傑出した人道主義者、 理想主義者であろ有島武 郎は、 近代日本 文境で異色ある作家である。彼の思想は白樺派を代表すろ面があ ると 同時に、 それを越えていると言える。 有島は自分の生活の中 からキリスト教を超克して、 新しい価値体系を創り出そうと志し ながら、 自己の内部の融和しがたい塁と肉の二元に深く悩み、 苦 しい思索を瓜ね、 独特の哲学理論と思想体系を持って一生を白い たのである。 周知のように、 社会の不合理を憤る正義感を持つ有島は、.札幌 在学中、 アメリカのクラーク博士と森本厚吉及び内村鑑三の影響 . の 下、 宗教の力で世の中の不合理不平等を改造じようとしてキ9 スト教に入信していた。 ところが、 「芸術即生活」を主張すろ有 品が、 後に笞いた作品には、 自分の所開過失とか罪についての懺 悔文学が全く見当らない。 これは何故であろうか。
二
キリスト教に於ける「懺悔」という言葉は英語で説明すると 「con£ ession 」 、「confession of で あって、 告 白もしくは罪の告臼ということになる。懺悔と は、 キリスト教に 於いて、 自分の犯した罪を痛感し、 それを神の前で明白に告白し、 許しと救いと恩寵を穎うことであろ。 告白は キリスト教に於いて は、 むろん牧師と信者の問の信頼怨の 内に、 信者が自己自身の最 も奥庇の隠れた内 面を開き出し、 開かれた心の師の内に注がれる 神の愛と憐みの光を確信し、 あらた めて神と自己との関係を正し いものとする。 自分の罪を告白し、所謂雌悔す ることを文 学の形式で表現した 嘔矢は、 先ず遠くローマ時代末期のキリスト教最大の教父であろ アウグスティヌス(Aurelius August i nus 3 S 4,430) の『告 白』という作品に濶ることができる。 アウグスティヌスは正統的 信仰の完成者で、 世界有数の思想家の一人である。 彼の『告臼』 は、 自分の青春の街径や神の使徒としての心境などについて述ぺ、 単なる自己の回想、 懺悔でなく、 読者と ともに悩み、 ともに神を 讃英しようとすろとこ ろに特色があろ。 「アウグスティヌスによ懺悔をしない有島武郎
劉
Sins 」立
善
ると、 人間はみな原卯を負うて生ま れ出るのであって、 人類はい わば―つの罪の塊である。 そして、 人間が救われるのは 、 唯神の 恩寵のみによるのであっ て、 なんびとが救われるかは、 うかがい 知れぬ神の選びによる。」(『告臼』下、 服部英治郎訳、岩波由 店一九八二年p279) さて、 前述の『告白』と全く同名の懺悔文学作品がある。 告白 文学の傑作として有名なフランスの思 想家 ・文学者ルソー 07l~ /1778) の 『告白』(『懺悔記』と最初和訳したのは閲外の明治二 十四年の事である)がそれで ある。 ルソーは、『告白』の冒頭を 次のように切り出 している。 私はかって例のなかった、 そして今後 も 樅倣するものはない と思う、仕車を企て る 。 自 分と 同じ人間仲間に、 ひとりの人閻を その自然のままの其実において見せてやりたい。 そして、 その 人間というのは、 私である。 (『告白』第一部冒 頭、 桑原武夫 訳、 筑序宙房一九六四年) ルソーが 『告白』に沼手し たのは一七七六年で、 五四オの時で あった。 その当時、 有名な教育論『エミール』が焚お〗となって、 ルソー にフランス政府から速捕令が出されたのであ る。 そのため 彼は国外へ逃れ出て『告白』を発表した。 その革命的思想ゆえに、 彼に浴ぴせられる社会の非難と誹謗に対し、 彼は自己の生涯の性 格形成について、 回想を111間に明らかにし、 みずからもその雌稿 を朗説するなどして 、その真実性をあえて弁明し、主張しようと した。 ルソーは自分のそ れまでの生涯の真実をtll間に見せてやら なければならないと主張した。 アウグスティヌスは自分の罪を告白すると同時に、 人間たちを 等し並みに照らす神の栄光を限えた。それに 対して、 ルソーの方 は自分の告白の其実性を弁設し、 偽密にみち た人間の社会、 所甜 文明社会を否定し、 人間がそれぞれ独立して、 自由平等であった かつての「自然」を理想とし、 債性の解放を捉唱した。 彼に取っ て、 自然は埠なる物的自然ではなく、 人間の魂 の木来の住み家な ので、 こうした自然の中の赤裸 な 魂 をありのままに也間に見せる ことによって、 自分のなした 行為は迎解され、 許されると思い込 んでいたのであろう。 ルソーの『告 白』に強 く彩堀さ れ た近代日本の作家は島崎藤村 である。 藤村は明治二七年に英訳の『告白』を品んで、 強く共閲 するものを惣じた。 そ の後の大正七年五月から大正八年十月まで の閥に、 藤村は有名な懺悔 文 学として長篇小説『新生』を「東京 朝日新闘」に発表した。 藤村は明治ニ―年キリスト教に入侶し、 明治二五年菜教したので、『新生』の発表は明らかに菜教した後 の作である。 『新生』の内容は、 妻の死後若い姪と近親相姦という不倫な陥 奔にはまった中年作家即ち藉村自身が姪とともにこの泥沼から説 出しようとする間卯と再生のための「心の涵歴」を告白的に描い た作 品である。 その中で主人公に対する鋭い倫理的批判が行なわ
れている。『新生』の中でルソーの『懺悔録』(明治二四年均外 によって『懺悔記』と函されてドイツ語から一部和訳された。 大 正元年、 石川戯庵によってフランス語か ら『告白』と図され完訳 された。『新生』の中に見える『懺悔録』は前述のものと迎うか ら多分英訳本であろう)に触れた個所が ある。 姪の節子は岸本に 次のような手紙を甚いている。 「:・・私どもは幸福でとざいますね。あの頂いたルウソウの懺 悔録の中に、 其の幸福は述ぺられるもので無 い、 唯感ぜられる、 そして述べられないだけそれだけよく感ぜられるといふところ が御座いますね。 ほ ん とう に左様でとざいますね」(七五) 又、 次の一節がある。 「へえ、 節ちゃんは何か甜んでるね。」 と岸本は部屋の邸にあるEeu-P棚の前に行って立つて見た。 母の 石設のかたはら節子が病院で夜を送る時の心やりと見え、 ル ウソウの『懺悔』の訳本なぞが柏みさしの枝折の入ったままそ の戸棚の上に訊いてあった。 (10七) 藤村の懺悔文学 を 杏く動機は次の一節に見える。 まだ岸本は一切をそこへ曝け出してしまふ程 の決心もつきか ねて居たが、自分 の苦しい出発 点に渕つて根本か ら考へ直して掛 らうとするには、 どうしてもその心の声を否むことができなか った。 それをするには、 いろいろ な人が懺悔を古いた例に倣つ て、 自分も母しい著作の形でそれを担間に公にしゃうと考へる やうになった。 (九三) 藤村の『新生』について考えると、 その所囮懺悔は確かに宗教 的梢閲を得びていることは否めない事実であ る。 自分の犯した許 され難い罪過を告白し、 懺悔によって肝脱し よ うとした。 しかし、 一方この場合、 人間社会も神になっている。 すなわち、 社会の悔 辱を恐れ、 社会の制裁に対する恐怖心などに基づいて、 人間社会 の道徳に迎反した自己の邪過を倣悔し、 世間にも許され、 救われ ようとし、 更に「新生」を探し求めようとしたのである。
三
宗教との関係に於いて、 有品は藤村と同じような経歴を辿って 来た。 すなわち、 明治三四年一二月、 自由、 平等、 友愛、 巡取など の理想をめざしてキリスト教に 入位した。 しかし、 入侶後、 さん ざん似んだ扮句、 明治四三年五月に教会から脱会し、 侶仰を菜て •』 0 ところが、 藤村はキリスト教を離れてから でも、 悌悔文学を発 表したのに対し、 有励の方は懺悔という面が彼の作品に全く現わ れない。 前述の如く、 藤村の倣悔とは自分の犯した卯過を告白し、 神と社会に許しと救いを乞い求めることである。 しかし、 有品の 場合は、 そうはしないということに特色がある。 こうした特色は まず彼の短篇小説『お末の死』に湘在している。 大正一_一年一月、 有島の「お末の死』は『白棉』に発表された。 その内容をかいつまむと次の如くであろ。お末の家は鶴床という小さな床屋であった。大正初期の不況 9 の時代に、 お末の家は不幸が続き、 四月から九月にかけて四回 も郭式を出してい た。 というのは、 四月に半身不随の父が死に、 六月半ばに二番目の兄が心臓麻痺で後を追い、 更にお末の不注 意によって八月と九月に姉の子供と弟の力三が赤 痢 で死んでし まっ たからである。 八月の末、 お末は姉の子供を背負って川原 で子 守を していた時、 弟が育胡瓜を拾って来た。 これを見たお 末は「甜だよそんなもの を」と言ったが、 札祝貧民窟といわれ るその界隈ではやり出した赤痢という恐しい病気のことを苅々 底気味悪くは思いながら力三の手から真青な胡瓜を受け取って、 弟と一緒に食ぺ、 姉の子供に食ぺさせた。すると、 姉の子供が 下痢で死に、.弟も一週間後に死んでしまった。 そこで、 お末は 姉に醤め立てられた上、 とくに母親から「何か悪いものを食べ させて二人まで殺した」と底意地悪くいびら れる。 それでもお 末は事の次第を正直に打ち明けなかった。 そして、 自分一人で 色々悩み、 苦しんだ結果、罪を告白し ないまま昇采水を飲んで 絶命したのである。 お末のモデルは、 有島の札幌で教えた遠友夜学校の貧しい生徒 瀬川末という少女である。 この 作は単に下阻社会や瀕川 末の迎命 に対する同情にとどまらず、 有島自身の問題をお末に投入 し てい る点が感じられる。 お末はモデルの瀬川末の生き写しではなく、 色々な小説的加工が加えられて出来た主人公である。有島は自身 の心理に基づき、 お末の中に感情移入し、 お末が自分の罪を正直 に打 ち明けたり悔い改めることなく自殺したと設定した。 主人公のお末は、 赤ん坊が胡瓜を食べた晩、けたたましく泣き 出した時と弟の腹が痛くなっ た時に、 若し自分から胡瓜を 食 ぺさ せたと白状したら、 赤ん坊と弟の二人は「死」から免れた可能性 がある。 告白を拒否したため、 赤ん坊が死に、 弟の腹痛が続き、 やがて弟を「死」に至らせたのである。 お末自身も「腹の隅にら くりと針を刺すやうな痛みを党えた」時に 、 「 胡瓜の事を思ひ出 すにつけて、 赤痢のことや今朝の昇乗水のことがぐらぐらと一緒 くたに頭の中をかき廻はした」ので ある。 明らかに、 「昇禾水」 はお末の自 殺の伏線をなしている。 一般的常識によれば、 このような生きるか死ぬかの顧戸際に殴 かれたら、 いくら自分が不注意による過失や罪で資め立てられる という不安にさ いなまれても、 ためらわずに「生きるこ と」に全 力を尽すはずである。 しかし、 お末は卯を告白するより死を選ん だのである。 このお末の心理は、 次に掲げる姉との会話に描かれ ている。 「・・・さ う云へ ば、 何 時か ら岡かうと思つて居たが、 あの時 お前豊平川で赤坊に何か謳い ものでも喰べさせはしなかったの 力 し 」 「何を喰ぺさすもんか」 今まで黙つ てう つむいて居 たお末は、 追ひすがるやうに答へて、
又うつむいてしま った。 「力三だって一緒に居たんだもの ・・・私はお腹も下しはしなか ったんだもの」 と暫くしてから繹の判らない事を 、 申 謬けらしく云ひ足した 。 姉は疑深い眼をして鞭つ やうにお末を見た。 (中略) ' . ぉ 末は泣きたいだけ泣い てそつ と顔を 上げてみる と、 割合 に頸は軽くなつて、心が深く淋しく押 静ま つ て、はつきりし た考へがたった一っその底に沈んで 居た。 もうお末の頭からあ らゆる執沼が綺麗に無くなつてゐた。 「死んでしまはう」お末 は悲壮な氣分で、 胸の中にふか/\と かう うなづいた。 告白を固く拒否し、 姉に深く疑われた後の慟哭は、 言うまでも なく、 告白と死のどちらかを選択すろ心理葛藤のクライマックス であり、 悩みの最後 の現われである。 一旦思い切って死を選んでしまったら、 「頭も軽くなつて」、 「頭からあらゆる執沼が 綺屈に無くなってゐた」のである。気分 も「悲壮」になっ た 。 お 末に取って、 死よ り懺悔する方 がもっと . 恐 しかった。 こうい う考えを持っているからこそ、 赤ん坊と弟を 「死」に至らせた にほかならない。 若し三人一緒に青胡瓜を食べ たことがお末の過失であるとすれば、 食あた り(赤痢) がはっき り分っているのに白状もしないことは明らかに罪とな る。 前者よ り後者の方 はより孤大であろ。 お末は告白を拒絶することによっ て過失の上に罪を回ねて自殺の惑迎から逃れられなかったと思わ ところが、 お末自兵の場合、 「死 J を一切の煩悩から解脱する 最高の手段として、 悲しくは感じていないようである。 だからこ そ、 語を飲んだ後「案外平氣な 顔をして」、 . 己兄に抱 か れ な がら 邸かに微笑んだ」。 それは更に次の描写によって物語 られる。 ... 階子段も自分で降りると云ふのを、 詑吉が無理に脊負つて、 ・ 「 階子段を一人で絡りるなん て、 落らて死んじまふぞ」 と云ふと、 お末は顔の何処かに幽かに笑ひの影を宿し て、 「死んでもいいよ」 と云っ た。 (中略 ) .;:その間にお末は一秒一秒に死んで行った。 . で もお末には生にすが るといふやうな風は露ほども見えなか っ た。 つらつら考えてみれば、 . お末のこうした自殺餃は 有島 のキリス ト教を雌れた後の虚無感による そ れとよく共通すろし、 お末の 死 も有島が世間で宮うところの罪を 重ねた結果、 自殺に追いやられ た未来を暗示しているのかもしれな い。 中国の諺に「烏之将死其関也 哀、 人之将死其言也菩」(烏の将 に死ぬる時其嗚きも哀しく、 人の将に 死 ぬろ時其言も善し)とあ る。 この 「菩」とい う「よし」には自分の今日迄の過失などを告 白し、 人々から許しを求める という意味も含まれている。 お末は 自分一人だけ生き残って、 罪を告白したら、 生き てい る限り苦し れろ。
みと悩みに資められるようになるという考えで告白 を拒否したの であろうか。 しかし、 据を飲んで救われ る 見込みが全くない死ぬ 寸前に白状したら、少くとも自分の心の奥底に図して来た罪が死 という行動によって許されへ心理的にも楽になるであろう。 にも 拘ゎらず、 最後の許しを拒み、 卯を抱えたまま命を絶 っ た。 この 結末には有為のキリスト教の閲罪論を受容できずに抵抗した心理 .が潜在していると考えちれる 。 『お末の死』 を発表した大正三年は、有島の背信五年目に当るし この問、 背信について友人たちから様々な忠告、 非毀、 反対を浴 びた。 大正元年十一月、有島を自分の後継者たりうる人物と して 期待していた明治、 大正期のキリスト教の代表的指専者内村鑑三 は札杭で有島に会い"翻意を促したけれども無駄に終った。 多数 の背教の例の中で有島のそれは最も内村鑑三を悲しませた。 有島 は背教の理由を 第四版序言〔『リピングストン伝 』 〕に列挙した。 一、 私は宇宙の本gなる人格的の神と直接の交感をした事の絶 無なの を 知った。 · 二、 基督教の罪といふ観念及び之れに付随する際卯論が全然私 . の 考へと相容れない事を知った。 ……人間に意志の自由が許
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てな い以上は、罪の自党に対する白任感も生じては来ない . 筈 だ。・・・・・ないとすれ ば人間が所謂卯といはるぺき行ひをし . た 坦合そ の資任は何所にあろのだ。 三、 未来限に対して疑問を描き出した。 四、 日露戦争によっ て甚督教国民の裏面を見せられた。 背教はキリスト教から見れば最大の罪である。 しかし、 アメリ カ留学中の有烏は既に宗教の無力及び偽菩に気づき、宗教によっ て理想を実現すろことが不可能だと悟った。背信後、 自分の意志 に合うような道を探し求めるため彼は謳戦苦既したけれど も、 仲 々思い通りに行かない。 そこで、 自分の鬱恨を『お末の死』にぷ ちまけたのであろう。 世間の様々な非難に直面し て、 有島の考え ではいくら行教を罪ど言われても絶対に翻意をせ ず、 救いも乞い 求めないーこうして見れ ば、『お末の死』の発表はむしろ背教に 対する色々な批判に対する意志表白とも言える。 戯悔を拒否する有島の心理は彼の自己 の 経験に基づいたいくつ かの蛮話にも見える。 大正九年八月、 有島蛮話の最高傑作『一房の澗約』が「赤い烏」 に発表された。 同級生ジムの絵具を盗んだ「僕」即ら有島は優し いクリスチャンの女の先生の所に連れてゆかれ た。 先生は「僕」 を咎めずに、 盗みは悪事であることを悟らせて許したが、 そのよ うに許されても先生 に対してもジムに対しても、 「僕」は自分の 罪を一言も詫びていなかった。 大 正 十年 . 一月『況売新 聞 』 に発表された『碁石を飲んだ八っち ゃん』の内容も同様で、 「僕」は弟の八っら ゃんと碁石のことで 堕嘩をして、 荘石を弟から寺おうとした結果、弟は荘石を飲んだ。 「僕」は自分が悲しくて弟と喧団しなけ れ ばよかっ たと思ったが、命は救われた弟に対し自分の非をいっさ い謝っ ていない。 大正十年七月『婦人公論』に載せられた 『 溺れかけた兄妹』の 内容は次のようである。 夏も終り頃、 彼は 友達のmと妹と一緒に海水浴を したが荒波 で三人とも深い所まで流された。三人は夢中で陸へ滸ぎ出した .が妹が一番後に残された 。彼を呼ぶ妹の声が問えながら助けず に岸へ滸いでいく。 妹の所へ行けば二人一緒に沖に流されるの を恐れたのである。 あとでmが通りがかりの若者に頼んで妹を 救い出し た。 彼は それを思い出すと胸が動悸し空恐しい気持ち になる。 こういういざという時に、 自分だけ助かりたい少年が良心の呵 資に悩みなが らも湖罪はしなかった。 以上の箆話作品を発表した当時の有島は台頭してきた社会主義 思想に共閲し、 「持てる者 の罪意識卑怯者意識」に悩んでいた。 大正八年二月に発表した第四版「 『 リビングストン伝』序」の中 に、 有島は宗教と金持ちと労拗者の間の矛盾に触れた。 ・・・・・・財産は神の所有だといふ。宮者は神からその財産を最善 に使用す るやうな委託を受けたも のだ といふ。 (中 略)然し資 産階級が富を生産し増殖する為めには無棗産階級即ち労働者に 椅頼しなけ ればならぬ。 こ こで有烏の言おう とするの は、 富は神からのものではな く、 労動者によって創造されたものである。 これは「財産は神の所有 だ」という宗教観に真向から反対したのである。 しかし、 有産階 級に所属した有島はそこから抜け出せなく、 その本心が大正十一 年に発表した「宜言ーつ」に見える。 . 今後私の生活が如伺様に変らうとも、 私は結局在来の支配階 級者の所産であるに相違ないこと は、 黒人種がいくら石鍼で洗 ひ立てられても、 黒人種たるを失はないのと同様であろだ ら う。 即ら、 いくら社会主義思想に共蘭し、 悩み、 キリスト教の無力 に気づいても、 ブルジ,ァたる自分の本心は変えられぬという良 心の呵費を形をかえて以上の蛮話 に硯わしたとも考えられるであ ろう。 実は、 有島のキリスト像は、 有島の理想像に合うように詩的加 工を加えられたものである。 その入信の目的は神に奉仕し、 神の 意志に絶対服従するためであるというよ り、 むしろ宗教を自分の 人道主義と理想主義の理論根拠にしようと考えた からであ る。 だ からこそ、 一旦それが理想の追求のためにならないことに気づく と、思い切って 巣てた 。彼の大正六年に発表した 『 惜みなく愛は奪 ふ』の中に、 次のような 反キリスト論がある。 基督の生涯の何処に義務があ り、 犠牲があるのだ らう。人は 膜いふ、基督は有らゆるもの を犠牲 に 供し、 救世主たるの義 務 の故に、 凡ての迫害と窮乏とを甘受し、十字架の死 をさへ敢 て堪へ忍んだ。 だからお前達は基督の受難 によっ て罪からあが なはれたのだ。 お前達も亦彼にならって、犠牲献身の生活を送ら
四 なけ ればならな い と 。私は私一低として基督が私達に遺して 行った生活をかく考へること は どう してもできない。 (中略) 基督は私達を既 に彼の中に奪っ てし まったのだ。 キリスト教史上で、 イエスを裏切ったユダは襄切者、 背教者の 代名詞として用いられる。増子正 一氏 はユダと有島との共通性を 次のようにまとめた。 有島は基督に対 する裏切者意滋に生涯煩悶し、 ついに自殺に 至らしめた。 (中略)ユダも有島も基督に褒切意識をいだぐ自 殺者として共通性がある。(『有島 武郎褒切者意識と潜在信仰』 『解釈』S50.4) しかし、 実は有島はユダと 違って、 甚督より第四階級に褒切意 識を抱く自殺者と苔った方が適切だと思う。 くり返し て言えば、懺悔文学を考察してみると、 ローマ時代末 期のアウグスティヌスの 『 告白』の主題は、 自分の懺悔を通して、 ・ 神の許 し と救いを求め、 神を讃え ることにある。 ・ ル ソーの『告白』は世間に対し て自分の真実を弁護し、主張し ようとするのが目的である 。 ルソーの影響の下で出来た藤村の『新生』は、宗教情隣を帯ぴ ると同時に、 人間社会の道徳に達反した自分が社 会の制裁を恐れ、 懺悔によって宗教及び社会に許し を求め、 「新生」を得ようとし た。 この『新生』に対し、芥JII龍之介及び正 宗白烏はそ れぞれ次 の如く評価を与えた。 ルツソーの 懺悔録さへ英雄的な謹 に 充ちてゐる。 殊に「新生」 に至っては、ー「新生」 の主人公ほど老拾な偽善者に出會った ことはなか っ た。 (「或阿呆の一生」四十六) 薩村氏の云初生」は略々通讀 しま し た。 いろ/\の意味で讀み
c
たへがありました。 しかしそれについて の意見は簡短に申し 上げかねます。 この作を難れて、 たゞ懺悔といふことについて 云ふて、 私は世間に封しても、神(そんなものは信じないから) に封しても、 懺悔する氣は毛頭ありません 。 後 悔することはあ , つても懺悔する氣には全くなれない 。 ( 中略)僕はたとへ自分 の事を小説に仕組んでも、 寸亮も懺悔の念を持つて賓いたこと もなし、 また将来笞きもしません。 (「新生」合評『婦人公論』 大正九年一月)(「云ふて」 は新潮版全渠「云ふと」 ) 有島は正宗白烏の立場に近く、 ルソーや藤村の立場と全く反対 で、懺悔を拒否した。 それは前述の作品などにも現われている 。 それは人道主義の立場に立ち、人生と社会に強い関心を寄せ 、 キ リスト教から難れ て自我の独立、 自己硝立を一途に要求 す る有島 に取ってやむをえない行為である。有島は意志閲弱と言うより自 己主張の強い持ち主なので、 いわゆる有島の罪はしばしば彼の人 道、 博愛及びたゆまぬ追求という精神に係っていると思われる。 先ず、 第一に有島は厳しい父親の息子にかけた期待に従わなかったことである。哭粟家に育て上げ、将来、有島家を謡承させよ うと父親は彼に農業経済を 専攻させた。ところが、有烏は留学後、 文学を生涯の仕事としてやり通した。有島の考えによろと、実業 家になれば、唯、自己の本当の願望にそむいたまま有島家を維持 し継承すること になる。良心的な 文学者こそ社会の諸問題に取り 粗むという大業に携わるこ とができるのであ る。この点に於いて は、中国の近代文豪の一人、魯迅の場合によく似ている` 以上のような考えから、有島は父親が苦心惨溜して築き上げた 有島家の巨大な財源である殷場を自己 の哲学理論の実践として無 償で農民に解放した。 キリスト教に入はした有島は、キリスト教を異端邪説と見る父 親から強く反対され、大 逆非辺、有島家の乱臣賊子だと罵られた にも拘わらず、父 親の意見を無視した まま、 断然と入信したので ある 9 これ は克己自制、子が父母に隷凪すべしというような梱教 思想の強い両親に 対する酷烈な反逆であり、親不孝である。 その後の 菜教 もキリスト敦においては霞大な罪と 言 え る が、 . 個 性を任げて世俗恨習 に従って生きて行くより、 既成の道徳に囚わ れず に自己確 立を貫徹すること にこそ、 人間存在の意義があり、 個人としての価値があると有烏は考え込 んでいたのであろう。 明治、大正期の日本は、封建的な社会意識がかなり人々の道徳 世界観を支配していた。そして、日消戦争に勝った後、資本家は 資本蓄積を早めるため、労働者たちを酷使し ていた。こ のような 渾沌とした暗黒な実社会に向って、有島は大胆不敵に挑み、そ れ を探刻に批判した。彼はクロポトキンの「万人の福祉論」に共感 し、更に社会主義に憶れ 、それを鼓吹したので、 特高警察のプラ ックリストにのせられ、刑事に尾行された の であ る 。 . 有島の特色は 、思 想と実 行の一致を求める言行一致というとこ ろにある。彼は無意味なま やかしの空論の代わりに、自分の学説 と主張を実際の行動に移した。貧宮の差を可能な限り縮小させろ ために、殷場を解放した 上、更にそれ以外の有島家の財産を放棄 しようとし、汗を流す平民並みの生活を送ることを希望した。 前述のすぺては、いずれ も当時の時代の流れに逆らい、世俗道 徳を 裏切った 行為である。明らかに、有島は伶理道徳に於いても、