の場合、新政府に対する批判と諧謔に. ( (. 候 」 と 書 き 送 っ て い る。 こ れ ら の 新 設 の 機 関 は、 名 称 と トップの人事だけを入替え、実質的には旧幕府組織をその ま ま 継 承 し た も の で あ っ た が、 新 政 府 は、 七 月 一 七 日、 「江戸ヲ称シテ東京トセン」との詔書を出し、八月二〇日 烏丸光徳を東京府知事に任命、本格的な東京統治を開始し た。. (. (. しかし、新政府は旧幕府の統治機構と技術/能力の掌握 は進めたが、六月段階で三条が「中々関東之人心、近畿西. ( 江 戸 親 征 )に よ っ て 民 衆 に そ の 威 令 を 知 ら し め る 以 外 に. そ の 手 段 は、 天 皇 権 威 の 押 し 出 し、 す な わ ち 天 皇 の 東 征. はきわめて難しい課題であった。そして、新政府にとって. 軍事的制圧はしたものの、新政府の統治を安定させること. 国之比ニ無之候間、余程難治被察候」と述べていたように、. (1. はなかった。八月、会津藩降伏によって東北での戊辰戦争. 図 2 当世三筋のたのしみ(国立歴史民俗博物館蔵). (1. 8.
(9) の状況も明らかにされている。例えば、東征軍が江戸城を. あふれる諷刺錦絵を制作・販売し、それを受容した人びと. その詳細な実行過程をめぐってすでに多くの研究があり、. 幸 (親征)である。この東幸については、政治史的意義や. 験は、明治元 (一八六八)年一〇月と翌年三月の二度の東. ( (. 接収した後、四月頃の状況を描いたとされる「当世三筋の. (. また、近年では、前述のように、諷刺錦絵などによる研究. た幼い子ども─すなわち、薩長軍にかつがれた無力な存在. 政府が依拠しうる唯一の権威である天皇は、長州に抱かれ. 若干の新たな資料を提示し、一度目の東幸と比較してみた. 治二年 (一八六九)年三月に行われた第二回東幸について. も進んでいる。本節では、これらの研究を参照しつつ、明. (. たのしみ」を見てみよう (図 ) 。 こ の 錦 絵 に お い て、 新. として描かれていた。衣服の図柄などで人物を暗示するこ. る。. い。その上で、新政府の民衆に向けた施策、特に新政府と. りする子どもとして描かれており、天皇権威などまったく. れらの諷刺錦絵では、天皇は、「金将」柄の着物を着たり. 感じていない江戸東京の民衆の天皇観が垣間見える。民衆. (. 板行の種類は極めて多く、現在五二種類の画が確認できる (. らかであった。. という。奈倉は、第一回東幸をめぐる動きを描く錦絵に共. 判元の個性、その技量などにより、東京府の設置と新たな. 状況を実見するなどして制作されたものがあるが、絵師や. 駕する前に想像によって刊行されたものと着駕後に行列の. ること、また、錦絵には、実際に一〇月一三日に天皇が着. 戦を忌避する多くの江戸・東京市民の願望が反映されてい. 通する要素として、 「天下泰平」や「四海安穏」など、内. (1. ( ) 第一回東幸と「天杯頂戴」. 二 新政府の東京の民衆統治. ろうか。. では、このような天皇観を払拭し威令を示し有難みを感 じさせるために、新政府はどのような対応をとったのであ. の意識のなかには天皇の権威など存在していないことは明. 奈倉哲三によれば、明治元 (一八六八)年一〇月第一回 東幸と、これに際して行われた「天杯頂戴」や府内行列の. 天皇に対する民衆意識への対応という点にしぼって検討す. 2. 「金」の文字を描いた腹掛けをし、金魚などを手に持った. (1. (1. 天皇の存在を江戸東京の民衆が身近に感じた初めての経. 9. 1.
(10) 接的に働きかけえるイベントとして強い印象を与えたこと. 賜する「天杯頂戴」の絵が少なくないのも、民衆に向け直. 語っており、東幸に際して行われた、府下の各町に酒を下. にしても、錦絵の枚数の多さは、人びとの関心の高さを物. 張が多様なものであったことを明らかにしている。いずれ. べたという。還幸は実行されたが、翌明治二 (一八六九). の大業を謀る者、豈東を棄てて西に去るべけんや。」と述. 京を失はざれば則ち天下を失ふことなし。……苟くも天下. は、日本全国の盛衰高配に関す。縦令京摂を失ふとも、東. 東幸で天皇が還幸することにも強く反対し、 「東京の盛衰. 二回目の東幸は必至であり、三条実美に至っては、一回目. 府のなかで次第に共有されるようになっていたのである。. を示しているともいえよう。新政府にとって、第一回の東. 年三月には第二回東幸が実行され、三月二八日に東京城に. 統治の開始という状況における諷刺の内容や込められた主. 幸はひとまず無事に終わった。. 東京に太政官が移され、事実上の遷都 (東京奠都)が行わ. (. しかし、東幸の責任者として東下し二代目東京府知事と な っ た 大 木 喬 任 (肥前藩士)や、 大 木 と と も に 翌 二 (一八. れることとなった。. ) 第二回東幸と吹上苑拝観. ノ人情ヲ鎮静スルヲ以テ一筋の目的トナセリ、仍而処置ス. はなかった。そのような感情を抱く民衆に向けて、 「重仁. とはいえ、第一回東幸によって幕末以来の新政府への反 感、なかんづく薩摩藩を忌避する感情が払拭されたわけで. (. 入った天皇は京都に戻ることなく、東京城を皇城と改称、. (. 六九)年五月まで東京府政に関わった江藤新平からみれば、. 第一回東幸によって東京統治の自信を得たとは言い難い状 況であった。江藤新平は、明治二 (一八六九)年春、この. ル処、務テ人情さわらざる事をのみなセリ、且重仁の御主. の御主意ヲなんとなく流宣」する必要は、依然として強く. (. 意ヲなんとなく流宣セしヲ目的トナセリ」と述べている。. 意識されており、その一つが第二回東幸に先だって行われ. (. 東幸は薄氷を踏む思いのなかでの成功であった。そして、. (. た、市中の士民への旧江戸城吹上苑公開というイベントで (. 全国統治体制を確立するためには、行幸にとどまらず、天. 間の状況について、「旧冬来苦慮スル処のものハ、唯都下. (1. あった。. 2. 皇が東京に移住し東京を事実上の首都とする必要性が新政. (2. (1. 10.
(11) (. (. によれば、この計画は、公開の指示が行政官から府に宛て. に苑内の拝観を許可するというものであった。東京府文書. 二月二三・二四・二五日の三日間、男女士民を問わず自由. 市中民衆が立ち入る機会は、名主たちの「御能拝見」など. 相当数の士民が殺到したとみてよい。もともと旧江戸城に. た。実際の拝観者がどの程度であったのかは不明であるが、. さらに、公開二日目には、半蔵門付近で番士に制されて 拝観者が倒れ、八名が圧死、怪我人六名という事故がおき. われた。. て出されており、政府中枢による発案であるとみてよい。. に限られており、吹上苑の全面公開は、江戸城建設以来、. まずその概略を紹介しておこう。この公開は、吹上苑の 清掃期間に見学を許可するという名目で行われ、明治二年. これを受けて、取締りのため、府内一六二六町と浅草寺寺. りを担当する東京府役人の出役の割振り案が裁可されたの. ことが名主を通して指示されている。しかし、実際に取締. 前に広く予告し、行幸前から錦絵が刊行されるような計画. い。その理由としては、ひとつは、第一回東幸のように事. しかし、かなりの関心を呼んだと思われるこの企図につ いて、残された史料は少なく、錦絵もほとんど見当たらな. 中三四院配下の合計人口五五万七三人を三日間に割り振り、 初めての予想外の出来事だったからである。. は二月二〇日と、わずか二日前に人数/日割りが決まる慌. 的な企図ではなく思い付きのレベルのものだったことがあ. 一日当り町方だけで一七~一八万人以内となるようにする. ただしさであった。吹上苑拝観は用意周到に準備されたわ. き立つ春の気分に重ねて人びとの歓心を買い、再幸成功へ. 旧暦二月二三日は、新暦でいえば四月四日、桜も満開で浮. ない結果に終わった点も大きな理由なのではないだろうか。. 流宣という目的は達せられず、結局、人びとの共感も呼ば. ではあっても、企画の目的、すなわち「重仁の御主意」の. けではなく、直前の思い付き的な発案であったとみてよい。 げられる。しかし、より重要なのは、関心を呼ぶイベント. の地ならしとする思い付きだったのだろう。東京府役人の. ここでは、その一例として、豊原国周画「花競廓全盛」と. (. 出役だけでは警備が不足であることがわかり、城内取締の. いう錦絵を見てみよう。. (. 担当から坂下門番士を三〇人補充すると決まったのは、公 開の二日目であり、イベントはいかにも泥縄の状況下で行. 11. (2. (2.
(12) 図 3 花競廓全盛(個人蔵). 図 4 (部分) 図 5 (部分). (. ) 錦絵「花競廓全盛」. ) 。 内 容 は、 題 名 の 通 り、「 廓 」 す. の美人画は幕末以来少なくない。. つ描かれた大判の三枚組で、同様の趣向. 三人とそれに付き随う禿が一紙に一組ず. 濱村 (角町中万字屋弥平抱え遊女濱村)の. 、中卍 一丁目大黒屋金兵衛抱え遊女今紫). 、大金今紫 (江戸町 庄三郎抱え遊女小稲). 描 く も の で あ る。 稲 本 小 稲 ( 角 町 稲 本 屋. なわち新吉原遊廓の代表的な遊女の姿を. (図. 印 で あ る が、 彫 師 の 名 は 不 記 載 で あ る. この錦絵は、豊原国周画、判元は馬喰 町四丁目木屋宗次郎、明治二年四月の改. 3. 3. 体的な男女や風景は必ずしも主題を効果的に浮き上がらせ. 遊女を描くのにふさわしいものの、実際に描き込まれた具. としてみれば、満開の桜咲く庭園という背景は主題である. いるが、遊女が庭園に遊ぶ風景というわけではない。絵画. られる。背景には広大な庭園と数名の男女の姿が描かれて. しかし、この絵は、遊女を描く美人画 としては、その背景の描き方にやや変わった趣向が見受け. 図 6 (部分). 12.
(13) を意味し、何のために描かれているのだろうか。結論を先. 与えているようにも見えるのである。では、この背景は何. る効果を生んでおらず、むしろ絵画に錯綜したイメージを. いた下駄を腰に括り付け池の中に立って滝を見上げる男性. としては精一杯着飾った姿といえよう。もう一人、履いて. びで、簪や桃色の手柄で髪を結い上げるなど、町方の女性. 見を楽しむリラックスした風情は見られない。泉水には飛. は、供は連れておらず町方の男性と思われる。. もう少し詳しく見てみよう。背景の庭園には、満開の桜 が咲き、泉水、滝が流れ落ちる築山の風景が描かれ、遠く. び 石 が 置 か れ て い る に も か か わ ら ず、 女 性 は 裸 足 で 池 を. に述べるならば、実は、背景とされているのは、前述の吹. には園内の四阿のような建物の屋根や石塔などが点在する。. 渡っているが、着飾った町方の若い女性にとっては不本意. 上苑公開の様子をイメージしたものと考えられるのである。. 遠近の描き方という点からみると、広大な庭園であること. な状況であろう。下駄を提げた町人男性以上に、違和感を. これらの人びとは、庭園の様子も承知していないのか、 絵の中ではいずれも物珍しげで不慣れな様子で描かれ、花. が強調されているといえよう。一方、直近の位置に描かれ. 感じさせる情景である。つまり、絵の背景に描かれている. のは、庭園の巨大さと、花見の季節にもかかわらず不慣れ. ている泉水のほとりに立つ二人の男性 (図 ) 、池のなか を裸足で歩く女性が二人 (図 ) 、さらに首をかしげるよ. る風情である。一方、裸足で池を渡る女性は遊廓の女性で. 池のほとりの二人連れの男性は脇差を身につけた町人と みられるが、片手をかざし池を渡るかどうかためらってい. いる。. 象を与えており、絵の統一感が損なわれたようにもみえる。. 遊女を引き立たせるというより、むしろ絵に雑然とした印. 人の遊女は、それとは全く無関係なのである。背景の図は、. さや落ち着きのない人びとの姿であり、前面に描かれる三. はなく、裾を持ち上げる年配の下女をつれた町方の若い女. では、この背景はいったい何を描いているのか。前述の ように、ここでは、これを二月末の吹上苑公開を描くもの. うな姿勢で滝をみている男性の後ろ姿 (図 )が描かれて. 性である。この女性は、前面に配置された三人の遊女に比. とみておきたい。吹上苑の公開は江戸開闢以来のことであ. 色彩の華やかさという魅力はあるものの、前面に描かれる. べれば地味な紺地の裾模様の着物姿であるが、大きな帯結. 13. 4. 6. 5.
(14) くの錦絵が描かれるといった状況もなかったため、企画を. 一回東幸のように新政府から十分に周知され東幸前から多. 前に十分に周知されたものではなく突然の開催であり、第. 経過した四月であるが、二月末に行われた吹上苑公開は事. 盛」の改印は、公開された明治二年二月末から一ヶ月以上. で は な い。 む し ろ 当 然 の こ と だ っ た だ ろ う。「 花 競 廓 全. 珍しいこととして注目され、錦絵の題材となるのは不思議. ことがない。その珍しいイベントが時事報道にふさわしい. この吹上苑公開の二日目には、人びとが殺到し圧死者八 名という事件が起きており、広い関心を呼び起こす催しで. フィットするものだったのだろうか。. う に 表 面 的 に は 祝 祭 的 気 分 を も た ら し、 人 び と の 心 情 に. る。では、吹上苑公開というイベントは「天杯頂戴」のよ. 道内容が人びとの心情に沿ったものであることは必須であ. 安を感じさせて商業目的を損なうことはできない。その報. を加えることで人びとの関心を引こうとする際、反感や不. である。前章でみたように、商業目的の錦絵に時事的報道. うイベントを東京の民衆がどのように受けとめていたのか. 立て、資金調達の目途をつけ実際に制作するまでの期間を. あったのは間違いない。しかし、一方で、圧死事件につい. り、この拝観以後全面的な公開は今日に至るまで行われた. 考えれば、改印が四月にずれ込むのは不思議ではない。. 二月二七日に太政官に次のように報告している。. (. である。. い不慣れな表情の人びとの姿が描かれているのかという点. 見を楽しむ華やかな祝祭的雰囲気ではなく、落ち着きのな. イベントそのものを主題とする絵にしないのか。しかも花. らず、なぜ美人画の背景という中途半端な取り上げ方をし、. あろう。すなわち、極めて珍しい行事であったにもかかわ. (下略). 通印紙之請書為差出候間、則差進申候間、御休意希候. 乍申、甚心痛仕候、依之猶又再応頂戴人呼出、別紙之. を流し、御官え対し御疑惑を掛候段、愚俗之風聞とは. ゟ申触候哉、壱人ニ付金六七両ゟ外御渡無之抔と悪説. 共呼出怪我人壱人ニ付金弐拾五両宛下賜候処、何もの. 吹上御庭拝見之節怪我致し候もの共え、昨廿六日親類. (. ては、政府への悪説が流布していることを、東京府判事が. しかしこの背景を吹上苑拝観だとする見解を確定するに は、さらに次の点を明らかにしておかなくてはならないで. この点を考察するうえで鍵となるのは、吹上苑公開とい. (2. 14.
(15) れなかったのは当然の結果であろう。. 勢にあった。吹上苑拝観を歓迎する祝祭的な錦絵が作成さ. 府への反感や抵抗が噴出しかねないというさらに厳しい情. 明治二年の東京は、次節にみるように、油断をすれば新政. で描かれた/描かざるを得なかった素材であった。しかし、. 判をテクニカルな手法でひそかに込めたにせよ、祝祭一色. ことでもある。前年の「天杯頂戴」は、絵師らが皮肉や批. 開という企画が逆効果を持つという危険すらあったという. あるが、逆にみれば、新政府への悪説が喧伝されれば、公. を流宣するためには決しておざなりにはできなかったので. るという、異例の手厚い対応をとった。「重仁の御主意」. このとき東京府は見舞い手当として三〇〇両準備し、死 者一人あたり二五両、怪我人には一人五両二分づつ下賜す. ら逆算した新吉原・深川の売り上げ高は、慶応三 (一八六. 幕期以来、売上の一割を上納していたが、この上納金額か. らも、その苦境が窺える。新吉原および深川遊女屋は、旧. 「花競廓全盛」制作に関わった新吉原遊廓の遊女屋も同 様で、新吉原および深川遊廓の東京府への上納金の状況か. 市東京は衰微の極に陥っていたのである。. 敷を相手とする職人、商人は大きな打撃を受けていた。都. の数多くの武家奉公人も働き口を失うだけでなく、武家屋. により武家人口が激減し、武家屋敷で働く百姓・町人出身. 変えた巨大都市は、参勤交代による大名・武士の大量帰国. の人別調査では六七万人にまで急減していた。東京と名を. この時期は、維新後江戸がもっとも衰微していた時期で あり、一〇〇万人を超えていた人口は、明治三年閏一〇月. 七)年八月~翌慶応四年七月までの一年間に合計二三万両. (. (. 余であったものが、慶応四年八月から明治二年七月までの. では、吹上苑拝観前後以降明治二年夏にかけての東京の 情 勢 と は ど の よ う な も の だ っ た の だ ろ う か。 こ こ で は、. 置が許可され、新吉原との競合もはじまったため、新吉原. 元年一一月、居留地付き遊廓として新島原に新たな遊廓設. 一年間には一五万両にまで落ち込んでいた。しかも、明治. 「花競廓全盛」が出版された時期的な特徴をさらに検討し、. はさらに厳しい競争にさらされていた。このような状況下、. ( ) 明治二年春~夏の東京府政をめぐる情勢. なぜ前述のような背景が描かれたのかをさらに考えてみた. 一部の有力な遊女屋のなかには積極的な経営に打って出る. ( (. い。. 15. (2. 4. (2.
(16) も多かったとみられるが、江戸に残った者のなかには、職. 新政府官員などの新たな顧客の登場もあり、新吉原遊女屋. どの錦絵が確認できる。都市全体としては衰微しつつも、. える稲本屋はとりわけ積極的で、管見の限りでも、五種ほ. プがある。なかでも、「花競廓全盛」で描かれた小稲を抱. 的な遊女を選び出し集合的に描くものなどさまざまなタイ. それらは、単独の店で出版したものや、複数の店から代表. 女をクローズアップしたりする錦絵がしばしば登場する。. 幕末維新期、遊廓を描く錦絵のなかには、店内部の豪華 な設えのなかに有力な遊女を配置したり、大判三枚組で遊. のうち病死・出奔が三割を占めた。. 所の過酷な環境下では、最初のひと月で九五五人の収容者. 三田、麹町、高輪に設置した救育所に送り込んだが、救育. 小金牧の開墾授産や蝦夷地開墾に送り込み、傷病者などは. に採用した人返し (強制移住策)と同様、働ける者は下総. く上回る約一万人に及んだ。東京府は、江戸幕府が天保期. た府下の物貰いの数は、当初の見込みの四三〇〇人を大き. 記 (弾左衛門)が明治二年八月二九日付で東京府に提出し. ことで苦境を脱しようとする動きも生まれていた。. 間の生き残り競争の反映ともいえよう。「花競廓全盛」に. また武士層に目を向けると、旧幕府時代に薩摩藩と闘っ た新徴組のような反政府残党だけでなく、戊辰戦争を戦い. を失い乞食になる者が激増した。関東のえた頭である弾内. 描かれた遊女のうち、濱村を抱える角町中万字屋は翌明治. 抜き倒幕に貢献したという強い自負と強烈な朝臣意識をも. (. 三 (一八七〇)年春の「吉原細見」には姿がなく退転した. ちながら偽官軍として処刑された赤報隊のように、正当な. えられない状態だった。. (. とみられ、不況と競争の厳しさがうかがえる。局見世を除. 処遇を受けずに切り捨てられていくことを感じる草莽や郷. (. いて、 「新吉原細見」に記載された遊女屋数は、慶応四年. 士、脱藩士などが反発を強め、要人や外国人へのテロが抑. 少していた。. 新政府は、これらの市中町方住民と脱籍浮浪士の取り締 まりのため、身分ごとに戸籍を編製し、脱籍浮浪を取り締. (. 正月一五七軒であったものが、明治三年春には九四軒に減 ( (. このような急激な人口減とそれによる大不況、さらに新 政府に対して新たにうまれてくる政治的反発は、新政府の. (2. まる政策をとった。同明治二年三月・九月に行われた東京. (2. 東京統治を不安定化させるものであった。江戸を去るもの. (2. 16.
(17) り候。実にあきれる事」が多いと述べ、次のように府下の. 岩倉具視に宛てて、東京の世情は、「当地の形情、得と承. 盛」が作成された明治二年四月、議政官参与大久保利通は. 武 家 地 に お い て は ほ と ん ど 機 能 し な か っ た。「 花 競 廓 全. ける人口把握はある程度すすんだとみられるが、荒廃した. を把握するための極めて詳細な規定が定められ、町方にお. 府の戸籍編製では、町方において空間ごとにすべての住民. 来の宣伝目的も損ねるであろう。以上の点をふまえて考え. 実とかけ離れてしまえば、市中の風潮との乖離が広がり本. ずしも求められてはいない。しかし、それがあまりにも現. とする場を売り出すものであり、リアルな事実の紹介は必. と遊廓という江戸の二大悪所と呼ばれる遊蕩気分を不可欠. みてきた時事的報道を加味した商業目的の錦絵は、芝居町. な情報を組み込むのは極めて困難なことであろう。本稿で. していく時期に、めでたい気分を演出できるような時事的. て見ると、錦絵「花競廓全盛」は、満開の吹上苑という華. 危機的状況に切迫感を強めていた。 即今内外の大難、皇国危急存亡の秋、切迫すること間. 筆者は、全面的な錦絵の分析を試みる力はないが、近世 の遊廓研究を通して、幕末維新期の遊廓や遊女などを描く. おわりに. それを描いた錦絵ともいえるのではないだろうか。. 不安と好奇のない交ぜといった人びとの気分の接点を探り、. る人物を描くことで、遊女の押し出しという本来の目的と、. やかな庭園のなかにどことなく落ち着きのない表情をみせ (. 髪を入れず……、天下人心政府を信じず、怨嗟の声路 (. 傍に喧々、真に武家の旧政を慕うにいたる. (. 懇々御前において建言に及び候事. (. 行された「降御影街賑」と「花競廓全盛」を取り上げ若干. 持つようになり、本稿では、明治元年から二年にかけて刊. 減ぜられ、在官一同月給を減じ御救恤有らせられたく、 絵が、どのような意図で制作され受容されたのかに関心を. 民御救助の儀、甚だ切迫仕り候。恐れながら、供御を. 小御所へ出御。例の通り議事これあり。右畢りて、窮. に対して事態の切迫を述べたという。. は官員の給与の五分の一返上が命じられた。吉井は、天皇. 同年八月二〇日には、天皇の食費削減、官員の給与減を 行うべきという薩摩藩士吉井友実の建言があり、六日後に. (2. 以上のように東京市中が危機的状況に陥りそれが深刻化. 17. (3.
(18) の検討を加えてみた。その結果、錦絵が、制作主体の意図. (. )に記したイエール大学での国際. 期の社会と空間─』(山川出版社、二〇一八年)をあげ ておく。後者は、注 (. its Afterlives: Social Change and the Politics of. ) 二〇一七年九月一五日~一七日イエール大学東アジア ) 主 催 The Meiji Restoration and 研 究 委 員 会( CEAS. シンポジウムの報告の一部である。. 2. Revisiting Japan's Restoration:. 力」 (吉田伸之・伊藤毅編『伝統都市 権力とヘゲモ ニー』東京大学出版会、二〇一〇年)、参照。本稿も、. 体』 ( 山 川 出 版 社、 二 〇 〇 五 年 ) 、 拙 稿「 解 体 さ れ る 権. 版会、二〇〇五年)、拙著『明治維新と近世身分制の解. 研究会編『日本史講座 第七巻 近世の解体』東京大学出. 「近世身分制の解体と明治維新」 (歴史学研究会・日本史. が 選 び 取 ら れ て い っ た と い う 見 地 に た っ て い る。 拙 稿. 過程における政治的葛藤のなかで近世社会の制度的解体. によって維新変革がなされたわけではなく、維新史の諸. について、明確な近代社会の構想をもつすぐれた指導者. 差異があることは指摘しておきたい。筆者は、明治維新. て、近世史研究の到達点をふまえるという点でかなりの. 。いずれもにおいても、視角の多様化は顕 Perspectives 著であったが、海外の諸研究と国内のそれとの違いとし. Interregional, Interdisciplinary, and Alternative. 学 人 文・ 社 会 科 学 部 主 催. Commemoration 於: イ エ ー ル 大 学 エ ヴ ァ ン ス・ ホ ー ル、二〇一八年九月二六日~二八日国立シンガポール大. 2. と刊行時期の社会情勢の交錯のなかで制作されるだけでな く、錦絵の享受者である民衆の意識がいかに絵の内容にか かわるかについて、その一端を窺うことができたと考える。 幕末維新期の錦絵の分析は、美術史研究にとどまらず、 近年では、政治史や民衆思想史の有力な研究素材として注 目されている。また、染料や料紙などに注目し、科学的分 析を通じて描かれた時期や流通過程の復元を行うなど、多 角的な研究も進められている。ご教示を乞う次第である。 最 後 に、 本 稿 執 筆 と 大 阪 経 済 大 学 日 本 経 済 史 研 究 所 黒 正塾・春季歴史講演会講演と本稿執筆の機会を与えてくだ さった同研究所に改めて謝意を述べ、擱筆したい。. ( ) 維 新史研究の多様化は、明治維新史学会編『講座明治 維新』全一二巻(有志舎、二〇一〇~一八年)の各巻タ イトル名をみただけでも明らかであるが、ここでは、明 治維新一五〇年を機に出された多くの書籍・論文のうち 代表的なものとして、奈倉哲三・保谷徹・箱石大編『戊. 孝・吉田伸之編『 「明治一五〇年」で考える─近代移行. 辰戦争の新視点』 〔上 世界・政治、下 軍事・民衆〕 (吉川弘文館、二〇一八年)、ダニエル・ボツマン・塚田. その葛藤の過程の一局面を具体的に明らかにするという. 2. 1. 18.
(19) いを記憶する百姓たち─江戸時代の裁判学習帳─』吉川. ) 国 立国会図書館憲政資料室蔵「岩倉具視関係文書」二 六三。横山伊徳「 「 鎮 将 府 」 考( 上 ) ─ 慶 応 と 明 治 の は. い。. あったはずであるが、この点についてはここではふれな. 弘 文 館、 二 〇 一 七 年 ) 、演目の選定にも種々の配慮が. (. (. (. (. (. (. 課題意識による。. (. H-22-. 「ええじゃないか」の諸段階と伝播地図」 ) 田 村貞雄「 (『国際関係研究』二八巻三号、二〇〇七年)。. ) 一 八六七(慶応三)年、国立歴史民俗博物館蔵. (. 頁。 「慶応丁卯霜月望日 A1-02. ) 国 立国会図書館憲政資料室蔵「岩倉具視関係文書」二 五四。. ざまに─」 (『人民の歴史学』七二、一九八二年)参照。. 12. ( ) 注 ( )『戊辰戦争の新視点』下巻所収の宮間純一論文、 奈倉哲三論文などの諸論考。 (. ) 奈 倉哲三『諷刺眼維新変革─民衆は天皇をどう見てい たか─』 (校倉書房、二〇〇四年)、同『絵解き幕末諷刺. 画と天皇』 (柏書房、二〇〇七年)、同『錦絵分析 天皇 が東京にやって来た!』 (東京堂出版、二〇一九年)な ど。拙稿「銭の喧嘩」 (国立歴史民俗博物館蔵、池享・ 櫻井良樹・陣内秀信・西木浩一・吉田伸之編『みるよむ あるく 東京の歴史 通史編 江戸時代』吉川弘文館、 所収)でもその一例を検討したことがある。 ( ) 本 稿の記述のうち、特に出典を記さないものは、拙著 『江戸東京の明治維新』 (岩波書店、二〇一八年)による。. 2. 。 114 ( ) 田 村 貞 雄「 幕 末 江 戸 に お け る 御 用 盗 の 横 行 と 御 札 降 り」 ( 『国際関係研究』二八巻一号、二〇〇七年)二五七 (. ) 右 同二二五。. )奈 倉 哲 三. )「 当世三筋のたのしみ」については、奈倉哲三『絵解 き幕末諷刺画と天皇』 (柏書房、二〇〇七年)を参照。. ( ) 第 一 回 東 幸 を 描 く 錦 絵 に つ い て は、 注. )拙著三九頁で表題の通り内桜田門を描くと. 同書による。. ) 佐 賀県立図書館蔵「江藤家資料」二八一─ 政改革経過及見込」。. 「東京市. ) 奈 倉哲三『錦絵解析 天皇が東京にやってきた!』所 収「第一回東幸錦絵総覧」。以下研究状況については、. した部分を西丸大手門前に訂正する。. あり、注 (. 付けたことにも民衆の願望が込められているとの指摘が. 田門ではなく西丸大手門前であり、実際と異なる題目を. (国立歴史民俗博物館蔵)で描かれた場所が題名の内桜. 『錦絵解析 天皇が東京にやってきた!』が詳しい。な お、同書一七二頁で、歌川国輝画「東京十二景 内桜田」. 4. 6. ) 大 阪 市 立 大 学 蔵 奥 家 文 書 記簿」一二月二日条。. (. 5. 2. 13. 15 14. 16. 17. 18. 6. ( )『 歌舞伎年表』第七巻(岩波書店、一九七三年)。 ( ) こ の興行の演目「碁太平記白石噺」は、政治批判を内 包するものであることが指摘されており(八鍬友広『闘. 19. 1. 3. 4 5. 7 8. 9 11 10.
(20) 時事的な情報を含むものではない。この外、詳細は省く. に掲げたもののほか、個人蔵のものがある。こ ) 注 ( ) れらの出版の資金源など、詳細は未検討である。. 積極的な広報戦略をとっている。. が、異国風の豪華な壁面装飾の浴室に遊女たちを描いて. なっており、具体的な情報を含むものではなく、後者も. ( ) 原 (塙書房、一 口清『明治前期地方政治史研究 上』 九七二年)一三六頁。. 新奇さを狙う錦絵など、いくつかの有力な見世も同様の. (. ( (. 「慶応四年新 ) 東 北大学附属図書館蔵狩野文庫宇 7-859 吉原細見」(玉屋山三郎蔵板)と明治三年東京大学附属. 26. もなう町の合併/整理、中・添年寄設置などの大きな改 変があった。この改変に際して、町方からの大きな反発 などはなかったとみられるが、この改変に備えての吹上 苑公開であったとも考えられる。 『東京市史稿』市街篇五〇、 〔附記一〕 ) 以 下の記述は、 吹上苑拝観、四二〇~四二五頁による。. (. ( ) 第 二回東幸に先立つ町方の変化としては、三月一〇日 には旧幕期以来の名主制廃止と五十区制導入、それにと. ( (. 錦絵については、国立歴史民俗博 ) 個 人蔵。なお、この ジェンダー 物館企画展示図録『性差の日本史』一九六頁、六─二七、. 書六一─二「記臆二」よる。 ) 新 吉原稲本屋に関わるものでは、明治元年「全盛春の. よそほひ」 (個人蔵)、国立歴史民俗博物館蔵 H-22-126 明治三年「新吉原稲本屋全盛揃之図」 (国立歴史民俗博. 物館企画展示図録『性差の日本史』一九六頁、六─二四、 六─三〇に掲載)。ただし前者は、遊女が浮き上がるよ. 27. ) 大 久 保 利 謙「 版 籍 奉 還 の 実 施 過 程 と 華 士 族 の 生 成 」 ( 『国史学』一〇二、一九七七年)五頁、参照。. 「明治三年新吉原細見記」 (明治三年 図 書 館 蔵 G26-776 午春玉屋山三郎蔵板)による。. 28. (よこやま ゆりこ・国立歴史民俗博物館教授). ) 宮 内庁所蔵三五三五八「三峰日記」(吉井友実日記) 。. 29. 30. に掲載。. 5. 「東京府御開書留」 、明治元年八月からの一年 605.A4.01 間の府収入は、国立国会図書館憲政資料室蔵大木喬任文. ( )より引用。 ( ) 注 ( ) 拙著参照。 ( ) 以 下、注 ( ) 慶 応三年からの一年間の府収入は、東京都公文書館蔵. (. 21. う暗い地色に梅花を散らしたデザイン性の強い背景と. 1. 19. 20. 21 22 25 24 23. 26. 20.
(21)
図
関連したドキュメント
(県立金沢錦丘高校教諭) 文禄二年伊曽保物壷叩京都大学国文学△二耶蘇会版 せわ焼草米谷巌編ゆまに書房
一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血
相談件数約 1,300 件のうち、6 割超が東京都、大阪府、神奈川県をはじめとした 10 都
経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)
東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記
長期ビジョンの策定にあたっては、民間シンクタンクなどでは、2050 年(令和 32
2020年東京オリンピック・パラリンピックのライフガードに、全国のライフセーバーが携わることになります。そ
に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの