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[巻頭論考]近世琉球における対「異国船漂着」体制 : 中国人・朝鮮人・出所不明の異国人の漂着に備えて: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

[巻頭論考]近世琉球における対「異国船漂着」体制 : 中国

人・朝鮮人・出所不明の異国人の漂着に備えて

Author(s)

渡辺, 美季

Citation

琉球王国評定所文書, 補遺別: 5-47

Issue Date

2002-01-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/19203

Rights

浦添市立図書館

(2)

正誤表

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本部・伊江等→本部・国!!!,伊江等

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後ろから

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行自

「琉球・沖縄の歴史と日本文化JW

日本の社会史一・列島内外の通行と国家』→

「琉球・沖縄の歴史と日本埜金JW

日本の社会史一・列島内外の室通と国家』

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岸本美諸→岸本美鐙

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行目

『新しい近世史②国家と対外関係』新創社→

『新しい近世史②国家と対外関係』逝ム鈎盆丞主主

(3)

近世琉球における対﹁異国船漂着﹂体制

ー 中 国 人 ・ 朝 鮮 人 ・ 出 所 不 明 の 異 国 人 の 漂 着 に 備 え て │ 渡

はじめに

近世琉球は 一 六

O

九年の島津侵攻に始まる 。 との事件を契機に、琉球は明(中国)との冊封・朝 貢 関係を維持した まま、幕藩制国家の支配領域に包摂された 。 その後、中国では女 真 族が明を倒して清を建国し ( 一 六 四四年、明清交 替)、琉球は清を中心とした新たな華夷秩序の中に位置付けられた 。 は ね ぢ ち ょ う し ゅ う せ つ ぜ い これらの外的衝撃を受けて大きく動揺した琉球であ っ たが、羽地朝秀(摂政 ・ 在位 二 ハ六六七七)の改革と察 お ん 温 ( 三 司官・在位 一 七 二 八│五 一 一 ) による羽地改革の整備・完成を経て、新しい対外関係に対応し得る王府機構を持 考 論 つ国家へと自己変容を遂げるに至 っ た [ 高 良 九 八 ] 。 逆に 一言 一 口えば、近世琉球は、清・日による一 二 つの支配を前提に、 E質 それらと独自の国家構成原理を不可分仁整合させることで初めて安定したのであ っ た [ 豊 見 山 八 八 ] 。 従 っ て琉球で 巻 は、これら 二 国との関係を安寧に保つことが常に自国の安定と直結して捉えられており、日清両国との外交はこうし た事情に精通した王府の専門官に担われ慎重に遂行されていた 。 五

(4)

」 ー ノ、 この状況下で、突発的に発生し、またそれに関わる対象を限定できない異国船の漂着は、王府が最も神経質になら ざるを得ない問題の 一 つであった 。 外国人漂着民の大半は中国人・朝鮮人で、彼らは自船で帰国する か、朝貢ル

l

ト を 利 用して福州経由で清(及び清経由で朝鮮)まで送還されたが、この過程の中で琉球は﹁清向きの ( 自 力 回 航 ) 体裁﹂を遵守する必要があった 。 特に当時の琉球 ・ 日本は、清との摩擦を恐れて清に対して琉日関係を隠蔽しており [ 紙 屋 九 O ]││従って琉清関係の中では琉日関係は建前上存在しないことになっていた││、漂着民を通じてこの 秘密が露見しないよう気を配らねばならなかった 。 また薩摩・幕府に対しても、琉球は対外関係上の幕藩制的規制 ( キ リ シ タ ン 禁 制 ・ 貿易禁制等)を遵守していること (少なくとも遵守しているという体裁)を示さなくてはならな か っ た 。 従ってこうした漂着船への対応は、清 ・ 日両国に仕える上で支障がないように備えるべき国家的問題の一つ ( 3 ) であると考えられていたのである 。 このために近世琉球には、異国船漂着に対して、国王を頂点に末端部には百姓までも組織した王府機構のほぼ全体 で備える体制が敷かれていた 。 その様子は、王府の最高評議・決定機関である評定所の記録(評定所文書)の中に含 ( 4 ) まれている五つの漂着記録やその他の史料から窺い知ることができる 。 本稿ではこれまで十分に明らかにされてこな か っ た、こうした囲内体制の全体像を描いてみようと思う 。 但し紙幅の関係から、本稿ではあくまでも対﹁異国船漂 { 5 ) 着﹂体制を概観することに主眼を置き、具体的な処置内容は必要に応じて略記するに留める 。 またここで対象とする { 6 ) ( 7 } 漂着民は、実際の漂着民の大半を占め、また原則的に同格の処置を施すよう定められていた﹁中国人 ・ 朝鮮人・出所 ( 8 } ( 9 ) 不明の異国人﹂(特に前 二 者)に限定する 。 沖 縄 本 島 ・ 久 米 島 に お け る 対 ﹁ 異 国 船 漂 着 ﹂ 体 制

(5)

考 論 E員 巻 図ー:王府の行政機構

評定所 │摂政 ・ニ司官卜摂政が二司官を統率。ニ司官は合議制。 上御座 〈総理大臣・大臣〉

011

1

│物奉行所│ [表十五人]三司官の諮問に答えて重要な国事を評議。 鎖之側官1名一日帳主取2名 所帯方物奉行1名一吟味役1名 双紙庫理1名一吟昧役1名 給地方物奉行1名一吟味役1名 下御座 泊 地 頭1名一吟昧役1名 用意方物奉行l名一吟味役1名 平等之側官l名 吟 昧 役1名 〈長官〉一〈次官〉 〈長官〉一 〈次官〉 座 鎖 之 側 … 文 教 ・ 外 交 双紙庫理・・・宮内 泊 地 頭 … 建 設 ・ 民 生 ・治安 平等之側・・・司法 物奉行(所帯方 ・給地方・用意方) …財政・運輸 ・農林・商工 f受 琉球 王 国の政治の中枢は 言 うまでもなく 首 里 の 王 府(図 一 参 照 ) であり 、 その版図は ( ) じ か た ( U ) 町方と地方 ( 田 舎 ) に、人々 は士(系持 ) と農 ( 無系 ) の 二 身 分 に分けられていた 。 士 は町方に居付(籍 ) を 置 き その居付ごとに首 里 士・久米 士・那覇士 ・ 泊 士 に 四 分 さ れ、特に近世中期からは各 々 の居付によ っ て職分や出世 コースがほぼ設定されていた [ 回 名 九 二 ] 地方は王族や 大身の士が地頭として領有 し、王府派遣 官 ( 士 ) の 元 に 一 部の農民が地方役人として 組織されていた 。 そしてほぼ 七

(6)

J¥ じ か た 全ての漂着民は、これら地方の海岸に漂着していた 。 ここでは沖縄本島及び久米烏に備えられていた対﹁異国船漂 着﹂体制とその機能を分析する 。 (二地方の体制 し よ う ら さ す の そ ば ① 中央からの派遣役人│諸浦在番・久米島在番(鎖之側管轄) 沖縄本島の地方及び久米島においては、異国船漂着へ対応する最高責任者は諸浦在番・久米島在番であった 。 こ の く に が み る と ぷ な き じ ん く し よ み た ん ざ き ゃ ん 在番とは鎖之側(王府の外交 ・ 文教を掌る役所)の管轄下で、国頭・本部・今帰仁 ・ 久志・読谷山・勝連・喜屋武の 各間切と伊江島・伊平屋島・粟国島 ・ 渡名 喜 島・慶良間島・久米島仲里間切・久米島具志川間切の計十四カ所に 一 人 ずつ置かれた王府派遣の海防官である(図 二参 照 ) 。 従来、久米島在番は、鎖之側ではなく両先島在番と同じように 物奉行所(王府の財政を掌る役所)下に属するとされてきた 。 しかし筆者が調べた所、史料上、久米島在番を鎖之側 (M ) 管轄とする記述、諸浦在番と久米烏在番を区別する記述は見出せたものの、久米島在番を物奉行管轄と明示する記述 は見当たらなか っ た 。 そこでここでは久米島在番と諸浦在番は共に鎖之側下に属し、そのために区別が不明瞭であ っ たと解釈し、久米島在番を鎖之側の管轄と考えたい 。 さて諸浦在番の職務は次のようなものであ っ た 。 諸浦在番勤向之儀、諸船出入之瑚改方弁大和上下之役々文は波唐船奨園船汐掛之節、御首尾向且難船破船等之折 助船 差 出候事 。 ︹諸浦在番の勤めは、諸船出入時の検査、日本ヘ往来する役々や渡唐船 ・ 異国船が碇泊の時の首尾、難船や破船な どの時に救助船を出す事である 。 ︺ ︻ 古老集記 三 六八頁 ︼ これらの職務の内、正史 ﹃ 球陽 ﹄ に ﹁ 諸 浦並外島設置在番職、専管異園瓢到之事(諸浦 ・ 外島には在番職を置き、

(7)

図ニ:本島地方及び久米島における在番と火立所 ,.-"-..

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伊平屋島

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必ず 圏 霊 園 舗 が 派 遣 された間切

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伊是名島

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※…「カッコ

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内は間切格の行政区画「島

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を示す。I

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直 圏

西原間切 南風原間切 大里間切 佐敷間切 知念間切│ v 久高島 玉城間切 。津堅島 切 仁 文 胃 一 方 一

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問 鯛一昨岬 高一昨酷 1 :430,000

15km

(8)

専ら異国からの漂着のことを管轄させる)﹂ ︻ 球陽ぬ九四四 ︼ とあるように、特に異国船漂着に対処することが主な任 務であると考えられていた 。 ( 凶 ) 元来この職は間切に設置され、地頭との結びつきが強い職であった 。 しかし次の史料に見られるように、徐々に地 頭と切り離され、王府直属の派遣役人という性格を強めていくのである 。 自往昔時、喜屋武・勝連・久志 ・ 今蹄仁・本部 ・ 伊江等七郡在番職、雨線地頭相共商量、擢矯在番、不有交替年 期 。 今年改定、雨線地頭恭具呈文、保母其人、矯在番職、其如奉米、雨線地頭、的奮授之、但期満 三 年、而替代 其職 。 ( げ ) ︹ 昔 か ら 喜 屋 武 ・ 勝連・久志 ・ 今帰仁 ・ 本部 ・ 国頭 ・ 伊江の七間切の在番職は、両総地頭が商量し、選んで在番と し、交替の年期は無か っ た 。 今 年 ( 一 六九八年)改定して、両総地頭が恭しく呈文を提出し、その人を(王府 に)推薦して在番とするようにする 。 俸米も両総地頭が以前同様に与える 。 但 し 三 年の任期が満了したらその職 を交替させる 。 ︺ { 球陽地六 二 二 } ヲ﹂こでは在番の任命に王府の承認を得るとと、在番は 三 年交替とすることが定められている 。 そ の 後 、 一 七 一 一 年 には在番が 二 員に増加されたとされているが ︻ 球陽地六六 三 ] 、諸史料に散見される各間切の在番は 一 員であるの ( } で、詳細は分からないが後年再び元の定数に戻されたようである 。 地頭と在番職の関係を切り離そうとする 王府の意向は次の史料により明確に現 れ る 。 索定喜屋武 ・讃谷山・勝連・本部 ・ 今蹄仁 ・ 園頭・久志等慮線地頭職、兼務其間切在番職、而線地頭官或有任 職、或有染疾時、自億士臣代理其事 。 至後世、以其係大臣之故、不以線地頭兼理其戦 。 然市不論按司 ・ 親方、其 線地頭、若有請願兼任其職、則准其所詩 。 是年始定圏中均 一 直擢士臣、授矯在番、市不准其詰罵 。

(9)

︹元来、喜屋武・読谷山・勝連 ・ 本部 ・ 今帰仁・国頭 ・ 久志の総地頭職は、その間切の在番職を兼務するよう定め であった 。 そこで総地頭官は在番職に就き、病気の時は自ら士を雇って在番職を代理させた 。 後世に至り、総地 る じ ウ エ カ タ ( 刊 ) 頭が大臣である乙とを理由として、総地頭に在番職を兼任させなかった 。 しかし按司 ・ 親方を論ぜず、その総 地頭が、もし在番帥帽を兼任することを請願するならば、これを許可した 。 今 年 ( 七 二 三 年)初めて国中に、士 臣を直選し、在番に任じ、従って総地頭の請願は許可しないことに定めた 。 ︺ { 球陽地七六五 } すなわち 一 七 二 三 年に、本島七間切では王府から﹁直摺﹂された士が在番を勤め、地頭は兼任できないことが定め られたのである 。 慶良間島・粟国島に関しても同様のことが 一 七 二 五年に定められている ︻ 球陽 h 七 八 一 } 更に 一 七 三 一 年には、無給の横目職(定数五十員)に五年就くと、輪番で有給の在番職(国頭 ・ 久志・本部 ・ 今帰仁 ・ 読谷 山・勝連 ・ 喜屋武 ・ 伊江・慶良聞の九間切)に任じることが定められた { 球陽恥九四四でこれは当時、増加する士 族に対して役職が不足していたので、その解消のための 一 施策であったとされている[田名九 二 ] そもそも在番奉 行の接待をする大和横目を始めとして首里横目以外の横目は、漂着とも比較的関わりを持つ役職であった ( 後 述 ) 。 一 七 三 五年には、在番の俸米も、総地頭ではなく王府から支出されることになり、ほぼ地頭への依拠は絶たれた 球 陽 尚 一

O

O

考 久米島在番に関しては下記の如くであり、在番が次第に間切行政との関わりを強めたことが分かる 。 寺& 同欄 姑米山具志 川 ・ 仲里在雨郡、毎郡置在番 一 員、異園異人瓢到、其島矯緋理諸事、俸米賜伍剤、至嘗今年兼修其島

E

貝 公務、国中興検者、不異其職 。 由是毎員加賜俸米五斜(共計毎員十桝) 。 巻 ︹ 久 米 島 に 具 志 川 ・ 仲 里 の 二 間切があり、間切ごとに在番 一 員を設置し、異国異人がその島に漂着する時、諸事を 処理させ、俸米五石を与えている 。 今 年 ( 一 七 三 七年)になって、その島の公務を兼任したため、国中の検者

(10)

(後述)と同様の職務になった 。 ごのため各員に俸米五石を 加 授する ( 合 計 各 員 十 石 ) 。 ︺ ︻ 球陽尚 一

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四九 ︼ また、渡名喜 ・ 粟国両島の在番の俸米に関しては次のような記載があり、ここからも諸浦在番が次第に間切行政と の関わりを強めたととが窺える 。 自往昔時、粟園・渡名喜、設置在番 二 員、而異国異人瓢到其島、膝封明緋、馬諸事宜 、 賜俸米伍斜、従今年兼修 其島公務、圏中輿検者、不異其職、是以加賜雑石 二 倒(共計毎員七斜) 。 ︹昔から粟国・渡名喜は在番 二 員を設置している 。 そして異国の異人がその島に漂着した時に応対・査明し、諸事 を問題無いように治め、俸米五桝を与えられていた 。 今 年 ( 一 七 三 八 年 ) から、その島の公務を兼ね治めるの で、国中の検者と仕事は違わない 。 そごで雑石 二 割を増授する(合計毎員七斜) 。 ︺ ︻ 球陽地 一

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六 二 ︼ 在番の他に、王府から各間切へは下知役 ・ 検者が 一 人ずつ派遣されていた 。 この両役は物奉行所帯方に属し、疲弊 した間切の再建を 一 義的な職務としていたが、在番が派遣されていない間切において漂着問題が生じた時には下知 役・検者が現地責任者とされていた 。 ② 地方行政と異国船漂着 間切 ・ 村はそれぞれ両惣地頭 ・ 脇地頭に﹁領有﹂されていたが、その運営は王府の行政機構の末端に組み込まれた じ か た ( 初 ) 股民出身の地方役人層が担 っ ていた 。 行政の中心は各間切内にある番所である 。 地方役人の下に必要に応じて諸役 (係)が設置されており、この内、漂着に関わるものとしては遠目番(遠見番) と津口勤番(津口横目)が挙げられ る 遠目番は 一 六四四年の燦火の制と同時に創始されたようである 。 燐火の制に関しては ﹁ 球陽 ﹄ に次のようにある 。 本園無有燦火 。 或貢船、或異国船、集来到外島、只有遺使、以矯菓報其事 。 今番、始建燦火、子中山各慮並外

(11)

島、而貫船 二 隻、回至久米・慶良間・渡名喜・粟国・伊江 ・ 葉壁等島、即燐蜂火 二 矩 、 一 隻即燐燐火 一 矩、若有 異国船隻、即焼燐火 三 矩、特次停焼、以潟早知中山 。 ︹本国には燦火が無く、貢船や異国船が外島に到来したら、使いを派遣して、その事を報告させるだけであ っ た 。 今、燦火を琉球の各処 ・ 諸外島に創建する 。 そして貢船 二 隻が、久米・慶良問 ・ 渡名喜・粟国・伊江 ・ 伊平屋な どの島に帰還したら、すぐに燐火を 二 回 燐 き 、 一 一 隻 な ら ば 燐 火 一 回を焼く 。 もし奥田船が来たらすぐに熔火 三 回 を焼き、順次伝えて焼き、早く王府へ知らせるようにさせる 。 ︺ { 球陽尚 三

O

八 ︼ 遠目番の役割は次のようなものであった 。 一 異国方勤之儀、専在番人受込にて、遠目はん之儀は船之往還見分仕迄之役目にて候 。 一 遠目番人之儀、唐船異国船往来之節、立火之首尾相携候事 。 ︹ 一 、異国に関する仕事は、専ら在番が引き受け、遠目番は船の往還を見分けるだけの役目である 。 一 、遠目番は貴船・奥田船が往来の時に、燦火を上げる首尾に従事すること 。 ︺ ︻ 古老集記 三 七 二 頁 } このようにあくまでも遠目番は諸浦在番の管轄下で、その指示のもとに報告や立火(燦火の打ち上げ)に従事する に過ぎなか っ た 。 遠目番は各間切で選抜され輪番で業務に当たっていた 。 例えば与那城間切では六人 三 交代制であっ ( 幻 ) た 。 また﹁遠見番ハ地頭代撰抜シ物奉行ニ具上シ物奉行之ヲ命ス 。 資格ハ間切中地人ニ限ル 。 昇級ハ勤功ヲ積ミ筑登 考 号 ふ 醐司 之坐敷位ニ登ル 。 (遠目番は地頭代が選抜して物奉行に推挙し物奉行が任命する 。 資格はその間切に籍のある者に限 チ ク ド ゥ ン ざ し を ( n ) ( お ) る 。 昇級は勤功を積むと筑登之座敷に登ることができる 。 )﹂とあるように、遠目番は百姓が位階を得る機会の 一 つ と 頭 巻 なっていたのである 。 津口勤番の設置は 一 七 三 五年であり、元来は津口 (港)で積み荷を検査し、林産物の制限や禁止木の摘発を行う役

(12)

四 { 削 叫 ) 職であったが { 球陽尚 三

O

九 ︼ 、後には難破船の処置にも当たったようである 。 勤功を積めば地頭代・仮地頭代・加 ( ) 勢地頭代に進むととが可能であった 。 また地方役人の 一 つで警察業務を勤める小横目も津口勤番と同様、難破船の処 ( お ) 置に当たっており、その資格・昇級順序は遠目番同様であった 。 こうした遠目番(遠見番) や津口勤番の設置は、幕府の沿岸防備体制構築の 一 環として理解出来る 。 山本博文によ れば、島原の乱鎮圧に続く 一 六 三 九(寛永 三 ハ)年のポルトガル人追放(いわゆる﹁第五次鎖国令﹂)を画期に、幕 府は長崎周辺の九州大名全員に長崎及び九州西海岸防備を義務付ける大規模な九州沿岸防備体制の構築に乗り出し、 翌年のポルトガル使節 処刑以降この警戒体制を強化させてい ったという[ 山本九九] 。 薩摩藩も幕府からの遠目番設 置 令 ( 一 六 四

O

)

に 応 じ て ( 幻 ) カ所を設置した 。 また琉球に遠目番が設置された 一 六四四(正保元)年は、幕府から全国に国絵図作成が命ぜられた [ 山 本 九 五 ] 、異国船番所として津口番所 二 十四カ所・遠目番所十 一 カ所・火立番所十 二 年でもある 。 完成した正保国絵図は軍事的な要素の強いもので、琉球にも今帰仁間切沖ノ郡嶋(古宇 利 島)に﹁奥園 ( お ) 船遠見番所﹂が記載されており、幕府が自身の沿岸防備体制の中に琉球も含めていたことが窺える[山本九五] 。 琉 ( m m ) 球に実際置かれていた遠目番所は ﹃ 藩法集 ﹂ によると 二 十 三 カ所であり、火立所(火立番所か)は ﹁ 薩摩藩調製図 ﹄ ( 鈎 ) ( 調 製 年 不 詳 ) に お い て 二 十九カ所(但し先島を除く)を数えることができる(図 二 参照) 。 各間切にはまた﹁御条目(異国方御修書こも配布されていた 。 こ れ は 一 七

O

四(宝永元)年に薩摩薄から王府へ 布達された異国船漂着の際の処置規範であり、以後 一 八 四

0

年代にいたるまで琉球における漂着船処理の大原則と ( 剖 ) な っ て い た 。 ﹁ 古老集記 ﹄ には﹁ 一 異国方 御係 書、諸問切へ被相渡置候事 。 (異国方御候書は、諸問切へ渡して置く こ と 。 ) ﹂ { 古老集記 三 七 三 頁 } とあり、間切の行政についてまとめた間切公事帳には次のようにある 。 一 右両日四ツ前御教書井異国方御係書文子ニ読せ、地頭代以下錠・文子迄致聴聞候事 。

(13)

一 毎月朔日・十五日、異国方御条書、又ハ置目に罷成候諸帳、文子ニ由'付虫払させ、其首尾を地頭代承候事 。 一 奥園方御用と/諸問切必被相渡置候、異国船・同旗印之絵図、濡文ハ白蟻杯付候あ損ニ罷成候ハ¥早速御評 定所筆者可申出候 。 左候ハ、書替被仰付、右絵図格諮致不念候さはくり

b

壱枚ニ付拾貰文完料銭被仰付候模ニ被 仰定候事 。 一 右同御係書濡文ハ白蟻杯付候ゐ損ニ罷成候ハ、早速御評定所筆者

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可申出候 。 左候ハ、書替被仰付、格護致不 念候さはくり

b

、御保書壱冊科銭五貫文完上納仕候模ニ被仰付候事 。 一 右御高札弁絵図・御候書、万 一 逢出火、不意ニ致焼失儀有之候ハ¥新敷書ニ調被仰付、右品格護之さはくり ハ、御吟味之上、時宜次第可被仰付事 。 附 。 古ミ相成書替不致候あ不叶節ゑ其訳可申出事 。 ︹ て この両日(※毎月 一 日・十五日)の四つ時(午前十時頃)前に、御教僚( 一 七 三 二 年に王府から布達された テ ィ ク グ ウ y チ 教書)と異国方御候蓄を文子に読ませ、地頭代以下提・文子まで聞くこと 。 一 、毎月 一 日 ・ 十五日に異国方御条書や、提(定め) となった諸帳を、文子に虫払いさせ、その首尾を地頭代が 承ること 。 考 て 異国方の御用として諸問切へ渡されている異国船・異国船旗印の絵図が、濡れたり白蟻などが付いて損なわ 論 れてしまったら、早速御評定所筆者へ申し出ること 。 そうすれば書き換えを命ぜられ、この絵図の保護に落ち度 が あ っ た 捌 理 へ 、 E員 一 枚につき十貰文ずつ罰銭が命ぜられる規則が定められている 。 巻 て 異国方御係書が、濡れたり白蟻などが付いて損なわれてしまったら、早速御評定所筆者へ・申し出ること 。 そ うすれば書き換えを命ぜられ、保護に落ち度のあった捌理へ、御篠書 一 冊に罰銭五貰文ずつ上納させる規則であ 五

(14)

ームー ノ、 る 一 、前述の御高札(※キリシタン禁止令高札) -絵図・御修書が、万 一 出火に逢って、不意に焼失したら、新し く書くよう命ぜられ、この品を保護する捌理はお調べの上、時宜次第、命じられる 。 ( 詑 ) 付記 。 古くなって書き換えなければならない時はその訳を申し出ること 。 ︺ この史料から各間切には異国方御条書(宝永元年の御条目)だけではなく、異国船絵図 ・ 異国船旗印絵図が配布さ れており、それらの管理が厳重に命ぜられ、破損時の罰則まで定められていたこと、さらに異国方御条書は毎月 二 回 地方役人に対して読み聞かされたことが分かる 。 御 条 目 の 配 布 は 、 一 七

O

四年以降と思われるが、異国船絵図に関し 一 六四四年の薩摩藩からの﹁覚﹂に、﹁オランダ船 ・ 南蛮船・唐船の絵図を送るので、八重山 ・ その他の島へ ( } 送るように﹂との示達があるととから、遠目番の設置( 一 六四四)とほぼ同じ時期に、薩摩の指示によって各地に配 て は 、 布させられたことが窺える 。 でもほぼ同様であ っ たが、地方役人の下に置かれた係(方)は本島より ( M ) も複雑で、その中に﹁異国方﹂が設置されている点はとりわけ特徴的である。 久米島蔵元(久米島の行政を掌る役所)下に置かれていたこの異国方については、 ﹁ 久米仲里間切公事帳 ﹂ ( 一 七 三 このような地方の体制は久米島( 二 間 切 ) 五)の﹁異国方﹂の項に次のようにある 。 一 遠目番、堂崎 ・ そなみ両遠目番所拾弐人、壱ヶ所ニ弐人完、賦合を以畳夜相詰、無油断致遠見、諸船走出候 ハ¥能々気を付見分之程蔵元

b

可申来候 。 尤夜中込立火可有之候条、是又右同断 。 一 疑敷船相見得候ハ¥早速蔵元申来、在番方ぬ申出、何れ尋問走寄見究、異闘船ニあ候ハ¥在番得差園、諸事 御傍目之通、相勉候事 。

(15)

附 。 遠目番人ニる、他間切蔵元必決申越候ハ、、在番 弁 さはくり則時ニ 差 越相働候事 。 一 右同時辻々ニぁ、鼓打文ゑ鐘旗引揚候ハ¥在宿又 3制作場出之面々、則時布 屋 必走寄候様ニ兼々申渡置候事 。 ︹ 一 、遠目番は、堂崎・楚那見の両遠目番所に十 二 人 一 ヶ 所 に 二 人ずつ、交替で畳夜詰め、油断なく遠見し、諸 船が通ったら、よく気を付けて識別をして蔵元へ報告すること 。 但し夜中は燐火を立てることにな っ ているの で、この時もまた前述と同様にすること 。 て 疑わしい船が見えたら早速蔵元へ報告し、在番所へ伝え、蔵元も在番も走り寄 っ て見極め、異国船であ っ た ら在番の指図を得て諸事を御傍目の通り勤めること 。 付記 。 遠目番人が他間切(※具志川間切) の蔵元へも報告したならそこの在番・捌理も即刻や っ てきて働くこ と むしろぽた てこれと同時に辻々で太鼓を叩いたり鍾旗を揚げたりしたら、家に居る者も田畑に出ている人も即刻布屋(村 ( お ) 屋)へ走り寄るように、前々から命じて置くこと 。 ︺ の﹁異園方﹂の項には更に具体的かつ詳細な既述がある 。 そしてこれらの史 ウッチ 料から、異国方とは在番の指揮下に、地頭代・夫地頭・提・目差・蔵筆者各 一 名といった地方役人で構成され、配 ﹃ 久米仲里間切公事帳 ﹂ ( 一 八 三 二 考 下に遠目番を置く組織であったことが分かる 。 そして異国船漂着の時には乙の異国方を中心に、在番・地方役人から 論 土地の者まで総出で対処する乙とになっていたのである 。 頭 つ二発見から出固まで│地方から王府(中央)

"

"

"

巻 ①発見 既述してきた地方の対﹁異国船漂着﹂体制は、実際どのように機能したのだろうか 。 一 七 三三 年の事例[朝 ① ] で 七

(16)

八 さ す の そ ば は、漂着地である慶良間島の諸浦在番が、首里王府の鎖之側へ下記のように報告している 。 今月廿九日八ツ半時分、渡嘉敷内、外干瀬申所近ク

b

、疑敷船壱般乗来由、遠目番人ぷ様子有之候ニ付、早速、 助船を出シ相働候処、無間後右干瀬台乗揚申候ニ付、則、さはくり中井小横目召列、着場 -h 差寄り見届申候得 ハ、朝鮮人 S 見得候付、浜必卸、粟粥なと喰せ申候否、村之入口人之家を移、 柵 を結廻、夜めしなと喰、さはく り位衆ニあ番仕居中候 。 ︹ 今 月 ( ※ 十 一 月 ) 二 十九日八つ半時分に、渡嘉敷の内、外干瀬と 言 う所の近くへ、疑わしい船 一 一 艇 が や っ て 来 た と、遠目番人から状況が報告されたので、早速、助船を出し働いたところ、間もなくこの干瀬に乗り上げたの で、すぐに捌理達と小横目(※全て地方役人)を百し連れて、漂着場へ行き見届けましたら、朝鮮人と見えまし たので、浜へ降ろし、粟粥などを食べさせ、村の入口の人家に移し、 柵 を張り巡らせ、夜食などを食べさせ、捌 理 ・ 位衆に番をさせています 。 ︺ ︻ 評定所 ① 六 三 頁 } この事例からも窺えるように、異国船漂着の際には、﹁遠目番などによる発見 ← 在番 ・ 地方役人への報告 ← 在番の 指示による諸処置﹂という 一 連の作業が原則的に守られていた 。 各間切に配布されていた﹁御条目(異国方御修 書 こには、漂着民は固い内に拘束し、番人を付け、出歩いたり土地の者と接触したりする乙とは禁じ、食事や薪は 相応に与えて饗応がましいことはしないよう定められていたが、前掲の事例からはほぼとの通りの処置が行われてい たことが分かる 。 その他にも、漂 着 地に近い安全な港への転送 、 海中に散逸した荷物や溺死者の捜索、船骸の収集や 船 隻 の処理なども必要に応じて行 っ ていた 。 その際、在番は地方役人に逐 一 相談し協力し合 っ ていた 。 漂着民への食 ( 釘 ) 料支給など処置の費用の大半は、後で王府に請求されたが、人件費の大部分は地方が負担する決まりであ っ た 。 ②王 府への報告

(17)

さすのそば 一 方で、地方からは数日以内(早い場合は同日中)に首里王府の鎖之側という役所ヘ緊急報告を行 っ て い た 。 報告 ( お ) は、飛脚(地方役人)を使 っ て、原則的に在番・検者・下知役とい っ た 中央からの派遣官が行 っ ていたが、地頭代な どの地方役人と共同(連名) で行われることもあ っ た 。 報告に際しては、漂着民から書付を取り、それを 王 府に提出 していた 。 鎖之側とは、中国の礼部、朝鮮の礼曹に相 当 するような外交 ・ 文教を掌る役所で、その長官である鎖之側官( 一 ひ ち ょ う 抱 し ど り し も の う ざ ( 犯 ) 名)と次官の日帳主取( 二 名)(共に評定所の下御座の表十五人のメンバー)をト ッ プ に様々な部局を統括してい た 。 そして異国船漂着の際の総責任部局がこの鎖之側であり、 全 ての報告はまず鎖之側へなされるのが通例であ っ た 。 報告を受けた鎖之側は、原則的に ① 摂政 ・ 三 司 官 、 ② 国 王 、 ③ 在番奉行(那覇駐在の薩摩役人) の順に、至急報 告を行い、その指示を仰ぎながら関係部署に通達し、処置への準備を促していた 。 地方からの報告後は、

( X

)

直ちに地方から漂着民収容センタ ー である泊村へ漂着民が転送される場合と、 ( Y ) 王 府から役人が派遣されその指示下に入る場合とがある 。 いずれの場合でも、在番(或いは下知役 ・ 検者)が逐 一 鎖之 側の指示を仰ぎ(その鎖之側は王府での商議後、在番奉行の許可を得ていた)、処置を行 っ て い た 。 ① 下知 ・ 検見役人の派遣 ( Y ) 考 ( Y ) の場合に中央から派遣される役人は、琉球側の役人のみで構成され諸処置を指示 ・ 遂行する下知役人と、薩 け み 摩役人を中心に主に処置を監視する検見役人に大別できる 。 毛色 同冊 頭 ( a ) 下知役人 巻 事例[朝 ② ]( 一 七九四)に関する史料に、﹁為下知、左之人数漂着場

b

差越先例御座候問、其通被仰付度旨、人数 書を以被達上覧、相済候事 。 (下知のため、次の人員を漂着地へ派遣する先例がありますので、その通りに命じてい 九

(18)

ただきたい旨、人員リストを以て国王に上覧し、済ませました 。 ) ﹂ { 評定所① 三

O

一 頁 ︼ とあり、続いて﹁御物奉行 壱 人 ・御鎖之側・大夫 壱人 ・ 通 事 壱人 ・ 医 者 壱 人 ・ 評定所筆者弐人・御物奉行筆者﹂ { 同前 三

O

二 頁 ︼ とある 。 乙 の 記録やその他の史料から判断するに、﹁鎖之側役人 一 名(鎖之側官・日帳主取) -物奉行所役人 一 名(物奉行 ・ 物奉 行吟味役)・久米村大夫 一 名 ・ 久米村通事 一 名 ・ 医者 一 名・評定所筆者 二 名・物奉行筆者一名(但し船の修理がある

(

ω

)

時 は 二 名)﹂を、下知(指示)のため地方(漂着地)へ派遣することが定例になっていたと思われる 。 下知の役人は 簡や馬で現地に向かい、鑑担ぎ夫や荷物夫を随伴していた ︻ 一 辞 定 所 ① 二 三 五 │ 二 三 六 頁 ︼ 政を執行する役所) これらの役々の内、処置の総責任者が鎖之側役人であり、金銭面での諸問題を直接的に担当したのが物奉行所(財 の役々であった 。 また久米村の大夫・通事は漂着民との意志疎通を担当し、医者は医療を、評定 所筆者(吏員)は事務・雑務を担った 。 大夫・通事(久米村)へは、鎖之側から久米士を管轄する惣役・長史に派遣 要請がなされた 。 医者へは双紙庫理(宮内・諸細工を掌る役所)の下庫理の番医者などに﹁異国方医者﹂として直接 ( 位 ) ( H M ) 派遣要請がなされたようである 。 これら異国方大夫・同通事・同医者は、漂着ごとに臨時に任命される役職であっ ( 判 ) た 。 またこれ以外にも必要に応じて諸役が派遣された 。 例えば船の修理のために唐船脇大工が派遣されたり(事例[中 ① ] ) 、 土 語 ( 方 言 ) のできる通事が追加派遣されたり(事例[中 ② ] ) し た 。 滞在が長期に渡ったり、体調が悪く な っ たりした場合は、しばしば交替をしていた 。 更に漂着民の規模などに応じて、派遣の形態も柔軟に変えていた ( 事 例 [ 朝 ③ ] ) 。 だが少なくとも十七世紀後半から十九世紀後半までは、下知役人の派遣は大きな変化もなく行われ ていたようである 。 ( b ) 検見役人

(19)

事例[朝 ② ]( 一 七 九 四 ) の記録には﹁横目衆御壱人 ・ 附役衆御壱人為締方、同心壱人・大和横目壱人・問役壱人 被召列、漂着場

b

被差越先例(横目 一 人・附役 一 人が取締りのため、同心 一 人 ・ 大和横目 一 人 ・ 問役 一 人 を 率 い て 、 漂 着 地 へ 赴 任 す る 先 例 ) ﹂ ︻ 評定所 ①三

O

三 頁 } とあり、また事例[中 ② ]( 一 八四四) の記録には﹁横目・附役衆ヘ も、足軽・大和横目召列差越候段も取添申上候先例候(横目 ・ 附役も、足軽 ・ 大和横目を率いて赴任する事を添えて 国王に申し上げる先例である)﹂{評定所 ① 五七四頁 } とある 。 とれらの記録から、検見役人は那覇の在番奉行所(御 仮 屋 方 ) から派遣される﹁横目 一 名 ・ 附役 一 名 ・ 足軽 一 名(或いは同心 一 名こと、その対応を業務とする﹁大和横 目 一 名 ・ 問役 一 名 ﹂ を基本数としていたことが分かる 。 異国船の漂着については日本 ・ 薩摩から様々な指示がなされており、また漂着船に関しては薩摩を通じて江戸 ・ 長 崎へ報告することが義務づけられていたため、指示が遵守されているか監視し、その首尾を薩摩へ報告することは、 在番奉行 一 行(薩摩から派遣されたお目付役人集団)の重要な役目の 一 つ で あ っ た 。 そして彼らの接待 ・ 世話は、那 な は さ と ぬ し お も の ぐ す く 覇の行政監督官である那覇里主(首里士) ・ 御物城(那覇士)が率いる那覇土 (主に大和横目・問役)が担当してい た 。 このため検見役人の派遣要請は、鎖之側からそれぞれ在番奉行所と里主・御物城へ出されていた 。 薩摩役人は琉日関係の隠蔽のため、﹁唐人漂着之節、御仮屋方必ゑ、着場之村

b

s h

不被差越先例候(中国人漂着の 考 節は、在番奉行所の役人は、漂着地の村へは来ない先例である)﹂ ︻ 評定所 ① 五 八 二 頁 } とされており、漂着民の近く ( MM ) に詰めるものの、間近には行けないことになっていた 。 例えば事例[中 ① ]( 一 七 四 一 )では、漂着した中国人が下 論 頭 運天村へ収容されることになったので、検見役人の横目 ・ 附 役 ・ 足軽 ・ 大和横目 ・ 問役は上運天村へ詰め、下運天村 巻 へは下知役人のみが詰めている ︻ 評定所① 二 五 二 頁 でそのため、大和横目・問役が、 漂着民と同じ村に詰める下知 役人との連絡業務も請け負っていた 。

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この検見役人派遣も、十七世紀後半から十九世紀後半まで原則的に行われていたが、やはり場合に応じて可変的で あ っ た 。 事例[朝②]( 一 七 九 四 ) では、長旅による漂着地への赴任を疎んじる薩摩役人と、彼らが来ない方が接待 等の負担が軽くて済む琉球 側 の利害の 一 致のために、派遣が簡略化されている 。 ④ 役人派遣後の処置の流れ 中央からの派遣役人が到着すると、地方(主に漂着地) はその指揮下に入 っ た 。 下知役人は中央の指示を逐 一 仰ぎ ながら、漂着人への尋問・介抱・漂着船の処理・地方への指示(見張り番の割り当て ・ 琉日関係隠蔽の布達など)等 の 実務 を遂行してい っ た 。 その際、常に検見の薩摩役人に報告・相談し認可を得ていた 。 漂着民は下知 ・ 検 見 役 人 派 遣 後 、 ( X ) 泊村に転送される場合と、 ( S ) 地方から直接自船で帰国させる、或いは

( T

)

送還される場合とがあった 。 ① 泊村転送 ( X ) じ か た 琉球のいわゆる﹁漂着民収容センター ﹂ は泊村の泊御蔵敷であ っ た 。 地方(漂 着 地 ) から直接帰国(或いは送還) しない場合は、漂 着民 は原則的に泊村に転送、泊地頭(首里士 ) の配下で泊村を統 率 する泊頭取(泊士) の手に委ね ら れ た 。 泊地頭が漂着問題に直接関わりを持つことは少なく、専ら泊頭取( 一 名)がその補佐役の泊筆者( 一 名)と 共に担当していた 。 泊御蔵敷に関しては下記の如くである 。 一 泊御蔵敷之儀、往古は大島鬼界徳之島由論永良部五島、弁園頭方年貢積来上納方有之、役人詰所等矯被召立置 事候慮、至今は漂着唐人御園所に被仰付置候事 。 ︹ て 泊御蔵敷は、昔は大島 ・ 喜界島・徳之島 ・ 与論島 ・ 沖永良部島及び国頭方から年 貢 を運んで来て上納するた めの、役人の詰め所などが設けられていたのだが、 今 は 漂 着 中国人の御囲所に命じられている 。 ︺ ︻ 古老集記 三 七

(21)

九頁 ︼ 泊村への転送は、 一 七 一 八年の中国人漂着事例が史料上の初見であり ︻歴代宝案 ① 地 二 二 九 ・ 十 ︼ 、これ以 後 、 ﹁ 中 国 人 ・ 朝鮮人・出所不明の異国人﹂漂着民に関しては泊村転送が定着したようである 。 これは状況可変的で はあったものの、殴米船の来航が始まる十九世紀後半までの原則的処置であ っ た 。 漂着民の泊村滞在中には、王府から﹁鎖之側役人 一 名・物奉行所役人 一 名・久米村大夫 一 名・久米村通事 一 名・大 利横目 一 名・評定所筆者 一 名 ・ 物奉行筆者 一 名﹂が派遣され﹁詰め役人﹂として泊村に交替で駐在し、諸処置に当た る泊士を指示した { 評定所 ① 三 一 二 ・五八四頁等 } 但し朝鮮人漂着民の場合は泊村に 一 任され、詰め役人は派遣さ れなかった ︻ 評定所 ①三二 七頁でこれら詰めの役々は地方(漂着地) へ派遣される下知・検見役人の構造と類似し ているが、泊村のすぐ隣に位置する那覇から薩摩役人が派遣されて詰めるととは無く、医者も詰めの人員には含まれ ていなかった 。 王府(鎖之側) や詰め役人の指示を受けて、処置の実務に当たるのは泊頭取が統率する泊士達であった 。 地方(漂 着 地 ) で処置の実務に当たる在番 ・ 地方役人の役割と似ているが、責任の比重は泊頭取の方が重かったようである 。 ( U ) 泊頭取は、漂着民の処置にあたる士を選び王府に推薦し、また漂着民の処置及びそれにより煩雑化する公務の応援の ( 必 ) ために、泊村の者を臨時に任じるようしばしば王府に要請していた 。 近世中期以降、琉球では位階・任職の上で首里 考 論 士 ・ 那覇士 ・ 泊士の順で優劣の差が生じ、泊士は最も出世から遠い存在であった [ 回 名 九 二 ] こうした状況の中 頭 で、異国人の漂着は泊士 ( 時 に は 百 姓 ) の臨時の任職の機会にもなっていた点には留意すべきであろう 。 巻 泊村に転送された漂着民は、 ( S ) 自船で直接帰国するか、 ( T ) 貢船・護送船で清に送還されるかのどちらかで あった 。

(22)

四 々 c -c ' l u 必 準 先 島 に お け る 対 ﹁ 異 国 船 漂 着 ﹂ 体 制 (二先島の体制 先島には地頭制が敷かれず、本島や久米島とは異なる独特の統治体制構造を有 し て い た 。 先島の行政を掌る役所は ひ ら ら 蔵元と 言 い、宮古島は平良、八重山は石垣島に置かれて、各々 三 間切を統治していた 。 ( 品 開 ) 王府からは先島在番(一員) ・ 在 番 筆 者 ( 二 員)が派遣され、蔵元行政の目付役として、在番仮屋に詰めていた 。 在番制創始(一六 二 九

l

宮古在番・二ハ 三 二

l

八 重 山 在 番 ) の 理 由 は 、 ①幕 藩制への編入に伴う異国船やキリシタン を警戒した海防監視体制の展開と、 ②王 府体制の近世的変革における先島の直接統治化であるとされている[高良八

O

]

特 に ① の流れの中では 一 六四 一 年に薩摩役人が駐在する大和在番制が先んじて開始され、とれは 一 六四八年 に終了されたが、入れ代わるように琉球の在番制が拡充されていった 。 琉球が薩摩に代わって海防を担うようにな り、更に在番の役割は徐々に在地支配へと重点を移してい っ たのである[真栄平八九] 。 乙うした点に関しては本島 における諸浦在番の性格の推移にも共通性が見られるが、本島とは異なり、先島(先島在番を含む)は物奉行所(所 帯方御物奉行) の管轄下に置かれていた ( 一 六五

0

1

)

。 他に王府から住職( 一 員 ) 詰 医 者 ( 一 員 ) の派遣が制度 的に行われていた 。 またしばしば使者が来島し、特に先島統治の在り方を抜本的に改善するために王府から送られる 検 察官﹁ 検 使 ﹂ は 、 当 時の先島行政を知る上で欠かせない数々の文書を布達している 。 先島においても異国船漂 着 の際の処置責任者は在番であ っ た 。 八重 山 に は ﹁ 進 貢 ・ 接貫船、唐人通船、朝鮮人乗 船、日本他領人乗船、各漂着弁破船之時、八重 山 島在番役々勤職帳(進貢 ・ 接貫船、中国人船、朝鮮人船、日本の他

(23)

領の船が、各々漂着・破船の時、八重山島在番役々の勤職帳) ﹄ { 石垣叢書 ④ } という長文の漂着船対応マニュアルが 残さ れているが 、これは八重山 ・ 宮古の在番が各々編纂して王府に提出したものを統合する形で作られ、 八 年 一 一 月 二 十 一 日付で王府から八重山へ発給されたものである 。 そしてこの経緯から恐らく宮古島在番にも同様のマニユ アルが発給されたことが祭せられる 。 か し ら 必 っ か い や ︿ に ん ユ ン チ ユ 地 方 役 人 の 構 造 は 、 頭 ( 三 人制)の下に、唆役人(首里大屋子・与人・目差)が管理する村と、諸座役人の詰 める諸座・諸方の組織(蔵元)があるというもので、蔵元における諸座・諸方の主要ポストは唆役人が兼任し、その 事務処理は蔵筆者(大目差・大筆者 ・ 脇 目 差・脇筆者)が担当し、下級役人(筆者など)が実務に従事した 。 漂着に関しては、先島蔵元の配下に異国方や遠目番所があり、更に八重 山には 異国通詞が存在した 。 しかしこれら の機構や役職の創始に関しては不明な点が多い 。 前述の検使の出した主な文書では、これらの諸機構・諸役の記載は 十九世紀後半に現れる 。 まず異国方については 一 八五七年の﹁翁長親方八重山島蔵元公事帳﹂に次のように見える 。 これ以前の史料に異国 方の記載が見えないことから、殴米船の来航が頻繁になった十九世紀後半に入ってから創始された係(方) である可 能性もあるが定かではない 。 考 異国方月番賦り在番弁筆者・頭以下首里大屋子・与人・仮若文子迄致番賦り置、異国船到着之節ゑ無窒可相勤 寺 & 岬冊 事 自 員 ︹異国方の月番の配分は、在番 ・在番筆者・頭から 首里大屋子 ・ 与人 ・仮若文子まで割り撮 って置くこと 。 異国船 巻 が到着した時は、差し支えないように勤めること 。 ︺ ︻ 石垣叢書①二ハ│ 一 七頁 ︼ 次に、最も記録が豊富な遠目番についてであるが、 一 八五七年の﹁翁長親方八重山島規模帳﹂には以下のようにあ

(24)

_.L. /'¥ る 遠目番人之儀、平久保 ・ 川 平 ・ 桃里弁西表村之内外離、

E

与那国島五ヶ所ニ拾弐人完、都合六拾人免引被定置 ( 処カ ) 口、近年不人足相成候付、平久保村四人、桃里村弐人、 川 平村 ・ 外離六人完、与那国島拾弐人、合 三 拾人召成来 候処、右遠目番人之儀、肝要成勤向、其上仕口物備後割為産ハ所用難差欠候問、与那国島ハ被定置候人数、外 離・平久保 ・ 川 平 ・ 桃里四ヶ所ハ 一 同六人完、都合 三 拾六人ニ可召成事 。 ︹遠目番人は、平久保 ・ 川 平・桃里 ・ 西表村の内の外離・与那国島の五カ所に十 二 人ずつで、都合六十人の夫役 (人頭税)を免除されていたが、近年人足不足になったので、平久保村四人、桃里村 二 人 、 川 平村 ・ 外離六人ず っ、与那国島十 二 人の、計 三 十人を当てて来た 。 乙の遠目番人は、重要な勤務であり、その上労働物としての備 ( 日 ) 後 ・ 割為むしろは島では欠く乙とのできないものなので、与那国島は決められた人数、外離 ・ 平久保・ 川 平 ・ 桃 里四ヶ所はすべて六人ずつ、都合 三 十六人で勤めるとと 。 ︺ { 石垣叢書 ⑦ 八七│八八頁 ︼ つまり遠目番人は租税の 一 種である夫役を免除されており、島で使用するむしろ作りを義務付けられていたのであ る 。 乙のむしろ作りに関しては 一 八七四年の﹁富 川 親方八重山島諸村公事帳﹂にも類似する記載が見える { 石垣叢 書 ③三 四頁 ︼ 一 八七四年の﹁富 川 親方宮古島諸村公事帳﹂に、遠目番からどのよ (m M ) うに立火で合図をするかが、村ごとに詳細に定められている 。 また遠目番に対してでは無いが、漂着船を知らせる立 漂着船を知らせる燦火の﹁立火﹂に関しては 火について 一 八七四年の﹁富 川 親方八重山島諸村公事帳﹂には次のようにある 。 漂着船之瑚天気悪敷有之、在番所必通船不罷成節 t b 左条之通相図火定置候問、村中老若男女畳夜気を付、相図之 立火井煙相見得候ハ、早速役人方

b

申出候様、村中之男女毎々竪可申渡事 。

(25)

附 て 御当地之船井唐船漂着之時立火弐ツ て 大和船漂着之時立火 三 ツ 一 、外国船漂着之時立火四ツ 右 三 行之通、畳夜立火可仕候問、畳 t b 立煙を以通達可致事 。 ︹船が漂着した時天候が悪く、在番の所へ船で行けない場合は、次の条の通り合図の火を定めるので、村中の老若 男女とも畳夜気を付け、合図の火や煙が見えたら、早速役人へ申し出るように、村中の男女に常々堅く申し渡す こ と 。 ← リ ロ b o

f

f

一 、琉球船 ・ 渡唐船(貢船)の時立火 二 つ 。 一 、大和船漂着の時、立火 三 つ 。 て 外国船漂着の時、立火四つ 。 前 三 行の通り、畳夜火を立てるので、畳は煙で通達すること 。 ︺ ︻ 石垣叢書 ③三 九頁 ︼ 考 またこの記載に続いて、各地の立火による伝令ルlトが詳しく定めてある { 同前 三 九 │ 四 一 頁 } 論 次に異国通詞(通訳)についてであるが、八重山島に関しては ﹃ 古老集記 ﹄ に﹁八重山島、異国通調役 三 人之 目 頁 事 。 ﹂とある ︻古老集記 三 四七頁 ︼ この記事の年代は不明であるが、八重山において役職としての異国通詞(定員 三 巻 名)が創設されたのは 一 七 七 三 年であることが既に論証されている[高良九九] 。 宮古島に関しては不明な点が多 く 、 ﹁ 古老集記 ﹄ にも関連の記載はない 。 一 八七四年の﹁富川親方八重山島蔵元公事帳 ﹂ には、それまで定数未定で 七

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}¥ ( 白 川 ) あった外国方通詞役を四人に定め、勤務中は日に 一 つずつ勤星を与えるように定められている ︻ 石垣叢書 ⑤ 六八 頁でまた同年の﹁富 川 親方八重山島諸締帳﹂には、これらの通詞に通調予備軍の教育も担当させるよう定められて い る ︻ 石垣叢書①六 二 頁 ︼ 先島では本島や久米島で見られるような、御条目(異国方御修書) の読み聞かせの記載は見あたらないが、村々に 布達された 一 八七四年の﹁富 川 親方八重山島諸村公事帳﹂には次のようにある 。 て外国船漂着之時 ゑ 早速在番所必飛船差遣、在番 ・ 頭不差越内ゑ左之通締方可入念事 。 附 、外国船漂着候ハ、早速飯米 ・ 水 ・ 薪木乗せ漕出見合を以相波、左候あ警固船壱両般右船必不近寄、外国 人陸

b

不下様入念御条目之通可相勤候也 。 一 、破損仕事後有之候ハ¥人家迦不障様堅固結廻可召簡置候也 。 一 、外国人台島中之附不仕、題目琉球大和必通融之段少も知シ間敷候也 。 一 、外国人滞在中、公用之外見物ニ参候儀禁止候也 。 て 女之儀外国人より見付不義之企共有之、万 一 圏外

b

可走出儀も可有之候哉念遺候問、外国人宿近辺道筋 より女往還堅禁止候也 。 一 、外国人より少事之物誼も進物語取候儀、堅禁候也 。 一 、火用心肝要候問、能々気を付勤番可仕候也 。 一 、外国人若囲外必走出候ハ¥楚忽ニ不仕様随分和談を以可相止候也 。 一 、漂着船之儀時ニ不限致漂着候問、老若男女共不断固畠往通之瑚、沖間

b

御領之船 t b 勿論、異様之船形 5

(27)

考 三& 同柵 頭 巻 相 見 得 候 ハ ¥ 即 刻 役 人 方

b

申出候様村中

b

堅可申渡事 。 ︹ 一 、外国船が漂着した時は早速在番のところへ飛船を出し、在番・頭が到着するまで下記の通り取締に念を 入れるごと 。 付記 。 て 外国船が漂 着 したら早速飯米・水・薪木を乗せて漕ぎ出し渡すこと 。 そして 警護 の船 一 、 二 般は乙の 船へ近寄らず、外国人が上陸しないように念を入れ、御条目の通りに勤めること 。 一 、破損することがあれば、人家から離れて差し障りのないように堅固に垣根を廻して閉じこめておくこ と 一 、外国人へ島中の話をせず、時に琉球が大和へ通じているととは絶対に知らせてはならない 。 一 、外国人が滞在中は、公用のほか見物に行くことは禁止する 。 て 外国人が女を見つけ、不義のたくらみをなし、万 一 固いの外へ走り出るかもしれないと気遣われるの で、外国人の宿近辺の道を女が往来する事は堅く禁止する 。 一 、外国人から少しのものでも進物を受け取ることは堅く禁止する 。 一 、火の用心は重要なのでよく気を付けて勤めること 。 て 外国人がもし囲いの外に走り出たら、失礼にならないよう穏やかに話し合 っ て制止すること 。 一 、漂着船は時を選ぱず漂着するので、老若男女ともいつも田畑へ往来する時には、沖に琉球の船は勿 論、異様な船形が見えたら、即刻役人へ申し出るように、村中へ厳しく申し渡す乙と 。 ︺ ︻ 石垣叢書① 三 八 三 九 頁 ︼ 九

(28)

表 漂着に関する八重山への派遣役人 西暦・漂着民 琉 球 役 人 薩摩役人 備 考 典 拠 1651・中国 ? ? 1651・中国 毛氏屋富祖親雲上~代 (平等之側 新納佐左衛門・ 中国人を連 [石垣議書⑫29 官) ・鄭恩普 上 限通 事 親雲上 (長 竹 内 備 前 道具 れ て 薩 摩 頁!など 史)・屋比 久 親雲 上 (※孫嗣蕪) 衆六人

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。 (筆者) 1655・中国 {専氏安波 根 親雲上昭弼 (平等之側 事島調兵衛・和 中国人を速 I石垣叢書⑬31 官) ・梁応材大嶺親雲上 (:長史) 田甚兵衛・道具 れ て薩摩 頁]など 扇氏{中村渠筑登之親雲上 (筆者) 衆六人

^

'

。 1697・呉国 なし なし [石垣殻曾⑬41 -42頁]など 1702・中国 なし なし 直接帰国 I石垣殺害⑬43 頁lなど

この文書は 一 八七四年のものであるが、与世山親方が 一 七六八年に 検使で来た際に作成された公事帳の再々改訂版であり、村々に御条目 と共に漂着船への対応や琉日関係の隠蔽が示達され続けてきたととを 示唆するものである 。 ( 二 )発見から出固まで ( 日 ) 先島への漂着事例は琉球領内では最多であ っ たが、ことでの処置体 系は本島地方とは若干異な っ ていた 。 端的に 言 うなら、近世初期を除 いて、中央からの下知 ・ 検見の役人派遣が行われていなかったのであ る 宮古島に関しては判然としないが、比較的史料が豊 富 な八重山につ いては、役人派遣については表 一 のようにまとめることができる 。 ご こに見える役人派遣は、琉球における漂 着 民への処置の形態が確立す る聞の過渡的処 置 であると思われ 、 その役人構成は後に本島地方で定 着 するそれとは大きく 異 な っ ていることが 分 か る 。 そして十七世紀中 期 の 二 事 例の役人派遣を除いては、以 後 先 島 へ の 王 府役人 ・ 薩 摩 役人 の派遣は 漂着 に関しては行われなくなるのである 。 恐らく先に触れた長文の漂 着 船対応マニュアル ( 以 下 ﹁ 勤職帳 ﹄ と 略記)が先 島 在番に発給された背 景 には、こうした事情があるのだろ

(29)

ぅ 。 ﹃ 勤 職 帳 ﹂ には、漂着船発見の報告を受けた場合は、﹁在番・在番筆者﹂と﹁頭・横目(地方役人こが現場ヘ急 行し、漂着民の介抱 ・ 尋問を行うと同時に、地方の者へ見張りゃ様々な注意 ・ 禁止事項(琉日関係の隠蔽や漂着民と の接触の禁止)を命じ、

( S

)

船隻修理などの上、直接帰国させるか、

( X

)

破船を処理して地方役人に泊村へ転送さ せ、諸処置の首尾を在番から王府(鎖之側)に報告することが、詳細に定められている 。 そして実際の事例

l

例えば王府(鎖之側) ( 部 ) への報告記録が残存している 一 七 七 一 年の中国人漂着の事例│において も、﹁遠目番←地方役人←先島在番﹂と漂着の報告がなされ、在番と地方役人が現場に赴き、諸処置を指示してい る 。 全てが済んで船が出帆(直接帰国) した後、鎖之側に漂着の件とその処置の次第を報告している 。 まだ先島を管 轄下に置く物奉行所へも事後報告を行っている 。 従って ﹃ 勤職帳 ﹄ に定められた処置は 一 八 一 六年の布達以前から、既にほぼ遂行されていたことが窺える 。 ま た 先島における処置は、下知・検見役人の派遣がなされない点を除けば、本島地方で行われている処置と内容的には大 差は無かった 。

道之島(奄美諸島)について

考 論 琉球領であった道之島(奄美諸島) は、島津侵攻( 一 六

O

九 ) 後 、 一 六 二 年に琉稼領から除外され薩摩の直轄領 頭 となっていた 。 従って、本来ならば幕府の政策に準じ外国人漂着民は長崎へ回送されるはずであった 。 しかし琉日開 巻 係を隠蔽する必要性から、﹁道之島は琉球の領土である﹂という建前が清に対して貰かれたため、﹁中国人 ・ 朝鮮人 ・ 出所不明の翼団人﹂が漂着した場合も、 ( S ) 破船しない場合は直接帰国させ、

( Z

)

破船した場合は琉球へ転送して

(30)

琉球から清へ送還することが 一 六 九六(元禄九)年に定められていた 。 道之島では薩摩から派遣された代官の指揮下に、島役(地方役人) の与人・横目等が統率されており、薩摩藩の提 に従って漂着民の処置をしていたが、琉日関係を隠蔽し、破船の場合は琉球に転送するという点で薩摩藩の他領とは 異なっていた 。 琉球へ転送する場合は、道之島船、或いは年貢の運送などで道之島に来ている大和船を利用した 。 事例[中①] ( 一 七 四 一 ) では漂着地(大島) の代官から琉球の在番奉行に飛船で﹁漂着民転送﹂の報告がなされている 。 その報 告によると大島代官は、﹁当島ニる修甫不相調候付あハ、外ニ可致方便無之候処、幸、宝島船参居候問、此船ニ荷物 積入、本船同前ニ琉球迄可送遣旨(﹁当島では修理の用意ができないので、他に取るべき方法もなかったところ、幸 い に 、 ﹃ 宝 島 船 ﹂ が来ているので、この船に荷物を積んで、本船同様に琉球まで転送する旨)﹂ { 評定所①二二七頁 ︼ を漂 着 中国人に申し聞かせて﹁御米積ト/頃日当島必罷下候(年貢米を積むためちょうど当島へ来ていた)﹂ ︻ 同前 ︼ 中之島の船頭幸左衛門の船で、与人・横目等に護送させて、琉球に送ることにした 。 そしてその約九日後には既に薩 摩へ送った中国人の書付四通の写しを、やはり在番奉行宛てに送り、大島御用船の幸左衛門船及び随伴の大島役人等 を早々に帰国させ、また薩摩に漂着船の首尾を報告する必要性から成り行きの委細を大島に伝えるよう要求してい る 。 道之島からの琉琢転送の詳細が知られる事例としては、この事例[中 ① ]が管見の限りで唯 一 であるが、道之島 の各代 官記に 散見される漂着船への処置記録から、各島の代官を最高責任者として処置が行われていたことが推察で き る 。 またこの事例では、大島代官は在番奉行とのみ連絡を取り、琉球との直接交渉は行 っ て いないことに留意すべ きである 。 次に直接帰国の場合であるが、詳細はよく分からないものの、琉日関係を隠蔽しながら琉球のみに連れて行かれる

(31)

﹁転送﹂よりは、若干柔軟な対応がなされたようである 。 一 六九八年の中国人漂着の事例では、薩摩領宝島に南京船 が碇泊したが、﹁彼地之儀ゑ湊無之、長々般を繋置候儀難成、首園之地必送越候儀も順風無之時分之故、唐人共必相 封之上、同十四日琉球之内大嶋と申所迄、案内相付差越申候(彼地は港が無く、長々と船を繋ぎ置くのは難しく、柑継 摩へ送るのにも順風が無い時なので、中国人へ相談した上、(※九月)十四日に琉球の内の大島と 言 う所まで、案内 を付けて連れて行くこことにした 。 この船は大島を自船で出帆後、また薩摩領に着船し、結局長崎へ回送されてい る 。 ま た 一 七 三 五年の朝鮮人漂着の事例では﹁是より琉球必案内船相付可送届旨以手様相達候処、是より長崎必罷越 度旨手様仕、順風次第直に致出帆度由子様仕候(とれから琉球へ案内船を付けて送り届けると手真似で伝えたが、こ ( 位 ) れから長崎へ行きたいと手真似をして、順風次第すぐに出帆したいと手真似するこので、木屋に囲い置き食事を与 ( 臼 ) ぇ、風を見て出帆させたという 。 このように薩摩領から﹁関係を持たないはずの﹂琉球領(大島) へ送られたり、漂着民が琉球か長崎かを選択した いずれも、長崎回送と琉球転送の狭間の地にあって、この 二 つの処置の境目がやや暖昧な幅を有していたこと ( 目 別 ) を窺わせる事例である 。 また直接帰国の場合は必ずしも琉球へ報告されるとは限らなか っ た ようである 。 灼 J と 考a 薩摩への報告 論 E員 琉稼への異国船漂着は、薩摩から日本(江戸 ・ 長 崎 ) へ報告するよう義務付けられており、そのため琉球王府から 巻 薩摩藩へ下記の 二 通の報告書を送ることが定められていた 。 一 琉球へ唐人異国人漂着之節御届之儀、御家老御連名宛分御書付 一 通、琉球方御取次御用人宛 一 通にて、御届申

(32)

四 上候事 。 ︹ 琉 球 へ 中 国 人 ・ 異国人が漂着した節の御届けは、(※薩摩藩の)御家老御連名宛の御書付を 一 通 と ( ル

l

ト A │ ① )、琉球方御取次御用人宛を 一 通 で ( ル l ト A │ ② )、御届けすること 。 ︺ ︻古老集記 三 八 一 頁 ︼ この伝達経路を詳しく示すと、まず﹁王府(摂政・ 三 司官) ← ﹃在番親方(鹿児島琉球館へ出向) ← 琉球仮屋守 ( 一 七八四年に琉球館聞役と改称) ﹄ ← 琉球方御取次御用人(勝手方用人)﹂( ﹁ カ ッ コ ﹂ 内は鹿児島琉球館、傍線部が 琉球王府或いはその人材)という政治的取次ル l トを辿る[深瀬九八] 。 この勝手方用人がル 1 卜 A │ ② の終点であ ( 節 ) る 。 この勝手方用人の取次で﹁ ← 琉球掛(勝手方家老)←薩摩藩家老衆(家老座)﹂という経路を辿ると、ルートA│ ( 貯 ) ① は藩政の中枢へ終着するのである 。 一 方、道の島(奄美諸島)には勝手方用人への報告のみが義務づけられていた 。 下記の通りである 。 一 道之島唐人漂着御届之儀、琉球方御取次御用人宛同 一 通にて御届申上候事 。

(

ω

)

︹道之島への中国人漂着の御届けは、琉球方御取次御用人宛 一 通で御届けすること 。 ︺ ︻ 古老集記 三 八 一 頁 ︼ 琉球王府からの報告とは別に、薩摩から派遣されている在番奉行も、その職務の 一 貫として藩へ報告を行 っ て い た ( ル 1 ト

B

)

琉球から薩摩或いは在番 奉 行への提出物は前述の﹁御届(和文この他にも、﹁唐人番付・中国船の木形 ・ 漂着場の 絵 図 ﹂ ( ル l ト

B

)

、 ﹁ 清 へ の 杏 文 原 稿 ﹂ { 歴代宝案 ① 尚 二 │ 三 O │ 一 六 } ( ル ー ト A ) 、 ﹁ 唐 人 証 文 ・ 執 照 ﹂ ( 事 例 [ 中 ② ]在番奉行へ)など様々であり、漢文の場合は原文と共に訳文(和文)が送付されていた 。 おわり に

(33)

巻 頭 論 考 図A

1

14m

諮役座(船 手座・高PIT .取納座 など) 間切下知役・検者 先烏在番 先島在番

医亘画

頭 (三人制) 異国方 遠目番 呉国通詞

王H

]

[

久米士] 惣役・長史 異国大夫・呉国 通事など・・・漂着 民との意志疎通 .対消事務

E

久米島在番 地頭代 異国方 遠目番

E

在番奉行・附役 ・横目・足軽な ど-琉球の監視 .薩摩への報告 匝lOD[那覇士] 盟主-御物城 大和横目・聞 役などー在番 奉行の接待・ 交渉 函二回[泊士] 泊頭取-泊筆者 など…泊御蔵敷 への漂着民収容 五

(34)

図B

先 島

ム ハ

(35)

考 西暦 地 方 の 変 化 関 連 事 項 1629 〔宮古〕先島在番設置 1632 〔八重山〕先ぬ在番設位 1640 幕府から薩摩藩へ遠見番設置令 1641 〔八重山〕大和在番制 (-48) 1644 鋒火の制創始(遠目番も?) 薩摩からオランダ船・南蛮船・唐 船の絵図の各地への配布が指示さ れる 1678 〔先島〕在番 1 在番筆者 2.任期 2年の体制に定着 1684 消から潔者民の保護・送還令 1698 〔本島 7間切〕在番の任命に王府の承認が必要・任期 三年の交代制 1704 宝永元年の御条目 1723 〔本島 7間切〕地頭の在番職兼任を禁止 1725 〔慶良閲粟国〕地頭の在番兼任を禁止 1731 〔本島 9間切〕横目職から在番への輪流決定 1735 〔本島〕王府から在番の俸米を支給 " 津口勤番(横目)設置 1737 〔久米 2悶切〕在番がぬの公務を兼務 1738 〔菜園・渡名喜〕在番が白の公務を兼務 論 臣 民 巻 表ニ 近世琉球では、異国船漂着に対して、国王 を頂点に末端部には百姓までも組織した王府 機構のほぼ全体で備える体制が作られた 。 こ の対﹁異国船漂着﹂体制をまとめたものが図 A、処置の流れをまとめたものが図

B

であ る 中央(首里王府及び町方) では鎖之側を中 心とした分業体制が成り立っていた 。 すなわ ち最終的な決裁を下す国王と顧問格である摂 政・三司官の下に、総責任部局として鎖之側 が あ り 、 その統率の元で経済面は物奉行所が 管轄し、漂着民との意志疎通や対清事務は久 米村方が、漂着民収容センターを中心とした 泊村の業務は泊村方が、処置全般を監視する 薩摩役人(在番奉行等) の接待 ・ 交渉は那覇 方が、各々に籍(居付)を置く士族を統率し て担当していたのである 。 また漂着民への処 七

(36)

八 置は、常に薩摩役人(在番奉行)に監視され、彼らから及び王府自身から薩摩藩へ報告されていた 。 更に薩摩藩は江 一 戸・長崎へ報告を行 っ ていた 。 地方へは、鎖之側・物奉行所から派遣された交代制の海防官(在番) の指揮下に、地方役人が異国方・遠目番と い っ た形で組織され、異国船の漂着に専門的に備えた 。 そこには宝永元年の御条目・異国船絵図・異国船旗印絵図が 配布され浸透させられていた 。 また在番が置かれていない間切では下知役・検者が代行していた 。 近世琉球の地方における対﹁異国船漂着﹂体制の整備(変化)をまとめたものが表 二 である 。 この表に明らかな通 り、地方体制の整備はまず先島在番の設置から始められた 。 これは琉球が幕藩制の海防監視体制下に編入されたこと ( 河 ) が大きく影響している 。 更に 一 六四四年には、琉球全土に船の往来を監視する燐火の制が敷かれたが、これも幕府の 沿岸防備義務化の影響であ っ た 。 同年薩摩から、オランダ船・南蛮船・唐船の絵図が送られ、各地へ配布するよう命 ぜ ら れ た が こ れ も ﹁ キリシタン禁制﹂の 一 環である 。 一 六 三

0

年代から 一 六 八

0

年代は﹁鎖国﹂制を含む幕藩体制 の確立期であ っ たが、この時期の異国船漂 着 に対する近世琉球の地方体制の整備は、幕府や薩摩の意向による極めて 他 律 的 な ・ も の で 、 キ リ シ タンへの警戒が 主 な目的であ っ た 。 しかし東ア ジ アの国際情勢が安定 ( 相対的に日・ 清 両国と琉球との関係も安定 ) した後、琉球 王 府が行 っ た地方体 制の整備は、琉球内部の構造改革とい っ た内的要因に基づくものである 。 それを如 実 に示すのが、諸浦在番・久米島 在番の職制改革である 。 在番は、元来地頭の裁 量 下にほぼ置かれていた職であ っ た が 、 徐々に 王 府派遣の交代制の海 防 官 へ と 変容 し、地 頭 への依拠は絶ち切られた 。 そして地頭が 王 府の近世的改革の中で地方への影響力を弱めていく 一 方 で 、 在番は異国船漂 着 への対処をその 一 義的な職としながら、間切行政への関わりを深めたのであ っ た 。 こうして対 ﹁ 異 国船漂 着 ﹂体制は、琉球の国 家 体制の中に内在化され、 王 府の囲内 支 配と不可分の関わりを持ちな

表 漂着に関する八重山への派遣役人 西暦 ・漂着民 琉 球 役 人 薩摩役人 備 考 典 拠 1 6 5 1 ・中国 ?  ?  1 6 5 1・中国 毛氏屋富 祖親雲上 ~代 (平等之側 新納佐左衛門 ・ 中国人を連 [ 石垣議書⑫2 9 官) ・鄭恩 普 上 限通 事 親雲 上 ( 長 竹 内 備 前 道具 れ て 薩 摩 頁!など 史) ・ 屋 比 久 親 雲 上 ( ※孫嗣 蕪) 衆 六人 ^ '  。 (筆者) 1 6 5 5 ・中国 {専氏安波 根 親雲上昭弼 (平等之側 事島調兵衛 ・ 和 中

参照

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