J.S.ミルにおける自由原理と個性
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(2) 泉谷 周三郎. 2. なものとみなされていた。 そこで愛国者たちの 目的は、 支配者たちが 社会に対して 行使することが 許される権 力に制限をもうけることであ った。 そしてこの制限こそ 彼らの意味する 自由であ った。 支配者の権 力を制限することは、 次の二つの仕方で 行われた。 第一は、 政治的自由または 権 利と呼 ばれるあ る種の免責条項を 承認させることであ った。 支配者がこの 免責条項を破ったときには、 特 定の反抗などが 容認されるとみなされていた。 第二は 、 概して前者よりも 後になって現れた 方策で あ. るが、 憲法による抑制を 確立することであ った。 この方式を獲得すること、. あ. るいはあ る程度 獲. 得した場合には、 それをいっそう 完全に獲得することが 愛国者たちの 主な目標となった。. (2) ところが、 人類の状態が 進歩するにつれて、 統治者が利益の 点では人民と 対立する独立の 権 力 であ ると考えなくなるときがやってきた。 人々が選挙によって 一時的な統治者を 選ぶようになる と、 政府の権 力は人々に不利になるように 濫用されないという 保証をもつことができるように 思わ れたり「今や. 必要とされているのは、. 支配者が人民. (people)と 一体になること、. すな ね. ち、 支配. (nation)の 益 と意志となるということであ るり国民は自分自身の 意志 か ら 身を守る必要はない。 国民が自分自身に 対して専制を 行うおそれはない。 (218) この段階にな ると、 統治者の権 力とは、 国民自身の権 力が集中化され 行使されやすい 形態をとったものにほかな うないと考えられるようになった。 このような考え 方は、 前世代のヨーロッパの 自由主義に共通の ものであ ったし、 大陸の自由主義において 今なお有力であ る。 人民は自らの 権 力を制限する 必要は ないという思想は、 民主政治が単に 夢想されるだけのものであ ったときには、 自明のことと 思われ. 者の干Ⅱ. 益 と意志が国民. 不Ⅱ. 」. ていた。. (3) やがて一つの 民主的共和国 ( アメリカ合衆国 ) が国際社会の 強力な成員として 認められるよ うになると、 「自治」 (self-government)や「人民の人民自身に 対する権 力」という言葉では 事の 真相を伝えることができないことが 認められるようになった。 「権力を行使する 人民は、 権 力が行 便 される人民と 必ずしも同一ではない。 また自治とは、 各人が彼自身によって 統治されることでは なくて、 各人が他のすべての 人々によって 統治されることであ る。 さらに人民の 意志とは、 実際に は 人民のうちで 最も活動的な 部分の意志、 すな ね ち、 多数者、 または自分たちを 多数者として 認め ることに成功した 人々の意志を 意味している。 したがって、 人民が人民の 一部を圧制しようと 欲す るかもしれない。 そしてこのような 圧制に対して 予防策が必要であ ることは、 他のいかなる 権 力の 濫用に対する 場合とも異なることはない。 (219) このように選挙によって 選ばれた統治者が 個人 を圧迫しうることが 危惧されるようになり、 改めて統治者の 権 力を制限する 必要性が説かれるよう になった。 そして民主政治においても「多数者の 専制」 (thetyranny of the m 田 ority)は、 社会 が吉成しなければならないの 害悪の一つとみなされるようになった。 (4) 多数者の専制は、 最初は主として 官憲の行為を 通じて行われるものとして 恐れられたし、 今 でもそうであ る。 だが、 思慮あ る人々は、 社会それ自身が 暴君であ るときには暴虐遂行の 手段は官 意 によってなされる 行為のみに限られていないことに 気づいた。 この段階で、 自由と権 威との 間 争 は新しい次元に 入ることになる。 ミルは、 社会が正しい 命令を発しないで 誤った命令を 発するなら ば 、 社会的専制は 政治的圧制よりもさらに 恐るべきものとなるとし、 次のように述べている。 「社 会的専制は、 ふつう政治的圧制の 場合ほど重い 刑罰によって 支えられていないけれども、 はるかに 」. 深く生活の細部にまで 浸透して 魂 そのものを奴隷. ィヒ. してしまい、. これから逃れる 手段をほとんど 残. さない。 したがって、 官憲の専制から 身を守るだけでは 十分ではない。 優勢な世論や 感情の専制に 対しても同様に 防衛することが 必要であ る。 すな ね ち、 社会が法律上の 刑罰以外の方法によって 、.
(3) J.S.ミルにおける. 自由原理と個性. 3. 自己の思想や 習慣を、 それに同意しない 市民に対しても、 行為の規則として 強制しょうとし、 社会 のやり方と調和しないいかなる 個性の発展を 阻止し、 できればその 形成をも妨げ、 すべての性格に 社会の性格を 模範として自己を 形成することを 強制しょうとする. 傾向に対して、 防衛することが 必. 要であ る。 (220) 」. ミルは、 このように社会的専制が 政治的圧制のように 刑罰によって 支えられていないが、 生活の 細部にまで食い 込んで 萌 そのものを奴隷化してしまうことから、 最も憂うべき 状態であ るとし、. こ. ねからの保護の 必要性を強調するのであ る。. 2. 自由原理 ミルによると、 個人の独立に 対して集団の 意見が正当に 干渉しうることには 限界があ る。 その 眼 界を見つけ、 その侵害から 個人を守ることは、 人間の望ましい 状態にとって 欠くことのできないも のであ る。 「個人の独立と 社会による統制との 間の調整をどのように 行うべきであ るか」という 題 が未解決のままに 残されている。 ミルは、 この問題を解決するために「自由原理」. 問. (liberty P ㎡n-. ciple) を提唱するのであ る。 「この論文の 目的は 、 用いられる手段が 法律上の刑罰という 物理的 力 であ れ、 世論という道徳 的強制であ れ、 およそ社会が 強制 (compulsion) と統制 (control) というかたちで 個人と関 保 する仕方を絶対的に 支配する資格のあ るものとして、 一つのきわめて 単純な原理を 主張する ことであ る。 その原理とは、 人類の成員のだれかの 行動の自由に 個人的にまたは 集団的に千 渉 することが正当化される 唯一の目的は 自己防衛 (self-p otection) だということであ る。 すな 「. ね ち、. 文明社会の成員に 対して彼の意志に 反して正当に 権 力を行使できる 唯一の目的は、 他人. に 対する危害の 防止 (to. p 「 event. harm). 人間の行為のなかで、 人が社会に対. であ る。. して責任を負わなければならない 唯一の部分は、 他人に関係する 部分であ る。 自分自身だけに 関係する部分においては、 彼の独立は当然絶対的であ る。 個人は、 彼自身に対して、 すな ね ち、 彼自身の身体と 精神に対しては、 その主権 者であ る。 (223-4) 」. ミルは、. 示した上で、 自由原理を「文明社会の 成 員 に対して彼の 意志に反して 正当に権 力を行使できる 唯一の目的は、 他人に対する 危害の防止であ ここで自由が「行為の 自由」を意味することを. る」 ( 危害原則 ). つ め カテゴリ一. と明確に定義し、 さらに自由であ るべき領域を 規定するために、 人間の行為を 二 行為者だけにかかわる 部分と行為者に 加えて他の人々にもかかわる 部分. に. 区分している。 この自由原理は、 まず最初に個人の 行為の自由を 制限するための 必要条件を述べて いる。 換言すれば、 個人の自由は、 他人への危害を 防止する場合に 限って制限されるのであ る。 次 に行為者だげにかかわる 部分においては、 個人は社会による 強制や統制から 絶対的に自由であ. るこ. とが主張されている。 さらにミルは、 他人の利益のために、 個人がおこなうことを 強制されてよい 多くの積極的行為があ. ることを強調する。 たとえば、 法廷で証言すること、. 共同防衛に参加して 応. 分の務めを果たすこと、 同胞の生命を 救うこと、 無防備な人々を 虐待から守ることなどであ る。. ま. た人は行為によってだけではなく、 行為しないことによっても 他人に害悪を 与えるが、 どちらの場 合 にも責任をとらなければならないことを. f 旨摘 する。. またミルは、 自由原理を「成熟した 諸能力を. もつ人間」だけに 適用し、 未成年や傷病者や 未開 人 には適用しないことを は、 第. 5. 章では自由原理を 二つの公理で、 次のように述べている。. 明らかにしている。. ミル.
(4) 泉谷. 4. 周三郎. 「二つの公理とは、 第一には、 個人は、 彼の行為が彼自身以覚の 人の利益に関係しない 限り、 社会に対して 責任を負っていないということであ る。 第二には、 個人は、 他人の利益を 害する行為については 責任があ る。 もし社会がその 防衛のために 社会的刑罰あ るいは法的刑罰 が必要であ る場合には、 個人はこれらのうちのいずれかに 服さなければならないということで あ. る。 (292) 」. ミルが人間の 行為を二分し、 自分のための 領域があ ると主張したことに 対して、 1874 年に J.F.ス. ティープンは、 人間のいかなる 行為も行為者自身と 他の人々に 影 岳を与えるので、 自分のための 行 為と他人に対する 行為という区別は 誤りで根拠がないと 批判した。 L 自由論りの刊行から 今日に至 ㈲. るまで、 多くの研究者によって、 ミルによる二分法は 、 「いかなる行為も 社会から無縁ではあ. りえ. ない」とか、 「ミルは社会的存在の 相互依存性の 意味をほとんど 理解していない」とか「功利主義 者にとって 純 枠に自分のための 行為はあ りえない」と. 批判されてきた。 J.C.リースは、. ミルの批判. 者たちが、 第一には、 ミルがしばしば 用いている「影響」と「利益」という 表現形態の差異を 見落 としていること、 第二には、 ミルが行為の 二分法が反対されることを 予想、していたことを 指摘して いろ。㈲リースによれ. ミルは自己防衛の 原理を説明する 際「行為者自身にのみかかわるもの」. ば、. 「行為者自身にのみ 影響を与える 行為」と「他人の 利益にかかわる」「他人の. 利益に影響を 与える」. 表現を使用している。 行為の二分法を 批判する人々は、 これらの表現はすべて 同じ 意味を伝えるものとし、 ミルが行為者以覚には 影響を与えない 行為と他人に 影響を与える 行為を単 純に 区別したにすぎないと 解釈した。 これに対して、 リースは、 「他人に影響を 与える」と「他人 の利益に影響を 与える」との 差異を重視し、 ミルの関心が 後者の表現にあ ったと解釈する。 もし ルが 利益を俳頭においていたと 想定すると、 自己防衛の原理は、 個人に対する 社会の干渉が、 他人 の利益がおびやかされるか、 あ るいは現実に 利益が影響を 受けている場合にのみ、 行使されるべき だということになる。 こうして、 リースは、 ミルの「自分のための 行為」と「他人に 対する行為」 という区分は 、 ①主として行為者の 利益に影響を 与えるが、 他人の利益にも 影響を与えるかもしれ ない行為と、 ②主として他人の 利益に影昔を 与えるが、 行為者自身の 利益も含まれるかもしれない という二種類の. ミ. 行為との区別に 帰着すると主張した。 、 次にリースは 、 が 他人に影響を 与えることを 認識していたことを. ⅡⅩⅩ. ルが 自分のための 行為においても、 それ. 明らかにしている。 ミルは、 「社会の成員のいか. なる行為であ れ、 他の成員にとってどうでもよいものがあ るだろうか」といった 反対意見がでるこ. とを予想して、 次のように述べている。. 対してなす害悪が、 彼と密接な関係をもっ 人々の共感と 利害関心とを 通 して、 これらの人々に 重大な影響を 与えることがあ り、 またより少ない 程度ではあ るが、 社会 「あ る人が目分目身に. 全体に対しても 影響を与えることがあ るということは、 私も十分に認める。 ら、 あ. しかしなが. る人が公出 (public) に対する特定の 義務を破ることなく、 自分以外のだれか 特定の個. 人に明白な害を 与えることのない 行為によって、 社会に対してひきおこす 単に偶然的な、 いは推定的ともいうべき 損害 いっそ. う. ある. (hurt)については、 社会は、 この不便を、 人間の自由という. 大きな善のために 耐えることができないわけではないⅡ. (281-2). このようにミルは、 自分のための 行為が社会に 対して 影 番を与えることを 当然のこととして 認め ている。 またリースによれば、 ミルは「影響」よりも「利益」という 観念にかかわっていたが、 利 益の観俳は、. 「権 利」や「義務」のような. 般 に受け入れられるよ. う. 観念と比較しても、 きわめて 暖昧 であ る。 それゆえ、 一. に定義することは 困難であ る。 だが、 利益の観俳は 正確に記述できなくて.
(5) J.S.ミルにおける 自由原理と個性. 5. る。 ミルは 自由論Ⅰのなかで 利益の観俳をどのように 理解しているかを ほとんど述べていないが、 この言葉を特別な 意味で用いた 形跡もない。 利益の観俳が 暖味 なのは、 何を利益とみなすべきかに 関して人々の 意見が異なるからであ る。 自己防衛の原理は、 利益を広く も 重要な観俳の. 解釈しようと. 一つであ. 旺. 狭く解釈しようと、. 価値を構成要素として. 原理の使用は 、 必ず論争を引き 起こすのであ. 含まざるをえない。 それゆえ、 自己防衛の. る。 リースによると、 利益とは、 その存在が社会的承. 認に基づいており、 人が他人から 正当に期待されうる 行為についての 支配的基準と 密接に関係して いるのであ. る0. ところが、 この見解は批判され、 リース自身もこれに 不満を覚えるようになった。. 今や彼は、 ミルが保護しようとした 利益は、 本質的諸利益であ ったと主張する 0 保護されるべき 利 益の確認は 、 気まぐれな社会の 支配的な基準ではなくて、 平和と安全の 保持のために 必要な 、 異な る社会にも共通な 正義の諸法則に 基づくのであ る。 そしてリースは、 ミルの危害概念は 個性と自己 発展の用語との 関連のもとに 理解される必要があ るとし、 ミルにとって 危害とは正義の 諸法則の侵 害 (violation) であ ると結論する。 ミルが危害によって 何を意味したかについては、 研究者の立 場の違いによって 差異があ るが、 共通しているのは、 権 利とみなされる 基本的な諸利益 ( たとえば、 安全や個性など ) への侵害を認めている 点であ る。 ミルは、 自由原理とそれが 判断力があ る成人に 適用されることを 説明した後で、 自由原理が功利原理に 基づくことを、 次のように述べている。 「功利とは無関係なものとしての 抽象的権 利 (abstract right) の観念から、 私の議論に利点、 が 引き出されようとも、 私はそういうものを 利用しないと 述べておくことが 適当であ ろう。 私 は功利をすべての 倫理問題の究極的な 判定基準であ ると考えている。 しかしそれは、 進歩する 存在としての 人間の恒久的利益を 基礎とする、 最も広い意味での 功利でなければならない 口 (224). ミルは、 ここで自由を 擁護するために 自然権 論を用、、 ることを拒否し、 功利主義に基づくことを 宣言している。 ただし、 「最も広い意味での 功利」によって 何を意味し、 自由がどのように 功利を. 増進するかについては、 ミルは明らかにしていないが、 を 広く解釈することを. 渉の功利とを う。. ベンサムの功利主義よりも 功利や人間本性. 含意していたとみなすことができる。 まず最初にミルが 自由への干渉と 不干. 比較し、 後者が常に前者にまさることを 見出そうとしていたかいなかを 検討してみよ. 第四章でミルは、. 行為が他人に 危害を加える. 場合には、. 自由への干渉と 不干渉とが比較される. が、 人が他人に危害を 加えないときには、 完全な自由があ るべきだとして、 次のように述べている。 「あ. る人の行為のなんらかの 部分が他人の 利益に有害な. 為を裁く権 利をもつのであ. 影響を与えるやいなや、 社会はこの行. り、 またそのような 行為に干渉することによって 全体の福祉が 増進. されるかいなかという 問題が 、 広く議論の対象となる。 しかし、. あ. る人の行為が 彼自身以覚の. 影響を与えず、 また他の人々が 望まない限り、 彼らの利益に 影響を及ぼさない ときには、 そのような問題を 取りあ げねばならない 理由はない。 すべてそのような 場合には、 その行為をなし、 また行為の結果に 責任をとる完全な 自由が、 法的にも社会的にも、 存在して. だれの利益にも. いなければならない。. 」. (276). ミルは、 この実例において、. あ. る人が他人の 利益に危害を. 加える場合には、. 自由への干渉と 不 千. 問題になるが、 あ る人の行為が 他人の利益に 影響を及ぼさ ないときには、 行為に関する 快楽計算ではなくて、 完全な自由があ るべきだと主張する。 彼は 、 あ 6 人の行為が他人に 危害を加えない 限り、 社会による干渉を 認めておらず、 また快楽と苦痛による 快楽計算を試みていない。 したがって、 ミルの自由への 擁護 は 、 快楽的功利主義への 訴えに基づく 歩 めどちらが全体の 福祉を増進するかが.
(6) 泉谷. 周三郎. ものではない。 研究者のなかには、 二次的諸規則に 関するミルの 見解に注目して、 功利は、 功利原 理を個々の行為に 直接的に適用しないで 諸規則に従って 行為するとき 間接的に最大化される、 と生 損 する者もいる。 いずれにしろ、 ミルの功利主義をどのように 把握するかが 問題となる。 ウォル. ヘ. イムによれば、 ミルは、 一種の複合的で 非 階居 秩序的な功利主義の 立場をとっていたものとみなさ れる。 ここで複合的とは、 他のミル研究者のいう 多元論のことであ る。 ウォル ヘイム は、 功利その ものが、 ミルにとって 複合的であ ると主張している。". ミルのⅠ自由論Ⅰにおける 重要な特徴の 一つは、 自分のための 行為に絶対的 佐 先を与えているこ とであ る。 ミルによれば、 個人とは区別されたものとしての 社会が、 たとえもつとしても 間接的な 利益しかもっていない 行動の領域があ る。 その領域とは、 人間の生活と 行為のなかで、 第一義的に 行為者自身にのみ. 関係するか、. し 参加しているような. あ. るいは他人に 関係するとしても、 他人が自由にかつ 自発的に同意. 部分のすべてから 成っている。 このように個人自身にのみかかわりをもつ 行. 動の領域こそ、 人間の自由に 固有の領域なのであ る。 絶対的な自由が 認められなければならない 領 域 として、 三種類の自由があ げられる。 すな. ね. ち、 ①意識という 内面の領域であ って、 最も広い意. 味での良心の 自由、 すな ね ち、 思想と感情の 自由、 および意見を 表明し出版する 自由であ る。 この 自由は他人に 関係する部分に. 居しているが、 思想の自由と 不可欠の関係にあ り、 ここに属する。 ②. 嗜好と職業の 自由、 すな ね ち、 自分の性格に 適するように 生活のプランを 立てる自由であ る。 ③個々 人の間での団結の. 自由、 すな ね ち、 他人に危害を 与えないかぎり、 いかなる目的のためにも 結合し. てよいという 団結の自由であ る。 ミルは、 これらの自由と 社会との関係について、 次のように述べ ている。. 「これらの自由が 全体として尊重されていない 社会は、 その政治形態がいかなるものであ ろう と、. 自由ではない。 これらの自由が 絶対的かつ無条件に 存在しない社会は、 完全に自由だとは. いえない。 自由の名に値する 自由は、 われわれが他人の 幸福を奪ったり、 また幸福を得ようと する彼らの努力を 邪魔しない限り、 われわれ自身の 幸福をわれわれ 自身の仕方で 追求する自由 であ る。 (226) 」. 3. 思想と首輪の. 自由. ミルは、 第一章で、 自分のための 行為に絶対的優先を 与えることを 表明し、 個人自身にのみかか わる行動の領域として、 良心の自由、 嗜好と職業の 自由、 団結の自由をあ げている。 そして第二章 では、 思想と言論の 自由の重要性を 強調するとともに、 その理論的・ 実際的根拠を 明きらかしてい く. 。 ミルによれば、 思想と言論の 自由は、 宗教と自由な 諸制度を標 傍 している国の 政治道徳の重要. な要素を形成しているけれども、 従来この自由の 哲学的・実際的な 根拠が深く考察されることがな かった。 ところで、 専制的な政府に 対する保障の 一 っとして「出版の 自由」を擁護する 時代は過ぎ. 去った。 しかしながら、 「世論の て 不当に広げようとする. 力 によって、 または法の 力 さえ用いて、 社会の権 力を個人に対し. 傾向が増大している」ので、 政府や世論が 個人の言論活動に 干渉する危険. 性は依然として 存続している。 ミルは、 このような現状認識に 立って、 意見の発表を 統制すること に 反対して、 次のように述べている。. 「私は、 人民 (People) が彼ら自身によってであ れ、 政府によってであ れ、 意見の発表を 統制 するために、 そのような強制力を 行使する権 利があ ることを否定する. 0. そのような権 力は 、 そ.
(7) J.S.ミルにおける 自由原理と個性. 7. れ目 体 不当なものであ る。 最良の政府といえども、 最悪の政府と 同様に、 このような権 力を行 便 する資格はない。. もし一人を除いたすべての 人が同一の意見をもち、 ただ一人が反対. の 意見をもっているとしても、. 人類がその一人を 沈黙させることが 不当なのは、 その一人が権. 力 をもって人類を 沈黙させるのが 不当なのと同様であ る。 の 特有の害悪は、. 意見の発表を 沈黙させること. それが全人類の 利益を奪うことにあ る。 すな ね ち、 現存の世代だけでなく、. 後代の人々からも、 またその意見を 抱いている人々だけでなく、 その意見に反対する 人々から も 利益を奪うことにあ. る。 もしその意見が 正しいならば、 人々は誤謬を 捨てて真理を 取る機会. を奪われる。 もしその意見が 誤りであ るならば、 前の場合とほとんど 同じくらい大きな 利益を 、 す. ねね ち、 真理と誤謬との 衝突から生じるところの、 真理をいっそう 明白に認識し、 いっそう. 鮮やかな印象を 受けるという 利益を失. う のであ. る。. 」. (229). ミルは、 ここで意見を 発表し討論する 完全な自由が 確保されなければならないとし、 人類のうち でたった一人の 異なる意見を 沈黙させることさえ 不当であ り、 そのことはその 一人が権 力をもって 人類を沈黙させることが 不当なのと同様であ ると論じている。 そのあ とで言論の自由を 奪うことは、 人類から長期にわたって 利益を奪うとして、 その 反 功利を強調している。 ミルがここで 主張してい. ることは、 自分のための 自由や危害のない 活動への寛容というよりも、 それがどんなに 不道徳と考えられよ. う. 「いかなる学説に. 関しても、. とも、 倫理的確信の 問題として、 それを公表し、 討論する完. 全な自由」のことであ る。 ただしミルは、 暴徒やテロリストに 見られるように、 その意見が有害な 行為への煽動となる 場合に は自由の特典を 失うことを、 次のように述べている。 「意見でさえ、 その発表があ る有害な行為を 積極的に煽動するような 場合には、 その免罪性 ( 自由の特典 ). を失うのであ. る。 穀物商は貧民を 餓死させる者であ るとか、 私有財産は略奪で. あ るという意見は 、 単に出版物を 通じて流されるときには 干渉すべきではないが、 穀物商の店 の前に集まった 暴徒に対して. 言葉で述べられたり、 プラカードの 形で伝えられるときには、. 当. 然 処罰の対象になりうる。 いかなる種類の 行為であ ろうとも、 正当の理由なしに 他人に危害を 加える者は、 これに反対する 世論によって、 また必要な場合には 人々の積極的な 干渉によって 制圧されてよいし、 いっそう重大な 場合には制圧されることが 絶対に必要であ. る0」. (260). ミルは最初に 権 威が抑圧しようとしている 意見は、 ことによると 真であ るかもしれないというこ とを考察する。 ミルによると、 権 威によって意見を 抑圧しょうとする 人は、 その意見が真理であ. る. ことを否定する。 彼らがその意見の 誤りを確信しているという 理由で、 その意見に耳を 傾けるのを 拒むのは、 彼らの意見の 確実性を絶対的確実性と 同じだと想定しているからであ. 「議論を沈黙させることはすべて、 無 誤謬性を仮定することであ. る 0 」しかし、. る0. したがって、. 彼らも誤りを 犯され. いわけではない。 だが、 人類が誤りうるということは、 理論上は重視されるが、 実際の判断におい てはそうではない。 専制君主や無制限の 服従を受けることに 慣れている人々は 、 彼らの確信を 絶対 的確実性と同一視するが、 人民は彼らの 意見のなかで 周囲の人々すべてと 意見を同じくする 部分に. 対してのみ、 つまり、 世間一般の無誤謬性に 対して絶対的な 信頼をもっのであ る。 ここで世間とは、 個人が接触する 世間の一部、 すな ね ち、 彼の属している 党派、 宗派、 教会、 社会階級などを 意味す る。. しかし、 ミルによれば、 時代もまた、 個人と同様に 、 誤りを免れないのであ る。 どの時代も 、. 後の時代からみると、 誤りであ るばかりでなく、 馬鹿げた意見を 多くもっていた。 また現在一般に 信じられている 多くの意見が、 未来において 拒否されることは 確実であ る。.
(8) 泉谷. 8. 周三郎. 権 威があ る意見を沈黙させることは 無 誤謬性を仮定することであ. 多くのミル研究者によって 批判されてきた。 J.F.スティーヴンは、 に 誤りであ. ると、 ミルが主張したことは、 ミルの. ると批判している。" 彼によると、 他人が反論しようが、. あ. 無 誤謬性の仮定を 明らか. るいは自分の 無誤謬性を主. 張しなくても、 自分が正しいという 合理的な確信をもっことができる 多くの命題があ る。 また意見 は、. その真偽が疑わしいから、 それが討論されることが 望ましくないという 理由で抑圧される。. こ. 性の仮定はなされていないのであ る。 J.プラメナッツも、 権 力を行. れるの場合には 明らかに無謀. 便 して人々を沈黙させる 人が、 無 誤謬性を仮定しているとは 限らないとしてミルを 批判している。。 " というのは、 人間は自分の 誤りを認めながらもその 問題の重要性から 自分の意見を 押しつけて 他 人の意見を抑圧するからであ る。 ミルは、 無 誤謬性の仮定が 以上のような 批判 や 、 意見を沈黙させることと 人間が誤り こととは矛盾するといった 批判を受けることをあ. る程度予想していた。. ぅ. るという. そこで「討論を 沈黙させる. ことはすべて、 無 誤謬性を仮定することであ る」という文章に 続けて、 「このような 平凡な議論に 基づかせてもよかろうし、 その議論が平凡だから 悪いということもない」 らに. ミルは、. (229) と述べているのさ. 無 誤謬性の仮定という 言葉が「絶対的確実性」の 意味に解釈される 危険性にきづいて、. 「私が無誤謬性と 呼ぶものは、. あ. る学説を確信する 感情のことではない。 それは、. かわって問題の 決定を引き受け、 反対の立場の 主張を聞くことを 許さないことであ. あ. る人が他人に. る」. (234) と修. 正している。 ミルが「 無 誤謬性の仮定」という 言葉を二義的に 用いたことは、 多くの批判を 招いた が 、 第一段階における 要旨をゆるがすものではない。 その要旨とは、 人間は思想と 討論の自由を 認. めるという条件においてのみ、. 自分の意見が 真であ るという合理的保障をもっことができるという. ことであ る。 ミルによれば、. る人があ る意見の誤りだけでなく、 その有害な結果について、. あ. なに積極的に 主張しようとも、 彼の判断の遂行において 反論を許さないなら 一般的な判断において. 支持されているとしても、. ぱ、. どん. たとえ同時代人の. 彼は無誤謬性の 仮定をしているのであ る。. ミルは、 このような 無 誤謬性の仮定は、 反対されなければならず、 その危険性もきわめて 大きい として、 歴史上で起こった 三つの忘れがたい 実例を提示する。 最初の実例は 、 ソクラテスという 偉. 大な哲学者と 当時の司法当局と 世論との間で 衝突が起こったという 事件であ る。 ソクラテスは 、 「青年を腐敗させる 者」として有罪の 判決を受けた 後、 死刑に処せられた。 彼は、 後世のすべての 徳の師であ. り、 模範として知られ、 プラトンとアリストテレスという 二大哲学者の 共同の源泉となっ. た 人物であ. る。 ミルは、 裁判上で不正が 行われたもう 一つの実例として、. 力. ルヴァリの丘でイェス. が涜神者として 十字架上で処刑された 事件をあ げる。 当時の人々は 、 彼らの恩人. ( イェス ). を誤解. しただけでなく、 凶悪な不信仰者として 処刑したのであ る。 ミルによると、 これらの迫害者たちは、 ど う 見ても悪人ではなく、. むしろその反対であ って、 その時代や民衆の 宗教的・愛国的感情を 十分. にもっていた 人々であ った。 ミルは、 歴史上のイエスに 対しては尊敬の 念を抱いていたが、 彼の時 代のキリスト 教道徳に対しては 強い不満を抱いていた。 次に第三の実例として、 当時最も善良で 最 も 学識があ. るとみなされていた 皇帝マルクス・アウシリウスがキリスト 教を迫害したという 事件が. 取りあ げられる。 マルクス・アウシリウスは、 えた人物であ. あ. らゆる意味においてよりよ. き. るが、 社会の結合を 維持するという 厳粛な意識のもとにキリスト. キリスト教徒であ. り. 教の迫害を正当と 認. めたのであ った。 ミルによると、 このことは、 歴史の全体を 通じて最も悲劇的な 事件の一つであ っ た。. また宗教的自由の 敵は、 マルクス・アウシリウスの 行為さえ正当化できないので、 反 宗教的な. 意見を抑圧するために 罰を用いることを 弁証することがいかなる 議論によっても 不可能だと知ると、.
(9) J.S.ミルにおける 自由原理と個性. サムエ ル・ジョンソンにならって 、 次のように弁解するのであ る。. 「キリスト教の 迫害者たちは 正しかった。 迫害は真理が 通過しなければならない 試練であ り、 真理は常にそれを 無事に通過するものであ る。 法律による刑罰は、 有害な誤りに 対しては時と して有益な効果をもっけれども、 真理に対しては 究極的に無力なものであ る。 (237) 」. ミルは、 サム エ ル・ジョンソンのこの 見解を、 宗教的不寛容に 賛成する議論としては 顕著な一形. 式であ って看過するわけにはいかないとして、 な 虚偽の一つ」にほかならないことを. 「真理は常に 迫害に打ち勝つ」という 格言が「甘美. 解明していくのであ る。 ミルによれば、 歴史は迫害によって. 抑圧された真理の 実例でみちている。 真理は、 たとえ永久に 抑圧されないとしても、 数世紀にわたっ てかえりみられないこともあ った。 宗教改革は 、 ルター以前に 少なくとも. 2 0. 回は起こったが、 こ. とごとく鎮圧された。 ルタ一の時代以後でも、 迫害が 執勘は 行われたところでは、 それは成功し 、 スペイン、 イタリア、 オーストリア 帝国においては 新教は根絶された。 ミルは、 「真理は迫害にう ち勝つ」という 格言に基づいて 宗教的不寛容に 賛成する議論に 反対して、 次のように述べている。 「理性的な人であ る限り、 キリスト教はローマ 帝国で根絶されていたかもしれないということ を疑うことはできない。 キリスト教が 広がって優勢となったのは、 迫害がたまにしか 行われず、 しかもほんの 短期間継続されただけで、 その中間にはほとんど 妨げられない 長い布教の期間が あ. ったからであ る。 真理には、 それが単に真理であ るというだけで 牢獄と火刑に 打ち勝つとい. ぅ、. 誤謬には与えられていない 固有の 力 があ るというのは、 一片の怠惰な 感傷にすぎないⅡ. (238) ミルは、 このようにローマ 帝国でキリスト 教が根絶されなかったのは、 迫害が長期間にわたって 執拘は 行われなかったからだとし、 法律上の刑罰や 社会的な罰を 十分に活用するならば、 真理と誤 謬 のいずれの普及も 阻止することができるだろうと 主張している。 このあ とで、 現代においては 新 しい意見の提唱者が 迫害によって 死刑になることはないが、 1857 年にコーンウォール 州でキリスト 数 に不敬な言葉を 述べただけで、. あ. る人物が 2Uか 月の禁固刑の 判決を受けたことなどをあ げて、. イ. ギリスにおいて 依然として宗教的迫害が 行われていることを 指摘している。 次にミルは、 議論の第二部門として、 一般に受け入れられている 意見のいずれかが、 誤っている かもしれないという 仮定を捨てて、 それらの意見が 真であ ると仮定して、 それらの真理が 自由に公 然と 論議されないときにはどうなるかという. 問題を検討する。 ミルによれば、. あ. る意見がどんなに. 真理であ ろうとも、 十分に自由に 論議されないときには、 その意見は「生きた 真理」としてではな く. 「死んだ独断 (dogmma)」として信奉されるだけであ る。 ところで、 真理とはどのようなものな. のだろうか。 真理とは、 一般に確実な 根拠に基づいて 正しいと認められた 事柄を意味する。 またそ. れは、 観念. ( 思考 ). と事物. ( 存在 ). との一致であ るともいわれる。 この場合、 事物への観念の 一致. とみるのが唯物論であ り、 観念への事物の 一致とみるのが 観念論であ る。 中世末期においては、 啓 示 に基づく信仰と 理性による認識のいずれも 真理と認める 二重真理説が 提唱された。 ミルは、 真理 を 絶対的なものとみなしていない。 の 見解が示しているように、. 点で到達された. 人間は誤りを 犯すものであ り、 また時代も誤りを 犯すという彼. 人間の認識は 歴史的・社会的諸条件によって 制約されており、. あ る時. 真理は栢射的なものにすぎず、 それゆえに思想と 言論の自由が 確保されなければな. らないと主張するのであ る。 ミルによると、 幾何学の真理と 意見の真理とは 性質が異なる。 幾何学 を 学ぶ人は単に. 定理を暗記するだけでなく、 同時にその証明を 理解し習得するのであ る。 それゆえ、. 数学的真理の 証明はすべての 論証が一方の 側にあ り、 反論もなければ、 反論に対する 回答もないの.
(10) Ⅰ. 0. 泉谷. 周三郎. であ る。 ところが、 意見の相違を 生じるような 主題においては、 真理は相争う 二組の理由をあ れこ れ考えることによって 定まるのであ. る。 このことは、 自然哲学にもあ てはまる。 たとえば、 太陽 虫. 心説 に対して地球中心読があ る。 この場合、 他の学説がなぜ 真ではあ りえないかということが 明ら かにされなければならない。 このことが明らかにされない 限り、 人間は自分の 意見の根拠を 理解で きないのであ 「. る。 ミルは、 相 争う学説における 真理に関して、 次のように述べている。. 相 争う学説が、 一方が真で他方が 誤りというのではなく、 両者が真理を 分有しており、 一般. に受け入れられている 学説は、 真理の一部を 含んでいるが、 残りの部分を 補うために相反する 意見が必要とされるのであ る。 感覚によって 明らかにできない 諸問題に関しては、 一般民衆の 意見がしばしば 真であ るけれども真理の 全体であ ることは、 ほとんど、 あ るいは全くないので あ る 0 」 (252). ミルによれば、 いかなる意見も、 それが真理の 全体であ ることはほとんどないので、 な 意見が多くの. あ. る異端的. 誤りや混乱を 含んでいようとも、 これを貴重なものとして 尊重しなければならない。. ミルは、 第二章の終わりで、 意見の自由と 意見の発表の 自由が人類の 精神的幸福にとって 不可欠な ものであ るとし、 そのことは、 次の四つの明白な 根拠によって 明らかだと主張する。 その根拠を要 約すると次のようになる。 (1) もしあ る意見が沈黙を 強いられるとしても、 ことによったら、 その意見は真であ るかもしれ ない。 このことを否定することは 無 誤謬性を仮定することであ る。. (2) 沈黙させられた 意見が誤りであ るとしても、 それは真理の 一部分を含んでいるかもしれない し、 また実際含んで い ることが普通であ る。 また諸問題において 多数者や世論が 真理の全体で あ. ることは、 めったにないので、 残りの真理が 補足される機会は 相反する意見との 衝突によっ. てであ る。. (3) 一般に受け入れられている. 意見が真理の 全体であ. るという場合でも、 それが精力的に 試論さ. れることがないなら ぱ 、 その意見を受け 入れる人々のほとんどは、 その合理的根拠について 考 えなくなってしまう。. (4) もし自由な討論がないならば、 学説そのものの 意味が失われるか 弱められて、 その意見が人 間の性格と行為に 与える生き生きした 影響力が奪われてしまうだろう。 この 四 つ め 根拠のなかで、 第二章での議論の 展開をふまえると、 最初の二 つが 特に重視されてお. り、 残りの二つは 補足的な条件とみなすことができる。 な 形成し、. このようにしてミルは、 人間が自由に 意見. その意見を腹 蔵 なく発表するこのが 絶対に必要であ る理由を明らかにするのであ る。. 4. 幸福の 一 要素としての 個性 ミルは、 第三章では、 思想と言論の 自由を支持する 理由に基づいて、 人間は自分の 意見を生活の なかで自由に 実行すべきかいなかという. 問題を検討する。 ミルによれば、 人間が不完全であ. は 、 さまざまな意見の 存在することが 有益であ. る0. またさまざまな 生活の実験. る限り. (experimen. も. of. living) が存在していることや、 他人に害を及ぼさない 限り、 さまざまな性格に 対して自由な 活動. る。 要するに、 「第一義的に 他人に関係しない 事柄においては、 個性 (individuality) が自己主張することが 望ましい。 その人自身の 性格ではなくて、 他人の伝統 の場があ たえられることも 有益であ. や 慣習. (custom) が行為の規則となっているところでは、. 人間の幸福の 主要な構成要素の 一つで.
(11) 11. J.S.ミルにおける 自由原理と個性. あ. り、 かっ個人と社会の 進歩の主要な 構成要素をなすものが 欠けているのであ る。 (261) ところが、 個性の重要性を 主張する際の 最大の困難は、 一般の人々が 個性の自由な 発展が幸福の 」. 主要な構成要素の 一つであ るということを 痛感していないことであ るのもしこのことが 痛感されて. いるならば、 自由が軽視される 危険性は存在しない に 満足しているので、. ものであ. 0. 大多数の人々は、 現在のあ るがままの生き 方. (spontaneity)が固有の価値をもち、 それ自体尊重に 値する ることを認めていない。 さらに道徳と 社会を改革しょうとする 人々も、 自発性を彼らが 最 個人の自発性. 善 のものと考えるものを 一般の人々に 受け入れさせる 場合の障害になるものとして 者戒心をもって. いる。 ミルは、 このように大多数の 人々は、 個性の重要性を 自覚しておらず、 また人間の諸能力を 最高度に発展させるという 意味での「人間の 目的」を理解できなくなっているとして、 「人間の目 的」の定義として、 ウィルヘルム・フォン・フンボルトの 言葉を 、 次のように引用するのであ る。. 「人間の目的、 すなわち理性の 永遠または普遍の 命令によって 規定されており、 暖昧で 移ろい やすい欲望によって 示唆されたものではない 目的は、 人間の諸能力を 最高度にまた 最も調和的 に 発展させて、. 完全にして矛盾のない 一つの全体とすることであ る。 (261) 」. ミルは、 人生の目的をこのように 提示して、 すべての人々が 常に留意すべき 目的として「個性」 を 明示し、 この目的を達成するためには 二つの条件、 すな ね ち、 「自由と状況の 多様性」が必要で あ ることを強調するのであ る。 ミルによると、 この二つの結合から「個性の 活力と豊かな 多様性」 が 生じ、 さらに後者の 二 つが 結合して「独創性」 (originality) となるのであ る。 また経験を自分 自身の仕方で 活用し解釈することは、 諸能力が成熟に 達している人間の 特権 であ る。 彼は、 伝統や 慣習のどの部分が 彼自身の境遇と 性格に適用されているかを 知ることができる。 しかし、 単に慣習 であ るがゆえに慣習に 従うという人は、 彼自身の諸能力を 育成し発展させることができない。 知覚、 判断、 識別感情、 精神活動、 道徳的 選好 という人間の 能力は、 選択 (choice)という行為をなすこ とによってのみ 訓練されるのであ る。 慣習であ るがゆえにあ る行為をなすという 人は 、 何の選択も. る。 自分の生活設計を 世間や集団の 選択にまかせる 人は 、 猿の模倣能力以外のいかな る 能力も必要としない。 他方、 自分の生活設計を 選択する者は、 彼のすべての 諸能力を活用する。 しないのであ. 彼は 、 見るために観察力を ,予知するために推理力と判断力を、 決断するために 識別 力 などを使用. しなければならない。. また独自の欲望と 衝動をもっている. 人が性格をもつといわれる。 他方、 独自. の欲望と衝動をもたない 人は、 蒸気機関に性格がないと 同様に 、 全く性格をもたないのであ る。. ミ. は、 人間をこのように 二種類に区分し、 自分の生活設計を 選択し、 自分諸能力を 活用して、 人間 の目的を追求する 者を個性のあ る人とみなすのであ る。 またミルによると、 初期の社会状態においては、 個人の自発性と 個性が強くて、 社会の諸原則が. か. これと苦闘していた 時代があ. った。 この困難を克服するために、 法と秩序は、 全人格を支配する. 力 を主張し、 その人の性格をおさえて 彼の全生活を 支配することを 要求したのであ. 権. る。 ところが、. 現代は、 社会の諸原則が 強くなり、 個人は自発性と 個性を矢ってしまい、 自由を欲しない 人々が 増 えている。 ミルは、 当時の社会の 憂うべき状態を 、 次のように述べている。. 「今や社会は、 すでにかなりの 程度まで個性に 対して勝利を 収めている。 そして人間性を 脅か している危険は、 個人の衝動や 好みが多すぎることではなく、 それが不足していることであ る。 現代においては、 社会の最高の 階級から最低の 階級に至るまで、 誰もが敵意あ る恐ろし い 監視のもとに 暮らしているかのよ. であ. う. であ る。. 彼らは、 自らに向かってこうたずねるの. る。 何が自分の地位にふさわしいことであ るか、 私と同じような 身分と経済状態にあ. る人々.
(12) 12. 泉谷. 周三郎. は 何をするのが 普通だろうか、 あ るいは自分より 上の身分と経済状態にあ る人々は 、 何をする. のが普通だろうか、 と。 私は 、 彼らが彼ら自身の 性向に合うものを 捨てて慣習化しているもの を 選ぶ、 といっているのではない。 彼らは、 慣習化しいるものに 対するものを 除けば、 なんの 性向ももとうとしないのであ る。 このように精神がく. び きにつながれているのであ. る口. (264-. 5) ミルは、 当時の人々が 世論や慣習の 中に埋没して 無気力になっている 姿に時代の危機を 見出して いるのであ る。 ところで、 第三章では「幸福の 一 要素としての 個性」という 主題が掲げられ、 個性 を 発展させることの. 重要性が主張されている。 ミルは、 フンボルトの「人生の 目的」を中心に 幸福. 論を展開して、 人間の諸能力を 活用して個性を 発展させることのうちに 幸福を見出しており、 アリ ストテレスの 幸福論と類似した 立場をとっている。 アリストテレスによると、 幸福とは、 「最も善 き最も究極的な 卓越性に即しての 魂. (プ. シュケ一. ). の活動」叫であ り、 しかもそれは、 全生涯を通. じてのものでなければならない。 それゆえ、 幸福とは、 単なる魂のあ り方や状態のことではなく、. また偶然の産物でもなく、 人間の努力によって 獲得されるものであ る。 また卓越性は、 知恵・思慮 のような知的卓越性と 寛厚・節制のような 倫理的卓越性に 区分される。 そして倫理的卓越性は 、 生 まれつき人間に 具わっているものではなくて、 訓練と習慣づけによって 獲得されるのであ る。 この ように、 ミルがアリストテレスの 幸福論の影響を 受けていることは 明らかであ るが、 幸福を全体と してどのように 捉えていたかを. 考察するには、 L 功利主義論口を 参照することが 必要であ る。. ミルは、 『功利主義論』の 第二章で功利原理を 定義して、 次のように述べている。 「『助手Ⅱ』または『最大幸福の. 原理Ⅰを道徳的行為の 基礎として受け 入れる信条にしたがえば、. 行為は、 幸福を増す程度に 比例して正しく、 幸福の逆を産む 程度に比例して 誤っている。 幸福 とは、 快楽を、 そして苦痛の 不在を意味し、 不幸とは苦痛を、 そして快楽の 不在を意味する 口. (210) ここでは幸福は、 快楽および苦痛の 不在と定義され、 その後で幸福が 目的として望ましい 唯一の ものであ ると主張されている。 ミルによると、 この人生観は 、 多くの人々に 嫌悪の念を呼び 起こし、 人生に快楽より 高級な目的はないとする 立場は、 豚 向きの学説であ ると批判されてきた。 この批判. を受けて、 ミルは、 功利主義ではエピクロス 派の立場にキリスト 教とストア的要素を 取り入れ、 あ 6 種の快楽がほかの 快楽よりもいっそう 望ましく価値があ るという事実を 認めても、 功利原理とは. 矛盾しないとし、 最大幸福の原理に 基づいて、 「窮極目的は. ・. 質 ともにできるだけ 苦痛を免れ、. できるだけ享受が 豊かな生存」 (214) であ ると述べた上で、 幸福こそ人生の 目的だと教えた 哲学者 の 幸福観を 、 次のように述べている。 「この哲学者たちのいう. 幸福は、 歓喜の生活ではなかった。 数少ない一時的な 苦痛と、 数多く. のさまざまな 快楽とからなり、 受動的な快楽よりも 能動的なものが 圧倒的に多く、 しかも全体. の基調として、 人生が与えうる 分以上を人生に 期待しないという 態度をもつような 生存の中に あ. る、 歓喜の幾瞬間を 意味したのであ る。 このように構成された 人生は 、 運 よくそれを味わう. ことができた 人々にとって、 いつでも幸福の 名に値するように 思われた。 (215) 」. この引用文に 見られるように、 ミルにとって 幸福とは、 単純に快楽に 置き換えることのできるも. のではなくて、 数少ない一時的苦痛とさまざまな 快楽からなるもので、 しかも能動的なものであ る。 ミルによると、 幸福の成分は 千差万別であ り、 徳、 金銭、 権 力、 名声がそれ自体として 攻められる とき、 それらは幸福の 一部として求められているのであ. る。 ミルの幸福の 観念は 、 Ⅰ功利主義論Ⅰ.
(13) 13. J.S.ミルにおける 自由原理と個性. を 参照することによってかなりの. 程度解明できたので、 Ⅰ自由論Ⅰにもどって、 個性と幸福および. 人生観との関係を 考察することにしたい。 ミルの自由についての 考え方は 、 彼の人間本性論と 幸福 の 観念によって あ. 支えられている。 ミルによれば、 人間木性は、. あ. る模型によって 組み立てられたり、. らかじめ定められた 仕事をするように 作られている 機械ではない。 それは一本の 樹木であ って 、. 自己をあ らゆる方向へと 発展させることを 求めるものであ ると、 人間の一大罪悪は 自己意志 (self-will)であ. る0. る0. ところが、 カルヴァン派の 理論によ. 人間本性は、 根本から腐敗しているので、. 誰 にとっても人間本性が 彼の内部で絶やされてしまうまで 救いはない。 それゆえ、 人間は神の意志 に自分をゆだれる 能力以外にどんな 能力も必要としないのであ る。 ミルは、 カルヴァン派の 偏狭な 人生観に反対して、 人間本性を発展の 可能性のあ るものととらえる。 そして人間の 諸能力を開発し 発展させることが、 社会全体に生き 生きした生命をみなぎらせると 確信して、 個性の発展の 意義を 、 次のように強調するのであ る。 「人間が高貴で 美しい観照 (contemplation)の対象となるのは、 彼ら自身のうちにあ る個性 的なもののすべてをすりへらして 画一的なものにしてしまうことによってではなく、. 他人の権. 利と利益によって 課された制限の 範囲内で、 個性的なものを 育成し引き立たせることによって であ る。 およそ人間の 事業は、 それを行う人々の 性格を分有するものであ るから、 今述べた同 一の過程を経て、 人間の生活もまた 豊かで変化に 富み生気に満ちたものとなる。. 」. (266). ミルは、 個性の発展が 個人の日常生活を 一変させ、 社会全体に大きな 影響を与えることを 強調す る。. 彼によれば、 個性は発展と 同一のものであ り、 個性の育成のみが 十分に発展した 人間を生むの. であ る。 この十分に発展した 人間が、 まだ発展していない 人間のために、 役立つことを 示すには、 独創性の重要性が 明らかにされなければならない。 独創性とは、 新しい真理を 発見し、 新しい慣習 を開始して人間生活における 啓発の原動力となるものであ. る。 すべての進歩は 独創性の産物なので. あ る。 だが、 このような独創性をもち、 従来の慣習を 改善できる人は、 ごくわずかしかいない。 れらの少数者が 地の塩なのであ. る。 彼らがいなかったならば、 人間の生活はよどんだ. こ. 水 たまりのよ. うになってしまうであ ろう。 彼らは、 新しいすぐれたものを 社会に導入するだけでなく、 すでに存 在している善きものに 再び生命を与えるのであ る。 このような独創性をもつ 人、 すな ね ち、 天才に. は、 彼らが成長する 土壌がなければならない。 天才は、 自由の雰囲気の 中においてのみ 自由に呼吸 ができるのであ る。 天才は、 天才たるのえんによっていかなる 人々よりも個性的なのであ る。 とこ. ろが、 ミルによると、 当時の世論の 動向は、 天才の活躍を 望まず、 個性の顕著な 表現に対して 不寛. 容になっている。 一般の人々は、 知性において 平凡であ るばかりでなく、 性向においても 平凡であ る。. それゆえ、 彼らは天才を 理解できず、 天才を粗野な 人々と同類とみなしてしまうのであ. る。. ミ. ルは、 当時の社会における 大衆の台頭につて、 次のように述べている。. 「現在、 個人は群出 (crowd) の中に埋没している。 政治においては、 今や世論が世界を 支配 しているなどということは、 ほとんど陳腐な 言葉になっている。 その名にふさしい 唯一の 力 は 、 大衆の 力 であ. る。. その意見が世論として 通用している 人々は 、 必ずしも常に 同じ種類の. 大衆であ るとは限らない。. アメリ ヵ. では、 それは白人全体であ り、 イギリスでは、 主として. 中. 産 階級であ る。 しかし、 彼らは常に大衆 (mass) すな ね ち、 凡庸者の集団 (collective mediocrity). であ. る。. 主権 をもっ多数者が 彼らよりすぐれた 才能と教養をもつ 一人または数. 人の勧告と影響力によって. f き尊 されるれるのでない. 限り、 民主制あ るいは多数貴族制による. 政府は、 その政治活動においても、 またそれが育成する 思想や資質や 精神活動においても、 凡.
(14) 14. 泉谷. 周三郎. 席以上になったことはないし、 またなり得えなかったのであ る。 軽明 な、 また高貴な事柄の 上 べては、 個人からでてくるものであ り、 また個人から 生まれなければならない。 (268-9) 」. またミルによると、 慣習の圧制は 至るところで 人間の進歩に 対する障害物になっている。 慣習は 、 単なる慣習的なものよりもよりよきものを. 目指す傾向に 対して、 絶えず敵対しているのであ る。. し. かし、 改革を生む唯一の 確実で永続的な 源泉は自由なのであ る。 ミルは、 第三章の終結部で、 再び フンポルトの 言葉を取り上げ、 人類の進歩に 必要な二つのもの、 すな. ね. ち、 自由と状況の 多様性の. 重要性を強調する。 ミルによれば、 この二つの条件のうち、 第二のものが、 イギリスでは 日毎に 失 われている。 かつては異なった 身分の人々 、 異なった職業の 人々は 、 異なった世界の 中に生きてい. たが、 今ではほとんど 同じ世界に生きている。 彼らは同じものを 読み、 同じものを聞き、 同じもの を 見、. 同じ対象に対して 希望と恐怖を 抱いている。 政治の変化はこの 作用を促進している。 教育の. 拡張もこの作用を. 促進している。 また交通手段の 改良も同化作用を 促進している。 ミルは、 このよ. うに、 個性がその立場を 守ることが、 ますます困難になってきていることを 痛感して、 今こそ個性 の 権 利を主張すべき. 時であ ることを強調するのであ る。 拮. 梧. ミルのⅠ自由論Ⅰを 考察して評価する 際には、 最初に彼が生きたイギリスの 社会状況と彼が ハ. リ. ニットとの関係でどのような 体験をしたかということが 考慮されなければならない。 1851 年 5 月. 1. 日、. ヴィクトリア 女王とアルバート 公の臨席のもとで、 第一回ロンドン 万国博史 会 が開催された。. 世界で最初の. 万国博覧会は、 連日押すな押すなの 大盛況で、 入場者数は延べ 人数で 600万を超えた. ともいわれている。 この万国博覧会は、 イギリスにおける 19世紀前半の「不安と 飢餓の時代」から. 50年代以降の「繁栄の 時代」への転換点を 示している。. ミルの権 威あ る伝記を書いた. M.J. パック. によると、Ⅱ 1859 年頃 のイギリスでは、 個人の自由が 失われはじめ、 集団主義の傾向が 強まって い た 0 またミルに関しては、 1849 年にハリエットの 夫であ るジョン・テイラーが 死去し、 1851 年にミ ルは ハリェソトと 結婚した。 この結婚により、 友人や親族との 間で不和が生じたといわれている。. ミルは、 当時の集団主義的傾向の 強まりに危機感を 抱くとともに、 社会的専制が 個人をいかにひど く傷つけるかを 痛感して、 個人の自由の 擁護を試みたのであ る。 次に今日ミルのⅠ自由論Ⅰを. 論じる場合、. ミルの自由主義と 功利主義に関するジョン・グレイの. 見解に言及しないわけには 行かない。 というのは、 グレイは、 かつてはミルの 思想を好意的に 再構. 努めて、 ミルの自由主義が 分権 主義的で、 反国家主義的であ り、 発展した社会におけ る経済の停止状態を 想定して、 それに対する 備えを論じていることなどをあ げて、 その急進主義を. 成することに. 高く評価していた。 ところが、 1976 年頃 からミルの思想に 対して厳しい 批判を述べるようになって 、. 注目されている。 グレイは、 論文「 J.5.ミルと自由主義の. 将来」. (1988) において、 ミルの自由主. 義に対して容赦ない 批判を浴びせている。 グレイによると、 ミルの思想の 中には自由主義を 構成す るあ. らゆる要素が 最も明確な形で. たとえば、 妥協なき個人主義、 他の政治的善に 対する自由の. 無条件な優先、 理性の賢明な 行使によって 人間の運命は 無限に改善されるという 信念一一見出され ると考えられてきた。 だが、 グレイは、 このようなミル 解釈に異を唱え、 ミルの自由主義は 、 最も 説得力めない 自由主義だと 決めつけている。 またミルの自由原理と 個性概念に対しても 痛烈な批判 を 展開している。" グレイによれば、 ミルの自由原理は、 他者への侵害を 防止する場合に 限って 行.
(15) 15. J.S.ミルにおける 自由原理と個性. 荒者の自由が 制限されることだけを 述べている。 この原理は、 「消極的な面についていえば、 これ は 十分に明快かっ. 単純な原理であ る。. 他方、 積極的な面についていえば、 実際いっ自由を 制. ・. 限 するのが正しいのかについて 何も教えてくれない 上のであ り、 根木的に不完全な 原理であ る。 さらにミルは、 幸福をさまざまな 要素に分解することによって、 帰結主義を維持するのに 必要な総 計 約 判断ができなくなっている。 つまり、 ミルの功利主義では、 全体的厚生についての 比較判断が できないのであ る。・ところで、 ミルの自由主義にとって 最も重要な要素は、 個性概念と進歩理論で あ る。 ミルのいう個性とは、 自己実現の 一 形式、 すな ね ち、 「人々が人間に 特有の自律的な 思考や. 自律的選択の 能力を発揮し、 各人の性格によってもたらされるさまざまな 欲求を満足させる 生活様 式を用いること」 " であ る。 だが、 ミルの個性概念では、 慣習から距離をおいた 自律的選択という. 概念が用いられ、. あ. らゆる伝統的な 生活様式が個性を 欠いたものとして 非難されている。 このよう. に ミルの個性概念は、 文化的伝統を 無視した多様性のない 個性であ り、 それゆえ、 進歩理論も伝統. という重要な 要素を無視している。 グレイによれば、 伝統と慣習は、 進歩の障碍ではなくて、 その 条件であ る。 このようにミルが、 個性の基盤としての 伝統や慣習の 役割を無視したことは、 彼の進 歩理論に合理的な 歪みと個人主義的な 歪みを与えている。 また論文「ミルの 幸福概念と個性概念」. (1983) では、 間接的功利主義を 適用して、 幸福と自律を 解明しようとしている。 グレイによると、 ミルの幸福概念は 抽象的で複雑であ って、 「幸福をさまざまな 形の幸せな生活のうちに 見出される 計画、 愛着、 理想へと分解する 点で、 階層秩序をなしており、 多元的であ る。 " またミルが「欲望 」. と 衝動が自分自身のものであ. る人は、 性格をもっている 人」という文章のうちに、 カントの自律 概. 念の形跡が見出される。 そして閉じられた 自律概念は、 スピノザのうちに 見出すことができる。 らに. さ. ミルの人間本性論について「個性概俳は、 人間は自分自身を 形成していく 存在であ るという主. 張と、 各人には発見されるのを 待ち受けている 本性があ るという主張とを 結びつけ ザ ているとし、 その 暖昧 さを批判している。 この論文では、 グレイは、 前の論文とはちがって、 ミル研究における 修正派の立場で. 論議を展開している。 ここでは、 個性、 幸福、 自律、 選択といった 主要概俳がかな. り 詳しく考察された. 上で、 ミルの幸福概念と 個性の位置づけに 関して重大な 難点が見出されると 結. 論づけている。 ジョン・. グレイの批判は、 該博な知識に 基づいてなされており、 大変興味深いものであ る。. し、 ミルの自由原理と 個性概念への 批判は、 自由論 千. ユ. しか. が執筆された 当時の状況を 無視しており、. かつミルの思想をできるだけ 忠実に理解するという 姿勢を欠いており、 到底受け入れることのでき ないものであ る。 ミルは 、 彼の時代のイギリス 社会の中に個人の 自由を無視する 傾向が強まってき. ているのを見て、 自分にのみかかわる 行為においては 絶対的な自由を 確保することが 必要であ るこ とを確信して、 自己防衛の原理. ( 危害原則 ). を提示したのであ る。 グレイは、 ミルの自由原理はい. つ 自由を制限するのが 正しいかを教えてくれないと 批判しているが、 私にはそうは 思われない。 と. いうのは、 ミルは、 この原理によって、 市民社会における 個人の自由の 正当な範囲をかなりの 程度 正確に決めることができると 考えていた。 自由論 コの 第五章の冒頭で、 政治と道徳のさまざまな 丁. 部門で、 この原理が適用されるならば、 「なんらかの 効果を期待できるだろう」とも 述べている。 次にグレイによる 個性概念への 批判は、 ミルの文章を 彼自身の問題意識に 基づいて解釈したも ので、 見当違いな批判とみなすことができる。 グレイによると、 ミルの理論では、 人間は生活の 実. 験を通じて個性を 実現することになる。 だが、 ミルのい. う. 個性は、 伝統や慣習を 無視しており、 そ. れゆえ、 彼の進歩理論にも 合理主義的な 歪みと個人主義的な 歪みを与えている。 そこから進歩が. ミ.
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