明治十五年
王治本の旅と詩文交流
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旅立ちから東海道を経て越前滞在まで
柴
田
清
継
はじめに 明 治 十 年 ( 以 下、 誤 解 を 招 く 恐 れ の な い 場 合 は「 明 治 」 を 省 略 す る ) 春 に 来 日 し て 以 来、 十 二 年 の 年 末 も し く は 十 三 年 の 初 め の 神 戸 訪 問 1 以外、 五年間、 東京近辺を離れたことのなかった王治本 (号漆 ( ) 園。 一 八 三 五 ~ 一 九 〇 八 ) が、 十 五 年 の 晩 春 か ら 初 め て の 長 期 に わ た る 日 本 国 内 旅 行 に 出 か け た。 こ の 旅 行 で 彼 が い つ、 ど こ を 訪 れ た か に つ い て は、 既 に さ ね と う け い し ゅ う 氏 が か な り の 程 度 解 明 し て お ら れ る。下記のとおりである。 十 五 年 五 月 ― 甲 府、 駿 河、 遠 江、 尾 張、 中 秋 ― 名 古 屋、 七 月 ― 福 井、 八 月 ― 金 沢、 福 光、 高 岡、 富 山。 十 六 年 高 田( 予 定 )、 放 生 津( 予 定 )、 氷 見( 予 定 )、 七 尾( 予 定 ) 三 月 ― 金 沢、 大 聖 寺( 予 定 )、 函 館、 新 潟、 八 月 ― 五 泉、 新 潟。 十 七 年 春 ― 佐 渡、 秋 ― 越後与板 町 2 。 こ れ に 対 し、 筆 者 自 身 の 調 査 結 果 に 基 づ き 補 足 す れ ば、 次 の よ う になる。 一、 地 理 的 に 見 て 当 然 か も し れ な い が、 十 五 年 の 往 路 で は 遠 江 の後、三河も経由した。 二、 十六年の七尾は、実際に訪れている。 三、 十 六 年 の 春 は、 加 賀 の 後、 越 前 を 再 訪 し た 上 で、 一 旦 帰 京 し た。 そ の 際 の 経 由 地 と し て、 少 な く と も 美 濃 の 大 垣 が 確 認できる。 四、 十 六 年 は 七 月 に ま ず 函 館 へ 行 き ( 海 路 で あ ろ う ) 、 そ の 後、 八月に海路で新潟を訪れた。 五、 十七年は年末に新潟を離れ、 再度、 海路函館を訪れた上で、 帰京した。 以 上 の う ち、 十 六 年 夏 か ら 十 七 年 冬 に か け て の 彼 の 新 潟 県 に お け る 足 跡 と 詩 文 交 流 に つ い て は、 す で に こ れ を ま と め た 拙 文 が あ る 3 。 筆 者 の 今 後 の 予 定 と し て は、 函 館 で の 足 跡 は 他 日、 北 海 道 に お け る 足 跡 全 体 を 扱 う 際 に 含 め る こ と と し、 ま ず は 十 五 年 晩 春 か ら 十 六 年 夏 に か け て の 足 跡 を、 こ れ ま で の 調 査 結 果 に 基 づ き 描 出 し て い き た い と 思 う の で あ る が 、 か な り の 紙 数 を 費 や す こ と に な る の で 、 本 稿 で は ま ず 十 五 年 の 東 京 出 発 前 後 か ら 越 前 滞 在 ま で を 扱 う こ と に し た い。一、留別と送別 王 治 本 は そ れ ま で 五 年 に わ た る 東 京 で の 生 活 で、 多 く の 友 人 が で き て い た。 そ の 友 人 た ち に 自 分 の 旅 行 の 予 定 を 知 ら せ る た め、 彼 は 『 朝 野 新 聞 』 の 社 長 で あ っ た 成 島 柳 北 ( 一 八 三 七 ~ 八 四 ) と、 『 郵 便 報 知 新 聞 』 の 編 集 主 任 で あ っ た 栗 本 匏 庵 ( 一 八 二 二 ~ 九 七 ) と に、 そ れ ぞれ留別詩を送付し、 紙上への掲載を依頼するという方策を用いた。 こ れ に 応 じ、 柳 北 は 五 月 九 日 の『 朝 野 新 聞 』 雑 録 に、 匏 庵 は 同 十 二 日 の『 郵 便 報 知 新 聞 』 文 苑 雅 賞 に、 そ れ ぞ れ そ の 依 頼 文 と 留 別 詩 と を 併 せ て 掲 載 し て い る。 依 頼 文 は 両 者 ほ ぼ 同 様 の 内 容 で あ る。 前 者 を引いてみることにする。 濹 上 漁 史 詞 宗 先 生 閣 下、 ( 中 略 ) 茲 僕 定 即 日 束 装 北 游、 自 甲 府 歴 静 岡、 次 名 古 屋、 入 越 州、 携 一 枝 禿 筆、 訂 半 載 游 程、 覧 八 千 八 水 烟 波、 観 七 十 二 橋 風 月。 倚 装 賦 此 二 律、 留 別 東 都 諸 友、 竝 乞 賜 和。 縁 匆 促 登 程、 未 遑 徧 告。 伏 乞 付 諸 貴 報、 為 幸 為 荷。 〔 濹 上 漁 史 詞 宗 先 生 閣 下、 ( 中 略 ) 茲 に 僕 即 日 装 を 束 ね て 北 游 し、 甲 府 よ り 静 岡 を 歴 て、 次 に 名 古 屋、 越 州 に 入 り、 一 枝 の 禿 筆 を 携 え て、 半 載 の游程を訂め、 八千八水の烟波を覧、 七十二橋の風月を観んと定めたり。 装 に 倚 り て 此 の 二 律 を 賦 し て、 東 都 の 諸 友 に 留 別 し、 竝 び に 和 を 賜 わ ん こ と を 乞 う。 匆 促 と し て 程 に 登 る に 縁 り、 未 だ 徧 く 告 ぐ る に 遑 あ ら ず。 伏 し て 乞 う こ れ を 貴 報 に 付 せ ば 、 幸 い と 為 し 荷 と 為 す 。〕 辱 交 王 治 本 出 発 前 に 王 治 本 が 予 定 し て い た コ ー ス と、 半 年 と い う 旅 行 期 間 が 記 さ れ て い る。 「 八 千 八 水 」 と は、 そ の 昔、 信 濃 川 か ら 水 を 引 い た 堀 が 縦 横 に あ っ た、 水 の 都 新 潟 の 代 名 詞。 「 七 十 二 橋 」 と は、 富 山 の七十二峰橋のことと考えられる。 後者では、 末尾に 「陽歴五月五日」 と い う 日 付 も 記 さ れ て お り、 旅 立 っ た 日 を 絞 り 込 む た め の 手 が か り の 一 つ に な る。 前・ 後 者 と も 詩 は 二 首 ず つ 掲 載 さ れ て い る が、 一 首 目は両者共通で、次のような作である。 離居亦復賦将離 居を離れたるに 亦 また 復 将離を賦するは 北陸雲山触客思 北陸の雲山 客思に触るればなり 鴻跡徧探三越勝 鴻跡 徧く探らん 三越の勝 燕帰預約半年期 燕帰 預め約せん 半年の期 更憑酒力添游興 更に酒力に憑りて 游興を添え 擬把新詩慰旧知 新詩を 把 も って旧知を慰めんと擬す 楊柳依々愁脉々 楊柳 依々として 愁い脉々たり 銷魂况在莫春時 銷魂 况や莫春の時に在るを や 4 第 一 句 の「 将 離 」 は、 芍 薬 の 別 名 と し て の 表 面 上 の 意 味 と、 ま も な く 離 別 し よ う と し て い る と い う 実 質 的 な 意 味 と の、 い わ ば 掛 け 詞 と し て 使 わ れ て い る。 と こ ろ で、 旅 住 ま い を し て い る 彼 に さ ら に ま た「北陸の雲山」が旅心を起こさせたとは、 どのようなことなのか。 そ の き っ か け と し て 想 像 さ れ る 事 柄 の 一 つ は、 前 年、 す な わ ち 十 四 年 に 新 潟 を 訪 問 し た 森 春 濤 ( 一 八 一 九 ~ 八 九 ) か ら、 当 地 の 話 を 聞 い て 興 味 を 覚 え た か も し れ な い と い う こ と で あ る。 今 一 つ は、 後 述 す る 松 村 西 荘 ( 一 八 四 九 ~ 九 一 ) の よ う に、 王 治 本 に は 北 陸 出 身 の 詩 友 が 少 な く な く、 平 素 い ろ い ろ と 聞 か さ れ て い る そ の 古 里 を 訪 ね る と い っ た 趣 も あ っ た か も し れ な い。 そ の よ う に 考 え る な ら、 北 陸 訪 問
の は ざ ま に 訪 れ る 函 館 も、 か つ て 栗 本 匏 庵 が 居 住 し、 病 院 や 薬 園 な どの造成に尽力した所だった。 二 首 目 は、 前・ 後 者 で 異 な る 作 と な っ て い る が、 韻 字 は 一 首 目 と 共 通 で あ る。 た だ、 い ず れ も 筆 者 が 見 た 復 刻 版 資 料 5 に 判 読 し が た い 文字が含まれていることもあり、省略することにする。 さ て、 こ れ ら の 留 別 詩 に 対 し て、 さ ぞ 多 く の 和 詩 が 詠 ま れ た で あ ろ う と 推 察 さ れ る の で あ る が、 王 治 本 は こ れ と は 別 に、 上 野 の 酣 春 楼 ( 亭 ) で 開 か れ た 送 別 の 宴 に お い て も、 こ れ ら の 作 を 留 別 詩 と し て 披 露 し て い た よ う で あ る。 そ れ は 次 に 掲 げ る 永 井 禾 原 ( 名 久 一 郎。 一 八 五 二 ~ 一 九 一 三。 永 井 荷 風 の 父 ) の 作 が、 王 治 本 の こ れ ら の 作 に 対 する次韻の形になっていることから知られるのである。 東台酣春亭送王 園〔治本〕游飛越 永井禾原 雨餘春樹緑迷離 雨餘の春樹 緑 迷離たり 満目風光触所思 満目の風光 思う所に触る 京洛鶯花留妙句 京洛の鶯花 妙句を留めたり 越飛山水趁佳期 越飛の山水 佳期を趁え 絃歌此夕惜新別 絃歌 此の夕べ 新別を惜しみ 詩酒多年酬故知 詩酒 多年 故知に酬ゆ 再約小西湖上飲 再び約せん 小西湖 〔不忍池のこと〕 上に飲するを 勿違燕去鴈来時 違う勿かれ 燕去り鴈来るの 時 6 そ し て、 四 月 二 十 八 日 の『 郵 便 報 知 新 聞 』 に 載 り、 王・ 永 井 両 者 の 作 と 韻 字 が 同 一 の 松 村 西 荘 の 作 が「 四 月 二 十 三 日 東 京 諸 旧 雨 開 燕 于 東 台 酣 春 楼、 餞 王 黍 ママ 園 及 余 北 東 行、 賦 屯 留 別 」 と 題 さ れ て い る こ と か ら、 こ の 送 別 の 宴 の 開 催 日 が 四 月 二 十 三 日 で あ っ た こ と と、 西 荘 が 王 治 本 の 旅 に 同 行 す る こ と に な っ て い た こ と と が 知 ら れ る の で あ る。 西 荘 は 越 中 福 光 の 出 身 で、 六 歳 の 時、 大 病 に 罹 り、 聾・ 唖・ 跛 の 三 重 苦 を 背 負 う こ と に な っ た が、 明 治 九 年 か ら 東 京 に 遊 学 し て い た 7 。 同 日 の『 郵 便 報 知 新 聞 』 に は 西 荘 の 次 に、 同 じ く 越 中 出 身 の 山 田 新 川 ( 一 八 二 七 ~ 一 九 〇 五 ) の 次 の よ う な 作 品 が 掲 載 さ れ て お り、 新 川もこの宴会に出席していたと見ていいであろう。 送西荘詞兄同 黍 ママ 園学士游北陸 山田新川 羨君探勝旅装軽 羨む君 〔西荘を指す〕 探勝 旅装軽く 千里江山不計程 千里の江山 程を計らざるを 行李半肩伴西客 行李 半肩 西客 〔王治本を指す〕 に伴い 落花三月出東京 落花 三月 東京を出づ 同文何用煩重訳 文 を 同 じ く す 何 ぞ 用 い ん 重 訳 を 煩 わ す を 得句応須共細評 句を得ば 応 まさ 須 に共に細かく評すべし 我亦他年継游跡 我も亦 他年 游跡を継ぎ 北州到処認題名 北州 到る処 題名を認めん 山 田 新 川 は、 実 家 が 代 々 越 中 の 漢 方 医 で あ っ た が、 家 業 を 継 が ず 詩 作 に 専 念、 維 新 後 は 東 京 に 出 て、 漢 詩 の 正 葩 吟 社 を 創 立、 主 宰 し てい た 8 。 さ て、 王 治 本 の 一 首 目 は、 こ の 年 の 六 月 に 刊 行 さ れ た『 新 文 詩 』 の 第 八 十 三 集 に も「 将 游 北 越、 留 別 東 京 諸 君 」 と い う 題 で、 こ れ に
対 す る 小 野 湖 山 ( 一 八 一 四 ~ 一 九 一 〇 ) と 森 春 濤 (『 新 文 詩 』 の 編 輯・ 出 版 人 ) 、 そ れ ぞ れ の 次 韻 送 別 の 作 と 共 に 掲 載 さ れ て い る の で、 そ れ らを紹介したいと思うが、 春濤の作が「 園游北越、 齎留別詩来祖、 予 亦 将 游 南 総、 乃 次 韻 誌 別 」 と 題 さ れ て い る こ と か ら す る と、 春 濤 は 上 記 の 酣 春 楼 で の 宴 に 参 加 し た の で は な く、 ち ょ う ど そ の こ ろ 南 総 へ の 旅 に 出 掛 け よ う と し て い た 彼 の も と へ 王 治 本 が く だ ん の 留 別 詩を携え、餞別に来たと見るべきであろう。春濤の作を挙げよう。 当帰不詠詠将離 当帰をば詠まずして 将離を詠み 萍散蓬分多所思 萍のごとく散り蓬のごとく分かれ 思う所多し 九十九湾従此去 九十九湾 〔能登半島のリアス式海岸〕 此れより去き 八千八水趁他期 八千八水 他 そ の期するを趁え 参差有恨柳枝綰 参差たるを 恨む有り 柳枝 綰る 浩蕩能馴鷗意知 浩蕩たるを 能く馴らし 鷗意をば知る 更勧一杯君且尽 更に一杯を勧めん 君且く尽くせ 京城細雨牡丹時 京城 細雨 牡丹の 時 9 第 一 句 は 王 治 本 の 第 一 句 を 承 け て、 さ ら に ひ ね り を 効 か せ た も の で、 「 当 帰 」 に 薬 用 植 物 と し て の 表 面 上 の 意 味 と、 帰 ら ね ば な ら ぬ と い う 実 質 的 な 意 味 と を 掛 け て い る。 第 六 句 は 難 解 で あ る が、 杜 甫 の「 奉 呈 韋 左 丞 丈 二 十 二 韻 」 詩 末 尾 の「 白 鷗 没 浩 蕩、 萬 里 誰 能 馴 」 の 二 句 を 承 け て い る こ と は 明 ら か で あ る。 春 濤 の 子 で あ る 森 槐 南 ( 一 八 六 三 ~ 一 九 一 一 ) の 杜 詩 講 釈 を 参 照 す る こ と に し た い。 彼 に よ れ ば、 杜 甫 の こ の 作 品 は、 韋 左 丞 ( 韋 済 ) に 頼 っ て「 立 身 を し や う と い ふ 積 り で 」 い た 杜 甫 が、 「 事、 志 と 違 う て ど う も 思 ふ 様 に 」 な ら ず、 「 そ こ で 都 に 居 り ま し て 何 時 ま で も 韋 氏 の 厄 介 に な つ て 居 る 訳 に も 」 い か ず、 「 何 か 他 に 餬 口 の 道 を 求 む る 外 な く、 已 を 得 ず 暫 く 都 を 離 れ て 他 へ 旅 行 を す る こ と に な つ た も の と 見 え 」、 そ の 時 に 作ったものである。末尾の二句について、槐南は、 も う 到 底 都 を 立 去 る と 決 心 を い た し ま し た 以 上 は、 前 途 何 れ の 処 に 到 る こ と で あ る か、 譬 へ ば 白 鷗 の 浩 蕩 と し て 水 の 間 に 出 没 い た し て 居 り ま す る と 一 般 で、 万 里 浩 蕩 の 間 に 此 身 を 委 ね る 積 り で あ り ま す か ら、 再 び 此 白 鷗 を 馴 し て、 己 れ の 手 元 に 長 く 置 か う と 云 ふ 者 が あ り ま し て も、 恐 ら く 之 を 馴 す こ と は 出 来 ぬ で あ ら う と 思 ふ。 斯 う 申 し ま す の で あ り ま し て、 是 に 至 つ て は 最 早 や 女 々 し く 後 に 引 か る ゝ 心 は 無 い と 申 す 事 を、 此 二 句 に 申 し ました訳であります。 と 講 釈 し て い る (1 。 以 上 を 踏 ま え て 推 し 量 る な ら、 春 濤 は、 都 か ら 旅 立 つ 王 治 本 に、 「 万 里 浩 蕩 の 間 に 」 身 を 委 ね る 鷗 の よ う に 自 由 な 生 き 方 を 感 じ 取 っ た の で あ ろ う と 思 わ れ る。 も っ と も、 そ れ が 東 京 に お け る 失 意 の 結 果 で あ っ た と か、 東 京 の 知 友 た ち の 世 話 を 受 け る こ と へ の 遠 慮 で あ っ た と か い っ た と こ ろ ま で、 杜 甫 の 作 と 重 ね 合 わ せ ねばならぬような徴証は見出されない。 一方、湖山の作は次のようなものである。
送清客王 園、経東海道、游北陸諸州、次其留別韻 小野湖山 楊花飛尽草離離 楊花 飛び尽くして 草 離離たり 送客送春多所思 客を送り 春を送りて 思う所多し 邂逅有歓帰昨夢 邂逅して歓有りしは 昨夢に帰す 関河無際約前期 関河 〔山や川〕 際無し 前期を約せん 〔予め再会の時を決めておこう〕 酒添交味我先熟 酒 交味を添う 我 先ず熟せり 詩播名声誰不知 詩 名声を播く 誰か知らざらん 天気清和行路好 天気 清和にして 行路 好し 遠人恰是快游時 遠人 〔遠くへ旅立つ人〕 恰も是れ 快游の時 な お、 さ ね と う 氏 に よ れ ば、 湖 山 は、 金 沢 藩 の 元 家 老、 横 山 蘭 洲 ( 一 八 三 四 ~ 八 九 ) を は じ め、 王 治 本 が 訪 れ る 予 定 の 各 地 の 知 人 に 紹 介 状 を 書 い て や っ て お り (( 、 春 濤 も、 王 治 本 が 十 六 年 に 新 潟 を 訪 れ る に先んじて、 『新潟新聞』に彼を紹介し、 県内の十数人の名士に「周 旋」を懇請する「稟告」を出してい る (2 。 王治本はさらに、 『時事新報』 の漢詩欄 「熙朝風雅」 の担当者であっ た 関 根 癡 堂 ( 一 八 四 一 ~ 九 〇 ) ら 宛 て に も 留 別 詩 を 詠 ん だ が、 そ れ は ま た 別 の 作 品 で あ っ た。 そ の 詩 宴 で 詠 ま れ た 作 が 五 月 十 三 日 の 同 紙 同欄に載っている。まず、王治本の作である。 席上分韻、賦留別癡堂詞宗 王治本 把杯殊黙々 杯を把りて 殊に黙々たり 分袂倍依々 袂を分かたんとして 倍ます依々たり 有涙憐新別 涙有り 新たなる別れを憐れみ 多情嘱早帰 情多し 早く帰らんことを嘱す 憑君書作導 君が書に憑りて 導きと作し 使我馬如飛 我が馬をして 飛ぶが如くならしめん 七二橋頭月 七二橋頭の月 凄凉照客衣 凄凉として客衣を照らさん そ の 後 に、 王 治 本 の 族 弟 で、 東 京 に 滞 在 し 主 と し て 書 画 家 と し て 活 動 し て い た 王 琴 仙 ( 一 八 四 七 ~ 九 八 (3 ) の「 送 黍 ママ 園 兄 之 越、 分 韻、 得 支、 録 呈 癡 堂 詞 宗 」 詩 が 載 っ て い る が、 省 略 す る。 さ ら に そ の 後 に は、 小笠原虚舟という人物の作が題を「同上」として載っているが、 下引の通り。得た韻は王琴仙作とは異なる。 迢々北陸策吟鞭 迢々たる北陸 吟鞭に策うつ 未獲従游倍悵然 未だ従いて游ぶを獲ず 倍ます悵然たり 月照離愁花露冷 月 離愁を照らして 花露 冷ややかに 山牽別恨柳烟連 山 別恨を牽きて 柳烟 連なる 浮雲聚散原無定 浮雲 聚散して 原 もと 定まる無く 流水東西亦有縁 流水 東西する 亦 縁有り 悄対孤燈懐旧約 悄として孤燈に対して 旧約を懐う 帰来莫負九秋天 帰 来 負 く 莫 か れ 九 秋 〔 秋 ま た は 晩 秋 〕 の 天 (4 小 笠 原 虚 舟 の 作 は、 上 記 の 支 韻 の 留 別 詩 に 次 韻 し た も の も 掲 載 さ れているが、省略する。最後に、癡堂の作である。
同上分韻得年 関根癡堂 歓踪飄瞥付雲烟 踪 飄瞥 〔雲の飛ぶさま〕 として雲烟に 付せんことを歓ぶも 話到分離最黯然 話して分離に到りて 最も黯然たり 与燕帰来休負約 燕と与に帰り来る 約に負く休かれ 同春別去且随縁 春と同に別れ去る 且く縁に随わん 〔なすがままに任せよう〕 愁令頭白花無頼 愁い 頭をして白からしむ 花 無頼 〔如何ともし難く悩ましい〕 涙代人垂燭可憐 涙 人に代わりて垂る 燭 可憐 越女含情待君久 越女 情を含みて 君を待つこと久し 恐君一笑滞三年 恐 ら く は 君 一 笑 し て 滞 る こ と 三 年 な ら ん 第 三 句 は、 癡 堂 自 身 が「 黍 ママ 翁 留 別 詩 中、 有 燕 帰 須 約 半 年 期、 句、 第 三 句 故 云 」 と 注 記 す る 通 り、 王 治 本 の 支 韻 の 留 別 詩 に お け る 帰 来 予定時期の約束厳守を懇請するものであるが、 その約束は守られず、 束 の 間 の 東 京 帰 還 を 除 け ば、 北 陸 旅 行 す べ て を 終 え た 上 で の 東 京 帰 還は十七年末で、癡堂が危惧(?)した通りになるのであった。 な お、 五 月 十 七 日 の『 朝 野 新 聞 』 雑 録 に 神 波 即 山 ( 一 八 三 二 ~ 九一。尾張出身) の「王 園将游北陸、 次其留別韵、 却贈」と題する、 王治本の支韻の作への次韻の詩が載っているので、挙げておこう。 艸々尊前話別離 艸々として 尊前 別離を話す 雲牋何日寄相思 雲牋 何れの日か 相思を寄せん 緑波南浦豈無恨 緑波 南浦 豈 恨み無からんや 夜雨西窓猶有期 夜雨 西窓 猶お期有り 磊落奇才唯酒見 磊落たる奇才は 唯酒にのみ見れ 迷漫浪迹独鷗知 迷漫たる浪迹は 独り鷗のみ知る 春残旅食多新味 春残 旅食 新味多く 紫笋香魚正及時 紫笋 香魚 正に時に及べり 頷 聯 は 南 朝 梁 の 江 淹 の「 別 賦 」 の「 春 草 碧 色、 春 水 淥 波、 送 君 南 浦、 傷 如 之 何 」 と、 唐 の 李 商 隠 の「 夜 雨 寄 北 」 詩 の「 何 当 共 剪 西 窓 燭、 卻話巴山夜雨時」とを下敷きにしていること、 言うまでもない。 二、甲斐・駿河・三河・尾張 甲 斐 甲 府 王 治 本 が 出 立 し た の は、 上 述 の 通 り、 五 月 五 日 よ り 後 の 某 日 と い う こ と に な る が、 そ の 後 の 足 跡 と し て 知 ら れ る こ と の 第 一 は、 文 人 墨 客 の 出 入 り が 多 か っ た と 言 わ れ る 甲 府 の 料 亭「 松 亭 」 の 主 人 の た め に 七 言 絶 句 を 揮 毫 し て い る こ と で あ る。 さ ね と う 氏 が そ の 書 を 紹 介 し て 下 さ っ て お り、 そ の 識 語 に「 松 亭 主 人 清 賞 壬 午 莫( 春 ) 淛 東 王 治 本 時 游 峡 中 」 と あ る (5 。「 壬 午 莫( 春 )」 が 十 五 年 の 旧 暦 三 月 ( 陽 暦 の 四 月 十 八 日 ~ 五 月 十 六 日 ) の こ と と す れ ば、 王 治 本 は 五月十六日までには甲府に着いていたことになる。 駿 河 静 岡 次 に 知 ら れ る の は、 五 月 中 の 静 岡 滞 在 で あ る。 五 月 三十一日の『時事新報』雑報に次のような記事が載っている。 書 画 有 名 な る 清 国 王 黍 ママ 園 氏 は 当 時 静 岡 両 換 町 魚 文 亭 に 滞 在 中 な る が 揮 毫 を 乞 ふ 者 続 々 堪 へ ず 余 程 評 判 宜 し 同 地 の 平 山 機 陽
前 田 半 村 の 諸 氏 が 近 日 同 氏 を 招 し て 盛 ん な る 書 画 詩 会 を 催 さ ん と企て居るとぞ 文 中 の「 当 時 」 は 現 在 の 意 味 で あ る こ と、 言 う ま で も な い。 平 山 機陽と前田半村については、残念ながら、未詳である。 な お、 『 新 文 詩 』 第 九 十 五 集 ( 十 六 年 七 月 ) 所 載 の 王 治 本 の「 天 王 日 月 鏡 詩。 為 柏 原 屋 山 作 」 詩 は、 柏 原 屋 山 ( 名 学 而。 一 八 三 五 ~ 一 九 一 〇 ) が 当 時、 駿 府 病 院 の 医 師 で あ っ た こ と か ら、 王 治 本 の 十 五 年 の 静 岡 滞 在 中 に 詠 ま れ た も の で あ る 可 能 性 が あ る が、 今 後 そ の制作時期が判明した暁に取り上げることにしたい。 三 河 七 月 十 一 日 の『 時 事 新 報 』 熙 朝 風 雅 に は、 三 河 の 豊 橋 お よ び 岡 崎 で 王 治 本 と 現 地 の 人 た ち と が 詠 み 交 わ し た 作 品 が 掲 載 さ れ て い る。 豊 橋 で の 作 品 は 大 河 内 霊 臺 な る 人 物 の 五 絶 二 首 で あ る。 一 首 のみ引くことにする。 壬午六月十日、長春亭席上、賦呈王 黍 ママ 園先生 豊橋 大河内霊臺 我是山中客 我は是れ 山中の客 憐君海外人 憐れむ 君は海外の人 百花園裏酒 百花園裏の酒 一酔亦前因 一たび酔うも 亦 前因 題 の「 六 月 十 日 」 は、 も し 陰 暦 だ と す る と、 新 聞 の 発 行 日 の 七 月 十 一 日 を 越 え て し ま う か ら、 陽 暦 と い う こ と に な る。 霊 臺 の も う 一 首 は「 十 六 日 先 生 将 発 賦 此 言 別 」 と 題 す る も の で、 こ の「 十 六 日 」 も 陽 暦 で な け れ ば な ら な い か ら、 王 治 本 は 少 な く と も 六 月 十 日 か ら の一週間餘りを含む時期には豊橋に滞在したようである。 次 に 、岡 崎 で の 唱 和 作 と し て 掲 載 さ れ て い る の は 、次 の 三 首 で あ る 。 巽閣席上、与同遊諸子同賦〔閣在岡崎公園内〕 黍 ママ 園 王治本 近環碧水遠環山 近く碧水環り 遠く 山環る 幾処村家烟樹間 幾処の村家か 烟樹の間 却好斜陽新霽後 却って好し 斜陽 新たに霽れたる後 一帆風送過前湾 一帆 風 送りて 前湾を過ぎしむ 同上次王 黍 ママ 園先生韻 早川中洲 積雨初晴淡々山 積雨 初めて晴れ 淡々たる山 斜陽紅抹断雲間 斜陽 紅く 抹 ぬ る 断雲の間 薫風吹送孤帆影 薫風 孤帆の影を吹き送り 掠過垂柳緑一湾 垂柳を掠め過ぎて 一湾を緑にす 同上 飯田関外 当莚緑水与青山 莚に当たる 緑水と青山と 高閣望開林樹間 高閣 望 開く 林樹の間 一酔詩成天已夕 一たび酔いて 詩 成れば 天 已に 夕 かたむ き 清風吹月満前湾 清風 月を吹きて 前湾に満たしむ 「 熙 朝 風 雅 」 欄 の 担 当 者 で、 も と 三 河 藩 士 の 関 根 癡 堂 は、 以 上 の 諸詩の後に次のようなコメントを付している。
余 聞 黍 ママ 園 王 氏 出 都 之 後、 到 処 游 興 頗 盛、 不 堪 想 像、 適 得 郷 友 某 書 詳 記 王 氏 来 遊 之 事、 紙 尾 録 此 諸 作、 曰 百 花 園、 曰 巽 閣、 皆 余 旧 識 之 地、 一 読 之 際、 恍 然 如 身 在 其 境、 但 恨 不 得 握 手 一 笑 同 其 歓 耳。 〔 余 黍 園 王 氏 都 を 出 で し の 後、 到 る 処 游 興 し て 頗 る 盛 ん な り と 聞 き、 想 像 す る に 堪 え ず、 適 た ま 郷 友 某 の 書 を 得 た る に、 詳 し く 王 氏 来遊の事を記し、 紙尾に此の諸作を録したりき。曰く百花園、 曰く巽閣、 皆余が旧識の地にして、 一読の際、 恍然として身 其の境に在るが如し。 但だ手を握りて一笑し其の歓びを同にするを得ざるを恨むのみ〕 な お、 残 念 な が ら、 豊 橋 の 大 河 内 霊 臺、 岡 崎 の 早 川 中 洲、 飯 田 関 外、いずれも未詳である。 尾張 七月十四日と十八日の 『時事新報』 熙朝風雅に、 王治本の 「浪 越 竹 枝 詩、 十 二 首 」 が 掲 載 さ れ て い る。 浪 越 は 言 う ま で も な く 名 古 屋 の 別 称 で あ る。 こ の 作 品 に は、 ま ず「 僕 初 游 浪 越、 古 事 今 情、 茫 無一暁、 畧向友人探知一二、 抒写情景、 不暇計工拙也 〔僕 初めて浪 越 に 游 び、 古 事 今 情、 茫 と し て 一 も 暁 る 無 く、 畧 友 人 よ り 一 二 を 探 知 し て、 情景を抒写せり、 工拙を計るに暇あらざるなり〕 」との序があり、 次に「国 号」 「城楼」 「禅林勝跡」 「市廛、 奇談」 「酒家」 「夜市」 「大須寺、 夜景」 「公 園 勧 工 塲 」「 新 聞 」「 劇 塲 」「 藝 妓 」「 娼 妓 」 を 題 材 と し て、 そ れ ぞ れ 七律が詠まれている。幾つか引用することにしよう。 雄城白雉勢嶙峋 雄城 白雉 勢 嶙峋たり 更旧営新三百春 旧きを更め新しきを営み 三百春 先我来游誰擅美 我に先んじて来り游び 誰か美を擅にせる 登楼題詠有元贇 登楼題詠 元贇有り 〔城楼〕 東輪賞月最宜秋 東 輪 〔 尾 張 二 代 藩 主 徳 川 光 友 に よ っ て 創 建 さ れ た 東輪寺〕 月を賞する 最も秋に宜しく 七寺池辺夏景幽 七寺 〔正式寺名は稲園山正覚院長福寺 〕 池辺 夏景 幽なり 正覚弥陀開仏会 正 覚 〔 正 覚 寺 〕 弥 陀 〔 阿 弥 陀 寺 〕 仏 会 開 き 涅盤繡像到今留 涅盤の繡像 今に到るまで留まる 〔禅林勝跡〕 酒帘無数任風揚 酒帘 無数 風の揚ぐるに任す 魚半河文最擅塲 魚半 〔料亭の名〕 河文 〔料亭の名〕 最も塲を擅にす 更羨有隣亭上好 更に羨む 有隣亭上 好し 割烹新式仿西洋 割烹新式 西洋に仿う 〔酒家〕 真福院前夜景清 真福院 〔大須観音の寺号〕 前 夜景 清く 五重宝塔放光明 五重の宝塔 光明を放つ 閑乗皓月探勝景 閑に皓月に乗じて 勝景を探る 彷彿金龍山畔行 彷彿として金龍山 〔南京の鍾山〕 畔を行くがごとし 〔大須寺、夜景〕 公園園裡勧工塲 公園 園裡 勧工塲 百物紛羅価不昂 百物 紛羅して 価 昂からず 半是游人半買客 半ばは是れ游人 半ばは買客 呼兄携妹各成行 兄と呼び妹を携えて 各おの行を成す 〔公園勧工塲〕
大者工歌小者 姸 大 としかさ の者は歌に工に 小 わか き者は 姸 し 風流態度總堪憐 風流なる態度 總べて憐れむに堪えたり 再番弾唱再番舞 再番弾唱し 再番舞い 一炷香時十二銭 一炷香時 〔線香一本の火が消えるまでの時間〕 十二銭 〔藝妓〕 「 城 楼 」 の 詩 に は「 明 時、 陳 元 贇、 游 尾 張 有 登 城 楼 句 」 と の 自 注 がある。陳元贇 (一五八七~一六七一) は元和五 (一六一九) 年に来日し、 寛 永 四 ( 一 六 二 七 ) 年 に 尾 張 藩 主 徳 川 義 直 に 面 会 し て 以 後、 主 と し て 名 古 屋 に 居 住 し た が、 彼 が 名 古 屋 城 に 登 っ た 時 に 詠 ん だ 句 は、 寡 聞にして知らな い (6 。 さて、王治本のこれらの作を『時事新報』に掲載した癡堂は、 僅 々 数 日 之 游 耳、 而 吟 咏 風 土 品 隲 花 柳、 詳 備 切 当、 殆 無 餘 蘊、 使 読 者 不 覚 呼 奇 称 快。 何 等 才 藻、 何 等 敏 妙、 可 謂 不 使 元 贇 擅 美 於 前 矣。 〔 僅 々 数 日 の 游 の み。 而 る に 風 土 を 吟 咏 し 花 柳 を 品 隲 し て、 詳 備 切 当、 殆 ど 餘 蘊 無 く、 読 む 者 を し て 覚 え ず 奇 と 呼 び 快 と 称 せ し む。 何 等の才藻、 何等の敏妙ぞ。元贇をして美を前に擅にせしめずと謂う可し〕 と の 評 を 付 し て い る が、 確 か に、 当 時 の 名 古 屋 の 町 の 様 子 を 窺 う よ すがになる。 三、越前での交流 そ の 後、 王 治 本 は 福 井 を 訪 れ る が、 そ の 時 期 は、 後 述 す る「 一 乗 観 瀑 行 」 の 初 句 か ら 考 え て、 七 月 十 六 日 以 後 の こ と で あ っ た。 前 川 幸 雄 氏 に よ れ ば、 鯖 江 の 漢 詩 人、 松 谷 野 鷗 ( 一 八 三 五 ~ 一 九 一 四 ) の 『 野 鷗 松 谷 先 生 遺 艸 』 に「 野 鷗 翁 姓 ハ 松 谷 氏 ( 中 略 ) 曾 テ 松 平 春 嶽 老 公 清 国 王 治 本 ヲ 伴 ヒ 帰 郷 シ 翁 及 富 田 鷗 波 ト 唱 和 セ シ ム 」 と い う、 野 鷗 の 弟 子 で あ る 加 藤 帰 帆 に よ る 識 語 が あ る と の こ と で あ る (7 。 松 平 春 嶽 ( 一 八 二 八 ~ 一 八 九 〇 ) が 王 治 本 を 伴 っ て 帰 郷 し た 点 に つ い て は 傍 証 が 取 れ ず、 ま た、 野 鷗 と 王 治 本 と の 唱 和 作 品 も 未 見 で あ る が、 富 田鷗波 (一八三六~一九〇七) との唱和については十分な資料がある。 鷗 波、 名 は 厚 積、 も と 福 井 藩 士 で、 維 新 後 の 当 時 は「 福 井 県 準 判 任 御 用 掛 史 誌 編 纂 事 務 取 扱 」 の 任 に あ っ た (8 。 本 節 は 王 治 本 と 富 田 鷗 波 との交流を中心に見て行くことにする。 鷗 波 の 作 品 を 集 め た『 還 読 斎 遺 稿 (9 』 に は、 王 治 本 と の 明 治 十 五 年 に お け る 交 流 の 跡 を 示 す 漢 詩 が 七 首 載 っ て い る が、 ま ず そ の 一 首 目 を挙げよう。 清客王 園、漫遊于北陸、途次辱過訪 獘 廬、不堪感喜、 怱卒走筆、次其留別東京諸友詩韵鳴謝、兼表訂盟之意云 光彩瑛門何陸離 光彩 瑛門 何ぞ陸離 〔絢爛〕 たる 杳冥千里久馳思 杳冥 千里 久しく思いを馳せたり 東京交際応無限 東京の交際 応に限り無かるべきに 三越交程不負期 三越の交程 期に負かず 今日酒杯間始遇 今日 酒杯の間 始めて遇うも 多年文字上相知 多年 文字上にて 相知れり 吟壇豈啻訂盟約 吟壇 豈 啻に盟約を訂ぶのみならんや 方是斯文興亜時 方に是れ斯文 興亜の時
王 治 本 が 自 宅 を 訪 れ て く れ た こ と に 対 す る 感 激 を 詠 ん で い る。 第 四 句 か ら す る と、 彼 が こ の 時 期 に 越 の 国 に 来 る こ と を 鷗 波 は あ ら か じ め 知 ら さ れ て い た よ う で あ る。 な お、 末 句 の 表 現 は、 明 治 十 年 に 結 成 さ れ た 振 亜 社 が 十 三 年 に 興 亜 会 と 改 名 し、 「 興 亜 」 と い う 言 葉 が し だ い に 広 ま り つ つ あ っ た こ と を 背 景 と す る も の か。 次 に 三 首 目 を挙げよう。 壬 午 七 月 念 六 日、 訪 清 客 王 園 羽 山 寓 居、 話 次 園 問 南 越 名 勝 遺 蹟、 宜 遊 探 者。 予 再 次 園 東 都 留 別 詩 韵 以 答。 〔 清 客 王 園 を 羽 山 の 寓 居 に 訪 ね 、 話 す 次 園 南 越 の 名 勝 遺 蹟 の 宜 し く 遊 探 す べ き 者 を 問 う 。 予 再 び 園 の 東 都 留 別 詩 の 韵 に 次 し 以 て 答 う 。〕 先訪一乗歌黍離 先ず一乗を訪ねて 黍離を歌い 去遊三国賦相思 去きて三国に遊び 相思を賦せよ 懸泉百尺好消夏 懸泉 百尺 夏を消すに好く 明月二分須趁期 明月 二分 須く期を趁うべし 如幸同車容我伴 如し幸いに 車を同にして 我の伴うを容れなば 又応沿路報君知 又応に沿路 君に報じて知らしむべし 越南山水長湮没 越南の山水 長く湮没す 椽筆開幽逢此時 椽筆 幽を開く 此の時に逢わん ※第三句に「一乗渓頭有瀑布泉」との自注があ る 21 。 初 句 の「 黍 離 」 は『 詩 経 』 王 風 の 篇 名 で、 「 歌 黍 離 」 は 亡 国 の 感 慨 に ふ け る こ と。 一 乗 谷 は、 福 井 市 街 の 南 東 約 十 キ ロ メ ー ト ル に あ る 足 羽 川 支 流 一 乗 谷 川 の 狭 長 な 谷 で、 一 四 七 一 ( 文 明 三 ) 年、 朝 倉 敏 景 が こ こ に 築 城 し て か ら、 一 五 七 三 ( 天 正 元 ) 年、 義 景 が 織 田 信 長 に 滅 ぼ さ れ る ま で、 越 前 守 護 朝 倉 氏 五 代 の 本 拠 地 で あ っ た。 第 二 句 の「 三 国 」 ( 現 在 の 坂 井 市 三 国 町 ) に は 公 認 遊 廓 が 置 か れ て い た と こ ろ か ら、 句 全 体 と し て 妓 女 と の 遊 楽 に ふ け る こ と を 言 う か。 第 四 句 の「 明 月 二 分 」 は 唐 の 徐 凝 の「 憶 揚 州 」 詩 の「 天 下 三 分 明 月 夜、 二分無頼是揚州」の句に基づき、麗しい風光を言う。 こ の 鷗 波 の 奨 め に 従 い、 王 治 本 は 早 速、 三 日 後 の 七 月 二 十 九 日 に 鷗 波 に 導 か れ、 一 乗 谷 を 訪 れ た 2( 。 そ の 往 復 の 問 答 や 唱 和 の 詩 を 記 録 し た『 一 乗 紀 行 』 と 題 す る 写 本 ( 和 装 本、 墨 付 十 丁 ) が、 現 在、 福 井 県 立 文 書 館 の 松 平 文 庫 に 保 管 さ れ て い る。 作 者 名 は 明 記 さ れ て い な い が、 富 田 鷗 波 自 身 で あ ろ う と 見 ら れ る。 『 一 乗 紀 行 』 の 中 で、 こ の小旅行の総括となる作品が、 鷗波の 「一乗観瀑歌」 と王治本の 「一 乗 観 瀑 行、 賦 示 鷗 波 先 生 」 で あ る。 本 稿 で は 後 者 を 取 り 上 げ よ う と 思 う が、 こ の 作 品 は 全 八 十 句 の 七 言 古 詩 と 見 ら れ る。 「 見 ら れ る 」 と し た の は、 筆 写 の 誤 り で あ ろ う が 七 言 を 成 さ な い 句 や、 押 韻 の な さ れ て い な い 箇 所 が あ る か ら で あ る。 そ れ ら の 部 分 を 省 略 し て、 引 用することにしよう。 我来南越未十天 我 南越に来りて 未だ十天ならず 欲探勝景捜雲煙 勝景を探り 雲煙を捜さんと欲す 問 訽 勝景何処好 勝景 何れの処か好きと問 訽 すれば 咸道一乗瀑布泉 咸 道う 一乗 瀑布泉 一乗山路曲又奥 一乗は山路 曲がりて又 奥 ふか し 幸得先生為我導 幸いに先生 我が為に導くを得たり 相訂行期約同遊 相 行期を 訂 さだ めて 同遊を約し
暁鐘乍動車先到 暁鐘 乍ち動くや 車 先ず到る 催我上車入山行 我を催して車に上らしめ 山に入りて行く 到処雲林放眼明 到る処 雲林 眼を放ちて 〔見渡す限り〕 明らかなり 某山某水重々抱 某山 某水 重々 抱 めぐ る 一々指示報我名 一々指示して 我に名を報ず 駆策山程三里多 策を駆る 山程 三里 多 あまり 古津横絶曰前波 古津 横絶す 前波と曰う 車不能行渡無筏 車は行く能わず 渡りに筏無し 倩人駝背過渓河 人を 倩 やと いて駝背 〔役畜に載せる〕 して 渓河を過ぎしむ 聞道朝倉曩日迹 聞 きくなら 道 く朝倉 曩日の迹 商舶游舩殊絡繹 商舶 游舩 殊に絡繹たり 両岸市廛千百家 両岸 市廛 千百家 歌楼声徹明月夕 歌楼 声 明月の夕べに徹れりと 迄今野渡水茫々 今に迄れば 野渡 水 茫々たり 断碣残垣古道傍 断碣 〔断ちきられたいしぶみ〕 残垣 〔壊れた垣根〕 古道の傍ら 渓途欹仄行多艱 渓途 欹仄 〔傾斜〕 せり 行くこと 多 なん ぞ 〔なんと〕 艱 かた かる 赤日炎々汗如漿 赤日 炎々として 汗 漿の如し 々々々兮行不得 汗 漿の如くにして 行き得ず 聊倚危石暫憩息 聊か危石 〔そそり立った石〕 に倚りて 暫く憩息す 高樹百尺陰庇人 高樹 百尺 陰 人を庇い 清流一掬凉生臆 清流 一掬 凉 臆に生ず 片時暫止行復起 片時 暫く止まり 行きて復た起き 歩入雲山重畳裏 歩み入る 雲山 重畳の裏 (中略) 先生捷足行向前 先生 捷足 〔足が速い〕 前に向かいて行き 重復回身来導歩 重 復 〔 何 度 も 〕 身 を 回 ら し 来 り 歩 み を 導 く 導入岩前眼忽開 導入せられて 岩前 眼 忽ち開け 猛見峭壁石欲頽 猛に見る 峭壁 石 頽れんと欲するを 岩頂疑若白龍横 岩頂 疑うらくは 白龍の横たわるが若く 口噴飛瀑声如雷 口 飛瀑 〔滝〕 を噴き 声 雷の如し 百丈珠瀑掛匹練 百丈の珠瀑 匹練を掛け 細如飛烟大雪片 細かきは飛烟の如く 大なるは雪片 急点偏従石隙滴 急点は偏に石隙より滴り 旁流還向崖縫濺 旁流は還お崖縫より濺ぐ 崖前架棚鋪筠席 崖前 棚を架け 筠席を鋪き 紛々坐客相笑劇 紛々として坐客 相笑劇 〔笑いさざめく〕 す 或者把酒賞流泉 或る者は酒を把って 流泉を賞し 或者 懐談古昔 或る者は懐い を ぶ 〔「撫」に同じ〕 して 古昔を談ず 或者被髪立巖下 或る者は被髪して 巖下に立ち 任教凉瀑偏身灑 凉瀑 身を偏くして灑ぐに 任 ま 教 か せ 或者赤足歩渓間 或る者は赤足 渓間を歩み 欲汲清泉拾破瓦 清泉を汲み 破瓦を拾わんと欲す 更有村女卸紅裙 更に村女の紅裙を 卸 と き 也向岩前沐鬟雲 また岩前において鬟雲を沐するも有り
好如雨淋江上鷺 好 あたか も雨 江上の鷺に淋ぐが如く 又如水没田中 鼢 又 水 田中の 鼢 も ぐ ら を没するが如し 先生与我踞坐臨 先生 我と踞坐 〔立膝をする〕 して臨めば 崖石対酌黄封助 崖石 対酌し 黄封 〔酒のこと〕 助く (中略) 長歌浩嘆興狂絶 長 歌 浩 嘆 〔 深 い 感 慨 を 表 す 〕 し て 興 狂 絶 た り 旁観転笑我輩痴 旁観 〔そばにいる人たち〕 転た笑う 我が輩の 痴 おろ かなるを 我笑旁観皆駑拙 我も笑う 旁観の 皆駑拙 〔愚鈍〕 なるを 足跡一過名遂滅 足跡 一たび過ぎなば 名 遂に滅ぶ 遑知我輩吟中情 我が輩 吟中の情を知るに 遑あらんや 特為山霊著奇説 特に山霊の為に 奇説を著せるのみ (中略) 沛然下流幾何里 沛然として下り流るること 幾何里にして 帰入大海朝厥宗 大海に帰り入りて 厥の宗 〔水の神〕 に 朝するや 瀑不能言我心傷 瀑は言う能わず 我が心 傷み 徃事空復憶朝倉 徃事 空しく復た 朝倉を憶うのみ 昔日風流今安在 昔日の風流 今 安くにか在る 唯見山高水流長 唯見るのみ 山高く 水流長きを 問山問水発古慮 山に問い 水に問いて 古慮を発するも 無奈斜陽促帰去 奈ともする無し 斜陽 帰り去らんことを 促すを 流水多情送我還 流水 多情 我を送りて還らしめ 猶聞潺々若告語 猶お聞く 潺々として告語するが若きを あらためてこの作品の大体の内容を示しておこう。 南 越 の 勝 景 は、 ど こ が お 奨 め か と 聞 い て、 一 乗 谷 だ と 知 り、 厚 積 の 同 行 を 得 て 出 発 し、 道 中、 厚 積 に 一 つ 一 つ 丁 寧 に 教 え て も ら っ た。 一 乗 谷 ま で の 道 は か つ て は た い そ う 賑 や か で あ っ た そ う だ が、 今 で は す っ か り 荒 れ 果 て、 ま た、 炎 天 下、 ず い ぶ ん 汗 を か い た。 岩 陰 で 一 休 み し、 清 流 で 喉 も 潤 し て 心 地 よ く な り、 前 を 行 く 厚 積 に 何 度 も 導 か れ つ つ、 つ い に 滝 の 前 に 着 い て、 そ の 壮 大 な 姿 を 目 の 当 た り に し た。 滝 を 見 物 し て い る 人 た ち や、 滝 に 打 た れ て い る 人、 滝 の 水 で 髪 を 洗 っ て い る 村 の 娘 な ど も い る。 厚 積 と と も に 滝 と 向 か い 合 っ て 酒 を 酌 む う ち、 つ い に 詩 が で き て、 そ れ を 歌 い 上 げ た と こ ろ、 そ ば に い た 人 た ち に 笑 わ れ た が、 「 山 霊 」 の た め に 自 分 な り の 思 い を 表 現 し た 我 が 心 中 を 理 解 し て く れ ぬ そ の 連 中 の 愚 か さ を、 私 も 笑 っ た。 最 後 に、 滝 に 問 い か け た も の の、 滝 か ら の 応 答 は な く、 し ば し 朝 倉 遺 跡 を め ぐ る 今 昔 の 感 に ふ け っ た。 斜 陽 に 促 さ れ て 帰 途 に 就 い た 私 で あ っ た が、 水 の せ せ ら ぎ が 何 か を 語 り か け て い る よ う に 聞 こ え たことである。 『一乗紀行』 の末尾には、 鷗波の次のような作品が掲載されている。 王 園 先 生 明 日 将 赴 越 中 高 岡 地 方 、 有 詩 留 別 、 輙 次 其 韻 以 呈 促装何事太忙生 促装 〔旅支度を急ぐ〕 何事ぞ 太だ忙生 〔せわしい〕 なる 杜子元期賦北征 杜子 元 期す 北征を賦せんことを
九十九橋題別恨 九十九橋 〔福井の足羽川に架かる橋〕 別恨を題し 八千八水引吟情 八千八水 吟情を引く 半肩行李雲煙繞 半肩の行李 雲煙 繞り 幾首新詩咳唾成 幾首の新詩か 咳唾して成らん 明日高岡将策馬 明日 高岡に 将に馬に策うたんとす 勧君姑酌彼 兕 觥 君に勧む 姑く彼の 兕 觥に酌 め 22 第 二 句 の「 北 征 」 は 杜 甫 の 詩 の 題。 句 全 体 と し て、 王 治 本 が 北、 こ こ で は 高 岡 に 向 か っ て 旅 立 と う と し て い る こ と を 言 う。 第 六 句 の 「咳唾成」 は 『荘子』 秋水篇の 「子不見夫唾者乎。噴則大者如珠、 …」 に 基 づ き、 言 語 が 非 凡、 ま た は 詩 文 が 優 美 で あ る こ と を 表 す。 末 句 の「 姑 酌 彼 兕 觥 」 は『 詩 経 』 周 南「 巻 耳 」 の 第 三 章 の 語 句 を そ の ま ま使ったもの。この語句を含む 「巻耳」 第三章の後半は 「私は 兕 觥、 す な わ ち 牛 の 角 の 杯 で 酒 を 飲 み、 い つ ま で も 悲 し み に 耽 ら ぬ こ と に し よ う 」 と い う 意 味 で あ る か ら、 厚 積 は こ れ を 踏 ま え、 王 治 本 に 別 れ の 悲 し み に と ら わ れ ず、 元 気 に 旅 立 て と 励 ま し た も の か と も 考 え られる。 と こ ろ で、 こ の 作 品 が『 一 乗 紀 行 』 に 収 録 さ れ て い る こ と か ら す れ ば、 王 治 本 は 一 乗 行 き の 翌 日 の 七 月 三 十 日 の 高 岡 行 き を 計 画 し て い た こ と に な る が、 そ れ は 実 行 に 移 さ れ な か っ た 可 能 性 が 高 い。 と いうのは、 八月二日の 『福井新聞』 に、 七月三十一日のこととして 「清 客 王 黍 ママ 園 氏 」 が 福 井 の「 玉 井 新 地 を 遊 覧 」 し た こ と に 関 す る 記 事 22 が 載 っ て い る か ら で あ る。 さ ら に、 八 月 九 日 の 同 紙 に は 八 日 の こ と と して、 清 の 文 客 王 治 本 氏 に は 福 井 の 滞 在 も 最 早 餘 程 の 日 数 を 重 ね し を も て 当 市 を 発 し 北 陸 漫 遊 の 途 に 上 ら る る に つ き 昨 日 は そ の 旅 舘 五 嶽 楼 に 別 宴 を 催 ふ し 福 井 の 文 墨 宛 な が ら 貴 顕 紳 士 を も 招 請 し て離杯を酌まれしよし (下略) と い う 記 事 が 載 っ て お り、 こ れ に よ れ ば、 彼 が 福 井 を 去 る の は 八 月 九日以後のことと見なければならな い 24 。 王治本の福井滞在時のことを、あと二点、触れることにする。 一、 も と 福 井 藩 士 で、 維 新 後 の 明 治 五 年 か ら「 私 塾 を 開 き、 古 事 記、 日 本 書 紀 等 を 教 授 し、 且 つ 和 歌 漢 学 を も 教 授 し 」 て い た 25 と 言 わ れ る 河 津 直 入 ( 一 八 二 四 ~ 一 九 〇 三。 号 琴 屋、 琴 廼 舎 ) の 次 の 詩 も、 王 治本の十五年の福井滞在時の作であろうと考えられる。 為王 園 ママ 惜別 此地琴囊不久留 此の地 琴囊 久しく留まらず 行装又向越中洲 行装 又 向かう越中洲 匆々相遇匆々別 匆々として相遇い 匆々として別る 再晤期君復北游 再 び 晤 う は 君 が 復 た 北 游 す る と き を 期 せ ん 26 二、 中 里 介 山 ( 一 八 八 五 ~ 一 九 四 四 ) の 巨 編『 大 菩 薩 峠 』 山 科 の 巻 五 十 七 章 に、 宇 津 木 兵 馬 が 福 井 の「 足 羽 山 に の ぼ っ て 見 る と、 展 望 が カ ラ リ と 開 け ( 中 略 ) 上 に 池 が あ っ て「 天 魔 ケ 池 」 と 記 さ れ た 立 札 を 見 て、 そ の 名 を 異 様 に 感 じ て そ の 傍 え を 見 る と、 こ こ へ 秀 吉 が 床 几 を 据 え て 軍 勢 を 指 揮 し た と こ ろ だ と 立 札 に 書 い て あ っ て、 そ の 次に一詩が楽書してある」として、次の詩句が引用されている。
猿郎出世是天魔(猿郎世に出づ是れ天魔) 一代雄風冠大倭(一代の雄風、大倭に冠たり) 可惜柴亡豊亦滅(惜しむべし柴亡び豊また滅びぬ) 荒地水涸緑莎多(荒地、水涸れて緑莎のみ多し) 清人 王治 本 27 こ の 詩 に つ い て は、 一 九 七 七 年 八 月 九 日 の『 福 井 新 聞 』 所 載 の 青 園謙三郎氏の「足羽山」 37の文章が参考になる。青園氏は、 天 魔 ケ 池 に は い ろ ん な エ ピ ソ ー ド が 伝 え ら れ て い る。 天 正 十 一 年( 一 五 八 三 ) 四 月、 羽 柴 秀 吉 が 柴 田 勝 家 を 攻 め て 北 の 庄 を 包 囲 し た と き 秀 吉 は 足 羽 山( 愛 宕 山 ) に 登 っ て こ こ に 本 陣 を 置 き、 天 魔 ケ 池 の 横 で 指 揮 し て い た と い う。 ( 中 略 ) 明 治 十 五 年 ( 一 八 八 二 ) に 福 井 へ や っ て き た 中 国( 清 国 ) の 王 治 本 が 天 魔 ケ池をみてつくった詩が残っている。 として、上記の詩を引用し、さらに、 王 治 本 は 明 治 十 年 に 清 国 か ら 日 本 に や っ て き た が、 東 京 で 松 平 春 嶽 公 と 親 交 が あ り、 そ の 勧 め で 福 井 へ や っ て き た。 足 羽 山 へ 登り、 五嶽楼へ泊って 「五嶽楼記」 という長い文章を書いている。 と述べておられる。なお、筆者は「五嶽楼記」は未見である。 おわりに 福 井 を 去 っ た 王 治 本 は 八 月 十 八 日 に 金 沢 に 着 き、 十 月 の 初 め ご ろ か ら は 越 中 の 地 を 漫 遊 し て い た。 こ の 年 の 重 陽、 す な わ ち 陽 暦 の 十 月 二 十 日 に 五 嶽 楼 に 登 っ た 富 田 鷗 波 は 王 治 本 を 懐 か し ん で、 次 の よ うな詩を詠んでいる。 壬午古重陽、登五岳楼、有懐王 園 納凉憶昨共憑楼 納凉 憶う 昨 共に楼に憑りしを 紅葉黄花欲晩秋 紅葉 黄花 晩秋ならんと欲す 今日登高人不見 今日 高きに登るも 人 見えず 閒雲一片遠空流 閒雲 一片 遠空に流 る 28 十 六 年 の 正 月 を 富 山 で 迎 え た 後、 王 治 本 は 加 賀、 能 登 を 経 て、 再 び 越 前 を 訪 れ、 鷗 波 と 再 会 す る。 そ れ ら の こ と も 含 め、 次 稿 で 詳 述 することにしたい。 (しばた・きよつぐ 本学教授) 注 1 水 越 成 章 編『 翰 墨 因 縁 』( 明 治 十 七 年 ) に よ れ ば、 こ の こ ろ 神 戸 を 訪 れ た 王治本は水越成章(号耕南。一八四九~一九三三)と唱和している。 2 以上、 さねとうけいしゅう 「王治本の日本漫遊」 (同氏 『近代日中交渉史話』 、 春 秋 社、 一 九 七 三 年 ) に よ る。 な お、 「 予 定 」 と は、 王 治 本 が 詩 文 や 筆 談 の中で訪問の意向を表明しているにもかかわらず実行に移したことが未確 認の場合を指すものと思われる。
3 拙 稿「 王 治 本 越 佐 の 旅 お よ び そ の 間 の 詩 文 交 流 ― 明 治 十 六、 七 年 を 中 心として」 、『新潟県文人研究』第十五号、二〇一二年。 4 この一首目は『新文詩』第八十三集(十五年六月)にも「将游北越、留別 東 京 諸 君 」 と い う 題 で 載 り( 後 述 )、 春 濤 の「 此 首 似 自 薛 大 拙 牡 丹 詩 着 工 夫者 〔此の首は薛大拙の 「牡丹」 詩より工夫を 着 ついや したる者に似たり〕 (下略) 」 との評が付されている。なお、 「大拙」は晩唐の薛能の字。 5 東京大学法学部明治新聞雑誌文庫編『朝野新聞 縮刷版』第十五(ぺりか ん社、 一九八二年) 、郵便報知新聞刊行会編 『復刻版 ・ 郵便報知新聞 第五期』 第三十一巻(柏書房、一九九〇年)八十六頁。 6 永井久一郎『来青閣集』 (永井久一郎、一九一三年)巻一、 四丁。 7 松 村 西 荘 に つ い て は 次 稿「 王 治 本 明 治 十 五、 六 年 の 北 陸 漫 遊 と 詩 文 交 流 ― 加賀・越中・能登・越前」 (仮題)で再度言及することにしたい。 8 富 山 新 聞 社 大 百 科 事 典 編 集 部 編『 富 山 県 大 百 科 事 典 』( 富 山 新 聞 社、 一九七六年)八八八頁。 9 『春濤詩鈔』 (文会堂、 四十五年) 巻十五にも 「 園将游北越、 齎留別詩来祖、 時予亦将游南総、乃次韻志別」という題で載る。 10 森 槐 南 著、 松 岡 秀 明 校 訂『 杜 詩 講 義 4』 ( 平 凡 社 東 洋 文 庫、 一 九 九 三 年 ) 三十、 四十頁。 11 さねとうけいしゅう 「王治本の金沢での筆談」 (さねとう前掲書) 一四六頁。 12 前 掲 拙 稿「 王 治 本 越 佐 の 旅 お よ び そ の 間 の 詩 文 交 流 ― 明 治 十 六、 七 年 を中心として」一二七頁。 13 王 琴( 琹 ) 仙 は、 藩 清 が そ の 名。 琴( 琹 ) 仙 は 号。 明 治 十 年 に 来 日 し た。 王 勤 謨 編『 近 代 中 日 文 化 交 流 先 行 者 王 惕 斎 』( 寧 波 出 版 社、 二 〇 一 一 年 ) 所収の王浩平「清客中一屈指可数者――王藩清」による。 14 これを作り変えたと思われる、 「梅花園餞席分韵、賦送王 黍 ママ 園先生游三越」 と題する作が六月十日の『郵便報知新聞』文苑雅賞に載っている。異同は 次の通り。第一句「北陸」を「越嶺」に、第二句「従游」を「追随」にそ れ ぞ れ 作 り、 第 三、 四、 五、 六 句 を そ れ ぞ れ「 鳥 語 都 成 離 別 曲、 山 光 尽 入 紀 游篇。南船北馬頻為客、鴻爪雪泥信有縁」に作る。 15 さ ね と う け い し ゅ う「 王 治 本 の 日 本 漫 遊 」( 同 氏『 近 代 日 中 交 渉 史 話 』) 二〇二、 二〇三頁。 16 陳元贇の事跡については小松原濤『陳元贇の研究』 (雄山閣、一九七二年) 等の先行研究があり、 その作品の調査には[明]陳元贇著、 衷爾鉅輯注『陳 元贇集』 (遼寧人民出版社、一九九四年)が有用である。 17 前 川 幸 雄「 「 野 鷗 松 谷 先 生 遺 艸 」 研 究 ―― そ の 閑 適 の 世 界 ――」 、『 敦 賀 論 叢 敦賀女子短期大学紀要』第四号、一九八九年。後に前川幸雄『鯖江の 漢詩集の研究(論考編) 』(以文会友書屋、二〇一二年)に収録。 18 福田源三郎編輯兼発行『越前人物志』中巻(玉雪堂、 四十三年)八二一頁。 19 富田婉編輯兼発行『還読斎遺稿』 、一九一三年。 20 この作品を含め、 『還読斎遺稿』 の上記七首のすべてが、 後述する 『一乗紀行』 に掲載されている。 21 三 国 訪 問 は 翌 十 六 年、 越 中、 能 登、 加 賀 の 訪 問 を 終 え た 後 に 実 行 さ れ る。 その際の作品は次稿で取り上げる予定。 22 この作品は『還読斎遺稿』七十六丁では題がやや異なり、また、第二句の 「元」を「心」に作る。 23 『福井新聞』 マイクロフィルムのこの部分は、 判読しがたい文字が多いため、 詳しい内容は不明。 24 なお、ついでながら、八月八日の『福井新聞』には「千慮の一失は智者猶 免れず羽山五嶽楼にハこの程より清人 黍 ママ 王 園と云へる墨客を止宿させなが ら三日ごとに届の出つへき成規に戻り其届のかたを怠りしを以て昨日違警 罪条に照し科料三十銭申し付けられし」などという記事もある。 25 河津祐一編纂並発行『琴廼舎家集』 、一九三五年。 26 河津祐一編纂並発行『琴廼舎家集』 。 27 なお、この後「これを作ったのは支那人だな、詩はあんまり上手とも思わ
れ な い が、 支 那 人 ら し い 詠 み 方 だ ―― と 思 う と、 ( 下 略 )」 と 続 く。 以 上、 中里介山『大菩薩峠』第十巻(筑摩書房、一九九六年)に拠る。 28 『還読斎遺稿』七十三丁。