匝 琴 ノ二可
長野県における製鉄遣物 の分布 について
―東北信地方を中心に―
KE この小稿 はひ とつの試論である。 ときに大胆な 仮説 を こころみているOずいぶん乱暴な議論 と思 われ るか もしれない。が, しか し, これは「試論」 であ る, とい う言葉 にあまえて,以下,長野県に おける古代 か ら中世 にかけての製鉄遺物について のべてい こ うと思 う。 ところでい うまで もな く,舌代か ら中世 にかけ ての製鉄遣物, といえば,本来,考古学が対象 と す る研究分野である。それに暗い筆者が, この問 題 をあえて取 りあげたのほっ ぎの理 由による。 ひ とつは,近年,製鉄遺跡の調査が全国的規模 で さまざまの人びとによってすすめ られ,その調 査報告がさかんにお こなわれてい,筆者 もまたそ の刺激を うけた ことによる。いまひとつは,大学 がおかれている長野県では,いったい どれほ どの 製鉄遺跡があるのか, とい うまことに素朴な疑問 であ る。 もっとも, この疑問をひきお こした きっ かけは,今年 (1982年)の4月,南佐久郡佐久町 の大 日向で産業考古学会鉱山金属分科会主催 の鉄 山見学会 に参加 させてもらってか らである三
1
)
そ して,その見学 を通 じてはじめて,近世後期 ご ろか ら長野県下 において も 「たた ら製鉄業」 が稼 業 していた ことを知 ったのである。なるほど大 日 向の山々は,磁鉄鉱にか ぎらず さまざまな鉱石の 宝庫 のよ うである。す ぐれた磁鉄鉱があればそれ を用いて製鉄があってもおか しくはない。砂鉄を 原料 に稼業 していた中国山脈ぞいのたた ら製鉄業 はよ く知 っている。 また,鉄鉱石を用いた製鉄が 岩手県地方 で近世後期お こなわれていた ことも聞 いている。 しか し,長野県については不明であっ た。 そこで製鉄をい となむ可能性が近世以前か ら あ ったのか どうか,それを確認 した くなったので あ る。そ こで県下の大体の見取図のようなものを 得たい と考 え, この小稿 を もとうと思いたったの野 原 建
一
である。い うなれば長野県における「たた ら製鉄」
以前の製鉄像を頭のなかで素描 してみたい, そ う 考 えたのである。以上が本小稿 の動機である。 注 (1) 岡田広告 「大 日向鉄山」(「研究 ・業績発表講演会 講演要 旨集」1982年)大 日向鉄山の歴史が簡潔にまと め られている。他に,北野進「南佐久製鉄所遺跡」(「信 濃毎 日新聞」1982年5月12日付)畠山次郎 r実説大 日 向村j郷土出版社1982年 がある。 (2) さて, この小稿が題す る 「製鉄遺物」 とは,古 代か ら中世初期 にかけて生産 され,今 日にまで遺 された製鉄品の ことであ る。古代 とはいって も, ここでは弥生時代後期か ら古墳時代,そ して,奈 良時代へ とつづ く。 とりわけ,古墳時代の古墳 は 古代の巨大な墳墓の遺跡である。その墳墓のなか, あるいはその周辺の住居集落の遺跡 のなかか ら発 見 された ものが遺物であ る。そ して, この遺物 の なかに鉄製品とみ られ るものが,遺跡 を発掘調査 した人びとの報告書に記載 されてい るのである。 このような鉄製品あるいは鉄器の使用および生 産 は,わが国では弥生時代 にさかのぼれ るとい うLi) しか し,そのほ とんどは朝鮮か らの舶載品で,国 産 の製鉄は,弥生時代後期か ら古墳時代 にかけて の時期か らはじまった と考 えられている`
三'同時 に, 古代の鉄器に関す る研究 は,地理的諸条件を勘案 して, もっぱら関西以西の九州をふ くめた西 日本 がそのお もな対象であ った。す なわち,鉄器 は, 青銅器文化の圏域にあ った といえる。 その ことは,墳墓の副葬品 として, また祭紀 の 道具のみにとどまらず,製鉄 の様子をその副葬品 か らうかが うことがで きるのである。その意味で, 古墳か ら出土 した鉄製品は,その古墳の周辺で生 産 されたか どうか も含めて十分検討の余地がある -121-よ うに思 える。潮見浩氏はその点についてつ ぎの ようにのべている。すなわち 「古墳のなかに多量 の鉄器や鉄琴の副葬 され る背後 には,鉄生産の飛 控的 な発展を前提 とすべ きものがある」(3'と. し たがって,古墳時代の鉄製品遺物 の分布を知 るこ とも製鉄遺跡 との関連か ら大いに意義があ るもの と思われ る。 そ して,近年,製鉄遺構や遺物 に対す る関心が 高 ま りはじめた。関心の高 ま りは,遺跡発掘調査 報告書の多 くに製鉄の記述が載 るとい う結果をも た らしたのである。また,この高 ま りを促が した, たた ら研究会 (広島大学考古学研究室内)の長年 の功績がある。最近では産業考古学会鉱山金属分 科会(東京農工大学放維博物館,金子六郎研究室) の活動 もある。 こうした研究活動の活発化 は,土 地開発が進むに したがって,それにともな う緊急 発掘調査過程のなかで,西 日本以外の地で も製鉄 の遺跡や遺物 が注 目されは じめ る, とい うことに つなが ったのであ る。 そ うした成果をふまえた集約が,穴揮義功氏に よってなかれてい る
。
(4)それによると,西 日本以外 では,北陸 (福井,石川,富山各県)地方,関東 (千葉,茨城,群馬,埼玉等各県),東北 (福島, 宮城,岩手等各県)地方,そ して,北海道 にも製 鉄遺跡 の分布 がお よんでいる。す なわち,
「古墳時 代後期に西 日本の一部で開始 された鉄の生産 は, 奈 良 ・平安時代にかけて遺跡数の飛躍的な増加 と 空間的 な拡散期に入 り,わが国の広い範囲で行わ れた。」と穴浮氏は指摘す るO
(
5)製鉄開始時期やそ の広が り時期 に関す る異議論はあろ うが, ともか く,古代社会 における製鉄の意義 は共同体成立過 程 において きわめて高い。 それは,製鉄過程が諸 個人のなせ るい となみではな く,組織だった集団 のい となみを必要 とす るか らであ る。 また,それ のみならず,鉄器 の活用範囲の広 さが青銅器のそ れをはるかに しの ぐことに も一因 している。つま り,農耕生活 とい う労働対象にはた らきかける労 働手段の軸が,鉄器 と考 えられ るか らである。 と す れば,製鉄 の遺跡 とともに遣物 もそれな りに評 価 して よいのではないか,とい うことになる。もっ とも古代社会 における金属器 は,多 くが祭紀の道 具で もある。鉄器がただちに労働手段 になるわけ ではない。 しか し, こうした遺物 の分布が生産手 段の 自生的活性化の分布 として把握す ることを, 可能性 としての こしているよ うに思 うのである。 た しかに中世 にかけて,全 国的には製鉄 は自給 自足の地域経済圏の中にあった。社会的分業が展 開 し,局地的市場圏が形成 してい く過程 は,わが 国では鎌倉時代 に相応 しえよ う。その ころになっ て,中国山脈ぞいの砂鉄を原 料 とした製鉄業がひ とつ の「農村工業」として生 成 して くるので ある三
6
)
さて,以上の議論をふまえなが ら,わが大学が 位置す る長野県をみてみ ることにす る。先 にしめ した北陸,関東地方等にあ るよ うな製鉄遺跡 ・遺 物があるのだろ うか。 もし, あ るとすれば,それ らは どのように分布 してい るのか,そして もし, 分布が得 られた としても,そ の分布 を どう評価 し ていけばよいのか,などとい う諸問題がっ ぎつ ぎ とでて くる。 残念 なが らこの小稿ではそれ らの疑問にお答 え す る用意 も能力 もないが,その疑問を解 く手がか りになる僻取囲を ここでは えがいてみたい と思 ラ.そ して,その倍敵国は,
F長野県史 考古資料 編j(長野県史刊行会 1980年 )に主 として もとづ いてい るo
(
7
)また,岡田正彦氏 の「平安時代の鉄製 用具 と小鍛治遺構小考一特 に中南信地方住居吐出 土遺物 を中心 として-
」
(F中部高地 の考古学」Ⅰ1 1982年) は,長野県の製鉄遺跡 を語 る唯一の文献 とい ってもよく,本小稿 もまた,その思恵を多大 に こ うむ ってい る。 注 (1) 窪田歳郎r鉄の考古学Jp.55-67姓山間 1973年 森浩一,炭田知子「考古学から見た鉄」
(森浩一編r鉄J 社会思想社 1974年)考古学の立場からの文献が多い のは当然であるが.最近でた主な2点をつぎにしめす。 潮見浩 r東アジアの初期鉄器文化」吉川弘文館 1981 年石部正志「技術の発生と伝播・定着」
(三滴圭一編l技 術の社会史l
J有斐閣 1982年)とくに,潮見氏の前 掲書p.281以下を参照されたい。 (2)窪田 前掲書p.54-56 山本博 r古代の製鉄」学 生社 1975年 本書は製鉄起原についてさまざま仮説 をたてた問題提起の書でもある。藤田等,田辺昭三「弥 生式時代鉄器鉄嘩出土追跡地名表」(「たたら研究」第 4号 1960年)川越哲志 「鉄および鉄器生産の起原を めぐって」(「たたら研究」第10号 1968年)村上英之 助 「弥生時代鉄生産の始期について」(「たたら研究」 第18号 1974年) -122-(3)潮見 浩 「わが国古代 における製鉄研究をめ ぐって」 (
r
日本製 鉄史制 たた ら研究会 1970年)p.168 (4)穴滞義 功 「鉄生産 の発展 とその系譜」
(r日本歴史 地剛 下 巻 柏書房 1982年)長谷川熊彦 「南関東地 方 にお け る舌代鉄器及 それ等 の製造 に関す る研 究」 (「たた ら研 究」第13号 1966年) (3) まず第1
麦 をみていただ く。 この裏 にしめされた 数値 は,鉄製 品の個 々の数ではな く件数で しめ し た。発掘が 比較的 しやす い古墳群 に鉄製 品が集 第1表 薫 北 信 地 方 出土 鉄 製 品件 数 弥生時代 古墳 時代 平安時代奈良 . 北信 東信 北信 東信 北信 東信 銑 鉄 1 1 42 1445 I 55 -11 鈍 2 1 刀 子 12 3311 直鉄鉄 釧剣刀 鉄鉄 矛鉾鍔 環槍 1490223 291 241 鐸 甲 胃 馬 具 鉄 器 10311 ll21 鉄 斧 ・1 3 1 鉄 釘 3 425 4 (注)
r県史J
p.17-267よ り作成。鉄器には鉄器片 を,鉄斧 には斧頭 を含む。馬具には轡が入れてあ る。また,
「北 原調査報 告書」飯山市教育委員会 1980年,
「周防畑遺 跡」佐久市教育委員会 1980年 によって補足 した。 (5)穴滞 前掲論文 (6)向井義郎 「中国山脈 の鉄」
(r
日本産業史大系1 7 中国四国地方局 東京大学出版会 1960年)拙稿 「中 国地方の諸鉄 山」
(r
現代 日本産業発達史Ⅳ 鉄鋼J交 諭社 1961年) (7)以下 r長野県史 考古資料編Jを r県史」と略す。 まっているのほ,当然か もしれない。奈良 ・平安 時代の場合, 自動車道の建設、宅地開発等に よっ て発見 された遺跡 を緊急 に発掘調査す るとい う ケースが近年多いようである。そのため,数値 の うえで古墳時代 に くらべす くない結果になってい るのではないか と思われ る。 第2表奈良 ・平安時代の鉄製品 東北信地方 中南信地方 銑 鉄 6 23 鎚 1 1 刀 子 81 28 直 刀 鉄釧
鉄 剣 441 鉄 環 1 鉄 斧 4 鉄 釘 8 16 鎌 3112 14 鋸 1 蘇 2 鋤 蛋 鉄 鐘 その他 鉄製 品 302 鉄 製 紡 錘 車 15 (荏) 東北信地方 は,第1表 による。中南信地方 は岡田氏 前掲論文p.211よ り抜粋 し,作成 した。 - 123
-したがって,中央 自動車道の建設がすすんだ中 南信地方では,そのために緊急発掘調査 もあった ようである。そ うした成果をふまえて先の岡田氏 の労作がある。第
2
表 は,岡田氏が しめ した出土 点数を比較のために件数 になお して作成 した。中 南信地方の 「その他の鉄製品」の中には,
「縫針」 もふ くめている。 この表 をみ るかぎ り,中南信地 方の発掘調査がすすんでいると考 えられ るが,東 北信地方 に くらべ総体的 に多いのはそれな りの理 由がある。すなわち,製鉄 に必要な自然条件が中 南信地方によりそなわ っていた と考 えられ るので ある。 先にものべた ように,古墳時代の出土鉄製品は, その多 くが副葬品である。そのためで もあろ うか, 出土す る鉄製品は武具 ない しは,権威 を誇 るよ う な遺物 が 目につ くのである。第1
表をふ りかえっ てみる。鉄静 まや じりであ り,刀子はいろんな細 工がで きる小刀であ り,いわば日常生活の用具 と 考 えられ る。それにひきかえ,直刀,鉄剣,矛, 鍔,甲胃,馬具は非 日常的な権威の象徴 ともいえる 遺物であるo くわ ,さ 他方,鉄斧,鉄釘,鎌,鋸,級,鋤 などはもち ろん 日常生活,農耕生活 に欠かせぬ ものはか りで ある。その点を頭 にいれなが ら第1
表をみ ると, 古墳時代の出土遺物が比較的多 く権威の象徴にむ す びついていることがわかる。逆 に,奈良 ・平安 時代では, 日常,農耕生活に煩す る遺物が 目につ くのである。中世の特色 ともいえる。 その点をさらに鮮明に しめ して くれたのが第2 表である。岡田氏の論文 によると, ここでの中南 信地方 は,ほぼ南信地方 をさしている, と考 えて よいOすなわち,諏訪,岡谷,塩尻各市か ら南下 して,箕輪町,伊那市,飯 田市へ と展開 してい る のであ る。また,国道2
0
号線沿いの茅野市,原村, 富士見町 と東 の方面 にも展開 している。そ して, その展開の内容をみてみ るともっぱら日常生活, 農耕生活関連の鉄製品が多 く出土 していることが わかるのである。す なわち,第2
表の中南信地方 をみ ると,釘、鎌 な どはもとよ り鉄製紡錘車な ど が多 く出土 しているのである。 したが って, この よ うな点か らも奈良 ・平安時代の農業生産力の発 こ か じ 展が製鉄業,鉄加工業 (小鍛冶)の展開 とふか く かかわ っているように思われ るのである。「たた ら の だたら 製鉄」以前 は,野塩 (姐のかわ りに炉 とい う字 を あてることがある) といって,斜面地で下か らのふいご 自然風および革製の手押 し抗 を使 って送風 し,原 料鉄を溶か していた。それで得た鉄をもう一度脱 炭 して得 る作業を大鍛 冶 とい う。通常の鉄加工の 鍛冶屋 は, この小鍛 冶をさしている。 ふいごは ぐち てつさい 第3表 は,抗羽 口,鉄浮 および製鉄炉が発見 さ れた遺跡数を しめす。先の第1表,第2表 の件数 もい うなれは遺跡数 をさしていることになる。抗 羽 口とは,萌か ら風を炉 に送 るためのもので,い うなれは送風管のよ うなものである。羽 口は炉 に 密着 しているため,燃 えない材質を使い,多 くは 粘土製の ものであ る。鉄洋 は 「かな くそ」 ともい うが,鉄を溶か しているとき,炉壁や炉底部 に付 着 した りして十分 に用をなさない残留鉄分の こと である。 したがって,製鉄炉の遺構がみつかれは 別であるが,罵羽 口,鉄淳があるか らとい って, そ こで製鉄が営 まれていた とはかぎらない。つ ま り,小鍛冶の遺構 にも同様 の条件があてはまるか らである。 しか し,いづれ にせ よ,製鉄関連の営 みがあった, とい う根拠 にはなる。 抗羽 口は,先 にも述べた よ うに粘土製が多いた め,その原形 がそ っくりとどまってみつか ること はむずか しい。む しろ,鉄浮のほ うがよ くその形 状を とどめていることが多い。第3
蓑をみ ると比 較的,鉄洋が数多 く記 されているのはそのためで もある。 この表をみ ると,第2
表でみた よ うに, 中南信, とりわけ南信地方 にその事例を多 くみ る ことができる。第2
蓑 の中南信地方 は,実 はほと ん どが南信地方である。 したがって,奈良 ・平安 時代においては,南信地方 によ り活発な製鉄の営 みがあった ことが推察 され るのである。 第3表奈良 ・平安時代輔羽口および鉄淳出土状況 北信 東信 中信 南信 拐 羽 口 7 3 3 12 (注)北信,東信地方はr県史」
,中信,南信地方は岡田氏 前掲論文 よ り作成。 ー124-(4) その点を形 をかえてみてみ よ う。第1図は第3 表が依拠 した資料等 にもとづいて作成 した もので ある。つま り, この図 は,奈良 ・平安時代を中心 とした分布 を しめ している。 さて, この図の北信地方の南に坂城町がある。 「開畝製鉄遺跡」(坂城町教育委員会 1977年)に よると,「製鉄炉底 と思われる火床を
3
カ所確認で 第1図 筑羽 口と鉄洋の分布 T <.
.
(荏) 第3
表 と同 じ。 きた」(森嶋稔 同p.31)とある。翌1978年第2次 調査がなされ(
「第2
次調査報告」),
「地元の伝来 等 を参酌す ると」製鉄が稼業 していたのは 「室町 ∼桃山期辺 りと推定 して」(窪田蔵郎 同p.54)い る。そ うだ とすれば,中世か ら近世 にかけて図に あ る東北信地方の とりわけ国道18号線ぞい一 国鉄 信越線ぞいで もあるが一 に集中 して製鉄が営 まれ ていた と考 えることがで きる。 t +A
O
A+東部町 芸本市i
h. ▲.A.滋野 ▲ rt
.
IB久市 \ ))
I
'I
.S三 ▲▲▲▲ 富士見町 - 1 2 5-また,東信地方 では東部町が注 目され る。太平 寺遺跡 はすでに発掘調査がおわ り,舗羽 口と鉄洋 かのう が報告 されている。(1)ところが,同 じ東部町の和 と たたら い うところに鑑鯖堂 とい う地名がある。 その近 く の畑の表土をす こし掘 りお こす と数多 くの鉄浮に 今 も出あ う。が. いまだ発掘調査 はお こなわれて いない。土地 に永 く住んでお られ る関実雄氏の案 内によると,瑞羽 口らしきもの もかつて出たそ う である。東部町教育委員会の手 による調査が待た れるところである。 (2) 他方,上田市の西,塩 田盆地 を見おろす位置に 塩 田城跡があ る。鎌倉時代,北条義政が築城,以 降三代 にわた って居館 した ところである。その後, 室町,戦国時代 にかけてさまざまの戦略基地 とし て活用 された複合城跡で もある。 この城跡が上田 市教育委員会 の手 で発掘調査がなされた。その結 果,筋 の羽 口が
1
4
点,他 に鉄淳が多数出土,採集 された。
(3)その「調査概報」では,それ以上の こと はのべ られていない。発掘地点が複合城跡である ことを考慮すれば,
「小鍛冶」の跡 と思われ る。 し かし,製鉄加工がおこなわれていた, とい う根拠 にはなるだろ う。 いずれにせ よ時代は下 って中世か ら近世の追跡 および遺物である。古墳時代か ら奈良 ・平安時代 にかけての製鉄遺物 はい くつか確認 されているだ けに,それ以降の製鉄遣物が検出されるとい うこ とは, これまで比較的等閑視 されてきた長野県の 製鉄史を知 る うえで, とくに,製鉄の連続性を確 認す る うえで きわ めて意義 のあ るもの とい えよ う。第1
図の分布 には, 1-2
中世の製鉄造物 も 含めている。時代未確定のもの もある。ともか く, この図か ら古代∼中世の製鉄遺物の倍散が得 られ れば, と思 う。 つ ぎに中南信地方に 目をむけてみ よう。 ここで も現在 の岡谷市,諏訪市か ら国道1
5
1
号線一 国鉄飯 田線- にそって錆羽 口と鉄浮の集中 した分布が, 東信地方以上にあ ざやかにみ られる。天竜川ぞい の谷あいで,原料,燃料である木材等 も容易に得 られたか らであろ う。 岡田氏は調査結果をふ まえて中南信地方 につい てつ ぎのように述べている。「中南信地方平安時代 住居地総数6
3
2
軒中,羽 口出土住居地 は2.
5
%
弱の1
5
軒。鉄洋出土住居地5
8
軒で全体の9.
2
%
。羽 口・ 鉄浮 ・鉄製品及 び砥石の四者を出土 した住居地 5
軒,砥石を除 く三者出土住居虻 3
軒,羽 口と鉄津 のみ出土住居地 3軒 となる。関東地方 をはじめ と す る各地域で検出 された平安時代の製鉄遺跡は当 地方 (中南信一筆老)では末検出であ ったが-略 -羽 口や鉄洋等が出土 しているいわゆる小鍛冶遺 構 は,最近 の発掘でい くつか知 られ るよ うになっ た。
芋
た しかに製鉄遺跡の検出はな くとも,小鍛冶等 の製鉄加工の分業 はかな り東北信地方 に くらべそ の数か らいってすすんでいるといってよい。そ し て,その背後に製鉄,それ も 「たた ら製鉄」以前 の野塩形態 の ものが存在 し うる ことを予測 させ る。 もっとも近世 に入ると長野県における製鉄 は, 近世後期の大 日向鉄山をのぞ くとほとん ど記録に はない。 もっぱら山陰地方の鉄が, 日本海を北上 して新潟-運 ばれた り,瀬戸内か ら大阪,そ して 名古屋,飯 田を通 って長野へ入 って くると考 えら れている。(5)あるいは,中世の後期(
1
3-1
4
世紀以 降)か ら山陰地方 の鉄が入 ってきたのか もしれな い。ただ古代か ら中世 にかけてはなお,長野県に おいて製鉄がい となまれていたのではないか, と い う可能性を強 くの こしているよ うに思 えるので ある。 したがって,今後の調査研究による補充が つ よ く望 まれるところである. (6) 注 (1
)F県史J
p.150 (2)この点 については,飯 田賢一 F鉄 の語 る日本の歴 史」 そ しえて文庫 1976年で もふれてい る。 また岡田 正彦氏 は 「長野県更埴市臣代馬 口遺跡調査報告」
(「信 濃」第23巻第5号 1971年)のなかで,平安時代の烏 口遺跡 を紹介 してお られ る。 このなかで氏 は 「鉄鉄 は 金工具 としての践能 を有す るが, フイゴや鉄淳 な どの 積一極的造物 の伴出が な く工房比 を予測す るのが困難で あ る。」(同p.67)と述べ られている。 日常的 な鉄器(他 に鉄錠 な ど)が検 出 されてい るにもかかb らず, この 遺跡 には製鉄遺構がみ られ ない とい う。 「たた ら堂」と は逆 の現象が うかがわれ る。 (3)「塩 田城跡」第3次発掘調査概観 上 田市教育委員 会 1978年 (4)岡田正彦 前掲 「平安時代の鉄製用具 と小鍛冶遺 構小考」p.221 (5)宮下史 明 r信濃 の鋳物師J1964年 p.80-81-1
2
6-(6)今年 (1982年)9月,諏訪市 の宮坂光昭氏の案内 で,同市 岡村で平安初期の小鍛冶の跡 と思われ る遺構 をみた。諏 訪地方 にはこうした遺構 が他 にも未調査の ところであ ると推測 され る。 後記 この小稿 が成 るにあた って ,岡田正彦氏,桐原健氏, 塩入秀敏氏 に御教示,御世話 になった。記 して謝す る 次第であ る。 また,昭和56年度の本学地域調査研究費 を本研究 に充当 した ことを併せて記す る。 - 12 7