Title
生活経済学の対象と課題
Author(s)
小林, 甫
Citation
沖大経済論叢 = OKIDAI KEIZAI RONSO, 22(1): 1-15
Issue Date
2000-03-17
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6809
生活経済学の対象と課題
小林甫
(沖縄大学法経学部教授)
1.生活経済学浮上の背景
とである。 そこから、以上のそれら諸問題が、経済学にも 緊急に解決を迫るような新しい課題を提起してい るという事実が指摘できる。そのような事情によっ て、生活に関しての経済学からのアプローチを再 検討して、有効な理論の構築をめざすことが問題 意識として上ってきたといえる。 第三に、そのような問題意識が浮上してきた背 景に関連して、70年代の石油ショックを契機と したそれ以降の生活協同組合等の急成長を通じて の消費者の自主的な生活の組織化が進展したこと、 またそのことを基盤として、コンシューマリズム 等が社会的認知度を増したことがあげられる。 そのような運動の中で、生活の在り方そのもの が問い直きれることになり、そのことによって、 資本によって供給される消費生活への批判と、そ れに対する自主的な生活様式を求める声が高まっ てきたことである。このような動向のなかで、経 済学の分野においても、この間著しく活動領域を 拡大した協同組合等を理論装置のなかに組み込ん で、生活経済学を再構成することが現実的課題と されることになった。 以上のような点の解明が経済学に焦眉の課題を 提起し、その役割を担うべく生活経済学という ̄ 分野が脚光を浴びるようになってきたといえる。 近年、生活経済学(論)ならびに生活経済領域 に関する研究の蓄積は目覚ましいものがあり、生 活経済論あるいは生活経済学という経済学の-分 野も完全に市民権を得たという観がある。そこで、 このように生活経済学(論)が浮上してきた背景 としては、次のような諸点が考えられうると思わ れる。 まず第一に、石油ショックを契機にして、低成 長経済体制が定着したことである。そこから、高 度経済成長下で定着した大量生産・大量消費に立 脚したこれまでの経済の在り方に反省が求められ るようになったことがあげられる。そこで、あら ためて生活の質(QOL)とは何か、あるいは本 当の豊かさとは何か等々といった、生活に関わる 諸問題が注目されるようになったことである。 そこから、60年代に消費者問題の登場ととも に確立されてきたいわゆる従来の、消費(者)経 済論等では、70年代後半以降に提起されるよう になってきたこれらの諸問題に十分対応できない のではないかという認識がでてきたことである。 第二に、70年代後半から80年代にかけて、成 熟型消費社会、高齢化社会の到来等が言われるよ うになり、いわゆる価値観の多様化・個性化など を背景とした生活様式の変化に伴って、今曰の曰 本が、「大衆消費社会」等々と規定されるように なったが、しかしその一方で、資源・環境問題、 人口の高齢化に伴う健康・医療問題、家族形態と 機能の崩壊の危機、都市生活上における様々な諸 問題の噴出等々、生活の基盤それ自体を根底から 脅かしかねない諸問題が深刻化してきたというこ2.生活経済学に課せられた課題
上記のような諸点に関する事情を背景にして生 活経済論が登場してきたわけであるが、そこで、 これまでの経済学においては、生活についての捉 えかたに問題があったのではないかという指摘が、 1例えば角田修一によってなきれている。角田によ れば、上記のような生活に関する焦眉の課題を理 論的に捉えるにあたって経済学の側が十分に対応 できないという問題点を残してきたのは、従来の 経済学の一般理論においては、「生命の再生産」 を組み入れる装置がなかったことにその一因があ るということである。 ところで、経済学では、従来においては、生活 に関連した諸問題を「市場の欠陥」等として、そ の理論の枠内に包摂しようとしてきた。しかし単 にそれだけでは、生活を最も抽象的に規定すれば それは人間の「生命の再生産」であるわけだが、 その生活の持つ意味と本質を経済的側面から規定 するには不十分であり、「生命の再生産」を組み 込んだ経済学へのフレームワークのパラダイム. チェンジがなされねばならないというのが角田の 見解である。(1) そこで、そのような事態に対応した動きの一つ として、80年代以降の高度成熟化社会と言われ るような生活様式の変化と生活重視の傾向に対応 して、とりわけ、流通経済論やマーケティングの 分野においては、消費者概念から生活者概念への パラダイム・チェンジが必要であると言われるよ うな状況がおこってきた。 例えば、そのようなものの典型的な例としては、 政府文書として通産省の「80年代の流通産業ビ ジョン」(1983年)があるが、そこでは次のよう に述べられている。 すなわち、「消費者は単に生産者から供給され るものを受動的に消費するのでなく安全性や精神 的・文化的価値を重視しつつより主体性をもって 自らの生活を豊かなものにしようとする『創造的 消費者』あるいは「生活者」と呼ばれるものに変 化していくと考えられる」(2)と指摘されている。 80年代に入り、政府にあっても、このように 消費者概念から生活者概念へのパラダイム.チェ ンジによって消費を考察し、流通政策を展開して いく必要があるという視点の転換が提起されてく るのであるが、しかし、ここでの注意しなければ ならない問題点は、このような提起があくまでも 消費分野での消費者の消費行動が従来の規定では 捉えきれなくなったことからきているということ である。従って、ここでの生活者とは消費生活か ら見られた主体に留まっており、そこから、その 生活も消費生活に限定されているいるということ である。(3) そこで、このような視点にたいして経済学はど のような理論装置で臨んできたかを検討しなけれ ばならない。 その際、従来、経済学では、経済の総過程を、 生産一分配一交換一消費として把握してきたとい うことを想起しなけばならない。そして、経済学 では、この消費の過程は、総過程の最終局面とし て、それは家族によって家庭で営まれる私事とさ れ、経済学の体系の枠外に置かれてきた。そこか ら、経済学においては、経済の最終目的が消費に あるにもかかわらず、その消費の持つ意味の比重 は、それが持つ意味の本来の内容ほどには重きを おかれなかった。 ところで、マルクスは、「生産がなければ消費 はない。しかしまた、消費がなければ生産もない。 というのは、消費がなければ生産は目的のないも のになるだろう」と指摘しI「消費が初めて生産 物にたいして主体をつくりだすのであり、この主 体にとってこそ生産物は生産物なのだ」と述べて いる。その場合の「主体」とは「人間」であり、
「どの消費も何らかの仕方である方面から人間を
生産するもの」なのだとしている。(4)これはい わゆる「消費的生産」といわれるものであるが、 従来、経済学はこの意味での消費の意味を十分に 考えてこなかったといえる。 人間の生産と再生産は、物質的・肉体的にばか りでなく、精神的・文化的にも行われなければな らないが、経済の最終目的も人間の生産と再生産 にあるとすれば、生活経済学も資本主義的生産様 式を基礎として再生産される生活の在り方に対す る批判を展開するだけでなく、さらに進んでそれ を止揚して展開されるところの人間の再生産の可 能性をもった経済システムとは何かを解明する経 済システム転換論として構築されなければならな い。(5)従って、それは、消費を単に生活に置き 換えて消費経済学(論)を生活経済学(論)と言 い換えただけでは不十分である。にもかかわらず、 これまで生活経済学(論)と言われてきたものは、 その対象領域を消費領域に限定してきたという問 題点を持っているように思われる。 このことは、従来の経済学は、経済の総過程を、 生産一分配一交換一消費として、あるいは生産一 流通一消費として把握してきたが、このフレーム をそのままにして、その消費の分野を研究対象に 2のせて消費それ自体を考察すれば、それで、先の 角田のいう「生命の再生産」が、生活経済学の理 論装置として組み込まれたことになるということ を意味しない。求められているのは、今日の時代 に立脚した経済学の根本的転換なのである。従っ て、生活経済学の根底的構想の構築とは、すなわ ち、体制転換のための新しい経済学の確立を意味 することにつながるのである。 ということである。 このように規定することで、暉峻は、矛盾に陥 ることになる。まず、暉峻は、「経済学の理論は 消費の内容に立ち入るものではない」として、
「G(貨幣)-W(商品)の購買過程が終っ」た
あとの消費生活は経済学では解明できないため、 「社会政策学における労働者の生計問題」、「家政 学における家庭経済学の分野」、ならびに「消費 (者)経済学といわれる分野」を合流して「生活 経済学という分野」を成立させようとする。しか し、その一方で、生活経済学の経済学的理論化と して、資本と労働力の相互関連を経済学的に範式 として確定することを試みて、労働者が労働力市 場で手に入れた賃金(貨幣)で資本から生活に必 要な諸商品を購入する購買過程が示されることに なる。その場合、このG-Wの購買過程について は、次のような資本と労働力の相互関連の範式と して与えられることになる。(図1参照) 但し、以上のような範式におて、暉峻は、「こ の生活資料の消費の過程こそは、労働力の再生産 の過程であり、将来の労働力たる子供や、妻など の家族の生活も含む、生活の再生産過程である。 こうして、資本の側にも、各々の循環がくり返き れ、再生産がくり返される」(7)という説明を加 えている。 だがここでの問題は、暉峻が消費を労働力の再 生産過程だと位置づけながら、しかしその一方、 「経済学の理論は、消費の内容に立ち入るもので はない」ということから、消費それ自体が経済学 的に分析できず、資本と労働力の相互関連の範式 における購買過程が分析対象となり、暉峻が指摘 する三つの分野の学問領域の統合による生活経済 学の体系化という視点も欠落することである。そ こから生活資料の買いの過程(G-W)を扱うの が生活経済論だということになり、生活経済論の3.従来の生活経済学の批判的検討
そこで次に、以上のような問題意識に基づいて、 経済学の立場から生活経済学をこれまでどのよう に構築しようとしてきたかを検討しよう。 その点に関して、例えば、70年代後半に日本 経済が低成長経済に移行したことが明かとなり、 高度成長下の大量生産●大量消費に立脚した生活 を見直す必要が認識されるようになったことを背 景として、生活経済学の必要性が構想されるよう になってきたが、その時期に、暉峻淑子は経済学 の理論体系に則して「生活経済論」を体系化しよ うと意図して、次のように規定している。 暉峻によれば、「経済学の理論は消費の内容に 立ち入るものではないから、G(貨幣)-W(商 品)の購買過程が終ってしまえば、消費生活を含 むこれらの問題は、その範囲から脱落する。しか し、すでにこの領域に深いかかわりを持つ学問の 分野がこれまでもなかったわけではない。その一 つは、社会政策学における労働者の生計問題であっ た。.…いま一つは、家政学における家庭経済学 の分野である。…・さらにつけ加えるならば、…. 消費(者)経済学といわれる分野が新しく成立し つつある。.…このような三つの分野の学問領域 に対して、これらを合流し、新しい体系づけを行 おうとする生活経済学という分野が成立する」(6) 図1資本
イビ 幣′(売上金) 貝 看品 軍一一一商品’(製B品労働力労働カー貨幣(賃金)-商品(生活衣料)--消費一一労働力
出典:暉峻淑子『生活経済論』,時潮社,1977年,P、47 3対象を消費生活資料の購買過程に限定しているこ とである。 この点に関して、伊藤セツは、暉峻を批判して 次のように指摘している。 まず、暉峻が三つの分野の学問領域を総合し生 活経済論を構想しようとしている点について、 「筆者が問題にしたいのは、…・暉峻が総合しよ うとする既存学問領域での関連諸説のもっとも重 要な内容のいくつかを、自らの体系の枠外にはず し、結果的に、包みこむぺき理論の幅をむしろ狭 めることになってしまったということである」と 批判している。次に、暉峻の提起する資本と労 働力の相互関連の範式に関しては、「特に労働者 の生活過程(W…C…A)(Cは消費、Aは 再生産きれた労働力)を資本の再生産過程の-契 機としてさえも、明確に位置づけられないという 欠陥がみられる」と批判している。 そして、そこから、「もしG-Wを扱うのが、 生活経済学だというのなら、W…C…Aの過程 を扱うものは何になるのであろうか。…A-G- Wは、流通の過程であり、G-Wは流通経済学 が固有の領域として扱っても不思議ではない」と して、暉峻の生活経済学は、流通経済学にすぎな いとしている。そこで、伊藤によれば、「これに 対して、W…C…Aの過程にこそ、人間の消費 生活、労働者の生活状況のいまだ解明きれていな い諸問題が山積されている」(8)として、「W・・・ C…Aの過程」こそが生活経済学の対象だとし ている。 見たように、伊藤は暉峻が生活経済学の対象を G-Wの過程に限定したことを批判し、それは生 活経済学の対象ではなく、むしろ流通経済学の対 象だとして、生活経済学の対象をW…C・・・Aの 過程に求めている。しかし、ここでの問題点は、 やはり伊藤においても、G-Wは流通経済学の対 象領域だとして暉峻の規定を批判しながら、生活 経済学の領域をW…C…Aの過程に求めている ことである。伊藤がここで生活経済論の対象であ ると規定しているW…C…Aは、やはり伊藤も 認めるように消費生活領域であり、伊藤において も生活経済学の領域がそこに限定されることになっ ているという問題点を残している。 これに対して、80年代後半に入ると成熟型消 費社会の下での円高が急速に進み、国際化、情報 化、高齢化等が日本経済のトレンドとして認識ざ れるようになった。そのような生活をめぐる環境 の複雑化と深刻化の増大という事情を背景として、 中村孝士は、生活経済学を、「生活経済という場 合は必ずしも生活の場としての家庭にこだわるも のではないから、ある程度、広く解釈することが 可能になる」(9)と構想して、「生活」というター ムに、「ある程度」という限定をつけながらも、 家庭以外に広い意味を持たせようとしている。し かしながら、「生活経済主体(家族全員のみなら ず独立の個人をも含む)の立場から、その意識、 行動の全体系と、今後のあり方を研究し、生活目 標を実現するためには、いかにあるべきかを考え ることが必要になってくる」として、そこから、 「ここで、一応、従来の家政概念との異同を念頭 に置きながら、生活経済の概念規定を行ってみる と、"消費者を中心とした意識、行動、成果の分 析と外部環境の変化に即応した生活設計および、 生活経済環境のあり方"ということになる」('0) と、生活経済を概念規定している。このような生 活経済の概念規定から、生活経済学の対象も、 「消費者を中心とした…・生活設計および、生活 経済環境のあり方」に自らを限定することになる。 そして、そのことによって、生活経済主体の生活 領域を考察する場合も消費生活関連分野に狭く限 定してしまう結果となる。 そこから、生活経済の分析対象も消費生活関連 分野に限定することになってしまっている。例え ば、拙論がここで検討対象としている中村の『2 1世紀のくらしと経済』においては、生活経済領 域として、(1)消費・生活構造の変化、(2)景気 循環の捉え方(インフレ・デフレと生活経済、減 速経済下の生活運営)、(3)生活経済と金融の役 割(消費者信用とカード時代)、(4)情報化社会 と消費者(POS・VAN、エレクトロ・ショッピ ング)、(5)日本型高齢化社会のすがた(老後経 済生活のパターン・デザイン、高齢化社会の消費 者問題)、(6)成熟化社会の光と陰(生きがいの 追求)、(7)国際化にゆれる生活(貿易・為替レー トと生活)、(8)生活設計の効用(生活設計の意 義、長期生活設計)が、生活経済学の分析対象領 域としてあげられている。 以上に見られるように、ここで中村が生活経済 学の対象領域としてあげているこれらの領域は、 いわば消費生活と関連性を持った経済分野である 限りにおいて対象にとりあげられていることは明 4
力、である。それは、松村においては、生活形成 「プロセス」を「トータルに把握しなおす」とい うが、サービスを含む生活手段を「使用する全過 程とその結果としての充足内容や度合いが分析対 象」とぎれることによって、結果として、「生活 者」は消費者となり、「生活者」と「生活手段」 との関係は家庭での消費過程に限定されることに なるからである。従って、松村にあっても、生活 経済論の分析対象領域は、消費生活過程に限定き れることになる。 このように、生活経済論の対象を消費生活分野 に限定する傾向は、依然として最近の研究におい ても変わらず、例えば、それは、馬場康彦におい て見られるところである。 馬場は、まず「経済とは、富=商品の社会的再 生産過程のことをいう。人間は、一定の社会的関 係を通じて富=商品を生産し分配し消費しながら、 その循環過程を通じて生活を物質的に維持する。 この生産・分配・消費の総過程を経済という」('2) と規定している。馬場においては、経済の総過 程を「生産・分配・消費」と規定し、「交換」を 欠落きせることにより、生産と消費を結ぶ流通過 程が存在せず、後に見るように「社会化」の理解 も不完全なものとなっている。 その不完全さとは、「社会化」の理解が抽象的 すぎるということであるが、それは馬場が「交換」 を欠落させたことと軌を-にする。「交換」を抜 かせば「生産・分配・消費」の過程はどんな歴史 的社会にも存在する歴史貫通的規定となり、その ような経済の総過程はきわめて抽象的なものとな るからである。これは矛盾である。何故なら、 「交換」を考慮に入れなければ資本主義経済の分 析は出来ないし、「交換」を入れれば他の経済的 社会構成体の分析が出来ないということになるか らである。しかし、馬場にとって何よりも重大な のは、「富=商品」と規定することにより、そこ から生活経済学を展開するために、生活経済学を 立脚的基盤として経済学の変革を構想しようとい う発想が全く存在しないことである。 しかし、その点は今は問わないとして、馬場は、 そこから、「生産における社会的関係が、分配・ 消費の局面の関係を規定し生産関係を通して発現 する富=商品の生産力が経済全体を方向づける 、」('3)として、従来の経済学の問題点を次のよう に指摘している。 らかである。そこから、中村においては、80年 代後半という時代の要請に対応して、「生活経済 という場合は必ずしも生活の場としての家庭にこ だわるものではない」と述ぺながらも、根底にお いて、生活経済学の対象も消費生活とそれに規定 された経済領域に限定されるというその発想と構 想において、やはり、生活経済学は消費生活を対 象とするのものだという概念から抜け出していな いという結果になってしまっている。 また、中川清・松村祥子編著『生活経済論』に おいては、新しい分野からの生活経済へのアプロー チとして文化人類学や記号論からの展開が見られ るなど、新しい試みがなされている。しかし、そ こにおいても、やはり生活経済論の対象領域は消 費分野に限定されてしまっているという問題点を 残している。 例えば、松村祥子は、「生活の安定と向上をめ ざす従来の『生活経済学』では、生活過程に取入 れられる生活手段の数量や種類の多さに関心が集 中しており、生活形成のプロセスの違いによる充 足内容や度合については正視してこなかったので はないだろうか」として、従来の生活経済学の問 題点を指摘している。この様な指摘は、90年代 前半におけるバブル経済の崩壊とその後の不況の 下での「生活の質」の問い直しが浮上したことと 無関係ではない。そしてそこから、「『生活者の経 済論』では生活形成のプロセスをトータルに把握 しなおすことにより、生活者と生活手段の関係を 見直してみたい。そこでは、生活者が自らの欲求 充足のために、生活手段(モノ.サービス)を選 択、加工、配置などのプロセスを経て使用する全 過程とその結果としての充足内容や度合が分析対 象とされる」(u)と述べている。 ここに見られるように、松村は、「生活者の経 済論」の分析対象は、「生活者と生活手段の関係」、 すなわち、「生活手段(モノ・サービス)を選択、 加工、配置などのプロセスを経て使用する全過程 とその結果としての充足内容や度合」であると規 定している。ここで指摘されている「生活者」は 消費者の読みかえであり、「生活手段」に「モノ」 だけでなく「サービス」を含めているが、それら の「選択、加工、配置などのプロセス」がなされ る場所は家庭であることは、「生活過程に取入れ られる生活手段」によって「生活形成」がなきれ る「プロセス」自体が家庭であることからも明ら 5
「これまでの経済学は、他の局面を根本から規 定しているこの生産過程の分析が主流であったと いえる。そして、とりわけ消費過程は、生活者の
自由で個人的私的な過程として、経済学の対象範
囲から除外されてきた」('4)と述べている。馬場 は、そこから「生活者の視点から経済システムを構築」('5)する必要があると述べている。そして、
それが生活経済学だということになる。そこから必然的に、馬場によれば、「生活経済学の対象は、
いうまでもなく消費過程である。それは、消費過
程で生じる人と人、人とモノ、モノとモノ、モノ と人の関係を明らかにすることを意味している。・・ ・・消費過程内の諸関係のあり方を明らかにすることが生活経済学における第一義的課題となる」
('6)と、生活経済学の対象規定をおこなってい る。 そこから、馬場の生活経済学とは以下のような ものとして構想されることになる。「消費生活を 営む世帯における消費財の消費を中心に進められ る日々の生活、それを通して世帯構成員全員の人 間としての生活の再生産が遂行きれる世帯内人間 関係と、それを支配する秩序と、またこの秩序を 維持する組織、そしてそれと結びついた組織技術 ともいうべきもの、ざらにこうしたものすべてに 影響を及ぼしている社会との関係、それらを、世 帯の消費生活の問題として研究の対象にするもの が、いわゆる生活経済論である」('7)ということ になる。 そして、そこでの消費生活過程は、具体的には 次のように考えられている。「生活=消費過程は、 通常、社会的共同消費手段と自然的環境を基礎と して営まれている。そしてその基礎の上に住居と 耐久消費財が編成・配備きれており、ざらにそこ で展開される消耗的生活財の購入・消費、生活時 間配分、貨幣循環=家計管理といった生活行為の 総行程を含意している。さらにそれらの総行程は、 ライフステージに対応した、主要な社会システム(教育システム・雇用システム等)に大きく影響
されて存在している。消費過程はそのようなもの としてそれ自体のうちに、生活財の体系、生活時 間の体系を含み、また、それらと人間との、ある いは人間と人間との関係を含んでいる」('8)とす る。 そこから馬場によれば、生活経済学の目的は、 この「消費過程を背後から規制している法則それ 自体と、その作用の仕方様式の検出」('9)をおこ なうことだということになる。 以上、馬場の生活経済学の対象と目的を検討し てきたが、見た通り、馬場において「消費過程を背後から規制している法則」とは、先に見た馬場
のいう従来の経済学の「生産関係を通して発現する富=商品の生産力が経済全体を方向づける」
(20)という発想から一歩も出ずに、「商品」経済
に従属しそれを克服する論理と活路を見出し得な
い「生産によって規定された消費」ということで
あり、「その作用の仕方様式の検出」とは、それ
が消費過程で現出する過程を明らかにするという ことである。そこでは、生活経済学の対象は、生 活=消費過程と限定されることになり、その総行 程が分析対象とされるということである。従って、 そこからは、社会の必然的な変革の理論も出てく ることはない。 なお、その点に関連して、馬場の「社会化」に ついての理解について触れるならば、先にも指摘 したように問題がある。「社会化」について、馬 場は次のように述べている。つまり、馬場によれば、「『社会化』とは個別的にかつ無関係に存在し
ている『人』「モノ』が、人々の間の経済活動を 中心とした全生活過程における活動において、そ れぞれが有機的関連性を持つようになり、ある種 の『社会』=関係を形成しつつある状態のことを 指す」(21)ということである。 見るように、「社会化」に関する馬場の規定は 極めて抽象的であり、そこには、社会的分業の発 展の結果、現代資本主義の発展によって人々の結 びつきがどのように変化してきたのか、そしてそ れがまた、より高度な社会形成の基礎となるのだ という歴史的発展の視点が全く無い。従って、馬場は、「生活=消費過程は、通常、社会的共同消
費手段と自然的環境を基礎として営まれている」
と述べながら、「社会的共同消費手段」の今日の
下での諸形態についての言及も無い。馬場は、 「社会的共同消費手段」を消費関連インフラスト ラクチャーのようなものに狭く理解しているよう に見られるが、それを広くとれば、生活協同組合なども「社会的共同消費手段」に含まれてくる。
生活協同組合は、部分的には交換・流通分野に関 わっている。しかし、馬場には先にも指摘したよ うに経済の総過程から「交換」を欠落させている ことから、生活経済論に生活協同組合を組み入れ 6る論理が存在しない。住民の生活を「社会化」し、 組織化する上での生活協同組合の役割は大きなも のがある。資本主義の発展の下での「社会化」が 全住民の結びつきを強め、それが新しい経済関係 の基礎を形成することにつながるということこそ が重要なのであって、馬場のように、「社会化」 を抽象的に規定することは無意味である。(22) 産」概念の再検討の必要性を提起している。この ことは、中野によれば、表裏一体のこととして、 同時に「生活概念の消費生活概念への倭小化」を ももたらすことになるのであり、「『消費生活」自 体を真に全面的に考察するためには、生産活動と 消費活動の両者を包括しうるトータルなカテゴリー を見いださねばならない」(26)ということになる。 以上、中野の言説を見てきたが、中野によれば、 「生産と生活、労働過程と生活過程、生産様式と 生活様式の並置」が、「生産」と「消費」を包括 し、内的統一と連関を有するトータルなカテゴリー の形成を困難にしているということである。 ところで、中野のいうところの、この様に「生 産様式」と「生活様式」とを「並置」してしまい 「生産」と「消費」を包括したカテゴリーの形成 を困難にしている事態が生じる論拠の一つは、マ ルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』 の「生産様式」と「生活様式」とに関わる文脈を どのように理解し、かつまた、それと、マルクス が『経済学批判』の「序言」で与えたいわゆる 「唯物史観の公式」をどう理解し、さらにその両 者の相互関連をどのように図るかということにあ ると考えられる。そこで、これらがどのように理 解きれてきたのか、次にそれを検討しよう。 廣松渉は、『ドイツ・イデオロギー」の当該の、 「この生産の様式は、それが諸個人の肉体的生存 の再生産であるという側面だけから考察されるべ きではない。それはむしろすでに諸個人の活動の 一定の方式なのであり、諸個人が自分の生を発現 する一定の方式、諸個人の一定の生活様式なので ある。諸個人が如何なる仕方で自分の生を発現す るか、それが彼らの存在仕方である」という指摘 を引用して、次のような注釈を加えている。すな わち、「マルクス・エンゲルスは、先の引用文中 にも見られたとおり、何を生産するかと併せて、 如何に生産するかという方式、生産の仕方、生産 の様式を重視します。この『生産の様式は….、 諸個人が自分の生を発現する様式、諸個人の一定 の生活様式[生の一定様式]」にもほかなりませ ん」(27)ということである。 注意したいのは、ここで廣松が、マルクスの文 章から「生活様式」という言葉を引用する際に、 その前に「一定の」という言葉を付けて「一定の 生活様式」としてはいるが、引用した文章の注釈 において、「生産の様式」、「諸個人が自分の生を
4.「生活」概念の再検討と再構成
以上検討してきたように、生活経済学からの生 活へのアプローチにおいては、それは消費生活領 域に限定されていて、そこから出るものではなかっ た。そこで、生活経済学を構想する際に必要だと 思われる若干の問題について検討したい。 生活経済学において生活概念を確定する際にま ず想起きれるのは、生活という言葉の意味する内 容の暖昧さである。検討したように、生活経済学 プロパーにおいては、それが消費生活を意味する のは当然のことであり、その内容を検討しようと いう気配すらうかがい得ない。 そこでまず、「生活」という用語の吟味から始 めることにより、生活経済学における生活とは何 かということを確定する手がかりとしたい。 中野徹三は、「いたるところで『生活」はほぼ 自明のように「消費生活jと同一視されている」 として、現在の「生活」という用語の概念上の混 乱を指摘した上で、そこから、「生産と生活、労 働過程と生活過程、生産様式と生活様式の並置」 が、「理論的生産のうえでは、「生産的生活」を 『生活jから追放することによって、生産と消費 の内的統一と連関を理論化するうえでたいへんな 困難と支障を招くことになる」(23)という問題点 を提起している。中野によれば、このことは「生 産」概念の再検討をもたらすものである。そこで 中野は、マルクスの『剰余価値学説史」から「物 質的生産自体をその独自な歴史的な形態において とらえなければ、それに対応する精神的生産につ いての規定的なもの、および両者の相互作用を理 解することはできない」(24)という文脈を援用し て、「物質的生産だけが『生産』に入るのではな く、精神的生産と『サービスの生産』が本来的な 物質的生産との区別と関連のもとで立体的に考察 きれなければ何事も理解できない時代に私たちが 生きている」(25)と、今日の時代に対応した「生 7発現する様式」、ならびに「諸個人の一定の生活 様式[生の一定様式]」の三者の関係は等しいも のとして、すなわち、等号の関係で理解している ことである。そこからの帰結は、「生産の様式」 とは「生活様式」のことである、ということに他 ならない。 しかし、ここでは、「生活様式」の前に「一定 の」という言葉が付いて「一定の生活様式」となっ ていることの意味が重要なのである。すなわち、 「一定の」という言葉が付くことにより、「生産の 様式」は、「ある一つの生活の様式」、つまり「生 のある一つの在り方(仕方)」ということになり、 そこから、「生産の様式」は「生活様式」に包括 される概念だということになるのである。しかし、 廣松においてはこの点の理解が不十分であり、そ の不十分ざは、同様に、マルクスの文章では「諸 個人が自分の生を発現する一定の方式」となって いて、そこでは「一定の」という言葉が「方式」 の前に付いているのに、引用して注釈を加える際 には、「諸個人が自分の生を発現する様式」とい うように「一定の」という言葉を外していること からも、それはうかがうことができる。 他方、鷲田小彌太は、自己の見解を中野の「生 活過程論」についての結論からの帰結として位置 づけるのだとして、「生活」について次のような 規定を与えている。すなわち、鷲田よれば、「「生 活」(Leben)とは、人間の活動、実践の総体= 人間の生命活動全体を含意している」(281という ことである。鷲田は、ここでは「生活」という言 葉に、「人間の活動、実践の総体=人間の生命活 動全体」という広い意味を与えている。鷲田は、 このように「生活」を生活過程として、しかもな おかつ、それを総体的過程として把握するのだが、 しかし、「あくまでも、物質的生活の生産様式が 他の一切の生活過程(様式)を制約する。これが 唯物論の根本テーゼだ。これを失えば唯物史観の 基本は崩壊する」(29)と述べることによって、そ こから、出発は廣松とは逆ではあるが、結論とし ては、生活過程の様式を生産の様式と等しいもの と規定してしまうことになるのである。鷲田は、 おそらく、マルクスの「物質的生活の生産様式が、 社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約 する」(30)という周知の指摘を念頭に置いてであ ると想定きれるが、それとの整合性を図ろうとし て、「物質的生活過程の枠組は、経済構造よりみ た社会と、ひいては、生活過程全体と同じ大きざ の枠組を指示しており、その包括性(外延性およ び内延性)において『生活過程」とあいおおう」 (31)と考えている。ここから、鷲田は、「物質的 生活過程の枠組」と「経済構造」とを等しいもの と考えて、「経済構造よりみた社会」という限定 を付けることによって、「物質的生活過程(様式)」 と「生活過程全体(様式)」とは並置きれ、両者 のカバーする範囲は等しいものとして想念される ことになるのである。 そこで、鷲田が自己の見解を結論付ける論拠と したという中野の「物質的生活過程」についての 見解を見てみよう。中野は次のように述べている。 すなわち、「ここでいう『物質的生活過程」とは、 人間の生命を再生産するために必要な食料などの 消費手段や消費手段を生産するに要する生産手段 のような『物質的富」の生産・分配・消費の過程 の総体である。.…総体としての物質的生活過程 のうち、全過程を主導する過程は物質的生産過程 であ」(32)るというのである。わかりやすくいえ ば、ここで中野が想定する「物質的生活過程」と は、先の馬場の場合と同様に、そこから「交換」 を欠落させてはいるが、経済の総過程を意味して いる。その際、いわゆる「生産」が「全過程を主 導する」ということである。 「物質的生活過程」と「生活過程」との関連に 関する認識についての、鷲田と中野のこのニュア ンスの相違は、鷲田が、それを土台一上部構造フ レームとの関連で理解しようとするのに対して、 中野は、「『土台』すなわち生産諸関係は、現実に 展開している諸個人の物質的生活過程の社会的関 連のなかで形成され、再生産きれながらこの過程 を規定もしている過程の実体的契機であって、社 会的総体としての物質的生活過程それ自体が土台 なのではない」(33)として、それを土台一上部構 造フレームでは理解していないことにある。従っ て、鷲田が「経済構造よりみた社会」という限定 を付けることによって整合性を図ろうとしたこと であるが、社会学の分野で従来からもあった点と して、唯物史観の公式では社会をトータルに把握 できないということに対して、社会的生活過程を 設けて土台と上部構造との間をリンクさせようと いう富沢賢治の見解に対しても、中野は上に引用 した文脈に注を付けて、「)Ⅱ口清史氏は、…・ 「生活協同組合理論の再構成」において、『階級と 8
階級闘争を媒介するものとして、富沢賢治氏は、 中野徹三氏に触発されながら、社会構成体におけ る土台(経済的生活過程)と上部構造(政治的生 活過程及神的生活過程)の問に、両性関係・…等、 人間の再生産と人間の社会化に関連する過程とし て、社会的生活過程を位置づける」(「生活協同組 合研究』112号、8ページ)と書き、この過程の 提起は生活協同組合の分析にとって、重要な意味 をもつ、と述べている。この後半の指摘には全く 賛成ではあるが、富沢氏がどう理解きれているか は氏の論文が未見のためわからないけれども、私 は土台と経済的生活過程、上部構造と政治的・精 神的生活過程とを同一視したことは、ない」と述 べることになるのである。いずれにしても、中野 が、「土台一上部構造と生産カー生産関係の概念 装置しか持たない貧しい理論的視界からは、…・ 生活世界の豊かざは完全に見失われてしまう。.… 生活過程論は、人間社会を上から鳥瞼して図式化 しようとする見方とは異なり、主体としての人間 とかれらの諸活動の側から展開する理論であり、 この主体が個人であれ、ある集団であれ、それぞ れの主体に即して考察を進めることができる、と いう特徴をもつ」(34)という問題意識を持ってい ることは確かである。 そこで、唯物史観の公式が、中野のいう、「人 間社会を上から鳥鰍して図式化しようとする見方」 で「貧しい理論的視界」しか持たないものかどう かということについて、以上に関連して言及して おくと、マルクスは『経済学批判』の「序言」に おいて次のように述べている。 まず、マルクスは、「人間は、彼らの生活の社 会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意 志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質 的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関 係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会 の経済的構造を形成する。これが実在的土台であ り、その上に一つの法律的および政治的上部構造 がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識 形態が対応する」と述べている。これを大きく分 けて、前段とすれば、その後、後段の最初に、次 のように述べている。「物質的生活の生産様式が、 社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約 する。」(35)マルクスにおいては、この前段と後・ 段では分析における視点の移動が認められると考 えるが、彼自身はその点に関して、何も説明して いない。 中野は、この前段に関しては、「土台一上部構 造と生産カー生産関係の概念装置しか持たない貧 しい理論的視界からは、.…生活世界の豊かさは 完全に見失われてしまう」と判断する。そして、 後段における最初の「物質的生活の生産様式」を 「物質的生活過程」と読み替えて、それを「「物質 的富」の生産・分配・消費の過程の総体」と解釈 して、それに積極的な意味を与えようとしたわけ である。だが、そこからは、マルクスの唯物史観 の公式における前段と後段は完全に分断きれるこ とになる。 先に引用したこの前段は、資本主義社会の経済 的構造把握を可能にするという側面を持っている ことは確かである。それに対して、後段の「物質 的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神 的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの 存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が 彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生 産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれ までその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、 あるいはそれの法律的表現にすぎないものである 所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関 係は、生産諸力の発展諸形態からその桂桔に一変 する。そのときに社会革命の時期が始まる。.…」 以下の文章は、資本主義社会の動態的な変化とそ の転換の認識を可能にするものである。特に、後 段の最初の「物質的生活の生産様式が、社会的、 政治的および精神的生活過程一般を制約する」と いう文章は、前段が、人間の「生活の社会的生産」 における基底的な要素である経済関係とその構造 解明が中心であったが、それに対して、人間の総 体としての生活を物質的生活と非物質的生活から 考察し、その相互の規定関係を明らかにするもの である。 ところで、松原昭は、この「物質的生活の生産 様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一 般を制約する」という文章と、先に指摘した『ド イツ・イデオロギー』の、「諸個人がかれらの生 活を表出する仕方は、すなわちかれらが存在する 仕方である」という文章で、マルクスがそれを 「生活様式」(Lebensweise)として認識していた ことに注目している。そこから、松原は、「生活 様式範祷」を導出し、「この生活様式範囑は、生 産様式範囑よりもより包括的」なものであると規 9
定している。松原によれば、この「生活様式範囑」 は、「第一に社会と個人の生活活動のすべての形 態を表現する」ものであり、従って、またそれは、 そこから、「第二に社会的な生産、分配、交換お よび消費の支配的な形態をも表現」するものであ る。以上の諸点から、「生活様式」とは、「一定の 社会によって条件づけられる自然的および社会的 生活条件を創造し発展きせる方式と規定すること ができ」るとしている。そして、そこから、松原 によれば、「生活様式」は、社会における人間の 生活過程における経済的過程に加えて「非経済的 な生活過程、つまり政治的、社会的および文化的 な生活過程におけるすべての形態をも包含」(36) するものとなるのである。 生活経済学において、その対象とする「生活」 を考える場合には、単に、「物質的生活過程」論 として「生活」を把握するのではなく、「生活様 式」としてそれを把握することが必要であると考 える。特に、それが、松原が規定する、「一定の 社会によって条件づけられる自然的および社会的 生活条件を創造し発展させる方式」であるという 認識は、生活経済学を体系化する際に示唆を与え るものである。 の経済」との闘争として把握しようと試みた芝田 進午の見解である。そこで、まず、その芝田の見 解を検討してみたいと思う。 芝田は、この「資本の経済」と「労働の経済」 との闘争という発想をマルクスの「国際労働者協 会創立宣言」から得て、その展開を『資本論」の なかに見出そうとする。その点について、芝田は 以下のように述べている。 「マルクスは、『資本論」において『資本の経 済」をもっとも体系的・全面的に解明したが、そ れは同時に、『資本の経済』に包摂されつつも、 それと矛盾し、闘争せざるをえない『労働の経済」 の展開でもあったといえる」のだとして、『資本 論』の体系それ自体が、「資本の経済」と「労働 の経済」の「両者を二つの側面とする対立の統一 と闘争、相互浸透として把握されなければならな い」としている。そして、そこから、「わたくし の理解によれば、価値増殖過程から必然的にでて くるものは、「需要供給の法則の盲目的支配』と しての「資本の経済』ないし『所有の経済』であ るが、他方、労働過程の必然的延長として、「社 会的洞察・予見による社会的生産の管理」として の「労働の経済』がでてくる」(37)として、「資 本の経済」と「労働の経済」の両者を、それぞれ 特徴づけている。 芝田は、「資本の経済」と「労働の経済」を以 上のように規定して、『資本論」、第1巻「資本の 生産過程」に即して具体的にそれぞれの体系化を 試みている。 まず、「資本の経済」については、次のように 体系化している。 I絶対的剰余価値の生産一具体的には、労 働時間の延長、夜間労働の増大、交替制、休 日出勤、休暇取得率の圧迫、など。 Ⅱ相対的剰余価値の生産一協業と資本主義 的競争、労働の分割と工場制手工業、機械の 資本主義的充用と大工業の資本主義的形態に よる必要労働時間の短縮、労働強化、労働量 と労働密度の増大、労働力の熟練・資格の陳 腐化、労働の非人間化・無内容化、労働災害 と職業病の増大、労働者の駆逐、資本主義的 大工業のもとでの工場制手工業・手工業・家 内労働の再編成・従属、資本主義的大工業の 農業生産労働過程への浸透、人間と自然との 質料転換の撹乱、など。
5.生活経済学の構想における基本視座
生活経済学を、単に消費過程を対象として分析 する経済学分野の-領域とするのではなく、体制 転換の経済学として認識するならば、それが、 「一定の社会によって条件づけられる自然的およ び社会的生活条件を創造し発展させる方式」であ るという視点を提供する「生活様式」を基底に据 えて理論化を図る必要がある。 そのような視点に立って人間の生活を経済的側 面から見るならば、大別して、それは労働生活と 消費生活から構成されている。先に検討したよう に、従来の「生活経済学」は、単に消費生活のみ を対象とするにすぎなかった。しかし、必要なの は、労働生活と消費生活の双方を一貫して関連づ ける論理である。そのことによって、体制転換の 経済学としての生活経済学の構築も可能となるも のと考える。 そこで、そのような生活経済学の体系化を考え る際に示唆を与えるのは、体制転換をめざす階級 闘争、特に経済闘争を、「資本の経済」と「労働 10Ⅲ賃金一賃金諸形態の創出と賃金の低落、 差別的賃金制度、勤務評定の導入、など。 Ⅳ資本の蓄積過程一単純再生産・拡大再生 産とそのもとへの労働者の生産・再生産(生 殖、教育、消費生活)の包摂、蓄積の累進的・ 加速度的増大、環境破壊、都市と農村の矛盾 の増大、相対的過剰人口の創出、など。 以上のような資本主義的搾取・収奪の諸方法は、 相互に密接に関連しており、「資本の経済」の歴 史的・論理的なシステムをなしている。この様に、 「資本の経済」は、きわめて全面的・体系的であっ て、それゆえにまた、それらにたし】する労働者階 級の闘争も全面的・体系的であらざるをえない。 そのような闘争としての「労働の経済」は、次の ように要約されるとしている。 I,絶対的剰余価値の生産にたいする闘争一一 労働時間の短縮、深夜労働の短縮または廃止、 休曰および有給休暇の増大、など。 Ⅱ,相対的剰余価値の生産にたいする闘争一一 「大工業の破局」(マルクス)との闘争、労 働の軽減、作業量の規制、人員増加、労働災 害・職業病の一掃、総合技術教育および教育 と生産的労働の結合のための闘争、「労働の 分割」に反対し、「労働の転換」をめざす闘 争、専制的労働組織の解体と労働組合の民主 的編成、労働の社会的結合の発展、大工業と 農業の合理的結合、自然と人間の質料転換の 合理的制御、など。 Ⅲ,賃金引上げ闘争一一大幅賃金引上、差別 的賃金形態・勤評制度の廃止、同一労働同一 賃金、最低賃金制の実現、など。 Ⅳ,資本主義的蓄積に反対する闘争一一蓄積 ならびに国民所得の再分配の合理的・民主的 規制、労働力の再生産の民主的規制と教育・ 社会福祉・社会保障の充実、産業現役軍と産 業予備軍の統一、相対的過剰人口の組織化と 完全雇用のための闘争、環境破壊の阻止、環 境の再生産、都市と農村の矛盾の止揚、工業 改革と農業改革のための闘争、など。(38) そして、この「労働の経済」は、芝田によれば、 資本にたいするますます拡大されてゆく対決であ
り、強制であり、生産点における民主主義の闘争
である。それは、また、独占資本家ないし経営者・ がもはや生産の計画者、組織者、管理者としての 能力を失い、社会的に不要になっていることを実 証する闘争であり、経済的な専制主義.無政府主 義にたいする経済的民主主義の闘争にほかならな い、ということになる。(39) 以上、これまで芝田の見解を見てきたが、芝田 は、「資本主義的生産過程は、労働過程と価値増 殖過程の統一である」ということを認識の基点に 据えて、そこから、「この「統一」においては、 価値増殖過程は労働過程を包摂し、疎外し、搾取 するが、そのためにも、前者は後者の労働生産性 を高め、後者を『科学的過程」ならびに「大きな 社会的規模の結合労働過程」(マルクス)に転化 させざるをえない。他方、このような転化に規定 されて、労働者階級が主体であり、担い手である 労働過程は、価値増殖過程と矛盾し、闘争せざる をえない」(40)と述ぺて、「資本の経済」と「労 働の経済」との闘争の必然性を導出している。そ して、そこから、『資本論」第1巻に即して両者 の体系化を図り、この両者の関係としては、「労 働の経済」の拡大・発展と、それによる「資本の 経済」の統制、制限、圧倒、止揚に、労働者階級 の歴史的使命を見ている。 「資本」と「労働」の「階級闘争」、ないし 「経済闘争」を考える場合、大枠としては、「資本 の経済」と「労働の経済」との闘争という芝田の 構想は首肯し得るものである。確かに、「資本」 と「労働」の「階級闘争」、ないし「経済闘争」 を考えるならそれでよいかもしれない。しかし、 「資本の経済」と「労働の経済」ではなく、「資本 の経済学」と「労働の経済学」として考えた場合、 芝田の様に、「あえて『経済学」と訳さず、「経済j と訳することにする。文脈からみて、そう訳する ほかないと思われるからである。もっとも『経済 学』という訳語を採用したとしても、われわれの 論旨を変えなければならないという理由はない」 (41)といえるかどうか、疑問なしとしない。 芝田は、「資本による労働の搾取と収奪の歴史 的法則性を反映している」ものとして、「資本の 経済」を「’絶対的剰余価値の生産」、「Ⅱ相 対的剰余価値の生産」、「Ⅲ賃金」、「Ⅳ資本の 蓄積過程」の順序で展開している。それに対する 「労働の経済」の闘争の展開として、「I,絶対的 剰余価値の生産にたいする闘争」、「Ⅱ,相対的剰 余価値の生産にたいする闘争」、「Ⅲ,賃金引上げ 闘争」、「Ⅳ,資本主義的蓄積に反対する闘争」を 対応きせている。この様な、階級闘争、ないしは 11経済闘争の展開に対して、学的体系として「資本 の経済学」と「労働の経済学」を構想しようとす る場合、はたして、「「経済学」という訳語を採用 したとしても、われわれの論旨を変えなければな らないという理由はない」といえるのだろうか? 芝田は、「資本の経済」の端緒を「価値増殖過 程」に置き、それに対して、「労働の経済」の端 緒を「労働過程」に置いている。そこからは、 「資本論』のなかに「資本」と「労働」の階級闘 争の論理を読み込むのだということの当然の帰結 として、上記に見たような闘争の展開の論理が出 てくる。しかし、マルクスは、「資本の経済学」 を分析するにあたって、「資本・土地所有・賃労 働、国家・外国貿易・世界市場」(42)の順序で展 開することを構想していた。このうち、「資本」 の分析のどこまでを『資本論」が展開しているの かは置くとして、『資本論」は周知のように資本 の分析をおこなうにあたって、「商品」を端緒範 祷としている。 「商品」の分析にあたって、マルクスは、まず 「商品」が、使用価値と価値との対立の統一であ ることを明らかにし、それを次に具体的有用労働 と抽象的人間労働に対応させている。しかし、マ ルクスは、「資本の経済学」においては、使用価 値と具体的有用労働の分析を捨象し、価値の側面 を価値形態の展開としておこない、その後、芝田 が問題としている「資本の生産過程」の分析に移 るのである。そして、「資本の生産過程」の分析 においても、使用価値と価値との対立が、労働過 程と価値増殖過程における、使用価値と剰余価値 の対立として展開されていくのである。但し、そ の場合、価値の展開過程は、やはり使用価値に規 定されて展開していくのであるという視点が重要 なので、マルクスが構想した「資本の経済学」の 「世界市場」まで、それは一貫して貫かれるので ある。従って、それに対して、「労働過程」から 「労働の経済学」を体系化していこうと考えるな らば、「使用価値」を分析の端緒範蠕に据えて、 独自の体系として構築しなければならないと考え るのである。芝田の様に、「資本の経済」と「労 働の経済」をいわばメダルの表裏として、それを 対立と闘争の論理で展開するならば、それはまだ 「資本」と「賃労働」の分析にとどまるのであっ て、先のマルクスの「資本の経済学」分析におけ る六部門プランの「賃労働」の部分にあたるので ある。マルクスが本来構想した経済学はその先に、 「労働の経済学」として構想きれていたのである。 そこで、芝田の刺激的な問題提起に触発されて、 体制転換の経済学の構想をも考慮に入れた生活経 済学の体系を構想するならば、生活経済学が分析 対象とすべき労働生活と消費生活を論理一貫して 分析する視点を与えるのは、マルクスが『資本論」 で捨象した「使用価値」とその担い手である「具 体的有用労働」を分析の出発点とすべきであると いうことになる。「労働過程」で具体的な労働を 担う労働者は自らの生産する生産物がどのような 使用価値を有するかを最も理解する立場にあり、 そこから公害や商品の有害性などその労働生産物 の成果についても無関心ではいられない。そして、 その生産きれた生産物は、資本主義経済の下では 商品といういう形態をとらざるをえないが、労働 者によって購入ざれ消費されることになる。ここ に、労働者階級は、消費過程においても、自らの 生命の生産と再生産において使用価値を重視せざ るを得ない理由がある。そこに、使用価値よりも 価値増殖を優先する資本の論理と対決せざるを得 ない論理が成立する根拠がある。従って、生活経 済学は、使用価値をその端緒範囑として体系化す ることによって、労働生活と消費生活を視野にお さめた経済理論となり得るのである。 このことは、「労働の経済学」は「生活の経済 学」として再構築されなければならないというこ とを意味するだけではなく、生産的労働と不生産 的労働という従来から論争のある労働の規定に対 しても、どのような労働が人間の生命の生産と再 生産にとって有用なのかという「生活」の視点か ら「生産的」か「不生産的」かが考えなければな らないという点で、その再検討を迫るものとなる のである。 12
れば、この「人的生産」のおこなわれるのは「家 族」においてであるということになる。そして、 この人間生命の再生産の解明が経済学において求 められているということになる。しかし、大熊に おいては、「人的生産」がおこなわれるのは「家 族」だという点が指摘きれてはいるが、サービス 労働が「人的生産」に果たす役割に対する視点も 分析も存在しない。 他方、大熊は、従来の経済学が、生産が消費で あり、消費が生産であるという視点を欠落きせ、 生産と消費を分断して、生産は生産、消費は消費 としてしか理解せず、とくに消費者を最終的消費 者として規定している問題点を指摘している。こ のような経済学理解の問題点は、注(6)の暉峻淑 子「生活経済論」、や注(12)の馬場康彦「現代 生活経済論』においても指摘できる。 (6)暉峻淑子『生活経済論」、時潮社、1977年、 pp44-46 (7)暉峻淑子、同上書、pp47-48 (8)伊藤セツ「家庭経済学」、有斐閣、1990年、 ppl6-l7 (9)中村孝士「21世紀のくらしと経済』、中央経 済社、1986年、pp4-5 (10)中村孝士、同上書、p、6 (11)松村祥子「生活者の経済論」、中川漬・松 村祥子編著「生活経済論」(「講座生活学4』)、 光生館、1993年、所収、pp26-28 (12)馬場康彦「現代生活経済論一真の「豊かざ」 とは何か-j、ミネルヴァ書房、1997年、pl (13)馬場康彦、同上書、p、1 (14)馬場康彦、同上書、p、1 (15)馬場康彦、同上書、pl (16)馬場康彦、同上書、p5 (17)馬場康彦、同上書、pp5-6 (18)馬場康彦、同上書、p5 (19)馬場康彦、同上書、p5 (20)馬場が「富=商品」という場合、マルクス の『資本論」冒頭の「資本主義的生産様式が支配 的に行われる社会の富は、一つの「巨大な商品の 集まり』として現われ、一つ一つの商品は、その 富の基本形態として現われる。それゆえ、われわ れの研究は商品の分析から始まる」(マルクス
「資本論」(1)、国民文庫、大月書店、p、71)とい
うことが想起される。しかし、ここでマルクスが、 「商品」をもって「資本」の分析を開始するのは、 (注) (1)角田修一「生活様式の経済学」、青木書店、 1992年、p、292 (2)通商産業省産業政策局商政課編『豊かさの 構築流通産業」所収、1987年、p、97 (3)この点について、天野正子は、このような 消費者から生産者への視点のの転換を、企業一行 政によって提起された生活文化戦略であると指摘 している。天野によれば、それは、70年代の大 衆消費時代に行政に主導される形で登場した「賢 い消費者」論と同じ基盤にたっているとされる。 その場合の「賢い消費者」とは、生産・販売者側 の打ち出す「販売ポイント」にまどわされず、多 様なメニューのなかから自らの「購買ポイント」 でモノを選択する人々を指していた。そこには、 「消費者は王様」を強調しながら、その陰に、口 にはされないが、「生産者は王様」という「まや かし」が隠きれていたのだとされる。それと同様 に、80年代以降の企業一行政によって提起きれ た生活文化戦略も、生活主体としての人々が、内 面化している生活価値に基づいて、様々な文化的 表現を試みることを意味しない。そこでは、生活 文化を創造する主体は基本的には企業であり、生 活者は提案される「ゆとりと豊かざ」感のあるラ イフスタイルに応える存在として位置づけられて いる。従って、消費者は企業のつくった生活価値 のパターンに従って文化を選択しているにすぎな いのであり、その本質は、企業一行政による柔ら かい、ゆるやかな形での生活や文化の管理である と批判している。(天野正子「「生活者』とはだれ か-自律的市民像の系譜』、中央公論社、1996 年、ppl67-l68) (4)マルクス、『経済学批判」、大月書店、国民 文庫、pp279-280 (5)マルクスの指摘に触発きれながら、この問 題を執拘に一貫して追求したのは周知のように大 熊信行「生命再生産の理論』(上)、東洋経済新報 社、1974年、であった。大熊は、そこで、マルクスが生産を「消費的生
産」と「生産的消費」としてその二重性において
把握している点に関して、それを「人的生産」
(humanproduction)と「物的生産」(material
production)というカテゴリーで理解し、「人的
生産」こそが第一義であるとしている。大熊によ
13商品を価値と使用価値の矛盾した対立の統一とし て把握し、使用価値に規定されながら価値が展開 され、商品それ自体に矛盾が孕まれていることを 明らかにし、資本主義それ自体が歴史的性格をもっ た経済的社会構成体であることを解明するためで ある。このマルクスの分析手法を敷桁するならば、 より高度の経済的社会構成体に関する経済理論は 使用価値視点から解明されることになるというこ とである。馬場の場合は、「富=商品」の生産関 係に規定された消費過程の分析というだけで、マ ルクスの経済学が経済学の批判であると同時に、 彼の経済学の体系でもあるという視点が欠落して いる。 (21)馬場康彦、同上書、ppl3-14 (22)この点について、馬場は、最近の論文「生 活経済学の現代的課題」(『季刊家計経済研究1 1999年夏、通巻第43号、所収)において、「都市 に集められた雇用労働者世帯は、核家族化し、世 帯規模が縮小しているために生活の中での自己処 理能力が弱められているために、社会的共同消費 手段(住宅、学校、ガス、上下水道、病院等)に 依存する部分が大きくなる」(同前詰所収、同論 文、p39)と述べている。ここにおいては、馬場 は、社会的共同消費手段として、それを住宅、学 校、ガス、上下水道、病院等のようなインフラス トラクチャーとして思念していることは明らかで ある。しかし、その一方で、馬場は、「財やサー ビスだけでなく商品の購買=支払い過程、使用過 程、管理過程そのものも共同化していく傾向にあ る。このように共同化=社会的結合を深めながら、 また生活行為の外部依存度を高めながら生活の社 会化は進行していくのである」(同前詰所収、同 論文、p、39)と述べている。ここで指摘されてい る「商品の購買=支払い過程、使用過程、管理過 程そのもの」が何を指すのか述べられていないの で不明であるが、しかし、こう指摘した後で、 「生活行為の外部依存度を高めながら生活の社会 化は進行していく」と述ぺられているところから 考えると、馬場の発想にはいわゆる資本主義的な