社会科における知識の評価(そのI) : 学習の転移と発展
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(2) 目. 次. 1序一課題の実践的意義2. 転移論とその問題点. 3. 転移をひきおこす内発力. 4. 発展という概念のもつ意義. なお,本研究は次の三部から成る予定である。 Ⅰ Ⅱ. Ⅲ. 序. 学習の転移と発展(本論文) 発展する知識の構造とその評価視点 発展する知識の評価. 課題の実践的意義. 戦後新教育の中核的教科として発足した社会科は度重なる学習指導要領の改訂を経て, その目標・方法・内容の各面においてすっかり変容した。その最大の変化は,いわゆる単 元学習と称して,子どもが経験を基盤にし,そこでとらえた問題を追究し解決していく過 程をその本質としていた学習から,あらかじめ設定された内容を,子どもの生活や経験を 生かしながら理解させていくいわゆる系統的学習に変ったということであろう。. 43年に. 改訂公布された新学習指導要領で,社会科の目標から「具体的な社会生活の経験を通じ て+という語句が削除されている一事をもってしても,その変質のいかに大きなものであ るかがうかがえるほずである。. 社会科がこのように変質してきた背景には,社会科を内に包むところの社会と教育の変 動があることは周知の通りである。しかし,今この小論をすすめるに当り,特に注目しな ければならないことは,次に述べるような,社会科を内部から崩壊に導いた要因である。 戦後の社会科教育の華やかな実践ほ,子どもと教師の教育-の回生を示していたが,そ の全国的規模における流布にもかかわらず,明治以降急激に成長したわが国の教育が持っ ていた体質になじむことができなかったという現象が,教師の教育観,子どもを持つ父母 の教育観や学校教育-の期待,教育行政などが,それぞれ結合し関係し合う側面で極めて シビアな形で題在化してきた。なかでもとりわけここで取り上げなければならないのは次 の二つの点である。 ①. 社会科教育の研究と実践において,評価の研究と実践が不毛であった。. ②. 社会科教育で教えるべき,また教えてきた知識というものがいかなるものであるか ということについての本質的な吟味がなされていなかった。. ①についていえば,華やかであった社会科教育の研究のなかで,評価を正面に据えた研 究がどれほどあったろうか1)。それほ研究の最後の段階のものであると言われては後に延 ・ばされ,とりかかってみても結果のあまり判然としない研究と考えられてきた。そのうち. に,わが国の教育の特殊性である学歴尊重と過激な受験競争という激流に押し流され,評 価をして,知識の有無の判定にむかわせてしまったのである。それが社会科教育を毒し,.
(3) 社会科における知識の評価(そのⅠ). 3. すべてのことにわたってまんべんなく学習し記憶していく網羅的で注入的な社会科教育を 現場にほびこらす結果になったのである。. この評価研究の不毛ほ,当然のことながら,教育というものについてあまり深く考える ことなく,ただ既定の計画に従うという教師のペースにのって自動的に進行する授業を生 み出すようになった。教えるという行為が教師と子どもとの教育的関係のなかで,はじめ て成立し得るほずであるのに,そのことについての厳しい吟味をすることなく,ただ一方. 的に教師が子どもに教えこむという形式が横行し,そこから必然的に教室の荒廃を招くこ とになったのである。 次に②についても若干考えてみよう。子どもたちに教えられ注入された知識は,テス. トの時に,そのままの形で正確に再生されることが最も望ましいことであった。測定のた 捌こ工夫されたはずの客観テストの普及はこの傾向に拍車をかけた。そして数量化された 評価結果が科学的であるという錯覚も作用して,せっかく問題がさまざまの角度から立体 的に評価しようと工夫されたものであっても,最後は単純に総和が求められ,無意味な平 均値や同一線上の位置関係を示す偏差値等に換算されて,子どもの持つ個性的な知的能力 とは無関係な評価と化したのである。したがって,社会科教育の実践ほ,一般的に,この ようなテスト結果の数量的向上が目的となって,教えるべき知識の質,ならびにそれが子 どもにどのように定着して,いかに働くかなどの観点が極めて弱いものとなってしまった。 知識についての評価ほ主としてペ-/く-テストによって行なわれてきたし,今でもそう. である。したがって,社会科教育の実践が前進するた捌こほどうしてもこの領域に研究と 指導の手がさしのべられなければならないほずである。最近において,ようやく評価に関 する注目すべき発言が見られるようになるとともに,その実践的研究,ペーパーテスト作. 成上の工夫,結果の解釈や利用などの処理方法の工夫などがすすめられるようになった2'. 一方,このようにペ-′く-テストの反省を研究的に進めず,ただいたずらに○×形式 ○ ×形式に替っ のテストは知識の評価には不都合が多いという程度の安易な反省から, て論文テストが望ましいという考えが生まれてきている。論文テストほ確かに○×形式. よりは子どもの知識について総合的に評価することができる。そこには,ある一つの要求 された問いに対する子どもの主体的な考え方がうかがわれることが多い。しかし,常にそ うだと言いきることができるであろうか。論文をもって答える場合,往々にして,一つの. まとまった知識をそのまま再生すればことが済むということが多いであろう。それほある 意味で体系化された知識であるかもしれない。したがって○×形式よりほ,はるかに問 われたことに対する主体的体系的知識を探ることができることほ間違いない。しかし,こ の論文テストほ問い方に工夫を加えない限り,それは単なる記憶の再生でしか過ぎなくな る。事物の真実に向って探究していく過程をとるのではなく,参考書などに述べられ整理 されている知識をそのままおおむ返しにすれば,それが個人の探究結果としての知識にな るという虚偽が可能なのである。それでは額廃した戦後の社会科ならびに社会科教育を本 来の姿に復元する手だてを提供する評価とはなり得ない。 子どもたちが身につけた知識の評価ほ,それが新しい事態に直面して再生し得るもので.
(4) あるか否かを見つめなければならない。再生し得るものでなければ,その知識は働きよう がないからである。しかし,その再生というのは教えた通りにおおむ返しにするというこ とではない。新しい事態についての情報の収集からその本質の究明ならびに解決に至るま でのさまざまの過程で,既成の知識ほその体系との関係を保持しながら再生され,新しい 事態の究明から得られた知識を吸収していく。既成の知識の体系をもってしては処理しき れない全く新しい事態あるいほ知識については,体系そのものを変えて対処していかなけ ればならない。このように,新しい知識獲得の場ほ,過去の関連ある知識が総動員され, 成長する場でもあるので,知識の本質が最も赤裸々に現われるほずである。したがって, 知識の評価はこのような知識獲得の場に即してなされなければならないし,動き成長する 知識をそのままとらえることが最も望ましいことになる。過去の多くの実践ほ,評価に際 してこのような基本的な態度を欠いていたのみならず,日常の授業む羊おいても生かすこと ができなかった。ここに戦後の社会科教育の理想がついに実現できずに変質を迫られてき た最も重要な原因があるということができる。. このような問題状況が社会科教育に最も端的に現われ,社会科教育を毒している時に, 教育実践の場に導入されたのが学習の転移に関する理論であった。 転移という概念ほ厳密にいって心理学用語か教育学用語かつまびらかでほないが,アメ リカでは心理学者によって多くの実験がなされ,わが国には of. Brunerの"The. Process. Education”以後特に人口に胎灸した概念であることほまちがいないであろう。転移. 概念がこのように脚光を浴びたのは,わが国の教育実践が,上で述べたような問題状況に 至り,社会問題にまで広がり,教材過多の重圧に教師も子どもも悲鳴をあげ始めていたた めに,能力を重視し教材を精選しなければならないことを万人が認めるようになっていた からであろう。転移を認め,それを期待しない限り教育は存在しないとよく言われるが, その至極当然のことが大きくクローズアップされるのには,それだけの根拠があったわけ である。 子どもが獲得した知識をいかに評価すべきかというわたしの問題意識からいえば,まず. この転移論の吟味から考察を進めるのが妥当のように思われる。 さらに本論は,実証的な研究に入る前に当然なすべき論理的な追究に当るものであって, ここに提示される諸見解は未だ仮説の域を出ないものであることをあらかじめおことわり しなければならない。 2. 転移論とその問題点. 転移とは一般に先行学習が後に続く学習にプラスまたほマイナスの効果を及ぼすことと 考えられる。また転移理象に心理学者が関心を持ったのはかなり古いことであり,教育学 のなかでは形式陶冶と実質陶冶との論争としてはっきりした痕跡をとどめている。 転移に関する心理学的実験研究は,形式陶冶の可敵性やそのための条件を明らかにする ためになされたもので,その結論としてほ形式陶冶の効果ほある種の条件が満たされる時 にのみみられるものだということであった。.
(5) 5. 社会科における知識の評廊(そのⅠ) E.L.やWoodworth. この間にTborndike. と. わゆる共通要素説ほ,課題A. R.S.によって提示された転移に関するい. 課題Bとの問に共通要素が多ければ多いほどプラスの. 転移が生じやすいという主張であった。このことは,同じ語学の学習において,日本語の 学習は英語の学習に転移しにくいのに対し,同じラテン系言語である英語とドイツ語の問 でほかなりの転移効果の認められるのがわれわれの経験からいっても明らかなように,確 かに認めることができる。. その後の彼等の研究は,連合主義心理学の原則に従った形で,次第に課題としての刺激 とそれに対する反応が学習者のなかでどのように結合しているかという方向に進み,結局 課題における高い共通性と,課題が要求する解答の仕方の高い共通性とが転移の条件であ るというように分析されていったのである3)0 この共通要素説のいう共通性がいかなるものであるかの検討には,これとほ対立してい たといわれるJudd Juddは小学校5,. C.Ⅲ.等の一般化説をみる必要がある4)0 6年の児童に,水中の標的を矢で射る課題を与え,実験群にほ水中. における光の屈折についての原理的学習をさせ統制群にほそれをさせなかった。この結果 水中にある標的の深さを変えた場合,実験群にほ確かにプラスの効果を認めることができ たのである。このような実験を通してJuddほ転移が効果的に行なわれるためにほ原理的 な理解が必要であることを主張した。すなわち,先行学習において課題における法則や原理. を学習者自ら抽象化することができることが,転移を生じる条件であるという理論である。 さて,この転移における一般化説は,両課題の共通性を,両課題の関係を一義的に確定 する一般性に求めたものであって,これほまたソビエト心理学をリードするPybliHⅢTeiiH, C.JT., MeHtIⅢHCIくa只, H.. A.の思考学習心理学に述べられている転移論に近いものである.. とりわけNlelltIFIHCIくa兄ほ,同じ一般化といわれるものの中にも,経験的一般化と理論的一. 般化とがあり,経験的一般化の場合にほマイナスの転移が成立することが多いことを指摘 している。理論的一般化とは,課題を分析総合して得られる本質のもつ類似性,共通性を とらえてほじめてできることなのである5)0 この一般化についての考えほ,ゲシュタルト心理学の主張する移調(transposition)に 極めて似たものになっている。 移調ほゲシュタルト心理学にとってほ極めて重要な概念である。すなわも,ある課題の. 構造を規定している内的関係をとらえれば,それが類似の構造をもつものの理解に働くと いうことであって,この移調可能性ほゲシュタルトの本質なのである。. Wertbeimer,. ほ音楽的把握において問題がいきいきと感ぜられるからといって,メロディーの例をあげ てゲシュタルトの構造と移調を説明しているが,そこで,構造のもつ美までもが移調の可 能性を左右していることを次のように指摘している。 「かくて,. (構造がうまく移調するか否かの)現実の問題は断片的等しさの問題から遠ざか. って,ある全体における位置,役割及び機能の問題にさえ制限されず,所定の構造的要求 に適合しているか適合していないかということに関係してくる6)0. +. 以上みてきた一般化あるいほ内的関係にもとづく構造が転移を成立せしめるという考え. M..
(6) と疑似の考え方が,最近では周知のようにBruner,. J・S・の". TheProcessofEducation”. に端的に述べられている。 Brunerほその序論において,最近20年間の学習と転移の性格に関する研究によると, 「適切な学習によって大量の一般的転移が得られるのほまさしく事実であって,最適の条 件のもとで適切に学習するならば"学習のしかたを学習”するようにさえなる7'+と述べ,. matterの構造 この一般的転移を成立せしめる条件のうちで,最も必要なものがsubject を習得するか否かにかかっているということを指摘している。しかも,このsubjectmatterの構造は,察するところ基礎的,一般的観念とそうでないものを関係的におさえたも のと受け取れるので,その限りにおいて,さきにあげた共通要素説を吸収した形での転移 に関する一般化説,ならびに内的関係に構造を見出すゲシュタルトLi理学とほぼ同じ,あ るいはそれに近い立場と考えることができるoさらに,ここでつ朋口えておきたいことは,. Brunerが教科の構造を要約して,. 「教科の構造を把握するということは,その構造とほか. の多くのことがらとが意味深い関係をもちうるような方法で,教科の構造を理解すること である。簡単にいえば,構造を学習するということは,どのようにものごとが関連してい るかを学習することである8'。. +といっていることであるo彼ほ構造を考える時に,すで. に学習との関連に留意していることがこれらの表現からうかがえるのであるo このBrunerによってアメリカ心理学の転移研究が集約されるころ,他方では各専門科. 学者の協力を得たさまざまの新カリキュラムが教育現代化のスローガンのもとに族生する のであるが,それ等がいずれも科学によって明らかにされた構造を基本にすえて編成され ているのは周知の通りである。また,そのカリキュラムのなかには,例えば実験などを重. 視するというような構造の原理を明らかにするための探究の方法に精力を注いでいるのも あることは注目すべきであろう。. これほ,教材の構造化というものが,単なる知識の体系化とは異なることを示しているo 単なる体系以上に,学習指導方法上の工夫と組み合わされなければ,構造化によってねら う目標が達成できないことの例証である。 このことほ,先に述べたように構造の解説のなかで,すでに学習という観点をのぞかせ ていたBrunerが,構造の重要性を論じた第2章で発見的学習を提起していることと結び つくわけである。 「老,る分野で基本的諸観念を習得するということは,ただ一般的原理を把握するという. だけではなく,学習と研究のための態度,推量と予測を育ててゆく態度,自分自身で問題 + 「そのような態度を教育 を解決する可能性にむかう態度などを発達させることも含む。 +まだたくさん するためにほ,たんに基本的観念を提示する以上のなにかが必要であるo の研究を必要とするが, 「重要な要素は,発見にともなって生じる興奮の感覚であるよう に思われる9,。 +このように興奮の感覚をもって発見されていくものが,一般的転移を成. 立させるた捌こ必要な基本的観念すなわち諸事象の間にある関係づけの諸原理,諸法則で あり,これが学習の連続性をも保証するものなのである10'。. 以上概観してきたような心理学の最近の研究成果を受けて,これを教育課程や指導方法.
(7) 7. 社会科における知識の評価(そのI) に適用していこうとするのほ,. Brunerの構造化・発見学習だけでほない。それほ確かに Brunerがいなくても,. わが国の教育学ならびに教育実践に多大の影響を与えてはいるが, また"The. Process. of. Educrtion”がなくても,教育課程の新しい編成と学習指導方法. 改善の努力ほなされたほずである。 ここでは駒林邦男氏のアルゴリズム教授という指導方法が,先の・L、理学における転移の一 迫究とどのような関連を持つものか若干触れておきたい。. 駒林氏が転移について特に注意しているのは州efltlkIHCI(a只などが指摘するマイナスの 転移を学習から完全に排除することである。例えば,比の第一用法の公式を教えたあとで,. 練習問題として, を与えると,. 「もとにする量+がつねに「割合にあたる量+よりも大きい問題ばかり. 「もとにする量+が大きい方であるという経験的-般化が形成され,これが. マイナスの転移をひきおこすことになるという。そこで,このマイナスの転移を防ぎ,つ ねに理論的一般化を形成するように,教材配置の順次性(したがってまた学習の順次性) Brunerが指摘するごとく,は を工夫しなければならないということになる。すなわち, じめに一般的観念の学習が,次にその特殊な事例が学習されるように教材配置の順次性を 考える必要があり,それによって,また転移の射程をいちじるしくのばすこともできると いうのである。. 一方,この転移は教材の順次性のみの吟味でほ不可能で,当然,知識の転移を実際に保 証する思考方法そのものを訓練しなければならないことも指摘している。この訓練が分析 -総合の思考活動ということになる。 「分析-総合の思考活動が先行の問題や教材に十分にくわえられていないときに,その 問題や教材と同額のものがあたえられたとしても,これらのものの一般化は生ぜず,した. がって,転移は行なわれないのである。ここから,子どもによる分析-総合の思考方法の 獲得ということが,転移を保証する必須の条件としてあらわれてくることになる11'。. +. この分析一級合の操作が系統的に具案化されたものがアルゴリズム教授理論である。し たがって駒林氏も指摘するごとく,発見学習とアルゴリズム教授とは,ほぼ同じところを 志向しているところになる。この頬似性ほ,当然相互に鋭く批判することにもなり,かつ て,この両者の関係を論ずることを特集した釆誌において,駒林氏が発見学習に次のよう な期待を寄せたことがある。 発見学習の実証的研究を検討すると, 「ヒュウリスティックス(heuristics)の専門的な 教授-学習ほ研究者の問題関心の射程内にほいっておらず,. 『発見のしかた』はほとんど. 学習者自身の『発見』にまかせられているといっても言いすぎでない12'。 気づく。ここで,. beuristics. というのは,. +ということに. 「発見的活動のいくつかの規則のことであり,. 発見的活動を行なうのに必要な,ある指令書(または,諸指図)13'+のことである。要す るに「発見のしかた+のことである。したがって,発見学習がより効果的であるためには, "発見”という操作や過程の体系をもっと教授し beuristicsを教授すること,すなわち, なければならないということになる。. 以上みてきたように,アルゴリズムの立場からいえば,本質的一般化を可能にするため.
(8) には,教材配列の順次性と,. beuristicsの教授という二つの条件が整備されなければなら. ないことになる。. こうして発見的過程とアルゴリズム的過程とは,それぞれ異なる本質的属性を保持しな がらプログラム学習として統一される可能性もあると考えられる。このようなことが実現 するとすれば,教育の機械化への前進を約束することになるであろう。 しかし,このような教育のプログラム化およびそのための理論の進歩は確実なものなの であろうか。わたしにほ以上考察してきた転移の概念を中核にした学習理論にも,大きな 陥穿があるように思えるのである。たしかに,現在見られるような,いろいろな意味で混 乱した教育状況のなかで,. Bruner等の理論はかなりの救済的機能を果す可能性ほあろう。. いや,全教育活動のなかにほ,それによって一段と高揚する領域もあるはずである。しか し,それほ決して全能ではあり得ない。とりわけ,今わたしが直接対象としてとりあげよ. うとする社会科教育の観点からみると,いくつかの重要な問題点を指摘しなければならな いことになる。以下,そのうちの主要な問題点をあげ,わたしの小論の前進をほかりたい と思う。 問題点の第一ほ,以上みてきた発見的学習やアルゴリズム教授を生み出す学習理論に適. 用されている転移理論によれば,先行学習で習得した学習内容を,次の学習に転移させる ことの可能性を重要視しているが,転移させる主体のエネルギーが殆ど問題にされていな いということである。 Bruner. によれば,先に引用したごとく,ある分野で基本的観念を習得するということ が,学習・研究,換量・予測,自分自身で問題解決する可能性にむかう等の態度などを発 達させるといい,その根拠を,発見に伴って生ずる興奮の感覚に求めている。したがって 基本的観念を発見する喜びが学習の連続性を保証する転移を生み出すようになり,それに よって学習の連続が具体化すると考えているようである。もちろん,この場合,わたしの. 使っている連続という概念は,教材の配列が順次性をふんでいることによって生ずる学習 の連続をいっているのではない。それほ,子どもが自分自身で連続的な学習をしていると. 意識することであり,また,子どもの課題に対する学習が追究として成立しているという ことである。したがって,それほ,教師の用意した教材の配列が,必ずしも教師の立場か. らの順次性に即していなくても成立し得るものである14)0 Brunerのいう連続は,転移していくことであり,それが必ずしもわたしのいう連続に ほならない。このことがわたしの第一の疑問になるわけである。連続がどうしても子ども. に生きた形で実現するた捌こほ,子どもの学習のなかに,吹-の転移の可能性を高める基 本的観念についての明瞭な理解が生じるだけでなく,次には何を学習すべきか,どの方向 へ学習を発展させるベきかなどということを探り出し,かつ行動する必然性がなくてほな. らないoそこに,次の学習を生み出すエネルギ-が潜んでいるはずである。 Brunerの構造論と発見的学習の提唱がそこまで考えたものでないことは, cess. of. "The. Pro-. Education”の第5章の位置づけを考えてもわかることである。. 第5章は「学習意欲とそれを刺激するしかたに関連+したテーマであり,. 「理想的に.
(9) 社会科における知識の評価(そのI) ほ,. tl. --学習する教材そのものに興味をもつことこそ学習に対するもっともよい刺激で. ある15,0 +と述べているが,結局学習それ自体に対する興味を刺激できる条件として,ウ. ッヅ.ーホールで論議されたという教員養成,試験その他多様なことがらをあげているoこ ぅして結論的にほ,アメリカ社会にもすでにメリットクラシーと新しい形の競争主義の危 険信号が出されていることを指摘しながら,学習のための動機づ桝ま学習者の主体性を尊 重し,学習することそれ自体に対する興味を基盤にして,幅広い多様な工夫をすべきであ ることを強調している16)0 このように, Brunerほ教材そのものに興味をもつことこそもっとも望ましいといいな がら,ここでほその十分な分析を行なわず外的事項の考察に移っているのであるoしたが って,教科の構造・発見的方法や多様な動橡づけの工夫などが,当面の問題に答える形で ・Tbe. Process. of. Education”で述べられているはずであるが,どれをとってみても,. 転移させる主体のエネルギ-をまともに正面にすえたものでほない。そこで,わたしほこ のエネルギーを子どもの内側から成長してくるものと考え,内発力として次章で論及して みたいと思うのである。. 第二の疑問は次のことである.転移論は疑似の構造をもった学習内容,すなわち同一の 基本的観念で推理し判断することの可能な学習内容に対してほ,確かに有効であるように 思う。しかし,子どもが学習するもののすべてが,このように類似の構造をもったもので はない。とりわVj・,今わたしが問題にしている社会科においては,基本的観念そのものが 極めて多様であり,ときにほ分裂的でさえある。それほ社会科教育がすぐれて価値的問題 であること,社会現象が極めて複雑であり,単一の理論でほわり切れないことにかかわる。 したがって当然のことながら,転移もかなり複雑な構造をもって考えられなければならな いであろう.すなわち,学習の転移を疑似構造の範囲内で考えるのではなく,むしろ他の 構造をもつ教材-の転移を包含したところの柔軟で創造的な過程としてとらえなければな らないはずである。. 広岡亮蔵氏とともに,長期にわたって発見学習の実証的研究をしてきている水越氏ほこ のことについて次のように述べている。 「特定のクラス(類)の枠を越えて,異なったクラスの間に新たなる結びつきを選択する 能力を培うこと,ここにより大きなねらいをおいている。すなわち,塑にとらわれない柔 軟な思考九. ユニ-クな想像九所与の情報の範囲や次元を越えての構想力,自分のおか れた状況の中に,何らかの規則性を見出そうとする身構え--こうした創造的な態度能力 の芽(Pre・creativity)杏,たえず期待値にもち,またそこ-の連続のル-トを求めている のである17)0 +. たしかに,発見学習が真に発見的であるためには,異なったクラスの課題の学習に転移 する能力が問題なのであって,そこに,学習者が習得した能力をみずから転移させるエネ ルギ-の座があるように思われる.. この問題については,アルゴリムズ研究者の側からも接近する努力がなされている。学 「真なる発 習心理学者として知られるLanda,L.N.は次のような重要な指摘をしている。.
(10) 10. 山. 田. 勉. 見法ほ,それが向けられている系のなんらかの自主性を前提としており,不確定性をふく んでいる指示を遂行する過程において固有な積極性と自己構成とにたいする能力を前提と しているものである18'。. +そして,このような自主性や自己構成を生み出すた捌こほ次の. ような条件が仮定されるという。. 1)知的能動性と自己構成との内的源泉であるところの一定のモティヴェ-プヨy 2)知識の一定の組織化と特性 3)知的行為(操作)と実験的行為(操作)の一定の組織化と特質 4)全体として神経心理的活動の二,三の類型的な特質 転移をひきおこサニネルギーの所在をつきとめようとする当面の問題意識からすれば,. 1)の内的源泉に注目したいのであるが, にかかわるものだといい,. Landaほ,これほ教授様式と全体としての教育. 「認識的な関心と,知的努力に対する習慣の形成を促すものの. すべてである+19'という。また2)の組織化は,当面の第二の疑問に直挨関係あるもので あるが,ここで,. Landaは,発見的活動の成功ほ探究が生ずる領域の知識の組織化にか. かわり,その効果を高めるた捌こは「知識の体系化の原則が多様であればあるほど,また, あれこれの知識が多様な系に組み入れられれば入れられるほど+20'よいという。このこと. ほ,わたしの研究のテーマに直接かかわるものでもあるので,後の知識の構造を考察する ところで問題にしたいと思う。 いずれにしても,発見学習においては,もっと深く転移の構造を明らかにしていかなけ. ればならないであろう。とりわ机他の質の内容-の転移がどのような構造をもち,それ が構想力や想像力などとどう結合するかも明らかにされていかなければならないはずであ る。このような羊とが明らかになったときにほじめて主体性をもつ学習の連続性が保証さ れることになるであろう。. 第三の疑問ほ社会科のもつ固有の特質が,転移に対してどんな制約を与え,また,いか なる特殊性を賦与するかということである。今まで考察してきた学習理論,教授理論にあ つてほ,学習一般がとりあげられ,そこには自然科学や社会科学等のもつ特殊性について ほ殆ど考慮されていない。いや,むしろ価値観がからまないで,体系がかなり一般化され ている特殊な学習領域で研究が進められてきたのである。ましてや,転移の構造ならびに 発見学習の効果等に関する実験的研究ほ,主としてJ[J理学者による厳密な統制下のもとで, しかも極めて単純な学習をもってなされてきている21'。. 社会科において考えなければならない転移ほ,社会認識にみられる固有の特性を含みこ んだものでなければならないoすでに多くの人が指摘するように,社会の認識は学習者自. 身が認識の対象になるのであって,学習者が社会的諸問題にいかに対処するかという問題 自体がすでに学習の対象となってしまうoこのような場合,単なる基本的観念の発見です まされるものではなく,みずからの生き方もそこに関与させざるを得なくなるのである。 また,対象である社会的事実そのものが常に全体として動いているのであって,何かあ る一つのものをとって,それを他から孤立させたところで,いかに分析的操作を加えてみ ても,それでほ,結局,事実を動かしているものの真実を明らかにすることはできない。.
(11) 11. 社会科における知識の評価(そのⅠ). 社会現象の本質を明らかにしようとする社会科教育ほ,かくして,どこまでも事実の動き に即して追究していかなければならないことになる。転移の研究も,また転移をひきおこ サニネルギ-やその方向を明らかにしようとするわたし自身の研究もこのような学習の事 実をふまえて行なわなければならないはずであるo 3. 転移をひきおこす円発力. 前章で述べたところの転移論についての疑問ほ第一に,転移をひきおこす力-これを エネルギーと呼んだが-が考察されていないということ,第二に,新しい事態に対処す る姿勢が問題の外に置かれているということ,第三に,社会科教育固有の問題,すなわち 社会認識の複雑さから生じると考えられる諸制約について全く蘇みられていないというこ とである.本章では,主として第一の疑問をとりあ抗学習が所与の系列にそって連続す るのではなく,学習することによって生じるエネルギーによって次の学習が成立してくる. という,学習の真の連続性とそのエネルギーを考察の対象としたい。 広岡氏は基礎学力論で,. Mursell,. J・L・のことばを引用しながら,転移について次のよ. うにまとめていることが,ここでまずとりあシザるべき重要な指摘であるo. (1)物ごとのこまごました細目ではなく,その本質的な意味構造が (2)実藤として主体的に把持されてエネルギーを帯び (3)それが類似構造をもつ他の物ごとにぶつかったときに 転移が生じる22,。これを,氏ぽl青緒化された意味把握(emotionalized. understanding)と. 称しているが,発見学習でいうならば,これは前にもあげた,発見に伴って生じる喜びや 興奮によって,発見のた格の態度を教育することと同じであるように思うo 氏の考察はこのあと,学習の層構造-と移り,もっとも内側の層として思考態度・操作 態度。感受表現態度を要素とした態度層を置いている。そして「知識ほ態度を裏づ桝こす ることによって,より一般的な母型が裏打ちされる。裏打ちされたこの母型のちからによ +と述. って,個別知識ほ額似の他の知識に転移し,発展することができるようになる23'。 べ,外層(要素的な知識および技能)と中層(関係的な理解および総合的な技術)総じて 知識(技術)層という,より外側の層との関係を示しているoしかし,これだけでは,普 だまだ「情緒化された意味把握+が具体的に転移とどうかかわりあうのかわからないoそ (2)の実感として主体的に把持するということはどう こで,広岡氏のとらえ方でい桝ぎ, いうことかを,もっと深く追究しなければならないことになる。ここに,今問題のエネル ギーが生じることは, 1章で考察したところからも明らかである。 そこで学習Aと学習Bとの問に転移がみられ,特に学習Aでとらえたaが学習B Aとaがいかにして内発力のある. のbの理解に有効に働いたというモデルを設定して, ものになるのか考察を加えてみよう。 第1章で考察したような転移を考えたとき,次の二つのモデルを設定することができる。 (1). Bの学習において,いまだbの把握にいたらないうちに,. Aの学習でaを学んだ. ことが想起され,そこで何をどのように学んだかが確認される。この確認との対比.
(12) 12. 山. 田. 勉. においてBの学習からbが漠然と描出される。. Aにおいてaに到達したコースのア ナロジーによってbがやや判然さを増し,さらにそのbをaと比較し推理するこ とによってbの理解が十分になる。 このモデル①においてほ,. aとbとの問にどのような比較ができるか,またAに おいてaを見出す過程とBにおいてbを見出す過程にどの程度の共通性や類似性があ るかというところに転移の可能性の程度がかかっているわけである。ここにEllis,. H.の. ごとき転移の条件を見出す研究の存在理由もあるわけである。 このモデルにおいては,. Aの確認やaとbとの比較・推理等をだれが行なうかがほっ きりしていないo指導者の指図による場合もあろうし,プログラムによってなされること もあろうoこの確認・比較・推理等の活動主体を明確にしようと考える場合には,当然別 のモデルを考えなければならないであろう。この活動主体の不明確さほ,また学習の連続 をあいまいにしてしまう。すなわち,いかにaとbとの間に類似性があろうとも,その. 類似性を確実に把握するものが学習者でない限り,その間に意味ある連続が成立している とはいえないのである。そこで,考えられているのが発見学習であり,そのモデルは次の ようにえ考られる。 (2). Bの学習において,いまだbの把握にいたらないうちに,. Aの学習でaを学んだ. ことが想起され,そこで何をどのように学んだかを学習者自身が確認する。この確. 認において,すでにaの発見時に経験した興奮や喜びが刺激となり,. Bの学習に対. する主体性が高まる。そしてAやaの確認との対比においてBの学習からbの. 輪郭やその意義を漠然ととらえることができるようになる。そこでAにおいてaに 到達したコースや方法がもう一度確認されて,それとのアナロジーによってbが判 然さを増し,さらに積極的にbをaと比較し推理することによって,. bの理解が. 十分になる。. このモデル⑧においてほ転移する主体ほ明確におさえられ,所与の学習Bにおいてa およびaをとらえるまでの過程の経験を生かしきっている。それを可能にするのが興奮の. 感覚ならびに発見にいたるまで執物に追究してやまない態度であるといえる。 しかし,ここになお不十分な点として指摘できるのは,. AからBに学習が移らなけれ. ばならない必然性がどこにあるのかということである。それほすでに述べたごとく,転移 の射程をのばし,その可能性を高めるべく配列する教材自体のもつ順次性でしかない。. この順次性に学習者ほいかに関与することができるであろうか。もし彼が直接関与する ことができないとするならば,発見の方法も発見の興奮も,. bを教えるための単なる手段. でしかない。そのようなところで,学習者ほはたして学習の目的を確立し,自主的な学習 の姿勢を獲保し,創造的な思考と操作をなすことができるであろうか。目的的・自主的・ 創造的学習にとって不可欠なものは学習の主体性である。 この主体性を中核とする学習を考えるた捌こほ,. ①・②とは構造の異なる第三のモデ. ルを設定しなければならない。 (3)学習Aは学習者の追究活動を中心にしてaを見出し,その追究ほ一応の成果をあげ.
(13) 13. 社会科における知識の評価(そのⅠ) る。しかし,. aをもってしてはどうしても説明しきれないものb/に気づくoそこで, Bの学習に入る。そして,. aで統一. aとb′とを中核にしてさらに追究が続けられ, されたかにみえたAの結果はa-b′-bと発展し,新しいbという統一に安定し ようとする。しかし, このモデルでは,. AからB-移る必然性はAのなかにある。それほ,. aをもってして. は統一しきれないものb′の存在を発見し,それを追究しようとする学習者の知的欲求で ある。これほ, Brunerが理想だという,学習する教材そのものに興味をおぼえることに も通じることであるし,. Landaのいう,知的能動性と自己構成との内的源泉につながる. ものである。したがって,ここで考えられる連続ほ全く主体的なものであって,教材配置 の順次性に影響を受けながらも,どこまでも自己の追究の連続という形をとる。ここにほ じめて真の意味での連続が実現するわけである。 以上のモデルを,具体的な学習の場で考えてみよう。. 小学校5年や中学校1年の工業学習において工業地帯は極めて重要な教材のように考え られてきた。そして,その学習は,わが国にほ四大工業地帯があるということと,それぞ れの工業地帯が歴史的背景をもちながら,特色ある工業生産のようすを示していることが 主要な内容となり,多くの場合,その配列ほ北か南の地域から開始することになっているo. この工業地帯の学習に前記の3つのモデルを適用させてみよう。 モデル①. 現行の教科書の記述にみられるもの. (1)日本には,どのような工業がどこに集まっているか,これまで学習してきたことを もとにして話し合い,工業地帯ができる理由について予想させる。. (2)これまで学習してきた工業生産のしくみをもとにして,いろいろな関連をもった工 場がたくさん集まって工業地帯を形成していることに気づかせる0 (3)四大工業地帯の位置と生産額のようすをつかませる。 (4)京浜工業地帯と中京工業地帯について,そのさかんな工業の種類・発達のようすな どを調べて,それぞれの工業地帯の特色を発見させるとともに,工場立地の条件を とらえさせる。. (5)阪神工業地帯と北九州工業地帯について(4)と同じ内容を調べてとらえさせるo (6)日本の各地にほ,新しい工業地域が続々と生まれていることに気づかせ,それぞれ の工業地域の発達の原因や,地方の発展との関連などについて理解させる。 (7)工業の発展にともなう公害問題に気づかせ,計画的な工業都市の建設の必要さにつ いて理解させる。. (8)日本の工業地帯について,その特色や今後解決していかなければならない問題につ いてまとめる24)0. これほ手もとにあったある教科書出版社の5年の指導書に述べられている単元「広がる (1)は問題把握として0・5時間, (2)-(7)は 工業地帯+ (6時間)のねらいの系列である。 問題の追究として5時間,. (8)ほまとめとして0・5時間ということになっているo. 四大工業地帯と新しい工業地域で合計3時間にわたって,京浜・中京・阪神・北九州,.
(14) 14. 山. 田. 勉. 新しい工業地域と償次学んでいくのであるが,四大工業地帯についてほ,工業の種類,発 達のようす,立地条件とすべて同一の視点からとらえる内容であり,いずれも全く同一の 構造をもったものと考えてさしつかえない教材である。このような学習の継続ほ転移が豊 かに見られ,したがって極めてスムーズな展開になることが予想される。しかも,新しい 工業地域の学習にあっても,瀬戸内。東海・北陸・北海道,その他と,全く同一の学習構 造をもったものが並列されているわけである。. わが国の工業地帯をこの順序で学ぶ根拠ほどこにあるのであろうか。 ねらいからみても,. (7). ・. (1). ・. (2). (3)の. ・. (8)の終末の段階から考えても,全くその根拠を見出し得ない. のである。これこそ,効率の高い転移を目的として配列した観がするのであるが,実はそ うではないはずである。それほ,中学校のこの工業地帯の学習が九州から北海道までの地. 誌を南から北へ順次学習していくなかに含まれているのと全く同様に,四大工業地帯と新 しい工業地域をこのように学ぶことになっているからである。単なる慣習でしか過ぎない のである。 モデル②. 発見学習によるエ業地帯の学習. 上の指導計画を発見学習的に変えるとどのようになるだろうか。その全ぼうについて考 えるわ桝こほいかないが,恐らく計画そのものは結果的にいえば①とそう大きな違いは ないであろうと思われる。しかし,たとえば(2)の学習で,基本的なものとして,原則的. に,常に利潤の追求をやめない資本を置き,消費市場,原料供給,生産物の質量等のバラ ンスをコスト低減に求めて,工場が次第に集中していぐ情況を,発見的方法で学習してい けば,それに続く四大工業地帯の学習は(2)の学習の応用として位置づくのである。そこ. には,資本主義社会にみられる原則の価値の発見と発見に伴う興奮があるように思える。 それにしても,四大工業地帯と新しい工業地域を学習しなければならない必然性は,こ. れだけでほ生じない。京浜工業地帯と,瀬戸内工業地域あたりを取り上げて学習すれば, 応用としてほ十分であるように思える。 モデル③. 問題追究による工業地帯の学習. ③のモデルによる学習ほ,. ①と②とはその様相をすっかり変えてしまう。. まず,この単元がどのような追究の過程に位置づいているものか考えておかなければな らない。今,先にあげた指導書の単元配列に従って,. 「日本の工業の発達+を先行単元と. し,そこで,わが国の工業がどのように発達したか,そのアウトラインが追究されたと考 えておこう。 工業の発達に伴って,工場が次第に集中現象を起こし,その結果,工業地帯が成立した. ことほ,現象的にほすでにとらえられている。そこで,この単元では,その現象の底にあ るものを探究することが具体的な課題となる。 そのた捌こほ,先の(2)の学習において,工場集中の具体的状況を,関連工場や工場誘. 致の計画とその実現過程などの例をもって追究し,工場がいかなる目的をもって集中する のかを具体的にとらえなければならない。この学習は0.5時間ばかりですむものではない。. この学習において,たんに関連工場ばかりでなく,工場立地にほ労働力,交通検閲,資本,.
(15) 15. 社会科における知識の評価(そのⅠ). その他さまざまな社会,歴史的要因がからんでいることに気づいてくると,さまざまな製 品を生産する工場が集中せざるを得ないこともわかってくるはずである。この間に,最も. 基本的な資本の原理も抽出し得るはずである。 学習がここまでくれば,それはすでにある狭い地域に限定されることなく,四大工業地. 帯のいずれか一つが適時主要な対象として浮かび上がってくる幅広いものになる。こうし てとらえた工業地帯の現状をさらに分析すると,前にほ気づかなかった新しい問題を発見 することになる。それは当初考えた工場立地の諸要因の関係が大きく変わってきて,自己 ノ. の考えを変えていかなければならないことを意識することである。 仮りに,新しく浮かび上がった大事な要因の一つが,市民の生活権を擁護しなければな らないということであれば,それほ,交通,原材料の入手,水資源など,旧工業地帯のも っマイナス要因とも結合して,工業地帯の拡散や遠心現象も考察の射程内に入ってくるで あろう。さらに,別のところで学んだ資本とプラント規模の巨大化なども視野に入り,あ わせて工業都市の市街地にひしめく中小工場の問題などとの関係も再吟味されることにな ろう。. この間に,いわゆる工業地帯の事例が必要に応じて登場する。京浜・阪神・北九州など と,決して固定されないで,学習する子どもが,自己の問題追究の過程のなかで必要に迫 られる教材を見出していくのである。過去に学んだものが再評価される場合もあろう。四. 大工業地帯を比較したり,それと新しい工業地帯とを比較することもあろう。 以上のような学習展開がモデル⑧では考えられるのであるが,わたしほ,このような. 展開のなかに,学習転移の必然性があり,転移しなければやまない内発的なカーエネル ギーーを見出すことができるのである。それは,類似の構造をもつものへ転移していくの ではなく,むしろ自己形成した理解構造では納得し得ないもの,すなわち別の構造をもつ 新しいものへと転移して,自己の理解の構造の再編成をほかるものであるように思える。 それにほ,転移するものaと,転移の結果理解が容易になるbとの間に,疑似構造という. よりほ,むしろ内的関係があることが必要なのである。もちろん,この内的関係とは,社 会的事実そのものに内在する関係と,追究する子どもの意識や認識のうえでみられる関係 と,そのいずれをも含んだ意味での緊張した,すなわち両者のバラソスのうえに成立する 概念である。この内的関係をもつ一連の追究過程が学習であり,それほ当然一つの単位, ユニット・統一体を形成することになる。 それでほ,社会的事実に内在する関係と追究する子どもの意識や認識にみられる関係と のバランスのうえに成立する内的関係とはどのようなものであろうか0 これこそ,社会的事実と学習者の関係,すなわち認識の対象と認識する主体との関係で それによって生じる連続性の根源である。 あり,転移を生み出す内発九 先に工業地帯の学習例をあげたが,認識の対象である工業地帯は,それ自体さまざまの 要素を含み,日本や世界の政治・経済・歴史的背景のなかで存在するところの,一つの連 続するユニットである。モデル①ほこの連続性に依存しているが,そこには何等の内発 力も生じない。したがって,それも学習の連続性を保持する重要な一つの条件であるが,.
(16) 16. 山. 田. 勉. 学習が真に連続するた捌こほ,もう一つ,子どもの追究の連続が必要である。 対象のもつ連続ほ,学習の計画において一つのユニットを構成できる保証である.しか たがって,京浜工業地帯によって-単元を構成することもできるし,京浜工業地帯を含ん だ四大工業地帯でも-単元を構成できる。そのいずれがより望ましいものであるかほ,こ の対象のもつ連続性のみによって規定することはできない。むしろ,この二つの単元の構 成ほ平等の妥当性をもつわけである。ここに学習者の主体性の要素が関係づけられると, この二つの単元構成は新たな問題-展開する。. すでに幾度も触れたように,学習の其の連続を保障するものほ,次のものを求めてやま ない子どもの知的な欲求である。この知的な欲求とは何であろうか。. 対象の運動を規制している核的なもの,先の工業地帯でいえば,工場が集中し拡散する という現象の背後にあるもののうち,何が最も本質というべきものであるかを見究めよう とするのが学習であるが,その本質を見究めるアプローチほ一つとほ限らない。いや,一 つだけでは,ついにその本質ほ見定めることができないはずで,少なくとも二つ以上の新 しいアプローチがなければならない。工業地帯を集中という現象から追究していくときに, 工場が原料製品の関係で近距離に物理的に結合していることが便利であることを発見すれ. ば,地域内における工場の種類別分布などをみてそのことを確認するとともに,河岸や臨 海にある工場の立地上の必然性なども,別の角度から考察し直されていかなければならな い。かくして,一応集中現象について,その必然性と有効性を見究め得たとすれば,それ ほ,全く資本の立場からの分析であることがわかるであろう。しかし,工業地帯ほ,現在 でほ単なる集中現象だけでほなく遠心的拡散的現象も呈している.この現象を前の資本の 立場の連続としてみようとすれば,さらに新しい何ものかを導入してこない限り説明でき. なくなるはずである。人口の都市集中,工業都市に典型的に発生する工場公害,それにす でにその機能を喪失しようとしている都市交通など,これらの現象を中心に,あらためて 工業地帯を考察し直したときに,はじめて工業地帯の新しい動きを資本を中心にして再び 統一的にとらえることができるようになる。その理解の構造すなわち知識ほ,第一のアブ ロ-チからとらえたものより一段と立体的となり,有機性を増した組織に成長している. この追究ほ,さらに第三の地域住民の生活,労働者の生活等の観点からの追究に入り,質 本と生活との対立括抗までも見究め,ここにようやく工業地帯問題の現代的課題に足をふ みこむことになるのである。. 問題をここまで連続的に追いつめるのほ,追究著すなわち学習者が自己の立場を次々と 転換してきたことによる。工業地帯を工場の集中現象とみるのと,遠心・拡散現象とみる こと,さらに住民の生活権の問題とみることなどの問には,立場だけからいえば確かに断. 絶があろう。しかし,この断絶は,連続として存在する対象によって結合して,対象の本 質を多面的に明らかにすることができるのである。この学習者が立場を転換してほ自己の 追究の餅肌すなわち知識の統一を求めて,次々と知識の再組織化をほかっていくところ に,転移のためのエネルギーが発生し成長する,場と論理があるわけであるQそれはまさ に対象と主体の内在的関係が衝突し,失ったバランスを保持すべく常に動いてやまない関.
(17) 社会科における知識の評価(そのⅠ). 17. 係結節であるといえるであろう。 このように転移の現象とそのた捌こ必要なエネルギーをとらえてくると,額似構造をも. っ対象ほ当然単一のユニットとして構造化されるので,焦点ほむしろ,わずかな相違が認 められる異質構造をもつ対象-の転移ということになる。どうしても統一することのでき ないものに最後までとらわれ,立場を変えて新しい統一を試みる認識や知識の主体的な働 きからみれば,それは当然のことである。. 異質構造をもつ対象-転移していくことが,社会科の学習で考えられる転移の本質25'で ぁるとするならば,これほもう転移というよりも"発展”という概念でおさえなければな らないように思われる。すなわち,学習Aにおいて見出されたaは,どうしてもaを もって説明しきれないb′を媒介にBの学習に発展し,. a-(b/)→ba→(c/)→cab→とその. とらえるものも発展していくと考えるべきであるように思う。 4. 発展概念のもつ意義. 発展という概念ほ必ずしも明確な内容をもったことばでほないoしかし,そこには史的. 唯物論でいう社会の発展段階論に象徴されるようなある一つの観念があるoその発展は生 産力と生産関係の矛盾によって必然的に生ずる自然史的過程で,ある社会体制から他の社 会体制-の移行を表わす。したがって,そこでほ生産力の質的高まりに対応して,生産関 係も全く異質のものとなるように,発展という概念ほ,あるもののそのままの延長ともい うべき,拡大・拡張・展開などとほ異なって,必ず基本的な質の転換を伴うものであるよ うに思う。それほ社会的諸関係の変化などの場合だけでなく,その関係の要素である生産 力などについても,生産手段の質的変化による向上を,生産力の発展というように使用す ることができる。発展という概念が科学的概念ではないので,以上のような規定をするこ. とほ,無理なことのようにも思えるが,ただ日常的な意味で,以上述べたような独特な ニュアンスがあることほ認められるであろう。. このような発展という概念をここに使用することほ,論理を不明確にする恐れが多分に あるが,ここでほ,以下述べるような内容をもって学習の発展と規定しておきたいoなお,. 学習の発展は,学習という行為の目的である,理解,認識,知識,思考等の発展を促進す るものであることも,ここでことわっておく必要があろう。 (1)発展する学習は主体的である. 学習を教材のもつ意味を追究していく過程だと考えると,学習の発展は,学習者が教材 との間に多様なコミュニケ-ショソを連続的にしたときに成立するものであって,学習者 自身のものである。それは他者から引継ぐこともできないし,コミュニケーションを他者 に依存してもできないことである。あくまでも学習者が教材を自己への問いかけとして受 けと2b,個人として理解し認識していくときにできるものである。かくして,発展する学. 習はその完全な意味で主体的でなければならない。 (2)発展する学習は豊かな内発力をもつ. 主体的な学習ほ教材との関係において,常に統一-むかう凝集的な力をもち,これがま.
(18) 18. 山. 田. 勉. た新たなる要素をはじき飛ばし,さらにそれをも統一せんと自らの統一を破っていく。こ の統一,破壊,統一の過程が新しい教材を引き寄せていく。この主体的統一を志向して新 たな教材を引き込んでいく力が学習の内なる力の外への発現であり,これを内発力とよぶ。 これが学習発展のエネルギーであるo (3)発展する学習は弁証法的な連続である. 内発力による学習の発展は,認識における矛盾の止揚である。せっかくの学習者による 内と外すなわち学習者と教材との統一ほ,破れること,すなわち否定を媒介にして連続す る。ここに発展としての連続が成立する。否定ほ破たんの場合もあるし,ほころびの場合 もある。したがって常に全面的否定になるとほ限らない。しかし,仮りにそれが部分的修 正であっても,そこにほ必ず否定が媒介になっている。発展は否定的連続であり,それが 生きた連続でもある。. 以上のような規定を受けた発展の概念ほ,現代社会において意味あるものになるであろ うか。学習・認識・知識の発展ほ一連のものであるが,ここでは,発展するという角度か ら問題にされることのあまりない知識を例にあげて,発展というおさえ方,そういう追究 の角度が現代の社会において,いかに有意味なものか以下に論じてみたい。 一般に,学校は体系的な知識を授与する目的的疎開だといわれる。この規定はごく自然 のもので,そのことに関する限り異論をさしほさむ余地ほないのであるが,. -たび問題が,. 知識とほ何ぞや,授けるとはどういうことか,いかなる方法が授け方としてほ優れたもの であるかというようなことに及ぶと,どの一つをとっても一義的に決めることほ不可能な むずかしい問題になる。しかし,いかなる地域,いかなる時をとってみても,被教育者か らみると,その事実は学習と呼ばれるものであり,その学習の結果として体系的知識を習. 得してきたのである。ところが,人間の歩みにつれて,この知識の量が増し,現代では授 けたいと願う知識は無限に達し,ついに学校教育の伝統的な方法だけでほ処理し切れない. ・段階に達したわけである。このような時代に,学習における知識の具体的表象としての教 材の精選がいわれるのはまことに当然のことであろう。したがって,いかなる尺度で教材 の選択が行なわれるかという議論が戦わされるのは至極当然のことであるし,また,この. ような要請に応じて教材の構造化をいうのも時宜に適したものである。しかし,それより 以上に大切なことほ,. -た -たん獲得した知識が成長発展するよう配慮することである。 ん獲得した知識が執勘に新しい事態を追い続け,自らの知識を発展させることができるこ. とは,少ない知識で知識氾濫の時代に生きる絶対的な条件である。道に仮りに体系的な知 識であっても,外界の情況がその体系内におさまらない限り働くことのできない知識千, 知識獲得時以来,何等その知識に変化も修正もされることのない知識,いわば固定して働 かない知識が,体系という名目で教えこまれるとするならば,それほ悪しき教養の強制で あって,人間の生きるた捌こ何等プラスにならないものとなる。学校ほおびただしい"死 の知識”の伝習所と化し,単なる"知識の死蔵家”の養成所となろう。 発展する知識ほ"生きた知識”であり,未来にむかって開かれている"生きていく知識” である。それは,発展する学習で述べたごとく,主体的で内発力に富み,弁証法的に連続.
(19) 社会科における知識の評価(そのⅠ). 19. する知識である。 さて,このような,発展する学習・認識・知識というとらえ方ほ,現代社会においてど れほど意義あるものであろうか。換言すれば,発展の論理は現代社会においていかなる存 在理由があるのであろうか。最後にこの問題に触れて第Ⅰ部の結語にかえたいと思う。 われわれの周囲には無数の情報が充満している。われわれは,いわば情報の大海に投げ 出され,見えない潮に乗って,押し流されているのである。その潮の一定の流れを,小さ. い身でいかに知るか,そこに,現代に生きる個人の,また集団の大きな課題がある。もち ろん,この情報ほ,さらに大きな大洋の部分で,問題の本質がそれとの関係にあることも 見失ってはならないことは言うまでもない。 情報はいかなる時代においても完全ではあり得ない。それは常にある限られた立場から とらえられた情報でしかない。現代においてほ,このような情報がさまぎまなマスコミを 通して,一見多様な立場からの情報のごとき仮装をもってわれわれに迫ってくる。しかも,. 情報の主たる媒体がマスメディアであるだ桝こ,それを共通にかつ同時に受け取るものも 大衆であって,一見情報はパーソナルな観を持ちながら実ほマス的なものであることに注. 目しなければならない。例えば,学校の子どもが,昨夜のあるテレビ番組の話題に参加で きなかったことから,異常な行為に走るということは,そう珍らしいことでほない。これ. ほ,情報の伝達ほパ-ソナルなものであるが,結果的にはマス的なものであることを端的 に示している。 このような情報の豊かな時代には,情報ほ即刻常識として定着してしまう。しかも,す. でに述べたごとく,その情報が,国民大衆の直接見えないところで,意図的に,あるいは 無意識のうちに,場合によれば個人的な善意をも含めて,コントロールすることができれ ば,国民大衆は耳目を働かせながらある一定の方向に押し流されることになる。いや,現 実にそうであるし,その傾向ほますます強化されつつある。したがって,国民の常識は操 作可台巨なものであり,その操作効果ほ現に階層や階級を越えて珍透しているとみなければ ならない。これほ,国民の目に見えるところの学校や社会教育諸機関を通して行なわれる 教育橡能よりもはるかに強大なものであり,教室における8mm映写やTVのブラン管上 の映画と,大劇場におけるシネラマほどの相違があるとみるべきであろう。しかもその日. 常性においてほ,この両者が逆転するところに特に注意しなければならない。この意味で, 情報を操作し得るマスコミその他の情報機関は,現代の国民大衆を一方的に,要するに, 国民に目標と内容の選択の余地を残さない疑似教育棟関となっていると言えるのである。. その意味で国民大衆ほ自己の意志にかかわりなく,常に知的教育の場に立たされ,それら の背後にある"見えない糸”によって馴化されていると考えなくてほならない。このよう な状況のなかで,情報を取捨選択し,自ら情報の収集を行ない,常識を拒否して,客観的 で主体的な判断をくだすことは至難のわぎというべきであろう。. 科学の出発点ほ,. 「常識にとって自明の前提であったものを,そのままうけいれないで,. やほり分析の対象とするか,あるいほ拒否してしまう+26'ところにある。また,このよう なことを社会についてできるものほ,現代の社会と自己との間に不調私距離感をもつも.
(20) 20. 田. 山. 勉. のであるという。その感覚ほ必ずしも反体制的立場のものだけが感ずるのでほなく,体制 がわの人間も,それを不安として感ずるほずである27)。社会と自己とを同一視し得るもの にとっては,社会ほ目に映らないと考えられる。してみれば,常識を疑い,社会を何等か の形で意識するということは,自己のもつ知識を安定したものとほせず,常にそれを発展 させていく態度をもつ人間にして,ほじめて可能なわけである。 したがって,学習したものを類似の構造のもの-転移させるだけでなく,学習によって. 習得したものを疑い,不統一を見出し,統一を求めて力強く発展させていくことほ,学校 を離れた一社会人にとっても強く求められる主体的な態度だといえよう。 高度資本主義社会のくるい花,情報革命のなかで,自己を喪失し,他者の思想を自己の それと錯覚する疎外や幻覚から自己を解放することほ,以上考察した"発展”を体得し, 社会を科学的に認識することの可能な人間のみに許されたことである。このような"生き た学習”と"生きた知識”の基盤ほ,学校数育とりわけ社会科教育が特にねらわなければ ならないもので,これが,社会にあってもそのまま"発展”してほしいのである。 以上,情報社会における発展概念の意義を考察したのであるが,この発展が創造性や適 応の柔軟性などにもつながり,むしろそれらの基蛙を形成する一般的能力の指導の重要な 側面であることを最後に指摘しておきたい。そのような一般的能力ほ,また,今日の技術. 社会管理社会といわれる社会において生きる基礎的能力なのである。 注 29, 1969日本社全科教育学会 「社会科教育文献目鐘+ 1946-1967社会科教育研究No. よると,評価に関する論文および著書ほ次のような傾向をもっている。なお,本書による と,分類が「評価・学力+となっているので,参考のためにその両者をあげておく。. 1). 年(昭和) \ 分額\\ 診断テスト・テスト分析. 21 ∼ 24 23. 0. 25. 1. 1. 0. 0. 学. カ. 0. 0. 0. 刀. 0. 0. 1. 定. 0. 0. 1. 価. 0. 0. 他. 0. 0:. 通. 知. 能. 簿・評. 評 の. そ * **. 28I 29F 30∃31. 26t 0. 学カテスト調査分析* 礎. 27. 0 0. 基. に. 0 2. 0. 0. OF. O1. 1. 0]. 6?. 5. 0. 2f. 5i. 2. 1. 1F. 31. 0. 0. 0. O1. 0. 0. 0. OL. 1. 0. 0. 0】 0. 0. 34. 38. 0+. 3. 3. 2. a. …L2. 0. 0. 0. 1. 0. 3. 2. ll. 2. 7. 0 2. …i. 8. 4. 5. 4. 0. 1. 1r. 0. 2. 0. O1. 0. 2. 3. 1】. 0. 0. Ot. 2. 1. 0. 8. 0. 1. 0. 0. 0. 1. 4. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 0. 2. 0. 1. 3. 0. 0. 2. 0. 0. 0. 0. 三11芸**. 各県の教育研究所などが文部省の学力調査結果を分析し報告書を出してきた。 雑誌「社会科教育+が評価特集号を出したので特に多い。. 2)同上喜より評価に関する単行本を年次別にあげると下記の通り。 昭和25年 ・藤沢-中:中学社会科の評価348p 昭和33年 ・長坂端午:社会科の学習評価321p. 39. 32,r 。1i42 33!35≠ 36声3740-.
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