カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた
考察
著者
近藤 和敬
雑誌名
鹿児島大学法文学部紀要人文学科論集
巻
79
ページ
17-28
URL
http://hdl.handle.net/10232/20439
一七
カヴァイエスの「一般化の理論」の
形式化に向けた考察
〈1〉フロリディの「情報実在論」と
カヴァイエスのフッサール批判
近
藤
和
敬
概要
本 稿 を 冒 頭 部 と し て 展 開 さ れ る 本 論 題 の 目 指 す と こ ろ は 次 の こ と で あ る。 ジ ャ ン・ カ ヴ ァ イ エ ス[ Jean Cavaillè s, 1903-1944 ] の 数 理 哲 学 に おける「一般化の理論」 [ la théorie de la généralisation ]( Cavaillè s 1938a : 171 : 以 下 T G) に つ い て、 そ れ を 現 代 の 科 学 哲 学 の 文 脈 に お い て よ り 一般的な仕方で理解し、また現代の科学研究の文脈でより広範な応用を 可能にするために、一つの妥当な形式化を試みることである。ただし本 稿 で は、 こ の 目 標 を 最 終 的 な も の と し て 据 え な が ら、 ひ と ま ず そ の T G が文脈上位置づけられているカヴァイエスの数理哲学の全体像を、以上 のような文脈のなかで再解釈しようとするにとどめる。このときこの最 終目標を鑑みて、通常の解釈において行われるように、カヴァイエスの テキストそのものの逐語的解釈に終始するのではなく(逐語的解釈につ い て は 近 藤 二 〇 一 一 を 参 照 さ れ た い )、 カ ヴ ァ イ エ ス の 哲 学 の 文 脈 に 固 有の用語を、現代の科学哲学の文脈と関わる語彙に置き換えながら、と く こ こ で は ル チ ア ー ノ・ フ ロ リ デ ィ[ Luciano Floridi ] の「 情 報 実 在 論 」 [ Informational Realism ](以下 I R) の語彙とその議論の文脈を参照する こ と で、 解 釈 モ デ ル を 構 築 す る こ と と す る。 フ ロ リ デ ィ の I Rが 解 釈 項 として採用される理由は、本文中において明らかになるように、カヴァ イエスとフロリディの両者の哲学に、全部ではないものの、ある程度以 上の重なり合いが認められることによる。したがって、本稿は、以下の ような手順で議論を進めることとする。 1. フ ロ リ デ ィ の I Rの 置 か れ て い る「 構 造 的 実 在 論 」( 以 下 S R) 内 部での論争的文脈と I Rの関係について概観する。 2. フ ロ リ デ ィ の I Rの 枠 組 み を、 と く に 彼 の「 抽 象 化 レ ベ ル 」 の 議 論 を中心に素描する。 3. カ ヴ ァ イ エ ス の フ ッ サ ー ル 解 釈( Cavaillè s1947 ) に つ い て 検 討 し、 そ れ が 2 で 素 描 さ れ た I Rの 議 論 と 確 か に 対 応 し て い る こ と を 確 認 する。1.フロリディのIRとSRの関係
フ ロ リ デ ィ は、 Floridi2004 に お い て、 I Rを、 S Rを め ぐ る 二 つ の 論 争 的 立 場 で あ る E S Rと O S Rを 調 停 し う る も の と し て、 あ る 意 味 で は それぞれの良いとこ取りによって構成し、自らの立場の有用性を立証し よ う と し て い る。 た だ し、 後 で み る よ う に、 彼 の 議 論 は、 S Rの 本 来 の 文脈からは離れて、 とくにそれぞれの世界観(あるいは存在論的な設定) にのみ関わっているようにみえる。まずはこのことを確認しながら、彼 の議論の方向性がどこに向かうものであるのかの明らかにすることから 議論をはじめよう。近 藤 和 敬 一八 S Rは、 野 内 二 〇 一 二 に よ る 説 明 に し た が え ば、 科 学 理 論 そ の も の が 真理をとらえているのか、さらに具体的に言えば科学理論が含む理論語 の指示対象をとらえているのかということに関する実在論と反実在論の あ い だ の 論 争 に お い て、 実 在 論 側 か ら の 反 実 在 論 へ の 反 論 の 一 候 補 と して提起されたものである。科学的実在論論争全体に関する詳細は野内 二 〇 一 二 に よ る も の と し て、 こ こ で S Rの 議 論 を 展 開 す る う え で 必 要 な 限りにおいてこの議論をまとめなおす。この論争は、もともと科学的実 在 論 側 の 比 較 的 素 朴 な 議 論 を 封 殺 す る 反 実 在 論 側 の 強 力 な 議 論 に 対 し て、何とかして最初に期待した取り分のうちのいくらかでも取り戻すた めに、実在論側から反論を組み立てていくという形で展開した。その反 実 在 論 の 議 論 の 代 表 的 な も の は、 Laudan1981 に お い て 展 開 さ れ た「 悲 観的帰納法」と呼ばれる議論と、フラーセン一九八〇において展開され た「経験的構成主義」の議論からなっている。 反 実 在 論 側 か ら の 反 論 以 前 に 前 提 さ れ て い た 科 学 的 実 在 論 の 主 張 に は、おおよそ次のような考えが含まれていた。 1. 科学理論は世界の真理を解明している。つまり真に実在している存 在者についてそれは解明している(言いかえれば、科学理論は額面 どおりに真である) 。 2. し た が っ て 科 学 理 論 が 含 む 理 論 語( た と え ば、 電 磁 場、 エ ー テ ル、 放射性崩壊)は、実在する指示対象をもつ。 3. このように理解された科学理論は、先行する理論を前提としながら 後続する理論を生み出していくことで歴史的に発展する。そしてそ のように進展する科学理論は漸次的に真理を解明し、真に実在する 存在者の解明へと近似していく。 科学的実在論の以上のような主張の大枠は、 当初もっぱら「奇跡論法」 ( Putnam1975 ) と 呼 ば れ る「 最 善 の 説 明 へ の 推 論 」[ Inference to the Best Explanation : 以 下 I B E]( Harman1965 ) の 一 種 に よ っ て 正 当 化 さ れ て きた。 I B Eと は あ る 証 拠 が 与 え ら れ て い て、 そ の 証 拠 を 説 明 す る 仮 説 が 現 に 複 数 存 在 す る と き、 そ の 仮 説 の な か で、 も っ と も よ く そ の 証 拠 を 説 明 す る 仮 説 が 真 で あ る と 結 論 付 け る よ う な 推 論 の こ と を 意 味 す る ( Harman1965 : 89 )。言いかえれば、それは与えられている仮説のなかで もっとも真実らしいものを残して、 それ以外の仮説を消去するタイプの、 消極的推論である。 そして「奇跡論法」は、科学が成功しているという経験的証拠を説明 するうえで、それを奇跡によるとする仮説と、科学理論が少なくとも近 似的に真であるとする仮説の二つの競合する仮説を並べて、後者(つま り奇跡ではない)のほうがより合理的であるので、後者を真であると結 論付ける論法である。 また、科学理論に含まれる理論語が真に実在を指示していると結論付 け る の も、 I B Eに よ っ て、 現 に そ の 理 論 語 を 含 む 理 論 に よ る 予 測 や 既 存 の 理 論 の 統 合 が う ま く い く と い う 事 実 に 基 づ い て 行 わ れ る。 つ ま り、 それらがうまくいくのは、現にその理論語が真に実在する対象を指示し ているからだと考えるということである。 以 上 の「 奇 跡 論 法 」 を 含 む I B Eに よ る 正 当 化 は、 直 観 的 な 説 得 力 を も つ が、 十 分 な 議 論 に 耐 え る も の で は な い。 い ず れ の 場 合 に お い て も、 そもそも検討されるべき競合する仮説が少なすぎて(理論語の説明の場 合 競 合 仮 説 さ え 検 討 さ れ て い な い 可 能 性 も あ る )、 仮 説 の 二 分 法 そ の も
カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察 一九 のが科学的実在論を擁護する仮説の真剣な探求を阻害しているというこ とを指摘することができる。ファン・フラーセンが「構成的経験論」で 提示した実在論への反論の骨子となる趣旨を、野内二〇一二は、おおよ そ以上のようなことであったとまとめている(野内二〇一二 :29 )。 その一方で、ラウダンの「悲観的帰納法」は、次のような議論によっ て科学的実在論に対する反論を構成する。科学史の進展の歴史を踏まえ ると、 1. 科学理論においては、その進展のなかで理論語の指示対象がまった く変わるとか失われるということが何度も繰り返されたし、 2. かつて成功していた理論のなかには、後に存在することが否定され る理論的対象を指示する理論語(たとえばエーテル)が含まれてい たのに、ある程度は成功していた。 以上から、その理論が現に成功しているという事実は、理論語が現に 指示対象をもっているという存在論的なコミットメントを正当化するこ とはできない、ということが帰納法的に帰結される。 S Rは以上のような文脈のなかで、 特に 「悲観的帰納法」 に反論すべく、 提 示 さ れ た 立 場 だ と み る こ と が で き る( W orrall1989, Ladyman1998 )。 そ の反論のポイントとなるのは、次の主張である。すなわち、たしかに歴 史的には指示対象そのものは変化したり、存在しないことになったりし てきたが、 数学的構造(この場合、 とくに方程式が念頭におかれる)は、 そのような指示対象の変化のなかにあって一貫して実在を指示し続けて きたというものである。言いかえれば、歴史上すべての科学理論が、実 在をとらえていたのではなく、そのなかで構造的な記述において成功し ていたもののみが、 実在を真にとらえていたとみなし、 科学理論内部で、 実在をうまくとらえているものとそうでないものを篩にかけるというこ とでもある。 次に E S Rと O S Rの違いについて概観しておく。 その最大の違いは、 実 在 し て い る も の の 最 終 的 な 身 分 に あ る。 E S Rは、 構 造 と は 別 に 一 次 的対象が実在しており、構造はこの一次的対象のあいだの二項以上の関 係 を 数 学 的 構 造( 典 型 的 に は 方 程 式 ) に よ っ て 記 述 し て い る と み な す ( Mor ganti2004 )。 そ し て、 我 々 の 認 識 が う ま く い く と き に は、 こ の 対 象 間の関係を構造によって少なくとも近似的にはとらえているということ になる。したがって、一次的対象自体は、直接認識することができない が( し た が っ て、 一 項 関 係 も 認 識 で き な い )、 そ の あ い だ の 相 互 作 用 や 二項以上の関係を、数学的構造を介して、近似的に我々は知ることがで き る と い う こ と に な る。 こ の と き、 E S Rも O S Rも、 と も に 数 学 的 構 造が心依存的である、つまり人間の知的産物であるということが共通に 前提される。そして、物理的構造が、外的対象の間の関係として措定さ れ る の だ が、 E S Rと O S Rの 違 い は、 こ の と き 世 界 の 実 在 を 外 的 対 象 に た い し て 直 接 認 め る の か( E S R)、 そ れ と も 外 的 な 対 象 の あ い だ の 物理的構造の側にすべての対象を (構造や関係の結節点や結び目として) 還 元 し て し ま い、 そ れ ゆ え 実 在 性 を 物 理 的 造 に の み 認 め る の か( O S R : Chakravartty2004 ) に よ る。 要 す る に、 O S Rの ほ う は、 E S Rが 最 終 的な実在性のよりどころとする対象を、さらなる解明を権利上要請する も の と し て( そ の 解 明 の 結 果、 う ま く い け ば 対 象 は 構 造 の 結 び 目 と な る)のみ、つまりさらなる解明の先触れとしてのみ認めるというところ に、 O S Rと E S Rの違いとして強調されるべき点がある。したがって、 E S Rと O S Rの 違 い と は、 基 本 的 に S Rが と る べ き 存 在 論 の あ い だ の
近 藤 和 敬 二〇 違いとして理解することができるだろう。 フ ロ リ デ ィ の I Rは 以 上 の よ う な 文 脈 の な か で ど の よ う に 位 置 づ け ら れ る の か。 フ ロ リ デ ィ は I Rを 提 示 す る Floridi2004 に お い て、 と り た て て 科 学 的 実 在 論 に つ い て 議 論 さ れ て い る わ け で は な い よ う に み え る。 ま た そ こ に お い て 以 上 に み た よ う な S Rの 本 来 の 動 機 と な っ て い る「 悲 観 的 帰 納 法 」 に 対 す る 反 論 の た め に、 I Rが ど の よ う な 寄 与 を な し う る の か と い う 検 討 も 行 わ れ て い な い。 フ ロ リ デ ィ の 本 来 の 意 図 は、 お そ ら く こ の よ う な S Rが も と も と 埋 め 込 ま れ て い た 文 脈 と は 離 れ て、 彼 自 身 が 探 究 し て い る 情 報 科 学 に お け る 存 在 論 的 な 問 題 を 解 決 す る た め の 枠 組 み を I Rと し て 提 示 す る こ と に あ る。 そ の た め に 彼 は、 構 築 す べ き I Rの モ ジ ュ ー ル と な る 部 分 を S R上 の 議 論 か ら E S Rと O S Rと い う 形 で 取 り 出 し、 そ れ を 組 み 合 わ せ る。 し た が っ て、 そ こ で の I Rに よ る E S Rと O S Rの あ い だ の 調 停 と い う 論 争 へ の 貢 献 と な る べ き 点 も、 S R上の論争を真に収束させることはなく、 彼自身の I Rという立場を、 E S Rと O S Rと 比 較 す る こ と で 明 確 に す る と い う 以 上 の も の で は な い と評価しなければならない 1 。
2.フロリディのIRの枠組みを概観する。
次に、 フロリディの I Rについて概観しておく。 Floridi2004 において、 彼 は I Rの 妥 当 性 を 結 論 づ け る 自 ら の 議 論 を 三 つ の ス テ ッ プ に 要 約 し て 1紙 幅 の 関 係 上 本 稿 で は 議 論 し な い が、 カ ヴ ァ イ エ ス の T Gの 観 点 を 接 続 可 能 な 形 で 修 正 し た I Rに お い て、 こ の 問 題 に 新 た な 解 答 を 与 え る 可 能 性 を 検 討 す る こ と は重要なことであるように思われる。 いる。 1. E S Rと O S Rが調停可能であることを示す。 2. す べ て の 関 係 づ け ら れ る 項 が 関 係 的 構 造 に 先 立 た れ る わ け で は な い。つまり O S Rは妥当である。 3. 構造的対象の存在論は、情報科学における対象志向型プログラミン グ( Object Oriented Programing : 以 下 O O P) の 枠 組 み を 利 用 す る ことで明確にされる 「情報的対象」 の概念によって展開可能である。 以 下 で は、 お も に 1 の 論 点 に 焦 点 を あ て て、 フ ロ リ デ ィ の I Rに つ い て 概 観 し て い く。 E S Rと O S Rの 調 停。 こ れ は フ ロ リ デ ィ の I Rに 固 有 の 概 念 で あ る「 抽 象 化 レ ベ ル 」( Level of Abstraction : 以 下 L o A) と い う 概 念 を 導 入 し、 そ れ に 基 づ く S L M S図 式( 構 造 ‐ L o A‐ モ デ ル ‐ シ ス テ ム ) を 用 い る こ と に よ っ て 行 わ れ る。 フ ロ リ デ ィ は L o Aを 以 下のように説明している。 「 L o Aは オ ブ ザ ー バ ブ ル の 集 合 か ら な る。 オ ブ ザ ー バ ブ ル は、 解 釈 されたタイプ付変項であり、つまり考察されているシステムの諸性質 についてのステートメントと、値かなる充分定義された可能的集合を も つ。 シ ス テ ム は、 L o A Sの レ ン ジ で ア ク セ ス さ れ た り 記 述 さ れ た りするのであり、したがって、それはモデルのレンジももっている。 」 ( Floridi2004 : 3 ) L o Aは、 「 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 の 集 合 と し て 定 義 さ れ る。 そ し て「 オ ブザーバブル」 は、 「解釈されたタイプ付変項」 と等置される。 したがって、 まず、 Floridi&Sanders2004 に依拠しながら、 「解釈されたタイプ付き変項」カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察 二一 の詳細を確認しよう。 「 変 項 」 は、 「 タ イ プ 」 が 割 り 当 て ら れ て い な い 場 合、 「 自 由 変 更 」 と 呼 ば れ る。 「 自 由 変 更 」 は、 L o Aに よ っ て 記 述 し よ う と す る 現 実( こ の 全 体 を Floridi2004 は「 シ ス テ ム 」 と 呼 ぶ ) の な か で、 L o Aが 注 目 する重要な因子、概念、性質などのあいだの形式的な差異を取り出すも の と み な す こ と が で き る。 つ ま り「 自 由 変 項 」 の 数 は、 こ れ か ら L o A に基づいて構築される「モデル」の位相的な次元を規定するものだとい うことである。 次に、ここで言う「タイプ」とは、この「自由変項」の外延をなすも の(これは「システム」に属する)に可能的に割り当てられる指標(こ れ は L o Aの 一 部 で あ る ) の 集 合 で あ る。 た と え ば、 「 身 長 」 と い う 自 由変項にたいして、 「タイプ」として「0以上の整数」を付けるなら、 「身 長」を表現する「タイプ付き変項」は、 「 175 」などをその領域にもつよ うな数字の上をわたるべく定義された「変項」ということになる。 最 後 に、 「 解 釈 」 と は、 こ の「 タ イ プ 」 の 内 容 で あ る 指 標 の 集 合 を、 ど の よ う に 外 延 の 要 素 に 割 り 当 て る か と い う こ と を 規 定 す る も の で あ る。先の 「身長」 の場合、 「 175 」 というのは、 センチメートルなのか、 メー トルなのか、フィートなのか、によって同じ外延の要素のどれを指示す るのかということが異なる。 この違いを明記することを要請するのが 「解 釈」である。 し た が っ て、 「 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 と は、 こ の よ う に 定 義 さ れ る「 解 釈 されたタイプ付き変項」のことである。これが「オブザーバブル」と呼 ば れ る の は、 ま さ に こ れ に よ っ て、 「 シ ス テ ム 」 の な か で 観 察 に よ っ て 取り出すことのできるものを差異化することができるようになるからだ と考えられる。つまり、観察とは、このような「解釈されたタイプ付き 変項」の「システム」への対応付けが規定されてはじめて可能になると 考えられるということである。 そ し て、 ひ と つ の L o Aは、 以 上 の よ う な「 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 す な わ ち「解釈されたタイプ付き変項」の集合として定義される。このとき次 のことにあらかじめ留意しておく必要がある。 1. フ ロ リ デ ィ の L o Aに 基 づ く「 抽 象 化 の 方 法 」[ Method of A bstraction ] は、 微 分 方 程 式 に よ る 相 軌 道 を 用 い た モ デ ル 化 と、 述 語 を 用 い た 文 に よ る モ デ ル 化 の 両 方 を 包 括 す る も の で あ る ( Floridi&Sanders2004 : 12 )。 前 者 を「 ア ナ ロ グ オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 か ら な る L o Aと し て「 ア ナ ロ グ L o A」、 後 者 を「 離 散 的 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 か ら な る L o Aと し て「 離 散 的 L o A」 と 呼 ぶ。 い ず れ で もないものは「ハイブリッド L o A」と呼ばれる 2 。 2. 二 つ の L o Aの あ い だ に 重 な り が な い 場 合、 「 抽 象 化 の 勾 配 」 ( Gradient of Abstraction : 以 下 G o A) は、 「 離 散 的 G o A」 と い わ れ、 重 な り が あ る 場 合、 そ の と き 異 な る L o Aの あ い だ に 推 移 関 係 が あ れ ば、 「 入 れ 子 状 の G o A」 と 言 わ れ る。 「 入 れ 子 状 の G o A」 2 こ の 観 点 か ら、 ド ゥ ル ー ズ が『 差 異 と 反 復 』 の「 第 四 章 」 で 議 論 し て い る「 構 造 」 に つ い て の 議 論( フ ロ リ デ ィ と 同 様、 数 学、 物 理 学、 生 物 学、 社 会 学 に 共 通 の も の と し て 理 解 さ れ て い る ) は、 「 抽 象 化 の 方 法 」 に よ っ て モ デ ル 化 可 能 で あ る こ と が 喚 起 さ れ る。 実 際、 「 第 四 章 」 で 言 わ れ る「 未 規 定 な も の 」 と は、 「 自 由 変 項 」 あ る い は「 解 釈 さ れ た タ イ プ 付 き 変 項 」 の こ と で あ り、 「 相 互 規 定 の 原 理 」 は、 そ れ を セ ッ ト と す る L o Aの 設 定 で あ り、 「 十 分 な 規 定 作 用 の 原 理 」 は「 モ デ ル 」 の 構 築 と し て 理 解 す る こ と が で き る。 そ し て、 こ の こ と か ら、 DeLanda2002 に お け る ド ゥ ル ー ズ の 哲 学 の 物 理 系 に よ る 解 釈 も 改 め て 検 討 し な お す こ と が で き る。 こ の点については、稿を改めて論じることとしたい。
近 藤 和 敬 二二 は、近似の関係などを用いて適切な仕方で比較評価することができ る( Floridi&Sanders2004 : 12-13 )。 3. 各 々 の L o Aは、 理 論 に お け る「 存 在 論 的 コ ミ ッ ト メ ン ト 」 を 明 示 するのに役立つ。すなわち、その理論において何があるとされるか は、 「 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 に 何 が 設 定 さ れ る の か、 と い う こ と に 帰 着 する。そしてクワインの言う意味で、 そのような「オブザーバブル」 として設定されたものを用いて「モデル」を構成するとき、理論家 は、その項が参照している領域にたいして存在論的にコミットメン トしなければならない。裏を返せば、理論家の「存在論的コミット メ ン ト 」 は、 L o Aに た い し て 相 対 的 で あ り、 か つ L o Aフ リ ー の いかなる存在論も存立しない( Floridi2004 : 3-4, )。 以 上 の よ う に 定 義 さ れ る L o Aを も と に、 S L M S図 式 の 概 要 を 確 認 しよう。Lは今みたような L o Aを表している。 次 に M は L o Aが 含 意 す る「 モ デ ル 」 を 意 味 し て い る。 「 モ デ ル 」 は、 微 分 方 程 式 を L o Aと し て 持 つ 場 合、 そ の 相 軌 道 の 集 合 を 示 し て い る。 離 散 的 L o Aの 場 合、 こ の「 モ デ ル 」 は、 「 オ ブ ザ ー バ ブ ル 」 を「 自 由 変 項 」 に 代 入 す る こ と を 許 す 述 語( 述 語 関 数 ) と み な す こ と が で き る ( Floridi&Sanders2004 : 6 )。そして、このような微分方程式の相軌道ある いは述語関数への代入によって、うまくいくときには現実を適切に描く も の、 現 実 と 近 似 的 に 対 応 す る も の を、 そ の「 モ デ ル 」 の「 振 る 舞 い 」 と呼ぶ ( Floridi&Sanders2004 : 1 1 )。またこのように 「振る舞い」 を伴う、 つ ま り 特 定 の「 モ デ ル 」 を 伴 う L o Aの こ と を「 調 整 さ れ た L o A」 [ Moderated LoA ]と呼ぶ( Floridi&Sanders2004 : 1 1 )。 そして S L M S図式における「構造」 [ Structure ]とは、 現実たる「シ ス テ ム 」 の な か で、 こ の よ う な「 モ デ ル 」 が 近 似 的 に 一 致 す る と こ ろ の 外 的 な 構 造 の こ と を 示 し て い る。 そ し て、 明 ら か に こ の「 構 造 」 は、 L o Aを要請した現実の全体たる「システム」の部分を占めている。 最後に、 この 「システム」 は、 「モデル」 と近似的な仕方で一致する 「構 造 」 が 一 部 を 占 め、 ま た そ の よ う な「 モ デ ル 」 を 可 能 に し た L o Aを 措 定することを要請したかぎりでの現実の全体である。したがって、ここ で「 シ ス テ ム 」 の 全 体 性 は、 真 の 全 体 性 で は な く、 相 関 す る L o Aを 要 請するような限りでの、 フレーム付きの全体だとみなされるべきだろう。 S L M S図 式( 繰 り 返 し に な る が、 シ ス テ ム ‐ L o A‐ モ デ ル ‐ 構 造 からなる図式 : Floridi2004 : 4, Table2 )は、したがって、現実の側面にお ける全体と部分である「システム」と「構造」に対して、理論の側面に お け る 全 体 と 部 分 で あ る「 L o A」 と「 モ デ ル 」 と が 折 り 重 な っ て い る ものとして理解することができる。 そ れ で は、 こ の S L M S図 式 を 用 い て、 フ ロ リ デ ィ は い か に し て O S Rと E S Rを 調 停 す る の か。 フ ロ リ デ ィ は、 一 階 の S L M S図 式 と 二 階 以 上 の 高 階 の S L M S図 式 を 区 別 す る( Floridi2004 : 4-5 )。 そ し て、 結 論 だ け 述 べ れ ば、 E S Rを 一 階 の S L M S図 式 に、 O S Rを 二 階 以 上 の S L M S図 式 と す る こ と で、 両 者 を 共 立 さ せ る。 そ の う え で、 二 階 以 上 の S L M S図 式 の「 構 造 的 対 象 」 を、 「 情 報 的 対 象 」 と 呼 び 換 え( こ の よ う に 呼 び 換 え る こ と で、 O O Pに よ る「 構 造 的 対 象 」 の 解 釈 を 可 能 に す る )、 こ れ を 一 階 の S L M S図 式 に お い て 可 能 に な っ た L o Aお よ び「 モ デ ル 」 の 水 準 に お い て 見 出 す。 そ の よ う に 考 え る 場 合、 O S Rが 言 う よ う に 対 象 が「 構 造 」 そ れ 自 体 で あ る と み な さ れ た と し て も、 何 の 問 題 も な い こ と に な る。 言 い か え れ ば、 O S Rが い う「 構 造 的 対 象 」
カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察 二三 は、 そ れ が 高 階 の S L M S図 式 で あ る 限 り に お い て、 最 終 的 に は 一 階 の S L M S図 式 に 還 元 さ れ う る と い う こ と が、 少 な く と も 権 利 上 は 保 証 さ れているということである。 しかし、そのような還元可能であるにもかかわらず、高階のものがさ ら に 要 請 さ れ る 理 由 と し て、 ま さ に プ ロ グ ラ ミ ン グ の 世 界 で、 「 関 数 型 プ ロ グ ラ ミ ン グ 」 と は 別 に「 対 象 志 向 型 プ ロ グ ラ ミ ン グ 」( O O P) が 要請されたのと同じように、思惟の経済原則( 「オッカムの剃刀」 )が高 階の対象( 「情報的対象」 )を導入することによって可能になるからだと 論 じ る( Floridi2004 : 4 )。 要 す る に、 将 棋 の 棋 譜 に つ い て 議 論 す る と き に、物質的な将棋の駒の物理的特性にまで言及する必要がない(つまり そ れ に 言 及 可 能 な L o Aを 設 定 し そ れ に 存 在 論 的 に コ ミ ッ ト す る 必 要 が ない)ということである。必要なのは、もっぱら将棋の各コマの動きと 盤面にかんする規則の束のみであり、 これはまさに O O Pが記述する 「情 報的対象」に他ならない( Floridi2004 : 5 )。 も ち ろ ん、 こ の よ う な 解 決 に は、 O S Rの 側 か ら み た 不 都 合 が な い わ け で は な い。 第 一 に、 O S Rは 一 階 の S L M S図 式 の 存 在 可 能 性 そ れ 自 体 を 認 め な い だ ろ う。 ま た こ れ に と も な っ て、 O S Rが 対 象 を 還 元 す る 構造が、高階のものであるという前提も受け入れないように思われる。 さ ら に 重 要 な こ と と し て、 フ ロ リ デ ィ が E S Rと O S Rの 食 い 違 い の 原 因 と し て、 E S Rが な ん ら か の 関 係 づ け ら れ る 項 が い か な る 関 係 に た い し て も 先 立 つ と 考 え る の に 対 し、 O S Rが い か な る 関 係 づ け ら れ る 項 も、 な ん ら か の 関 係 に よ っ て 先 立 た れ る と 考 え る こ と に あ る と 指 摘 し、 これを次のように修正することを提案していることを指摘することがで きる。曰く、すべての関係づけられる項が、関係にたいして先立つわけ ではない( Floridi2004 : 5 )。 関係づけられる項に先立つ関係として、フロリディは「内的関係」を 候補に挙げる。 この語彙は未定義のまま使用されるので明確ではないが、 文脈を考慮すると、おそらく距離のような量的な関係と対比される質的 な 関 係 の こ と を 意 味 し て い る も の と 思 わ れ る( 「 内 的 関 係 」 の 例 と し て 引き合いにだされるのは、 「婚姻関係」 である) 。そして、 この 「内的関係」 のなかで、議論の余地なしに関係づけられる項に先立つものとして「差 異」それ自体の関係が指摘されている。つまり、いかなる「差異」の概 念も前提されないままに、関係づけられる項を差異化することなどでき ない、ということである。 し か し、 E S Rに と っ て も O S Rに と っ て も、 こ の 譲 歩 は お 互 い の 本 質を揺るがすものであるだけに、受け入れることは困難であるように思 われる。また、そもそも両立可能性そのものを目指していないようにみ える両者にとって、この譲歩を受け入れるだけ動機となる議論が、少な く と も Floridi2004 の な か に は 見 出 さ れ え な い。 し た が っ て、 真 の 意 味 で S R上 の 論 争 を 調 停 す る に は、 い ま だ Floridi2004 で 展 開 さ れ た I R の議論は不十分であると言わざるを得ないだろう。
3.
I
R
に
含
ま
れ
る
三
つ
の
解
釈
可
能
性
と
カ
ヴ
ァ
イ
エ
ス
に
よるフッサール批判
実のところ、郡司二〇〇七においてすでに指摘されているように、お そらくはフロリディ自身の意図とは必ずしも一致しているとは思われな い の だ が、 こ の S L M S図 式 に よ る I Rの 議 論 に は、 三 つ の 異 な る 解 釈近 藤 和 敬 二四 の方向性が暗に含まれている。 1. フロリディ自身がおそらくは向かっているところの、 「情報的対象」 一 元 論。 一 階 の S L M S図 式 へ の 還 元 は、 お そ ら く 対 象 志 向 型 言 語 の機械言語への還元と同じ程度の意味しか持たない。つまりそれは 実装上必要ではあるが、毎回機械言語への還元が確認できる必要は な い の と 似 て い る。 情 報 科 学 の O S Rバ ー ジ ョ ン と み な す こ と が で きる。 2. カ ヴ ァ イ エ ス が 批 判 的 に 検 討 し て い る フ ッ サ ー ル の 『 形 式 論 理 学 と 超 越論的論理学』における保守的な立場。言語による高階の建築を認 め る 一 方 で、 一 階 の S L M S図 式 へ の 還 元 可 能 性 を 権 利 上 の も の 以 上のものとして認め、むしろその還元によってのみ、高階の図式の 本来の「意味」が賦活されるとみなす。高階のものはその限りにお いてのみ相対的な正当性と相対的な意味を有することができる。情 報科学の拡張された E S Rバージョンとしてみなすことができる。 3. 郡 司 二 〇 〇 七 が フ ロ リ デ ィ の I Rを 批 判 し な が ら 提 示 し( 郡 司 二 〇 〇 七 : 246-248 )、 ま た カ ヴ ァ イ エ ス が フ ッ サ ー ル の「 還 元 可 能 性 」 の 原 理 を 批 判 し な が ら 提 示 し た( Cavaillè s1947 お よ び カ ヴ ァ イ エ ス 二 〇 一 三 に 含 ま れ る「 解 説 」) 動 的 な 立 場。 こ の 立 場 は、 高 階 の S L M S図 式 へ の 拡 張 が、 一 階 の S L M S図 式 に 含 ま れ る シ ス テ ムそれ自体の「変形」を含意するような、 非収束型循環過程として、 S L M S図 式 の 改 変 と 構 築 の 動 的 な 過 程 を 理 解 す る。 し た が っ て、 実在とは、その場合、対象でも構造でもなく、そのような循環を要 請 す る も の そ れ 自 体、 し た が っ て 筆 者 の 用 語 で 言 え ば、 「 問 題 」 そ れ自体(郡司二〇〇七の語法でいえば「違和感」それ自体)である ということになる。つまり、実在を、理論によって現実を成功裏に とらえた結果として理解するのではなく、理論によって現実を現に 近似的にうまくとらえられた時になお残る(かつ、そのときに初め て発見される) 「違和感」として理解されるということである。 Floridi2004 の I Rの 議 論 の な か に こ の 三 つ が 混 在 し て い る よ う に み え るのは、管見によれば、以下の3点の理由による。 1. 一階の S L M S図式の扱いが明確ではない。 2. あらゆる関係づけられる項に先立つ「差異」の概念が、議論のなか で あ ま り 真 剣 に 検 討 さ れ て い な い。 つ ま り、 「 差 異 」 の 発 生 論 的 な 機能についてまったく考慮されていない。 3. この議論の結論でフロリディ自身が、 「グレーボックス」 [ grey-box ] について言及している( Floridi2004 : 7 )。 つ ま り、 フ ロ リ デ ィ が 自 身 の I Rの 立 場 を、 俯 瞰 的 で 静 的 な 立 場 と し て理解するべきなのか、それとも内在的で動的な立場として理解するべ き な の か、 少 な く と も Floridi2004 の 段 階 で は 態 度 決 定 を 充 分 に 行 っ て いないようにみえるということである。 このことを示す根拠として、以上のように動的な解釈を許す可能性を 示 し て い る に も か か わ ら ず、 少 な く と も Floridi2004 の 段 階 で、 以 下 の ような問題が全く検討されていないことを指摘することができる。 1. L o Aを措定することがどのような過程で実現されるのか。 2. も し 新 た な L o Aが 措 定 さ れ た 場 合、 そ れ は 既 存 の S L M S図 式 か らなる全体論的なメタシステムにどのような作用を及ぼす可能性が あるのか。 3. と く に 一 階 の S L M S図 式 に お い て「 シ ス テ ム 」 と 呼 ば れ る 現 実 の
カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察 二五 全 体 性 の 身 分 は、 S L M S図 式 の 高 階 化、 複 雑 化 に と も な っ て 実 質 的な変化を起こしうるのか。 フ ロ リ デ ィ の 態 度 の 不 鮮 明 さ は、 I Rの 実 質 を な す 高 階 化 さ れ た S L M S図 式 が、 進 展 す る 認 識 の 極 限 を 描 い て い る の か、 そ れ と も 漸 進 的に進展する認識の「スナップショット」 3 を描いているのかということ が充分に規定されていないことを含意する。あるいは、 もし 「グレーボッ クス」というフロリディ自身の言葉を真に受けるなら、それは「スナッ プショット」であるはずだ。そして、 もしそうであるならば、 異なる「ス ナップショット」のあいだをつなぐことを可能にする媒介的な作用が必 要となるはずであり、それについて議論しなければならなくなるはずで ある。 カ ヴ ァ イ エ ス の T Gが 把 握 し よ う と し て い る の は、 ま さ に こ の 媒 介 と なる作用であり、彼のスピノザ主義的な存在論(この形容詞の含意につ いては稿を改めざるをえないが)の議論は、この媒介となる作用におい てこそ実在を見出そうとするものであると解釈することができる。しか し、 紙 幅 の 関 係 上、 本 稿 で は、 カ ヴ ァ イ エ ス の ス ピ ノ ザ 主 義 と T Gに つ いて本格的に議論する余地がない。ここでは、もっぱらその解釈を提示 する前提として、カヴァイエスの立場が、上記3に該当することを、彼 の フ ッ サ ー ル に 対 す る 批 判( 主 に Cavaillès1947 「 第 三 部 」) の 観 点 か ら 確認していくことにしたい。 Cavaillè s1947 に お い て、 カ ヴ ァ イ エ ス は 以 下 の よ う な 点 に 関 し て フ ッ サールの議論を批判する。 1. 「還元可能性の原理」 ( Cavaillès1947 : 50 / 49 )。 3 ここでの生成と「スナップショット」の関係の理解は、澤二〇一三に負う。 2. 物 理 学 に お け る「 学 知 の 進 展 に よ る 景 観 の 変 形 」[ transformation du paysage par la marche en avant de la science ] の 不 在( Cavaillè s1947 : 66 / 59 )。 3. 進展の意識( Cavaillè s1947 : 78 / 67 )。 それぞれの論点について、まずフッサールの議論がどのようにカヴァ イエスによって理解されているのかを確認しよう。1について。ここで は特に数理物理学の問題に特化して検討する。フッサールの数理物理学 の位置づけは、 おおよそ次のようになる。まず物理学は、 根本的には、 「生 活世界」を意味上の基礎としてもっており、代数学や解析学を用いるた めには、 その直観的な意味の 「理念化」 を経る必要がある ( Cavaillès1947 : 66 / 59 )。 そ れ ゆ え、 「 理 念 化 」 に よ っ て 得 ら れ た 物 理 法 則 の 方 程 式( た と え ば ケ プ ラ ー の 方 程 式 や ニ ュ ー ト ン の 方 程 式 ) は、 そ れ が「 理 念 化 」 を 経 た と い う 事 実 を 思 い 出 す こ と で、 そ の 直 観 的 な 意 味 作 用 を 賦 活 し、 いわば「生活世界」との連続性を回復することではじめて、その本来の 姿 を 取 り 戻 す こ と が で き る。 ま た、 こ の と き 用 い ら れ る 数 学 は、 「 形 式 存 在 論 」 と し て 理 解 さ れ る の だ が、 そ こ に お け る 存 在 者 は、 「 範 疇 的 存 在者」 とよばれる現実的な存在者の類を横断することのできる空虚な 「何 かあるもの」 であると考えられる ( Cavaillè s1947 : 48-49 : 47 )。この 「範 疇的存在者」の位置づけは、フロリディの「情報的対象」の位置づけと 相同的である。 そ し て そ、 こ の「 形 式 存 在 論 」 の 多 様 化 と 複 雑 化 は、 「 複 数 の ~」 で あるとか、 「~の集まり」 などというそれ自体では指示対象を持たない 「範 疇的なもの」 (共義的なもの) を 「名辞化」 を介して、 主語とすることで、 既存の「複数の~」であるとか「~の集合」といった文を含む階層に重
近 藤 和 敬 二六 ね合わせられることで生じる。そのうえで、 「形式存在論」たる数学は、 物理数学となることで、はじめてその実質的な意味を回復するとみなさ れる。それゆえ、たんなる形式的なものでしかない純粋数学は、物理数 学よりも劣ったものとして位置づけられることになる。つまり、数学も ま た、 物 理 学 を 通 し て「 生 活 世 界 」 へ と 差 し 戻 さ れ る こ と で は じ め て、 その本来の意味を回復するのである。したがって、カヴァイエスの言う 「 還 元 可 能 性 の 原 理 」 と は、 数 学 や 物 理 学 な ど の 高 階 の 学 問 的 建 築 物 を 原初的な直観的な意味領野へと還元可能であるとする原理として理解す ることができる。 2について。フッサールにとって物理学における予測は、 「生活世界」 における予期の 「理念化」 を介した延長上にしかない。 いわば、 宇宙ステー ションの軌道計算は、ナイル川の氾濫周期の予想の延長でしかないとい うことである ( Cavaillè s1947 : 77 / 66-67 )。したがって、 物理学の意味は、 あくまでも直観的な「生活世界」に還元可能であり、またそこから再構 築可能なものでなければならない。つまり、それが「生活世界」を浸食 し、変形するということはありえない。したがって、物理学を含む学知 の進展による物理学的世界の「景観の変形」などは、フッサールは肯定 できない。たとえ、量子力学などの現代物理の進展が、明らかに日常的 な解釈を拒むようにみえたとしても、そうなのである。 3について。フッサールは以上のような議論を、彼自身の超越論的現 象 学 の 枠 組 み の 中 で 展 開 す る。 そ し て こ の 枠 組 み の 論 理 的 な 帰 結 か ら、 超越論的な意識そのものは、つねに進展を基礎づけるものとして要請さ れることとなる。したがって、 いかなる実質的な進展があったとしても、 意識は変化することなく、つねにその進展の意識が伴うこととなる。つ まり、超越論的意識は、実質的には現象学的探求に対して相対的であっ たとしても、権利上は俯瞰的でありうる( Cavaillè s1947 : 77-78 / 67 )。 さ て、 以 上 の よ う に 理 解 さ れ た フ ッ サ ー ル の 数 理 物 理 学 を、 I Rの な かで解釈するとどうなるだろうか。 一階の S L M S図式は、 「関連性の核」 ( Cavaillè s1947 : 60 / 55 )と呼ばれるものからなる「生活世界」における 直 観 的 領 野 を 現 実 と す る 原 初 的 な L o Aと そ こ に お い て 真 と な る「 最 終 的 な 述 語 」 か ら な る だ ろ う。 そ の L o Aに お け る「 モ デ ル 」 は、 還 元 不 可能な原初的な命題からなる。そして、この命題に含まれる範疇的なも の の「 名 辞 化 」 を と お し て、 高 階 の S L M S図 式 と な る「 形 式 存 在 論 」 と「形式命題論」が展開される( Cavaillè s1947 : 50 / 48 )。そして、その よ う な 高 階 の 図 式 の 重 ね 合 わ せ に よ っ て、 「 理 念 化 」 が 遂 行 さ れ る が、 そ の 本 来 的 な 意 味 は、 つ ね に 一 階 の S L M S図 式 に 戻 る こ と で い つ で も 回復可能であり、超越論的現象学は、その全体像を描き出すことでその ことを実現する。このように得られる描像は、たしかに先に言及した2 に相当する。 カ ヴ ァ イ エ ス の 批 判 は、 以 上 の 三 点 を す べ て 否 定 す る こ と か ら な る。 ま ず、 「 還 元 可 能 性 の 原 理 」 は 成 り 立 た な い と 彼 は 考 え る。 理 論 の 高 階 化は、還元不可能な錯綜と内容の富裕化をもたらすのであって、しかも それによる進展は、 理論の内的な要請にこたえる仕方で進むがゆえに 「自 律的」であるが、しかし同時に「予見不可能」なものであると考える。 また、それにともなって、物理学を含む学知の進展は、物理学の「景 観」の実質的な「変形」をもたらすものと考える。つまり、何が実在で あるのかは、物理学を含む学知の進展とともに、むしろそれとともにの み実質的に「変形」する。
カヴァイエスの「一般化の理論」の形式化に向けた考察 二七 最後に、したがって、そこで問題となるのは、スピノザ的な意味での 意識それ自体の進展、つまり誤謬に陥っている欺瞞的で想像的な自己意 識 か ら の 脱 却 を 可 能 に す る、 「 概 念 」 の 進 展 で あ る。 言 い か え れ ば、 超 越 論 的 な 意 識 と い う も の が、 L o Aに 伴 う「 存 在 論 的 コ ミ ッ ト メ ン ト 」 で あ る と 解 釈 す る な ら、 L o Aの 変 更 と 高 階 化 は、 そ れ に 伴 う「 存 在 論 的コミットメント」そのものを改めることを要請するということを含意 す る。 そ し て、 こ の こ と は、 確 か に 別 様 の「 存 在 論 的 コ ミ ッ ト メ ン ト 」 を 立 ち 上 げ る こ と に な る が、 し か し、 そ の と き の L o Aの 変 更 と 高 階 化 というのは、意識において観察可能で経験可能な変化ではなく、観察や 経験を条件づけている意識そのものを規定する「概念」の措定と修正に 依存している。 以 上 の よ う に カ ヴ ァ イ エ ス の フ ッ サ ー ル 批 判 の 要 点 を 理 解 し た 場 合、 カヴァイエスの議論が3の解釈バージョンに対応していると考えること ができる。カヴァイエスの議論が1の解釈バージョンではなく3である ということのここでの根拠は、上記批判の二つ目にあたる、物理学にお ける 「景観の変形」 をカヴァイエスが肯定していることによる。ただし、 この「景観の変形」という表現は極めて微妙であり、読者にはさらなる 解 釈 が 必 要 だ と 思 わ れ る か も し れ な い。 た し か に、 先 取 り し て 言 え ば、 そこで必要とされる解釈は、別稿で議論することになるカヴァイエスの スピノザ主義の解釈に依拠することになる。その点で、ここで「景観の 変形」を根拠に、3の解釈バージョンと等しくなる、と主張することは 不充分であるかもしれない。この欠点を踏まえたうえで敢えてここで言 え ば、 「 景 観 の 変 形 」 は、 一 階 の S L M S図 式 そ れ 自 体 の 変 形 が、 高 階 の S L M S図 式 や、 そ れ と 全 体 論 的 に 関 連 す る( 関 連 性 の パ タ ー ン が、 フ ロ リ デ ィ の 言 う よ う に 離 散 的 G o Aと 入 れ 子 状 の G o Aだ け な の か は も う 一 度 検 討 し な お す 必 要 が あ る が ) S L M S図 式 の 変 更 や 構 築 に よ っ て引き起こされるということを含意する。 しかし、このことは、1の解釈バージョンが含意するように、原因と し て の 高 階 の S L M S図 式 の 進 展 が、 優 位 な 仕 方 で、 結 果 と し て 一 階 の S L M S図 式 を 変 更 す る と い う こ と を 意 味 し て い る わ け で は な い。 そ う で は な く て、 一 階 の S L M S図 式 の 変 形 は、 高 階 の S L M S図 式 の 変 更 によって引き起こされた「違和感」を調停しようとして、あらためて現 実がなんだったのかを問い直される仕方で生じる。したがって、そのと きあらためて措定しなおされる一階の図式も、その「違和感」から帰結 する一つの結果に過ぎない。そこでの結果の原因となっているのは、そ こでの「違和感」それ自体であり、この「違和感」は、たしかに高階の S L M S図 式 の 変 更 に よ っ て 生 じ る の だ が、 そ の こ と は、 意 図 さ れ て い たわけでも予定されていたわけでもなく、むしろ予見不可能な進展の代 償として生じるのである。したがって、その意味で改めて理解しなおさ れた現実とは、この代償を強いる何ものかであり、これこそが、3の解 釈 バ ー ジ ョ ン に と っ て 一 階 の S L M S図 式 が、 1 の 解 釈 バ ー ジ ョ ン の よ うに単に相対的なものでも、また2の解釈バージョンのように「還元可 能性」によるものでもない仕方で、必要とされる理由である。 結語 本稿で明らかにすることができたのは、カヴァイエスのフッサール批 判を、 現代の科学哲学の議論枠組みで解釈しようとした場合、 フロリディ の I Rを そ の た め の 解 釈 枠 組 み の 一 つ の 候 補 と し て 挙 げ る こ と が で き る
近 藤 和 敬 二八 と い う こ と で あ る。 こ の こ と を 指 摘 す る た め に、 本 稿 で は、 I Rの お か れ て い る 科 学 哲 学 上 の 文 脈 を 概 観 し、 そ の 内 実 た る S L M S図 式 お よ び L o Aの 議 論 を 概 観 し た。 そ し て、 そ の よ う な 枠 組 み を 用 い る こ と で、 カヴァイエスのフッサール批判を肯定的に解釈しなおすことができるこ とができることを示した。 しかし、本稿の議論においては、いまだカヴァイエスの議論が積極的 に 肯 定 し た こ と と I Rの 枠 組 み が ど れ ほ ど 適 合 的 な の か を 示 す こ と が 充 分にできていない。またとくにカヴァイエスのスピノザ主義の解釈がそ の積極的な部分において意味をもつことになるのだが、この点について も触れることができなかった。以上の議論を踏まえたうえで、さらにカ ヴ ァ イ エ ス の T Gが、 い か な る 位 置 づ け の も と で 形 式 化 さ れ る こ と に な るのかをみる必要がある。本稿は、そのための最初の方向付けを行った のであり、そのことの確認でもって一応の本稿の結語としたい。 参照文献 *
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