序論
佛教は佛陀を中心として起り、佛陀を中心として發逵 しだものである事は今更論を俟たない所である。從って 堂たその教理の如何なる部門を考察するにしても、之を 佛陀の人格と自琵とにひきつけてせぬぱ途にその奥底に 到達する事が出來得ないと言ふも過言ではないであらう 佛教は佛陀の自尭に從ふ限り佛陀の無師澗悟の結蛮で、 而も佛陀の教説と修行は互に表と蔵り、裏となりて成立 したものであるから佛教碁學上佛陀論が最も重要なる一 分科を織成してゐると言ふくきである。 然らばかく痩要課題たる佛陀観はその起源を何時頃に 發してゐるものであらうか。抑奏佛陀滅後の佛弟子達に とつ寵は佛陀に對する記憶の尚新しき上に法を依虚とせ よとの遼誠に基き、まづその教読を編輯すろを主とし、 佛傳の如きはその営面の急務ではなかったので、古い記 異部宗輪論表にれた大衆部の佛身獺異部宗輪論に表れた大衆部の佛身槻
録中にはその纏れるものを炊くことになったものであら 嵐″。 併しながら佛陀を去るとと漸く遠く、佛陀に親しく接 した佛弟子達も次第に波するに從ひ、その教腿を追慕す るの餘り、と上に佛傳を欲するに至ったものであらう。 即ち聖典に徳はる材料や教圃に傳はる口碑等を土台とし て孫弟子あたりより佛身観が次第に明瞭に成り來つたも のと思ばれるのである。佛涕子により夢搭にも忘すれ得 ざる教祗佛陀の人格は除りに偉大であり其智無避、其悲 無邊であった。されぽ佛陀は到底今生六年の修養ばかり でなく、無数生に渉る修養の結果であらう。かく無数生 に渉り菩提を求めた人即ち菩薩が遂に佛果を得たもので あって、菩薩行とは己を捨て上他に致すと云ふ所謂上求 菩提、下化衆生をその賓格とするものである。かくして 菩薩はこの記荊莚受くるや、爾後生共世衣極盈の有情に 守望月
一 九海
順
本論
イ菩薩論
菩提を求むる人即ち菩薩に關して宗輪論には 一切菩薩入母胎中皆不軌受鶏刺藍、頚部曇、閉戸鍵南 爲自体。︵大正四肌、一五︶ 述記は灘して,︵中途廿似丁ウ︶ とするものである。 と、第二に正しく正毘を成じたる佛陀自身に就て論ぜん しても、第﹃には佛陀の前生としての菩薩に開する問題 に告ぐる所である。それ故に佛身槻を述べんとするに際 生れ代ってその所願と果すにつとめた事は本生課の我等 然り而して部派佛教の數理組織を研究するには一經二 論即ち舎利弗問經、異部宗輪論、部宗異論、十八部論乃 至有部としては雑、中、長の各阿含、聖典、大衆部とし ては堀一、長阿含の夫公の論疏等を所依として.その組織 の完成を見る可きである。今吾人は部派の有郡系に對す る大衆部の佛身観を思考せんとして特に異部宗輪論上に 表れた思想を取り夫れに些か有部系の思想を關聯せしめ つ上以て大衆部の佛身槻を菩薩、佛陀二論の方面より観 察せんとするものである。 異部宗輪論に表れた大衆部の佛身獺 菩薩入胎不妥不淨亦不有此漸舞増長。謂若入胎即具根 大。既皆頓倒流至盗羅箸怯。荒羅審怯此名具根。至五 七日即名此位。即顯菩薩別有清浄遥色大種諸根頓具以 爲自体。不用不淨故非漸長賓不淨者。 と述べ、更に發靭者は 菩薩雌未成佛果故未成無漏。前十五界以聖位故。不賓 父母爲自体。不經四位頓成五根四大。 と言ってゐるより見れば菩薩ほ未だ佛果を成じないが聖 位なるを以ての故に父母の不浄に姿らず漸為に増長せず 入胎すれば所遥の五根、能遥の四大を具する事を明して ゐる。述記はその騨文の末行に此は特に最後身の菩薩に 就いて論をなしてゐるのであると言ってゐる。此の鰻後 身の菩薩が兜奉天より下生するに営って白象の形に於て 母胎に入胎するとしてゐる。即ち 一切菩薩入母胎時作白象形。︵全と︶ 述記は糠して︵中巻二十六丁オ︶ 此部中読都無中有。其白象形是何事物故。今意顯白象 形是入胎之相非中有身。非謂菩薩聖人中有翻作傍生。 以象調順性無傷暴有大威力如善住髄。故現此義。意表 菩薩性善柔和有大威力。 これに依ると大紫部は中有の存在を認めないから白象 一四○ 、を以て菩薩の中有であると言ふのではないが、白象の形 に於て母胎に入胎するのが最後身の菩薩の托胎する事が r 必然的形式であるとしてゐる。次に托胎の念慮に就いて 考察するに、 一切菩薩不起欲想、悪想、害想︵全上︶・ 迩記は緯して︵中巻廿七丁ウ︶ 入第二阿借祗即名聖者。從此已後乃至百劫更亦不起此 三種想。呪最後身復起三想。 と。即ち菩薩は元来聖者にして、・た蟹衆生敦化の爲に 入胎するに過きないから入胎に食愛の念なしと言ってゐ る。かくの如く父母の不淨に萱らず頓に五根四大を成じ 下生に営つては白象の形を取り諺入胎に際して三想がた いと明してゐるのである。而らぱ菩薩は何虎より生ずる やと言ふに、 一切菩薩出母胎時皆從右脇生︵金上︶ 述記に騨して︵中霧廿七丁オ︶・ 頂生人中勝編從人首生。餘類下業所招從下門出。菩薩 彼超物表迩出塵外。幡無偏執極腹中迩爲表於此從脇而 生。麗胎之母無含朶之奨。臓腋無剖腹之痛。従脇而生 理越恒品。
更に發靭は恩マ
異部宗輪論に表謡た大衆部の佛身狐 菩薩位超此下就從脇生出四義。一爲表中遼故。・二令母 無憂故。三無剖腹痛故。四超越恒品故。、 これ等によるに最後身の菩薩は普通人の如く下門より 出するに非渉して右脇より出する事と必然的誕生棚とし て居る。右脇主り誕生する事は一に表中道融二に令母無 憂、三に無剖腹揃、四に超越恒品の四銭を以ての故にと してゐる。 かくて第二阿僧祗劫以後は聖位に入るのであるから第 二阿僧祗劫已後の修行は下化衆生の修行であるとしてゐ ︲る。然しこれとても佛陀となる事を標準とすれば化他は 佛陀たるの必須條件である限り廣義に於ては矢張り自利 であるが自己自身の爲で厳い点に於て利他と言ひ得為。 從って菩薩が種筌悪趣に身を現燭するのも業力の結果で はなく衆生濟度、鴬の發願である事となる故に宗輪諭は 菩薩爲欲饒穂宥傭願生悪趣随意能往。︵全上︶ 述記は灘して 此部説得聖己去願生悪趣。猶能生波。一如輪王生衆生 皆樂菩薩生悪趣彼生皆苦少。二爲輸厭怖心浩撒經苦増 厭心故。三爲季等救濟不救悪趣唯救善遁救抜之心不平 蝶故。四堅固忍辱者無苦時如何忍辱菩薩大悲祁遥自在 鯖願即往。此邇名往。 一 潤 一以上の如く大衆部は初阿僧祗劫の経り詮以て聖意即ち 見道位に入ったと見、その後の修行は要するにた誉利他 の爲に所謂漸惑行因するに過ぎないから最後身とじての 修行は一種の儀式と言ふくきである。併し乍ら六年の苦 行を經、菩提樹下に安座して悪雌を降伏し正路を成じた と言ふととは軍をる儀式と見るべきでなく、此間に消極 的に言へぱ何等かの断ぜらるべき煩悩、積極的に言へぱ 證せらるべき法が在ったものとせねば所謂菩薩と正墨者 の間の腫別が付かないことになる。これ即ち後に大乗に 到って塵沙無明などの誰の起った所以であらうが、此の 獣に開しては異部宗輪論の大衆部條下には何等記して居 らない。
口佛陀論
かくして菩薩は遂に正覺を成じて佛陀となった。この 成道己後の境界は如來、世間解の愈號を以て呼ばれてゐ ケ。◎ 而して歴史的事澄としての佛陀槻はこの正蝿以後の人 格に對する解決から出發したものであると言ふくきであ る。前述の菩薩論も蜜はこの観察を逆に延長したものに 外ならない。 然らば佛の直弟子達はその本師たる佛陀を槻察したの 異部宗輪諭に表れた大衆部の佛身獺 であるが、直弟子達は柳陀を人天の導師、三界の救主と してその蚤型超人硯したであらう事は経典の我等に告ぐ る所である。併しこれと同時に彼等は人間としての佛陀 の閲歴や日常の生活即ち可感的な、可死的、歴史的人間 として:の部面をも面の趣り經駿してゐたことは勿論であ る。即ち佛弟子達は超人間的要素と人間的要素との雨方 面を見たのである。佛陀の在世及滅後間もない時に當つ ては、この観察は正営で何等の矛盾感をも懐かしめなか ったであらう。併しながら歳月の經るに從って佛陀の偉 大さが毎盈追懐されて理想化せられると同時に祁學的問 題を惹起して、佛陀の人間的方面は如溌の相であらうか 叉衆生濟度の化現だらうか、佛陀と羅漢との相違如何等 の問題が湧出したのである。大衆部は観念論的理想主義 の立場よりその佛陀槻に於ても後世の大乗佛教の佛陀槻 を想起せしむる物がある。 宗輪論中巻︵十二丁ウ︶に依るに 謂四部︵大衆部、一読部、説出世部、鎚胤部︶同説諸 佛世尊皆是出世︵大正四九、一五︶ 述記は︵中巻十三丁オ︶ 此部意説。︲世尊之身竝是出立。無可過故。唯無漏故乃至 唯佛世尊過一切無所劣故。不可毅壊超過毅壌皆是出世。 、 卜 四約人爲論無漏身故。 と。世尊皆是田世とは約人の時無漏身なる事を明して ︲ゐる。發靭は更に課して 世愈色身出世是出二曲。此二曲非雷示無漏。廣欲纈出 世超過者也。一無有勝過佛身著故。謂佛身無漏業所感 超過一切非佛身散。蓋此宗意謂第二僧祗巳去入聖位起 無漏業。二由其休唯無漏故。謂許佛身中大種所遥根境 〃皆無漏法。此是以無漏示超過。 と冗發初は世尊の色身は出世なる事に就て佛身に超遥 する者が無いと言ふ理由と其休が無漏に由ると云ふ二理 由を銀げてゐる。既に諸佛の色身が無漏であるのである からその法は有漏法の無い事は勿論である。即ち約法の 時ば無漏法である。宗輪論は︵中塞十三丁オ︶是を 一切如來無有漏法。 と説き、述記は︵中巻十三丁ウ︶ 述日。約法爲論。十八界等在佛身時皆名無漏。非漏相 應。非漏所縛故。名無漏。佛所有之業皆亦是無漏故。 諸如來無有漏法。 發靭は更に、 今大衆部意則以二乗十五界皆爲有漏。以唯佛十八界爲 無漏。開發批一此四部説同大乘佛十八界皆爲無漏℃佛 異部宗輪論に表れた大衆部の佛身棚 簿無通亦無逢際。現丈六身入浬梁等随頴化現非眞質。 乃有楕界無難故利稀心永無識。 これ等によるに心心所相應縛に約して漏と相應するに 非ずとし、所除の諸法所練縛に約して漏に純せらるAに 非ざる故に佛の十八界は無漏であるとし、發靭は此の無 漏法の無漏身は佛燕無戴で而も利椛心無識の故に化現救 濟するとしてゐる。 次に佛陀の生身に就て見るに、先に大衆部の菩薩観に 於て論じたる如く佛陀の生身を以てた誉、衆生救濟の爲 に化現的に托胎したと見、佛陀は糖祁界のみならず生身 をも無漏身とし、その結論として時間的には無窮、空間 的には無遥なることな述べてゐる。即ち 宗輪論︵中巻十七丁オ︶ 如來色身寶無邊際。 述記は︵中巻十七丁ウ︶ 述日。此部意誼。佛經多劫修得報身圓極法界無有逢際 ・所見丈六非溌佛身。随機化故。 發靭は所見の丈六に就き、 如彼丈六佛身則非涜佛身。爲随機現之化身。便異彼有 部以丈六爲澄身以或現大身或現極小身是厨化身。若夫 依大乘報身無際固込諭證後其報身者必在色究寛天。今 1 I卿
此部来日依究寛天。v とて丈六は随機の化身である事に述べ、更に佛は三祇 多劫を經て報身圃滿極妙、休性を修得すれば邊際ある事 蔵しと言へるよりすれば大衆部の報身論と異るものがな い如くであるが究覚天に論及してゐない所に未だき所あ るとしてゐる。しかし●何と言っても大乗佛身観逮想起せ しむるものである。既に色身は無邊際である。然る時は 如來の威力も無邊際は営然の事である。 宗輪論︵中巻十八丁オ︶ 如來威力亦無邊際。 述記には︵中巻十八丁オ︶ 佛所有紳邇名爲威力。威徳脚力故名威力説。佛不作意 一刹那中能遜十方一切世界。諸部説不作意。但及三千 大千世界。若作意時能逓十方。 有部等が不作意溌れぱ三千大千世界より逓ぜざるに對 し大衆部では佛の不作意も能く十方に遍歩る事を明して ゐる。かく色身、威力共に無鍵際なる佛は涛命も永無邊 際なること蕊し営然である。此の事を宗輪諭は︵中巻十 八.丁ウ︶ 諸佛毒堂亦無邊際。 述記は鯉して︵中巻十九丁オ︶ 異部宗輪講に表毒た大衆部の佛身獺 報身無限。多劫修得故。蜜壽命永無窮識。爲利有篭。 多靭修遁。有傭界不認瀞命亦無窮。爲利続有備無息日 故。若鯰宜化亦隠盤林。 諸佛の蒋命は有情の雛ざる限り無窮であるとしてゐる。 かくの如く無漏身にして時間、空間の制約を離脱した 佛身観濫読く大衆部は、更に沸陀本来の大悲本蓄たる利 他行を説いて、宗輪論︵中巻十九丁オ︶ 佛化有傭令生淨信無厭足心。 述記は之を樺して︵中巻十九丁ウ︶ 佛化有涜令彼有情深生信楽○佛無厭足之心。此部意読 佛利稀心無厭足故不入混梁。慈悲無限涛命無際。若有 有情宜佛頴現利読安樂王宮等生成佛化導宜頴現縁息便 佛入浬薬。由心無職足故留報身窮未來際化作随類形方 便教化。 佛の利穂心は厭足の心無く入浬薬せざるなき事を明し てゐる。此虚に佛陀の利他救濟は餘葱なく説き寵されて ゐる。かくの如き理想的な完全者としての佛陀観には睡 夢の如きの厳い事紅明して︵中穫廿丁オ︶ 佛無睡夢。と云って居る。 述記は 睡心味略唯居散位故佛無不定心故無有睡。夢曲思想欲 一四四
等所起佛無此事故亦無夢。 ,如上佛陀の生身に開して瞥見したのであるが有部は之 等に對し如何なる見解を有してゐたのであるか一言する に、發靭に︵十三丁オ︶ 有部意謂佛永十五界爲唯有漏。以佛身爲他人所縁而随 増煩悩。故名有漏。佛生身既是有漏非無漏法。如契經 読。藤鍔當知。無明永覆愛結永繁乃至佛生身是無明果。 故知非無漏法。若悌生身無溺者無此女不應生食乃至以 佛生身生他貧等故知定是有漏。 と言ふより見れば、佛陀の肉身も同じく無明潟愛の結 果であると言ひ、自らは煩悩を離脱してゐる事は勿論で あるが他の爲に煩悩の因たる点に於て有漏法であること を述べてゐる。而も経に佛陀は世法の爲に染せられ歩と あるのは世間の利拶穂樂の四法と裳穀識苦の四法とを脱 して居る義である事を明してゐる。即ち十五界唯有漏後 三界無漏が有部の佛身槻である。 次に佛陀の蕊力に就ては 宗輪諭に︵中巻廿一ウ︶ 一刹那心了一切法。 述記は稗して︵中巻廿二丁オ︶ 除佛余心雄縁共相一刹那心亦織自性能了一切法。然不 異部宗輪諭に表れた大衆部の佛野棚 能證了其差別。佛經多劫陶練其心。了一切法無過佛者 故佛一刹那心能了一切法差別自性而能證知。 更に宗総論は︵中巻二十二丁ウ︶ 一刹那心相應般若知一切法。 述記は濯して︵中巻二十二丁ウ︶ 此明佛慧一刹那時與心相應亦能解知諸法皆識。回滿慧 故至解脱道。金剛道後一念之間即能解知諸法自性○不 假相識方知法誰皆亦解知慧自性故。 と、前段に於ては心王が法莚了別し霊すを明し、後段 には心所の般若が法を解知し議すことを明してゐる。か く佛陀の心力は一刹那に一切法を了知するのであるから 從って人が何事を問ひ奉るに際しても佛陀は何等の思惟 も待つことなく直に答辨する事が出來るのである。故に 此の事を宗輪論は︵中霧二十丁ウ︶ 如來答問不待思惟。 述記は稗して︵中審二十一丁ウ︶ 佛無加行不思惟所論名句字等方爲他説。任運能答。乃 至今此任蓮不假思惟9. 更に宗輪論には︵中巻二十三丁オ︶ 諸佛世尊識智無生智恒常随縛乃至般浬梁。. と、如来には霊智と無生智と常に二智倶時随緯して間 / 一岡五
I 断なしと明してゐる。更に述記は之を稗し 此等部説佛十八界皆是無漏。佛無漏智恒常現前於一を 刹那乃至般浬薬。宗有二智。謂議智無生智。即槻現苦 、 減名爲識智。槻未来苦不生名無生智於一切時一体二用 恒相随縛。即読二用爲二智現前。 かくてその解脱智なる議智と無生智とは如来にあって は常に二体同時に活動しつ上浬薬に至るまで組ることが ないから諸佛世尊は霊智と無生智とが恒常に随縄して乃 至浬盤に到るのである。従って佛陀の心には無記心なる もの旗く常住不断に解脆智によって充遍してゐると言っ てゐる。 如上大衆部に於ける佛陀の蕊力に閲して略記したので あるが有部は之に對し如何なる見解を有せしやを見るに 婆 沙 諭 に . 大徳説菩薩意力無逢身力無逢︵大正二七、一五五︶ とあるよりすれば有部に於てもその精聯界は全く無漏 超自然を認めた事を明してゐる。叉 述記中巻︵二十三丁ウ︶に 薩婆多等佛尚有無記心。記心何況二智許世現起。・或無 漏智佛恒現前漏謹身中恒現前故名爲霊智。無生身中恒 現前故名無生智。 異部宗翰論に表れた大衆部の佛必獺 と。有部によれば佛陀と雌も溌智も無生智も総起的に 起るもので同時に活動する事を許るさぬ許りでなく、佛 陀にも永無記心があり得るから必宇しも常恒に霊智、無 生判が随聴するとは言へ得ない事と途べてゐる。 かく見れば大衆部*上座部共に糖脚力の無限性を認め ながらも、大衆部にあっては理想主義立脚の立場より佛 陀の鍵内の無限を高揚したるに對し、上座部の方は現賞 主義立脚の立場より心理的法則の作用する事を認めんと してゐる。この結果として佛陀の説法即ち稗法輪に開す る議論を喚起するに至った事は常然の事と言ふくきであ ︾ 。 O 佛陀とは自利交他圃滿なるものにして、その利他説法 は佛陀の本質的性格であって、説法な透覺者は猫毘者に して正等蝿者ではないとせられた。然らばその説法甦は 抑盈何髄指すのであるか、叉佛陀は一雷、多普かの問題 がある。 宗輪諭は︵中巻十六丁オ︶之の論議を説明してゐる。 佛以一曾説一切法。 述記織騨して 佛經多時修碧圓滿功徳瀞力非所思議以一普騨説一名字 令一切有傭聞法別解除自塵勢。即由一普中能読一切法 一 四 六
故。令諸聞者皆別領解施細蕊故。 佛陀は一昔を以てしたるに座下の大衆は佛の威祁力に よりて皆麓細の義を領解した事を明してゐる。而らぱ説 法とは何を意味してゐるのであるか。即ち説法とは猟迷 開悟に開するもののみであるが、或は叉佛陀の言説の一 切は論法であると言ふくきであるか。 宗輪論は︵中審十四丁オ︶ 諸如来語皆縛法輪。 述記は 佛所読語皆爲法輪。故佛法輪非唯八這い薩婆多読八聖 迩支是正法輪。見這稲輪。亦非佛語皆爲鱒法輪。今此 部論非唯見這澗名爲輪。佛所論語無非利読故佛所説皆 是法輪。 とあるより見れば大衆部では、如來の語は日常語と雌 も出世間であるから、筍も如來の談ずる所は法義に直接 開係ありやなしやに開らず凡て論法であるとしてゐる。 かく大衆部に於ては如來の一切の語は皆法輪を韓表ると したのであるが有部は﹁八聖道支是正法輪﹂と述べ叉 婆娑諭︵大正二七、六五九、中︶ 問佛所説法譲名法縛耶。答不也p唯令入見道者乃名法 輪。︵大正二七、九一六、中︶ 異部宗輪論に表れた大衆部の佛身認 ノ 等とて佛の無記心にある時の語は法輪に非歩としてゐ ︾ 。 ○ 如來の一切の語が韓法輪であるとするも、叉然らずと するもその説法なるものは悉く了謹であるか、叉不了義 をも存するのであるか。宗輪論には了、不了に關しては 不問に付してゐる様であるが先述の如く大衆部は一晋説 法を主張してゐるよりすれば佛陀の説法は一切了義であ るとしたであらう事は想像に難くない所である。︲ 中阿含經鑑第三十四、世間経には ,我正覺己來読事一切眞寳不虚︵大正一、六四五、中︶ と述べてゐる。中阿含經は有部所体の経典ではあるが大 衆部の一昔説法の営然の蹄結として中阿含の経文は大衆 部の法義に使用する不可ないと信ずる。而し何と言ふも 理想主義の大衆部は佛陀の論法は了義たる事は言を俟た ない所で敢て説法そのものに了、不了を論ずる必要を認 めなかったものではなからうか。 次に一佛多佛論を見るに︵過去に於る七伽、二十四佛 乃至數萬の佛の在った事は諸涙の認めた所であるが、同 時に他の世界にも佛があるかに關して︶宗輪論には既に、 記したる如く﹁諸佛出奪皆是鴎世﹂.甥如來無有漏法﹂ ﹁諸如來語皆縛法輪﹂﹁諾佛舞命永無遜際﹂等とて、一切 一四七
如來諸佛世尊、諸如來と言ってゐるも他派の如く異時的 に他佛の存在を意味するのであるか、同時的に多佛の存 在を意味するのであるか明瞭で蔵い。而しながら大衆部 所鱒としての増一阿含經第二九鐙に︵大正二、七’一○、 上︶他佛土としての寄光如來の事を説示して居る所より すれば同時的多佛の存在を認めてゐたと思はれるのであ ワ毎. 最後に佛と二乗に就いて考察するに婆娑諭︵大正二七、 七三五、中︶には佛陀と二乗に三蝿を配常して論上、叉 三職渡河の醤読を以て佛陀は自他粂濟なるに反し二乗は 自利的方面に於て解脆這の完成者にしで利他的佛陀の如 く之を必須的條件としない事を記してゐるのであるが、 宗輪論の大衆部の教義を述る條下に於ては佛陀と二乗の 腫別を明かにした虚は無い。併し宗輪論には所謂五事の 問題を提起してゐる。︵中巻冊五丁オ︶ 有阿羅漢爲餘所誘猶有無知亦有猶豫他令悟入這因蕊 起。 此五事は羅漢論であるけれども、此五事を論する底意 には婚に佛陀に對比する意味があったものと思はれる。 即ち菩薩論の發逹につれて佛陀を身体的にも無漏で特に その心力に於ては一切智、一切種智を具し莚如何なる事 異部宗輪論に表れた大衆部の佛身籾 ' に關しても無智や疑惑を存せず佛陀の覺智はあくまで自 提的で而も常に定心に住すると言ふ上來より述べ來たっ た佛陀槻を豫想して羅漢位を低く見んとした事は否定し 得ない事であると恩はれる。既に大乗の佛身槻を想起せ しむる佛身槻を主張した大衆部にありては二乗と佛陀の 相違に開しては大なる懸隔塗有して居たものと思はれる のである。
結論
如上の記述する虚より大衆部の佛身槻は大方想像され る事と恩ふが、更に要約して云はぱ大衆部は佛陀に理想 主義的、祁秘主義的なる絶對信仰の對象たる地位を與え 即ち超人間的祁格をさえ具へて成遁前の騨噂を最後身と しての菩薩と仰ぎ、成道後の佛は清浄無垢なる無漏身と 見てゐる。亦清淨身の故に理想的對象たる法身とすれば 菩提を成ずる如來の身は遍在なく、威力無避、癬命無批 であり、留守行も可能なる本体は同時に衆生化編の爲法 を説き、所説の法は了義にして、如來の語は皆法輪を郷 する物であると云ふ絶對の作用を倶起されて居る。かく して能有の佛身無漏法なるが故に所有の法皆三業清淨に して無漏と云はれこ上に佛心は定心で慧自休となり佛弟 子の立場よりは心性本淨説となるのである。されば佛身 ー 一四八 ”1 1 とは本体は眞理の當休作用からは智慧身である。伺時に 菩薩最後身を立つる虚に於て利他饒読の功徳身の本体と もするのである。 従て大衆部の佛身槻は弟子逹の立場よりする限り所謂 師嚴這尊を最高度迄遡らせ常に悟の境地に在て現賛界を 超覗する虚に法と身とする功徳身即ち報身思想が宗教的 に躍如として見られ夫が法身思想の根底をなせるを見る 事が出來る。されば伽耶修成の佛を有部の如く費身、生 身と●せず化身として此れに對し祁秘的休用倶起の如來を 法身と云ひ、表には報身を立てざる二身思想を狸調して ゐるのであるO 増一阿含經第四十四巻住不染品には法身を立て 阿難向佛言。設如來減度之後正法在世當經幾時。佛告 阿難日我滅度之後法営久存、⋮。是故阿難営建此意我湾 迦文佛涛命極長也所以然者肉身雌取滅法存在。 .︵大正二、七八七︶ 異部宗輪諭に表れた大衆部の佛身観 と明して大衆部二身説を了解する事が出來る。 経りに一言す可きは如上の佛身槻も大衆部の初期に在 て既に成立を見て居たとは言はれぬ、否相當に加行、行 位が喧壷しく叫ばれて來た時代叉成羅漢が尊重されず薗 直接佛に成る教に典って意解脱を把握し様と努力する自 由主義の認歌された頃即ち法佛一如駐信じ様とする重經 主義が撞頭し來つた時代に於て出現せし物と恩はれる。 從って大衆部が部派としてかなり勢力を將來せし頃の物 であらねばならぬと信ずるものである。 如上考察し來るに大衆部の佛身槻の特色は略盈異部宗 輪論に依って議され届るの槻を弧ふするものである。さ れば本論の営然結語として異部宗輸論に表れた大衆部佛 身観の特色とも云ふ可き点を述ぶ可きであるが總括的批 判を以てこ聯が特色てふものは如上の論説の中に在て敢 て一言を要しないと恩ふが故に葱には略すものである。