創造社同人と中華学芸社との関係をめぐって
著者
曽 小蘭
雑誌名
国際文化研究(オンライン版)
巻
26
ページ
1-15
発行年
2020-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127384
はじめに 1896年の派遣開始から1937年までに来日した中国人留学生は、日本において新しい知識と思想 を学ぶと同時に様々な団体を組織し、数多くその活動を展開した1。そして中国人留学生は、科 学や文化の面で、中国近代化へ大きな貢献を与えたことは言うまでもない2。1921年 6 月上旬に、 在日中国人留学生の郭沫若、成仿吾、郁達夫、張資平、田漢、鄭伯奇らにより、創設された文学 団体―創造社も、日本で創設された団体の一つである。 創造社は、当初個性の解放などロマン主義を旗印にしていたが、1927年末に一転に左傾化し て革命文学を提唱し、魯迅らと革命文学論争を展開した中国近代文学上屈指の文学団体である。 1929年に国民党によって解散させられたが、同人はその後も活動を続け、中国左翼作家連盟の中 核として活躍した。このように創造社は、発足時と解散時では文学傾向が極端に変化している。 そのため、時々刻々と変化を続ける創造社は、その文学的特徴から三期に分けて考察することで 彼らの文学活動の動態を把握すべきと考えられている。 そして創造社の結成より数年早く、同じ東京で発足した団体に中華学芸社がある。中華学芸社 は最盛期には会員数は一千人を越え、在外の中国学術団体として米国発足の「中国科学社」に匹 敵する規模を誇ったほか、後には活動拠点を上海に移し、戦前の中国学術界を先導する役割を果 たした。機関誌『学芸』の掲載内容から見れば、主として自然科学に関する翻訳で構成されたほ か、その他にも、政治、経済、教育、文学という方面にわたって新知識を広めた。そのため該誌
創造社同人と中華学芸社との関係をめぐって
曽 小 蘭
要 旨 本稿では、文学団体創造社と学術団体中華学芸社との関係を考察した。先行研究で未詳で あった学芸社に参画した創造社同人数は、筆者発見の原資料により合計15名と判明したほか、 同人も「登録社員」「未登録社員」に類別されること。そして非社員同人の参画も確認され、 両団体の接点には多様のカテゴリーが設定されていた。また両団体は後に袂を分けた原因が 不明であった。しかし同人の回顧録に詳細が記載されていたことを筆者が発見した。それに よると①同人を利用し学芸社が集客を図っていたこと、②資金調達を目論む学芸社の姿勢に 嫌悪し、退会に至ったとあり、今後の初期創造社の基礎研究に有益な新見を複数見いだすこ とができた。 【キーワード:創造社同人 / 中華学芸社 / 郭沫若 / 回顧録 / 退会】は当時の中国社会に大きな影響を与えたことは言うまでもない3。 在日中国人留学生が創設した二つの団体―創造社と中華学芸社は、文学団体と学術団体であ り、性質が異なるが、ある一定数の人的交流があった。先行研究で小谷一郎は、創造社同人の文 学活動を検討するために、中華学芸社に加入した張資平、郭沫若、陶晶孫、成仿吾、郁達夫、滕固、 鄭伯奇、方光燾という創造社の第一期の同人を考察している4。しかし小谷(2013)では、創造 社同人たちが中華学芸社に加入した後、どのような役割を果たしたのかについて十分に検討され ていなかった。また今迄の学界では、郭沫若の入会のみが取り上げられ、他の中華学芸社に加入 した創造社同人について注目されることはなかった。例えば、咸立強は『創造社研究』において も、郭沫若が加入以前に中華学芸社からの誘いを拒否したことを触れたに過ぎない5としている ほか、鄧牛頓も「郭老と中華学芸社」で、郭沫若が中華学芸社に在籍した期間に、参加した活動 の一部を簡単に紹介したものの、それに関する詳細な研究は行われていない6。 そのため本稿では、研究対象として中華学芸社(「学芸社」と省略。以下同じ)に加入した創 造社同人(「同人」と省略。以下同じ)を取り上げ、学芸社の機関誌―『学芸』 ( 1 - 9 巻)7、『中 華学芸社社員録第一期』(1923年版)、『中華学芸社社員録』(1935年版)8などを用いて、不明であっ た学芸社に加入した同人の人数や内訳、加入時期の動向について分析する。そして、同人が参加 した活動を考察して、学芸社が彼らをどのように認識していたのかを明らかにし、彼らと学芸社 との関係は一体どのようなものであったかを考察したい。 一 学芸社に加入した創造社同人について 本節では、本論に入る前に先行研究の内容を確認したい。学芸社が加入した創造社同人の人数 について小谷(2013)は、以下のように述べている。 この丙辰学社と創造社との関係で第一に挙げなければいけない人は張資平である。この人 は郭沫若の丙辰学社加入にも直接的な関わりがある。一七年五月発行の『学芸』第二号「丙 辰学社職員録」には張資平、陶晶孫の名を見ることができる。いまこれを『外事警察報』第 二五号に掲載されている「中華学芸社」の記録で補うならば、張資平は丙辰学社一一八番目、 陶晶孫は一二三番目の丙辰学社の社員である。次いで早いのが成仿吾で、成仿吾は一四三番 目の社員、郭沫若は二四九番目の社員である。郭沫若は一九二一年四月ごろに入社したもの と思われる。 以上は創造社成立前に丙辰学社に加入した人々であるが、この四人以外にも創造社以降に 郁達夫、滕固、鄭伯奇、方光燾もまた丙辰学社に参加している9。 小谷の指摘を要約すると、張資平、陶晶孫、成仿吾、郭沫若、郁達夫、滕固、鄭伯奇、方光燾 の 8 名が学芸社の社員となったと言及されている。しかしながら、小谷の典拠とした『外事警察 報』第二十五号は、学芸社の資料を基に作成された二次資料に過ぎない。そのため筆者は、『中
華学芸社社員録第一期』(1923年版)及び『中華学芸社社員録』(1935年版)(図 1 と 2 参照)という 原資料を逐一参照することで、学芸社に参加した同人に関する情報をより正確に把握することが できると考えている。 まず、図 1 にある『中華学芸社社員録第一期』であるが、1923年 6 月に、学芸社の出版部が編 集した社内社員録である。それを見ると、張資平は118番目、陶晶孫は123番目、成仿吾は143番目、 郭沫若は249番目、滕固は350番目、鄭伯奇は377番目、郁達夫は493番目、方光燾は562番目の丙 辰学社の社員であることが明記され、そして、この 8 名は1923年 6 月まで加入していたことが確 認できた10。 その上で、図 2『中華学芸社社員録』(1935年版)を見ると、学芸社に加入した同人は、「登録社 員」と「未登録社員」11とに分けられていることがわかる。「登録社員」は155番目の張資平、17 番目の陶晶孫、224番目の郭沫若、168番目の鄭伯奇、685番目の何畏、332番目の滕固、306番目 の沈起予の合計 7 名が確認される一方で、「未登録社員」は、方光燾、成仿吾、郁達夫、穆木天、 李初梨、王学文の合計 6 名の名前が記載されている。両資料には社員それぞれに「番目」が記載 されているが、両者のそれは一致しない。これについて再度『中華学芸社社員録』を見ると、「番 目」は加入順を示すものではなく、単に登録の順と名字の画数順によることが判る12。また、登 録の有無を問わなければ、上述の 8 名以外、何畏、沈起予、穆木天、李初梨、王学文という 5 名 が学芸社に加入したことを発見できた。さらに、『学芸』( 1 - 9 巻)に添付される「新入社員表」 を確認すると、更に段可情も入会した同人であり、各社員の加入時期も明らかになった。以上か ら、同人の出身校や専攻などの留学状況も踏まえて、一覧にすると下掲の表 1 と表 2 の通りにな 図 1 :『中華学芸社社員録第一期』 図 2 :『中華学芸社社員録』 (表 1 :創造社成立以前に中華学芸社へ加入した創造社同人) 時期 番目 氏名 学科 入学校 入学年度、配当校 1917/9 118 張資平 地質 東京帝国大学 1914 一高特設予科13 1917/9 123 陶晶孫 医学 九州帝国大学 1918/5 143 成仿吾 造兵 東京帝国大学 1913 一高特設予科 1921/7 249 郭沫若 医学 九州帝国大学 1914 一高特設予科
ろう。 表 1 から判るように、学芸社に加入した 4 名はいずれも「大高同学4 4 4 4の系統」の学生である。「大 高同学」は旧制高校、帝国大学の同窓者を意味する。1908年には、中国と日本との間で、東京の 第一高等学校・東京高等師範学校・高等工業学校、千葉医学専門学校、山口高等商業学校(現在 の東京大学・筑波大学・東京工業大学・千葉大学医学部・山口大学)という五校が中国人官費留 学生を受け入れるという協定を締結した。特に、第一高等学校特設予科に入学した者は、その後 旧制高校に分配され、卒業後に東京帝国大学へ進学できた14。郭沫若もその一例である15。創造 社成立後に学芸社に加入した同人については以下の通りである。 このように創造社成立後に学芸社へ加入した11名のうち10名は、同じ「大高同学」の学生であ る。 一方で、学芸社はどうであったのか。学芸社の設立発起人47名について確認したところ、32名 が創造社と同じ「大高同学」であった18。大高同学という同窓を口実に、同人が学芸社に入会し たとは俄には判断できないものの、両者の間にある大高同学の存在は創造社と学芸社との関係を 親密化する一つの要素であった可能性は否定できない。 二 参加した活動の状況をめぐって 丙辰学社社章によれば学芸社の活動は、内容的に主に五つに分かれるとある。第一には、年次 総会を開催し講演講座を介して、科学的な知識と新文化を広めること。第二には、機関誌『学 芸』・『学芸叢書』・『文芸叢書』を介して「人文科学」と「自然科学」の学術研究を行うこと。第 三には、中国における優秀な文化と世界各国における進歩的な科学と文化を宣伝するために著書 を刊行すること。第四には、(中華)学芸大学と図書館を創立すること。そして第五には、様々 (表 2 :創造社成立後に中華学芸社へ加入した創造社同人) 時期16 番目 氏名 学科 入学校 入学年度、配当校 1922 350 滕固 文科17 東洋大学 1922 377 鄭伯奇 心理 京都帝国大学 1918一高特設予科 1923/4 493 郁達夫 経済 東京帝国大学 1914一高特設予科 1923/7 562 方光燾 文科 東京高等師範学校 1923/12 796 段可情 文科 日本大学 何畏 社会 東京帝国大学 1924/5 913 穆木天 文学 東京帝国大学 1919一高特設予科 1924/5 986 王学文 経済 京都帝国大学 1924/5 991 漆樹芬 経済 京都帝国大学 1925/1 1148 李初梨 文学 京都帝国大学 1920一高特設予科 1925/8 1183 沈起予 哲学 東京帝国大学
な公益活動を介して、積極的に科学の普及活動を取り組むことである19。このように学芸社は純 然たる学術団体としての性格を持ち、その分野は自然科学のほか人文科学も包括すると社章でも 明記され、事実、創造社同人の多くは学芸社の活動にも参画したのも前述の通りである。それが なぜ後に相互が離反することになったのであろうか。 本章では、かかる問題を解明するため創造社の成立前と成立後の時期に分け、各時期における 同人が参加した学芸社の活動内容に注目し、学芸社は同人をどのように認識していたのかを検討 したい。 2.1 創造社成立前の状況をめぐって 『学芸』( 1 巻 1 号~ 3 巻 2 号)20を用いて、学芸社内での活動内容が把握できる張資平・陶晶 孫・成仿吾・郭沫若の 4 名がどのような活動を参画していたのかについて、内容別に整理すると、 以下の通りとなる。 ①張資平 (a)会務:遅くとも1920年、東京支部幹事21。 (b)『学芸』に掲載された作品: 6 編(「人文科学」+「自然科学」) 「人文科学」: 2 編 「約檀河之水」(第 2 巻 8 号);「通訊」(張資平致心南)(第 2 巻10号)。 「自然科学」: 4 編 「結晶符号与几何方程式之关系」(第 2 巻 8 号);「所争者鉱也」(第 2 巻 9 号); 「火山形態之分類」(第 2 巻10号);「石油問題」(第 2 巻10号)。 ②陶晶孫・成仿吾 (a)会務担当なし。(b)掲載作品なし。 ③郭沫若 (a)会務担当なし。(b)「人文科学」: 4 編 「湘累」(劇曲) (第 2 巻10号);「我国思想上的 澎湃城」(第 3 巻 1 号);「芸術之象征」(第 3 巻 1 号);「蘇武与李陵(史的悲劇)」(第 3 巻 2 号)。 張資平は小説「約檀河之水」の発表を契機に、当時の文壇で知られるようになったが、その一 方で、彼は自らの専攻である地質に関する翻訳も多数連載し、幹事の一員としても学芸社でも活 躍している。 また、郭沫若は『学芸』誌上で四編を発表したが、学芸社社員の曽琦と白鵬飛からの入会勧誘 を受け、「湘累」と「我国思想上的澎湃城」の二編を『学芸』へ投稿した22。この経緯を見ても、 郭沫若は学芸社から高い評価されたことが理解できる。 2.2 創造社成立後の状況をめぐって 創造社成立後の張資平、陶晶孫、成仿吾、郭沫若による学芸社における活躍はどうか。まずそ れを具体的に紹介したい。 ①張資平 (a)会務担当なし。 (b)『学芸』に掲載された作品:13編(「人文科学」+「自然科学」)。
「人文科学」: 2 編「以思潮為中心之英文学史」(訳)(第 9 巻 1 号);「三七晩上」(小説) (第 6 巻 9 号)。 「自然科学」:11編「地球之年齢」(第 3 巻 3 号);「地層剖面図之傾斜角度及層厚之計算」(第 3 巻 5 号);「鉄微生菌」(第 3 巻 7 号);「鉱床之五帯」(第 3 巻 7 号);「球面投影図法」(第 3 巻 8 号);「岩漿 之分体」(訳)(第 4 巻 1 号);「地質学者達尔文」(第 5 巻 6 号);「威格那氏之地殻移動説」(講演)(第 6 巻 9 号);「生物地理」(合訳)―張資平・黄嘉今(第 9 巻 1 号);「生物地理」(合訳)―張資平・黄嘉今 (第 9 巻 2 号);「生物地理」(三続) (合訳)―張資平・黄嘉今(第 9 巻 3 号)。 (c)『中華学芸社論文集』の『学芸叢書』と『文芸叢書』に掲載された著書: 4 本 『学芸叢書』:『普 通地質学』(1927年)、『社会学綱要』(1930年); 『文芸叢書』:『不平衡的偶力』(1926年)、『雪的除夕』 (1928年)。 ②郭沫若 (a)会務:1923年 5 月『学芸叢書』編集委員23。1924年 2 月~1925年 1 月『学芸』編集 幹事24。 1924年 3 月年次総会参加「文芸―社会の使命」講演。(中華)学芸大学、図書館の創立に参画。 (b)『中華学芸社論文集』の『学芸叢書』と『文芸叢書』に掲載された著書: 1 本 『文芸叢書』:『塔』 (1926年)。 (c)『学芸』に掲載された作品:「人文科学」: 8 編「洪水時代」(第 3 巻 8 号);「月光」(第 4 巻 4 号); 「社会革命与政治革命」(第 6 巻 4 号);「社会革命与社会政策」(第 6 巻 6 号);「Löbenicht 的塔」(第 6 巻 5 号);「万引」(第 6 巻 7 号);「文学的本質」、「湖心亭」(第 7 巻 1 号)。 ③成仿吾 (a)会務:1923年 5 月 1 日『学芸叢書』編集委員25。1924年 2 月~1925年 1 月『学芸』 編集幹事26。(b)(c)掲載作品なし。 一読して明らかになるように、張資平・郭沫若と学芸社は、会運営の実務や寄稿投稿を介して 密接な関係を築くようになっている。張資平は創造社成立以後、創作作品と専門書翻訳の寄稿数 は大きく増加している。また郭沫若も会務はもちろんのこと、寄稿投稿を併せて幅広い活躍を見 せている。さらに、成仿吾は郭沫若と共に『学芸叢書』の編集委員に任命されている。このよう に、彼らは学芸社の重責を委任される事実からも学芸社との関係が更に親密になった裏付けと見 ることができる。 それでは創造社成立後に、新たに学芸社へ入会した11名はどうか。例えば、滕固は『学芸』の 第 4 巻第10号に「芸術学上所見的文化之起源」が掲載され、鄭伯奇は『学芸』の第 3 巻第 5 号に 「森林之冬」(訳)が掲載されている。しかし、他の同人達については会務のほか、『学芸』に掲載 された作品、参加した活動は確認できず、創造社成立以前に学芸社に加入した同人の活躍に比べ て大きく見劣りすることが理解できる。 1917年から1925年かけて多数の同人が学芸社へ加入した理由については、関連する資料が乏し く具体的経緯は詳らかではない。しかし、少なくとも張資平や郭沫若等に関する一部の記録では、 学芸社社員による勧誘が確認される。この記録からも学芸社は当時の在日中国人留学生の中でも 創造社の同人に白羽の矢を立てる一方、同人側も文学作品の発表の場を確保するために学芸社の
機関誌『学芸』の存在を無視できなかった。この同人と学芸社双方の思惑が一致したために、特 に初期の『学芸』では、同人の文筆作品を数多く掲載していたことが推測できよう。 2.3 中華学芸社未加入の創造社同人の状況をめぐって これまで、学芸社に加入した同人をめぐって考察したが、本節では学芸社未加入の同人を取り 上げ、彼らと学芸社との関係について考察したい。 『学芸』の掲載状況と同人の状況を対照すると学芸社の社員に未加入であるにもかかわらず、 『学芸』に作品が掲載される同人として、王独清と洪為法という 2 名が確認できた。彼らの掲載 状況は以下の通りである。 ①王独清 『学芸』に掲載された作品: 8 編 「吊希腊歌」(訳) (第 4 巻 1 号);「詩人魏莱奈之二大名 作」(訳) (第 4 巻 2 号);「葉落」(訳)(第 4 巻 3 号);「未来之芸術家」(第 4 巻 4 号);「詩人孟德斯鳩 底周年祭」(第 4 巻10号);「雲雀歌」(訳) (第 5 巻 1 号);「雑訳詩篇」(訳) (第 5 巻 3 号);「雑訳詩篇 (続)」(訳) (第 5 巻 5 号)。 ②洪為法 『学芸』に掲載された作品: 1 編「陳大的生涯」(小説) (第 6 巻 8 号)。 王独清は1898年陝西省生まれの詩人で、1920年ヨーロッパへ留学し詩歌の創作活動を行った人 物である27。そのため、彼は専らヨーロッパの詩歌の翻訳を寄稿している。一方の洪為法は1900 年江蘇省生まれの小説家で、自作の小説を『学芸』に投稿している。特に、王独清は自ら「『学 芸』雑誌(中国の出版物)を愛惜している」28と述べている通り、編集部へ詩の翻訳に関する助言 を幾つか送っている。そして出版部は王独清の意見を無視せず、王独清が翻訳した詩と彼の所見 を『学芸』に併載している。 このように同人は、学芸社機関誌への投稿する非会員の同人も確認され、両団体の接点は多様 の受け皿が設定されていたことが明らかになった。 三 掲載した作品の状況をめぐって 本節では、のちに自然科学分野に傾倒してゆく『学芸』の動向を踏まえつつ、同人による『学 芸』掲載の傾向動向について考察したい。 先行研究で範岱年29は、学芸社の活動期間の画期について編集長の在任期間を基準に五期に分 けている。第一期は呉永権・文元模の在任期間(1916年12月~1922年 5 月)、第二期は、鄭貞文・ 周昌寿・範寿康の在任期間(1922年 6 月~1926年秋)。そして、第三期は王兆栄の在任期間(1927 年~1931年末)である30。なお範岱年が指摘した第四期と第五期は、創造社との関係がないので、 ここでは説明を割愛する。 ここでは範岱年の指摘に準じ同人の投稿状況と『学芸』誌上における掲載時期の関係を示す と、下の表 3 のようになる。すなわち、
の通りである。投稿内容を分類すると、張資平以外の同人は専ら文学的内容の投稿に集中してい ることが、まず理解できよう。 例えば、『学芸』の第一期では、政治、科学、文学等の多彩な方面の作品や記事を掲載し、当 時の中国人に様々な知識と新情勢を伝えていた。その中で、同人は『学芸』の当該期に文学方面 へ 8 編、自然科学へ 8 編を寄稿している。なお張資平が『学芸』に投稿した 8 編はすべて彼の専 攻である地質学である。 第二期になると、寄稿は合計18編と格段に増加する一方、自然科学の寄稿が減少し、 2 編のみ にとどまっている。また、第二時期の『学芸』では、マルクス主義と社会主義に関する学説の紹 介が始まり、河上肇の著書が郭心崧、薩孟武、李春涛、郭沫若等によって盛んに翻訳されるよう になった31。 そして第三期になると、『学芸』は全般的に自然科学分野の内容が多くなり32、他方同人もプロ レタリア文学の宣伝に比重が置かれるようになり33、両者の求める方向性は大きく徐々に乖離し たのである。 これらの概況を要約すれば、プロレタリア文学への傾倒が図られた同人と、自然科学へと舵を 切った学芸社の、それぞれ方向性が大きく異なった結果であることが明白であろう。次の章では、 創造社と学芸社の間にいかなる関係にあったのかについて考察したい。 四 郭沫若と学芸社との関係について 学芸社に加入或いは『学芸』に投稿した同人の記録を見ると、学芸社についての言及が少なく、 同人側と学芸社側との間で、どのような問題が生じていたのか明らかにならなかった。このよう な資料的制約の中ではあるが、郭沫若については学芸社との関係を時系列に沿って詳細な記述を 残している事を筆者は発見している。そこで本節では、郭沫若を中心とした同人と学芸社との関 係について考察したい。 4.1 学芸社加入前の郭沫若について 筆者は郭沫若の回想記『創造十年』(1932年)と『続・創造十年』(1938年)に記されている複数 (表 3 ) 第一期 1916/12~1922/5 第二期 1922/6~1926秋 第三期 1927~1931末 張資平 文学 2 編、自然 8 編 文学 1 編、自然 2 編 文学 1 編、自然 3 編 郭沫若 文学 5 編 文学 7 編 滕固 文学 1 編 鄭伯奇 文学 1 編 王独清 文学 8 編 洪為法 文学 1 編
箇所に、郭沫若が『学芸』に対して様々な見解を述べている記述を発見した。そしてこれらの記 述の中で郭沫若による学芸社に対する認識が大きく変化している事が見つけることができ、非常 に興味深い。 例えば、回想記の中で最初に学芸社について言及が行われたのは1918年初夏である。そこでは、 郭沫若は同人の張資平との会話の中で、『学芸』に対してこのように発言している。 科學雜誌我是主張愈専門愈好的,科學雜誌應該専門發表新的研究論文……像『學藝』裏面 所收的科學論文全問翻譯講義的抄本,我最不賛成。 (科学雑誌は、ぼくの主張では専門的であればあるほどいいんだ。科学雑誌は新しい研究 論文を専門に発表すべきなのだ。……『学芸』に載せている科学論文みたいに、講義のノー トの翻訳ばかりしているのは、ぼくは大反対だな34。) このコメントを見ると、郭沫若は『学芸』を「講義ノートの翻訳」と揶揄し、その内容に大き く不満を持っていることが判る。そのため、彼は張資平から丙辰学社加入を誘われた時にも、躊 躇している様子が郭沫若自身の回想から確認できる。 当時我們的發表欲都很強,也寫了寫文章。但無刊物可以表。我發那時候已經進了丙辰學社 (即中華學藝前身),因勸郭也加進去,有文章可在《學藝季刊》發表。但郭不愿即時加入。 (当時(筆者注:1918年)、私たちは発表する欲望が強く、作品も数多く書いた。ただ、ど こにも掲載してくれる刊行物はなかった。その頃の私は既に丙辰学社に加入していたので、 郭に参加を勧めた、『学芸季刊』に投稿できる作品はあったが。郭は即時の加入を望まなかっ た35。) しかし上掲の 3 年後にあたる1921年 1 月24日に、郭沫若が張資平に送付した書簡を見ると、彼 は一転して学芸社への態度を変えていることが看取できる。 図 3 :『創造十年』(1932年) 図 4 :『続・創造十年』(1938年)
丙辰學社我本早想入社,前五年(下線筆者)呉永權和陳啓修两君介紹我,已經把介紹状都 寄給了我,我還使用了你們一大卷原稿紙;我因爲想做一篇文章,做成了後和我一斉入社,然 而至今猶未做成;所以把入社的機會失掉了。後來曾慕韓君又介紹我入社,我因爲有前一次的 蹬蹭,所以又推却了。我想做的文章是《我國思想史上之澎湃城》,是我対秦火以前我國傳統 古代思想之一種發生史的觀察。 (丙辰学社って、この団体はとっくに加入したいね。 5 年前に呉永権と陳啓修は私を紹介 した時、紹介状も送って、私はあなたたちの原稿用紙も沢山使った。私は文章一編を作りた い、作った後、この文章と一緒に入会したいけど、今迄書き終わらない。そして、この入会 の機会を失った。その後、曽慕韓君はまた私を紹介しても、前回の引き延ばすことのせいで、 もう一回拒否した。私は作りたい文章は「我国の思想上的澎湃城」だ、それは秦国前にわが 国の伝統的な思想の発生史の観察だ36。) 郭沫若の書簡を見ると、彼は学芸社に関心を示しているのが判る。書簡下線部にある「 5 年前」 は1916年、つまり丙辰学社が創立した年を意味する。その時、丙辰学社の発起人の一人・陳啓修 や、張資平と曽慕韓から加入を斡旋されたとも書かれている。 しかしながら、結局郭沫若が5年後になって漸く入会していたことを見ると、彼は学芸社に対 して入会に踏み切れない要素が介在したのではないかと推察される。彼はなぜ逡巡の末に学芸社 に加入したのかについて、先行研究で咸立強は「郭沫若は文章の重さを通して、入会した後の地 位を高めると考えている。そうなければ、これは単なる一つの口実である37。」と主張しているが、 俄かには首肯できない。この理由は二つある。第一には、郭沫若が張資平への書簡の中で入会に 意欲を見せている所から、単なる「口実」ではないと推論できること。第二には、咸立強の「口 実」という考えには根拠が見出せず憶測の域を出ない点である。 ここで、郭沫若が長い期間を経て入会した理由について考えてみたい。郭沫若は文学同人雑誌 を創刊する以前に、文学活動の発表の機会の場として学芸社に白羽の矢を立てたのではないかと 思われる。そのように彼が思い至った経緯は以下の通りである。 例えば、郭沫若が1921年1月24日付けの張資平に送った書簡の追伸に、 我便逗成了一篇短短的劇曲;現在想起來,覺得太爲苟且了。我到懺悔得很呢!但是果其是 替我發表了,發表了之後還不至大受人痛罵時,那我要感謝白鵬飛兄了,因爲是他寫了張郵片 來叫我做点東西。 (私は短い演劇一編(筆者注:「湘累」)を遊ぶように作った。今、思い出して、いい加減 過ぎるなあ。とても後悔しているよ!しかし、もし本当に私を助けて発表したら、それに、 発表した後、ひどく罵られないなら、私は必ず白鵬飛お兄さんを感謝するよ38。) と、彼は白鵬飛の紹介をきっかけにして「湘累」を書いている。そして、郭沫若は田漢(寿君)
への手紙を通して「僕も冬休み中にごく短い劇曲を二編書いた。一編は『湘累』で、屈原姉弟を 劇曲化したものだ、まもなく『学芸』雑誌で披露することになるだろう39。」と伝えているのであ る。 この時期の郭沫若と周辺の友人との書簡から見ると、郭の強い創作意欲をうかがえる。よって、 1921年に至って初めて学芸社に入会する意欲も高くなったと考えられる。 このように郭沫若は、元来学芸社に入会することに対して関心がなかったが、自らの創作作品 を掲載する一手段のために、1921年になってようやく入会したのではなかろうか。 4.2 学芸社加入後の郭沫若について 本節では、郭沫若の入会後の動向について検証を試みたい。 まず、学芸社の年次総会参加時の郭沫若の心境を、彼の回想録を手掛かりにたどってみたい。 1924年3月杭州市で開催された学芸社の初年度の年次総会に、郭沫若は参加した。郭沫若は年次 総会の講演者の一人であった。しかし、一日目の講演は「聞きに来た人が異常に閑散としていた ことだった。一時が過ぎても、ちらほらと数人が来ただけで、来た人も後に続くものがいないの を見ると、いくらも座らないでまたぞろぞろと出て行ってしまった」40のような状態であった。そ の時に学芸社社員・允蔵は郭沫若に「君(筆者注:郭沫若)が出馬してくれれば、きっと(筆者 注:観衆が)来るよ」、「君(筆者注:郭沫若)が文学の話をしてくれれば、きっと観衆は来る よ」41と話していた。つまり郭は自らの名望を学芸社に利用されていたのである。この経験は郭沫 若にとって、人生二度と思い出したくない失敗であったと彼は後に回想している。 次に、(中華)学芸大学設立について考察したい。『続・創造十年』の第三章には、貧窮生活 に陥っていた郭沫若は友人のために武昌師範大学の招聘を断り、学芸大学創立の準備42を行い、 1924年 1 月20日、郭沫若は第二回総事務所幹事会議で、学芸大学創立のために200元の寄付を表 明した。しかし『続・創造十年』の第五、六章にある学芸大学の募金、教育方針と学芸大学の教 員の記事を見ると、郭沫若は学芸大学関係者を叱責していたことが確認された。その批判の内容 は以下の通りである。 殷汝耕等が学芸大学の創立に向けた募金を行っていた。しかし、郭沫若は学芸社の幹事が学芸 大学創立を名目に金銭を搾取しているのではないか、という疑念を抱いていたのである43。 ここで、郭沫若は学芸大学の教育方針に着目している。彼はこの学芸大学の旧態依然とした教 育方針を認めなかった。彼の批判内容を『続・創造社十年』から引用すると以下の通りである。 「方針是怎樣的呢?前面已經説過,是「抗流而起」,而且是有點到了驚人的程度的。在招生 廣告上已經就書明白了,不收女生,入學後不准參加政治運動,資格的限制毫不苟且(下線筆 者)。 (方針はどんなものだったろう?すでに前に述べたように、「流れに抗して立つ」というもの で、しかもその抗しかたたるや驚くべき程度にまで達していた。募集広告にすでに、女子学
生をとらないこと、入学後は政治運動に参加することを許さないこと、資格の制限はいささ かもゆるがせにしないこと、が明記してあった44。) この方針を見ると、学芸大学の方針は当時民国の現状を全く無視したものであり、学芸大学が 創立できる可能性は低いと郭沫若は直感したのであろう。このように、郭沫若は学芸社の方針と 一致しなかったが、彼はその時には黙認せざるを得なかった。しかし、いざ学生募集を行うと郭 沫若の危惧した通り、わずか学生30名が入学したに過ぎなかった。その現状を目の当りにして、 郭沫若は「多分、先生のせいで、この30人は三つのグループを分けた。一つは国家主義者で、聖 人曽琦を崇拝しなかった。一つは非国家主義者で、聖人曽琦を崇拝していた。ほかの人々はどう でもいい派といえる。先生たちも賭博という活動をしていたのである」45と批判した。引用文は あくまで後年の回観文であり、当時の郭沫若の心情が正確に反映された同時代資料ではない。そ の点はまだ検討の余地がある。しかしながら、この資料を見る限りにおいては、学芸大学の創立 をめぐる一見を経った彼の学芸社に対する印象は、少なくとも肯定から否定へと大きく評価が変 わったことが理解出来よう。 その後、『続・創造十年』の第 7 ~ 9 章によると、郭沫若は学芸社の林霊光との確執が表面化 し、一学期の授業が済むと学校長に辞任を提出した。その後林霊光は郭沫若に『創造週刊』への 作品発表を求めたが、郭沫若は彼の要求を拒否し、郭沫若は学芸社から脱会したのである46。 学芸社と袂を分けた同人は、その後も活動を続け、郁達夫が日本留学中の体験を綴った名作 『沈淪』を発表し、革命文学のブレーンとして活躍した成仿吾は帰国後に共産党に入党し党の指 導的役職を歴任、そして郭沫若は中国初の近代自由詩『女神』を発表したほか、戦後は中国科学 院の初代院長に就任し中国古代史研究においても多大な業績を残した。 他方、中華学芸社の創設者の傅式説も帰国後に汪兆銘の南京国民政府の要人として活躍したほ か、科学者の鄭貞文は、仙台の東北帝国大学で学んだのち厦門大学で教鞭を執り、中国教育界の 重鎮として活躍した。日中戦争を終了後、羅宗洛は台北帝国大学の接収を主導して台湾大学初代 校長代理になった47。 これら目覚ましい活躍を見せた知識人は、一見大きく異なる分野での業績である故に見逃しが ちであるが、青雲の志を抱いた日本留学時代には深い接点があり、将来の方針をめぐる様々な議 論が行われていた。両団体はいずれも現在解散してしまったが、近代中国の文学と学術を語る上 では今なお、重要な位置にあるものと思われるのである。 終わりに 本稿では、学芸社の活動に参画した同人に着目し、彼らと学芸社との関係を時系列に沿ってど のように変化したのかを考察した。 本稿では、学芸社に関する一次資料を発掘・活用し、先行研究で不明確であった同人と学芸社 との関係を明らかにした。具体的には筆者発見の原資料により合計15名にのぼる学芸社事が判明
したほか、それらの同人も「登録社員」「未登録社員」に類別されること。そして学芸社機関誌へ の投稿する非社員の同人も確認され、両団体の接点は多様のカテゴリーが設定されていたことが 明らかになり、『学芸』への作品掲載を介して学芸社への参加を勧誘していた事実が明らかになっ た。その一方で、同人側の目から見ると、学芸社に対する見解や評価が言及されていない。その ため先行研究では、創造社と学芸社の関係はいかなるものであったのか、そして双方の団体はな ぜ後に離反するようになったのか、具体的な経緯は明らかになっていなかった。 しかし、筆者は郭沫若の回顧録中の記述に学芸社の参加と脱会の経緯が詳細に書かれており、 同人と学芸社の運営方針が一致しなくなったこと、郭沫若が文学的名望を学芸社に利用されてい ると考えたこと、学芸社が中国の現状に一致しない大学設立構想を打ち出したという 3 点から、 大学設立早々に郭沫若は学芸大学を辞職し、学芸社を脱会していた事が明らかになったのであ る。 本稿では、発見資料の記述内容にそって同人が学芸社との関係を紹介したに過ぎず、考察でき なかった課題は数多く残っている。例えば学芸社側から見た創造社及び同人について―郭沫若 等の著名な文人以外の創造社同人についても、様々なカテゴリーを設定し多種多様な接点を欲し た意図が更に追究する必要があろう。また河上肇に対する認識は、郭沫若とほかの学芸社の社員 と比較して、どのような相違点があるかについて今後の課題として考察したい。 注 1 実藤恵秀『中国人日本留学史』(くろしお出版、1960)による。1896年旧暦 3 月の末、清国は留学生13名が日 本へ派遣した。その後、中国人留学生は次第に増加した。実藤によると、当時の留学生が新しい思想を受けつ つ翻訳活動や日本で雑誌を発行したとある。 2 同注 1 、331-404頁。 3 潘吉玲「中華学芸社とその機関誌『学芸』について」(孫安石・大里浩秋編『中国人留学生と「国家」・「愛国」・ 「近代」』、東方書店、2019) 190頁。 4 小谷一郎『創造社研究―創造社と日本』(汲古書院、2013) 7 -18頁。第一期創造社の同人たちは①創造社 の「主力」―郭沫若、郁達夫、成仿吾、張資平、田漢②「少年中国学会」会員田漢、鄭伯奇③方光燾、王独清 等④丙辰学社の人々という四つに分けている。 5 咸立強『創造社研究』(復旦大学博士学位論文、2005) 81頁。 6 鄧牛頓「郭老と中華学芸社」(『復旦学報(社会科学版)』、1979) 74-76頁。 7 『学芸』( 1 - 9 巻)は1917―1929年に出版されたものである。1929年に、創造社が解散されたので、1929年ま でに出版された『学芸』を手がかりにする。 8 『中華学芸社社員録第一期』(1923年版)と『中華学芸社社員録』(1935年版)はすべて学芸雑誌編集處が編集し たものである。ここでは、複写版を使用した。 9 同注 4 、17、18頁。 10 丙辰学社編『中華学芸社社員録第一期』(学芸雑誌編集處、1923)。ここの「番目」は成員たちが中華学芸社に 加入した時間の後先によって付与されたものである。 11 丙辰学社編『中華学芸社社員録』(学芸雑誌編集處、1935)に番目を付けている社員は「登録社員」と呼び、
番目を付けていない社員は「未登録社員」と呼ぶ。 12 丙辰学社編『中華学芸社社員録』(学芸雑誌編集處、1935) 1 頁。原文:「社員名次以登計先後之號数次序為 標準但後列索引則以筆画多寡為先後」。 13 ここで、第一高等学校特設予科は一高特設予科と省略する。以下同じ。 14 厳平「近代中国留学日本大学预科研究―以 ‘ 五校特约 ’ 为中心―」(『清史研究』、2012) 53-62頁。 15 郭沫若『創造社十年』(現代書局、1932) 27頁。原文:「1918年的夏天,我由日本的第六高等學校卒了業,昇 進了九州帝國大學,由岡山転到了福岡」。 16 「新入社員表」は不定期に『学芸』の末に掲載されたものである。表に、社員が入会する時期を明示してない ので、正確的な時期が判断できないのである。すると、ここでの「時期」は「新入社員表」を出版する時期を 手掛かりにする。しかし、入会から出版するまで、時間がかかるので、入会時期は少し前と考えられる。 17 滕固の学科は「哲学」、方光燾の学科は「英文科」であるが、段可情は未詳。「新入社員表」に、この三人の 学科は「文科」と記されている。 18 潘吉玲「中華学芸社の設立:革命から学術救国へ―中国の近代的学術団体草創の一断面―」(『アジア太平洋研 究科論集』、2014) 157頁。 19 「丙辰学社社章」(『学芸』1 巻― 2 巻所載)。原文:「第三章 社務 第十六條 發行雑誌 本社按期刊行雑誌以為 發表研究所得之機関 第十七條 舉行講演 本社按期由理事推荐社員或延聘名人講演學術及種種問題 第十八 條 刊布圖書 本社隨時蒐羅各種稿本無論著述編譯皆量力代行刊布 第十九條 搜集書物 本社盡力蒐求古今 東西各種圖書器物以供同人等閲覧参考之用 第二十條 本社編輯講演刊物閲覧各事宜之細則及其程序另以専則 訂定 第二十一條 本社除舉辦上列各事項外當隨時擴充事業以圖發達」。 20 創造社は1921年 6 月上旬に創設された団体である。『学芸』の第 3 巻第 2 号は1921年 6 月30日に刊行されたも のである。行論の都合で、『学芸』の第 3 巻第 2 号までの範囲で分析する。 21 『学芸』第 3 巻第 8 号(1922年)の「丙辰学社啓事」に「張資平幹事は住所を変更した」ある所から、彼はそ れ以前から幹事として務めていた可能性もある。 22 郭沫若「通訊 (郭沫若先生的来函・資平兄:)」(『学芸』(第 2 巻第10号)、1921年)。 23 1923年 5 月 1 日に刊行された『学芸』 (第 5 巻第 1 号) の末に『「学芸叢書」委員会簡章』を添付された。その 中に、郭沫若は委員25名の 1 名である。 24 『学芸』(第 5 巻第 9 号、第 6 巻第 1 ~ 6 号、第 8 巻 1 ~ 4 号)の末に添付された『社報』を参照する。 25 同注23。その中に、成仿吾は委員25名の 1 名である。 26 同注24。その中に、成仿吾の名前は郭沫若の後に書いている。 27 李建中「王独清生平考辩」(『新文学史料』、1994 ) 201-209頁。 28 王独清「通訊」『学芸』(第 4 巻第 5 号)。原文:「譯詩若是完全意譯,就更换原作底章法也未嘗不可,若是直譯, 我以為還是極力保存原作底章法以及句讀。我在外國,固然對於近来國内詩上底譯本見的很少,但据偶日所見之 一二来批評,都不能十分満意,像這首詩底譯法,那更未免太唐突作者及讀者了。我因愛惜学藝雑誌―中國底出 版物―,總給你写這樣的信,直率之處,還要望你原諒的」。 29 範岱年、1926年に生まれ、中国科学院科技政策と管理科学研究所研究員。科学哲学、アメリカ科学史を研究 する。 30 範岱年「一个曾致力于人文与科学交融的学术団体及其刊物中华学艺社和『学艺』杂志的兴衰」(『科学文化评 论』、2004) 68-77頁。 31 同注 4 、200頁。表 6 による。 32 同注30、77頁。原文:「這一時期,科学技術史所占比重較大」。さらに、『学芸』の 8 巻~11巻から見ると、マ ルクス主義に関する論説がなくなって、人文科学、社会科学等方面も激減した。 33 1926年末に李初梨、馮乃超、彭康、朱鏡我などの留学生は日本から帰国して、創造社に加入した。それにより、
創造社は「無産階級革命文学」に大きく左旋回して方向転換をして、1928年に『文化批判』の発刊から1929年 2 月に閉鎖されるまで、プロレタリア文学に関する論説を数多く発表した。 34 同注15、43頁。 35 張資平『張資平自伝』(江蘇文芸出版社、1998) 243、244頁。 36 同注22。 37 同注 5 、81頁。原文:「郭沫若自己想要以文章的分量提高入社后的地位,或者這又只是一个托詞而已」。 38 同注22。 39 同注15、99頁。原文:「我在年假中也做了两篇短短的劇曲。一篇是湘累,是把屈原姉弟優孟化了的,不久在學 芸雑誌上當得披露」。原書簡は『南國月刊』(二卷一期1930年 3 月20日)に掲載られた。 40 郭沫若『創造社十年續編』(北新書局、1938) 8 、 9 頁。原文:「来聴講的人異常的冷落。一點鐘過了,只稀疏 地有幾個人,来的人看見没有後継者,坐不一會絡續地退出去了」。 41 同注40、 9 、11頁。原文:「只要你肯出馬、一定會有人来」、「只要你肯講文學,一定有人来聴講」。 42 同注40、62、63頁。原文:「在前面説過,中華學芸社的人所打算組織的學芸大學,我是掛名的籌備委員之一, 而且被預約着充當将来的文學系的主任。委員雖僅是掛名,主任也僅是預約,然而,怎好見了實利便抛棄了朋友 們的厚誼而向高枝飛起呢?因此我又不得不把武大的聘書和旅費一同退回了去」。 43 同注40、112、113頁。原文:「起初是募款,仿照青年會拉會員的辦法,分成了十大隊……假使中華學芸社的人 是以美國留學生為主體,或者僅有法門去向洛克費勒(Rochefeller)摩爾剛(Morgan)輩的大財主們分些餘潤, 然而這入個學社的主體們卻都是留東学學生,而且専門以学學術為職志的」。 44 同注40、119頁。 45 同注40、126-134頁。原文:「那三十個的同學,也就和其他的三百人或三千人的學校情形一様,至少是分成了 三派的。一派是國家主義者,崇拜聖人曽琦……一派是非國家主義者,自然也就不崇拜聖人曽琦……另外還有一 派便是無所謂派了……這不完全是賭博嗎」。 46 同注40、137-186頁。 47 同注3、191頁。 (曽小蘭 東北大学大学院国際文化研究科アジア・アフリカ研究講座)