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<論説>テロリストに対する自衛権の適用可能性(6)

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テロリストに対する自衛権の適用可能性 (6)

近藤 航

* **   目 次 Ⅰ.はじめに  1.問題の所在   (1)テロと国際法   (2)テロと自衛権   (3)テロと武力攻撃  2.分析範囲 Ⅱ.「武力攻撃」の主体  1.所在国による武力攻撃

論  説

        * 博士(国際経済法学)横浜国立大学、2012 年。一橋大学大学院国際・公共政策教育部ティー チング・アシスタント(2012 年度)、同大学大学院法学研究科リサーチ・アシスタント(2013 ~ 2015 年度)。グ ラ ス ゴー大学法学部(・大学院)(The University of Glasgow, School of Law)(英国 / スコットランド)客員研究員(2017 年 1 月~ 3 月)。城西国際大学経営情報 学部非常勤講師(2017 年 4 月~)。関東学院大学法学部非常勤講師(2017 年 9 月~)。

** 本稿は拙稿「テロと自衛権─国連憲章第 51 条『武力攻撃』の主体と内容─」博士論文(横

浜国立大学)、2012 年(同年 3 月、『横浜国立大学大学院国際社会科学研究科長表彰』受賞) の第 3 章と第 4 章を全面的に修正したものである。

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  (1)国際司法裁判所の基本姿勢   (2)国際司法裁判所の曖昧性  2.テロリストによる武力攻撃 Ⅲ.テロリストに対する自衛権の適用根拠  1.理論的根拠   (1)憲章第 51 条   (2)憲章第 2 条 4 項   (3)憲章第 1 条  2.実証的根拠   (1)安保理決議 1368 および 1373   (2)9.11 テロ事件後の国家実行(以上、第 25 巻第 1 号) Ⅳ.憲章第 51 条「固有の権利」の意義  1.戦前の国際慣習法上の権利   (1)憲章による明示的保存   (2)憲章による黙示的保存の可能性   (3)保存の困難性    ⅰ.新たな国際慣習法の生成    ⅱ.新たな国際慣習法に基づく憲章の解釈・修正     (ⅰ)憲章の解釈      a.文言主義的解釈      b.目的論的解釈と事後の実行     (ⅱ)憲章の修正    ⅲ.解釈・修正の限界  2.自然権に由来する権利   (1)国家防衛の最後の砦としての自衛権   (2)最後の砦となりうる他の法理

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Ⅴ.憲章第 2 条 4 項「武力行使」の主体・客体との整合性  1.テロリストに対する武力不行使原則の適用可能性   (1)否定説    ⅰ.国内法の域外適用     (ⅰ)立法管轄権と執行管轄権     (ⅱ)域外法執行の目的    ⅱ.緊急避難     (ⅰ)強行規範との抵触可能性     (ⅱ)強行規範の主体     (ⅲ)強行規範の敷居(以上、第 26 巻第 1 号)    ⅲ.自衛権     (ⅰ)自衛権の構造      a.テロリストによる攻撃      b.テロリストに対する反撃     (ⅱ)所在国に対する自衛権の例外     (ⅲ)テロリストに対する自衛権      a.自衛権による正当化の必要性       (a)所在国が存在しない場合       (b)所在国の同意がある場合       (c)テロリストの行為が所在国に帰属しない場合      b.正当化対象       (a)「武力行使」という国際違法行為       (b)「武力行使」以外の国際違法行為       (c)国際違法行為以外の行為(以上、第 26 巻第 2 号)   (2)肯定説    ⅰ.自衛権    ⅱ .Kolb 説の特徴:憲章第 2 条 4 項の人的適用範囲の目的論的解釈     (ⅰ)武力行使能力     (ⅱ)領域基盤

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     a.領域基盤を持つテロリスト      b.領域基盤を持たないテロリスト      c.「領域基盤」要件の法的位置づけ    ⅲ.矛盾:憲章第 2 条 4 項「国際関係」の意味と効果    ⅳ.意義     (ⅰ) 武力不行使原則の実効性     (ⅱ) 問題解決のための実践性(以上、第 26 巻第 3 号)  2.友好関係原則宣言   (1)東側・非同盟・中南米諸国の解釈   (2)西側諸国の解釈   (3)対立解釈の部分的残存    ⅰ.従属人民に対する「強制行動」の禁止    ⅱ .「強制行動」に対する「自衛権」  3.国際司法裁判所   (1)壁事件(2004 年)    ⅰ.パレスチナの未成熟な国家性    ⅱ.パレスチナに対する武力不行使原則の適用可能性   (2)壁事件のインパクト(以上、第 27 巻第 1 号) Ⅵ.事例  1.自衛権の主張と肯定的反応   (1)不朽の自由作戦(2001 年~)   (2)壁事件(2004 年)   (3)第 2 次レバノン戦争(2006 年)   (4)オサマ・ビン・ラディン殺害作戦(2011 年)   (5)対 ISIL 空爆(2014 年~)  2.否定的反応とその理由   (1)自衛対象の誤認(誤爆)    ⅰ.ケニア・タンザニア米国大使館爆破テロ事件(1998 年)

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   ⅱ.ダマスカス事件(2003 年)   (2)自衛方法の残忍性 (均衡性・自決権・人権法・人道法違反等)    ⅰ.第 2 次チェチェン戦争(2002 年)    ⅱ.壁事件(2004 年)    ⅲ.第 2 次レバノン戦争(2006 年)    ⅳ.イスラエルのガザ地区攻撃(2008 ~ 2009 年)   (3)「武力攻撃」の不在─ FARC 事件(2008 年)─(以上、本号)      Ⅶ.おわりに  1.テロリストに対する武力不行使原則と自衛権の適用可能性   (1)適用理論の特徴と意義   (2)法的基礎    ⅰ.実証的基礎     (ⅰ)国際司法裁判所の動向     (ⅱ)今世紀の慣行    ⅱ.理論的基礎─目的論的解釈を土台として─     (ⅰ)憲章第 2 条 4 項「国際関係」     (ⅱ)友好関係原則宣言武力不行使原則第 7 項     (ⅲ)憲章第 51 条「自然権」に由来する「固有の権利」   (3)付随的問題    ⅰ.テロリストの自衛権    ⅱ.テロリストの国際責任  2.テロリストに対する自衛権の限界   (1)人に対する配慮    ⅰ.自決権主体    ⅱ.交戦者と市民   (2)国・国際社会に対する配慮

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(結論と本実証分析の “ 独自性(オリジナリティー)”についての補足説明)  本号は、テロリストのような非国家主体に対する自衛権の適用可能性につい て実証的に考察するものである。本論(以下、Ⅵ.事例)における具体的な事 例分析に入る前に、結論と本実証分析の “ 独自性(オリジナリティー)”につい て明らかにしておこう。  本号では、今日の国際法の姿を明らかにする上で特に重要となる今世紀の事 例(他国に対して越境攻撃を行うテロリストのような非国家主体が自国領域内 に所在しているにもかかわらず、当該所在国が彼らを取り締まる意思または能 力を有していないために、同国内において被攻撃国自身が最終的に当該非国家 主体に対する軍事行動をとり、その正当化のために「自衛権」が主張された事例) を主な分析素材とする275)。分析の結果、そのような自衛権の主張に対する国        275) 自衛権の主張の妥当性を評価する際には、紛争当事者(自衛権主張国、テロリストの 所在国等)の主張も重要ではあるが、より客観的な見方のできる第三者の反応の方が むしろ重要である。浅田「非国家主体と国際法─『侵略の定義』決議第 3 条(g)を中 心に─」(前掲注 8)、2013 年、837-838 同旨。本稿の実証分析では、このような理解に 基づき、第三者である国際社会の反応(特に国連の安保理と総会の決議および討議の 中で示された第三者の反応)が重視される。実際、『安保理』は「国際の平和および安 全の維持に関する主要な責任」(憲章第 24 条)を負っていることから、そこでの決議・ 討議は当然重要となる。      他方で、『総会』は「すべての国際連合加盟国」(憲章第 9 条)で構成されているこ とから、そこでの決議・討議は主権平等や価値の多様性への配慮の観点からは重要で ある。言い換えれば、“ 公平・公正 ” の観点から重要といえる。そのように考えると、『安 保理の反応』と『総会の反応』のいずれの方が重要であるかは、特に国際法の発展の あり方まで考察する場合には、一概にはいえない。      なお、「国連に対してのみ責任を負う」(憲章第 100 条)国連事務総長の行動も、個 人の資格に基づくものではあるが、国際社会における正義(公平・公正等)の実現に 資することが期待されている。実際にも概ね高く評価されてきており、注目される。

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際社会の反応には賛否の交錯が見られることを認める。しかし、ⅰ)諸国が法 治国家として責任ある反応を示してきたとすれば、ⅱ)自衛権の主張に対して 国際社会から否定的な反応も中には見られるものの、それは「テロリストに対 する自衛権の適用条件」の不充足を根拠とする批判を意味するに留まり、「テ ロリストに対する自衛権の適用可能性」それ自体を否定する趣旨ではないとの 結論が導かれる276)  なお、本稿は、「他国に所在するテロリストに対する越境軍事行動」を、㊀ 「テロリストに対する軍事行動」の側面と㊁彼らの「所在国への軍事侵入」の 側面に分けた上で、㊀の方を中心に扱うものである。国際法は基本的に国家間 関係を規律する法であるから、国際法上の自衛権が「国家」と「国家」の関係 に適用可能であることについては争いがない。しかし、「非国家主体」と「国 家」の関係に適用可能であるかどうかについては争いがある。実際、「非国家 主体(テロリスト)」と「国家(テロリストに対する越境軍事行動をとる国)」 の関係が問われる上記㊀の側面では、テロリストに対する「自衛権の適用可能 性」・「自衛権の適用条件」が問題となる。他方で上述のとおり、国家間関係に は自衛権は当然適用可能であるため、「国家(テロリストの所在国)」と「国家 (テロリストに対する越境軍事行動をとる国)」の関係が問われる㊁の側面では、 「適用可能性」・「適用条件」という表現は一般的には用いられない。その代わ りに、所在国に対する「自衛権行使の許容性」・「自衛権行使の要件」と表現 されることが多い277)。㊀の側面で問題とされる「適用条件」と㊁の側面で問        276) 要するに、「テロリストに対する自衛権」に否定的な反応も国際社会の中には見られる が、それは「条件付否定」(つまり、条件を満たせば肯定されるもの)であり、「無条 件否定」ではない。 277) なお、本号で引用する著書・論文は、筆者(近藤)による注意書きが記されたものを 除けば、上記㊀の側面と㊁の側面が明確に区別されてはいない。本稿と比べ、拙稿「テ ロと自衛権─国連憲章第 51 条『武力攻撃』の主体と内容─」博士論文(横浜国立大学)、 2012 年(第 3、4 章:「『非国家主体による武力攻撃』に対する自衛権」という法概念の

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題とされる「行使要件」は、いずれも自衛権による対応が許されるための条件 を意味するものであり、その点で両者に本質的な相違はない。以上を踏まえ、 ㊀の側面を中心に扱う本稿では、「適用可能性」・「適用条件」という表現が基 本的に用いられる278)  このように㊀の側面と㊁の側面を分けて分析する場合、厳密に言えば、国際 社会から批判を受けた「自衛権の条件の不充足」が、上記㊀の側面に関する「テ ロリストに対する自衛権の適用条件の不充足」と、上記㊁の側面に関する「所 在国に対する自衛権の行使要件の不充足」のいずれを意味するのかという問題 が生じることになる。前者を意味するとすれば、反対の証拠がない限り、それ は「テロリストに対する自衛権の適用可能性」それ自体については認めること            存否について検討する章)も、この点の区別については十分であるとはいえない。主因 は、国連と国家の言動が必ずしも常に十分に明確ではなく、実証上は厳密な区別が容易 ではないことによる。(その難しさは、第 2 次レバノン戦争に関する浅田の見解(後掲 注 341 参照)にも表れている。)そのような不明確な部分を、実証分析の多角化や理論 的補足等のさまざまな工夫により、いかに補足・明確化しながら論証できるかが重要な ポイントとなる。 278) 厳密に言えば、上記㊀の側面についても、「適用可能性・適用条件」と「行使許容性・ 行使要件」とを区別して考えることができる。実際、テロリストに対する自衛権の「適 用」が可能であることを前提に、その「行使」の許容性・要件が問題となると考えれ ば、そのような区別は可能である。もっとも、その区別基準についてはいろいろな解 釈がありえよう。いずれにせよ、区別すればその分だけ議論は複雑となる。それを理 解するための読者の負担が増すことにもなる。しかし、必ずしもそのように議論を複 雑化させる必要はない。本稿における実証分析のねらいは、「テロリストに対する自衛 権」に否定的な反応も国際社会の中には見られるが、それは「条件付否定」であり「無 条件否定」ではない、ということを示すことにあり、そこに本稿の独自性がある(前 掲注 276 参照)。それを示すことは、その「条件」が「適用条件」と「行使要件」のい ずれを意味するのかという細部の論点に踏み込まずとも可能だからである。このよう な理解に基づき、本稿では㊀の側面について、「適用可能性・適用条件」と「行使許容 性・行使要件」をあえて区別しない。すなわち、後者を含む広い概念として前者の「適 用可能性・適用条件」という用語が使用される。

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を前提とする279)。後者を意味するとすれば、㊀の側面については何も批判さ れていないのだから、反対の証拠がない限り、「テロリストに対する自衛権の 適用可能性」が否定されたとはいえない。このように考えると、前者と後者の いずれを意味するのかについて諸国の発言の趣旨が必ずしも明確ではないこと もあるが、そのいずれを意味するにせよ、反対の証拠がない限り、「テロリス トに対する自衛権の適用可能性」それ自体を否定するものではない。  なお、「テロリストに対する自衛権の適用可能性」の論証には、このように “ 適用条件の不充足を根拠とする批判 ” を手掛かりとする論証の視角もあるが、 別の視角からの論証も可能・有用である。例えば、テロリストに対する自衛権 の適用が必然ないし重要となる具体的場面を明確化することにより、自衛権の 適用可能性を論証する方法がある。そのような “ 必然性 ” の視角からの論証は、 拙稿「テロリストに対する自衛権の適用可能性 (3)」(前掲注 167)、206-214 頁 において、複数の事例・判例を引用しながら、すでに行った。その具体的場面 とは、第 1 に、「所在国」が存在しない場合である。「所在国」が存在しないの だから、そこで主張される自衛権は「所在国に対する自衛権」ではない。(そ の他の国がテロ行為に「実質的関与」をしていなければ、)それは「非国家主 体(テロリスト)に対する自衛権」を意味することになる。この場合について、 Institut の決議(2007 年)第 10 項(ⅱ)や壁事件(2004 年)を引用しながら 解説した。第 2 に、「所在国」は存在するが、対テロ軍事行動に対する同国の「同 意」が存在する場合である。「同意国に対する自衛権」は不要であることから、 そこで主張される自衛権は、むしろ「テロリスト自身に対する自衛権」を意味 すると考えられることを述べた。具体例として、タリバン政権崩壊後の新政権        279) 一般論として(つまり規範理論上の)「適用可能性」が認められて初めて、個別の事例 における「適用条件」の充足性が問題となる。言い換えれば、「適用可能性」が認めら れないのであれば、もはや「適用条件」の充足性を争う必要がない。したがって、「適 用条件」の充足性が争われているということは、「適用可能性」それ自体については争 いなく認められていることを基本的に含意する。

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の「同意」の下で継続された米国等による自衛権の主張は、「アフガニスタン(同 意国)に対する自衛権」というよりも「アルカイダに対する自衛権」とみなさ れることが適切であることを述べた。第 3 に、所在国の「同意」は得られてい ないが、テロリストの行為が所在国に帰属しない場合である。この場合に自衛 権が認められるとすれば、それは「テロリストによる武力攻撃」に対する自衛 権であり、その行使対象は「所在国」というよりもむしろ「テロリスト」自身 であると解釈することが妥当であることを、コンゴ・ウガンダ事件(2005 年) の判例評釈を通じて指摘した。  さらに、次の点についても述べた。すなわち、上記㊀「テロリストに対する 軍事行動」の側面において、「テロリストに対する自衛権の適用可能性」が認 められるためには、その前提として「テロリストに対する武力不行使原則の適 用可能性」が認められればよい。そのような両者の関係に着目して、後者の適 用可能性が認められることを示すことにより、前者の適用可能性が認められる ことを論じた。実際、「テロリストに対する自衛権の適用可能性」の前提とさ れる「テロリストに対する武力不行使原則の適用可能性」が認められることを、 友好関係原則宣言(1970 年)の起草過程および壁事件(2004 年)を参考にして、 拙稿「テロリストに対する自衛権の適用可能性 (3)」(前掲注 167)、214-220 頁 および拙稿「テロリストに対する自衛権の適用可能性 (5)」『横浜法学』第 27 巻第 1 号(2018 年)、318-352 頁において論じた。これは原則(武力不行使原則) と例外(自衛権)という法体系上の関係に着目して「テロリストに対する自衛 権の適用可能性」について論証するものであるので、“ 体系性 ” の視角からの論 証といえる。  ひとつの視角からは十分明らかにならないことがあっても、異なる複数の視 点から眺めることにより、明確化されていくこともある。前号までに取り組ん できた上記の “ 必然性 ” や “ 体系性 ” の視角からの論証内容を踏まえ、それら との内的面での重複をできる限り避けながら、「諸国が法治国家として責任あ る反応を示してきたとすれば、自衛権の主張に対して国際社会から否定的な反

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応も中には見られるものの、それは『テロリストに対する自衛権の適用条件』 の不充足を根拠とする批判を意味するに留まり、『テロリストに対する自衛権 の適用可能性』それ自体を否定する趣旨ではない。」という結論が本号では補 足的・総合的に導かれる280)  本稿の実証分析の最大の “ 独自性 ” は、上記ⅱ)の結論の妥当性を支える前 提的論理としてⅰ)の推定が置かれる点にある。ⅰ)とⅱ)の考え方が産み出 された経緯とそれらの意義は、次のとおりである。まずⅱ)の考え方が具体化 された。それは、拙稿「テロと自衛権─国連憲章第 51 条『武力攻撃』の主体 と内容─」博士論文(横浜国立大学)、2012 年(以下、“ 拙稿「テロと自衛権」 博士論文 ” と呼ぶ)を通じて公表された281)。この考え方は、テロリストの所        280) ただし、上述のとおり(上記㊀と㊁の側面の区別を含め、)諸国の発言には不明確性も 残る。その点を考慮すれば、この結論には「あるべき法」の要素が含まれる、あるいは、 含まれる可能性がある、と慎重に付言されることがよかろう。 281) 上記ⅱ)の考え方は、拙稿「テロと自衛権」博士論文(前掲注 277)の第 4 章(今世紀 の事例分析を中心に行う章)を中心に提示されている。例えば、壁事件(2004 年)に 関する実証分析では、非国家主体による越境攻撃に対するイスラエルの対応を「軍事 的対応」と「非軍事的対応」とに分けた。その上で、「軍事的対応」を「自衛権」で正 当化するイスラエルの主張が国際社会から批判されてきたことの意味について、次の とおり指摘した。    「厳密に言えば、非難の対象とされているのは、国際 ( 人道 ) 法に反するような『過 度』で『不均衡』な軍事的対応であり、見方を変えれば、イスラエルの軍事的対応 が国際(人道)法に反することなく、『適度』で『均衡』のとれたものであれば、そ れを自衛権で正当化できるかという議論はありうる。つまり、『自衛行為の内容』の 合法性の問題(主に jus in bello の問題)と、『自衛権の発動』の可否の問題(jus ad bellum の問題)を区別して議論することは可能であるし、区別することが適切であ る . …適度で均衡のとれたものである限り、自衛権で正当化される可能性が残されて いると思われる。」同上、120-121 頁参照。      「非軍事的対応」である壁建設については、これを「自衛権」で正当化できると主張 するイスラエルに対して、国際人権法や国際人道法の観点から異議が呈されたことを 指摘した。しかし、このような国際社会からの異議は、自衛権の要件に則ってとられ るイスラエルの「軍事的対応」の合法性を、本件との関連においてあるいは少なくと も一般的な規範理論として、必ずしも否定する趣旨ではない。そのことを、EU と英国 の主張を例に挙げながら、次のとおり主張した。

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在国が彼らを取り締まる意思または能力を有しない場合に自衛権による対応が 認められるかという問題について、そのような対応を否定する先行研究に対し て批判的考察をする中で生まれたものである。そのような先行研究を、9.11 テ ロ事件後の「不朽の自由作戦」に対する国際社会の反応をいかに評価すべきか という観点から、2 つに大別することができる。  第1の先行研究によれば、9.11 テロ事件において国際社会は自衛権による 対応に “ 否定的な反応 ” を示したとされる。このような解釈は、同事件を受 けて採択された安保理決議 1368 および 1373 を主要な根拠とする。すなわ ち、両決議には自衛権への言及があるが、それは法的拘束力のない前文での 言及に過ぎず、肝心な本文では言及されていない。実際、安保理決議 1373 は、対テロ行動として武力行使を認める趣旨ではなく、テロリズムと闘うた めの国際協力を強化することを目的とするものであった。したがって、前文 における「自衛権」への言及は今回の 9.11 テロ事件とは関係がなく、「自衛           EU と英国の「両者が、一方で、勧告的意見を尊重して、イスラエルが採用した具 体的な自衛措置の内容方法(壁建設のルート選択)に反対意見を表明しつつも、他 方で、米国に理解を示して、『非国家主体による武力攻撃』の存在を認め、それに対 する自衛権の適用を認める留保をしていることは、明らかであるように思われる。」 同上、(118)、129 頁参照。Cf. 本稿のⅥ .1.(2) およびⅥ .2.(2) ⅱ。      他の事例についても同様の指摘をした。例えば、第 2 次レバノン戦争(2006 年)に 関して、次のとおり指摘した。    「過剰な軍事的対応を『不均衡』として非難することと、自衛権の発動それ自体を 不適切として非難することとは区別されるもの」であり、「紛争激化と共に高まって いったとされるイスラエルの軍事的対応への批判が、前者を意味するのか、後者を も意味するのか(さらに、後者の中でも「武力攻撃」要件の「帰属」の側面に関す る批判か)については、慎重な評価が必要である」。拙稿「テロと自衛権」博士論文(前 掲注 277)、96 頁注 65 参照。Cf. 本稿のⅥ .1.(3) およびⅥ .2.(2) ⅲ。      これらの指摘を含む複数の事例分析を通じて、「『非国家主体による武力攻撃』に対 する自衛権」の要件の不充足を根拠とする批判は、必ずしも「『非国家主体による武 力攻撃』に対する自衛権」という法概念の存在それ自体を否定するものではないと主 張した。実際、論文の結論として、「『非国家主体による武力攻撃』の存否については、 理論上も実証上もその存在は認められうると考えられる。」と述べた。拙稿「テロと自 衛権」博士論文(前掲注 277)、203 頁(cf.171 頁)参照。

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権」というものが国際法上「一般的に」認められていることを「再確認」す るものに過ぎないとする282)。なお、9.11 テロ事件後の同様の事例を見ても、 自衛権の主張に対する国際社会の反応には特に変化はない(引き続き否定的 である)とする。  第 2 の先行研究によれば、9.11 テロ事件において国際社会は自衛権による対 応に一定の “ 好意的な反応 ” を示したとされる。この点で上記の第 1 の先行研 究とは異なる。このような相違は、主に上記の安保理決議 1368 と 1373 の見方 の相違による。すなわち、この第 2 の先行研究によれば、両決議の中で言及さ れた「自衛権」を「9.11 テロ事件とは無関係なものであり、『自衛権』を単に『一 般的に』確認したに過ぎないものである。」と解釈することは不自然であると される。例えば浅田は、上記の両安保理決議について、次のように述べる。  「テロ攻撃を非難する決議がその文脈を離れて自衛権を単に一般的に確 認するということも考え難い。…今回の諸決議における自衛権への言及に よって、同時多発テロに対して自衛権が行使できるという主張に明示的な承 認が与えられたとまではいえないものの、そのような主張への少なくとも好 意的な要素は見てとることができよう。」283)  この意見を受け、それまで上記第 1 の先行研究の立場をとっているように見 えた松田も両決議の趣旨について考え直したのか284)、浅田説を肯定的に引用        282) 例えば、松井芳郎『武力行使禁止原則の歴史と現状』日本評論社、2018 年、76-78 頁(Cf. 同『テロ、戦争、自衛─米国等のアフガニスタン攻撃を考える─』東信堂、2002 年、 54-61 頁同旨);Frédéric Mégret, “ ‘War’ ? Legal Semantics and the Move to Violence,”

European Journal of International Law, Vol. 13, No.2 (2002), pp.373-375; Corten, supra note

191, 2010, pp.181-183. 283) 浅田正彦「同時多発テロ事件と国際法上の自衛権」『法学セミナー』2002 年 3 月号(567 号)、36 頁。 284) 松田「テロ攻撃と自衛権の行使」(前掲注 100)、2001 年、23 頁では、安保理決議 1368 について、「前文で、国連憲章上自衛権が認められていることを一般的に確認しただけ であって、今回のテロ攻撃に対して自衛権を行使できるという個別的認定を行ったも のではない」と述べられている。

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して、次のように述べている。  「これらの決議における自衛権への言及を、まったく無意味なものと見な すのも適当ではないであろう。テロ行為に対する自衛権の行使が原理的にあ り得ないものとすれば、このような言及がなされるはずはないからである。 したがって、テロ行為を非難するこれらの決議で自衛権の存在が確認された ことは、テロ行為あるいは 9.11 テロのような重大なテロ行為が場合によっ ては自衛権行使の対象となり得ること、少なくとも、テロ行為であるという 理由でカテゴリカルに自衛権の対象から排除されることはない、ということ を含意しているのかもしれない。」285)  このように浅田と松田は、慎重な表現を用いながらも、9.11 テロ事件につい ては自衛権の主張に対する国際社会の反応に「好意的な要素」が見られ、ある いは、(法的にさらに一歩踏み込んだ表現であるようにも見えるが)それは「原 理的」にはそのような主張が認められる可能性286)を含意しうるものであると まで述べている。  それは、アフガニスタンにおける自衛権に基づく対応を “ 否定 ” するものと して安保理決議 1368 と 1373 の趣旨を理解することには違和感も禁じ得ないこ        285) 松田「国際テロリズムと自衛権─集団安全保障との関わりの中で─」(前掲注 100)、 2002 年、15 頁注 45 参照。 286) ただし、松田はあくまで「可能性」に過ぎないことを強調して次のように述べる。    「ただし、このような自衛権の承認はあくまで可能性の承認であって、実際にテロ 行為に対して自衛権を行使できるかどうかは、個別のテロ行為に関して自衛権行使 の要件が満たされるかどうかにかかっている。そして、9・11 テロとの関係で自衛権 行使の要件が充足されたかどうかについては、決議 1368 も 1373 もまったく触れて いない…。」同上、15 頁。      この松田の考え方は、自衛権の「可能性」を「原理的」に(つまり理論上)認める という点で本稿と共通する。しかし、その「可能性」を「実際」に(つまり実証上) 認めるには至っていないとする点で(理論上のみならず実証上の可能性も認める)本 稿の結論とは異なる。

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とを告白するものである287)。このような認識が、両者のように自衛権概念の 拡大解釈に否定的な(慎重な)論者からも示されている点は注目される。  しかし、この第 2 の先行研究によれば、9.11 テロ事件後の事例では、国際 社会はテロ攻撃を受けた国による自衛権の主張に対して “ 否定的な反応 ” を示 してきたとされる288)。この点については、上記第 1 の先行研究と同様である。             本稿の上記ⅱ)の結論(「テロリストに対する自衛権」に対して国際社会から否定的 な反応も中には見られるものの、それは「テロリストに対する自衛権の適用条件」の 不充足を根拠とする批判を意味するに留まり、「テロリストに対する自衛権の適用可能 性」それ自体を否定する趣旨ではない。)は、松田の指摘する上記の「可能性」が「原理」 的可能性に過ぎないのものではなく、「実証」的可能性を併せ持つものであることを主 張するものである。実際、この結論は今世紀の事例分析を通じて導かれる。その意味で、 松田の「原理的」可能性に関する指摘は、本稿の上記ⅱ)とは異なるけれども、それ が考案されるにあたって重要な示唆を与えるものであるといえる。      なお、理論的側面については、松田の言及する「原理」の中身を、㊀「テロリスト に対する軍事行動と㊁「所在国への軍事侵入」の両側面に分けて精緻かつ具体的に解 明する点が本稿のひとつの特徴といえる。例えば、上記㊀の側面に関して、「テロリス トに対する自衛権の適用可能性」の前提として「テロリストに対する武力不行使原則 の適用可能性」を認めるという本稿の考え方は、松田論文には示されていない。これ らの点において、本稿の上記ⅱ)の考え方は松田論文の中で示唆されている抽象的な「原 理」とは異なる。 287) このような “ 違和感の告白 ” は、松井、Mégret、Corten の著書・論文(前掲注 282 参照) には特に示されていない。その点において、これらの著書・論文には、9.11 テロ事件にお ける自衛権の主張に対する否定的な見方が、一層強く打ち出されているようにも見える。 288) 例 え ば、Gray (2008), supra note 6, pp.198-199, 201 (Cf. idem, International Law and the Use

of Force, 4th ed., Oxford University Press, 2018, pp.206-207, 209-210); 浅田「同時多発テロ

事件と国際法─武力行使の法的評価を中心に─」(前掲注 80)、2002 年、74-75 頁 ; 同「非 国家主体と国際法─『侵略の定義』決議第 3 条 (g) を中心に─」(前掲注 8)、2013 年、 837-858 頁。ただし、前掲注 8 の浅田論文については、次の注意点を指摘しておく。「他 国に所在する非国家主体に対する越境軍事行動」を㊀「非国家主体に対する軍事行動」 の側面と㊁「所在国への軍事侵入」の側面に分けると、同論文の結論(自衛権の主張 に対して否定的な結論)は㊁の側面に限定される。㊀の側面については同論文の射程 外とされ、結論は出されていない。同上、822、852 頁参照。

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しかし、そのように解釈すると、テロ攻撃に対する自衛権の主張に対して国際 社会は、一方で 9.11 テロ事件では好意的反応を示したが、他方でその後の事 例では否定的反応を示したことになるため、両者の間で矛盾が生じる。その矛 盾を解消するために次のように総括される。すなわち、9.11 テロ事件における 好意的反応の意味について、その後の事例を踏まえて改めて考えれば、それは “ 非法的(政治的)” な好意的反応に過ぎなかった。つまり、“ 法的 ” には両者 間に矛盾はない。  以上のとおり、自衛権概念を狭く解釈する論者の主張を、9.11 テロ事件に対 する評価の仕方(特に安保理決議 1368 および 1373 の解釈の仕方)に着目して 分類すれば、上記第1と第 2 の先行研究のいずれかに大別される。そして、そ のいずれにせよ自衛権の主張は国際法上認められないと結論づけられてきた。  しかし、このような結論には違和感・矛盾感が残る。まず第 1 の先行研究に ついては、第 2 の先行研究から異議が申し立てられているとおり、安保理決議 1368 と 1373 で言及された「自衛権」を、9.11 テロ事件とは無関係なものとし て解釈する点が不自然であり、違和感が残る。この点においては、両決議では 同事件を念頭に「自衛権」が言及されたとする第 2 の先行研究の見方の方が妥 当である。すなわち、両決議を見る限り、そこには曖昧な要素も残るものの、 国際社会は同事件における自衛権の主張に一定の好意的な反応を示したと考え られる。しかしそれでも第 2 の先行研究によれば、その後の事例を踏まえれば、 最終的には「9.11 テロ事件」における自衛権の主張に対する国際社会からの好 意的反応は “ 非法的(政治的)”な反応に過ぎなかったと遡及的に評価される。 しかし、そのような評価はやはり不自然であるように思える。また、「その後 の事件」についても、自衛権の主張に対して国際社会からの反応が一般的に否 定的なものであったといえるかどうかは疑問である。その理由として以下の 3 点を指摘できる。  第1に、「不朽の自由作戦」に対する国際社会の反応については、“ 非法的(政 治的)”な反応であったにしては、その期間が長すぎる。すなわち、9.11 テロが

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国際社会に与えた衝撃の大きさは少なくとも心理的には大きく、その感情の高 ぶりが事件直後においては自衛権の主張に対する国際社会の好意的な反応とし て現れたとみることはできるかもしれない。しかし、時間の経過とともに通常 であれば、徐々に冷静さを取り戻すものであろう。そして、感情的な反応が法 的に誤りであったとすれば、法治国家としてしかるべき修正がされたであろ う。しかし、国際社会では同事件後の自衛権の主張に対する反対が、意思表明 の機会は常に与えられていたけれども、今日に至るまでほとんど表明されてこ なかった289)  第 2 に、9.11 テロ事件についてのみ、“ 非法的(政治的)”な反応が許されて きたとは公平性の観点からも考えにくい。すなわち、同事件を受けて開始され た「不朽の自由作戦」は長期間にわたり実施されている。その間、テロリスト のような非国家主体による越境攻撃に対する自衛権の主張が、他の事例でも見 られる(以下、Ⅵの各事例参照)。つまり、「不朽の自由作戦」は、他の事例に おける複数の軍事作戦と「並存」してきたのである。そのような並存状況の下 では、少なくとも時代背景は同じなのであるから、公平性の観点から各事例に 対する比較評価の目が一層厳しくなる。「不朽の自由作戦」に対してのみ特別 に “ 非法的 ” な好意的反応を国際社会が長年に渡り示し続けてきたとは考えに くい。他の事例で “ 法的 ” な反応が(否定的反応であれ肯定的反応であれ)示 されてきたならば、「不朽の自由作戦」にも “ 法的 ” な反応が示されてきたと 考えられる。そのような公平原則に基礎づけられた “ 法的 ” な反応として、「不 朽の自由作戦」に対する好意的な反応あるいは黙認の態度が、少なくとも途中 からは国際社会一般において示されてきたと考えられる。しかし、そうである とすれば、国際社会は自衛権の主張に対して、一方で、「9.11 テロ事件」では “ 法 的 ” に好意的な反応を示し、他方で、上記第 2 の先行研究に従えば「その後の        289) もっとも、軍事的対応を継続するならば、もっと早く安保理の「許可」に基づく対応 に切り替わるべきであった。本事件の詳細については、以下、Ⅵ . 1. (1)参照。

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事例」では “ 法的 ” に否定的な反応を示したことになる。つまり、国際社会は 「9.11 テロ事件」と「その後の事例」との間で法的に相矛盾する反応を示した ことになる。国際社会の反応はできるかぎり整合的に理解されるべきであるか ら、第 2 の先行研究を受け入れようとすれば、この点に矛盾感が残ることになる。  第 3 に、9.11 テロ事件後の諸事例を見れば、第 2 の先行研究に対する疑問 は一層深まる。自衛権の主張に対して国際社会から概ね好意的な反応が示さ れ、少なくとも反対がほとんど表明されない事例が同事件以外にも出てきて いるからである(例、2011 年のオサマ・ビン・ラディン殺害作戦、2014 年に 開始された対 ISIL 空爆290))。また、否定的反応が見られたと指摘される事例 でも、よく見ればそこには好意的な反応が混在している。そのようなものも少 なくない。実際、諸国の動向に着目すると、ある国(例、アラブ諸国、中南米 諸国)は自衛権の主張に対して A の事例では反対したが、同様の事例である B の事例では賛成している。同じく同様の事例である C の事例に着目すれば、 同じ国(例、EU 諸国、安保理事国の多数意見)の発言の中に、反対している 部分と賛成している部分の両方が見られる291)。このように賛否の交錯が(A とB という複数の事例を比較する中で、また、C というひとつの事例の中でも) 見られる状況下では、「テロリストに対する自衛権」が無条件で否定されている という結論は極端であるように思える。もちろん、自衛権が無条件に認めら れるはずはない。そのように考えると、賛否の交錯は、「テロリストに対する 自衛権」には厳格な条件(要件)が存在することを意味するのではなかろうか。  このような第 1、第 2 の先行研究に残された疑問(違和感・矛盾感)を解消 しうるものとして、上記ⅱ)の結論に導く基本方針が考え出され、それは博 士論文(拙稿)における事例研究及びその後の事例研究の充実化とともに洗 練されていった。実際、ⅱ)の考え方に基づけば、「9.11 テロ事件」と「その        290)以下、Ⅵ . 1. の (4) と (5) 参照。 291)具体的には本号の本論および最後に記したまとめを参照されたい。

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後の事例」とを整合的に理解できるようになる。すなわち、一方で、「9.11 テ ロ事件」を契機とする自衛権の主張については、自衛権の適用条件が満たさ れたため、国際社会から “ 法的 ” に好意的な反応を受けた。他方で、「その後 の事例」では自衛権の適用条件(の一部または全部)が満たされなかったため、 国際社会から “ 法的 ” に否定的な反応を受けた。このように理解すれば、「9.11 テロ事件」と「その後の事例」は、適用条件が満たされれば自衛権の主張が 認められた事例であるという点で共通することになり、そこに “ 法的 ” な整合 性・一貫性が生まれる(と同時に上記の違和感・矛盾感が解消される)こと になる。  もっとも、上記ⅱ)の結論を導くにあたっては、課題も残された。すなわち、 この結論が違和感・矛盾感の最も少ないものであったとしても、国際社会の反 応は政治的要因に左右されることもあり、違和感や矛盾感を伴う結論もまた、 実際の国際社会を反映しているといえないだろうか。厳密に言えば、そのよう な解釈の余地も否定しきれないのではないか。実際、自衛権の主張に対する国 際社会の否定的反応が「自衛権の適用条件」の不充足を根拠とする批判に留ま り、「自衛権の適用可能性」それ自体を否定する趣旨ではないと断言できるだ ろうか。例えば、「均衡性」要件の不充足や人道法違反を根拠とする批判があっ た場合について考えてみよう。そのような批判は浅田が指摘するとおり、「反 対の証拠がない限り」292)、それらの要件が満たされていれば自衛権の主張は 認められることを前提としているといってよいだろう293)。しかし、「反対の証        292) 浅田「非国家主体と国際法─『侵略の定義』決議第 3 条 (g) を中心に─」(前掲注 8)、 2013 年、838 頁。 293) 例えば、均衡性要件の不充足を根拠とする批判は、「テロリストに対する自衛権」とい う法概念の条件付否定(ここでは条件付肯定と同義)ではなく、重畳的否定(この自 衛権概念の否定に加えて、自衛権の主張の違法性を強調するため等の理由により、念 のため均衡性要件の充足性についても重ねて否定すること)を意味する場合もありえ よう。もっとも、条件付否定ではなく重畳的否定であるならば、そのことを示す「反 対の証拠」が求められる。さもなければ条件付否定であるとみなされる。

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拠がない」ということを証明するという「不存在の証明」は実は容易ではない。 最大限の努力をもって調査しても、あらゆる関連文書を網羅的に調査すること はほとんど不可能だからである。もっとも、不均衡・非人道等を根拠とする批 判(自衛権の適用可能性を推定させる根拠ともなる批判)が記録された文書に 調査対象を限定して、同文書中に「反対の証拠」(自衛権の適用可能性を否定 する決定的証拠)が見つからなければ、「反対の証拠」が不在であったとみな すことは一応可能といえるかもしれない。同一文書の中でひとつの批判的意見 は完結性を有している、と推定することにも一定の合理性はあると考えられる からである。しかし、そのようにして導かれた一応の結論の妥当性は、他の文 書の中で「反対の証拠」が見つかれば、揺らぐことになる294)。したがって、「反 対の証拠の不在」を、同一文書に調査対象を限定して証明する方法にも、あら ゆる関連文書に調査対象を広げて証明する方法にも、問題は残ることになる。 つまり、それらはいずれもひとつひとつの文書の精査を通じて立証していく方 法であり、いわば “ 帰納的 ” な証明方法といえるが、その方法には「不存在の 証明」をする上で限界があるのだ295)。上記ⅱ)の結論が抱えるこの限界をい かに乗り越え、論文の説得力を一層高めることができるか。それが拙稿「テロ と自衛権」博士論文に残された課題であった。「反対の証拠がない限り」とい う考え方が記された浅田論文(2013 年)は、この課題を改めて認識させるも        294) 上記の「反対の証拠」の立証責任は、「テロリストに対する自衛権の適用可能性」を否 定する論者(否定論者)が負うのであり、それを肯定する論者(肯定論者)が負うわ けではない。しかし、「反対の証拠」の存在が否定論者により立証されれば肯定論者の 論拠が揺らぐという意味では、肯定論者にとっても「反対の証拠」の存否確認作業は 看過できない重要性をもつことになる。 295) 帰納的方法には限界はあるが、それは無意味ではない。実際、より多くの事例を通じ て同様の国家実行が見られれば、それが国際社会における「一般慣行」を反映してい る可能性は一層高まることになる。そこで、博士論文執筆後以降も、新たな事例分析 を試みた。それらの分析結果は 2016 年度国際法学会研究大会において報告(後掲注 438 の事例①~⑬参照)された。

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のであった。  この課題は、“ 演繹的 ” な証明方法を補足的に導入することにより、一般論 としては、克服されることになる。つまり、上記ⅱ)の結論を導く前提としてⅰ) の推定を置くことにより克服される。実際、ⅰ)のように、諸国が法治国家と して責任ある反応を示してきたとの推定を置くことは、そうでない場合が例外 的にあるとしても、一般論としては妥当であると考えられる296)。そうであれば、 ⅰ)が一般的に “ 置かれるべき推定 ” であるということを利用して、ⅱ)の結 論を「一般論」として、すなわち「国際社会一般」の法意識に関する結論とし て、一層の説得力をもって導くことができることになる。  このように考えて、ⅱ)の結論を支える前提としてⅰ)の推定が置かれるこ とが重要であり妥当であることを、国際法学会研究大会(2016 年 9 月 11 日) において、筆者の独自のアイデア(『報告の独自性』)として配布資料297)に明 記するとともに口頭でも発表した。それに基づいて、「今世紀の事例を見れば、 自衛権援用を非難した国は、テロリストに対する自衛権の適用それ自体ではな く適用条件の不充足を問題視したに過ぎない。」という報告の結論が、「報告要 旨・質疑討論の要旨」298)の中に記録され、『国際法外交雑誌』第 115 巻第 3 号、 2016 年、97-98 頁に所収された。  この学会発表の後、直ちに本稿「テロリストに対する自衛権の適用可能性」        296) 今日、ほとんどの国は国連に加盟しているが、憲章上の「義務を履行する能力及び意 思がある」と国連に認められることが加盟条件となっている(憲章第 4 条)。執ような 義務違反に対する除名処分も定められている(同第 6 条)。これらの条文の存在は、国 連加盟国が法治国家として責任ある行動をとっているものと一般的に推定されること を意味している。 297) 国際法学会編『2016 年度国際法学会研究大会レジュメ・資料集』(2016 年 9 月 9 日(金) -11 日(日)、静岡県コンベンションアーツセンター・グランシップ)、110、114 頁参照。 298) 個別報告の後で質疑応答の時間が設けられ、様々な質問を頂いたが、上記ⅰ)とⅱ) のアイデアが、筆者の報告の独自性を構成することについては、異論は出されなかった。

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の連載が開始された。しかし、連載は年間最大 3 回までとなっており、本号が 刊行されるまでに一定の期間を要した299)。この連載期間中に、上記ⅱ)につ いて、筆者と同様の視座(「適用条件の不充足を根拠とする批判」と「適用可 能性それ存在の否定」とを区別すべきとの視座300))に立ち、同様の事例を用 いて(テロリストの所在国が彼らを取り締まる「意思」または「能力」に欠く 場合が問題とされる事例に着目して、また、9.11 テロ事件後の事例分析を重視 して)301)、筆者と同様の結論(テロリストに対する自衛権の主張に対する批判 は、その「適用条件の不充足を根拠とする批判」の趣旨に留まり、「適用可能        299) 連載の初回から最終回までの全内容は一括で査読(2016 年 7 月 25 日付)された。初回 は同年 9 月に刊行された。その後の回の中で新たに刊行された関連論文の補遺等の補 足修正がされることはあるが、実証分析の基本方針に変更はない。 300) この視座が本稿の実証分析の結論に結びつく鍵となることについては、本稿「Ⅰ.は じめに」の中でも指摘した。すなわち、実証分析をする際の留意点として、「自衛権の 主張を否定する意見が出された場合には、その理由まで究明することが重要である。 さもなければ、テロリストに対する自衛権の適用それ自体が認められないから否定さ れたのか、或いは、適用自体は認められるが適用条件が充足されていないから否定さ れたのかが、判別できないからである。」と述べた。拙稿「テロリストに対する自衛権 の適用可能性」(前掲注 156)、2016 年 9 月、221 頁。その「目次」上でも、「Ⅵ.事例 . 2. 否定的反応とその理由」という節の中で、“ 誤爆 ”、“ 均衡性・自決権・人権法・人道 法違反等 ”、“「武力攻撃」の不在 ” といったキーワードを用いながら、否定的反応の理 由が “ 自衛権の適用条件(要件)の不充足にあること、すなわち、否定的反応はそのよ うな不充足を根拠とする批判を意味するものに留まること、を端的に表現した。同 216-217 頁。 301) 本稿が、軍事的対応に迫られる「黙認」の場合(「意思」の欠如の場合)と「管理不能」 の場合(「能力」の欠如の場合)に着目し、それらの場合を分析範囲とするものであ ること、また、今日の国際法の姿を明らかにする上で特に重要となる 9.11 テロ事件後 の事例分析を中心に実証分析を行うものであること(拙稿「テロと自衛権」博士論文 (前掲注 277)、第 3 章および第 4 章同旨)については、本稿の連載初回(拙稿「テロリ ストに対する自衛権の適用可能性」『横浜法学』第 25 巻第 1 号(2016 年)、223、246、 249-250 頁)において既に説明した。

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性それ自体の否定」の趣旨ではない)を導く同旨論文が出てきている302)。そ れらは実証分析の手法と結論の両面で、筆者(近藤)の基本的な考え方を「支 持」し、実際にはそれを「受け継ぐ」ものといえる303)。そのように位置づけ られる肯定的な反応が早くも広がりを見せている。 ※ ※ ※

Ⅵ.事例

1.自衛権の主張と肯定的反応

 テロリストに対する「自衛権」の主張に対して肯定的な国家実行に加え、同        302) もっとも、上記ⅱ)について筆者の考え方を踏襲するものであっても、上記ⅰ)の前 提について言及のないものは、結局のところ拙稿「テロと自衛権」博士論文と同様の 課題を本質的に抱えていることになる。 303) 例えば、本吉祐樹「‘Unwilling or Unable’ 理論をめぐる議論の現状─その起源、歴史的 展開 を 中心 に ─」『横浜法学』第 26 巻第 1 号、2017 年 9 月 は、「国連憲章制定以後 の 国家実行」について、その分析のほとんどを 9.11 テロ事件以後の国家実行分析に割く。 結論的には、「問われていたのは、‘Unwilling or Unable’ 理論の存在の可否そのものとい うより、その個々の事例が、‘Unwilling or Unable’ 理論の要件を充足していたか否かで あったように見える。」(186 頁)と述べる。つまり、テロリストのような非国家主体の 所在国が彼らを取り締まる意思または能力に欠く場合、「非国家主体に対する自衛権」 の主張が見られ、それに対する国際社会の反応には賛否の交錯が見られるが、自衛権 に対する批判はその要件の不充足に過ぎず、そのような自衛権概念の存在それ自体を 否定するものではないと論じる。この点で、表現方法等の細部に相違はあれ、実質的 には拙稿と同様の視座に立ち、同様の事例を用い、同様の結論を導くものとなっている。 このような基本的な考え方の入手先(オリジナリティーの所在)については記されて いない(つまり、自他のアイデアの区別が明確にされていない)が、これまでの筆者 (近藤)の研究を概ねよく理解した上でそれを参考にして執筆されたものと考えられる。 彼の論文は、実証分析の手法と結論の両面について、筆者の基本方針を事実上「支持」・ 「踏襲」するものとして位置づけられよう。そのようなものとしても評価されよう。

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様の安保理と国連事務総長の実行が蓄積されてきている。9.11 テロ事件とその 後の代表的な事例を以下で見てみよう。  (1)不朽の自由作戦(2001 年~)  2001 年 9 月 11 日、米国の軍事的経済的象徴である国防総省と世界貿易セン タービルにハイジャックした航空機を激突させ、3000 名を超える死者を出す テロ事件が発生した304)。事件翌日に採択された安保理決議 1368 は前文で「国 連憲章に従った個別的又は集団的自衛の固有の権利を承認」した。同月 28 日 に採択された安保理決議 1373 も前文で「国連憲章により承認された個別的又 は集団的自衛の固有の権利を再確認」した305)。そのことから、両決議は自衛 権を容認するものであるとする説がある306)。他方で、前文には法的拘束力は なく、また、自衛権の主体と客体が具体的に明記されていなかったこと、さら に両決議は本文ではテロ攻撃の犯人、組織者、後援者を裁くため、全ての国に 協力を求めるなど非軍事的措置を規定していたことから、これらの決議は「国 連憲章上自衛権が認められていることを一般的に確認しただけ」に過ぎず、本 件については米国の単独による軍事的解決よりもむしろ国際社会の協力による 非軍事的・司法的解決を指向するものであるとする説もある307)。このように 両決議が自衛権による対応を容認する趣旨であるのか否かにつき学説は分かれ ている。しかし、決議がこのような多義的な要素を含んでいる以上、文理解釈       

304)United States Department of State, Patterns of Global Terrorism 2001, 2002, p.1. 305)S/RES/1368 (12 September 2001); S/RES/1373 (28 September 2001). 306)例えば、Greenwood, supra note 43, p.308; Murphy, supra note 53, p.48.

307) 例えば、松田「テロ攻撃と自衛権の行使」(前掲注 100)、2001 年、23 頁(ただし、松 田は翌 2002 年の論文の中で、より柔軟な解釈を示している。詳細は前掲注 285 参照。); 松井、前掲書(注 282)、2002 年、57 頁。その反対の説として、Greenwood, supra note 43, p.308; Murphy, supra note 53, p.48.

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による意味の解明には限界がある308)。後法優先の観点からは、むしろその後 の安保理自身の言動と国家の実行が重要である。  すなわち 10 月 7 日、米国は 9.11 テロをアルカイダによるものと断定し、彼 らを匿っているとしてアフガニスタンを非難した。そして、軍事的措置(「不朽 の自由作戦」)に踏み切り、これを「自衛権」で正当化した309)。NATO や豪州、 OAS310)、日本等の同盟国はこれを支持した。反米感情の強い多くの国民を抱え        308) あえて言えば浅田が指摘するとおり、「テロ攻撃を非難する決議がその文脈を離れて自 衛権を単に一般的に確認するということも考えた難い」のであり、したがって両決議 を読む限り、「同時多発テロに対して自衛権が行使できるという主張に明示的な承認が 与えられたとまではいえないものの、そのような主張への少なくとも好意的な要素は みてとることができよう」と評価されよう。浅田「同時多発テロ事件と国際法─武力 行使の法的評価を中心に─」(前掲注 80)、75 頁。森田もこのような浅田の解釈を「最 も穏当な解釈」であると評価している。森田「国際テロと武力行使─国際法上の観点 からする現状と課題」(前掲注 83)、62 頁注 7。 309) S/2001/946 (7 October 2001). 310) 2001 年 9 月 21 日に、米州相互援助条約(リオ条約)の外務大臣協議会議で決議が採択 されている。その前文では、国連憲章とリオ条約に従い「個別的および集団的な自衛 権」を行使する固有の権利が「想起」された。その上で、本文で 9 月 11 日の米国に対 するテロ攻撃はすべての米州諸国に対する攻撃であり、すべての締約国は同条約の共同 防衛条項に従って相互援助を提供するものとされた(1 項)。OEA/Ser.F/ Ⅱ .24, RC.24/ RES.1/01, September 21, 2001. このような米州諸国(同締約国)の立場(浅田によれば、「自 衛権行使への支持」であると評価される。浅田「同時多発テロ事件と国際法─武力行使 の法的評価を中心に─」(前掲注 80)、74 頁。)を、他の関連事例(例、2008 年 FARC 事 件、以下Ⅵ .2.(3) 参照)における同諸国の立場と可能な限り整合的に解釈することが重 要である。  なお、2001 年 9 月 20 日の米国国務省の発表によれば、米州相互援助条約(リオ条約) の当時の締約国は米国の他、以下のとおりである。アルゼンチン、バハマ、ボリビア、 ブラジル、チリ、コロンビア、コスタリカ、ドミニカ共和国、エクアドル、エルサルバ ドル、グアテマラ、ハイチ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグア、パナマ、パラグアイ、 ペルー、トリニダード・トバゴ、ウルグアイ、ベネズエラ、キューバ(ただし、同国は 1962 年より OAS への参加停止)。Media Note, Office of the Spokesman, Washington, DC,

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るイスラム諸国も非難しなかった311)。安保理では各国代表が米国による軍事行 動に関する説明に謝意を表明した312)。その後も自衛権の主張を非難する決議案 が安保理や総会で提起されることはなかった。したがって、軍事的措置が安保 理の「許可」に基づいて実施されなかったことは残念であるが313)、上記安保理 決議は必ずしも自衛権を否定する趣旨ではないと安保理自身は考えており、多 数の国からもそのように判断されたといえよう。つまり、本件は米国の自衛権 の主張に対して概ね好意的な反応が示された事例であったと評価されよう。  もっとも、これが「アルカイダに対する自衛権」と「アフガニスタンに対す る自衛権」のいずれに対する好意的反応を意味するのかについては、必ずしも 明確ではない。アルカイダに対してのみ反撃する予定がタリバン軍も抵抗を始       

September 20, 2001, “The Inter-American Treaty of Reciprocal Assistance,” Published by the U.S. Department of State Website at https://2001-2009.state.gov/r/pa/prs/ ps/2001/4988.htm.

311) A/56/462 S/2001/962 (12 October 2001). cf. Murphy, “Contemporary Practice of the United States Relating to International Law: Terrorist Attacks on World Trade Center and Pentagon,” supra note 99, p.248; 浅田「同時多発テロ事件と国際法─武力行使の法的 評価を中心に─」(前掲注 80)、74 頁。

312) Press Statement on Terrorist Threats by Security Council President, Press Release AFG/152 SC/7167 (8 October 2001). cf. Randelzhofer, supra note 23, p.1418.

313) 米国による武力行使を含む対応については他の安保理常任理事国から強い反対がなかっ たことから、安保理を中心とする多国間の枠組みを選ぶことが十分に可能であったと 指摘される。佐藤哲夫『国連安全保障理事会と憲章第 7 章─集団安全保障制度の創造 的展開とその課題─』有斐閣、2015 年、43-46 頁。この指摘は十分傾聴に値する。自衛 権を発動したのであれば、もっと早く安保理に事態の処理を委ねるべきであったとい う意見も、そのとおりである。Robert Kolb, “Self-Defence and Preventive War at the Beginning of the Millenium,” Zeitschrift für öffentliches Recht, Vol.59 (2004), pp.122-123. 自 衛権発動までに、また、その後も長らく、なぜアフガニスタンにおける軍事的活動が そのような国連中心の枠組みに一本化されてこなかったのか、またはそうすることが できなかったのか、その阻害要因を究明し、対策のあり方を検討することが今後の課 題である。

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めたのでやむなく両者と闘っているならば、本来の自衛対象はアルカイダであ るということになろうが、実際はそうではなかった。米国はアルカイダ施設と アフガニスタンの軍事施設に対する空爆をほぼ同時に開始している。  実際、事件翌月の 10 月 7 日に米英はアフガニスタンにおける軍事作戦(不 朽の自由作戦)を開始し、自衛権に基づくものであるとして安保理に報告し た。それによれば、軍事目標は、アルカイダ(の訓練キャンプ)とタリバン政 権(の軍事施設)の両方であった314)。作戦は制空権を奪取するための空爆で 始まっており、主な空爆地域にはアルカイダの拠点地域のみならず首都 Kabul やタリバン運動の中心とされる Kandahar 等も含まれていた315)。したがって、 軍事目標が「アルカイダのみ」から「タリバン軍も含む」ものへと拡大していっ たのではない316)  (2)壁事件(2004 年)  自衛権の人的適用範囲について米国がより明確な立場を示したのは壁事件で ある。「一国による他国に対する武力攻撃」の場合に自衛権は認められるとし た国際司法裁判所の勧告的意見に米国は反対して、「(テロリストのような)非        314)米国 : S/2001/946 (7 October 2001); 英国 : S/2001/947 (7 October 2001).

315) Murphy, “Contemporary Practice of the United States Relating to International Law: Terrorist Attacks on World Trade Center and Pentagon,” supra note 99, pp.246-247. 316) タリバン政権打倒後には、アフガニスタン(新政権)はもはや米軍の攻撃対象(軍事 目標)でなくなり、攻撃対象はアルカイダに絞られていく。実際、アフガニスタンの 新政権は自国領域内における軍事行動に「同意」を与えたことから、同国との関係に おいては自衛権を援用する必要は必ずしもなかった。したがって、同意付与後にも自 衛権が継続してきたとすれば、それはアルカイダに対する自衛権であったと考えられ る。もっとも、本来的には自衛権に基づく軍事的措置は暫定的措置に過ぎない。その ことを踏まえて、それは安保理の「許可」に基づく措置に早く切り替えられるべきであっ た。しかし、米軍は ISAF とは一線を画して活動を続け、国際社会もそのことを批判し てこなかった。

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国家主体に対する自衛権」は認められると主張した317)。このような米国の主 張に対して、欧州諸国が同調姿勢を示したといえるかどうかが実証上のひとつ の論点とされている。この点について評価をする前に、まずは事件の経緯を丁 寧に概観しておこう。本件の背後にあるパレスチナ問題は長い歴史を抱えてお り、また、世界各地の多数のテロ問題に直接的または間接的に影響を与えてき たことから、本件は歴史的経緯を踏まえて法的評価をすることが強く求められ る事件のひとつであると考えられるためである318)  亡国の民として長い受難の時代を経験してきたユダヤ人は、独自の宗教文化 の発祥の地であり、かつて栄華を誇ったイスラエル王国の所在したパレスチナ における自国建設を悲願としてきた。1897 年に開催されたシオニスト会議(於、 スイス)はそのような望郷の念の現れであった。その悲願が実現される可能性 が示されたのは第一次世界大戦中であった。英国はオスマン帝国との戦争を有 利に運ぶため、ユダヤ人の豊富な資金力を期待した。そして「パレスチナの地 にユダヤ人民のための国民的郷土を樹立することについて好意をもって見ると 共に、この目的の達成に最大限の努力を払う」ことを宣言した(1917 年バルフォ ア宣言)。しかし、この宣言はパレスチナに居住していた非ユダヤ人民の了承 を得てなされたわけではなかった。この戦争の結果、オスマン帝国が崩壊する とパレスチナは国際連盟規約第 22 条 4 項に基づき、英国を受任国とする A 式 委任統治領となった。この委任統治期間(1922 ~ 1947 年)に、ナチス・ドイ ツによる迫害により大量のユダヤ人がパレスチナに移住した。同地におけるユ        317)米国の主張については A/ES-10/PV.25 (16 July 2004), p.2 参照。

318) 事件の経緯については主に以下参照。I.C.J. Reports, 2004, pp.165-167, paras.70-78; 家正治

「パレスチナ人民の自決権と『分離壁』事件」『同志社法学』314 号(2006 年)、48-49 頁; 濱本「パレスティナの『壁』の合法性─国際司法裁判所意見,2004 年 7 月 9 日─」(前 掲注 24)、112-114 頁 ; 森喜憲「パレスチナ占領地における壁建設の法的効果」波多野里 望・廣部和也(編)『国際司法裁判所:判決 と 意見』第 3 巻、2007 年、596-613 頁;藤 田久一「パレスチナ占領地域における壁構築の法的効果」松井芳郎(編)『判例国際法』 第 2 版、東信堂、2006 年、630-631 頁。

参照

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