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〈滋賀県の民俗〉阿弥陀寺の二十五菩薩面と近江湖南の迎講

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Academic year: 2021

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阿弥陀寺の二十五菩薩面と近江湖南の迎講

  岡

  久美子

はじめに   臨終を迎える人のもとに阿弥陀や聖衆たちが来迎し、極楽浄土に連れ帰る様子を、面や装束を身につけた人々が 演 じ る 法 会 を、 迎 講、 来 迎 会、 練 ねり 供 養( 踟 ねり 供 養 )、 引 接 会 な ど と 称 す る。 本 稿 で は こ れ ら を 総 称 し て 迎 講 と 呼 ぶ。 また特にそこで使われた面について述べるときには迎講面、行事そのものを指し示すときは迎講行事と記すことに する。   迎講は、恵心僧都源信がはじめたと伝える。その真偽のほどはさておき、遅くとも平安時代後期には行われてい たことが、種々の記録や残された菩薩面などから確認できる。現在でも迎講は各地で行われているが、その起源は 奈良・当麻寺や岡山・弘法寺のように中世にさかのぼるものもあれば、大阪・大念仏寺のように江戸期に整えられ た例、あるいは京都・光明寺のように近年になって再興された例もあるなど様々であ る 。   本稿で取り上げる阿弥陀寺の二十五菩薩面(以下、阿弥陀寺面とする)は、嘉永二年(一八四九)頃という比較 的新しい時期の作ではあるが、面に加え、尊名などを記す当初の木箱や、制作背景を伝える文書も伝わる。本稿で は、作品の基本情報を示し、さらに本作が内包する課題をいくつか指摘しておきたい。

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一.栗東市阿弥陀寺の二十五菩薩面の概要   阿弥陀寺には二十五菩薩面と、それに付属する装束や持物が、一体分ずつ木箱に入れられ大切に保管されてきた (図 1 〜 10)。面は、通常の菩薩面が二十四面、地蔵菩薩が一面の計二十五面からなる。木箱には蓋表に尊名と持物 が、側面には寄進者の名前が墨書される。ただし、木箱に書かれた持物と、中に入れられた持物は必ずしも一致し ておらず、菩薩面についても、当初の箱と入れ替わっている可能性が高い。現状の各面の法量、箱の墨書、内容物 表1 阿弥陀寺二十五菩薩面 № 箱墨書銘 ■は判読不能な文字を表す 法量(単位:㎝) 持物(現状) 装束類(現状) 名称(蓋表) 持物 (蓋表) 寄進者(側面) 頂 - 顎 面長 面幅 耳張 面奥 1 第壹番 観音菩薩 蓮臺 東坂 三浦小右衛門 32 .1 16 .5 12 .1 16 .5 13 .8 笙 1 上衣 1、裙 1、袈 裟 1、冠 飾 2、 (頭布 な し) 2 二番 勢至菩薩 合掌 東坂 鵜飼藤右衛門 31 .7 16 .5 12 .4 16 .5 13 .1 ― 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 3 三番 薬王菩薩 幢幡 成谷 三浦隼人 31 .7 16 .8 13 .4 16 .6 13 .8 ― 上衣 1、裙 1、袈 裟 1、冠 飾 2、 (頭布 な し) 4 四番 薬上菩薩 玉幢 蔵町  三浦■右 衛門/伊地知 三良兵衛 31 .6 16 .2 13 .7 16 .3 14 バチ(?) 2 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 5 五番 普賢菩薩 幡蓋 蔵町  奥村市良 右衛門/成谷  三浦七右衛門 32 .1 16 .8 13 .9 15 .6 14 .9 幡 1、垂飾 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 6 六番 宝自在菩薩 歌舞 小脇  社野徳兵衛/ミノコ   同 喜助 31 .4 16 .8 13 .3 16 .5 13 .6 幡 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 7 七番 師子吼菩薩 腰鼓 蔵町 青木市兵衛/同 同 利 兵衛/落ノ井  束田清治/東 坂 宮出久兵衛 31 .6 17 .3 13 .2 16 .2 14 ― 上衣 2、裙 2、袈裟 1、頭布 1、冠飾 2 8 八番 陀羅尼菩薩 ― 蔵町  九右衛門/同  源七/ 同  富右衛門/井上  新右衛 門/小脇  甚五郎/成谷  三 浦官次/同  半 左衛門/目相  次左衛門 32 .1 17 .2 13 .6 16 .7 12 .4 鐃鈸 1 組、鼓 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 9 九番 虚空蔵菩薩 舞臂 蔵町 薬師寺 檀中 32 .4 16 .8 13 .1 19 .8 13 .4 横笛 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 10 十番 徳蔵菩薩 笙 観音寺村 善徳院 檀中 32 .5 15 12 .7 15 .6 13 .5 宝鉢 1、鼓 1 上衣、裙、袈裟各 1(頭布なし) 、冠飾 2 11 十一番 宝蔵菩薩 笛 上砥山村 浄西寺 檀中 32 .2 16 .5 12 .5 16 .3 14 .9 笛 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、 冠 飾の垂飾のみ 1 12 十二番 金蔵菩薩 琴 東坂 鵜飼藤右衛門 31 .8 16 .3 11 .2 15 .8 13 .8 バチ (棒) 1、琴 1、 箜篌 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 13 十三番 金剛蔵菩薩 琴 膳所家中  冨岡 覚太夫/上砥 村 治右衛門 32 .2 17 13 .7 16 .8 13 .3 振鼓 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 14 十四番 光明王菩薩 琵琶 ― 32 .2 16 .8 12 .4 16 .2 14 T 字形棒 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2( う ち 1 点は垂飾亡失) 15 十五番 山海会菩薩 箜篌 ― 31 17 13 .4 16 13 .4 バチ(棒) 1 上衣 2、裙 2、袈裟 1、頭布 1、冠飾 2 16 十六番 華厳王菩薩 銈 ― 31 .6 16 .8 13 .8 16 15 .6 持物 (板状のものを 連ねる。楽器?) 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 17 十七番 衆宝王菩薩 鐃 ― 31 .6 17 .2 12 .9 16 .7 13 .7 ― 上衣 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、冠飾の 垂飾のみ 1、裙なし 18 十八番 月光王菩薩 振鼓 ― 31 17 .2 13 .3 16 .4 13 .1 宝珠 1、バチ(棒) 1 上衣 1、裙 1、袈裟 1、冠飾 2(頭布なし か?) 19 十九番 日照王菩薩 撃皷 ― 31 .7 17 .4 14 .1 16 .5 14 .3 バチ(頭が丸い) 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 20 二十番 三昧王(菩薩) 棒形 ― 31 .5 17 .1 13 .5 15 .7 13 .6 T 字形棒 2 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 21 二十一番 定自在王菩薩 太鼓 ― 32 .2 16 .8 12 .2 16 .5 12 .7 琴 1 環付袈裟 1、上衣 (紫) 1、冠飾 2(とも に垂飾亡失) 22 二十二番 大自在王菩薩 華幢 ― 32 .2 16 .2 13 .7 16 .2 14 持物 (花形の棒状の もの) 1 上衣 1、裙 1、袈裟 1、冠飾 2(頭布なし か?) 23 二十三番 白象王菩薩 ― ― 31 .3 17 .5 12 .6 16 .1 13 .5 バチ(棒) 2 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 24 二十四番 大威徳菩薩 ― ― 31 .6 16 .8 14 .5 15 .8 13 .5 バチ(頭が丸い) 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、 胸 飾 2 25 二十五番 地蔵菩薩 錫杖 梅之木村  三上 治良兵衛/大 橋 茂兵衛 22 .7 18 .8 13 .9 16 .5 14 錫杖頭 1、華籠 1 (参考) 木箱  (観音)  縦 43 .5 ㎝、横 25 .5 ㎝、高 25 .0 ㎝ 装束  ①上衣  木綿 (黄)  身丈 92 .5 ㎝  裄 66 .3 ㎝  ②裙  絹 (深緑) 、ただし腰紐部は綿 (白)  丈 72 .3 ㎝  幅 122 .0 ㎝  ③袈裟  金襴 (蜀江 文) 、ただし紐は綿(白)  長 94 .6 ㎝ 幅 20 .8 ㎝

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9 九番 虚空蔵菩薩 舞臂 蔵町 薬師寺 檀中 32 .4 16 .8 13 .1 19 .8 13 .4 横笛 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 10 十番 徳蔵菩薩 笙 観音寺村 善徳院 檀中 32 .5 15 12 .7 15 .6 13 .5 宝鉢 1、鼓 1 上衣、裙、袈裟各 1(頭布なし) 、冠飾 2 11 十一番 宝蔵菩薩 笛 上砥山村 浄西寺 檀中 32 .2 16 .5 12 .5 16 .3 14 .9 笛 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、 冠 飾の垂飾のみ 1 12 十二番 金蔵菩薩 琴 東坂 鵜飼藤右衛門 31 .8 16 .3 11 .2 15 .8 13 .8 バチ (棒) 1、琴 1、 箜篌 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 13 十三番 金剛蔵菩薩 琴 膳所家中  冨岡 覚太夫/上砥 村 治右衛門 32 .2 17 13 .7 16 .8 13 .3 振鼓 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 14 十四番 光明王菩薩 琵琶 ― 32 .2 16 .8 12 .4 16 .2 14 T 字形棒 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2( う ち 1 点は垂飾亡失) 15 十五番 山海会菩薩 箜篌 ― 31 17 13 .4 16 13 .4 バチ(棒) 1 上衣 2、裙 2、袈裟 1、頭布 1、冠飾 2 16 十六番 華厳王菩薩 銈 ― 31 .6 16 .8 13 .8 16 15 .6 持物 (板状のものを 連ねる。楽器?) 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 17 十七番 衆宝王菩薩 鐃 ― 31 .6 17 .2 12 .9 16 .7 13 .7 ― 上衣 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、冠飾の 垂飾のみ 1、裙なし 18 十八番 月光王菩薩 振鼓 ― 31 17 .2 13 .3 16 .4 13 .1 宝珠 1、バチ(棒) 1 上衣 1、裙 1、袈裟 1、冠飾 2(頭布なし か?) 19 十九番 日照王菩薩 撃皷 ― 31 .7 17 .4 14 .1 16 .5 14 .3 バチ(頭が丸い) 1 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 20 二十番 三昧王(菩薩) 棒形 ― 31 .5 17 .1 13 .5 15 .7 13 .6 T 字形棒 2 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 21 二十一番 定自在王菩薩 太鼓 ― 32 .2 16 .8 12 .2 16 .5 12 .7 琴 1 環付袈裟 1、上衣 (紫) 1、冠飾 2(とも に垂飾亡失) 22 二十二番 大自在王菩薩 華幢 ― 32 .2 16 .2 13 .7 16 .2 14 持物 (花形の棒状の もの) 1 上衣 1、裙 1、袈裟 1、冠飾 2(頭布なし か?) 23 二十三番 白象王菩薩 ― ― 31 .3 17 .5 12 .6 16 .1 13 .5 バチ(棒) 2 上衣 1、裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2 24 二十四番 大威徳菩薩 ― ― 31 .6 16 .8 14 .5 15 .8 13 .5 バチ(頭が丸い) 1 上 衣 1、 裙 1、頭布 1、袈裟 1、冠飾 2、 胸 飾 2 25 二十五番 地蔵菩薩 錫杖 梅之木村  三上 治良兵衛/大 橋 茂兵衛 22 .7 18 .8 13 .9 16 .5 14 錫杖頭 1、華籠 1 (参考) 木箱  (観音)  縦 43 .5 ㎝、横 25 .5 ㎝、高 25 .0 ㎝ 装束  ①上衣  木綿 (黄)  身丈 92 .5 ㎝  裄 66 .3 ㎝  ②裙  絹 (深緑) 、ただし腰紐部は綿 (白)  丈 72 .3 ㎝  幅 122 .0 ㎝  ③袈裟  金襴 (蜀江 文) 、ただし紐は綿(白)  長 94 .6 ㎝ 幅 20 .8 ㎝

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図1 観音菩薩面 図2  観音菩薩面    (側面) 図3  観音菩薩面    (裏面) 図4 観音菩薩面(頭頂) 図5 地蔵菩薩面 図6 木箱(観音菩薩) 図7 持物の例 図8 上衣 図9 裙 図 10 袈裟

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図6 木箱(観音菩薩) 図7 持物の例

図8 上衣 図9 裙

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については表 1 (一四四頁)に譲り、ここでは概要を述べておく。 ・形状   菩薩面(図 1 〜 4 )は、髻を含む頭頂部から顎まで、側面は耳後ろまでをあらわす。天冠台は無文帯一条。正面 に天冠(金属製)を取り付ける。白毫耳前に後れ毛一束をあらわし、鬢髪一条を耳に渡す。   地蔵菩薩面(図 5 )は円頂で、頭頂部から顎までをあらわす。側面は耳後ろまでをあらわす。 ・法量   25番 地 蔵 菩 薩 を 除 く 菩 薩 面 は ほ ぼ 同 寸 で、 頂 ― 顎( 縦 ) は 約 三 十 二 ㎝ 、 耳 張( 横 ) は 約 十 六 ㎝ 、 面 長 は 約 十 七 ㎝ 。地蔵菩薩も髻を除けば他の面に準じる。 ・品質構造   木造、漆箔、彩色。冠台下を境として面部と頭頂部を矧ぐ。面部は一〜三材を縦に矧ぎ、頭頂部はおおむね前後 二材矧ぎとする。髻は別材製。白毫は木製嵌入。面、木箱、装束、持物ともに当初のものを残す。 ・保存状態   面はほぼ当初を残すが、一部に漆箔や彩色の修理が認められる。また修理時に別の面の頭頂部が矧ぎ合わされた ものがある。   持物も当初のものを伝えるが、本来とは異なる箱におさめられている場合が多く、一部は亡失する。 二.阿弥陀寺の歴史的環境   阿弥陀寺は滋賀県栗東市東坂に位置する浄土宗寺院である。古代より当地の宗教界において中核的役割を果たし てきた金勝寺が立地する金勝山の、北麓に位置する。   阿 弥 陀 寺 面 は、 後 述 の と お り、 阿 弥 陀 寺 の 開 基 隆 堯 法 印( 一 三 六 九 〜 一 四 四 九 ) の 四 百 回 御 遠 忌 を 契 機 と し て、 ゆかりのある地域の人々の寄進を募って整えられた。   隆 堯 は、 近 江 国 栗 太 郡 河 辺( 現 栗 東 市 川 辺 ) に 生 ま れ た。 九 歳 で 比 叡 山 に 昇 り 法 印 大 和 尚 位 ま で 登 っ た が、 応 永十一年(一四〇四)に石山寺へ参籠した際、向阿証賢の『三部仮名鈔』を感得し、これにより浄土の教えに帰し た。以後、浄土教に関わる著作を多く残し、近江における浄土教の興隆に大きく貢献した。彼は応永十一年に金勝 寺(栗東市荒張)にのぼり、浄厳坊をかまえた。しかしそこが女人結界の地であったため、同二十年に麓の東坂に も庵を結んだ。これが現在も東坂に立地する阿弥陀寺のはじまりである。東坂という地名は、元来は金勝寺の東参 道の麓を意味する東坂本に由来するとされ、金勝寺との密接なつながりの中で営まれてきた寺であった。   金 勝 寺 は 奈 良 時 代 に 東 大 寺 に ゆ か り の 深 い 良 弁 僧 正 に よ っ て 開 か れ た と 伝 え、 平 安 時 代 は じ め の 弘 仁 年 間 ( 八 一 〇 〜 二 四 ) に 興 福 寺 の 僧 願 安 に よ っ て 伽 藍 が 整 備 さ れ た。 天 長 十 年( 八 三 三 ) に は 定 額 寺 に 列 せ ら れ、 寛 平 九 年( 八 九 七 ) に は 年 分 度 者 を 賜 る な ど、 当 初 は 南 都 系 の 寺 院 と し て 出 発 し た。 し か し 十 世 紀 に 比 叡 山 に 良 源 ( 九 一 二 〜 八 五 ) が 出 て 天 台 の 勢 力 が 大 き く 進 展 す る に 及 び、 次 第 に 金 勝 寺 周 辺 に も 天 台 化 の 波 が 押 し 寄 せ る。 金 勝寺の膝下にあたる北麓の金勝谷にも、十一世紀のはじめごろには天台の影響をうかがわせる像がみられるように なる。永治二年(一一四二)の銘をもつ金胎寺(栗東市荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、像の内側に四十人ほど が結縁のため名を記している。平安時代後期以降、金勝寺にも確実に天台系の浄土教が広まっていたのであり、隆 堯の活躍もこのような文脈の上にある。   隆 堯 は 生 涯 に わ た り「 天 台 沙 門 」( = 天 台 の 僧 侶 ) を 称 し た。 隆 堯 の 末 葉 た ち が 浄 土 宗 に 名 実 と も に 帰 属 し た の は、阿弥陀寺二世に列せられる隆堯の高弟、隆阿の代のことと推測されてい る 。   阿弥陀寺が本格的な寺院として整備されたのは三世厳誉宗真のときで、近江守護六角高頼の外護をうけてのこと

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  阿 弥 陀 寺 面 は、 後 述 の と お り、 阿 弥 陀 寺 の 開 基 隆 堯 法 印( 一 三 六 九 〜 一 四 四 九 ) の 四 百 回 御 遠 忌 を 契 機 と し て、 ゆかりのある地域の人々の寄進を募って整えられた。   隆 堯 は、 近 江 国 栗 太 郡 河 辺( 現 栗 東 市 川 辺 ) に 生 ま れ た。 九 歳 で 比 叡 山 に 昇 り 法 印 大 和 尚 位 ま で 登 っ た が、 応 永十一年(一四〇四)に石山寺へ参籠した際、向阿証賢の『三部仮名鈔』を感得し、これにより浄土の教えに帰し た。以後、浄土教に関わる著作を多く残し、近江における浄土教の興隆に大きく貢献した。彼は応永十一年に金勝 寺(栗東市荒張)にのぼり、浄厳坊をかまえた。しかしそこが女人結界の地であったため、同二十年に麓の東坂に も庵を結んだ。これが現在も東坂に立地する阿弥陀寺のはじまりである。東坂という地名は、元来は金勝寺の東参 道の麓を意味する東坂本に由来するとされ、金勝寺との密接なつながりの中で営まれてきた寺であった。   金 勝 寺 は 奈 良 時 代 に 東 大 寺 に ゆ か り の 深 い 良 弁 僧 正 に よ っ て 開 か れ た と 伝 え、 平 安 時 代 は じ め の 弘 仁 年 間 ( 八 一 〇 〜 二 四 ) に 興 福 寺 の 僧 願 安 に よ っ て 伽 藍 が 整 備 さ れ た。 天 長 十 年( 八 三 三 ) に は 定 額 寺 に 列 せ ら れ、 寛 平 九 年( 八 九 七 ) に は 年 分 度 者 を 賜 る な ど、 当 初 は 南 都 系 の 寺 院 と し て 出 発 し た。 し か し 十 世 紀 に 比 叡 山 に 良 源 ( 九 一 二 〜 八 五 ) が 出 て 天 台 の 勢 力 が 大 き く 進 展 す る に 及 び、 次 第 に 金 勝 寺 周 辺 に も 天 台 化 の 波 が 押 し 寄 せ る。 金 勝寺の膝下にあたる北麓の金勝谷にも、十一世紀のはじめごろには天台の影響をうかがわせる像がみられるように なる。永治二年(一一四二)の銘をもつ金胎寺(栗東市荒張)の本尊阿弥陀如来坐像には、像の内側に四十人ほど が結縁のため名を記している。平安時代後期以降、金勝寺にも確実に天台系の浄土教が広まっていたのであり、隆 堯の活躍もこのような文脈の上にある。   隆 堯 は 生 涯 に わ た り「 天 台 沙 門 」( = 天 台 の 僧 侶 ) を 称 し た。 隆 堯 の 末 葉 た ち が 浄 土 宗 に 名 実 と も に 帰 属 し た の は、阿弥陀寺二世に列せられる隆堯の高弟、隆阿の代のことと推測されてい る 。   阿弥陀寺が本格的な寺院として整備されたのは三世厳誉宗真のときで、近江守護六角高頼の外護をうけてのこと

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であった。阿弥陀寺の寺号も宗真の代にはじまる。文明 十八 年(一四八六)には新仏殿において不断念仏、六時常 行をはじめ、開山忌を修しているから、このころには寺観が整ったとみられる。明応元年(一四九二)には末寺を 統制し、本寺たる阿弥陀寺の地位を確定するために「宗躰諸末寺法度書」が定められている。近江では十五世紀後 半に阿弥陀寺を中心に浄土宗が勢力を拡大したが、阿弥陀寺こそ、その中核的な役割を果たした寺院であっ た 。   し か し 八 世 応 誉 明 感 が 織 田 信 長 に 見 出 さ れ、 安 土 の 浄 厳 院( 現 近 江 八 幡 市 安 土 町 ) へ の 移 転 を 強 い ら れ た こ と により、その立場を浄厳院に譲った。浄厳院の山号金勝山は、金勝寺のある金勝山から冠したものであり、浄厳院 の名は、隆堯が金勝寺に結んだ浄厳坊に由来する。現在は浄厳院に伝わる平安時代後期の絹本着色阿弥陀聖衆来迎 図をはじめとする数々の寺宝も、かつては金勝寺周辺に伝来していたと考えられ、かつての隆盛がしのばれる。   主 流 が 浄 厳 院 に 移 転 し た 後 も、 阿 弥 陀 寺 は 一 定 の 存 在 感 を も っ て 存 続 し て き た。 そ し て、 開 基 た る 隆 堯 の 存 在 も、意識され続けてきたといってよい。 三.二十五菩薩面の制作背景   阿弥陀寺面の制作をめぐっては、複数の関連文書が残されてい る (一六四頁参照) 。 ①「二十五菩薩新規造営勧化帳」   横帳   三冊( № 01 -011 -003 、 01 -011 -004 、 01 -011 -007 )   各所に回された勧進帳である。現在、九右衛門を世話方として「井之上叡福寺旦中」の寄進を記す一冊、平左衛 門を世話方に「山入村浄福寺旦中」の寄進を記す一冊、荒張村の三浦八郎右衛門を世話方として坊袋村と大路井の 人々の寄進を取りまとめた一冊の、計三冊が確認される。永福寺、浄福寺はともに浄土宗寺院で、三浦氏は金勝寺 の代官を務めた家である。   冒頭に勧進の趣旨を記し、続けて寄進した人々の金額と人名と世話方の名を記す。前半の趣旨文はいずれも同文 で、 発 起 人 で あ る 蔵 町 の 四 郎 右 衛 門 の 名 の も と、 〝 阿 弥 陀 寺 で は 昔 か ら 迎 接 会 を 営 み た い と 思 っ て き た け れ ど も 果 たせずにきた。今年は阿弥陀寺の開祖隆堯の四百回御遠忌にあたることから新調を企画しているが独力では難しい ので皆の協力を依頼したい〞旨を記す。蔵町は東坂の近隣の村である。   表紙には「嘉永元年四月」とあり、勧進が行われた時期が判明する。ただし三浦氏による一冊のみ日付が「嘉永 二年八月」に訂正される。 ②「二十五菩薩寄進付覚帳」   横帳   二冊( № 01 -011 -006 )   表紙に「嘉永二年酉正月吉日」の年記と「四郎右衛門」の名がある。四郎右衛門は発起人となった蔵町の四郎右 衛門にあたる。①を取りまとめたものとみられ、金額と人名をおおむね村や寺単位で列記する。これにより勧進の おおよその全体像を知ることができる。 ③「廿五菩薩寄進名前帳」   縦帳   一冊( № 01 -011 -005 )   寺の壇中や村単位で寄進の額と人名をとりまとめたもの。②を整理して記しなおそうとしたとみられ、内容は② と重複が多い。また記載の順も一致しない。未完。 ④「二十五菩薩番付」   縦帳   一冊( № 01 -011 -010 )   嘉 永 二 年 三 月 八 日 よ り 十 三 日 ま で 行 わ れ た 二 十 五 菩 薩 迎 接 会 に お い て、 二 十 五 菩 薩 の 役 を 務 め た 人 々 の 名 を 記 す。 「徳兵衛子」 (徳兵衛の子)などと記されており、役を務めたのが子どもであったことが分かる。

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  冒頭に勧進の趣旨を記し、続けて寄進した人々の金額と人名と世話方の名を記す。前半の趣旨文はいずれも同文 で、 発 起 人 で あ る 蔵 町 の 四 郎 右 衛 門 の 名 の も と、 〝 阿 弥 陀 寺 で は 昔 か ら 迎 接 会 を 営 み た い と 思 っ て き た け れ ど も 果 たせずにきた。今年は阿弥陀寺の開祖隆堯の四百回御遠忌にあたることから新調を企画しているが独力では難しい ので皆の協力を依頼したい〞旨を記す。蔵町は東坂の近隣の村である。   表紙には「嘉永元年四月」とあり、勧進が行われた時期が判明する。ただし三浦氏による一冊のみ日付が「嘉永 二年八月」に訂正される。 ②「二十五菩薩寄進付覚帳」   横帳   二冊( № 01 -011 -006 )   表紙に「嘉永二年酉正月吉日」の年記と「四郎右衛門」の名がある。四郎右衛門は発起人となった蔵町の四郎右 衛門にあたる。①を取りまとめたものとみられ、金額と人名をおおむね村や寺単位で列記する。これにより勧進の おおよその全体像を知ることができる。 ③「廿五菩薩寄進名前帳」   縦帳   一冊( № 01 -011 -005 )   寺の壇中や村単位で寄進の額と人名をとりまとめたもの。②を整理して記しなおそうとしたとみられ、内容は② と重複が多い。また記載の順も一致しない。未完。 ④「二十五菩薩番付」   縦帳   一冊( № 01 -011 -010 )   嘉 永 二 年 三 月 八 日 よ り 十 三 日 ま で 行 わ れ た 二 十 五 菩 薩 迎 接 会 に お い て、 二 十 五 菩 薩 の 役 を 務 め た 人 々 の 名 を 記 す。 「徳兵衛子」 (徳兵衛の子)などと記されており、役を務めたのが子どもであったことが分かる。

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⑤幡随意上人像   一幅   ( № 01 -011 -053 )   紙 本 墨 摺 の 幡 随 意 上 人 像 に、 「 金 勝 山 四 十 二 主 」 を 名 乗 る「 攬 誉 典 鏡 」 が 讃 と 裏 書 を 付 し、 「 然 誉 行 願 自 彰 禅 定 門 」 に 与 え た も の で あ る。 裏 書 の 内 容 か ら、 「 然 誉 行 願 自 彰 禅 定 門 」 は、 二 十 五 菩 薩 迎 接 会 に む け て 勧 進 を 行 っ た 中心人物のひとりで、浄土宗の五重相伝を受けた篤信家であったことが分かる。④とならんで、嘉永二年三月八日 より十三日まで、二十五菩薩迎接会が実際に催行されたことを伝える。   以上をもとに、造像の経緯を簡単にまとめると次のようである。   隆堯の四百回忌に二十五菩薩迎接会を行うことを目指し、嘉永元年(一八四八)四月より、蔵町の四郎右衛門を 発起人として勧進が行われた。蔵町は阿弥陀寺のある東坂村の西北に隣接する。各村や関係のある寺院に世話役を 設け、趣旨を記した勧化帳が回された。各寺院や村々からの寄進は、翌嘉永二年正月を目途に取りまとめられたよ う で あ る が、 中 に は 二 十 五 菩 薩 迎 接 会 が 実 現 し た 三 月、 さ ら に 一 部 は 八 月 ご ろ ま で 入 金 が ず れ 込 ん だ も の も あ っ た。寄進には金、銀、銭が混在し、一件あたりの寄進額は最大でも金二両程度、少ないものだと銭二十文程度であ る。最終的な額は少なくとも金二十四両一歩二朱、銭五十五貫三百四十二文以上に達した。   寄進者の所属する村々は、阿弥陀寺の所在する東坂や金勝地域にとどまらず、かなりの広範囲に及ぶ。   例 え ば 東 坂、 蔵 町、 上 山 依、 山 入、 上 田、 辻 越、 小 脇、 片 山、 井 上、 成 谷、 走 井、 観 音 寺、 雨 丸、 美 濃 郷、 目 相、 上 砥 山、 砥 山、 御 園( 以 上 栗 東 市 域 )、 西 寺、 東 寺( 以 上 湖 南 市 域 ) は、 金 勝 寺 を 紐 帯 に 古 く か ら 密 接 な 結 び つ き を 持 っ て き た 近 隣 の 村 々 で あ る。 こ れ に 加 え 大 鳥 居、 牧( 以 上 大 津 市 域 )、 信 楽( 甲 賀 市 域 ) な ど も「 金 勝 寺 四 至 絵 図 」( 金 勝 寺 蔵 ) に 描 か れ る 広 義 の 金 勝 寺 文 化 圏 に 属 す。 ま た 伊 勢 落、 六 地 蔵、 梅 ノ 木、 小 野、 手 原、 目 川、 川辺、小柿、大橋、高野林、安養寺、辻越、坊袋(以上栗東市域) 、石部、柑子袋、針(以上湖南市域) 、水口(甲 賀 市 域 )、 草 津、 追 分、 大 路 井、 青 地、 南 笠、 下 笠、 集、 大 萱、 矢 倉、 志 那 中、 下 物、 八 橋( 以 上 草 津 市 域 ) な ど は東海道および矢橋道とその周辺にあたり、七里(栗東市)や三上(野洲市)は中山道筋にあたる。もちろんここ にも金勝寺二十五別院などとの関わりが指摘される地が含まれている。さらに膳所は、栗東周辺にも膳所藩領が多 く所在したことからであろう。八幡や京都立売は、地元出身者あるいは商売上の繋がりと考えられる。   このようにみるとこの勧進は、単に浄土宗の本末関係にのみ依存するのではなく、古くからの金勝寺を紐帯とす るつながりや、街道を介したつながりといった要素が重層的に重なり合って、範囲を広めていったものであったこ とが理解される。   勧進による寺院の建立再興や造像は、中世には広く取られた手法であった。しかし江戸時代に入ると、東大寺大 仏の再建が終わった十八世紀の初め頃から、幕府による統制などもあり、大規模かつ自由な勧進の展開はみられな く な る 。 そ ん な 中 で 阿 弥 陀 寺 の 二 十 五 菩 薩 面 の 勧 進 が 可 能 で あ っ た の は、 幕 末 と い う 時 代 背 景 も さ る こ と な が ら、 それが基本的に、建前としては隆堯を重要人物として戴く宗門内の活動であるということが大きかったと推測され る。しかし実際の勧進活動は、浄土宗の末寺にとどまらず、隆堯ひいては金勝寺をとりまく歴史的な環境を共有す る村々や、街道を通じてつながりの深い村々にまで広がるなど、ある意味では中世的ともいえる広がりを見せたこ とは興味深い。背景には、当地の重層的な宗教文化や、それをふまえた宗派を越えた地域の結びつき、そして街道 を介して人の行き来が多く、相給の村々が多く絶対的な権力が存在しなかったことにより中世的な村落の結びつき が江戸期においても比較的保たれていた近江湖南の土地柄が大きく影響したと考えられる。   隆堯の四百回忌に伴う二十五菩薩迎接会式は、嘉永二年三月八日から十三日まで催行された。演者を務めたのは 子どもたちであり、勧進に応じた主要な村々から選出された。残念ながら、具体的な面や道具、装束類がどのよう なところに発注され、どの程度の金額がそれに対して支払われたのかについての記録はない。

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賀 市 域 )、 草 津、 追 分、 大 路 井、 青 地、 南 笠、 下 笠、 集、 大 萱、 矢 倉、 志 那 中、 下 物、 八 橋( 以 上 草 津 市 域 ) な ど は東海道および矢橋道とその周辺にあたり、七里(栗東市)や三上(野洲市)は中山道筋にあたる。もちろんここ にも金勝寺二十五別院などとの関わりが指摘される地が含まれている。さらに膳所は、栗東周辺にも膳所藩領が多 く所在したことからであろう。八幡や京都立売は、地元出身者あるいは商売上の繋がりと考えられる。   このようにみるとこの勧進は、単に浄土宗の本末関係にのみ依存するのではなく、古くからの金勝寺を紐帯とす るつながりや、街道を介したつながりといった要素が重層的に重なり合って、範囲を広めていったものであったこ とが理解される。   勧進による寺院の建立再興や造像は、中世には広く取られた手法であった。しかし江戸時代に入ると、東大寺大 仏の再建が終わった十八世紀の初め頃から、幕府による統制などもあり、大規模かつ自由な勧進の展開はみられな く な る 。 そ ん な 中 で 阿 弥 陀 寺 の 二 十 五 菩 薩 面 の 勧 進 が 可 能 で あ っ た の は、 幕 末 と い う 時 代 背 景 も さ る こ と な が ら、 それが基本的に、建前としては隆堯を重要人物として戴く宗門内の活動であるということが大きかったと推測され る。しかし実際の勧進活動は、浄土宗の末寺にとどまらず、隆堯ひいては金勝寺をとりまく歴史的な環境を共有す る村々や、街道を通じてつながりの深い村々にまで広がるなど、ある意味では中世的ともいえる広がりを見せたこ とは興味深い。背景には、当地の重層的な宗教文化や、それをふまえた宗派を越えた地域の結びつき、そして街道 を介して人の行き来が多く、相給の村々が多く絶対的な権力が存在しなかったことにより中世的な村落の結びつき が江戸期においても比較的保たれていた近江湖南の土地柄が大きく影響したと考えられる。   隆堯の四百回忌に伴う二十五菩薩迎接会式は、嘉永二年三月八日から十三日まで催行された。演者を務めたのは 子どもたちであり、勧進に応じた主要な村々から選出された。残念ながら、具体的な面や道具、装束類がどのよう なところに発注され、どの程度の金額がそれに対して支払われたのかについての記録はない。

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四.迎講面の特徴と阿弥陀寺面の意義   迎講面の特徴は、能面と比較すると、よりその本質的な性格の違いを明らかにできる。   能面は一部の鬼面などを除いて耳をあらわさない。また顔をおさめるくぼみも浅く、演者は顔全体を面の中にお さめるのではなく、顔の輪郭、中でも頬から顎にかけての部分を面からはみ出させるのが基本である。能面は「オ モ テ( 面 )」 と 称 さ れ、 演 者 が 面 を つ け る こ と は「 か け る 」 と 表 現 さ れ る。 こ れ ら は 能 の 演 者 が 一 種 の よ り ま し 的 な性格をもつことと関わる。つまり役の容れ物としての演者の生身の身体の存在こそ、役が舞台上に立ち顕れる前 提である。神事面の多くは、能面と同様の特色を示す。   一 方、 迎 講 面 は 迎 講 の 面 は 原 則 と し て 耳 後 ろ ま で 表 現 さ れ、 顔 の 部 分 の 曲 面 が 深 い。 演 者 が 面 を つ け る こ と は 「 か ぶ る 」 と 言 い あ ら わ さ れ る。 こ の 語 感 が 示 す 通 り、 迎 講 面 は 演 者 の 顔 全 体 を あ ま す と こ ろ な く 覆 い 隠 す の が 基 本である。多くの場合、迎講面は天冠台から上の頭頂部全体を造りあらわし、髻まで表現する。そして面で覆いき れない演者の後頭部や首は、布で覆い隠される。   迎講の演者は、手にも手袋をはめるなど、極力自分の肌や髪をみせない。迎講の面の中には、首までをあらわす 千葉・建暦寺 、 6 長野・相澤寺 、 7 同・十念 寺 などの例や、頭全体をすっぽりと覆ってしまう東京・浄真 寺 のような例 もある。浄真寺の面は、頭の前半分と後半分を頭頂の蝶番と頭側の紐で連結して頭全体を覆い隠す構造となってお り、もはや面というよりウルトラマンのような一昔前の特撮のマスクを彷彿とさせる。   迎講は本質的に、観者に来迎の存在を体感させ、信じさせるためのものであっ た 10 。すなわち演者は仏菩薩そのも の と し て そ の 場 に 来 臨 す る こ と が 必 要 で、 日 常 や 現 世 に つ な が る 演 者 の 生 身 は 消 し 去 る べ き も の で あ っ た と い え る。岡山・弘法寺などに伝わる被り仏としての阿弥陀像(内側を空洞にした阿弥陀如来像のなかに演者がすっぽり と入り込むようにして担 ぐ 11 )は、こういった発想の極地といえる。   これらの性格の違いは面の構造にも反映する。能面がたいてい一枚の厚板から彫り出されるのに対し、迎講面は 頭頂部や髻を別材で造り、しばしば面部の左右側面に縦に材を矧いで奥行きを加える。こういった点は、迎講の面 を能面や神面と区別する大きな特徴である。阿弥陀寺の場合は幸い近年まで行事が行われており、記録からも迎講 の面であることが確かめられるが、仮に面だけが残っており現在は行事が伴わない事例であっても、このような特 徴によって迎講行事の面であると判断できることが多い。   阿 弥 陀 寺 面 の 形 式 や 構 造 は、 迎 講 面 の 通 例 を 踏 ま え た 典 型 的 な も の と い え る。 た だ し 大 き さ は 小 ぶ り で あ る。 「 二 十 五 菩 薩 番 付 」( ④ ) は、 演 者 に つ い て「 徳 兵 衛 子 」「 市 兵 衛 子 」 の よ う に 誰 々 の 子 と い う 書 き 方 を し て い る。 す なわち阿弥陀寺面は、定型をふまえつつ、当初より子供が使用することを想定して作られていたことが確認できる 点に大きな意義がある。各地に伝来する迎講面の大きさにはばらつきがあるが、阿弥陀寺面は、子どもを使用者と して想定する面の大きさを考える上で基準となる。 五.二十五菩薩の尊名および持物について   阿 弥 陀 寺 面 の 二 十 五 菩 薩 の 尊 名 お よ び 持 物 は、 箱 蓋 表 の 墨 書 に よ り 明 ら か に で き る( 図 6。 内 容 は 表 1参 照 )。 造られたときの尊名やその順序、持物が判明する例は少なく、貴重である。   阿弥陀寺二十五菩薩面の木箱に記された尊名およびその順序は、基本的に『往生要集』に倣う。第 25番「地蔵菩 薩」は『往生要集』では「無辺身菩薩」となるが、江戸期には無辺身菩薩=地蔵と理解されていた( 『仏像図彙』 )。 このほかの違いは、音通(第 6番、第 15番)や省略(第 1 番、第 24番)に過ぎない。   『 往 生 要 集 』 に は 持 物 に つ い て の 記 載 は な い。 し か し 源 信 の 作 と 伝 え ら れ て き た『 二 十 五 菩 薩 和 讃 』 に は 持 物 の 記述があり、阿弥陀寺面の持物はこれに準じる。 『二十五菩薩和讃』は、実際には源信の著作とは考えられない が 12 、

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  これらの性格の違いは面の構造にも反映する。能面がたいてい一枚の厚板から彫り出されるのに対し、迎講面は 頭頂部や髻を別材で造り、しばしば面部の左右側面に縦に材を矧いで奥行きを加える。こういった点は、迎講の面 を能面や神面と区別する大きな特徴である。阿弥陀寺の場合は幸い近年まで行事が行われており、記録からも迎講 の面であることが確かめられるが、仮に面だけが残っており現在は行事が伴わない事例であっても、このような特 徴によって迎講行事の面であると判断できることが多い。   阿 弥 陀 寺 面 の 形 式 や 構 造 は、 迎 講 面 の 通 例 を 踏 ま え た 典 型 的 な も の と い え る。 た だ し 大 き さ は 小 ぶ り で あ る。 「 二 十 五 菩 薩 番 付 」( ④ ) は、 演 者 に つ い て「 徳 兵 衛 子 」「 市 兵 衛 子 」 の よ う に 誰 々 の 子 と い う 書 き 方 を し て い る。 す なわち阿弥陀寺面は、定型をふまえつつ、当初より子供が使用することを想定して作られていたことが確認できる 点に大きな意義がある。各地に伝来する迎講面の大きさにはばらつきがあるが、阿弥陀寺面は、子どもを使用者と して想定する面の大きさを考える上で基準となる。 五.二十五菩薩の尊名および持物について   阿 弥 陀 寺 面 の 二 十 五 菩 薩 の 尊 名 お よ び 持 物 は、 箱 蓋 表 の 墨 書 に よ り 明 ら か に で き る( 図 6。 内 容 は 表 1参 照 )。 造られたときの尊名やその順序、持物が判明する例は少なく、貴重である。   阿弥陀寺二十五菩薩面の木箱に記された尊名およびその順序は、基本的に『往生要集』に倣う。第 25番「地蔵菩 薩」は『往生要集』では「無辺身菩薩」となるが、江戸期には無辺身菩薩=地蔵と理解されていた( 『仏像図彙』 )。 このほかの違いは、音通(第 6番、第 15番)や省略(第 1 番、第 24番)に過ぎない。   『 往 生 要 集 』 に は 持 物 に つ い て の 記 載 は な い。 し か し 源 信 の 作 と 伝 え ら れ て き た『 二 十 五 菩 薩 和 讃 』 に は 持 物 の 記述があり、阿弥陀寺面の持物はこれに準じる。 『二十五菩薩和讃』は、実際には源信の著作とは考えられない が 12 、

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阿弥陀寺面が『往生要集』 『二十五菩薩和讃』という、源信ないし彼の著作と信じられていたものに典拠を求めてい たことは明らかである。   日 本 の 来 迎 表 現 は、 『 往 生 要 集 』 の 影 響 を 濃 厚 に 受 け て い る。 し た が っ て こ こ で 阿 弥 陀 寺 面 が『 往 生 要 集 』 に 倣 うことは、一見あたりまえに思われるかもしれない。しかしながら中世にさかのぼる迎講行事では、事はそんなに 単純ではない。現在確認される中では迎講の場面を描く最も古い作品は、メトロポリタン美術館に所有される『夜 寝覚物語』の断簡である。ここでは、一人の如来役と僧形二人を含む八人の菩薩役が描かれる。また現在行われて いる迎講行事のなかでも古い姿を伝える岡山弘法寺の踟供養は、菩薩六人、僧形二人、童子二人が行列の核を構成 す る 13 。正治二年(一二〇〇)に重源が東大寺の渡辺別所で行った迎講では、菩薩装束が二十八具あつらえられたこ と が 記 録 に 見 え( 『 南 無 阿 弥 陀 仏 作 善 集 』) 、 や は り 重 源 が 関 わ る 兵 庫・ 浄 土 寺 の 建 仁 元 年( 一 二 〇 一 ) 快 慶 作 の 菩 薩面は、今では二十五面が存するが、当初は二十七面があったという(神戸大学附属図書館蔵『浄土寺縁起』 )。絵 画作例をみても二十五菩薩来迎が定型として登場するのは鎌倉時代はじめのことであ る 14 。   近世以降の迎講に限れば、菩薩の数はおおむね二十五に定まる。しかしそれでも、名称や順序は『往生要集』に 依拠するとは限らない。例えば、明治十三年(一八八〇)頃に矢田寺南僧坊を再興した空圓によって整備された奈 良・ 矢 田 寺 の 満 米 上 人 地 獄 め ぐ り 練 り 供 養 の 二 十 五 菩 薩 は、 元 禄 三 年( 一 六 九 〇 ) に 初 版 が、 天 明 三 年 ( 一 七 八 三 ) に 増 補 版 が 刊 行 さ れ た『 仏 像 図 彙 』 を 典 拠 と す る 例 で あ る( 矢 田 寺 蔵「 和 州 矢 田 山 満 米 上 人 地 獄 廻 り 練供養図」 )。ここでは二十五菩薩の名称は基本的に『往生要集』と同じであるが、順序は異なる。また、元禄九年 頃 に 整 備 さ れ た と み ら れ る 大 阪・ 大 念 仏 寺 の 万 部 お 練 り の 諸 菩 薩 の 名 称 と 順 序 は、 現 行 の 名 称 を 参 考 に す る な ら ば、 『 往 生 要 集 』 と も『 仏 像 図 彙 』 と も 異 な る し、 江 戸 時 代 の 初 め に 再 興 し た と 伝 え る 岡 山・ 誕 生 寺 で は 先 頭 を 行 くのは地蔵菩薩である。   なお、迎講行事で唱えられる和讃などの聴覚情報や所作などについても、個別に異なる点が多い。例えば、現在 最も広く知られる迎講行事である当麻寺の聖衆来迎練供養会式では、臨終を迎えた行者の魂を蓮台上に迎えとると い う 行 事 の 核 心 と な る 場 面 に お い て『 来 迎 和 讃 』 が 唱 え ら れ る。 『 来 迎 和 讃 』 は『 二 十 五 菩 薩 和 讃 』 同 様 に 源 信 の 作 に 擬 せ ら れ る 和 讃 で あ る。 そ し て 観 音 菩 薩 や 勢 至 菩 薩 の 所 作 も、 『 来 迎 和 讃 』 の 文 言 に 倣 う。 行 列 の 道 中 に お い て 観 音 菩 薩、 勢 至 菩 薩 は 歩 調 を 合 わ せ て 半 ス ク ワ ッ ト の よ う な 上 下 動 を 加 え な が ら 歩 む。 両 菩 薩 が 屈 ん だ 姿 勢 は、 まさに阿弥陀来迎図において蓮台を往生者に差し出す様子を彷彿とさせ、絵画表現と行事の所作の間でイメージが 共有されている様子がうかがえる。   長 野 ・ 十 念 寺 の 二 十 五 菩 薩 来 迎 会 で は 、「 前 願 」 の 名 で 『 来 迎 和 讃 』 の 一 節 が 唱 え ら れ る が 、 行 列 に は 当 麻 寺 に は 存 在 し な い 鳥 や 毘 沙 門 、 不 動 な ど が 登 場 し 、 菩 薩 た ち は し ず し ず と 歩 む な ど 視 覚 的 に は か な り 当 麻 寺 と は 違 い が あ る 。   そして岡山・弘法寺の例では、行列は饒鉢などの鳴り物にあわせて歩み、和讃の類は全く行われない。往生者の 魂を迎える核心の場面は緊張感あふれる無音の中で演じられ、合掌する手をすり合わせながら歩みを前後する所作 も当麻寺とは根本的に異なる。   また大阪・大念仏寺の万部おねりの観音は、膝をまげ前かがみになって蓮台を差し出すような姿勢のまま、上下 の躍動なしに来迎橋を歩む。来迎図の場面を再現するという意図は当麻寺と共通していても、その実現の仕方は一 様ではない。   このようにみると迎講は、何か一つの強力な影響を持つ定型が全国に伝播したというより、来迎という大きな枠 組みを共通しつつ、登場する役や人数、背景の聴覚情報や所作などに様々な要素を取り入れ、それぞれに展開した と考えるのが適当と思われる。概して歴史の長い事例ほど、典拠をすっきりと一つに解き明かすことが難しい。

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  なお、迎講行事で唱えられる和讃などの聴覚情報や所作などについても、個別に異なる点が多い。例えば、現在 最も広く知られる迎講行事である当麻寺の聖衆来迎練供養会式では、臨終を迎えた行者の魂を蓮台上に迎えとると い う 行 事 の 核 心 と な る 場 面 に お い て『 来 迎 和 讃 』 が 唱 え ら れ る。 『 来 迎 和 讃 』 は『 二 十 五 菩 薩 和 讃 』 同 様 に 源 信 の 作 に 擬 せ ら れ る 和 讃 で あ る。 そ し て 観 音 菩 薩 や 勢 至 菩 薩 の 所 作 も、 『 来 迎 和 讃 』 の 文 言 に 倣 う。 行 列 の 道 中 に お い て 観 音 菩 薩、 勢 至 菩 薩 は 歩 調 を 合 わ せ て 半 ス ク ワ ッ ト の よ う な 上 下 動 を 加 え な が ら 歩 む。 両 菩 薩 が 屈 ん だ 姿 勢 は、 まさに阿弥陀来迎図において蓮台を往生者に差し出す様子を彷彿とさせ、絵画表現と行事の所作の間でイメージが 共有されている様子がうかがえる。   長 野 ・ 十 念 寺 の 二 十 五 菩 薩 来 迎 会 で は 、「 前 願 」 の 名 で 『 来 迎 和 讃 』 の 一 節 が 唱 え ら れ る が 、 行 列 に は 当 麻 寺 に は 存 在 し な い 鳥 や 毘 沙 門 、 不 動 な ど が 登 場 し 、 菩 薩 た ち は し ず し ず と 歩 む な ど 視 覚 的 に は か な り 当 麻 寺 と は 違 い が あ る 。   そして岡山・弘法寺の例では、行列は饒鉢などの鳴り物にあわせて歩み、和讃の類は全く行われない。往生者の 魂を迎える核心の場面は緊張感あふれる無音の中で演じられ、合掌する手をすり合わせながら歩みを前後する所作 も当麻寺とは根本的に異なる。   また大阪・大念仏寺の万部おねりの観音は、膝をまげ前かがみになって蓮台を差し出すような姿勢のまま、上下 の躍動なしに来迎橋を歩む。来迎図の場面を再現するという意図は当麻寺と共通していても、その実現の仕方は一 様ではない。   このようにみると迎講は、何か一つの強力な影響を持つ定型が全国に伝播したというより、来迎という大きな枠 組みを共通しつつ、登場する役や人数、背景の聴覚情報や所作などに様々な要素を取り入れ、それぞれに展開した と考えるのが適当と思われる。概して歴史の長い事例ほど、典拠をすっきりと一つに解き明かすことが難しい。

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  そ ん な 中 で 阿 弥 陀 寺 面 は、 明 快 に『 往 生 要 集 』 や『 二 十 五 菩 薩 和 讃 』 を 典 拠 と 指 摘 で き る 点 に 大 き な 特 徴 が あ る。いかにも近世末の浄土宗寺院において『往生要集』や『二十五菩薩和讃』に則って新規にはじめられた迎講行 事にふさわしい。 六.湖南地域の迎講   現存する迎講行事は、やはり阿弥陀来迎を主に据えた性格柄、全国的に見ても浄土系の諸派や天台寺院で行われ る例が比較的多い。   都 の 周 辺 で も、 古 く か ら 雲 林 院( 『 栄 花 物 語 』) 、 清 水 橋 の 河 原( 『 水 左 記 』『 百 錬 抄 』) 、 大 原( 『 慕 帰 絵 』) 、 東 山 の 雲 居 寺( 『 秋 夜 長 物 語 』) な ど で 迎 講 が 行 わ れ て い た し、 近 年 で も 泉 涌 寺 の 塔 頭 即 成 院( 毎 年 十 月 第 三 日 曜 )、 百 万 遍知恩寺(三年に一度、四月の御忌大会) 、粟生の光明寺(毎年、四月の御忌)などで行われる。   阿弥陀寺の位置する近江湖南は、恵心僧都源信が活躍した比叡山の膝下にあたり、早くから天台系の浄土教も広 が り を 見 せ た。 土 地 柄 を 考 え れ ば、 古 く か ら 迎 講 が 行 わ れ て い た と し て 不 思 議 で は な い。 と こ ろ が 意 外 な こ と に、 近江湖南において迎講行事が行われた記録や、菩薩面など迎講の道具類は、管見の限り、本稿で紹介する阿弥陀寺 の 例 と、 近 年 再 興 さ れ 数 度 お こ な わ れ た 新 善 光 寺 の 例 が あ る 程 度 で、 定 期 的 に 迎 講 が 行 わ れ て い る 例 は 知 ら れ な い。   とはいえ、迎講につながるような信仰や心情が、決して近江湖南に存在しなかったわけではない。   比叡山のふもとに立地する天台真盛宗の総本山、西教寺の境内には石造阿弥陀二十五菩薩像がある。一体ごとに 舟形光背を形どったような輪郭の笏谷石から、半肉彫りに彫りだされ、大きさは阿弥陀如来像で総高約一二〇 ㎝ を 計測する。阿弥陀如来と二十四の菩薩および不動、毘沙門からなる計二十七体の石像である。いずれも立像で、手 に 持 物 を と り 様 々 な 姿 態 を と る 様 子 は、 迎 講 の 菩 薩 た ち の 姿 に も 通 じ る。 こ の 石 像 に は 阿 弥 陀 像 に 陰 刻 銘 が あ り、 天正十二年(一五八四)に「当国栗本郡」すなわち近江国栗太郡の住人「富田民部進」が早世した愛娘、法名花清 妙蓮童女の極楽往生を願って建立したと記される。栗太郡は、阿弥陀寺や金勝寺が所在する地域である。富田民部 進について明らかにできることは少ないが、天正前後に栗太郡域に富田姓が存在したことは『近江栗太郡志』に収 録される資料などから確認できる。おそらく富田民部進は、彼らに連なる地域有力者的な立場にあった人物であろ う 15 。西教寺は栗太郡からみれば琵琶湖の対岸にあたるが、当時は湖を挟んでの行き来は活発であった。天台真盛宗 の宗祖真盛(一四四三〜九五)以来、不断念仏の根本道場として知られた西教寺に、故人の追善のためこのような 大規模な来迎像一式をあらわす意識は、迎講にも通じるように思われる。   ではなぜ近江湖南で迎講行事が行われてこなかったのか。   ひとつには、阿弥陀寺の勧進の趣旨に言われるように、迎講を行うには、面や装束を揃えるにも莫大な資金が必 要 で、 ま た 催 行 に は か な り の 大 人 数 を 動 か さ な い と い け な い と い う、 行 事 の 規 模 が 課 題 に な っ た こ と が 考 え ら れ る。個人が催行した迎講には、安芸国に勢力を誇った小早川家の四代茂平や十七代隆景による広島・米山寺の例が 知られ る 16 。また『今昔物語集』巻第十五「始丹後國迎講聖人徃生語   第廾三」では、国守の支援により迎講開催が 実現している。迎講開催には、少なくとも彼らぐらいの経済力は必要だということであろう。阿弥陀寺面の勧進の 記録は、幕末における迎講の創始がどの程度の財力を必要とするものだったのかを考える材料にもなりえる。   他所をみると、例えば春の一日を農事の休みとして村で楽しむ「レンゾ」の風習と結びついて迎講が実施される 奈良・久米寺の「久米レンゾ」に典型的にみられるように、迎講が農事暦に組み込まれる例もあった。近江の村々 に も 大 規 模 な 行 事 を 賄 う 経 済 力 が 十 分 に 備 わ っ て い た こ と は、 中 世 以 来 伝 わ る 数 々 の 祭 礼 が 証 明 し て い る。 し か し、近江ではすでに農事暦や用水管理などと結びついた祭礼がすでに他にあり、迎講が割り込む余地がなかったと

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に 持 物 を と り 様 々 な 姿 態 を と る 様 子 は、 迎 講 の 菩 薩 た ち の 姿 に も 通 じ る。 こ の 石 像 に は 阿 弥 陀 像 に 陰 刻 銘 が あ り、 天正十二年(一五八四)に「当国栗本郡」すなわち近江国栗太郡の住人「富田民部進」が早世した愛娘、法名花清 妙蓮童女の極楽往生を願って建立したと記される。栗太郡は、阿弥陀寺や金勝寺が所在する地域である。富田民部 進について明らかにできることは少ないが、天正前後に栗太郡域に富田姓が存在したことは『近江栗太郡志』に収 録される資料などから確認できる。おそらく富田民部進は、彼らに連なる地域有力者的な立場にあった人物であろ う 15 。西教寺は栗太郡からみれば琵琶湖の対岸にあたるが、当時は湖を挟んでの行き来は活発であった。天台真盛宗 の宗祖真盛(一四四三〜九五)以来、不断念仏の根本道場として知られた西教寺に、故人の追善のためこのような 大規模な来迎像一式をあらわす意識は、迎講にも通じるように思われる。   ではなぜ近江湖南で迎講行事が行われてこなかったのか。   ひとつには、阿弥陀寺の勧進の趣旨に言われるように、迎講を行うには、面や装束を揃えるにも莫大な資金が必 要 で、 ま た 催 行 に は か な り の 大 人 数 を 動 か さ な い と い け な い と い う、 行 事 の 規 模 が 課 題 に な っ た こ と が 考 え ら れ る。個人が催行した迎講には、安芸国に勢力を誇った小早川家の四代茂平や十七代隆景による広島・米山寺の例が 知られ る 16 。また『今昔物語集』巻第十五「始丹後國迎講聖人徃生語   第廾三」では、国守の支援により迎講開催が 実現している。迎講開催には、少なくとも彼らぐらいの経済力は必要だということであろう。阿弥陀寺面の勧進の 記録は、幕末における迎講の創始がどの程度の財力を必要とするものだったのかを考える材料にもなりえる。   他所をみると、例えば春の一日を農事の休みとして村で楽しむ「レンゾ」の風習と結びついて迎講が実施される 奈良・久米寺の「久米レンゾ」に典型的にみられるように、迎講が農事暦に組み込まれる例もあった。近江の村々 に も 大 規 模 な 行 事 を 賄 う 経 済 力 が 十 分 に 備 わ っ て い た こ と は、 中 世 以 来 伝 わ る 数 々 の 祭 礼 が 証 明 し て い る。 し か し、近江ではすでに農事暦や用水管理などと結びついた祭礼がすでに他にあり、迎講が割り込む余地がなかったと

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も考えられる。このように見ると隆堯の四百回忌は、迎講に多くの人々が力を結集することができる貴重な機会で あったのかもしれない。   阿弥陀寺の迎講は、昭和中頃を最後に催行が途絶えた。管見の限り平成に至ってから行われた近江湖南で近年唯 一 の 迎 講 行 事 が、 新 善 光 寺( 栗 東 市 ) の 二 十 五 菩 薩 来 迎 会 式 で あ る。 新 善 光 寺 は 栗 東 市 林 に 所 在 す る 浄 土 宗 寺 院 で、新善光寺の迎講は昭和五十六年(一九八一)の本堂修理にあわせて再興された。内容は、亡くなった身内の極 楽 往 生 を 願 う 信 者 二 十 五 人 が 菩 薩 に 扮 し、 極 楽 を 象 徴 す る 本 堂 か ら 現 世 を 表 す 娑 婆 堂 ま で 身 内 の 位 牌 を 取 り に 行 き、位牌を手に再び本堂まで練り歩くというものである。平成二十三年(二〇一一)の法然八百回忌にあわせて平 成二十二年にも行われており、当時、今後は長野善光寺開帳にあわせ六年ごとに行う予定が立てられていたと聞く が、その後は行われていない。なお寺伝に、かつて迎講行事があり昭和初期に断絶したというが、それを跡付ける 資料は今のところ見いだせていない。   全 国 に 伝 わ る 迎 講 行 事 の 濫 觴 を み る と、 概 し て 比 較 的 長 く 経 済 的 に 安 定 し て い た 時 期 に 始 ま っ て い る 例 が 多 い。 実のところ平成初年前後は多くの迎講行事が復興あるいは新設された時期であり、新善光寺の事例も多少時期がず れるものの巨視的にはこれらに含まれる。多くの菩薩の面や装束を用意し、行列の人手を用意するという迎講行事 の規模は、はじめるにも継続するにも存外高いハードルとなっているのだろう。 まとめ   阿弥陀寺面の形式や構造は、迎講面の通例を踏まえた典型的なものといえる。阿弥陀寺面は、史料から当初より 子 ど も を 使 用 者 と し て 想 定 し て い た こ と が 確 か め ら れ、 今 後 迎 講 面 の 大 き さ と 用 途 を 考 え る 上 で の 基 準 と な り う る。   また、ここに取り上げた阿弥陀寺の二十五菩薩面とそれに関わる史料は、幕末の迎講行事の実態を伝える貴重な 資料である。二十五菩薩の名称や持物から、源信の『往生要集』や伝源信作の『二十五菩薩和讃』を典拠にしたこ とが明確にうかがえ、中世の迎講行事とは出自が異なる、幕末の浄土宗寺院において新たに創出された迎講のひと つの典型を示す。   さらに、広域的に行われた勧進活動は、近江湖南の土地柄を浮かび上がらせるという点で、地域史上にも興味深 い内容を含む。   本稿はかつて筆者が栗東歴史民俗博物館に奉職していたころの調査の余滴である。迎講面は、とりわけ制作時期 が新しい場合には、美術的な観点からの評価の網からは抜け落ちてしまいがちであるが、歴史や民俗といった他分 野とあわせて複合的に見ていくには興味深い素材といえる。本稿はそのような思いから、手元に知り得た資料を提 示するものである。阿弥陀寺面をめぐる資料が、分野の枠を越えて活用される契機となれば本望である。 注 1   筆者が調査した迎講行事については龍谷大学龍谷ミュージアムほか編集発行『極楽へのいざない―練り供養を めぐる美術―』図録、二〇一三年に記した。 2   伊藤真徹「浄土宗と隆堯法印」 『印度學佛教學研究』十八(二)号、一九七〇年。 3   伊 藤 唯 真「 知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真 ― 珠 琳 の 一 書 状 を め ぐ っ て ―」 『 鷹 陵 史 学 』( 佛 教 大 学 ) 第 八 号、 一九八二年。 4   二 十 五 菩 薩 の 勧 進 に か か わ っ た と み ら れ る 家 に 伝 わ る。 資 料 名 に 付 し た No.は 栗 東 町 史 編 さ ん 室 に よ る 調 査 番 号。栗東町史編さん室の成果は、現在は栗東歴史民俗博物館に保管される。

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  また、ここに取り上げた阿弥陀寺の二十五菩薩面とそれに関わる史料は、幕末の迎講行事の実態を伝える貴重な 資料である。二十五菩薩の名称や持物から、源信の『往生要集』や伝源信作の『二十五菩薩和讃』を典拠にしたこ とが明確にうかがえ、中世の迎講行事とは出自が異なる、幕末の浄土宗寺院において新たに創出された迎講のひと つの典型を示す。   さらに、広域的に行われた勧進活動は、近江湖南の土地柄を浮かび上がらせるという点で、地域史上にも興味深 い内容を含む。   本稿はかつて筆者が栗東歴史民俗博物館に奉職していたころの調査の余滴である。迎講面は、とりわけ制作時期 が新しい場合には、美術的な観点からの評価の網からは抜け落ちてしまいがちであるが、歴史や民俗といった他分 野とあわせて複合的に見ていくには興味深い素材といえる。本稿はそのような思いから、手元に知り得た資料を提 示するものである。阿弥陀寺面をめぐる資料が、分野の枠を越えて活用される契機となれば本望である。 注 1   筆者が調査した迎講行事については龍谷大学龍谷ミュージアムほか編集発行『極楽へのいざない―練り供養を めぐる美術―』図録、二〇一三年に記した。 2   伊藤真徹「浄土宗と隆堯法印」 『印度學佛教學研究』十八(二)号、一九七〇年。 3   伊 藤 唯 真「 知 恩 院 周 誉 珠 琳 と 浄 厳 坊 宗 真 ― 珠 琳 の 一 書 状 を め ぐ っ て ―」 『 鷹 陵 史 学 』( 佛 教 大 学 ) 第 八 号、 一九八二年。 4   二 十 五 菩 薩 の 勧 進 に か か わ っ た と み ら れ る 家 に 伝 わ る。 資 料 名 に 付 し た No.は 栗 東 町 史 編 さ ん 室 に よ る 調 査 番 号。栗東町史編さん室の成果は、現在は栗東歴史民俗博物館に保管される。

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5   『創造と継承』図録、栗東歴史民俗博物館、二〇〇八年。 6   鎌倉時代。千葉県指定有形文化財。 7   鎌倉〜室町時代。佐久市指定文化財。 8   鎌倉〜室町時代。二十五菩薩来迎会の行事は市重要無形民俗文化財。 9   文政十年(一八二七)頃の作。 10   例えば『今昔物語集』 「摂津守源満仲出家語」 。 11   関信子「 〝迎講阿弥陀像〞考一 - 当麻寺の来迎会と弘法寺の迎講阿弥陀像」 『仏教美術』二二一号、一九九五年。 同「 〝 迎 講 阿 弥 陀 像 〞 考 二 - 当 麻 寺 の 迎 講 阿 弥 陀 像 」『 仏 教 芸 術 』 二 二 三 号、 一 九 九 五 年。 注 1 前 掲『 極 楽 へ の いざない―練り供養をめぐる美術―』図録。 12   多 屋 頼 俊「 源 信 僧 都 の 作 と 伝 へ ら れ る 和 讃 の 真 偽( 上 )」『 大 谷 学 報 』 第 九 巻 第 二 号、 一 九 二 八 年。 伊 藤 信 二 「阿弥陀二十五菩薩来迎図の成立」 『美術史』四三(一)一九九四年。 13   鎌倉後期に遡ると指摘される面が現存する。また「備前国邑久郡千手山弘法寺踟供養之図式」と題する江戸期 の摺物には江戸時代の行列の様子が描かれるが、行列の核となる菩薩衆たちは現在と変わらない。関信子注 11 前掲「 〝迎講阿弥陀像〞考一」 。 14   伊 藤 真 宏「 二 十 五 菩 薩「 来 迎 」 に つ い て 」『 佛 教 大 学 仏 教 学 会 紀 要 』 十 八 号、 二 〇 一 三 年。 注 12伊 藤 信 二 前 掲 書。 15   ひとりは勝部神社(現守山市勝部)の資料として『栗太志』 (文政八年(一八二五)膳所藩に献上)から引用さ れ る 元 亀 三 年( 一 五 七 二 ) 三 月 十 九 日 付 け の 文 書 中 に 登 場 す る「 富 田 入 道 宗 林 」。 も う ひ と り は 物 部 村 勝 部 ( 現 守 山 市 勝 部 ) 藤 井 知 城 氏 文 書 と し て 収 録 さ れ る、 同 年 三 月 二 十 一 日 付 け の 文 書 中 に 登 場 す る「 富 田 惣 代 / 富田河内守/則綱」 「同(=富田)大学介/則高」である。これらはいずれも石山合戦に連鎖して引き起こされ た湖南の一向一揆に関連する資料で、いずれも元亀三年に富田氏らから信長側に提出された、金森や三宅に出 入りをしないと誓う起請文である。勝部は旧栗太郡内の地名だが、ここに「富田入道宗林」とともに上がって いる「井口入道徳林」は野洲郡の落窪の人とみられる。また二人の富田姓の人物と一緒に挙がっている「並富 田立花/惣百姓惣代」の「富田」 「立花」は現在の守山市立田に含まれ、旧郡では野洲郡にあたる。野洲郡には 古く平安時代から名のみえる「富田庄」という庄園があり、富田氏は、このかつての富田庄あたりを中心とし ていた土豪と推測される。野洲郡と栗太郡は、野洲川を境に隣接しており、野洲郡の富田氏との関わりは不明 な が ら、 富 田 姓 は 栗 太 郡 に も 分 布 し て お り、 「 富 田 民 部 之 進 」 も こ れ ら の 富 田 姓 の ひ と り で あ っ た ろ う と 思 わ れる。 16   関信子「 〝迎講阿弥陀像〞考三―米山寺と誕生寺の迎講阿弥陀像」 『仏教芸術』二二四号、一九九六年 謝辞   調査および掲載にあたっては、阿弥陀寺代表役員奥村泰祥氏、栗東歴史民俗博物館にご高配を賜った。調査およ び写真撮影には佐々木進氏(元栗東歴史民俗博物館長)の、史料翻刻には溝口純一氏(栗東歴史民俗博物館資料調 査員(当時) )の協力を得た。また調査の一部は栗東歴史民俗博物館の平成 十九 年度博物館実習において行った。   ここに記して御礼申し上げます。

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富田河内守/則綱」 「同(=富田)大学介/則高」である。これらはいずれも石山合戦に連鎖して引き起こされ た湖南の一向一揆に関連する資料で、いずれも元亀三年に富田氏らから信長側に提出された、金森や三宅に出 入りをしないと誓う起請文である。勝部は旧栗太郡内の地名だが、ここに「富田入道宗林」とともに上がって いる「井口入道徳林」は野洲郡の落窪の人とみられる。また二人の富田姓の人物と一緒に挙がっている「並富 田立花/惣百姓惣代」の「富田」 「立花」は現在の守山市立田に含まれ、旧郡では野洲郡にあたる。野洲郡には 古く平安時代から名のみえる「富田庄」という庄園があり、富田氏は、このかつての富田庄あたりを中心とし ていた土豪と推測される。野洲郡と栗太郡は、野洲川を境に隣接しており、野洲郡の富田氏との関わりは不明 な が ら、 富 田 姓 は 栗 太 郡 に も 分 布 し て お り、 「 富 田 民 部 之 進 」 も こ れ ら の 富 田 姓 の ひ と り で あ っ た ろ う と 思 わ れる。 16   関信子「 〝迎講阿弥陀像〞考三―米山寺と誕生寺の迎講阿弥陀像」 『仏教芸術』二二四号、一九九六年 謝辞   調査および掲載にあたっては、阿弥陀寺代表役員奥村泰祥氏、栗東歴史民俗博物館にご高配を賜った。調査およ び写真撮影には佐々木進氏(元栗東歴史民俗博物館長)の、史料翻刻には溝口純一氏(栗東歴史民俗博物館資料調 査員(当時) )の協力を得た。また調査の一部は栗東歴史民俗博物館の平成 十九 年度博物館実習において行った。   ここに記して御礼申し上げます。

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資料翻刻(抄) ・ 勧進に関わる資料は膨大な量に及ぶため、ここでは 抄出する。 ・ 栗東町史編さん室による調査番号を付す。栗東町史 編さん室の成果は、現在は栗東歴史民俗博物館に保 管される。 ・ 翻刻にあたっては溝口純一の協力を得た。 ・ 適宜読点を付し、正字や異体字を現行の字体に改め る。 ①「二十五菩薩新規造営勧化帳」 (№ 01-01 1-003 ) (表紙) 「嘉永元四月   二十五菩薩   新規造営    勧化帳        蔵町         四郎右衛門        世話方      」 一 金勝山阿弥陀寺ニ昔より迎接会営たくおもへども終 にはたさす、ことし開祖法印四百回御遠忌ニ当り信 心之善男子等ありて新に二十五菩薩ヲ造立し、踟供 養之志あれども自力ニ及かたし、尤菩薩之御名を唱 ヘシさへ滅罪なり、 呪 (ママ) 哉、建立之者莫太之功徳なら ん哉、依之十方之御方志之多少ニよらす、浄財之寄 捨を乞得て施主之願望円満致し度存候以上、 一 金 百 疋 以 上 之 御 寄 進 御 方 者、 志 之 戒 名 施 主 之 名 前 印、例年七月十五日大餓鬼砌御回向有之候、         発起人   蔵町        四郎右衛門         治左衛門   徳兵衛   喜右衛門         七右衛門   甚五郎   久治郎         喜助    奥右衛門   市右衛門         甚兵衛   丑右衛門   久兵衛         茂兵衛 一弐拾文     由右衛門 一百文      源蔵 一弐拾四文    藤右衛門 一三拾弐文    長右衛門 一弐拾四文    善右衛門 一弐拾文     文蔵 一三十弐文    磯右衛門 一弐拾文     喜衛門 一弐拾四文    又右衛門 一拾弐文     忠七   十二文     清蔵   弐拾四文    世左衛門   百文      与次衛門   拾弐文     文右衛門   百文      新六   百文      藤蔵 鳥目弐百銅    九右衛門   〆八百四十弐文    世話方         九右衛門        井之上         永福寺         旦中    ※ 表題及び趣旨文は同様で、世話人及び勧進先の異な る冊子が他に二冊現存する。   № 01 -011 -004 ( 末 尾 に 世 話 方 平 左 衛 門、 山 入 村 浄 福 寺旦中とある)   № 01 -011 -007 (世話方荒張村三浦八郎右衛門) ②「二十五菩薩寄進付覚帳」   (№ 01-01 1-006 )二冊 その一 (表紙) 「嘉永二年    四郎右衛門      二十五菩薩寄進付覚帳      酉   正月吉日        」    蔵町村 一金壱両        三浦丑右衛門 一金壱両        伊地知三郎右衛門 一金壱両        奥村市右衛門 一金弐歩        青木市兵衛 一金壱歩        宮地九右衛門 一金壱歩        同   源七 一金壱歩        留田留右衛門

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一弐拾四文    善右衛門 一弐拾文     文蔵 一三十弐文    磯右衛門 一弐拾文     喜衛門 一弐拾四文    又右衛門 一拾弐文     忠七   十二文     清蔵   弐拾四文    世左衛門   百文      与次衛門   拾弐文     文右衛門   百文      新六   百文      藤蔵 鳥目弐百銅    九右衛門   〆八百四十弐文    世話方         九右衛門        井之上         永福寺         旦中    ※ 表題及び趣旨文は同様で、世話人及び勧進先の異な る冊子が他に二冊現存する。   № 01 -011 -004 ( 末 尾 に 世 話 方 平 左 衛 門、 山 入 村 浄 福 寺旦中とある)   № 01 -011 -007 (世話方荒張村三浦八郎右衛門) ②「二十五菩薩寄進付覚帳」   (№ 01-01 1-006 )二冊 その一 (表紙) 「嘉永二年    四郎右衛門      二十五菩薩寄進付覚帳      酉   正月吉日        」    蔵町村 一金壱両        三浦丑右衛門 一金壱両        伊地知三郎右衛門 一金壱両        奥村市右衛門 一金弐歩        青木市兵衛 一金壱歩        宮地九右衛門 一金壱歩        同   源七 一金壱歩        留田留右衛門

図 10  袈裟

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