佐 々 城 豊 寿
再考
- 生 い立 ち と婦 人 自標 倶 楽 部 の活 動-宇 津 恭 子 「隅の石」 とい う言葉が聖書に出て くる。煉瓦や石づ くりの建物の出隅におか れ る 礎 石 (土台石)のことであ るが,聖書においては,長 い間虐げ られ軽 んじられなが ら,神 の永遠 の神殿 が形成 され る歴史の土台 となった イス ラエルの民を象徴す る。 また,教会の礎 とな り 完成者 とな った イエス ・キ リス トを も象徴 している。 佐 々威豊寿は明治22年6月,数名の同志 と婦人白襟倶楽部を結成 して多角的な婦人運動を 開始す るとき, この 「隅の石」を倶楽部の精神的な基礎にお き,座右の銘 とした。新時代 と は皮相のみの旧態依然 とした明治の社会にあ って,一己の人間 としての 自覚 もな く眠 ってい る女性たちを 目覚めさせ, 自立 させ,本来の地 位を回復 させ ようとす る,そ の運動が男性社 会か ら非難攻撃を受け ることを,豊寿は百 も承知 していた。旧来の女大学的処世訓を固持す る人たちか ら巻 き返 しを受けることも予想 された。 しか も, この婦人 白標倶楽部は,す でに ある東京婦人矯風会の中に新 しくつ くられ るものであ り,他の会員た ちが快 く思わない こと は明 らかであ った。 しか し豊寿は,た とえ どんなことがあ って もキ リス ト-の信仰にすべて を賭け,社会の礎 となる働 きを したいと,ひたす ら喋 ったのであ った。 本稿は, この佐 々城豊寿の生い立 ちと,婦人日原倶楽部設立前後の社会活動に関す る研究 ノー トである。 今か ら5年 前, 『清泉女子大学人文科学研究所紀要 第2号』に豊寿の小伝 を発表 した ことがある。その後新資料が発見 され,小伝全体に筆を加 える必要が生 じた。そ こで昨年6月,同紀要第 6号に 「佐 々成豊寿の北海道移住 再考」 と題す る小稿 を寄せた。 これは,豊寿が明治26年東京の同志 と別れ,北海道に渡 って女子教育を志 した七年余の軌跡 を,新資料に よって辿 り直 した ものである。本稿にみる婦人 白漂倶楽部運動は,その前の時 期にあた る。 なお,本稿で参考に用いる新資料は,明治34年 6月17日, 日本橋教会におけ る佐 々城豊寿 の葬儀 で親友潮田千勢 子が朗読 した追悼文 「佐 々城豊寿女史」(『婦女新聞』明治34年6月24 日・7月 1日 ・8日・22日号に分載), 豊寿長男佐 々城佑の 自筆 メモ (佐 々城 開氏提供)お よび,徳富蘇峰宛佐 々城豊寿書簡 (徳富蘇峰記念館蔵), 以上の3点 である。 すでに発表 し た小伝 と重複す る記述は,紙幅の都合で簡略化 または割愛す るところが多い。66 研究紀要 (第3号)
ここに一枚の色あせた写真がある。豊寿の追族,佐 }r威閲氏が保存 され る。
八つ切版 りで,分厚 い台紙 の下部に 「大 日本東京一番町写真師武林盛-」 の文字が印刷 さ れている。
前列の外 国婦人は,明治22年1月世界基督教 婦 人 禁 酒 会 World'sW omen'sChristian TemperanceUnion(1883年結成)アメ リカ本部か ら派遣 されて- ワィ, ニ ュージーラソ ド, タスマニア,ア ウス トラ リア, シソガポール,サ イアム,南支那の各地 を1年がか りで遊説 し,23年2月22日横浜に到着 した J.E.ァ ッケルマ ン Acherman女史 と推定 さ れ る。『女 学雑誌』201号 (明治23年2月22日)に掲げ られた 肖像画 と,202号 (同 3月 1日)に掲載の 訪問記にみ られ る 「嬢 は齢三十五六, 豊肉多愛の質」 とい う記述, また203号に紹介 された ア ッケルマ ン日程中の 「2月12日,会員写影」 の記事等 に よって,写共の外 国女性はア ッケ ルマ ンにほぼ間違 いない。 このほか氏名のわか る人 を挙げてみる と,前列向か って左端が佐 々城豊寿,二人 おいてア ッケルマ ン女史,一人 おいて徳富久子,後列左か ら元 良 よね,潮 田千勢子,巌本か し (若松 賎子),一人 おいて矢島揖子である.いずれ も東京婦人矯風会創立 (明治19年)当初か らの主 だ った会員であ り,潮 田,巌本は婦人 白標倶楽部のメ ンバ ーで もあ った。元 良 もおそ らくそ うである。 ちなみに,それ より少 し前の2月14日,東京婦人矯風会役員の更迭があ り,会頭 に浅井 き く子 (柿),書記に小島キ ヨ子 (清), 会計に海老名 リン子 (里無), 編集委員に竹尾 コ ト子 BlH: (古畳)が就任 したばか りであ った。写実に納 まっている氏名不詳の4人 の中に, この新役 員が含 まれているであろ う。 ア ッケルマ ン女史の来訪 は, 日本のキ リス ト教社会 を揺 り動か した。その演説を聴 いた多 数 の信徒が禁酒 ・矯風の列に加わ った。豊寿 ら婦人 白標倶楽部が展開す るエネルギ ッシ ュな
字津 :佐々城豊寿 再考 諸活動 も, このア ッケルマ ン来 日を導火線 とした ものが多い と思われ る。 67
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佐 々城豊寿は嘉永6年 (1853) 3月29日,仙台広瀬川 の東岸,定 禅寺櫓丁通本材木町西裏 (2) 末無 の武家屋敷,星雄記 ・定夫妻 の家に五女 として生 まれ,幼名を艶 とい った。「蒲柳 の質」 (3) で病床にいる日が多か ったが,他面 「気象鋭 く」,「す こぶ る快活の遊戯 を好」 んだ とい う。 父 の雄記は伊達藩 の評定役,勘定奉行を勤め,藩政 の改革案や建 白書 を上申す るな ど,気鋭 の手腕をふるった。艶が二歳 の頃は箱館松前奉行を していた。安政2午 (1855)の 「星雄記 佐藤幸七郎箱館松前模様書上」 と, 天保11年 (1840)上 申 「星雄記意見書」が,
『大 日本古 文書,伊達家文書之十』に収め られている。宝勤まこの父の血 を色濃 く受け,幼少か ら 「尋常 には納 ま りそ うもな く見え,男の ような器であ った。」父 も艶 の将来 を見抜 いて早 くか ら 漢 (4) 学 を教え,
「どこまで もその才能 を磨 くように仕向け」た とい う。 時 あたか も維新直後,西洋の文物が潮の ように流れ こみ,志ある青年 は競 って知識を外 国 に求めた。艶 もじっとしてはいなか った。その明治2年 (1869)16歳の思い出を豊寿か ら聞 いたのであろ う。親友潮田千勢子が書いている。 つい たまた ま仙台の地英学に通ず るものあ り,女史就 て学ばん と欲 し,之を家人に乞 ひたれ す なわ たた ひそか ども許 されず,乃 ち独 り英学者 の門を叩 きで情を明か し,昼は窃 に起 きて教を受け,夜 は もと かく は ん さ い よ 家人 の熟睡を待 ちて,暗灯 の下に之を復習せ り。此の如 きこと半歳余,家人始 めて これを さと 覚 り,其志 の堅 くして奪ふべか らざるを知 るや,即 ち公 に之を許せ り。 (「佐 々城豊寿女史 (-)」 明治34年 6月24日発行 『婦女新聞』掲載) さすがの雄記 も,年頃の娘が未知 の人に英語を習いに通 うことは許 さなか ったが,艶 の志 の堅 さ,熱心 さに負けて,遂に許可 した らしい。 しか し親族 ・近隣 の反対は続 いた。 ひもと なお 女史既に家人 の許を得 て,公然英書 を播 くに至れ りとい- ども,当時尚外国排斥の通風 あぎけ なかなかに衰-ざ りければ,女史の英書 を学ぶを見て,四隣皆怪み,且噺 り,親戚の間 に いてき は,之を怒 りて夷狐に化す るもの とし, もし英学を中止せずば,絶交すべ Lと脅迫せ るも の さ-あ りき。 (「佐 々城豊寿女史 (-)
」
明治34年6月24日発行 『婦女新聞』掲載) 艶の姪 にあたる相馬黒光は著書 『黙移』に,当時仙台で英語を知 っていたのは,男子 では 後 の英学者斎藤秀三郎の父,女子では星艶の二人だけだ った としている。そ うであれば,艶 の先生 もこの斎藤 の父であろ う。 しか し 『日本正教伝道誌巻之-』(石川喜三郎篇, 明治34 午)に よれば,英語 を話せる人物 は仙台に も う一人いた。艶 の親戚,笹川定吉 (後 の仙台ノ、68 研究紀要 (第 3号) リス トス正教会長司祭)が明治3年末頃か ら英語 を習 った,水科兵五郎である。同書は水科 を 「英人 タム ソソ」の弟子 としている。 タム ソンは,後年 (明治18年 9月)東京で艶に洗礼 を授け る, 米国長老教会宣教師 タム ソソD.Thompsonと同一人物 であろ う。 この人脈を 考 え合わせ ると,艶がひそかに師事 したのは斎藤 ではな く,水科だ った とい うことが考え ら れ る。 艶は こうして,親族近隣 の激 しい反対 にもひるまず勉強 を続け,やがて英書が読めるよう にな った。 しか も彼女はそれだけで満足 していない。当時有為 の青年が続 々と東京 に出て洋 ちゆ う 学 を志 した ように,艶 も東京遊学を父に懇請す る。明治4年 のおそ らく秋,男装 して母 と中 げ ん 間男につ き添われ,山河百余里の難路を徒歩で 上京 した。 中央では, よ うや く女子教育の気運が勃興 していた。同年
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月に設置 された文部省が,官 立女学校設立 の計画を1
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月に布告す る。 また同月2
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日には吉益亮子(
1
5
歳), 上 田悌子(
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5
読),山川捨松(
1
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歳),永井繁 子(9
歳), 津 田梅子(9
歳)の5
少女が, 特命全権岩倉大 便一行 に同伴 してアメ リカに留学す る.艶 の向学心を一段 とそそ る出来事 であ ったO 上京直後 の動向については,潮田が次の ように述べている. ひ と は しそと 此時 に当 り,東京の市中,婦人のついて学ぶべ きものとしては,ただ一 ツ橋外 なる開成 城 同地 に官立 の女学校-あ るのみな りき。 さるに此唯一 の女学校 さ-規模極め て 小 に し わザ か て,僅に十三歳以下 の少女を教育す るに過 ぎざ りければ,四万 四里の大都 も,此百里遠来 い の一客を容 る ゝ所 な く,女史は遂に去 って横浜に行 き,米国人某 の設立せ る校 舎 に 入 り て, こゝに始 めて其 目的を達す るに至 りぬ。 (「佐 々城豊寿女史 (-)」 明治3
4
年6月2
4
日発行 『婦女新聞』掲載) 「一つ構外なる官立女学校」 とは,1
2
月に文部省か ら設立を告示 された学校であろ う。「西 洋 の女教師を雇い,華族 よ り平民に至 るまで受業料を出 し候 はば入校差 し許 し候」 とい った 文面 に,艶は胸 を躍 らせたにちがいない。翌5年2月に開校 されている。 ところが入学資格 のある著は 「八歳 よ り十五歳 までの女子」であ った。(上記潮田文 は「
十三歳以下」 と し て いる。)艶はすでに19歳,入学 は到底許 されなか った。途方 に くれた末,横浜へ行 くことにな った。そ こでは親戚の多田清介はか同郷の青年 も勉強 していた。 「米国人某」 とは, 米国 リ フ ォーム ド教会外国伝道会か ら派遣 されて明治2年釆 目し,翌年か ら横浜の居留地39番 - ボ ン塾 で女子教育に携わ っていた,婦人宣教師 キダー(
M.E.Ki
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であ った. こ うして艶 は,官立女学校 に入れなか った ことが幸 いしてフェリス女学院の前身 である 「ミス ・キダー の学校」に学 び,男女外人宣教師に接 し,聖書 に接す る.佐 ・々城豊寿の婦人運動の根元 にあ る男女同等,一夫一婦の思想は, まず この環境 の中で青 くまれた ものである。 (5) 明治5
年6
月2
4
日当時2
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名 に達 していた生徒 の中には,8
歳 の島田嘉志子(後 の巌本か し) がいたO艶はあ とで一緒に働 くようになるとも知 らず,毎 日この少女 と顔を合わせていたの である。 また,同 じ横浜の修文館では,後 に艶 と結婚す る伊東友賢 (佐 々城本支)が英語を宇津 :佐々城豊寿 再考 69 学 んでいた。友賢は, この年正 月 「洋学 医学修業 のため」仙 台か ら上京 したば か り で あ っ た。(横浜に来 たのは初 めてではな く,す でに慶応3年 か ら4年 にかけて,宣教師 -ボ ン
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(6) C.Hepburn の もとで医術を学 んでいる。)4月28日には, キダーの学校 のある39番地 の会堂 で宣教師バ ラ(
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か ら洗礼を受け,植村正久 らの横浜公会 に加わ ってい る。艶 と出会 う日も,そ う遠 くはなか ったであろ う。 8月18日か ら同会堂 で開かれた外人宣教師協 議会 の三 日日, 日曜 日には,横浜公会員ほか東 京近辺の信徒 ・教会生徒が集 め られ,盛大 な (7) 晩 さん式が行われてい る。おそ くともこの 日には二人が顔 を合わせた と思われ る。 それ よ り前7月, ミス ・キダーの学校は-ボ ンの家か ら野毛山紅葉坂の県庁官 舎 に 移 転 し,新 しい机,椅子,黒板な どを揃 えた。生徒 の間 では,権県令大江卓夫人,岩倉具視海外 使節 団随員の夫人,貿易商夫人 とい った人 々が華やかな雰 囲気をつ くっていたが, 星艶 は苦 学生 だ った らしい。 キダーか ら託 された2人の少女を世話 しなが ら勉強 した。潮田が当時 の 状況を伝 えてい る。 女 史の横浜 にあるや,遠 く故郷 よ り一人 の弟を招 きて其動学 を督励せ Lに,校主 の米人 うち は,又他 の二 少女学生 を托 して,之が監督 を も女史 に任 しぬ。斯 る多忙 の中に も,女 史は 苦学 ます ます怠 らざ りLが,其生来の多病 は,女 史を して しば しば学 を廃 す るの己む を得 ざる苦痛 に泣か しめ き。 (「佐 々城豊寿女史 (二)」 明治34年 7月 1日発行 『婦女新聞』掲載) 艶が故郷か ら呼び寄せた弟 とは,当時16-17歳 の星仁三郎 であ った。(明治7年4月29日, 東京浅草 で姉 の豊寿,親 戚の丹野直信 と一緒 に うつ した写真を遺 し,翌年8月15日早世 。) 多忙 に多病 で,学業 も意の ままにな らなか った とはいえ, この横浜での新 しい経験 は艶 の 将来 を決 め る重要 な ものであ った。 しか し艶は,わずか1年か 2年でキダーの学校を離れて い る。伊東友賢が明治6年 2月横浜を去 り,東京小石川江戸川町十七番地の数字中村正直家 (8) 塾「同人社」で英語 を教え始 め る,その後 を追 うかの よ うに,艶 も東京に移転 した。明治7年 (9) の戸籍 に 「東京府下西小川町一丁 目江木繁三方寄留」 と記 されている。 また友賢 は, 6年 2 (10) 月23日の文書か ら名を本支 と改めているが,艶 も同 じ 6年 ごろ豊寿 と改名す る。 しか も,東 ・1l\ 京では同 じ中村敬字 の門に入 っている。儒者数字 は キ リス ト教に も深 い関心 を寄 せ,豊寿が いた明治7
年 には, カナ ダメ ソジス ト教会宣教師 カツクラ ン(
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に よる 日 曜 礼 拝,英語聖書講解,英語聖書輸読会を同人社 で催 し, ク リスマスには洗礼を受けてい る。 ま た数字 には,周知 の よ うに,スマ イルズ (S.Smiles)原作 『西国立志編』(明治 4年 刊),『西 洋品行論』(明治11・13年 刊)の訳述がある。 さらに敬芋は, ミル(
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S.Mill)の 『男女l司 権論 』や 『代議政 体』等 をテキス トに用 い,女子 の政 治的啓蒙につ とめ,婦人社会 の指導者 を養成 していた。豊寿 もこ うした数字 の思想的感化 を受 けて, キ リス ト教 に よ り深 く接 し, その人間観,社 会観 を身 につけ,婦人運動 に向か う直接 の道 を準備 したのであ った。 『黙移』に よれば, 豊寿が数字か ら学 んだ ものには, も う一つ漢学 があ った。 しか も豊寿研究紀要 (第3号) は,そ の 「学 んだ ところを直 ぐに東京女子師範学校 の前身 であ った学校で教 えていた」 とい う。 これは,かつて仙台か ら出て きたばか りの星艶が規定 の年令 を越 えていたために入学 を 許 されなか った,東京女学校 である。 (明治10年廃校 とな り, 生徒 は東京女子師範 に収容 さ れた。)敬字が この女子師範創立 (明治8年)以来 の校長 を していた関係で,豊寿 の採用 とな った ものであろ う。翌9年11月13日,敬字が校 内で婦人集会 を催す と,そ こに も豊寿 は登場 している。同校教師棚橋絢子,関信三,豊 田芙雄 の講演が終 ると,聴衆 の中か ら23歳 の星豊 寿 が進 み出て,350人か ら60人に及ぶ高位高官 の夫人を前 に 「一家経済 の心得」 と題 す る 話 を した。『東京 日日新聞』(明治9年11月15日)が詳 し く報道 している。潮 田 もこの ことにふ れて,豊寿が 自発的にそれを行い,明治の婦人に 「言論 の新活路 を開」 いた ことを強調 して い る。 また潮 田に よれば,豊寿 はその後 しば ら く師範学校 の英語軌r榊こ起用 されたO し1ういへ きようペん 翌十年,女史は女子師範学校に 招 聴せ られて英学 の 教 授 を執ることとな りLも,病魔 わ ずか は女 史を妨げ て其任を尽 さしめず,住に半歳 余に して之を辞せ り。 (「佐 々城豊寿女史 (二
)
」
明治34年7月1日発行 『婦女新聞』掲載) だが,豊寿 を教壇か ら退かせた まことの理 由は 「病魔」 ではなか った。本支 との愛 がその ころ燃 えあが っていたのである。本支 ほ明治6年横浜か ら東京 に移 ると,郷里仙台か ら妻千 代 と2児 を小石川 の住居に呼 び よせ, 8年1月には三男を も うけていた。 に もかかわ らず星 家 の明治10年戸籍 には,豊寿がすでに 「東京府下 日本橋区品川町裏河岸八番地平民佐 々木本 支妻 二縁組送籍」 とされ,明治7年 に豊寿 の寄留先 として届け られた 「西小川町-丁 目江木 繁三方」 は,同一 の住所表記 で「伊東友賢方」に変更 されてい る。本支 と豊寿,二人 の生活が (12) そ の頃か ら始 まっていた と考 え られ る。 翌11年7
月2
0
日,長女信子が生 まれている。 (戸籍 には 「ノブ」 と届け られ るが, 日常生活においては 「子」 をつけて呼ばれていた。本稿で も 「信子」 と呼 んでお く。)戦 いに破れた千代 は3児 を連 れ て仙台の親許 に帰 る。本支 は13年11 月千代 との結婚を解 消 し,19年8月21日養 家 の伊東氏か ら家実 の佐 々城氏 に復籍す るD豊寿 の入籍手続 も同年12月28日よ うや く完 了す る。 豊寿が千代 とその3児 の幸福を破壊 した責 めを どの よ うに負 って,それか らの人生 を始 め たか,誰 も知 らない。ただ,そ の隠 された深 い傷 の痛みが,次 に述べ る入信 の契機 に深 く関 わ った ことは確かであろ う。 本支 ほ,上記 日本橋区品川町裏河岸 8番地 (俗称 「日本橋釘店」)で医院 を開業 した。明治 16年4月1日,長男の佑が生 まれ,翌7年次男済が生 まれた。 しか し済ほその年12月18日, そ の幼 い命を終 えている。つづ いて同月30日,豊寿 の老 いた父が仙台で病死す る。豊寿 に期 待 をかけ ていた父 も,彼女 の不倫 の恋 には欺 き,怒 ったであろ う。愛児 の死 と父 の死,二つ の衝撃 を同時 に受け,打 ち砕かれた豊寿 の心 に, この とき神 の恩恵が注がれ る。 潮田は,雄記 の死 には触れ ていないが,豊寿 が信仰の恵 みを受 けた過程 を次 の よ うに描 い字拝 :佐々城豊寿 再考 71 ている。 明治17年,女史が本支氏 との問にあげた る男児病 んで笈せ り。女史 の哀傷 た とふ るに物 ます ま うつ )つ いつ な く, 目に益す欝 々として,天地 の問 また- の以て女史を慰む るに足 るものなか りLに, その ご くし上 奇なるかな,天父 の摂理は其悲哀絶望 の極処 に及びて, ここに女史を新生命 の門に導 き給 へ り。 り.Zうが えち よう つらな いちどう ある日女史は,両 替 町なる基督教会 に入 りて, 試 に其一隅 に列 りLに, 此時一道 の光 明, さなが ら電火 の如 く,暗惨たる女史の胸底を射た りき。走れ必ず しも信徒が賛美 の力 けだ おい にあ らず,牧師が説教の力に もあ らず,蓋 し愛 なる神 の霊は, この機会に於 て女史を深 き まなこ 絶望の淵 よ り救 ひ上げ給へるものならん。是 に於てか,女史の眼は開かれて光 を見,渇け る心 は恵 を以て量 るることを得,其年 の九月,遂に宣教師 タム ソン氏に よ りて洗礼を受け ぬ.
(
「佐 々城豊寿女史 (二)」 明治34年7
月1日発行 『婦女新聞よ掲載) 豊寿 の受洗ほ従来明治17年 とされ,筆者 もそれに従 ってきた。 しか し,済 の死 を明治17年 12月18日とす る佑 のメモ と, この潮田の記述を考 え合わせ る と,豊寿が タム ソソか ら洗礼を 受けたのは明治18年 9月 としなければな らないであろ う。 神 にすべ てを許 され,絶望の淵か ら信仰の世界に生 まれ変わ った時,豊寿 の生涯は一新 し た。再 び潮田の記述を借 りれば, これ ひと 是 よ り以前,女史は其-箇の小 さき力にのみ依頼 して進み来れ り。故 に,-たび失望 の淵
しか 1ニいのう に陥 りてほ 自ら救ふ こと能 はざ りしな り。然れ ども大能 なる天父の恩化に接 した る以後 の 女史は, また前 の女史にあ らず。その回復 された る英気は,実 に聖霊に よ りて浄め られた あ ら1二 る高潔の英気にして,是 よ り後 の女史の事業 も行動 も,皆その新 に得たる信仰 と精神 とに い きた よ りて出で来れ るものなれば,此年は これ女史に と りて,生涯 の一新紀元 といほざるべか らず。 (「佐 々城豊寿女史 (二)」 明治34年 7月 1日発行 『婦女新聞』掲載) この とき豊寿 は4人 目の子を身 ごもっていた。明けて明治19年 1月12日,愛子 を 出 産 す る。育児 と医院の主婦業 は多忙を極めた。 しか し外では, 目覚 めた婦人の連帯 の好機がい よ い よ近づいていた。2
当時 の 日本 は国会開設の準備あ り,条約改正 の準備あ り,政治上 に社会上に ヨー ロッパ の 文物が しき りに輸入 され,世をあげて新事業の計画にきゅうきゅうと し て い た。明治19年 (13) 香,豊寿 も近 くの呉服橋外に一軒 の家を手 に入れ るo多 くの婦人希望者を集めて編物や洋裁 を教えなが ら,互 いに交流を深め知識を交換 し, 自主 自立 の気を養 う場 を提供 しよ うとす る研究紀要 (第3号) ^ L ILL'、 ものであった。 この試みは成功 した。同年9月25日,会員60余名の 「婦人紅網会」発会式が 日本橋両替町 の教会で盛大 に催 され る。 これ と並行 して,キ リス ト教婦人たちの問に矯風会発足 の倣運が熟 していた。世界基密教 婦人禁酒会派遣第一回遊説員の レビッ ト
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女史が,同19年6
月14日, 日本に渡 来 し,各地で演説会を開 いた。 7月17日には東京 の明治女学校で これが行われた。その終了 後,木村鎧子校長を中心 に有志婦人30余名の会合が もたれ, 日本婦人禁酒会設立 について意 見が交換 され る。次 いで同月24日,14名が更 に協議を重ね, 8月7
日には規則制定準備会に こぎ着 けている。潮田に よれば,豊寿は初めか ら有力メ ンバ ーとして積極的に参加 し,会 の 名称 も豊寿が推 して 「婦人矯風会」 になった とい う。 ところが, この年東都を見舞 った猛烈 なコ レラの災禍 のために,せ っか くの計画が中絶す る.中心人物 の木村鎧子が倒れ,佐 々城家で も3歳 の佑が感染 したO豊寿の48時間にわたる (14) 必死 の看病に よって佑ほ一 命をと り止めたが,鐙子は発病 の翌 日(8月18日)急逝 した。 あ 3Lもの 豊寿 は佑の回復後ふたたび立 ち上が り,上記 「婦人紅網会」発会式 にこぎ着けている。同 志婦人 のグループ作 りを 目的 とした この会は,来 るべ き矯風会創立- と息をつな ぐ役割を果 した。やがて11月19日,あ らためて設立相談会が開かれ,規約が編 まれ,遂に同年12月 6日, 「東京婦人矯風会」 の発会式が 日本橋教会で催 され る。そ こは,いわば豊寿 の教会である。 かつて豊寿が入信の恵みを受け,「婦人紅網会」 を結成 したのと同 じ教会であるO 発会式当 日56名の入会者があ り,会頭 には年長の矢島揖子が,副会頭格の書記には34歳 の佐 々城豊寿 が選ばれた。 キ リス ト者 に よる婦人解放運動 の先覚 として,疲れを知 らぬ豊寿 の働 きが この 日か ら始 まる。犬 の本支 も特別会員 として運動 に協力 した。 豊寿 の活動 の主眼は,明治の婦人が男子 と対等 の人権 を回復 し, 自主 自立 して社会におけ る天賦 の役割 を果たす よう,自覚 を うなが し障害 を取 り除 くことにあ った。そ こで まず,女 性 自身 の言論活動に よって世論 を喚起 し,社会のメンタ リテ ィーを変革す る必要 を叫び,ま た廃娼運動を東京婦人矯風会 の主要 な活動 とすべ きことを主張 した。当時 日本で は 一 夫 多 秦,芸娼妓の公認等,女性 の人格無視,人権 じゆ うりんが慣習化 していた。それを根元か ら 改 めるには, キ リス ト教の愛,人格の平等,一夫一婦の思想を社会 に浸透 させ, またその思 想 に よって政治家に働 きかけ,公娼制度の撤廃にこぎ着けなければな らないと,豊寿は考え たのである。 ところが,会頭 の矢島が禁酒運動を優先 させることを主張 したため,二人の間 に矯 風会 の運営上,根本的な意見 の対立が生 じた。過度の飲酒が家庭 の幸福を破壊 し,遺伝 に影響 を及ぼす ことか ら,「禁酒」 を会の活動 に含 める重要性は豊寿 も認めていた。 しか し 当面 の婦人社会 の最大課題 として,女性 の人権 にかかわ る 「廃娼」 を優先すべ きことを,盟 寿はゆず らなか ったのである。東京婦人矯風会 の母胎である世界基督教婦人禁酒会 も,活動 内容は社会の悪風矯正の全般 に及 んでいた。 この問題 については,明治20年 4月24日の議員会で も二派 に分かれて論議 された。その結 果,豊寿の判断が会を圧倒 し,遂 に 「廃娼」を第一 とす る活動方針が採択 された。 豊寿はそれ よ り前,『女学雑誌』48,52,54号 (明治20年 1月22日, 2月19日, 3月 5日)宇津 :佐 々奴豊寿 再考 73 に論説 「積年 の習慣 を破 るべ し」を,56号 (3月19日)には 「東京婦人矯風会 の会員愛姉 に 告 ぐ」を寄せて,以上 の見解を述べていた。 さらに,上述の議員会か ら約一週間後 の5月 2 日,木挽町の厚生館 で催 された第2回女学雑誌社演説会では,「婦人文 明の働」 と題す る 演 説を行ない,その中で,矯風会が 日本 の急務 である芸娼妓全廃,海外売春婦取締,妾 の廃除 の三点に尽力す ることを宣言 している。また5月21日には 『女学雑誌』65号特別欄に 「東京 婦人矯風会主意書」 を書記の名で発表す る。矯風会 は(1)男尊女卑 の風俗お よび法律を除 き, (2)一夫一婦 の制を主張 し,(3)娼妾を全廃 し,(4)家制交際 の風 を改 め,(5)飲酒喫煙放蕩遊惰 の 悪習 を刈る等 の活動 を行 うが, まず第一 に 「娼妾全廃」 の運動 に着手す ることを言明 した も のである。 だが, この主意書 について も矢島 との問に摩擦 を生 じた らしい。 8月6日の 『女学雑誌 』 70号に今度は,矢島揖子の名で,廃嫡運動優先を無視 した別種 の 「東京婦人矯風会主意 書」 が掲載 され る。 しか も, これが大量に印刷 され全国に頒布 され,新 聞に報道 されて,豊寿 の 主意書は抹殺 されて しま う。矢島 と豊寿 の対立が この辺 りか ら険 し くな り,やがて矯風会 の 分裂を招 く危険 さえ生 じている。議員会で 「矯風会 と禁酒会 と名称 を分離すべ き件」 を発議 (15) し,その場で廃案に された会員がいる。 また定期会 の席上,「矯風会 の趣意を問 う」緊急動 (16) 議 をおこして,矢島か ら答弁を謝絶 された会員 もい る。 こ うした波風の立つ中で,豊寿は活動を進 めた。同21年4月 7日,潮田千勢子ほか 3名の 会員 と東京 の王子地区に,25日には浅井 さ くと横須賀に出向 き,演説 し相談に応 じ な ど し て,近郊の風俗浄化 につ とめている。 また5月か らは,潮 田はか数人 の同志 と麹町区飯 田町に 「修身職業英和女学校」を開設 し ている。極貧家庭 の子女に無 月謝で職業教育をほ どこして 自活 の道 を開 き,売春婦 の板を絶 と うとす るものであ った。 前後す るが, 4月14日には 日本で初めて女性 の手 に よる月刊誌 『東京婦人矯風雑誌』を創 お のれ 刊 している。豊寿 自ら編集に腕を振い,論説や 自作 の賛美歌 を掲載 した。論説では 「自己 の おもい 志想」(創刊号),「自己の志想即 ち婦人 の志憩は男子 と異 なる説」(3号),「日本同胞諸兄に 望む」(2号, 4号)等があるO 女性 の自立 と積極的行動 の重要性や, 女性 自身 の意見を開 陳す る必要を主張 した もの,男尊女卑 の家庭 ・社会 の現状や,男性 の身勝手を指 摘 し た も の,夫婦間の 「財産 中分権」(財産 の半分を妻が所有す る権利)を要求 した ものな どである。 つづいて7月には,訳述 『婦人言論 の自由』を東京飯田町婦人矯風会か ら出版 している。 まだ旧態依然 とした明治社会 の制約 と偏見 に抗 して,婦人が男女 同等,一夫一婦,禁酒,磨 嫡 の必要 を公開演説 し,世間のメンタ リテ ィを変革 しようとすれば,周囲か ら非難攻撃を浴 び ることは必至であ った。 しか も攻撃 の先頭 に立つのは, しば しば キ リス ト教牧師 ・教師で あ った。そ こで豊寿 は,婦人に も言論 の自由が与 え られていることを聖書 の章句か ら説 明 さ れた,米国婦人禁酒会印刷会社発行ナシ ョナル ・リーフ レッ トを翻訳出版 し, 自分たちの行 動 の正当性を主張 したのであ った。 ところが この書物が一般 の目にふれ,上記 『東京婦人矯風雑誌』 4号が発行 された明治21
74 研究紀要 (第3号) 年7月,豊寿は矯風会書記 と編集委員の職を同時に退いている。開設 まもない修身職業英和 女学校 も,同年秋には廃校 となる。その背後 にどんな事情があ ったか,具体的には詳かでな い。 しか し学校については,豊寿が翌22年6月 8日発行の 『女学雑誌』165号に書いた 「0 ・ S ・C君 に答ふ(2)」の中で,「諸種 の障妨あ りて廃止するに至れ り,今尚遺憾に堪えざ る な り」 と,言 っている。上 に述べた牧師 ・教師の反対運動 も,矯風会幹部としての豊寿の位置 を危 うくしたであろ う。 しか し豊寿をその職か ら退かせた最大 の原因は,矯風会内部の人間 関係にあった と思われる。豊寿は後年,『時事新報』(明治32年 6月 7日)に寄せた記事 「女 す くな 子 に告 ぐ」の中で,当時 の事情にふれ, こう言 っている. 「攻撃 は外部 に砂 くして意外にも Lfうがい 同性の女子 よ り非常の反対 を受けた り」
,
「同性婦人に反対多 くして陰々密々に妨碍せ られた ひつきJ:うしつと るは何故なるを解 し得 ざるも畢 寛 嫉妬 よ り生 じたるなるべ し。」 婦人目標倶楽部の構想は,すでにこの頃か ら芽生えていたと考えて よいであろ う。その年 (21年)7月,豊寿は仙台 に帰省 し, しば らく松島で静養す る間に,植木枝盛著 F東洋之婦 女』の序文を書 いている。女子を男子 と同様 に敬重 し,同等 に教育 して天与 の才を磨かせ, 「社会 の光」 とならせてこそ,一国の文明は発達することを強調 したものである。植木 との 交流が始 まっていた。植木が この年1月高知県令に 「娼妓公許廃止」建議案を提出し,可決 させた ことを知 った東京婦人矯風会は, 2月,会頭矢島揖,書記佐 々城豊寿連名で植木に感 謝状を送 った。植木 も3月 9日付で返書をしたため, これを機縁に矯風会会員 と親交を結ん だ。中央の廃娼運動にも参加 して熱心な協力者 となったO殊に豊寿 とは書簡で, また植木上 京 の折 には互いに往来 して,次第に頻繁な交流が もたれた ことが,植木の日記に うかがわれ る。 徳富蘇峰 と豊寿の交友 も始 まっていた。蘇峰記念館には, この年の豊寿 の書簡が3通,盟 22年 のものは14通のこっている。豊寿が しば しば民友社 に蘇峰を訪ねた ことも, これ らの書 簡に よって知 られる。 『国民之友』を愛読 していた豊寿は蘇峰の崇拝者であった。 蘇蜂の言 論,政治活動には全面的に拍手を送 っていたO蘇峰 もまた,豊寿の洞察力,実行力に一 目置 いていた ようである。その相談には快 く応 じ,協力を惜 しまなか った。 婦人矯風会の枠か らはみ出し幹部を退いた豊寿の新 しい活動分野は, この二人に,かねて よ り豊寿 の支持者であった巌本善治を加えた三人の政治家,ジャーナ リス ト,教育者 との交 流 と協同において開かれてい く。 これが,初めに述べたア ッケルマ ン女史を迎える明治23年前後の時期にあたる.幼少か ら 「尋常には納 ま りそ うもない男のような器」 であった豊寿の力量が,存分に発揮 される時期 である。 (17) なお豊寿は,その新 しい局面を前に,21年晩秋,三男の進を出産 している。家庭 の内にも 外にも生命の躍動が感 じられたO豊寿は乳児を抱 き,上 の子 どもたちの養育にJLを配 りなが ら親 しい会員 と連絡をと り,来 るべ き年の仕事 に備えてい く。宇樺 :佐 々城豊寿 再考 75
3
明治22年 2月11日大 日本帝国憲法が発布 された。某富豪は,当 日酒樽を開いて市民に差 し 出そ うとした。また芸妓が異装 して天皇陛下を奉迎するとい う噂が立 った。豊寿はそれ らに (18) 極力反対 し,奔走 して,遂に中止にこぎ着けている。同月23日には 日本橋教会で婦人矯風会 (19) 演説会が催 され,豊寿 も演壇に登 ったo佐 々城豊寿の新局面が これ らの活動 の上 に 開 か れ る。 まず新島裏の同志社建設募金運動に協力した。新島を恩師 とす る蘇峰か らの要請 もあ り, あ た り いやし 豊寿は, まだ産後の肥立ちも良 くない1月頃か ら運動を始めている。「是 の時に当て布 く も うん えん か がん い たず あ 吾 々同胞 の姉妹たるもの雲煩過限 徒 らに之を看過せば豊に吾 々姉妹が世に処す るの一 大 義 務に欠 く所 なか らんや 教育は文明の神髄な り 一国教育の事業は独 り男子専有の事業 にあ (20) らざるな り」 といった広告文を掲げ,蘇峰 の添削を得て印刷 した主意書を配 り, 3月14日か ら3日間,木挽町厚生館で「音楽慈善会」を催 した.発起人佐 々城豊寿,潮田千世のほか,質 成人 として湯浅初,徳富静,伊勢玉,工藤 さの,相良龍,本多孝,小野寺千賀,元良米,小 崎千代の9人が立 っている。(婦人自標倶楽部はこれ らの姉妹の中か ら生 まれ る。) まだ誰 も 市民を相手に音楽会を開いたことがない時代であったが,豊寿は同志 と日夜奔走 し,成功を 収めた。純益103円22銭はさっそ く新島に寄送 され,新島か らは,社会事業 に経験の乏 しい 「婦人の手になる義援金」 とい うことで,特に感謝す る電報を送 って来た。豊寿は若いとき か ら新島裏を崇拝 していた.建設運動に示 された彼の熱意は女子教育に対す る豊寿 の使命感 を よ り強 くした。女子が男子 と対等で社会を改良し発展 させてい くためには,まず 自ら一己 の人間 として目覚め,旧来の誤 った風習か ら自己を改革 しなければな らない。 これが豊寿の 持論であったO修身職業英和女学校がつぶ された痛み も生 ま生 ましい中で,豊寿は教育事業 への熱意を新たにしたoそれAL;4年後,女学校建設を 目的 とした北海道移住の形を とる。 それ よ り前,22年 2月,矢島会頭が交通事故で数か月の療養を要 し矯風会に辞表を提出し たため,会 の内部では後任選挙にそなえて主流派 と改革派 の動 きが活発にな った。主流派 は 浅井 さ くが主宰する 『東京婦人矯風雑誌』13号 (明治22年 4月20日)冒頭 に論説を掲げ,逮 ばるべ き新会頭は,いたず らに博学多才,活発果断,交際 ・演説の巧者であってはな らず, ひたす ら進歩を外面皮相に図る者であってもな らないとして,暗に豊寿を 攻 撃 す る。他方 『女学雑誌』156号 (明治22年 4月 6日)は,婦人矯風会が 「近来 しき りに-進歩の運動法に 付 き計画」 していることに賛成 し,実現を期待 している。 これは改革派の動 きを示す もので (21) あろ う。 4月13日には久 しぶ りに豊寿の家で議員会が開かれ,改正議案が討議 されている。 そのとき特別会員 として出席 した巌本善治は,同月20日,い よい よ開催の婦人矯風会総会席 上,求め られた演説で豊寿をそれ とな く支援す るO このように,一時は豊寿返 り咲 きの空気 も見 られ るが,け っきょく総会は会頭改選延期,副会頭改選を決議 した。 6月15日副会頭改 選の結果 は,浅井 さくの得票が最高で,豊寿は3位,主流派に敗れたのである。76 研究紀要 (第3号) しか し豊寿 は,それ よ り少 し前か ら数人 の矯風会員有志 と小 さな グループ を つ くって い た。上 に述べた音楽慈善会開催の同志,潮田千勢子(千世),工藤 さの,相良龍は確かにそのメ ソ/ミ-である.本多孝,元良米たちもそ うであ った と思われ る。 グル-プの動 きは副会頭改 選前後か ら活発 になった。後述す る「婦人自標倶楽部の性質を済べ て世上 の-疑問 に答ふ」の 中で豊寿が,運動を始 めたのは本年 3 ・4月,倶楽部組誠の相談にかか ったのは 6月 といっ ている。 この6月 9日,上京 中の植木か ら豊寿 に手紙が届 き,11日には豊寿が蘇峰 に招待状 を発送す る。13日潮田が植木 を訪問 し,15日夜 には植木,蘇峰,巌本ほか 1名が佐 々城家に招 かれて集 まる。倶楽部の正式な設立 には, これ ら3名 の男性 の力添 えがあ った と思われる。 『女学雑誌』時事欄 に「婦人目標倶楽部」設立が報道 されたのは,それか ら1週間後, 6月22日 であ った。同月18日に結婚 して巌本性 を名乗 った若松相子 も,やがて この グループに加わるO 「目標」 とは婦人矯風会のシンボル,ホ ワイ ト・リボ ンであ った。かつて豊寿は 『東京婦 人矯風雑誌』創刊号に,
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とい うrl
作 の賛美歌 を発表 し,
「ここあか ろのけがれ 身の垢を きよむ るものは なになるぞ われ らの胸の リボ ンこそ けがれ しるし を洗ふ 記章 なれ」
,
「リボ ンは神 の みはたなれ みはたか ざして われわれは 神 とわれ らに あたなせ る あ くまのい くさ はろば さん」 と,歌 っていた。目標倶楽部は この精神 の継続 ・発展にはかな らなか った。 倶楽部の設立者には,
「府下四十二番女学校 の人工藤佐野, 十三番女学校 の人相良能」が 立 っている。豊寿 と潮田は矯風会内部の波乱を避けて,初めは表面 に出なか った。 しか し批 判 は免れず,豊寿が弁明文を書 くことにな った。前 にふれた 「婦人自標倶楽部の性質を演べ て世上 の-疑問に答ふ」が これで,『女学雑誌』186号 (明治22年11月 9日)に発表 されてい る。弁 明の文 は初めに,日原倶楽部の設立はいたず らに私意を行 うためで も,矯風会か ら分 離す るためで もな く,時勢 のやむを得 ない成 り行 きであ った ことを強調 している。次 に,部 員は聖書の詩篇に うたわれている 「隅 の石」を精神的基礎 として生 きることを,宣言す る。 本稿 の冒頭 にのべた ように豊寿は,誤解や非難 を百 も承知 の上 で,同志 と心 を合わせて婦人 社会 の礎 になろ うとしたのである。倶楽部の運動 については,いちお う内規 として内事部, 外事部,風紀部,慈善部をお くが,
「規則に拘泥せず,規則の奴隷 とな らず,規則に束縛 され ず」
,
「時機 に よ り時勢 にしたがい
」,社会 ・国家の必要 に応 じて活動す る, としている。従来 の矯風会 の狭 い枠 をはず し,広 く社会,国際,道徳的諸問題 にわた って臨機応変の行動を展 開 したいと考 えていたのである。 しか しまた,天事人事 ことなき時は主婦業 に専念 し,子女 を教育 し,幸福なホ-ムをつ くりなが ら,部員の集 ま りをもって世事 を談 じ,学者 の講義を 聴 いて勉強す るであろ うとも言 っている。 この弁明文につづいて,
「婦人自標倶楽部規則」が,『女学雑誌』 187号 (明治22年11月16 日) に堂 々と発表 され る。全14条か ら成 るこの規則書 は,蘇峰が同年 7月27日,築地明石町 15番館で草稿 を豊寿か ら手渡 され,検討 を頼 まれた ものであ った。豊寿は さらに29日蘇峰 に 手紙 を送 り,重ねて規則書 に加筆 を願 っているQ 倶楽部の正式 な届け出が急がれ る一方 では,具体的 な活動の準備 も始 め られ た。 実 は,芋津 :佐々城豊寿 再考 77 蘇峰が豊寿か ら規則の草案を受け とったその夜,潮 田千勢 と佐 々城豊寿 を発起人 とす る 「男 (22) 女親友親睦会」 の会食が,同 じ15番館で催 されている。植木枝盛 も招待 され,出 席 し て い (23) る。豊寿はすでに東京婦人矯風会創立当初か ら,男子 の矯風会 と女子 のそれ とが 「車の両輪 (24) の如 くに」協 力す る必要 を述べていたO婦人 目標倶楽部が動 き出 してみ ると,男子 との協同 の必要性がなお さら痛感 された。男女親友親睦会 はその問題を懇談す るために企画 された も の と思われ る。 この企画は無駄 ではなか った。後述す る ように,翌23年1月,全 国の矯風諸 会 の同盟 を設ける計画が男女合同で始め られ る。 倶楽部の活動 を順次 あげ ると, まず22年 9月25日,部員総代の佐 々城豊寿 と潮 田千勢が改 進党の 「全 国有志懇談会」 に一書 を呈 した。翌26日東京 の料亭 に集 まって条約改正問題 を論 じようとす る政治家たちに,「酒問時事を談 じ酌妓杯盤を周旋す る」悪習 の撤廃 を訴 え た も のである。 条約改正問題 は,早 くか ら豊寿たちの一大関心事 であ った。上述の男女親友親睦会席上, (25) 豊寿は蘇峰 の条約改正論を聴 き,「蘇生の心持」が した と,後 日彼に書 き送 っている。その後, (26) 豊寿は政治家 の発言を注意深 く検討 して婦人自標倶楽部の見解を定め,蘇峰 に助言を請 い, 外務大臣青木周蔵 を介 して英 国 ヴ ィク トリア女皇に書状を捧呈 した。英 国 と対等 の条約締結 を願 うものであ った。翌23年1月18日,豊寿,潮 田,工藤,相良 ら総代四名が外務省官舎で 女皇の返書を拝受 している。 明治22年12月9日には,木挽町厚生館で婦人矯風会 と共催の廃娼演説会 を催 した。弁士 の 植木枝盛に演説を依頼す るのほ自標倶楽部 の仕事 であ った。その 日をは さみ前後3回,豊寿 (27) または潮田が植木の宿に足を運 んでいる。 豊寿が倶楽部を代表す るこの年最後の行動 は,上京中の新島裏 との面談 であ った。早 くか (28) ら蘇峰 に紹介を願 い,12月23日鍛冶町茂林館 で これが実現 した。新 島は,女権拡張 のため女 学生の教育に力を入れ るよう豊寿に懇請 している。 また, キ リス トの十字架を仰 ぎ, どんな 非難攻撃にも耐 え
,
「世 の改良者」 として献身す る よう激励 してい る。 豊寿は2
日後, 潮 田 を同伴 して再度新島を訪問 し,記念に新島の写真を贈 られた。婦人 白襟倶楽部のために, 普 ことに力強いメ ッセージであ った.(新島はその-か月後, 1月30日病穀す る。) 明けて23年,遊廓取締規則編成 の相談が当局 で始め られた ことを知 った豊寿たちは, きっ そ く警視総監田中光願 に歎願書 を提出した。 これが当局者 に少なか らぬ影響 を与 えた とい う (29) 話 を,後 に潮 田が聞いている。 1月25日東京 で催 された基督教青年親睦会では,婦人 自標倶楽部の部員たちが 自ら心 を こ めて作 った弁当を配 り, 青年たちを感激 させた。 大和郡之助が 『女学雑誌』199号 (明治23 年2月8日)に,「近頃余を して奮励せ しめたるもの」 の一つ として これを公表 している。 また同誌 「女報」欄は,その ころ大儀見元一郎,津 田仙,佐 々城豊寿,潮 田ちせ,石見艮 三郎,廃嫡壮年義会員お よび厳木善治 らの発起 で,矯風諸会 の同盟を設ける計画が始 まった ことを伝 えている。男女が 「串の両輪の如 くに」協 力す る日を期 した豊寿 の働 きが,い よい よ実 ろ うとしていた。研究紀要 (第3号) ち ょうどその とき, 日本のキ リス ト教社会は遠来 の客を迎える。 4 世界基督教婦人禁酒会本部か ら派遣 された第二 の遊説員ア ッケルマ ン女史が,明治23年2 月22日, フランス船 メルボル ン号で横浜に着いた。翌23日, さっそ く婦人目標倶楽部が新橋 (30) 停車場 に馬車一両を雇 い迎接す る。24日には,女学雑誌社が横浜第82番水夫伝道会館 に社員 (31) を派遣 して女史にインタビュ-させ,東京婦人矯風会か らも同 日,小島キ ヨ子 と巌本か しを 横浜 に送 り,ア ッケルマ ンを手厚 くもてなす。26日には,新会頭 の浅井 さ く子はか会員若干 (32) 名が女史を新橋に迎えて木挽町の精養軒で歓迎会 を催 し,会 員18名 と婦人自標倶楽部員 2-(33) 3名が これに出席 している。 こ うして,い よい よ3月 1日,木挽町厚生館で東京 婦 人 矯 風 (34) 会 ・婦人白標倶楽部共催のア ッケルマ ン演説会が開かれた。 『女学雑誌』203号 (明治23年 3月 8日)に よれば, この後 ア ッケルマ ン女史については, 3月10日新薬町 の会堂 で聖書講義 と祈祷会,11日九段 の明治女学校 と数寄尾橋教 会 で 演 説 会 ,12日午前会員写影,午後大学講義室で演説会等の 日程が組 まれている。本稿 の初 めに掲 げ た古 い写真 は, この明治23年 3月12日の記念撮影 であろ う。 ともすれば婦人 白襟倶楽部結 成 をめ ぐって矯風会幹部 と不穏 な関係にあ った豊寿たちが,ア ッケルマ ン来 日を機会 に幹部 と肩を並べて行動 し,一枚の写真 に収 まったのであ ったO 女史はその後 も連 日,東京各地 の教会や学校 で演説 し,20日夜は厚生館で催 された来会者 (35) 240名 の盛大 な送別会に出ている。 この 日,婦人自標倶楽部か らほ記念に 「日本古貨弊」が贈 (36) られた。翌21日東京 出発 に際 しては,70余名の会員が新橋ステーシ ョンに見送 り,別離を惜 (37) しんでいる。それか らア ッケルマ ン女史は,伊豆,静 岡,浜松,さらには京都,神戸 を遊説 し, 4月中旬に船 でサ イアムに向か う。女史の 日本滞在 中,その熱意 と雄弁が多数 の聴衆を動か (38) し,東京府だけで 500人以上 の男性が禁酒運動 に参加 した とい う。『女学雑誌』 203号 社 説 は女史 に,「熱心火の如 く,好気水の如 く,胆勇金鉄の如 し」 と賛辞を送 った。 また,「世人 ナポ レオ ン, コロン/ミス等 の事業を大 な りとして,今 これ よ りも大 いなる事業 の眼前に横た しか は るを知 らず,而 して此 の最大なる事業 の実は婦人の手に よ りて成れ ることを知 らず」 と述 べ て,その英雄的な献身 と,その成果を費えた。 す でに述べた ように,東京 ではそれ よ り前2月初旬か ら,大儀見元一郎,津田仙をは じめ 巌本,豊寿,潮田 ら廃娼運動関係者が矯風諸会 の同盟を図 っていたOそ こに強力なアニメー ター, ア ッケルマ ン女史が渡来 したのであ った。豊寿が蘇峰 に書 き送 った3月11日付 の手紙 を読む と,当時豊寿は 「-か月中の半月は病床」 にあった上 に,家事手伝 い不在のため 「目 (39) 々十一人の炊事」 に追われている。ア ッケルマ ンの接待 も潮田が担 当 した。 しか し3月12日 の記念撮影にお さまった豊寿が, ア ッケルマ ンの演説 に,会合に出席 しないはず.が な か っ た。以下にみ る豊寿の精力的な仕事は, この 「熟心火の如 く,胆勇金鉄の如 き」 ア ッケルマ ン女史に刺戟 され,力を得て実現 した ものが多い と思われ る。
宇律 :佐 々城豊寿 再考 79 廃嫡運動 の発祥地,群馬県では,その ころ県下28の青年団体を擁す る上毛青年連合会が, 東京 の島田三郎,厳木善 治,婦人矯風会,婦人自標倶楽部,それに植木枝盛 らの支援 を受け て強力な廃娼運動を進 めていた。 ア ッケルマ ン離京 の翌 日 (3月21日), この支持者を前橋 に迎え,盛大な第三回春季会を開いている。豊寿 も病を押 して潮 田と駆 けつけたが,同夜 の 演説会で演壇 に立つ ことは, さすがにで きなか った。 「白襟倶楽部員佐 々城豊寿子は病気の わずか 為め僅に衆 に紹介せ し迄」 と,『女学雑誌』206号が報告 している。 しか し1週間後発足 した 「東京禁酒会」では,豊寿 も男子運動家に交 じって活 躍 し て い る。上述の ように,ア ッケルマ ン訪 日の結果,東京だけで も500名を超える男子賛同者を得 た。そ こで,- ワイに禁酒会を設立 した安藤太郎の帰朝を機会に, まず男子 の禁酒会が東京 に組識 され ることにな り,豊寿 も協 力したのであった。 潮 田が回想 して,「同夫人が この際 (40) における関係 また決 して浅か らず」 と言 っている。発会式は3月29日,築地明石町美以美教 会 で行われた。 この とき男子 の書記や会計 のほか,女子部 の通信員 として潮 田が,書記 とし (41) て豊寿が選ばれている。なお, この 日を予告す る 『東京 日日新聞』(明治23年3月26日)は, 記事のタイ トルを 「大 日本禁酒会- 創立の準備- 」とし,「東京 に於 て大 日本禁酒会 なる 一大会を創立せんとす る相談 もまとま りLを以て,来 る廿九 日--・」 と述べ ている。東京禁 酒会は近 く結成 される全国組識 に備 えて設け られた ものだ ったのである。 次いで4月18日,神田錦町21番地佐 々城豊寿の自宅で 「日本矯 風同盟会」 なるものが開か れ ている。上毛青年連合会,北総禁酒会,北海禁酒会,廃嫡壮年義会,東京禁酒会,少年克 己軍か ら各 々1- 2名の代表者が集 ま り,婦人自標倶楽部か らは豊寿 のほか潮田千勢子,巌 本か し,志村貞が出席 した。 これ も全国組織への一段階 とみて よいであろ う。北海禁酒会は 北海道の団体であ り,出席 したのはその創立者伊藤-隆であ った。上記安藤太郎 も個人 とし て,植木枝盛や佐 々城本支 と共 に参加 した。廃娼運動家 と禁酒運動家が一堂 に集め られ,名 称 も 「矯風」 とされ,所期の 目的 に.いっそ う近づけ られている。議事終 了後は盛大な懇親会 (42) が もたれ,畳寿 も演説 に加わ った。 .
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いて会則を定めた。近 く組織 され る 「日本廃娼同盟会」の年会のことも予告 している。そ こ (43) には婦人矯風会 ・婦人自標倶楽部の参加 も明記 されている。 以上 の過程を経 て,豊寿念願 の 「全国廃娼同盟会」が遂に結成 され る。 5月24日か ら28日 まで明治女学校 で第一年会が開かれた。各府県か ら集 まった多数 の代表者が東京 の諸団体 と 合流 し,全国各地 の団体 あるいは個人のメ ッセージも寄せ られた。婦人白標倶楽部か ら佐 々 城 豊寿が代表 して出席 した ことは, い うまで もない。 26-7日の厚生館 における 演 説 会 に は,植木枝盛 ・徳富蘇峰 も登壇 している。最終 日の懇親会では矢島棺,佐 々城豊寿,清水豊 (44) 子 たちが 「有益憤慨 なる演説」 に加わ った。男女各 々のグループが 「車の両輪の如 くに」協 同 して社会悪 に立 ち向かい, キ リス トの光を世 に もた らす, これが豊寿 の夢 であ った。その 第一歩が ここに踏み出されたのである。 懇親会に出た紫琴清水豊子は, この年1月 4日京都か ら婦人 目標 倶楽部に入会 し, 5月中80 研究紀要 (第 3号) 旬東京 に移 り,佐 々城家に寄留 していた。全国廃娼同盟会終了後6月か らほ,厳木 の女学雑 誌社 に入社 し,取材,執筆,編集のかたわ ら自標倶楽部の運動に参加 した。明治23年後半 の 豊寿は, この紫琴 と呼吸を合わせ,政 治的な活動 に力を入れ る。 そ の23年11月29日第一回帝国議会が開かれ る。政府は開幕を前 に, 7月25日 「集会及政社 法」を公布 し,第4条 と24条で女子 の政治運動を全面的 に禁止 した。 さらに10月,衆議院規 則案の165条においてほ婦人 の議会傍聴を禁止 した。 これに対 して同月20日,有志婦人21名 が連署 して質問書を立憲 自由党,改進党に提出 し,当該箇所を除去 され るよう懇請す る。佐 々城豊寿 と清水 とよ (紫琴) もそ こに名を連ねているo Lか し, 2人は別 のルー トで も奔走 した。 紫琴は 『女学雑誌』234号 (明治23年10月11日)附録 に 「泣いて愛す る姉妹に告 く、、」 と題す る一文を掲げ て読者 の意識を喚起 し,板垣退助を訪問 して同規則案撤回の賛同を求め (45) た。豊寿 も貴衆両院の有力議員を訪問 し,説得 に努めている。 したたかな運動は功を奏 し, 12月3日公布の衆議院規則には婦人 の傍聴を禁止す る規定が 削除 されていた。 「今 日貴衆両 じんすい 院 の傍聴席中婦人席を有す るは全 く同夫人 〔佐 々城豊寿〕 の尺樺 に拠 る者 とす」 と,後 に潮 (46) 田が回想す る。歓喜 した豊寿は,折 しも上京中の新島裏未亡人八重子 と国会傍聴 を計画 し, そのあ っ旋を板垣退助 に依頼 した。板垣か ら,豊寿の希望 日
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月17日)は難 しい と謝絶 の (47) 使 いが よこされ ると, また直 く、、徳富蘇峰に手紙 を送 って懇願 し,遂 に望みをかなえ られた。 『女学雑誌E:244号 (明治23年12月20日)「女報」欄が,「
[新島先生未亡人八重子氏〕去 る17 日佐 々木豊寿氏 と共に国会の傍聴 に赴かれた り」 と伝 えているO その他,明治23年 の記掛 このこされた婦人自標倶楽部 の動向を挙げれば,10月17日,全 国 (48) 廃娼同盟会東京 グル ープの大懇親会を京橋開化事 で開いている。 また11月14日には,銀座教 会 における婦人自標倶楽部例会に蘇峰 と植木 の演説会 を設け, 200名を越 える一般聴衆を迎 〔49) えている。 もう一つ,「私立女子授産場」 の設立がある。 くり返 し述べた ように, 2年前飯田町に創 立 した修身職業英和女学校は,「諸種 の障妨」 に よ り半年 で廃校 となった。 これを残念に思 う豊寿は翌年,婦人自標倶楽部を結成 した喜びの中で,再びこ うした施設 を設ける計画を潮 田 と始めていた。全国 レベルの男女廃娼運動 の組織化に力を入れ る傍 ら, 目前の不幸 な女性 たちの救援 に心 を砕 いていたのである。そのままに しておけば身売 りされ るであろ う極貧家 庭 の娘 の転落を, どう食 い上めるか,娼妓をやめる女のその後を どうす るか。その方策を講 じ, 自活の道を用意 しなければ, いかに廃娼を叫んで も彼女たちは数 えない。その具体策が 私立女子授産場 であ った。豊寿は大隅重信 ・青木周蔵 ほか朝野の紳士紺商の間を奔走 して協 (50) 力を願 い, よ うや く9月16日,麻布区市兵衛町 1丁 目15番地に開場 した。当分は刺 しゆ う, 絵画,彫刻,編物等 を教 えるが,追い追い規模 を拡張 し,できるだけ職業教育を完備 したい と考 えていた。無償で教え,三か月経 てば,練習に作 らせた物品に相応 の賃金を支給す ると (51) い う計画 も立 てた。だが,開設 当初は豊寿 らの思惑が外れ,途方 に くれた らしい。無 月謝 で 職 を教えるのだか ら喜 んで集 まるだろ うと思 っていたが,一向に来 るものがない。 12-3歳 で子守や家事手伝 いに出 され るような境遇に育 った娘た ちには,学 んで自活の道 を覚 えたい宇津 :佐々城藍寿 再考 81 (52) とい う考 えは全 くなか った。それで も豊寿 らの苦心 が実 り,翌24年 3月頃には,30名を越 え る生徒が横浜か らの注文 に応 じ,- ンカチーフの刺 しゅ うな どにいそ しむ ようにな った とい (53) う。翌25年 には7月15日か ら2日間, この授産場維持 と婦人実業奨励を 目的 とした第二回授 (54) 産場バザーが銀座会館 で開かれている。 この施設 は監督 こそ潮 田が担当 していたが,創立 の 主導者 は豊寿であ った。「設置を見 るに至 りた るは同夫人 〔豊寿〕の計画 と尽力 との結果 に外 (55) な らず」 と
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潮田が明 らかに述べている。に もかかわ らず,豊寿が明治26年4月北海道 に移 住 した後,27年慈愛館 として婦人矯風会 の事業 に吸収 されると, も う豊寿の働 き は 忘 れ ら れ,「潮 田の設立」 とされてしま う。 しか し豊寿は この施設 を最後 まで忘れない。 後に述べ るよ うに明治34年,慈愛館拡張資金を集める慈善音楽会 の準備 に奔走中,再起不能 の病 を得 てこの世 を去るのである。 明治23年 といえば信子は12歳 に達 している。真偽 のほ どは明 らかでないが,人力車 で学習 (56) 院初等科 に通 っていた とい う,当時の家事手伝 いの回想談がある。 しか し佑 は まだ7歳,愛 子は4歳,進は よ うや く2歳 にな ったばか りであ った。 この幼児たちを養 いなが ら豊寿は, 以上みた ように,男子 と肩を並べ て全国的な廃娼同盟結成 に,政治的な活動 に,極貧子女や 売春婦 の救済に,か らだを張 って生 きた。 日本 の女性解放運動 の先覚 として,天を衝 く意気 を示 していた。 ところが翌24年 になると,それ まで 『女学雑誌』に しば しば見 られた佐 々城豊寿 と婦人 自 標倶楽部に関す る報道が,次第に影をひそめる。筆者 の見落 しがあるか もしれないが,24年 には,上 に述べた私立女子授産場生徒30余名 の記事 のほか, 3月 5日 「婦人自標倶楽部総代 佐 々城豊寿 よ り,衆議院議員諸氏に忠告を贈」 った (議員の節操,議場 の秩序に関 して)記 (57) 録 と, 6月30日開催の明治女学校校資義援音楽会賛成員な らびに寄附人 として豊寿 も名を連 ねた記事が見 られ るだけである。25年にはほ とん ど見当た らない。従来 の ような活動が許 さ れない事情が生 じた と考 え られ る。豊寿が24年 1月頃懐妊 し,11月29日三女善意を出産 した とい う事実 も一つの理 由であろ うO外に向か う活動 は意 のままにな らなか ったに ち が い な い。 しか し, よ り大 きな原因がほかにあったであろ う。そ こには時代 の推移 とい うことが考 え られ る。 豊寿は初め, 自由民権時代にキ リス ト者 に よってひ らかれた人間個 人 の 尊 厳, 自由,辛 等,連帯 の気運 に乗 って東京婦人矯風会創立に加わ り,女性 自身の言論に よる女権拡張 と廃 娼の運動を展開 した。次 に,政府 の条約改正 ・国会開設 の動 きの中では婦人 目標倶楽部をお こし,国会や政党 に対す る進言, 政治家-の忠告寄, 政治的な運動 にも力を入れた。(こと ある毎 に豊寿に批判 の眼を向けた婦人矯風会幹部 さえ,明治23年頃は自標倶楽部に押 され, 規約 を改正 して政権部を置いている。)豊寿 はまた,男子 の団体 との連帯に も力を入れた。だ が同 じ頃, 日本 の社会 では, 帝国憲法発布 (22年 2月), 教育勅語発布 (23年10月) と続 く 中で,強力な国家主義教育にそ くした良妻賢母思想が打 ち出 されていた。女権拡張 の思想 と82 研究紀要 (第3号) 実践 は後退せざるをえな くな り,前衛 に立つ豊寿-の風当た りは強 くな った。婦人矯風会 は 前 よ り以上 に保守的な姿勢を と り,運動を退 く婦人 も少 な くなか った。当時を回想 した豊寿 の ことばがある。 ます ます た くま もと (従女 らは)益 々反対 を達 しうし,我国に於 て社界的に働 くほ婦人 の本趣 に悼 るとか くい おど 婦人の働 きは溝の中の杭 の如 く隠れた る所 に働 くを以て婦徳 とすな ど 軽薄男子の嚇 し文 句 に恐れ種 々の口実 を構-て再び旧巣 に帰 らむ とす るあ り (札幌 老農婦 「女子 に告く、、」,明治32年 6月 7日発行 『時事新報』所収) 孤立を深める中で豊寿は,運動の強力な支持者であった植木枝盛を失 った。明治25年1月 23日死去 した植木を惜 しむ手紙が,徳富蘇峰 に届いている。 植木君 の遠逝ほ百人 の政事家を喪ふ よ り惜 しく,特 に婦人社会 の為めには借むべ く,以後 は女権拡張の道を止めた る如 き感有之-・ -(明治25年 3月 3日付蘇峰宛豊寿書簡) 苦境 に立 った豊寿は,北海道での再起を図 るO開拓 に従事 しなが ら衰えた健康を回復 し, 新天地が緊急 に必要 とす る女子教育をお こし,そ こで女権拡張 の初志 を貫 こ うとしたのであ る。それは,亡 き新島裏の遺訓に直接応 える事業 で もあ った。新島を深 く尊敬す る豊寿は, 9歳 の佑を同志社幼年科で学ばせるため, この年10月京都 の新島公義 の家に預けることに し た。豊寿が佑 を送 り届けてまもな く幼 い進が病を得,11月 1日,そ の短 い命を終 えた。移住 の支度はこ うした悲 しみの うちにすすめ られ る。 同年 (明治25年)秩,米国婦人禁酒会か ら派遣 されて来 日した第三の遊説員 ウエス ト(M. A.W est)女史が, 12月 1日金沢で客死 したO女史の遺志に よって,婦人矯風会 の統一 と全 国的 な組織-の動 きがにわかに始 まる。豊寿 も規則の編成 に力を尽 くし, 自分が生み育てた 婦人 自標倶楽部を これに合併 させた。 こ うして26年4月3日第一回全国大会 を開いた 日本婦 人矯風会の成立を見届け,豊寿は3人 の娘 と老母をつれて北海道 に向か う。その年 4月28日 であ った。 だが, 運命は北海道 での再起を豊寿 に許 さなか った. 「佐 々城豊寿 の北海道移住再考」 に 述べた ように,足かけ8年 にわた る豊寿 の労苦 も空 しく,女子教育の志は遂に果たせなか っ た。 ようや く札幌 にささやかな家政学校 を設け る見通 しがついた とき,明治32年2月 「高等 女学校令」が公布 され,国家の教育政策 とは無縁 の豊寿 の企画は摘み とられ てしまったので ある。 しか も豊寿は, この札幌 の地で も多 くの誤解を受け,孤立 している。潮田は豊寿が北 (58) 海道 に婦人矯風会 の組織をつ くった と言 っているが,筆者の調べた ところではその事実 もな す こぶ さそ うである。豊寿 は 「失望落胆 自己を も疑い頗 る苦痛 に沈み居 り候」 と内村鑑三に書 き送 り,33年10月上旬東京 に引 き揚げた。
宇津 :佐 々城豊寿 再考 83 この年 内地 では,かね て豊寿 の唱導 した廃娼運動が にわかに好転 し,娼妓 の 自由廃業 が現実 化 していた。 これを 目撃 した豊寿 は,廃業娼妓 の救済 に最後 の力を振 りしぼ る。かつ て豊寿 の手塩 にかけた女子授産場 は既 に婦人矯風会 に吸収 され,新宿 の大久保百人町(大久保駅前) に移転 して,「慈愛館」 と称 していた。 豊寿 は この慈愛館拡張 のために奔走 し, 資金義援 の 「慈善音楽会」を実現 させ る。34年4月10日上野音楽学校 で開かれたその催 しを,『婦女新 聞』 あ い にく (明治34年4月15日)が短 く伝 えている。「生僧雨天 な りLに も関 らず非常 な る盛会 にて 橘 嬢 の ビヤノ,幸 田嬢 のバ イオ リン,青木嬢 の独唱等今更 な らね ど来会者を して魂天 に飛ぶ の思 あ らしめ きとぞ
。
」
しか し豊寿 自身は この盛況を見 て喜ぶ ことが で きなか ったであろ う。そ の前 日,夫本支が 脳溢血 で倒れ,13日に息を引 き取 ったか らである。 まもな く5月 8日,豊寿 も倒れ,劇性 胃 腸病 と診断 され る。浦島 ・北村両名医に よる手術 も,家族知友 の看護 もむ な しか ったO遂 に 豊寿 は明治34年 (1901)6月15日, 4人 の子女を遺 し,社会 と事業 を遺 して夫 の後を追 い, こ と ごと み 神 の もと-急 いだ。49才であった。「生死 は皆 これ神 の司 り給ふ ところに して, 悉 く深 き御 こ こ ろ あ か えり 心 の在 る事 とは信ずれ どもつ らつ らここに女史が一生 を顧 みて,英数難 を思 ひ苦心 を思 ひ, ゆ 之を忍び之に克 ちた る勇烈 を思 ひ,その志 と, お よび之を逐 く、・るに至 らず して 早 くも逝 け る ふさ (59) 心 とを思 ひ廻 らせば,何 とは知 らず胸塞が りて,ただ涙 の袖 に溢 るる ものあ り。」潮 田千勢子 は, こ う哀惜 した。 社会公共 のために尽 くした婦人たちの中で豊寿 ほ ど誤解 され,そ の働 きの真意 を見落 とさ れた人 は少 ないのではなかろ うか。 キ リス ト教 の指導者 さえ,「矯風,慈善,政 治,教育等, お よ とうとう 凡そ人 の 目に立つ ところには好 んで出で」,「巧み に文 を雑誌 に弄 し,滑 々と弁を集会 に振 る へ いげい ひ,四方 を碑況 して立 た んとす」,
「慈善矯風を餌食 として,己が名誉を釣 らん とす」 とい っ (60) た 員で,豊寿 を見 ていた。個性が強 く,時 には人を しのいで事を運ぶ気風 が反感を買 うこと もあ ったであろ う。 あ ま りに も時代を先取 りした思想が,行動が,人 々の危 く、、の念を駆 り立 てることも多か ったであろ う。 しか し豊寿 は,社会 の善 のためには どんな批判 も恐れず,ひ たむ きに実行 して生 きた。 周知 の通 り,豊寿 の長女信子は有島武郎 の小説 『或 る女 』のモデルに されて以来,そ の生 きた真実をゆがめ られ,そ の人柄 も全 く誤解 されて しまった。 しか し,信子 の まことの姿を 明白に した弟,佑 の昭和43年頃の文章が あ る。晩年 の20年間栃木県 の真岡でつつ まし く日曜 学校 を続 け,聖書を教 え,昭和24年 9月22日帰天 した姉信子 に語 りかけるように書かれてい る。子息佐 々城 開氏が大切に保存 され るが,そ の一部を ここに写 させていただ く。 姉 さんの一生 は人 に尽 くす とい う事を第一義 とな さいましたね.「借 金を してで も人 に 尽 くさなければ」 と, 口癖 の よ うに仰 しゃいましたね。そ して本当に人 に尽 くされ,そ して ご自分 で も一生重 い荷 を背負 ってお歩 き続 けな さい ましたね。 しみ じみ今 それ を 思 い ま す。研究紀要 (第3号) この文 章 を佐 々城 家 で読 ませ て いただ いた とき,筆者 の 目に は母 豊寿 の生 涯 がそ こに重 な って見 えて きた。豊寿 こそ,本稿 に見 た よ うに, ひたす ら 「人 に尽 くし」
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「尽 くす とい う事 を第 一 義 とした」女 性 だ ったか らで あ る。 しか し,婦 人矯 風会 の伝 承 に この豊寿 の影 は薄 い。豊寿 が尽 くした こ との多 くは,他 の主 要 な会 員 の功 労 に包 み こまれ て しま った。 日本基 督教婦 人矯 風会 は,現 在 も売 春 問題 をめ く小 って 目覚 ま しい働 きをつ づ け て い る。 そ の礎 とな り,歴 史 の陰 に埋 もれ た女 性 ,佐 々城 豊寿 こそ, ま こ とに 「隅 の石」 で あ った。 註 (1) 『東京婦人矯風雑誌』23号 (明治23t3 ・15)0 (2) 潮田千勢子 「佐 々城豊寿女史 (-)」(『婦女新聞』明治34・6 ・24)は,豊寿を星雄 記 の 「第六 女」 としている。 (3) 潮田文,同上。 (4)相馬黒光 『黙移』(女性時代社,昭和11)。 (5) 明治5年 (1872) 6月24日付宣教師ブラウン(S.R.Brown)書簡。(伊東信雄 「 伊東友賢小伝-プロテスタン ト受洗 した最初の東北人の伝記- 」 よりO) (6) 伊東文,同上。 (7) 明治5年8月22日付,太政官諜者関信太郎報告 (『大隈文書』早稲田大学図書館蔵). (8) 註 (6)に同 じ。 (9) 星家明治7年戸籍。(伊東,前掲文 より。) (10) 註 (6)に同 じ。 (ll)註 (4)に同 じ。 (12) 豊寿 と本文の恋愛結婚について,潮口は直言を避け, こう言っている。 「明治7年以来4年の歳 す こぷ けみ 月は,内に疾病あ り,外に生活の困難あ り,女史をして頗る悲哀の歴史を閲せしめ Lが,明治10年 佐 々戎本支氏 と結婚 して,ここに新 しき幸福の生涯は開かれ,明治13年を以て, 日本橋釘店に居を 定め, 3男3女を挙げた り。」(「佐々城豊寿女史 (二)」,『婦女新聞』明治34・7 ・1・所収)0 (13) 潮田 「佐 々城豊寿女史 (≡)」(『婦女新聞』明治34・7 ・18)0 (14) 佐々城佑が, コレラに感染 し死線をさまよった幼時の記憶を英文につづった。これは子息の開氏 のもとに遣されている。その末尾には,母豊寿の必死の看病の様子が記 されている。HAllIremembernow iswhatIwastold...thatitwasmother'scontinuouscare and attention for48hoursthatstopped therunningawayofmylife."
(15) 明治21年2月4日議員会 (『女学雑誌』99号,明治21・3 ・3)0 (16) 明治21年2月11日定期会 (同上)。 (17) 豊寿が3男の進を明治21年晩秋のころ出産 したと推測 される理由。 a 翌22年1月22日付蘇峰宛豊寿書簡に,「昨年中車中に居」 り