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洪武帝の仏教政策 - 宋濂と季潭宗?に焦点を当てて - (下)

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Academic year: 2021

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(1)洪武帝の仏教政策.   一宋濠と季潭宗勅に焦点を当てて一(下) 蔭木原洋 (五)宋濠の対日観. 宋演の対日観はどの様なものであったのだろうか。『粟興言行録績編』巻一に、. 墨縄方今四夷皆知卿名。卿自愛。日本使奉勅。求文獄卸金。却之。上間故。麗日。三. 豊逝1継受齢_非所以以薫辛艦。 とある。この日本からの使者の名前も派遣者も不明であるが、宋演は、金にものをいわせ て自分の詩文を求めよ.うとする日本に対して、好感を持っていなかった。  『明史』巻百二十六・列伝十六・宋濠伝には、. 題言。字毒悪。其先金華之潜漢人。至演乃還浦江。幼英敏強記。就學於聞人夢吉。通 五纒。復往從墨字塾し とあり、宋漁は若くして、元末の「儒林四傑」と称された呉莱に学んでいる(1)。  呉莱は、肇・州・浦江(漸江省浦上県)の人で、字は立夫、認を淵穎先生といった。延祐. 七年(1320)進士の試を受けたが及第せず、松山に引きこもって諸経の義を究めた。至正 三年夏1343)、推薦されて饒州路長郷書院山長となったが、就任前に没した。その呉莱の 『三半呉先生集』巻之五「事事」には、 △. 此. 此. 口. A. (中略). 今倭奴本章。固不如高麗。而大海之瞼甚於鴨緑水爆。案曹幾十倍。其人率多輕桿。其 兵又多。鋸利性習於水。(中略)古之聖王務倭奴者心馳利甚。我苛不嫁利微落。錐不 煩兵猶服也。(中略)漢建安中。鮮卑鯛比能稽窟遼東三郡。其後來朝期詰之。日。我 蝋型狭亦人也。禽獣猶知澤美水草以居σ況我人乎哉。前者守臣敷傲我以利。使吾不得. 畜牧。吾故叛去。今反其法。吾早耳。又況倭奴之△一』一 (中略)終至楡平。而不服意者。一迂使之遣未足以服之乎。自臣観之。今則高麗耽羅已 服所。未覇者黒奴而已。然亦不勝其催 。故塁遣使不可。経籍遣使丁論也。以:金虫國    艮 批・。      え ・、崖 ・出   ・・C   (中略)王数面受 敵也。然迄今未即加兵者。 ’ 、. 、 、、1. とある。呉莱は「今(元末)の日本の強さは、昔の日本とは比べものにならない。昔は弱 いとは言いながら、なお中国の兵を退けた。まして今の日本は、その地が瞼なのを侍んで、. 一1一.

(2) 強さは十倍になっている」と述べている。この呉莱の考えが、宋演に武力で日本を臣従さ せることは困難であるという意識を植え付け、方國珍・張士誠の残党が、倭竃と手を結ぶ ことを警戒する(2)洪武帝の考えと相乗効果で、日本は墨画を替かす「強大な軍事国家」 として映っていたと考えられる。そこで宋灘は、呉莱が述べているように、「日本は非常. に利を好むが、利を以て服従させるのではなく、文室.⊥儘教1一あ ゑ」と考え、「詩文」を通して日本との交流が盛んな僧侶、特に禅僧の利用を考えたので 1まないカ、(3)◎.        (六)明使寸翰績蘭・無蓬寛動の選使経緯 洪武元年(1368)十一月、洪武帝は即位するや否や、. 遣使以即位。馬前。報諭安南・占城・高麗・日本各四夷君長。(『皇明通記』巻二) というように諸国詔諭をおこなった。 「明国書雪明使馬革祖閲・無逸克勤尺憤」の天龍寺 住持・清渓通徹(4)宛の書簡(『大日本史料』第六編之三十七・349頁)には、    せいけいつうてつ.                    ママ   故首命使適日本通好。舟至境内。遇賊殺殺害来使。詔書殿溺。国有島民。喩海部冠。   数犯邊歯。. とあり、この使者は、来日途中に海賊に襲われ殺害されたようである。その後、洪武二年 正月乙卯(二十日)には、 国使以即位詔。諭日本・占城・爪畦・西洋諸国。(『太祖實録』巻三十八) 洪武二年二月辛未(六日)には、 遣呉用・顔開先・楊載等。半季城・爪畦・日本等国。 (『太祖實録』巻三十九). とある(5)。洪武帝の日本への遣使は、明の建国を知らせると共に、元末以降活発になっ てきた倭竃の禁圧要求にあった。この時の使者楊載が、洪武帝の詔書をもたらした先は、       かねよし 征野将軍府の懐良親王であった(6)。しかし、懐良親王は洪武帝の使者五人を斬り、楊載 ・呉文華を三ヶ月間も抑留したのである。  洪武二年の使者楊載の派遣失敗後、洪武三年(1370)三月、太祖は趙秩・朱墨を使節と して派遣してくる(7)。その文面は、(1)詔諭した他の海外諸国が入貢しているにも拘 わらず、日本が往問に答えなかったことに対する非難。(2>「華夷之分」を強調して重 ねて朝貢を促す、という内容であった。. 一2一.

(3) 『太祖實録』巻六十八では、. 日本國王良懐遣旧臣僧祖來進表箋貢馬及方物。並僧九人来朝。又送至明州・台州被虜 男女七十鯨ロ。先富有富豪往事國宣諭。秩涯海至析木崖入其境。關者拒勿納。秩以書 達藩王。王乃延細入。直直以中國威徳。而詔旨有責譲其不臣中野語。王日。吾國難夷 僻在扶桑。未嘗不慕中國之化而通貢奉。(中略)於是其王気沮下堂延秩。禮遇有加。 至是奉表箋。璽臣遺祖塞随毯入重。 とあり、懐良親王は、返礼使として祖來を派遣したのである(8)。.  これに対して、洪武五年(文中元・応安五・1372)五月に、祖來の返礼使として、遠江 省寧波府天寧寺住持仲慰留閲、江蘇省金陵瓦官展寺住持無慮克勤が派遣された。しかしな がら、博多は九州探題今川了俊によって制圧されており、征西将軍府の本拠地大宰府も風 前のともしびであった。今川了俊に拘留された彼等は、無逸克勤が天台宗の僧侶であるこ とから、天台座主尊道法親王に書簡を送り助けを求めた。天台座主尊道法親王はその書簡 を朝廷と将軍足利義満に知らせ、その結果、彼等は応安六年(1373)六月に上京した。そ して、紆余曲折の末、洪武七年(応安七・文中三・1374)、五月に、室町幕府の使者、聞渓 円宣・子建浄業・喜春等を伴って帰国した。しかし、この室町幕府の使者は、(1)国臣 の書で中書省宛であること。(2)上表文がなかったこと。以上二点の理由で洪武帝に蠕 けられた。そして、洪武帝は引き続き懐良親王を「日本国王良士」として認め、朝貢を許 したのである(9)。.  以上のことを踏まえて、無逸克勤・仲猷品品が日本への使者になった経緯を考えてみた い。. 『宋學士全集』補遺巻八「大天界寺住持白庵繹師行業碑銘」には、. (洪武)四年春。詔集三宗名僧十人。及其徒二千。無塩薦法塩干塩山。亡師総持斎事。 薪能難至上旨。歯面制規式。皆三審永久。尋以生年毫。畢脛山帰寂自代。復還庵居。 五年冬。詔復建會如四年。 「明国書井明使仲猷祖閲・無逸克勤尺積」の天龍寺住持宛書簡(『大日本史料』第六編之 三十七・350:頁)に、. 祖閾等方承召詔京師。備員修建水陸。事畢衆皆散去。一L六ム  命    一 ”  艮 痴 とある。また、『鄭交徴書』二編之二、守仁一初の「送勤無逸使日本」には、. 一3一.

(4) 大明建長如唐虞。萬方玉畠朝明堂。五亘僧珪無慮面心心素扶桑。 とある。洪武四年夏1371)、京師で洪武帝の命によって、三宗の名僧十人とその徒衆二千 名が集められ、天界寺住持白庵萬金が中心になって大法会が催された(10)。この大法会 は、洪武元年(1368)、二:年に続いて催されたものであった。法会の後、僧侶五百名の中 から、計画祖聞、無慮克勤が、日本への使者として選ばれたのである。彼等は「圏選」、 即ち「くじ」で選ばれたと言うが、彼等は選ばれるべくして選ばれたのだと筆者は考える (11)。この年、天界寺住持白油地金は母が年老いた故をもって、後任に季論宗渤を推薦 して故郷に引退する。.  使者の一人仲鳥道閾は、別号は帰庵、族霊は陳氏、漸江省の人で若年慈難の永楽寺で仏 智匡禅師について剃染し、後、径山の大画派の発董熱雲に参じ、その法を嗣ぎ、永楽、香 山、天寧(12)などに住した。元婁上端には季潭宗渤も参じたことがあったので、二人は 兄弟弟子の関係になる(13)。r宋學士全集』補遺巻三「重刊寂照和尚四會語題僻」には、 室弟子清泰子椴・金山恵明・天寧祖閣復合僻請日。藩刊所録先師語。 とあり、宋濠は、画譜に選ばれる以前から祖聞を知っていた。そして、その能力に関して も. 子梗字画面。宿明字性源。祖膏油民心。面面化一方。黒白量販仰云。(『宋學士全集』 補遺巻三「重刊寂照和尚四倉語題辮」) とあり、高く評価していた。また、『宋學士全集』補遺巻三「恭蹟御製詩後」には、. 天蓋輝坐職南仲猷。以高行僧。召至南京。會朝廷將遣使日本。点点閲與克勤倶。祖閲 不揮鯨波之除。毅然請行。建治之。皇帝法器・輝衣之属。令太官浦添融融武棲下。且 諭。其國敬浮屠。宜以善道行化。、  1 佃野   壽   其幽幽徹御覧。遂帝 威和島詩。一十八韻。首言王化無遠遍σ一視同仁。 (中略)次言経渉海洋。難甚難瞼。. 一(中略)抑心添。:豊畳果公一物血痕絵詞白日。張魏 公稻其非聲聞直心私厭生死者比。人至虚言之。祖團固葺遠隔一着寸心 盒、」倭人慕化。稽首論点。童樂寂滅者可翼其萬一哉。宜其尉面上心而褒嘉之。命屡下. 也。演不平。・恭居法從。故不義而爲之書。上心密帝徳之廣被。王以宜狸幽云。 とある。宋慷は僧侶に才能有る者がいることを解ってもらうためにこの文を創作したとい う。宋演は祖聞に大慧派の特徴である「詩文の才能」を発揮し、「君臣大義」を決して忘 れないことを期待した。それは、大吉派の祖、大喪宗呆が僧職者の中にあっても「忠君物. 一4一.

(5) 之念亟如白日」と言われて以来、大慧派の伝統的特徴であった。宋演は、その伝統的特徴 を外交に活かすことを考えて、仲猷祖閲を選んだ。そして、当然そこには、賦詩を祖閲に 饅し、智慧派の勢力拡大をもくろむ季潭宗渤の動きがあったと筆者は考える。  もう一人の使者、無逸克勤は『宋學士全集』十三「送無逸勤公出使還郷省親序」に、.   克勤字無逸。剛堅狸菟L湛堂法師諸孫也。 とあり、儒教にも通じていた天台宗の僧侶であった。『鄭交徴書』「致延暦寺座主書弄別 幅」には、.   天台傳列祖、高祖龍樹尊者・二祖北齊尊者・三祖南獄尊者・四祖天台智者大師・五祖   章安尊者・六祖法華尊者・七祖母官尊者・八祖左漢尊者・九型荊漢尊者、(中略)南   屏法師・慈辮法師・予予法師・竹奄法師・北峯法師・到源法師・雲夢法師・湛堂法師   ・我奄法師・一 こ   艮    硲. とある。この無逸克勤の師である元瑛法師とは、茎揖悪事のことである。士璋耳蝉は雛 ほんむ. 本無の弟子で東灘晦日の弟弟子になる。士璋は洪武元年(1368)の法会で金陵に行き、天 界寺に入山してわずかに半年で逝去したのだが、『新続高僧伝』巻五には、   燭明重層。集慶虚席。郡守李公請就提唱教導。未幾中書被旨。偉漸之東西五府名刹住   持。威集京師。         ’    類題  ∠ 論  オ  ヒ   、. とあり、闘志院の設立に大きな貢献をした(14》。この士璋原瑛の弟子という人脈と、前 述したように、夢窓疎石の碑銘の件で、宋濠への橋渡しをしていることから、雪濠と旧知 の間であったということが、無徳克勤が使者に選ばれた大きな理由として考えられる。 また、無逸克勤の瓦官教寺住持という肩書きであるが、この瓦官教寺は天台宗の由緒ある 考であった。しかし、『金陵梵刹志』巻二十一には、.   鳳鳳嘉瓦官寺。在都城内申城鳳鳳墓南去6所統天界寺五里。書興寧二年。詔以陶官地。   施爲瓦官寺。梁時。就学瓦官閣。唐革元。改寺日昇元寺。閣日昇元閣。宋太平興國。   改崇勝戒壇。  、  ’懸  く   ’   脚 とあり、明初には廃寺になっていた。しかし、『鄭交徴書』三編之一「到延暦寺座主書井 別紙」に、. 一5一.

(6) 一L敷召樹。纏論稻旨。・廼復瓦官爲天台教寺。衆則推勤主之。 とある。また、 『西面士全集』補遺巻八「上天竺慈光海盆虚血大師東子日公碑銘」に、. 其在京時。與愚息虚言昇元教寺。乃天台初繹法華道場。不可久腹。乃以其事上聞。即   輝  .i    ’  ロ 良師開山。師誌面座説法。 とあり、瓦官寺の復興には、禅宗の白庵萬金、天台宗の東浜慧日の油魚が深く関係してい た。禅宗の白面萬金が、天台宗の寺の再建に協力したのは奇異に思われるが、自庵萬金も 元は天台宗の僧侶で、後に禅宗に宗旨替えしているのである(15}。.  しかし、寺が復興したといっても、天界寺の一隅に建てられただけで、由緒ある瓦官教 寺住持という肩書きは、当時、まだ若い一介の天台宗の僧侶にすぎなかった無逸克勤を、. 国使として日本へ送る為の「箔付け」であったと考えられる。しかし、」面住控. の一§ “の’に   ’脅まよま“の に’.   い  轟っ一 6。そう考えると多くの日本留学僧と交流のあった、宋慷、季潭 宗渤による肩書き作成ではないかと考えられる。.  この仲家祖閲・無逸克勤が使者として選ばれた、誌面四年(1371)の大法会と、時を同 じくして、絶海中津が、径山に入寺した季潭宗渤を再度訊ねている。絶海中津は、洪武元 年(応安元・1368)二月差萌窒饗尭・鞍韓叢叢・妾猷誓解懇・宿翼撚僑等と共に入明した。 最初に師事したのは大面派の広遠懐滑であった。この清心義字は、師の笑隠出訴に季誌面 渤と共に、大慧派を広めるべく期待された僧侶である(17)。その後、絶海中津は杭州中 天竺寺の季潭宗渤1により、その才能を高く評価され、禅林四六を中心とした新しい文学作 法を身につけるのである。  絶海中津は、入明に際して、義々周信から、派祖夢寸意石の碑銘を骨壷に撰述してもら うように依頼された。義堂周信は、絶海中津の兄弟子にあたり、絶海と並ぶ日本五山文学 の代表僧である。その義堂周信の日記である『墓窒三角孤島蕗奨』の永和三年置洪武十・ 1377)十二月二十五日条に、. 廿五日。晩赴如意奄。出血伸遷塔:之賀。且為可蔵主也。当字久奄。話及南面事。余問. 日。面作先師富盛盛付絶海。公知之否。久奄日。吾知之。絶海囑直面虚無逸。々命宋 景慷而令作銘。々將出。偶有事愛而停尖。想其文必成。未審今在何庭。久又説。吾在 天界寺。前面逸・仲猷二面。細々皆云。在日本多見義面作。出示爲攻上人序・銅雀研 鼻血油壷句論曲者云々。 とある。入明後、. は ’. A. に 、  、. 翼の ・. §、この碑銘. は日明関係の悪化もあって、なかなか義堂周信の手に入ってこなかった。このことを、明. 一6一.

(7)       きゅうあんそうか. から帰国した久庵僧可ほ8)が義堂周信に語っているのである。また、久庵僧可は、おそ らく日本へ出立前の、仲一献閲・無逸克勤と天界寺で会っていると思われる。絶海中津は、 この後洪武運に召見され、日本の国情を報告し、帰国後は室町外交の中心人物になってい くのである(1g)。このように、伸率甲骨・無逸克勤は、絶海中津や久明明可と接触して、 事前に、情報入手を行っていたと考えられる。 『宋學士全集』十三「送無逸勤公出使還郷省親序」によると、 閲亦附奏日。島夷不知禮義。微勤臣不能再謄龍顔夷。. とあり、仲猷祖閾は帰国後、竿掛帝に明使に対する日本(特に北朝)の礼儀のなさを奏上 した。これは、博多での拘留生活、都での将軍足利義満への謁見がなかなか円滑にいかな かったことを指している。そのような逆境の中で、仲猷祖閣は、無逸克勤が博多での拘留 を脱しようとして、天台座主尊道法親王に書簡を送って助けを求めたことや、上京後は天 龍寺住持清渓通徹に仲介を頼み、ようやく室町幕府と交渉できたこと、自分たちの奮闘に よって、遂に返礼使を随行させて帰国したことを報告したのであろう。『尊卑士全集』十 三「送無逸勤公出使還郷省親序」は続けて、. 上忽顧侍臣日。勤ピー親賜手下。 下墨父華毅。使其加冠巾出仕。無半解念去國三年。將還郷行省朔之禮。虫皇蹴一   、 、 、        立立   二           、. とある。これは、僧職者である祖聞・克勤の活躍が、洪聖帝の必要とした理想的な「官僚」 であったからである(20)。そして、このような活躍が、彼等が帰国する前年の洪武六年 (1373)の「科挙廃止」が、洪武十七年(1384)まで続く原因の一つになったのではない. かと考えられる。       、  無逸克勤はその後還俗し、名前を華克勤と改め、考功監令に任ぜられ、その後、山西布 早使にまでなった。『山西通志』巻第八十五(清・光学帝十八年刊本、王軒等撰、中挙上 志彙編之十三〉には、. 華克勤洪武間左布政使。有政聲。屡蒙勅奨諭。 とある。さらに、 『明太祖文集』巻二「諭山西布政使華克勤詔」には、. 俄洪武十年夏五.月。山西布政司奉云。   !  ・山 ’”勅中書以考其入。入皆 累犯不俊。前哨之徒。巳入屯所。朕憐一才一撃。特脱彼難難。使革心呪事。而又爲非. 勝常。無月持以勅往。令刑之。其符到。山草壷昏昏巡一一此可謂除耳蝉儒. 一7一.

(8) 者歎。公私威遂清寧者歎。其布政司官當方面。承朕命。宜教化布威徳。若肯除妊去偏。 愚慮孝親忠君之道不至哉。豊楽如前代名世者乎。 とあり、また、 『明太祖文集』巻七「豊山西語政使番克勤」には、. 嘗聞歴一」盛砂秘事。朕毎聴之。 切歯町所6撮要六月十四日差山西布政司實封到來。内構姦吏無官。今砂面布政司官明 白省會縁由。於市山中典刑。母得率豫不漁。敷砂施行。. とあり、山西布政使の華克勤の活躍ぶりと、それに対する洪武帝の称賛を示している(2D。 洪武帝は僧侶出身の官吏である華克勤の方が、科挙出身の官僚よりも、姦吏(胃吏)に侮 られることなく、また、従来の官僚と晋吏の「持ちつ持たれつの腐敗関係」にもなること なく、職務に忠実であることを強調したかったのである。  官僚と胃吏の腐敗関係については、壇上寛氏が「明王朝成立期の軌跡一捻唐朝の疑獄事 件と京師問題をめぐって一」(『東洋史研究』第三十七巻第三号・1978、のち『明朝専制 支配の史的構造』汲古書院・1995に所収)において、南人政権の特徴ではないとされた上 で、「初期明王朝は、官僚の多くが南砂であるため、南京の中央官と江南近辺に配属され た地方官にすれば、自分達の本拠地の中にいるわけで、在地との結び付きがより強固にな り、極めて好都合な状態であった」「江南を中心にして膨張発展した明王朝の地方官僚は、 薦挙によって採用された者を任命するほかは、ほとんどが現地調達だったと考えられる」 「江南では地方官と在地との癒着が顕著であったようだが、これは地方官が多く韓人であ ること、つまり同郷的な繋がりが、さらにその傾向を助長しているのではないかと思われ る」と論じられている。その他「人事面」での癒着も指摘された。  筆者はこの壇上氏の論を受けて、捨石初期の大法会で集まった僧侶は。    心に  っ い §    い’ 瓜   ’    ・ §小ない こ に宋演は目を着けたの だと推測する。. しかし、『明史』巻藁三十九・列伝第二十七・義士魯伝には、 匠 ・. ヒ. 畢朝莫敢. 虐. 言。惟仕田印給事中陳波郵相織争之。泣輝疏言。古帝王以来。一 掴一一手動落書徳屋思藤里去位。而纈歯茎夫乃益転倒間。如皇基・徐達 之見醒。李善長・周徳悪騒被誘。視町並。確信。其危疑相去幾何哉。伏望陛下於股肱 心弩。悉取徳行文章之彦。則太平可立致夷。童 聴一(中略)士魯疏言。陛下方創業。. 凡意年所向。即示子孫萬世法程。奈何亜聖塁一一(中略) 及言不見用。遽請於帝前日。                 ’陛下笏。乞賜骸 骨。露田里。遂置土於地。帝大怒。命武士黒血之。立死陛下。. 一8一.

(9) とある。この呉印も無逸克勤と同様、洪武帝にその才を愛され還俗した入物であるが、 「呉印・華克勤等は、耳目之官(御史大夫1に抜擢されたのをよいことに、横暴に大臣を 講脱している」「いままで士大夫と僧侶が、官僚として一緒に仕事をしたことなど聞いた ことがない」「どうして儒教を捨てて仏教を崇拝するのか」と洪武帝に訴えている。この ように、李士魯や陳波野のような朱子学者は、洪武帝が僧侶を官僚として使うことに、真 っ向から反対していた。  しかし筆者は、この伸概評聞・無逸克勤の組み合わせば実に「当を得た組み合わせ」で あったと思う。筆者は、仲猷祖閲の方は、大戸派という理由で、白羽の矢が立てられ派遣 されることになったと論じたが、『四四士全集』巻十三「恭践御製詩後」に、. 以爲中華之輝伯。亟白干王。請主天 龍緯寺。寺乃堅塁琴師道場。實名刹也。祖開平無上命。力僻之。. 一’ @ロ妻1  ’. 、  、霊. とあり、宋深の美辞を差し引いても、その禅僧としての実力は大したものであったに違い ない。帰国後は、高齢ということもあって、故郷の永楽寺に帰り、鼓琴、詩作を以て自適 の生活を送ったという、いわゆる「文人僧」である。それに比べて無冠克勤は、帰国後還 俗し、山西布政使まで出世したという、 「俗事に秀でた僧侶」であった。 (七)通訳馨麗縫舞・矯ち超冨韓派遣の経緯.  次に使者の通事の選出について考えてみたい。通事の一人椿庭海寿は、古林清茂の門下 では、甲骨清欲と塁壁といわれた竺仙梵悟の弟子である。前述したように古林派は、大堺 派と共に文芸的要素を持った派であり、竺仙堺町の活躍で、日本の「金剛橦下」の僧達に よって五山文学の初期の学風は創られた。  この古林派の椿平海寿と大垣派の使者仲猷祖閾の組み合わせば、当時の日中禅宗界の交 流に於いて、実に的を得た組み合わせである。この様な組み合わせを考えつけるのは、宋 演と季潭宗渤しかいないと筆者は考える。  野庭海寿は、貞和六年(至正十・1350)に入元し、台墨寺の空海□念に参じ、その会下        ひんぼつ に蔵主を掌り、声払を遂げ、尋で了庵清欲・月江正印・聖堂惟一に参じた。明朝になって、 浄下寺住持種麓笠藤に招かれ、同寺の手甲首座を勤めた。任満ちて遊訪し、金陵の天界寺 に掛錫した時に、洪武帝が同寺住持白庵萬金に命じて、一時の名纈を選んで、大蔵経を校 正させたときに、椿庭もその一員に加えられた。その後、白庵の推挙により洪武帝に奉天 殿に召見せられて、日本の国情を問われ、奏対が旨に称つたので、大いに手厚く慰労され た(22)。西武五年(1372>、洪武門は勅旨を白庵に降して、椿庭を鄭県の福昌寺に住せ しめた(23)。. 一9一.

(10)  洪武帝は椿庭海寿への下問で、征西将軍懐良親王が唯一の日本政権ではなく、北朝の存 在も知ったに違いない(24)。そして、下問後、椿七海寿を漸江省自県の福耳寺に在住さ せたのは、祖閲・克勤の通:事として日本に随行させる為の準備であったのであろう。この 洪霜露の措置には日本の留学僧を上手く利用しようとする意図が感じられる(25)。 『郡交直書』二丁之一、克新の「送壽上人還日本序」に、. 日本壽上人。將返底面。幽幽於嘗所遊者。面屡予序。 (中略)去上ム忠珪魅」. 宜一(中略)三皇元。奮起朔方。撫有諸夏。四夷八璽。岡不臣服。 幅員之廣。彊宇之大。錐三代無有也。都邑城郭。人民生聚之繁。中外百司。文武材能. 之盛。禮樂文章。紀綱制度。燦然可述。漢菊枕下之有也。(中略)越一  r   こ \ ’                A鵡          ・                ヒ 口. 1’  一雪∠ヒ. ’. とある。克新は、季潭宗湖の弟弟子にあたる。上記の序文には、椿庭海寿に、越裳氏(安 南南部の国)の例を引いて、明主の仁政の国情を目本に詳細に説明するようにと、細々と 指示している(26》。このことより、筆者は克新の序文には、宋濠・季潭宗渤等の意向が 反映しているのではないかと考える。また、彼の帰国に関して、克新だけでなく古林派の 法叔・了再診欲、古剣妙快の師・砂中無怪等、名だたる明の高僧が偶頒を送っているのも、 単なる日中仏教界の友好関係だけではないもの、即ち、凶漁と季潭赤髭の官吏登用、外交 戦略が絡んでいると推測するのである。  もう一人の通事である権中中巽は、臨済宗夢窓派の僧侶で、郷国・俗姓は不詳で、建仁 寺大統院の訪豪憲蒙に師事:してその法を嗣ぎ、応安元年(正平二十三・1368)、絶海中津 ・明室梵亮・汝霧妙佐・如心中恕・伯英徳儒等と共に入明した。前述したように、絶海中 津が無逸克勤を介して、宋濠に歯面疎石の碑銘の執筆を請うた時に、権中中巽は行動を共 にしている。宋濾や明使の一人である無逸克勤とは早くから接触があった事や、日本で最 大勢力を誇る「夢窓派の僧侶」であること等が通事として選ばれた理由であろう(27)。 (八)その後の宋漁と季潭豊満.  洪武九年(1376)、宋演は官を辞して故郷の浦江に帰り、弟子の教育に当っていた。し かし、洪武十三年(1380)、孫の宋慎が胡惟庸の獄に連座して処刑された。  胡惟庸は明建国後、左丞相として権力を振るい、右丞相注廣洋の左遷後は、一層その専 権を増大させていた。胡惟庸は次第に金武帝をないがしろにして、謀反の心を抱くように なり、日本や元の残党とよしみを通じようとした。たまたま、その子が墜死したときに、. 一10一.

(11) 車を引いた者を殺害したので、洪三二の怒りに触れ、兵を挙げようとしたが、露顕して諌 殺された。この反乱の状況は死後ぞくぞくと明るみに出て、獄に連座する者は三万人にも 及んだ。猜疑心の強くなった洪武帝は宋濠をも処刑しようとしたが、馬皇后の取りなしで 何とか一命はとりとめ、四川の茂州に流される途中、病を得て亡くなった。その後、洪武 十九年(1386)に、三世庸謀反の片棒を、寧波衛指揮林賢が担ぎ、倭兵を招来しようとし た事件が発覚したので、洪武帝は日本との通交を禁止した。  季隅隅瀞は、洪武帝より還俗して官吏になることを勧められた。一度はこれを受けよう としたが、後に翻意して辞退し、生涯一僧侶として全うすることを願った(28)。終雪十 一年(1378)に、季隅隅渤1はインドに派遣された(2g)。この「インド行き」は、還俗を 翻意した季潭宗1防に対する、洪武帝の懲罰的な意味あいが多分にあったと思われる。洪武 十四年(1381)、全国の仏教と僧侶の事務を管掌するために僧録司が設けられた。インド から帰国した季潭宗渤(30>は、洪武十五年(1382>、正六晶の右善世(31)に任ぜられ、 名実ともに中国仏教界を統括する地位についた。しかしこれも束の間で、天界寺の租税問 題で左遷される(32)。洪武二十三年(1390)に再度、右善世を命じられるが、同年に胡 惟庸の獄がむし返される。洪武二十四年に、胡惟庸の党派として捕らえられた智聰という 僧侶が、季潭宗渤も事に与したと供述したために、罪一等を免ぜられたものの配流される ことになった。そして、磋峰に配流される途中、江補剛江浦石佛寺で入滅した。  真偽のほどはともあれ、両人ともに胡町庸の獄に関連して処罰されている点に関して、 筆者は洪武四年(1371)の仏教法会に、朝廷から遣わされた官僚が胡惟庸であったことを 考え併せると(33)、洪武四年の仏教法会を利用して、僧侶を外交官僚として利用する計 画に胡惟庸も関連していたのではないかと考える。そして、洪武帝は日本との外交途絶の 理由として胡惟庸の獄を利用したので(34》、それに関係した宋濾、季潭宗渤をもこの機 会に排除しようとしたのである。 結  語  明は建国当初、官僚の絶対量の不足に悩んでいた。「薦挙」の制度で、多くの官僚を採 用したが、南入を中心とする官僚群が出来上がり、地方官と在地との癒着が顕著で、胃吏 との腐敗関係も問題であった。満室三年(1370)に科挙を開始したものの、合格者の大半 は南人が占め、明朝政権の性格は変わらなかった。洪武帝のブレーンの一人目あった宋演 は、俗人より癒着が少ない僧侶を官僚とすることに目を着けた。特に禅僧は、偶頒を創作 する訓練を積んでいるので、官僚に必要な四六吉書文の作成能力を持っていた。  仏教界は、元末の混乱から名刹のほとんどが灰儘と化し、荒廃を極めていた。洪武帝は 人心の収撹のために、洪武元年(1368>、二年と「仏教法会」を続けておこなう。禅宗の 大慧派は、笑隠四二によって復活の兆候を見せていたが、甲州の全盛期には遠く及ばず、 漢人王朝である明王朝の誕生で、勢力を挽回する機会をうかがっていた。その大野派を担 う季潭宗渤は、宋演とこの「仏教法会」を利用しようと図る。二人は「仏教法会」を、人. 一11一.

(12) 心の収撹や仏教統制だけに利用するのではなく、官僚不足の補強と大慧派の勢力挽回に利 用しようと考えた。特にこの野苺、対日交渉上、外交官としての能力のある人物が必要で あった。この結果、洪武四年(1371)の「仏教法会」から大旧派の仲猷難事、天台宗の無 逸克勤が使者として選ばれ、通訳として日本留学僧から、古林派の椿庭海軍、夢窓派の権 中中巽が選ばれた。.  伝統的に中央政界との関係が深く勢力挽回をはかる大慧派、日本中世、特に五山文学に 大きな影響を与えた古林派、日本の禅宗界をリードする夢窓派、そして日本ではまだまだ 根強い勢ガを誇る天台宗、この組み合わせば中国・日本の仏教界に精通している宋濠・季 潭宗渦でなければできない選使であった。.  この祖聞・克勤は征西将軍府の没落から、当初の目的を達成できず、北朝側の使者を伴 って帰国した。しかし「国臣」でしかない足利義満の書は、上表文もなく宛先も中書省宛 であったことから却下された。  祖聞・克勤は、使者としての役目を果たせなかったにもかかわらず、彼等に対する洪武 帝の評価は高く、二僧共に褒賞を受け、無逸克勤の方は還俗して御史大央にまで出世する。 この後、官界の批判を受けながらも、僧侶出身の官僚の活躍を洪三三は評価した。しかし、 必ずしも洪武帝の意志に忠実でなかった僧侶は左遷の憂き目にあっている。その代表が季 潭宗渤であった。.  洪武帝にとっては仏教も一つの統治道具に過ぎなかった。仏教統制に成功し、粛清によ って連人官僚を押さえつけ、独裁体制を確立した後は、宋慷、蝉騒宗渤も用済みであった。 そこで、洪武十八年(1385)には科挙制を復活させ、胡惟庸・遺賢事件にからんで日本へ の使老を選んだ宋演、薄々宗渤1を失脚させ、洪武十九年(1386)には日本との通交を禁止 するのである。 (註). (1)『明史』巻百二十六・列伝十六・宋昇平に、 遊柳貫・黄潜之門。爾人皆亟遜演。自謂弗如。.   とあり、宋演は、元末の「儒林四傑」の柳貫・黄潜にも学んでいる。この黄潜には、   季節宗渤も学んでいるので、    −出渤ま  ・ の百  い’こ にオ 。 (2)『明史』巻九十一・兵三に、    時國珍及張士誠鯨衆。多窟島傾間。勾倭爲冠。 (3)日本の禅僧、特に五山僧の外交能力については、田中健夫「漢字文化圏のなかの武   家政権一外交文書作成者の系譜一」(『思想』10号・1990)、村井章介「建武・室   町政権と東アジア」(歴史学研究会・日本史研究会編『講座日本歴史』中世2 東. 一12一.

(13)   京大学出版会・1985、後『アジアの中の中世日本』校倉書房・1988に所収)、田中   博美氏「武家外交の成立と五山僧の役割」(田中健夫編『日本前近代の国家と対外   関係』吉川弘文館・1987)、西尾賢隆「京都五山の外交的機能一外交官としての禅   万一」(荒野泰典・石井正敏・村井章介編『アジアのなかの日本史』 外交と戦争    東京大学出版会・1992、後『中世の日中交流と禅宗』吉川弘文館・1999に所収)   参照。 (4)玉村竹二『五山輝上肉記集成』(講談社・1983)、352頁に略歴。 (5)佐久間重男氏はこの『太祖実録』の両記事の問はわずか十六日にすぎないので、お   そらく同一内容を述べたものであろうと言われている。佐久間重男「明初の日中関   係をめぐる二、三の問題一陣武帝の対外政策を中心として一」(『北海道大学人文   科学論集』第4号・1966、『日明関係史の研究』吉川弘文館・1992に所収、51頁参   照)。 (6)田中健夫『中世対外関係史』(東京大学出版会・1975)、55頁。 (7)「明国書豊明使仲猷祖聞・無罪克勤尺贋」の明の日本国王宛国書(苔)『大日本史   料』補遺第六編之三十三、1頁)には、使者として趙秩・堅甲の名は記されておら   ず、楊載の名が記されている。楊載は『明史藁』巻百八十二楊載伝に、「凡再離日   本還。復使琉」とあるので、この時二度目の来日をしたらしい。 (8)洪武帝期の日明関係については、石原道博「日明交紗の開始と不胡国日本の成立」   (『茨城大学文理学部紀要(人文科学)』・1954)、宮田俊彦「日明、今明国交の開   始(上)」(『日本歴史』201・1965、後『琉明・琉清交渉史の研究』文献出版・1   996に所収)、佐久間重男・前掲論文、田中健夫・前掲書、栗林宣夫「日本国王良懐   の遣使について」(『文教大学教育学部紀要』13・1979)、村井章介「日明交渉史   の序幕一『明国書井料使四型無糖尺腰』を中心に一」(『東京大学史料編纂所報』   11号、1977)、同「室町幕府の最初の遣明使について一『雲門一曲』の紹介をかね   て一」(今枝愛煙編『禅宗の諸問題遍雄山閣出版・1留9)1、同・前掲論文、三論文   とも、後『アジアの中の中世日本』(校倉書房・1988)に所収、鄭標生『明・日関   係史の研究』(雄山閣・1986)、長谷部幽膜『明清仏教教団史研究』(同朋社出版    1993)、拙稿「明使仲猷祖聞・無尽克勤帰国後の日明関係」(『東洋史訪』第3   号・兵庫教育大学東洋史研究会・1997>参照。 (9)註(8)参照。 (10>龍池清「明の太祖の仏教政策」(『仏教思想講座』八・1939)、滋賀高義「明初   の法会と仏教政策」(『大谷大学研究年報』ニー・1969)、長谷部幽践・前掲=書、   拙稿「洪武帝の仏教政策一宋演と季潭宗渤に焦点を当てて一(上)」(『東洋史訪』   第5号・兵庫教育大学東洋史研究会・1999)参照。 (11)海老根聰弾琴は「仲卸弊習・無暗克勤の来朝とその絶賛作品」(『美術研究』28   7・1973)で、 「『勅選酉丈清規雲桃抄』(両足院本)巻上によれば、 『唐土カラ日   本ニハ禅宗ト天台宗トカ盛ナトテ、禅ニハ天倫、台宗転出ー庵ヲコチへ渡サレタ』」. 一13一.

(14)   とある。これは応永九年(1402)に来朝した天倫道舞、一庵一如のことであるが、   この認識は無逸等の派遣にあたっても同じであったと思われる」と論じられている。 (12)村井氏は前掲書で、天寧寺について「仲猷に同行した  ㍍、 ・つ 百、の   座だ2一たことがあり、おなじく     百、の      い一」と指摘され   (272頁)、 「応永九年(1402)には、応永五年(1398)の先例にならって、禅僧天倫   道郵と天台僧一庵一如が明使として来日し、北山第で義満と対面しているが、この        の“  ・   応、の   ・っ一 天寧寺が日明交通史上に占める   地位がうかがわれて興味深い」と論じられている(273頁)。また、黎光明氏は、前   掲論文で「而寧波又是倭夷往来墨磨的地方、廟中的和尚封干日本的印形自然較別虚   宍粟些、祖心的奉使日本、這或者也是原因之一」と論じられている。 (13>『前天界輝寺住山全室輝師塔銘井序』に、 甲申謁原由研師端公転径墨壷繋留掌記室職槻闘省印撰集慶。 また、『増事績傅燈録』巻第五に、 龍燈笑隠輝師法嗣久之謁原婁於樫山語合命掌記室。 さらに、『績燈存藁』巻六、龍翔訴暉師法嗣には、.    元婁居径山留掌記室。 (14)拙稿「洪武帝の仏教政策一宋演と季潭宗渤に焦点を当てて一(上)」(『東洋史   訪』第5号・兵庫教育大学東洋史研究会・1999)註(11)参照。 (15)『宋學士全集』補遺巻八「大天界寺住持白庵灘師行業碑銘」 名相之學。略諸等 。加盟諸縁。而往踏継路乎。. ノN. 監   とあり、そうすると、禅宗の天界寺の一隅に天台宗の瓦官寺が復興されたのも納得   がいく。また、長谷部幽践氏は前掲書で、「明代初期の佛教は宗派的色彩の稀薄な、   いわば全一佛教とでも呼べるべき性格めものであった」と指摘されている(263頁)。 (16)海老根聰郎氏は前掲論文で、 「〈荘官克勤〉という呼称は、寺返上の住持職とい   うよりも、来朝使節という役割と関係のあるものと考えられる」と述べられている。 (17)『宋學士全集』補遺巻八「浄慈輝師竹庵滑公白塔碑銘」に、 亦呼而周期日。吾橡主位者。四十連年。接人非不彩。能弘大筆之道。天理墜者。 唯汝膿胸湖爾。. 一14一.

(15) (18)臨済宗佛光派の僧侶で、上杉憲將の息。伊豆国清寺の無擬妙謙に師事して出家、   後に入明して、諸老に参じ、永和三年(洪武甲・1377)九月頃帰朝して鎌倉に帰っ   た。 (玉村竹二・前掲書、102頁)。.    『空華日用工夫略集』永和三年(1377)九月二十二日条に、. 道可蔵主(久庵僧可)至。近回自江南。説云。近年大明禁日本僧行脚。皆集在天界 寺。不許妄出入及看俗書等。 とあるのは、洪野阜が日本の情報収集と明国の国内情報を知られたくないために行 った措置であろうか。また、九月二十三日条に、 廿三日。過如意庵。謝可蔵主。且問江南近年儒佛二氏人物。則輝林諸者往々西錦。 今古温恕中一人。儒則宋景藻而已。.   とある。仲駆落閲・無逸克勤の帰国に際して、足利義満は三際祖国を天竜寺に迎え   ようとして固持されたために、そのかわりに古剣妙快の師、恕中無協を明国から新   たに招聴しようした。しかし、難中は洪武帝の懇篤な勧奨にも拘わらず、老齢の故   をもって固持している。 (19)西尾賢隆「室町幕府外交における五山僧一絶海中津を中心に一」(『日本歴史』   537・1993、後『中世の日中交流と禅宗』吉川弘文館・1999に所収)。 (20)黎光明氏は前掲論文で「明室分封子弟以後、也還操選高僧到各王慮去輔導開化、   而僧道衛却半国教唆三王胡兵靖難、這特筆始料所属的了」と述べられている。壇上   寛氏は、前掲書で「努努十五年(1382)八月に馬皇后が亡くなると、太祖はその霊   を弔うために各藩王のもとに僧を遣わしている。これには、諸王の動向探索という   密命が彼らにあたえられていたのである」と書かれており(182頁)、いわゆるスパ   イ工作にも僧侶は使われていたらしい。 (21)『太祖實録』巻百二十三に、 山西指呼使華克勤言。大同蔚朔寄州。歳造軍士戦襖。倶令民間縫製。散給軍士。 長短不稻。往往又令改革。徒費撃力。明円毎衣一件。定所用布縷等物若干。給軍 士自製爲便。上是其言。伍命陳西北平遼東諸邊衛通行之。.   とある。また、黎光明氏は前掲論文で『駅弁通志』及び康煕の『紹興府志』には、   「華克勤以孝弟力田科磨聰。仕終山西布政使」とあるが、「大概是以僧徒而到高官、   固非人的意料所及、故妄断為慮聰出仕。一日太祖既以和尚而倣皇帝、且常論抜儒僧   以入仕途、則克勤的男手、實屡無足怪者」と述べられている。 (22)『本朝高僧伝』書捨・浄繹三之十八「海寿伝」に、. 一15一.

(16)     帝問日本四方遽還皇運治乱。 (23)玉村竹二・前掲書、467頁に略歴。 (24)葉貫麿哉氏は「入明僧椿庭海寿評伝」(『駒沢史学』五・1956)で、「洪武帝は   (懐良)親王をして日本国王と思って居ったのが不図も椿庭の言によって京都に在位   する持明即ち北朝の天皇が真の国王なるを知ったであろう」と述べられている。 (25)洪武九年(1376)洪武帝は絶海中津・汝森良佐を召見して、熊野の古詞について尋   問したが、葉叢麿哉氏は前掲論文の中で「これは密かに太祖が日本の情勢を探ろう   としたのである」と述べられている。 (26)『太祖實録』巻五十三 命懸克新繭三人西域招諭吐蕃。価命周其所過山川地形寒帰。.   とあり、克新は洪武三年六月、西域に国使として派遣され地理調査を命じられてい   る。 (27>玉村竹二・前掲書、174頁に略歴。 (28)『明太祖御製文集』巻十五「中使渤免官説」に、     洪武九年春。遽游天界。見住持僧総目。博通今古。儒術深明。詞問僧之苦行。     .本面家風。果何幽静。傍日。是僧動止異常。息切儒書。大知禮義。又非林泉之     士。童画朕命育髪盛砂官之。當時本僧警世奉命而不僻。待至髪長数寸。将書案     桜之。其僧再群而求免。願終世於書癖。 (29)郡函丈・池田温訳「明朝初年出使西域僧宗渤の事績補考」(『東方学』81・1990)   参照。 (30)『太祖實録』洪武十四年十二月乙卯條     僧宗渤還自西域。俄力思軍民元帥府。巴者萬戸府遺使随宗渤來朝。表貢方物。 (31)間野潜龍『明代文化史研究』(同朋舎・1979)250頁、長谷部幽蹟・前掲書、第三   章「教團組織の基本問題と社會倫理」。 (32)『明太祖御製文集』三八「論天界寺僧」、『明太祖御製文集』巻八「諭天界寺不   律僧戒渤復」。 (33)『宋義士全集』巻四「蒋山塞五心會記」     童謡中書右丞相電着洋書丞相胡惟庸。移書於城社之神。具宜上意。稗神童諸冥。     期口軽集。 (34)註(8)に同じ。. 一16一.

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