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1945~1952年に見られるカンチレバーの椅子―日本映画に見られる生活と椅子に関する研究(1)―

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(1)

1945

1952

年に見られるカンチレバーの椅子

―日本映画に見られる生活と椅子に関する研究(1)―

The Cantilever Chairs as Seen in 1945

1952:

Research on Seating and Lifestyle as seen in Japanese Films

1

石村眞一

 ISHIMURA Shinnichi(1)

This research explores the use of Cantilever chairs as seen in Japanese films between 1945 and 1952. These chairs were used in 19 out of 107 selected films. Several conclusions may be drawn from a comparison of the types of chairs and the scenes in which they were used in, in their respective films during World War II: 1) Two films in 1946 and 1947 depict scenes featuring Cantilever chairs in pre-war and wartime periods. 2) One may conjecture that the Cantilever chairs used in films after 1947 ware manufactured after the war; however, bamboo plywood chairs emulating pre-war design appeared more frequently than expected in post-war films. 3) When compared to films from the pre-war period, the chairs are mostly depicted in scenes within commercial establishments, especial-ly downtown entertainment venues such as cabaret clubs and dance halls. There is, however, just one instance of the use of Cantilever chairs in wealthy family’s private residence. 4) The use of Cantilever chairs in films reached its peak in 1949 and subsequently dwindled. From this information, we can surmise that the pre-war sense of modern-ism prevailed until around the 1950s.

キーワード:カンチレバーの椅子、日本映画、起居様式、生活様式

Cantilever chair, Japanese film, Seating style, Lifestyle

1.

はじめに

1-1 研究の背景と目的

カンチレバーの椅子(metal tubular cantilever chair)1)は、

マルト・スタム(Mart Stam)によって1927(昭和2)年7月 に開発された。カンチレバー(片持ち梁)構造は、二本脚 の鋼管で当初は開発されたが、後にはフラットバー(平 鋼)、木材の集成材も一部使用されている。近年は二本脚 ではなく、成型合板による板材でも開発されている2)。日 本でも戦前期から使用されており、現在も商業施設を中心 に都市生活で広く普及している。 カンチレバーの椅子に関する戦前期の使用事例は、 1931(昭和6)年から1941(昭和16)年まで、『新建築』『國 際建築』といった建築雑誌類、『アサヒグラフ』のような インテリ層を読者に持つ一部の雑誌に掲載されている3) このことから、使用量としては少ないものの、東京を中心 とした大都市圏では、モダニズムの進展と連動して普及し ていたことが確認できる4)。この普及は家庭での使用、商 業施設での使用、公共施設での使用に分類され、建築雑誌 では個人住宅内での使用が多く見られる。 日中戦争が始まる1937(昭和12)年以降、金属の使用が次 第に統制化され、太平洋戦争が激化する1942(昭和17)年 5月、政府は金属回収令を発令する。その結果、鋼管製の 椅子類は生産することができず、生活の場から姿を消し た。 文献史料によれば、第二次大戦後、鋼管製カンチレバー

研究ノート

(1)郡山女子大学 家政学部 特任教授

(2)

の椅子はGHQには納入されず5)BCOF(イギリス連邦 占領軍)に1947(昭和22)年より納入されている6)。この納 入業者の中には、戦前期に最も早く鋼管製カンチレバーの 椅子の開発と販売を行った日本金属加工株式会社が、社名 を変更して加わっている7)。つまり、戦前期のメーカーが 戦後に復活しているのである。 当然、BCOFへの納入が開始された後は、民生品にも 戦前の技術、意匠が戦後に伝えられている可能性が高い。 電気冷蔵庫のような高度な構造を持つ製品は別として も8)、カンチレバーのような椅子は、技術的にそれほど難 しいものではなく、また高額な商品でないため、民生品と して取り扱える対象である。ところが、戦後(1945∼ 1952年)の文献史料、画像資料には、日本の具体的な生 活場面にカンチレバーの椅子は管見の限り見当たらない。 カンチレバーの椅子に関する戦前期の使用場面は、映画 の中にも散見される。映画は一次資料ではないが、仮に演 出によって用いられた要素があっても、生活との関連性を すべて否定できない。映画は、むしろ積極的に現実の使用 場面との整合性を検証し、既存の文献史料および画像資料 を補う役割を持つ新たな資料と筆者は捉えている9) 本論においては、第二次大戦後の1945(昭和20)∼1952 (昭和27)年という期間10)に上映された日本映画を対象と して、カンチレバーの椅子の有無を確認し、仮に使用場面 があったならば、使用方法および椅子の意匠、構造、材質 を通して、生活との関連性を明らかにする。 1-2 研究の方法と対象 最初に、1945(昭和20)∼1952(昭和27)年に上映された 映画を、『日本映画作品大鑑』11)、キネマ旬報年間ベスト・ テンを基礎に摘出し、その中から現代劇でVHS、DVD、 You Tubeを通して観ることのできる映画を抽出する。次 に抽出した映画の中でカンチレバーの有無を確認し、その 場面の内容を考察する。さらにカンチレバーの使用場面を 戦前期の映画に登場する使用場面と比較し、戦後の使用場 面における特質を明らかにする。 本論で取り上げるカンチレバーの椅子は、鋼管製だけで なく、フラットバー(平鋼)を使用したタイプ、木材およ び竹材を接着剤で積層したタイプも含める。カンチレバー の椅子における意匠、構造、材料を考察することによっ て、オリジナルに対して、日本のデザイン観、生活での使 用実態を深く読み取ることが可能となる。 比 較 検 討 す る 戦 前 期 の 映 画 は、『女 優 と 詩 人 』 (1935/3/21)、『人生のお荷物』(1935/12/10)、『家族会議』 (1936/4/3)、『男性対女性』(1936/8/29)、『淑女は何をわ すれたか』(1937/3/3)、『恋も忘れて』(1937/7/1)、『婚約 三羽烏』(1937/7/14)、『禍福前篇』(1937/10/1)、『愛染か つら総集編』(1938/9/15)、『雪子と夏代』(1941/8/14)の 10作品とする。

2.

調査対象とする映画一覧

研究方法で示した選定方法により、1945(昭和20)∼ 1952(昭和27)年に上映された映画の中から、下記に示し た107本の映画を摘出した。戦前期、戦中期の表現の中 に、カンチレバーの椅子を使用している可能性があること から、現代劇であっても、戦前期、戦中期の回想場面を含 む映画もこの中に取り入れた。 1.『伊豆の娘たち』(1945/8/30)松竹 監督:五所平之助 2.『そよかぜ』(1945/10/30)松竹 監督:佐々木康 3.『東京五人男』(1945/12/27)東宝 監督:斎藤寅次郎 4.『地獄の顔』(1946/1/28)松竹 監督:大曾根辰夫 5.『彼女の撥言』(1946/2/17)松竹 監督:野村浩将 6.『大曽根家の朝』(1946/2/21)松竹 監督:木下恵介 7.『女性の勝利』(1946/4/18)松竹 監督:溝口健二 8.『わが恋せし乙女』(1946/10/29)松竹 監督:木下恵介 9.『わが青春に悔なし』(1946/10/29)東宝 監督:黒澤明 10.『七つの顔』(1946/12/31)大映 監督:松田定次 11.『四つの恋の物語』(1947/3/11)東宝 監督:豊田四 郎・成施巳喜男・山本嘉次郎・衣笠貞之助 12.『長屋紳士録』(1947/5/20)松竹 監督:小津安二郎 13.『十三の眼』(1947/6/24)大映 監督:松田定次 14.『看護婦の日記』(1947/7/1)大映 監督:吉村廉 15.『素晴らしき日曜日』(1947/7/1)東宝 監督:黒澤明 16.『銀嶺の果て』(1947/8/5)東宝 監督:谷口千吉 17.『安城家の舞踏会』(1947/9/27)松竹 監督:吉村公 三郎 18.『不死鳥』(1947/12/11)松竹 監督:木下恵介 19.『懐かしのブルース』(1948/1/8)松竹 監督:佐々木康 20.『誘惑』(1948/2/24)松竹 監督:吉村公三郎 21.『女』(1948/4/4)松竹 監督:木下恵介 22.『受胎』(1948/4/6)松竹 監督:渋谷実 23.『酔いどれ天使』(1948/4/27)東宝 監督:黒澤明 24.『夜の女たち』(1948/5/26)松竹 監督:溝口健二 25.『肖像』(1948/7/27)松竹 監督:木下恵介 26.『颱風圏の女』(1948/9/4)松竹 監督:大庭秀雄 27.『風の中の牝鶏』(1948/9/17)松竹 監督:小津安二郎

(3)

28.『わが生涯のかがやける日』(1948/9/26)松竹 監督: 吉村公三郎 29.『鐘の鳴る丘 第1編 隆太の巻』(1948/11/23)松竹 監督:佐々木啓祐 30.『四人目の淑女』(1948/12/23)松竹 監督:渋谷実 31.『嫉妬』(1949/1/11)松竹 監督:吉村公三郎 32.『鐘の鳴る丘 第2編 修吉の巻』(1949/1/25)松竹 監督:佐々木啓祐 33.『お嬢さん乾杯』(1949/3/9)松竹 監督:木下恵介 34.『静かなる決闘』(1949/3/13)大映 監督:黒澤明 35.『朱唇いまだ消えず』(1949/4/24)松竹 監督:渋谷実 36.『異国の丘』(1949/4/25)新東宝 監督:渡辺邦男 37.『別れのタンゴ』(1949/5/1)松竹 監督:佐々木康 38.『湯の町悲歌』(1949/5/24)新東宝 監督:野村浩将 39.『恋の十三夜』(1949/6/5)松竹 監督:原研吉 40.『ラッキー百万円娘』(1949/6/5)新東宝 監督:斎藤 寅次郎 41.『女性操縦法「グッドバイ」より』(1949/6/28)新東 宝 監督:島耕二 42.『虹男』(1949/7/18)大映 監督:牛原虚彦 43.『青い山脈』(1949/7/19)東宝 監督:今井正 44.『銀座カンカン娘』(1949/8/16)東宝 監督:島耕二 45.『男の涙』(1949/8/29)新東宝 監督:斎藤寅次郎 46.『晩春』(1949/9/13)松竹 監督:小津安二郎 47.『金語楼の子宝騒動』(1949/10/10)東宝 監督:斎藤 寅次郎 48.『野良犬』(1949/10/17)東宝 監督:黒澤明 49.『小原庄助さん』(1949/11/8)東宝 監督:清水宏 50.『鐘の鳴る丘 第3編 クロの巻』(1949/11/17)松竹 監督:佐々木啓祐 51.『破れ太鼓』(1949/12/1)松竹 監督:木下恵介 52.『影を慕いて』(1949/12/25)新東宝 監督:野村浩将 53.『恋愛問答』(1950/1/15)松竹 監督:渋谷実 54.『白雪先生と子供たち』(1950/1/29)大映 監督:吉 村廉 55.『暴力の街』(1950/2/26)大映 監督:山本薩夫 56.『また逢う日まで』(1950/3/21)東宝 監督:今井正 57.『憧れのハワイ航路』(1950/4/1)新東宝 監督:斎藤 寅次郎 58.『醜聞』(1950/4/30)松竹 監督:黒澤明 59.『泣くな小鳩よ』(1950/7/8)新東宝 監督:野村浩将 60.『てんやわんや』(1950/7/25)松竹 監督:渋谷実 61.『宗方姉妹』(1950/8/25)新東宝 監督:小津安二郎 62.『長崎の鐘』(1950/9/23)松竹 監督:大庭秀雄 63.『暁の追跡』(1950/10/3)新東宝 監督:市川崑 64.『雪婦人絵図』(1950/10/21)新東宝 監督:溝口健二 65.『薔薇合戦』(1950/10/28)松竹 監督:成瀬巳喜男 66.『七色の花』(1950/10/14)東横映画 監督:春原政久 67.『情熱のルムバ』(1950/12/29)松竹 監督:佐々木康 68.『偽れる盛装』(1951/1/13)大映 監督:吉村公三郎 69.『夜来香』(1951/113)新東宝 監督:市川崑 70.『恋人』(1951/3/10)新東宝 監督:市川崑 71.『我が家は楽し』(1951/3/21)松竹 監督:中村登 72.『男の哀愁』(1951/4/13)松竹 監督:岩間鶴夫 73.『銀座化粧』(1951/4/14)新東宝 監督:成瀬巳喜男 74.『自由学校』(1951/5/5)松竹 監督:吉村公三郎 75.『少年期』(1951/5/12)松竹 監督:木下恵介 76.『白痴』(1951/6/1)松竹 監督:黒澤明 77.『獣の宿』(1951/6/8)松竹 監督:大曾根辰夫 78.『盗まれた恋』(1951/6/8)新東宝 監督:市川崑 79.『どっこい生きている』(1951/7/7)北星 監督:今井正 80.『カルメン故郷に帰る』(1951/8/24)松竹 監督:木 下恵介 81.『愛妻物語』(1951/9/7)大映 監督:新藤兼人 82.『武蔵野夫人』(1951/9/14)東宝 監督:溝口健二 83.『麦秋』(1951/9/14)松竹 監督:小津安二郎 84.『高原の駅よさようなら』(1951/10/5)新東宝 監督: 中川信夫 85.『ブンガワンソロ』(1951/10/19)新東宝 監督:市川崑 86.『のど自慢三羽烏』(1951/11/16)大映 監督:渡邊邦男 87.『めし』(1951/11/23)東宝 監督:成瀬巳喜男 88.『女豹の地図』(1951/12/7)新東宝 監督:田中重雄 89.『命美わし』(1951/12/7)松竹 監督:大庭秀雄 90.『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(1952/1/8)新東 宝 監督:渡邊邦男 91.『とんかつ大将』(1952/2/15)松竹 監督:川島雄三 92.『本日休診』(1952/2/29)松竹 監督:渋谷実 93.『陽気な渡り鳥』(1952/3/1)松竹 監督:佐々木康 94.『山びこ学級』(1952/5/1)八木プロ 監督:今井正 95.『安宅家の人々』(1952/5/15)大映 監督:久松静児 96.『おかあさん』(1952/6/12)新東宝 監督:成瀬巳喜男 97.『風の噂のリル』(1952/7/3)新東宝 監督:島耕二 98.『東京のえくぼ』(1952/7/15)新東宝 監督:松下宗恵 99.『原爆の子』(1952/8/6)近代映画協会 監督:新藤兼人 100.『現代人』(1952/9/3)松竹 監督:渋谷実 101.『お茶漬けの味』(1952/10/1)松竹 監督:小津安二郎

(4)

102.『生きる』(1952/10/9)東宝 監督:黒澤明 103.『稲妻』(1952/10/9)大映 監督:成瀬巳喜男 104.『巣鴨の母』(1952/10/16)大映 監督:安達伸生 105.『二人の瞳』(1952/10/23)大映 監督:仲本繁夫 106.『カルメン純情す』(1952/11/13)松竹 監督:木下恵介 107.『真空地帯』(1952/12/15)北星 監督:山本薩夫

3.

映画に使用されたカンチレバーの椅子

3-1 カンチレバーの椅子を使用した映画 107の映画で、カンチレバーの椅子を使用している作品 は表1に示したものである。 3-2 カンチレバーの椅子における使用場面の分類 表1に示した19例のカンチレバーの椅子は、使用場面 を通して次のように分類される。 (1)住宅における使用 ・『雪婦人絵図』(1950/10/21) (2)住宅に付随するもの ・『東京五人男』(1945/12/27) ・『お嬢さん乾杯』(1949/3/9) (3)商業施設および商業施設内における使用 ・『わが青春に悔なし』(1946/10/29) ・『十三の眼』(1947/6/24) ・『不死鳥』(1947/12/11) ・『懐かしのブルース』(1948/1/8) ・『受胎』(1948/4/6) ・『朱唇いまだ消えず』(1949/4/24) ・『湯の町悲歌』(1949/5/24) ・『恋の十三夜』(1949/6/5) ・『女性操縦法「グッドバイ」より』(1949/6/28) ・『銀座カンカン娘』(1949/8/16) ・『男の涙』(1949/8/29) ・『憧れのハワイ航路』(1950/4/1) ・『雪婦人絵図』(1950/10/21) ・『盗まれた恋』(1951/6/8) (4)会社または公共施設内における使用 ・『看護婦の日記』(1947/7/1) ・『影を慕いて』(1949/12/25) ・『のど自慢三羽烏』(1951/11/16) 3-3 カンチレバーの椅子のオリジナルとリデザイン 映画に見られるカンチレバーの椅子と生活での使用を検 討する際、オリジナルとコピー、リデザインの関係を整理 しておく必要がある。 図112)は、ルートビッヒ・ミース・ファン・デル・ロー

エ(Ludwing Mies van der Rohe)デザインのMR10のオ リジナルである。MRという記号はノル社の製品番号で、 一般的にはこの記号、番号が使用されている。図2の YSY No. 100は、1930年あたりに作成された日本金属加 工株式会社のカタログに載せられたもので、MR10のコ ピー製品である。 図313)は、マルセル・ブロイヤー(Marcel Breuer)デ ザインのB33である。このBという記号は、トーネット ムンドス社の製品番号で、一般的にはこの記号、番号が用 いられている。図4のYSY No. 101は、図2と同じカタ ログに載せられたもので、B33のコピー製品に位置づけら れる。 図514)は、ブロイヤーデザインのB55で、アームチェ アになっている。図6のYSY No. 105は、図2、4と同じ カタログに記載されているコピー製品であるが、アーム後 部の形態が一部オリジナルとは異なっている。 図715)は石本喜久治が設計した喫茶店コンパルで使用さ れたもので、ハンス・ルックハルト(Hans Luckhalt)設 計の椅子をリデザインしている。図816)は、土浦亀城が高 島邸(1935年)のために設計した椅子である。図7とは 少し異なり、カンチレバー構造ではあるが、腰掛け部分、 背もたれ部分に独自のクッション材を使用している。 表 1 戦後の映画に認められるカンチレバーの椅子 作品名 公開日 配給会社 ① 東京五人男 1945/12/27 東宝 ② わが青春に悔いなし 1946/10/29 東宝 ③ 十三の眼 1947/6/24 大映 ④ 看護婦の日記 1947/7/1 大映 ⑤ 不死鳥 1947/12/11 松竹 ⑥ 懐かしのブルース 1948/1/8 松竹 ⑦ 受胎 1948/4/6 松竹 ⑧ お嬢さん乾杯 1949/3/9 松竹 ⑨ 朱唇いまだ消えず 1949/4/24 松竹 ⑩ 湯の町悲歌 1949/5/24 新東宝 ⑪ 恋の十三夜 1949/6/5 松竹 ⑫ 女性操縦法「グッドバイ」より 1949/6/28 新東宝 ⑬ 銀座カンカン娘 1949/8/16 東宝 ⑭ 男の涙 1949/8/29 新東宝 ⑮ 影を慕いて 1949/12/25 新東宝 ⑯ 憧れのハワイ航路 1950/4/1 新東宝 ⑰ 雪婦人絵図 1950/10/21 新東宝 ⑱ 盗まれた恋 1951/6/8 新東宝 ⑲ のど自慢三羽烏 1951/11/16 大映

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図917)は、アルヴァ・アアルト(Alver Aalt)設計の椅 子である。図1018)は、図9を竹合板でリデザインしたも のである。竹興社19)という小規模な企業で生産された。 3-4 カンチレバーの椅子における使用場面の実態 1)住宅内における使用 『雪婦人絵図』20)の使用場面は、図11に示したものであ る。富裕層の別荘でベランダに置いて使用している。常時 ベランダに置いていると鍍金を施した鋼管に錆びが生じる が、映画の場面では屋外に特化して使用しているのかどう かは判断できない。ということは、屋内での使用を一概に 否定することはできないということになる。個人住宅の場 合、テラスも住宅の一部であり、家族が使用することから 住宅での使用として位置づける必要がある。 使用している椅子は、MR10をコピーしたものか、オリ ジナルのいずれかと推察する21) 2) 住宅に付随するもの (1)屋外の敷地での使用 『東京五人男』は、1945年12月27日に公開されている ことから、東京がほとんど復興していない時期に撮影され た映画である。図12に示したように、東京の郊外に位置 する農家の庭先で使用している。おそらく都内の富裕層 が、農家に食料と引き替えにした品という想定で置かれて いるのであろう。この椅子の意味するのは、一種の社会風 刺であり、戦前期にはモダンな椅子として人気のあったも のが、終戦直後にはほとんど値打ちのないものに変容した と表現している。現実にこのような現象が見られたという 確証はないが、類似した現象が社会に充満していたことは 間違いない。カンチレバーの椅子が、食料と交換されたと いう事例は、管見の限り写真資料では一切目にしない。図 12の椅子は、戦前に製作されたもので、金属回収を免れ たものであろう。この時期に鋼管製カンチレバーの椅子は 日本国内で製作されていない22) (2)集合住宅の通路に置かれている 図13は『お嬢さん乾杯』に見られるアパートの通路に 置かれた鋼管製カンチレバーの椅子で、ブロイヤーのB33 に類似したタイプである。アパートという用語は、1949 年と近年とではイメージがまったく異なる。『お嬢さん乾 杯』のアパートは西銀座に位置し、当時としては新しい様 式の集合住宅に設定されている。だからこそ、各階に図 13に見られるようなモダンな椅子を置いているのである。 図13は、監督等の演出効果であるといった見方もでき る。実際に使用しているような場面はなく、モダンなア 図 1 MR10 図 3 B33 図 5 B55 図 9 アアルト設計 図 7 石本喜久治設計 図 2 YSY100 図 4 YSY101 図 6 YSY105 図 10 竹興社製造 図 8 土浦亀城設計

(6)

パートを表現する象徴的なものと解釈することも可能であ る。仮にそうであっても、モダニズムの象徴とするこの種 の具体的先行使用事例は戦前期に多数存在し23)、この使い 方が初見例と判断すべきではない。 3)商業施設内における使用 このような使用内容は最も事例が多く、キャバレーやナ イトクラブ、喫茶店およびレストラン、旅館、美容室に分 類されるので、それぞれの分類を通して解説する。 (1)キャバレーおよびナイトクラブ 『十三の眼』『懐かしのブルース』『朱唇いまだ消えず』 『湯の町悲歌』『銀座カンカン娘』『男の涙』『憧れのハワイ 航路』がこの事例に該当する。 図14に示した『十三の眼』は、1947年6月24日に公 開されている。キャバレーの場面は、セットで撮影された と推察する24)。使用されている椅子は、石本喜久治が喫茶 店 「コンパル」(1933年)で使用したタイプに酷似してい 図 11 『雪婦人絵図』(1950/10/21) 図 14 『十三の眼』(1947/6/24) 図 12 『東京五人男』(1945/12/27) 図 15 『朱唇いまだ消えず』(1949/4/24)−① 図 13 『お嬢さん乾杯』(1949/3/9) 図 16 『銀座カンカン娘』(1949/8/16)−①

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る。『懐かしのブルース』は、いかにも東京の華やかな社 交場という雰囲気に溢れており、ブロイヤーのB33モデ ルをリデザインした椅子を使用している。同様の場面は、 図15に示した『朱唇いまだ消えず』にも認められる。図 15の持つ雰囲気も品位があり、鋼管製カンチレバーの椅 子もブロイヤーのB33をコピーしたタイプが使用されて いる。 『銀座カンカン娘』は、銀座を舞台にした内容であるが、 キャバレーの場面は重厚感がないため、セットで撮影が行 われたのであろう。図16、17がキャバレーの場面で、竹 合板製カンチレバーの椅子と、ミースのMR10およびブ ロイヤーのB33に類似した鋼管製カンチレバーの椅子が 使用されている。一つの映画で三種類のカンチレバーの椅 子が使用されていることは興味深い。 『湯の町悲歌』の場面は図18に示した。この場面で使 用される椅子は、二人掛けの竹合板製のカンチレバーの椅 子、 ブ ロ イ ヤ ー のB33に 類 似 す る タ イ プ、 ミ ー ス の MR10に類似した脚とブロイヤーのB55の上部を組み合 わせたようなタイプの三種類が見られる。こうしたカンチ レバーの椅子を多用する映画は1949年に集中している。 『男の涙』『憧れのハワイ航路』は、いずれも歌手の岡晴 夫が主演した映画で、『憧れのハワイ航路』に見られるキャ バレーは、ブロイヤーのB33に類似するタイプとミース のMR10に類似したタイプが使用されている。この椅子 はやや庶民的な雰囲気があり、ほかの作品とは少し異な る。ところが、図19に示した『男の涙』の椅子は、先の 『朱唇いまだ消えず』に見られたものに近く、華やかに感 じる。おそらく、使用された布等と鍍金に違いがあるよう に思えてならない。同じ主演者の映画であっても、鋼管製 カンチレバーの椅子は、場面によって雰囲気が異なる。 (2)喫茶店およびレストラン 『わが青春に悔なし』『不死鳥』は、ほかの作品と区別し て考える必要がある。『わが青春に悔なし』は、1941(昭 和16)年当時の銀座を想定した場面で、大きな喫茶店にブ ロイヤーのB33とアームのあるB34をコピーした椅子25) が使用されている。監督の黒澤明は、1941年当時の銀座 を再現するために、1946年という戦後間もない時期にも かかわらず、カンチレバーの椅子をかき集めて撮影してい る。第二次大戦後期は、金属回収令で喫茶店では鋼管製カ ンチレバーの椅子は使用されていないことから、戦後間も ない銀座の喫茶店に鋼管製カンチレバーの椅子はなかった はずである26)。黒澤明の映画製作に対する強い拘りが伝 わってくる。 『不死鳥』では、日中戦争時に都心のビル屋上で営業さ れていた喫茶店に、鋼管製カンチレバーの椅子が登場す る。ミースのMR10およびブロイヤーのB33をコピーし た椅子が使用されているのだが、1947年12月公開という ことから、戦後の製品という可能性がある。但し、椅子が 中古品のように感じるので、戦前期に製作されたものであ ろう。 『受胎』は公園に設置された喫茶店の屋外に鋼管製カン チレバーの椅子が使用されている。1948年4月6日公開 図 17 『銀座カンカン娘』(1949/8/16)−② 図 18 『湯の町悲歌』(1949/5/24) 図 19 男の涙(1949/8/29)

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の映画であることから、椅子自体は戦後の国産品という可 能性がある。しかしながら、この時期に屋外で鋼管製カン チレバーの椅子を使用するような実態があったかどうかは 確証がない。かなり強い演出効果を求めていたことだけは 間違いない。 『雪婦人絵図』における住宅での使用事例については先 に述べたが、レストランの屋外にも鋼管製カンチレバーの 椅子の鋼管を白にペイントしたB33タイプの椅子が置か れている。レストランは箱根の芦ノ湖に近い場所にあり、 少し幻想的なイメージを醸し出すための演出の一部に用い られている。 『盗まれた恋』は、図20に示した喫茶店でブロイヤー のB33タイプの椅子を使用している。特に都心の華やか な喫茶店という雰囲気を持っているわけではなく、どちら かと言えば庶民的な店である。ところが、夜の道路から店 内のカンチレバーの椅子を撮影した場面がある。ドアの奧 にある椅子を強調した珍しいシーンである。 (3)旅館 『朱唇いまだ消えず』は、キャバレーの場面で紹介したが、 熱海の旅館における場面でもカンチレバーの椅子が登場す る。図21がその場面で、和室に竹合板製カンチレバーの椅 子が一人掛け用と、二人掛け用の2種類置かれている。 和風の旅館において、竹合板製カンチレバー椅子は戦前 期から使用されていた可能性がある。アールト設計の木製 合板カンチレバーの椅子、またはその類似品が、蔵田周忠 の設計した箱根の旅館で戦前期より入り側で使用されてお り27)1939(昭和14)年以降、市販された竹合板製のカン チレバーの椅子を好んだモダニストの若い建築家によっ て、いち早く旅館の和室に使用したと推察する。 『恋の十三夜』における使用例は、極めて複雑な様相を 示す。図22がその使用場面で、旅館の和室での使用とい う点では『朱唇いまだ消えず』と類似性がある。図22は、 元々旅館であった建物を別荘として利用している。つま り、大きな改築はしていないので、旅館という範疇で捉え ることにした。問題なのは、和風の室内に設えた入り側で あるのに、ブロイヤーのB33に類似した鋼管製のカンチ レバーの椅子を使用している点である。さらに折原啓子が 演じる舞妓が椅子に座っているという点である。映画の舞 台が京都の嵐山であるため、舞妓が登場すること自体はあ り得る話なのだが、敢えて鋼管製のカンチレバーの椅子に 座る場面を設定したのは意外である。図22の場面を見る 限り、戦前の京都の生活実態とは乖離した演出を試みたと いうことになろう。 『女性操縦法「グッドバイ」より』では、モダンな美容室 で図23に示した鋼管製カンチレバーの椅子(アームチェ ア)が使用されている。この椅子は、先行するヨーロッパ の椅子に類似したタイプがないことから、少し独自な意匠 を加えたものといえる。その独自性は前方の脚に見られる 緩やかな曲線で、ブロイヤーのB33に見られるような曲線 ではない。座面と背もたれ部分にはクッションが付加され ている。クッション自体はヨーロッパのカンチレバー構造 図 20 『盗まれた恋』(1951/6/8) 図 21 『朱唇いまだ消えず』(1949/4/24)−② 図 22 『恋の十三夜』(1949/6/5)

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の椅子にも認められるが、この椅子の持つ脚との組み合わ せは、管見の限りヨーロッパの椅子には見当たらない。 4)会社または公共施設内における使用 『看護婦の日記』は、太宰治の小説を映画化したもので、 舞台は高原の結核療養所である。この療養所での使用場面 は図24に示した。竹合板製カンチレバーの椅子が置かれ ており、一人掛けと二人掛けの2種類が使用されている。 二人掛けタイプは、映画における初見例である。この竹合 板製椅子がアアルト設計の結核療養所に用いられた椅子を 一部参考にして設計されていることから、結核療養所に は、金属製より竹製が好ましいと考えた可能性がある。 企業のビル内における使用は、商業施設と同類と指摘す る方もおられるであろうが、キャバレーと企業のビル内に おける空間を同一概念で捉えることは的を射ていない。 『影を慕いて』は、作曲家古賀政男をモデルにした作品 で、図25に示した場面に、二人掛けの竹合板製カンチレ バーの椅子が置かれている。広い通路は、休息のラウンジ 的機能を一部持つようだが、何故和風の要素を持つ竹集成 材製のカンチレバーの椅子を使用したのかは、場面設定と いう視点からだけでは判然としない。 『のど自慢三羽烏』は、図25と類似した場面で同様の 椅子が放送局で使用されている。放送局と図25のレコー ド会社との違いはあるが、よく似た使い方をしている。 『影を慕いて』は新東宝の製作で、『のど自慢三羽烏』は大 映の作品である。但し、『のど自慢三羽烏』の監督を務め た渡辺邦男は、1947年以降新東宝に所属し、多くの作品 を手掛けていることから、新東宝の作品に関しても精通し ていたことは確かである。映画製作は、監督の嗜好を反映 させている面も多く認められ、『影を慕いて』が『のど自 慢三羽烏』の場面に影響を与えた可能性もある。

4.

考察

4-1 戦前,戦中の映画に見られるカンチレバーの椅子 戦前期、戦中期の映画に見るカンチレバーの椅子につい ては、下記の作品に認められる28)。この作品は、現在市販 さ れ て い るDVDや ユ ー チ ュ ー ブ で 見 ら れ る73作 品 (1929∼1941年)を前提としたもので、実態としてはこの 数倍の場面があると推定されるが、実際に画像資料として 取り出すことは難しい。 ①『女優と詩人』(1935/3/21) P・C・L 監督:成瀬巳喜男 ②『人生のお荷物』(1935/12/10)松竹 監督:五所平之助 ③『家族会議』(1936/4/3)松竹 監督:島津保次郎 ④『男性対女性』(1936/8/29)松竹 監督:島津保次郎 ⑤『淑女は何をわすれたか』(1937/3/3)松竹 監督:小津 安二郎 ⑥『恋も忘れて』(1937/7/1)松竹 監督:清水宏 ⑦『婚約三羽烏』(1937/7/14)松竹 監督:島津保次郎 ⑧『禍福 前篇』(1937/10/1) P・C・L・ 東宝 監督:成瀬巳喜男 ⑨『愛染かつら 総集編』(1938/9/15)松竹 監督:野村浩将 ⑩『雪子と夏代』(1941/8/14)東宝 監督:青柳信雄 上記の使用場面を分類すると、次のようになる。 図 23 『女性操縦法「グッドバイ」より』(1949/6/28) 図 24 『看護婦の日記』(1947/7/1) 図 25 『影を慕いて』(1949/12/25)

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1)住宅内における使用 『女優と詩人』は、貧乏で売れない詩人の部屋でブロイ ヤーのB33、ミースのMR10タイプの椅子が使用されて いる。何故か部屋は和室である。 『人生のお荷物』は、画家のアトリエでブロイヤーの B33、B35タイプの椅子が使用されている。 『雪子と夏代』は富裕層の家庭で、応接間で竹合板製の 椅子が4脚使用されている。 2)商業施設内における使用 『家族会議』では、ホテルのラウンジでB33、B55タイ プの椅子が使用されている。 『男性対女性』では、喫茶店の場面でB35タイプの椅子 が使用されている。『淑女は何をわすれたか』でも、喫茶 店で日本のオリジナルタイプの椅子が使用されている。ま た、バーの場面ではB55タイプの椅子が使用されている。 『淑女は何をわすれたか』では、バーと喫茶店で使用して いる。喫茶店の椅子は、雑誌等でもほとんど取り上げられ ていない。 『恋も忘れて』は、ダンスホールでB33タイプの椅子が 多数使用されている。 『婚約三羽烏』は、ビルの1階部分を利用した服飾関連 の格式高いショールームにて、B33、B35タイプの椅子が 使用されている。 『禍福 前篇』では、ダンスホールでB33、MR10タイプ の椅子が大量に使用されている。 3) 会社または公共施設内における使用 『愛染かつら 総集編』では、医院の待合室でB33タイ プの椅子が使用されている。場所は熱海である。 上記1)、2)の内容から、以下の内容が読み取れる。 (1)鋼管製カンチレバーの椅子は、建築雑誌では1930年 あたりから登場するが、映画では1935年あたりから使用 される。このことから、映画の使用は建築雑誌に比較して 少し遅く、かなり普及が進んだ時期から使用したというこ とになる。竹合板製カンチレバーの椅子は、市販されるの が1939年当たりのためか、1941年製作の『雪子と夏代』 が初出である。 (2)建築雑誌では、建築家が設計した個人住宅に使用され るケースが多い。ところが映画では商業施設に用いられる ことが多い。おそらく映画の方が当時の使用実態を正確に 示している可能性が高い。建築雑誌は、新たな建築に付随 したカンチレバーの椅子、すなわちインテリアデザインと して紹介していることから、特に詳細な使用実態を前提に 椅子を見せているわけではない。社会全体のカンチレバー の椅子に関する需要は、個人住宅に特化していたわけでは ないので、映画の方が実態を反映させていたといえよう。 戦前期における一般的なカンチレバーの椅子に関する使用 実態は、『国際建築』『新建築』といった建築雑誌より、商 業施設も含めたインテリア写真集である『建築写真類聚』 の方が反映させている。 (3)映画に登場するカンチレバーの椅子は、モダニズムと いう日本の近代化を象徴的に示す役割を持っている。但し、 このモダニズムは、階層性もあって一律に論じることはで きない。キャバレーやダンスホールにも庶民的なものもあ れば、高級なタイプもあり、カンチレバーの椅子が必ずし も高級な椅子として表現されているわけではない。それで も、インテリ層のモダニズムという意識と連動していたこ とは間違いない。『女優と詩人』では、貧しい詩人の部屋に カンチレバーの椅子が置かれている。この場合の意図は、 貧しくとも詩人がインテリ層であることを示す小道具の役 割を果たしている。この演出は、監督成瀬巳喜男の持つ感 性に依拠しているのであろうが、成瀬巳喜男自身のオリジ ナルな感性というより、当時のインテリ層が共有していた 感性と捉えるべきであろう29)。戦前の映画における庶民の 日常生活では、カンチレバーの椅子は一切見かけない。 小津安二郎は、戦後の家族が持つ日本的な情感を描いた 監督として広く知られているが、戦前期においてはカンチ レバーの椅子を積極的に取り込んだ作品もある。『淑女は 何をわすれたか』においては、カンチレバーの椅子をロー アングルから撮影し、画面構成を椅子主体に展開してい る。若い時期の小津は、昭和初期のモダニズムに対して肯 定的な姿勢を示す作品も多い30) (4)映画に使用される鋼管製カンチレバーの椅子は、ブロ イヤーのB33、B35、B55、ミースのMR10をコピーした 製品が圧倒的に多い。このコピーとは、完全なコピーを目 指した模造品というより、座面や背面の布はオリジナルに 近いものも認められることから、一部独自性を付加させた というタイプである。ところが、『淑女は何をわすれたか』 では、独自性の強いフレーム形状を採用しており、鋼管製 カンチレバーの椅子を画一的に捉えることはできない。戦 前期には、土浦亀城のように独自性を持つタイプを数多く 使用する建築家もおり31)、そうした鋼管製カンチレバーの 椅子の使用実態が映画にも反映したといえる。 (5)竹合板製カンチレバーの椅子は、『雪子と夏代』に一 例認められるだけである。椅子を販売した時期が1939年 あたりであるため32)、映画での登場もほかの作品に比較し て遅いということになる。1939年という時代は、金属製

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品に対する統制が厳しくなる時期であるため、竹合板製カ ンチレバーの椅子は鋼管製カンチレバーの椅子に対する代 用品として普及した可能性が高い。 4-2 戦後の映画に見られるカンチレバーの椅子 1)使用された映画の製作年度とその背景 先 に 紹 介 し た19作 品 を 年 代 別 に 分 け る と、1945年 (1)、1946年(1)、1947年(3)、1948年(2)、1949年 (8)、1950年(2)、1951年(2)となる。このことから、 カンチレバーの椅子が映画に用いられるピーク時は1949 年ということになる。 では、何故1949年に集中したかについて検討を加える。 1949年の映画8本は、新東宝4、松竹3、東宝1という内 容になっている。この東宝配給の『銀座カンカン娘』も、 製作自体は新東宝であるため、東宝製作の作品は一例もな い。新東宝と東宝との関連性が1949年の映画では重要と なる。昭和20年代前半に生じた最大の労働争議は東宝争 議で、1946∼1948年までに第一次、第二次、第三次労働争 議が繰り広げられた。当初は労組の結成や団体交渉を GHQが支援した。しかしながら、最後は逆にGHQの軍 事力で争議を終結させた。この東宝争議によって1947年 に新東宝が設立され、特に娯楽性の強い作品が製作された。 換言すれば、思想的な表現を基盤とするような映画を、新 東宝では意図的に製作しなかったということになる。娯楽 性の強い映画は、確かにキネマ旬報社のベストテンでは高 い評価を受けていないが、映画としてはヒットしたものも 多い33)1949年は新東宝の映画が盛んに製作されていた時 期であり、娯楽映画にカンチレバーの椅子が用いられた。 GHQは、日本映画の内容にも一時期深くかかわってい る。日本の統治に適した民主主義を高揚させることが、 GHQの占領政策であったため、社会主義や共産主義を標 榜する映画製作については常に警戒していた。東宝争議の 第三次労働争議収束後に公開された『青い山脈』は、いわ ばGHQの占領政策を進めるプロパガンダ的な役割を担っ ていた。すなわち封建的な日本の社会制度を改め、若い世 代を中心とする明るく健全な社会を構築するといった精神 に極めて合致した内容である。当然意図的に、そうした内 容を演出している訳であるため、間接的にGHQがかか わったと言っても過言ではない。それだけ東宝争議に関す るGHQの危機管理意識が強かったのである。 東宝争議を経て、1951年から社会派の独立プロが多数 設立される。しかしながら、新星、近代映画協会といった 独立プロの作品には、表1に示した映画に対して娯楽性 が低い。このことが一つの要因となり、カンチレバーの椅 子は映画に一切登場しない。 2)戦後の生活に関する進展とカンチレバーの椅子 1945年12月に公開された『東京五人男』は、戦後間も ない頃の東京郊外に見られる農家の実態を投影しており、 カンチレバーの椅子に関する当時の価値観を示している。 つまり過去には高い価値はあっても、1945年12月には、 ほとんど価値のないものになった。それでもカンチレバー の椅子は徐々に復活していく。 1946年10月 に 公 開 さ れ た『わ が 青 春 に 悔 な し 』 は、 1941年当時の銀座を再現しており、戦後の生活を表現した ものではない。1947年12月に公開された『不死鳥』も、 1938年当時の文化を再現した内容なので、この作品も戦後 の生活を表現したものではない。カンチレバーの椅子は、 戦前および戦時中(日米戦争以前)の文化を表現する必要 性があったことから、戦後の映画でも一部使用された。 1947年に公開された『十三の眼』『看護婦の日記』は、 共に大映で製作された。『十三の眼』は戦後のキャバレーを 舞台にした早い事例であるのに対し、『看護婦の日記』は高 原の結核療養所という公的な要素の強い場所における使用 である。竹合板製という材質とゆったりとした大きさが、 結核療養所の広い休憩室に適したと捉えたのであろう。 キャバレーの場面は、戦前の『恋も忘れて』『禍福 前篇』 にも認められることから、戦前期の銀座を中心とした都市 風俗を復活させたと読み取れる。この復活には、撮影場面 のキャバレーやカンチレバーの椅子だけでなく、映画の俳 優も深くかかわっている。1948年製作の『懐かしのブ ルース』は、高峰三枝子と上原謙主演の作品だが、戦前期 のカンチレバーの椅子を用いた代表的な作品である『婚約 三羽烏』(1937年)で共演している。1949年製作の『朱 唇いまだ消えず』は、高杉早苗、佐分利信主演の映画であ る。佐分利信は先の『婚約三羽烏』に出演しており、高杉 早苗はカンチレバーの椅子が登場する戦前期の『家族会 議』(1936年)、『男性対女性』(1936年)に出演している。 1949年製作の『お嬢さん乾杯』の佐野周二は、小津安二 郎が監督した『淑女は何を忘れたか』(1937年)では、喫 茶店でカンチレバーの椅子にて桑野通子と対座している。 1947年製作の『不死鳥』で主演した田中絹代でさえ、『人 生のお荷物』(1935)という戦前期の作品でカンチレバー の椅子に座っている場面があり、戦後のカンチレバー使用 場面は、俳優の経歴を通して、戦前期の使用場面を一部彷 彿させているように感じる。 銀座に象徴される高級なキャバレーは、1949年あたり

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から一部復活したようだ。GHQに接収されたキャバレー 等は、少なくともカンチレバーの椅子が使用される映画に は一切登場しない。 1949年をピークに、カンチレバーの椅子は日本の映画 から徐々に消えていく。戦前の生活文化を復活させた戦後 という状況から、次第に戦後独自の生活文化が創出されて いく中で、戦前期に流行した鋼管製カンチレバーの椅子は 衰退していったのであろう。しかしながら、戦後独自の椅 子に関する創出のプロセスは、一つの脈絡で説明できるよ うな簡単な構造ではない。鋼管製カンチレバーの椅子は、 1950年に公開された『雪婦人絵図』に見られる富裕層の 和洋折衷的な住生活にも登場する。但し、『雪婦人絵図』 の洋室とベランダの鋼管製カンチレバーの椅子という組み 合わせは、戦前期の若手建築家が設計するモダニズム住宅 と共通する部分もあり、戦前期の富裕なインテリ層を中心 に展開した生活様式と完全に切り離して考えることはでき ない。おそらく、撮影で使用された住宅は、戦前期に建て られたものと推察する。 ではカンチレバーの椅子に代わるモダンな椅子が成立 し、普及したかといえば、1950∼1955年あたりに目立っ た動きはなさそうである。成型合板の椅子は話題性があっ ても、カンチレバーの椅子とは使用目的が少し異なる。銀 座のキャバレーにはクッション性がないことから不向きで あり、住宅内でも応接間には置かれてない。つまり、デザ インとしては話題性があっても、日本の生活に応用される だけの研究が当時は成されていなかったのである。 3)戦後の映画に使用されたカンチレバーの椅子 戦前期、戦中期の映画に使用されたカンチレバーの椅子 は、ブロイヤーのB33、B35、B55タイプのコピー製品、 またはミースのMR10タイプのコピー製品が大半だが、 一部独自性のあるタイプがある。1941年に製作された 『雪子と夏代』にだけ、竹興社の竹合板製カンチレバーの 椅子が使用されている。映画には使用されていないが、フ ラットバータイプのカンチレバーの椅子34)や、アアルト の成型合板製カンチレバーの椅子35)も、建築雑誌では紹 介されている。 戦後に使用されたカンチレバーの椅子は、ブロイヤーの B33、B34、B55タイプのコピー製品、またはミースの MR10タイプのコピー製品が使用されていることから、戦 前および戦中期に製作された映画に見られる鋼管製カンチ レバーの椅子と大差はない。また一部独自性のあるタイプ が使用されている点も共通している。このことから、映画 の使用場面だけでなく、椅子自体も戦前、戦中期の映画と 強い類似性がある。強い類似性はあっても、意匠、構造、 素材といった面に新たな造形が加えられている事例は少な い。カンチレバーの椅子を使用している映画は増加してい るのに、造形の多様性は進展しない。 進展しない一つの理由に、フレームのたわみとクッション 性の問題がある。図1に示したミースのMR10、さらにアー ムのあるMR20は、現在も一部のマニアに好まれ、フレー ムによる独特のたわみ、さらに、座面と背もたれのたわみ  に対して一定の評価が成されている。但し、そうしたたわみ を商業的な使用ではマイナス面と見る傾向が強く、現在ほ とんどの製品はフレームのたわみが少なく、座面や背もた れがフレームに固定されている。このたわみに慣れない人 が座れば、一瞬驚き、不安定さに不快感を持つ場合がある と想定され、接客を対象とする商業施設では用いられない。 椅子に関する戦後の具体的な独自性は、竹合板製カンチ レバーの椅子が数多く使用されている点にある。1947年 製作の『看護婦の日記』、1949年製作の『朱唇いまだ消え ず』は一人掛けタイプと二人掛けタイプ、『銀座カンカン 娘』では一人掛けタイプ、『湯の町悲歌』『影を慕いて』で は二人掛けタイプが使用されている。1951年に製作され た『のど自慢三羽烏』でも二人掛けタイプが使用されてい る。二人掛けタイプの開発時期に関しては具体的な資料が 見当たらないが、戦中期以降であることは間違いない36) この二人掛けタイプは、戦後の復興期にキャバレーから公 共的な要素を持つ場所でも使用されている。二人掛けタイ プにおける使用方法は、戦後の独自性として特筆される。 剣持勇等が提唱したジャパニーズ・モダンの先駆的なもの として高く評価すべきである。 1952年以降から1960年代後半あたりまでの映画には、 カンチレバーの椅子はほとんど登場しない。いわゆるデザ イナーズチェアが、1960年代後半以降徐々に注目される ようになると、1920年代後半に開発された鋼管製カンチ レバーの椅子が再評価される。この再評価は、建築雑誌や デザイン関連の雑誌に見られるもので、製品の普及と必ず しも相関を持つとは限らない。 鋼管製カンチレバーの椅子は、商業施設に普及しても、 個人の住宅には現在も普及していない。その点は、1945∼ 1952年にも共通しており、広義の戦後という時代におけ る鋼管製カンチレバーの使用実態を象徴的に示しているこ とになる。 フローリングや畳を傷つけない工夫は、脚部に補助具を 固定することで対応できるのに、何故か普及しない。この 点は戦前期のモダニズム受容とは、インテリ層の精神基盤

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が根本的に異なる。すなわち、ヨーロッパで流行したモダ ンな椅子を、ダイレクトに住宅に持ち込んだ若手の建築 家、それを受容したインテリ層の住生活者といった戦前期 の関係は、戦後においても多少継承されるが、大きな流れ にはならない。1945∼1952年に公開された映画の中に見 られるカンチレバーの椅子に、そうした戦後の生活と椅子 との接点を示す原風景があるように思えてならない。

5.

おわりに

第二次大戦後の1945∼1952年に公開された映画に見ら れるカンチレバーの椅子について、具体的な使用場面、使 用された椅子の特徴と、戦前期の映画に使用された内容と 比較した結果、下記の内容が明らかになった。 (1)鋼管製カンチレバーの椅子は、1945年12月に公開さ れた映画に使用場面の初見が認められる。但し、使用場面 は農村の庭先におけるもので、椅子本来の使用目的を示す ものではない。実質的な初見例は1946年秋に公開された 作品である。ところが、この作品における使用は1941年 当時の銀座を再現することが目的であるため、戦後の生活 文化を表現したわけではない。 (2) 1947年以降、鋼管製カンチレバーの椅子は再び生産 されるが、戦前期に使用されていた意匠を踏襲した製品が 多い。当然映画においても、こうした製品が使用される。 しかしながら、竹合板製カンチレバーの椅子も数多く映画 に登場することから、鋼管製カンチレバーの椅子だけが復 活したわけではない。竹合板製カンチレバーの二人掛けタ イプの椅子は戦前期には認められないことから、戦後に発 達した製品と推測される。 (3)カンチレバーの椅子が使用される映画は、商業施設と 関連する場面が多い。洒落た東京の都心を表現する演出と してカンチレバーの椅子が用いられた。住宅での使用は一 例だけである。戦前期におけるカンチレバーの椅子は、モ ダンな住宅にも使用されたことから、戦後の使用方法は住 宅内の使用には踏襲されず、商業施設を中心に踏襲された ということになる。 (4)カンチレバーの椅子は、1949年をピークに映画の場 面から減少していく。この動向から、戦前の椅子文化を踏 襲してきた時期より、徐々に戦後独自の文化が芽生えて来 た時期へと移行するのが1950∼1951年あたりと読み取れ る。ところがこの時期に、カンチレバーの椅子に見られた ヨーロッパのモダンデザインを、直に取り込んで椅子文化 として定着したものはほかに見当たらない。 ※図11∼25は、著作権の関係から映画の場面を手書きで 再生したものである。従って正確さを欠く面もあり、特 に図7、12については暗い部分が多いために見づらい ことから、暗部の一部を空白にて対応した。また、図 11∼25は本論における説明のポイントになるものであ る。ほかの場面は、本論の分量から図として加えること は無理と判断した。 〈注〉 1) cantilever beamの和訳表記は、キャンティレバー、カンティ レバー、カンチレヴァー、カンチレバー等がある。本論では 『JIS工業用語大辞典』で示された表記を重視して、カンチレ バーで統一する。 2)天童木工から2010年に発売されたORIZURU(奥山清行設 計)は、従来の二本脚ではなく、平面上に成形されている。 この場合、片持ち梁という梁の概念とは少し異なるが、カン チレバーの椅子として位置づけられる。但し、この構造の基 本形式は、2010年以前に成立している可能性がある。 3)石村眞一 2010『カンチレバーの椅子物語―日本における開 発と普及を中心として―』角川学芸出版,pp. 84‒87 4)日本の戦前期におけるモダニズムは、建築を中心に展開して いくとされる。椅子は建築のインテリアの一部に位置づけら れることから、建築と連動し、東京を中心とするインテリ層 に普及した。建築雑誌によれば、関西も多少紹介されている が事例は予想以上に少ない。福岡県、北海道等も数例見られ る程度である。箱根のホテルや旅館は東京の文化圏に位置づ けるべきと考える。 5)商工省工藝指導所編輯1946 「アメリカの家具を日本で作るこ と―クルーゼ少佐の話―」『工藝ニュース』14(2), pp. 18‒23  この中で、クルーゼ少佐は、アメリカでは金属家具の類は好 まれないと述べている。そしてアアルトのような木製家具が 好まれると主張している。 6)八木朝久(編著)1976「スチール家具産業史」『近代家具』, pp. 76‒77.この納入業者は、小倉鋼管、松坂屋、木桧工芸社、 本多商事、三越、フタバヤ、寿軽工業、昭和実業、野里工業、 ミツワ産業、内外通商、富国産業、大丸としている。 7)ミツワ産業は、戦前の日本金属加工株式会社で社長を務めて いた湯浅讓が、戦後に設立した企業である。 8)ディペンデントハウスに使用することで発注された製品には、 電気冷蔵庫やステンレスの流し台もあった。しかし、国産電 機冷蔵庫が戦後市販されるようになるのは、1952(昭和27)年 あたりからである。 9)映画の場面については、確かに演出効果がかかわっているが、 問題なのは演出の内容であって、演出という行為自体が生活 実態と乖離しているというわけではない。筆者のこれまでの 体験では、映画が生活実態と乖離しているという批判はあっ ても、具体的な内容を通して批判を受けたことはない。つま り、映画における演出を一種の概念として批判する研究者が いるだけで、映画の場面における生活表現を詳細に検討した 結果としての批判ではない。  監督が脚本も手掛けている場合は、監督の嗜好が生活場面 にも強く反映する。例えば小津安二郎の場合は、いくつかの 椅子に嗜好が偏っている。籐椅子、ウインザーチェア、背も たれ付きスツールといった椅子類が、その代表である。籐椅 子については、同じタイプの椅子が別な作品にも登場する。 『彼岸花』(1958年)、『秋日和』(1960年)、『小早川家の秋』 (1961年)で使用される籐椅子は同じである。小津が好んだか ら使用されたわけだが、特に間違った使用方法をしているわ けではない。小津は『晩春』(1949年)、『宗方姉妹』(1950年) でも籐椅子を使用している。この椅子は、明らかに先の3作 品に使用された椅子に比較して意匠が古い。それが逆であっ

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たならば生活と乖離したということもできるが、小津の作品 を見る限り、時代の逆転現象はないようだ。  では、実際の生活で使用される椅子を、フィールド調査を してみると、公団住宅や分譲住宅においては一定の時期に住 宅が建設されていることから、おおむね椅子の使用は時代の 流行を基調とし、30年以上経てば取り換えることが多い。す なわち、使い捨て的な精神が主流を占める。ところが、階層 の高い住宅地では、使い捨て的な精神は一部で、高級な椅子 は長く使用されている。特に輸入品のクラシック家具は高額 であることから代々受け継がれており、椅子に関しては画一 的ではなく、極めて多様な使用を展開している。  本論においては、映画の演出効果を注意深く読み取りなが ら、生活と乖離した場面については、個々に指摘しながら考 察を進める。 10)戦後の規定は多様で、現在も広義の戦後とする考え方もあ る。1952年4月28日、我が国は国際社会に復帰する。1945 年8月15日からこの時期を、狭義の戦後と規定した。よっ て、本論では、対象とする戦後の映画を、1952年末までに公 開されたものとした。 11)キネマ旬報社(編) 1961『キネマ旬報別冊日本映画作品大 鑑1∼7』キネマ旬報社

12) Otakar, Máčel. 2006, 2100 metal tubular chairs, VAN HEZK-FONDS 90 PUBLISHERS, p. 47 13)前掲12) p. 23 14)前掲12) p. 78 15)洪洋社(編) 1934 「喫茶店の新構成 巻一」『建築寫眞類聚』 第9期第5輯』洪洋社,p. 14 16)國際建築協會(編) 1935『國際建築』第11巻第7號、國際 建築協會,圖版180 17)商工省工藝指導所編 1935『工藝ニュース』第4巻第10號, 工業調査協會,p. 22 18)新建築社(編) 1940『新建築』第16巻第9號,新建築社, p. 344 19)竹興社は、東京市江戸川区葛西に戦前からあったメーカー で、竹合板製カンチレバーの椅子に関する実用新案を、経営 者の白子清次郎が出願している。図10は1937年に城所左文 治がデザインしたタイプをリデザインしている。城所左文治 は東京高等工芸の卒業生で、在学中から竹合板製カンチレ バーの椅子を研究していた。アアルト設計のカンチレバーの 椅子をリデザインするという目的は、城所自身の発想ではな く、東京高等工芸の木材工芸科としての試みであった。 20)船橋聖一による同名の小説を映画化したもの。 21)オリジナルの椅子とコピーの椅子を検証する厳密な方法は ない。しかしながら、少し意匠に相違点がある場合は見分け がつく。その意匠の相違点の代表的な部分は、座面や背もた れに使用されている布と鍍金である。本論では、この布とフ レームの鍍金に着目した。図1に見られる製品はクローム鍍 金なので、オリジナル(1930年以降の製品)と同じである。 問題なのは座面で、オリジナルは籐編みと布であるのに対し、 図1の椅子は布製ではあるが、オリジナルの布地とは異なる。 このことから、コピー製品の可能性が高い。但し、映画の シーンが富裕層の住宅にあり、1930年代と1950年ではオリ ジナルの座面も変化している可能性があることから、コピー 製品と断定すべきではないと判断した。 22)金属回収令が施行されているのであるから、第二次大戦後 期にはカンチレバーの椅子も当然供出されていたはずなのだ が、実態としては供出されなかった金属製品もあった。この 場面では、そうした皮肉も交えているように感じる。 23)戦前期のモダニズム建築には、必ずしも使用を前提としな いカンチレバーの椅子も、屋外の空間に置かれている事例が ある。国際建築協会編1939『国際建築第15巻第1号』国際 建築協,図版14 24)東京の都心でキャバレーが一部復活するのは、1948年以降 であり、それ以前は非合法的な風俗施設はあっても、公認さ れた施設ではない。 25)日本金属加工株式会社の製品である 26)個人的にはカンチレバーの椅子を隠し持っていたとしても、 喫茶店という商業の場では、金属回収令から逃れることは不 可能である。 27)国際建築協会(編)1937『国際建築第13巻第9号』国際建 築協会,図版8 28)石村眞一2015 「戦前期の日本映画に見られる鋼管製カンチ レバーの椅子―日本映画に見られる起居様式と家具に関する 研究(1)―」『デザイン学研究』BULLETIN OF JSSD Vol. 62 No. 4、日本デザイン学会,pp. 25‒34. この中には当時DVD として発売されていない『雪子と夏代』が含まれていないた め、本研究では新たに加えた。 29)建築家の蔵田周忠は、鋼管製カンチレバーの椅子を戦前期 に同潤会代官山アパートで使用していた。一部のインテリ層 は、必ずしもフローリングの上で鋼管製カンチレバーの椅子 を使用していたわけではない。 30)小津安二郎が監督した作品に、『非常線の女』(1933年)が ある。田中絹代主演のこの作品は、アメリカのギャング映画 をヒントに製作された。東京のダンスホールを舞台にした場 面がある。このダンスホールは 「フロリダ」 を参考にしてい るが、セットで撮影され、「フロリダ」 のダンサーだけが出演 している。実際の 「フロリダ」 は、鋼管製カンチレバーの椅 子を使用していたが、映画のセットでは何故かデッキチェア が多用された。いずれにしても、小津が海外の文化に精通し ていたことが『非常線の女』から理解できる。 31)土浦亀城の設計した住宅には、カンチレバーの椅子が使用 されることが多く、線前期の『新建築』『國際建築』に28回 掲載されている。土浦亀城の設計した住宅に、独自性を加え た鋼管製カンチレバーの椅子を設えた具体的な事例は、平林 邸(1931年)、土浦自邸(1931年)、竹内邸(1933年)、高島 邸(1935年)等がある。竹内邸で使用された椅子は、現存し ており、図面が遺されている(江戸東京博物館所蔵)。  土浦亀城以外にも、独自性の強い鋼管製カンチレバーの椅 子を使用する建築家もいた。その一人に石本喜久治が挙げら れる。白木屋7階パーラー(1931年)、喫茶店コンパル(1939 年)がその代表的な事例である。石本喜久治のデザインした 椅子は、ハンス・ルックハルトの影響を受けてはいるが、一 部独自性を加えている。 32)竹合板製カンチレバーの椅子が開発された時期が1938年で あるため、販売時期は1938年以降であるが、正確には判断で きない。したがって1939年あたりと推測した。 33)例えば、1949年のキネマ旬報ベスト・テンは、1位『晩春』、 2位『青い山脈』、3位『野良犬』、4位『破れ太鼓』、5位『忘 れられた子等』、6位『お嬢さん乾杯』、7位『女の一生』、8位 『静かなる決闘』、9位『森の石松』、10位『小原庄助さん』と なっている。2位の『青い山脈』は娯楽作品としての要素を持 つが、純粋な現代劇の娯楽作品は6位の『お嬢さん乾杯』だ けである。20位に『女性操縦法「グッドバイ」より』に入っ ているだけで、『朱唇いまだ消えず』『湯の町悲歌』『恋の十三 夜』『銀座カンカン娘』『男の涙』『影を慕いて』は20位以内 に入っていない。この評価と観客動員数に強い相関があると は思えない。『銀座カンカン娘』は娯楽映画として広く社会で 支持されており、DVD化も早く行われた。キネマ旬報ベス ト・テンだけで、映画の価値観を決定することは危険である。 34)新建築社(編) 1934『新建築』第10巻第6號,新建築社, p. 105 35)新建築社(編) 1941『新建築』第17巻第6號,新建築社, p. 225 36)竹合板製カンチレバーの椅子に関する情報が豊富な『工藝 ニュース』を見渡しても、二人掛けタイプの記事は第二次大 戦時(1943年に休刊する以前)にも見当たらない。

図 9 17 ) は、アルヴァ・アアルト( Alver Aalt )設計の椅 子である。図 10 18 ) は、図 9 を竹合板でリデザインしたも のである。竹興社 19 ) という小規模な企業で生産された。 3-4  カンチレバーの椅子における使用場面の実態 1 )住宅内における使用 『雪婦人絵図』 20 ) の使用場面は、図 11 に示したものであ る。富裕層の別荘でベランダに置いて使用している。常時 ベランダに置いていると鍍金を施した鋼管に錆びが生じる が、映画の場面では屋外に特化して使用しているのか

参照

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