• 検索結果がありません。

<講演>探偵としての人間:遠藤周作を読む

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "<講演>探偵としての人間:遠藤周作を読む"

Copied!
15
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

著者

金 承哲

雑誌名

神学研究

67

ページ

85-98

発行年

2020-03-06

URL

http://hdl.handle.net/10236/00028587

(2)

探偵としての人間:遠藤周作を読む

金 承 哲

みなさんこんにちは。先程紹介をいただきました金承哲と申します。講演会にお招 きいただきまして、感謝を申し上げます。土井先生からお話を頂いたときは、果たし て皆さんのためになる話が私にできるかな、と思ったのですけれど、とにかく私にと って勉強になると思いまして、お引き受けさせていただきました。 先に紹介がありましたように、私の専門といいますか、興味のある分野はキリスト教 神学(中でも組織神学という分野)です。また同時に遠藤周作という作家にすごく興味を 持ち、少し読んで分析しております。遠藤周作の著書は一人で読むより、みんなで集まっ て読んだほうが、他の人と感想や考えを交わすことができるので、非常に貴重な機会だと 思っています。そのため東京の新宿区信濃町に真生会館という施設がありますが、そちら は遠藤周作が以前、大学時代に過ごした学生寮があった場所であり、いわばゆかりの地で すので、そちらと南山大学で遠藤周作読書会を定期的に行っております。 先程申しましたように、私の専門は神学ではありますが、神学を勉強するものとし て文学を読む、ということが、どういう意味があるのかというのを自分自身で考える ことがあります。フランスの有名な現象学者、哲学者の中でもメルロ=ポンティとい う人がいるのですが、そのポンティという人が『小説と形而上学』という短いエッセ イ論文の中でこの点について書いた論文が載っています。哲学とか神学とかはですね、 いくつかの大問をテーマにすることは当たり前のことですが、正義とはなにか、愛と はなにか、平和とはなにか、人間主体とはなにかなどの、非常に重いテーマを扱って いるというか、真正面から、しかも哲学的な位置に向かって論じている。 一方文学は何かというと、やはり、そういう概念を同じく扱う。文学作品の中には、 正義とか、愛とか、平和とか、がやはり入っている。だからそれらを表すにあたって、 文学者は哲学者のように神学者のように、それを概念として扱うのではなくて、我々 の生活の中でどのようにものとして見えてくるのか、それを書くのが文学者なのです。 そのため、小説では哲学的に、神学的にそれらを論じたものは少ない。小説家はで すね、たとえば遠藤周作の場合、彼のテーマに「愛」というものがあったならば、そ れを表すにあたって、存在や実存などそういった内容によって愛を描くのではなくて、

(3)

一人の男と一人の女の間の普通の愛を描いて、世間の話でいくと恋愛を描くよって思 わせながらも、ちらっとですけど神の愛はこういうものじゃないかというふうに読者 に連想させる。思わせ、考えさせる。それが小説家の役割だというふうに遠藤が語っ ているのですけれど、それを読んだ時に、なるほど、と。だから、扱おうとする、語 ろうとするテーマは同じなのですけれども、哲学と文学での愛の書き方が違う。どち らがもっと具体的かというと、やはり文学のほうが私たちに、より親しみやすのでは ないかと思います。親しみやすいという言葉は語弊があるかもしれませんけれども。 やはり、私達の目に見える形で、それを提示するのが文学ということ。まさにこの遠 藤周作の作品というのが、今日は探偵などそういう話をさせていただくのですけれど も、概念として非常に堅苦しく論じるのでなく、誰もがアクセスできる形で書いて、 読者がそれを読んだ後、自然にそれを自分の体のなかに入れる、それが遠藤周作とい う小説家なのだと思いました。 2016 年の遠藤周作没後 20 周年に、『沈黙』という遠藤の代表作が発刊された 50 周 年を迎えました。長崎に「遠藤周作文学館」があるのですけど、そこでの遠藤周作の 大きな規模の会議長崎市が作ったロゴが非常にかわいい。「このロゴをもらって使っ てもいいですか」と聞いたら、「どうぞ使ってください」と言われたので、みなさん にご覧になってもらっています。 この遠藤の代表作である『沈黙』が、“Silence”という映画になったのも有名な話 ですけれども、この映画をご覧になった方は手をあげてください。結構いらっしゃい ますね。私も名古屋で試写会の招待をいただいて行ってみたのですけれど、やはり重 く、長いです。2 時間 40 分ぐらいだったのですけど、やはり最後まで見るのは心配で した。この映画を作ったのは言うでもなく、マーティン・スコセッシ監督です。スコ セッシ監督は、映画を作る約 30 年前にすでに『沈黙』を読んでいて、いつかはこの 小説を映画にしたいと思い、それが 30 年かかりました。実はスコセッシ監督と『沈 黙』は関係が深いのです。スコセッシ監督の息子はイタリア系の移民として過ごしま したし、祖父はマフィアで有名なイタリアのシチリア島出身なのです。『沈黙』の主 人公でロドリゴというキリスタン神父がいるのですけど。遠藤は『沈黙』を書くとき に実際のモデルがいたんですよ。モデルが誰かというと、イタリア、シチリア島出身 の受洗名キアラという神父なのです。遠藤はキアラ神父をモデルとして、ロドリゴと 名前を変えて作品化したわけであります。スコセッシ監督にとっては自分の昔々の祖 先。その人が『沈黙』の主人公になっていて、イタリア出身のトリックの神父なわけ です。スコセッシ監督は、実は司祭になろうと思って、神学校に入っていたのですね。 ステップを経て、神父になろうと思ったのですが、なんと半年で辞めてしまったので

(4)

一人の男と一人の女の間の普通の愛を描いて、世間の話でいくと恋愛を描くよって思 わせながらも、ちらっとですけど神の愛はこういうものじゃないかというふうに読者 に連想させる。思わせ、考えさせる。それが小説家の役割だというふうに遠藤が語っ ているのですけれど、それを読んだ時に、なるほど、と。だから、扱おうとする、語 ろうとするテーマは同じなのですけれども、哲学と文学での愛の書き方が違う。どち らがもっと具体的かというと、やはり文学のほうが私たちに、より親しみやすのでは ないかと思います。親しみやすいという言葉は語弊があるかもしれませんけれども。 やはり、私達の目に見える形で、それを提示するのが文学ということ。まさにこの遠 藤周作の作品というのが、今日は探偵などそういう話をさせていただくのですけれど も、概念として非常に堅苦しく論じるのでなく、誰もがアクセスできる形で書いて、 読者がそれを読んだ後、自然にそれを自分の体のなかに入れる、それが遠藤周作とい う小説家なのだと思いました。 2016 年の遠藤周作没後 20 周年に、『沈黙』という遠藤の代表作が発刊された 50 周 年を迎えました。長崎に「遠藤周作文学館」があるのですけど、そこでの遠藤周作の 大きな規模の会議長崎市が作ったロゴが非常にかわいい。「このロゴをもらって使っ てもいいですか」と聞いたら、「どうぞ使ってください」と言われたので、みなさん にご覧になってもらっています。 この遠藤の代表作である『沈黙』が、“Silence”という映画になったのも有名な話 ですけれども、この映画をご覧になった方は手をあげてください。結構いらっしゃい ますね。私も名古屋で試写会の招待をいただいて行ってみたのですけれど、やはり重 く、長いです。2 時間 40 分ぐらいだったのですけど、やはり最後まで見るのは心配で した。この映画を作ったのは言うでもなく、マーティン・スコセッシ監督です。スコ セッシ監督は、映画を作る約 30 年前にすでに『沈黙』を読んでいて、いつかはこの 小説を映画にしたいと思い、それが 30 年かかりました。実はスコセッシ監督と『沈 黙』は関係が深いのです。スコセッシ監督の息子はイタリア系の移民として過ごしま したし、祖父はマフィアで有名なイタリアのシチリア島出身なのです。『沈黙』の主 人公でロドリゴというキリスタン神父がいるのですけど。遠藤は『沈黙』を書くとき に実際のモデルがいたんですよ。モデルが誰かというと、イタリア、シチリア島出身 の受洗名キアラという神父なのです。遠藤はキアラ神父をモデルとして、ロドリゴと 名前を変えて作品化したわけであります。スコセッシ監督にとっては自分の昔々の祖 先。その人が『沈黙』の主人公になっていて、イタリア出身のトリックの神父なわけ です。スコセッシ監督は、実は司祭になろうと思って、神学校に入っていたのですね。 ステップを経て、神父になろうと思ったのですが、なんと半年で辞めてしまったので すね。なぜ辞めたかというと、ガールフレンドができて自分は司祭の道を歩みたくな いと思って辞めたそうなのです。けれど、スコセッシ監督にとって、『沈黙』はやは り他の人より非常に格別な意味を持っていました。彼は『沈黙』が上映されるにあた って 2 回ほど来日して記者会見をしていました。さて、遠藤の作品の紹介に入りたい と思います。実は遠藤周作は多作の作家であります。ものすごく多くの作品を残しま した。先ほど南山大学で遠藤周作を読む会をやっていると申しましたけれど、2013 年 からこの読書会をはじめました。今年で 6、7 年目になるのですが、月1回のペース で1冊ずつ読み、先月が 69 回目でありましたが、未だに読んでいない本がおそらく 今まで読んできた本とほぼ同じぐらい残っています。それほどエッセイや短編集が多 くあります。遠藤は一生いろんな病気を抱えていて、病院生活が長かったのですけれ ど、どうやってあれほどの作品を残したのかと不思議な感じがします。その遠藤周作 の作品を分類してみますと、いわゆる純文学、代表的な小説が『沈黙』。信仰、人生、 神というテーマを真正面から取り扱っている作品群があります。それとまた別のカテ ゴリーとして中間小説あるいは軽文学と言われる作品群がありまして、これはいわゆ る大衆文学なのです。恋愛などを扱っている。しかも遠藤はそれを、ただ恋愛小説を 書くために書いたのではなくて、先ほど申しましたように、普通の男女の恋愛を書き ながら、人間と神の間の愛について書く、それが遠藤のひとつの技になったと思いま す。それから歴史小説、これは純文学の中で一番代表的なのが『沈黙』、『侍』、『深 い河』などキリシタン時代をテーマにした作品をたくさん書いていまして、人権だと か重たいそのような事柄をテーマにした作品がたくさんあります。 われわれは純文学というと『罪と罰』とか、そういうクラシカルなことを考えがち なのですけど、遠藤自らは純文学をどう考えたのかといいますと、あるエッセイの中 で概ねこのように書いています。 「純文学の純というのは深いという意味だ。それはどういう風に深いかという と人間の心の深いところに入ってそこに沈んで、そこに何があるのか、そこで何 が起きているのかを探すのが純文学」。 遠藤自らはそういう立場をとっている。このような定義に照らし合わせて考えてみ ますと、実は遠藤周作のすべての作品は純文学といっても過言ではありません。歴史 小説を書いたときも恋愛小説を書いたときも遠藤が持っていた関心というのは、果た してわれわれ人間の心の一番深いところには何が起こっているか、ということだった わけです。人間の一番深いところというのは、私自身もよく知っていない私の心。遠 藤はよく、我々には 3 つの自己があるというのですけれども、「私が知っている私」、 「私は知らないけれども相手だけが知っている私」、そしてもうひとりの私である、

(5)

「私も知らない、他の人も知らずただ神だけが知っている私」がいる。そのように遠 藤は必死になって言うのです。遠藤が探そうとするのがまさにその部分なのです。そ れが時には恋愛小説になり、時にはユーモア、歴史小説になる。そういう風に考えて みますと、遠藤のすべての作品は純文学と言ってもいいと思います。それから純愛小 説という、一番有名なのが『おバカさん』や『わたしが・棄てた・女』、1960 年代『あ べこべ人間』など数えきれないほどの小説を出しています。私は『沈黙』も好きです けれど、純文学よりはこっちが本当は好きです。時には笑いながら一気に 1 日で 1 冊 読み終わって、本を閉じると何かがぐーっと込み上がってきます。 たとえば『わたしが・棄てた・女』という作品は、普通の若い男と若い女の間の恋 愛を取上げています。男のほうが一方的に女にアプローチして自分がやりたいことを し、その女を捨てます。「お前、もういらない」といって彼女と離れ、その後男は会 社に就職して別の娘と結婚して出世の道をずっと走って行くのです。その女のことは もう忘れて。その女は女で、捨てられたのがわかって、いろんな職を転々とします。 しかしある日、彼女は「感染病だよ」と診断され、隔離政策の時代でしたので、病院 に入ってしまいます。その病院の中で何年か過ごしたのですが、病院の中で精密検査 をしたところ感染病じゃないと分かって、「あなたはここにいる必要ありません、す ぐ出てください」と言われます。もう女は喜んで喜んで、荷物を全部持って外に出て、 駅でベンチに座って電車を待ちます。しかし女は、どうしても電車に乗ることができ ません。なぜできないのかというと、自分が感染病ではないということが診断された ときに、一緒に病院で暮らしていた感染病患者たちがおめでとうと祝ってくれたから です。自分の周りに集まって祝ってくれた人々の目を忘れることができない。あの人 たちがどれほど絶望感を感じたのか。「あの人はもう復帰できる。これから生きる。 でも私たちはずっと一生ここで死ぬまでいるしかない…」自分が病院を出ることによ って、あの人たちの絶望感はもっと深くなったということがどうしても脳裏から離れ ないのです。結局、この女は電車に乗らずに自分が出た病院に戻ります。戻って病院 を運営しているシスターたちに、私は勉強もしたことがないし仕事もまともにできな いのでここで仕事をさせてくださいと、何度も頼んで、そこで仕事をします。ある日、 不慮の事故でその女は亡くなってしまいます。その女の死後、亡くなった女の遺品を シスターたちが全部集めます。その中に自分を捨てた男への書物がありまして、その 男は吉岡という名前ですけど、その人に対して書いた手紙や、送らなかった手紙、日 記などをたくさん見つけます。それをシスターが全てまとめて吉岡に送ったのです。 吉岡がその手紙と日記を受け取って読みます。そしてそれらを読み終わったあとに吉 岡は、昔むかしのことで忘れたと思っていたけれど、やはり完全に忘れることはでき

(6)

「私も知らない、他の人も知らずただ神だけが知っている私」がいる。そのように遠 藤は必死になって言うのです。遠藤が探そうとするのがまさにその部分なのです。そ れが時には恋愛小説になり、時にはユーモア、歴史小説になる。そういう風に考えて みますと、遠藤のすべての作品は純文学と言ってもいいと思います。それから純愛小 説という、一番有名なのが『おバカさん』や『わたしが・棄てた・女』、1960 年代『あ べこべ人間』など数えきれないほどの小説を出しています。私は『沈黙』も好きです けれど、純文学よりはこっちが本当は好きです。時には笑いながら一気に 1 日で 1 冊 読み終わって、本を閉じると何かがぐーっと込み上がってきます。 たとえば『わたしが・棄てた・女』という作品は、普通の若い男と若い女の間の恋 愛を取上げています。男のほうが一方的に女にアプローチして自分がやりたいことを し、その女を捨てます。「お前、もういらない」といって彼女と離れ、その後男は会 社に就職して別の娘と結婚して出世の道をずっと走って行くのです。その女のことは もう忘れて。その女は女で、捨てられたのがわかって、いろんな職を転々とします。 しかしある日、彼女は「感染病だよ」と診断され、隔離政策の時代でしたので、病院 に入ってしまいます。その病院の中で何年か過ごしたのですが、病院の中で精密検査 をしたところ感染病じゃないと分かって、「あなたはここにいる必要ありません、す ぐ出てください」と言われます。もう女は喜んで喜んで、荷物を全部持って外に出て、 駅でベンチに座って電車を待ちます。しかし女は、どうしても電車に乗ることができ ません。なぜできないのかというと、自分が感染病ではないということが診断された ときに、一緒に病院で暮らしていた感染病患者たちがおめでとうと祝ってくれたから です。自分の周りに集まって祝ってくれた人々の目を忘れることができない。あの人 たちがどれほど絶望感を感じたのか。「あの人はもう復帰できる。これから生きる。 でも私たちはずっと一生ここで死ぬまでいるしかない…」自分が病院を出ることによ って、あの人たちの絶望感はもっと深くなったということがどうしても脳裏から離れ ないのです。結局、この女は電車に乗らずに自分が出た病院に戻ります。戻って病院 を運営しているシスターたちに、私は勉強もしたことがないし仕事もまともにできな いのでここで仕事をさせてくださいと、何度も頼んで、そこで仕事をします。ある日、 不慮の事故でその女は亡くなってしまいます。その女の死後、亡くなった女の遺品を シスターたちが全部集めます。その中に自分を捨てた男への書物がありまして、その 男は吉岡という名前ですけど、その人に対して書いた手紙や、送らなかった手紙、日 記などをたくさん見つけます。それをシスターが全てまとめて吉岡に送ったのです。 吉岡がその手紙と日記を受け取って読みます。そしてそれらを読み終わったあとに吉 岡は、昔むかしのことで忘れたと思っていたけれど、やはり完全に忘れることはでき なかったと気づくのです。全部読んで吉岡が会社の屋上に上がって、そしてちらっと 一言言うのです。「自分がやったことは世の中の誰でもやっていることじゃないのか。 私だけが悪いんじゃない。」と必死に自己弁明をします。しかし、弁明をしても、し ても、しきれないところがあって、「なぜ私の心がこんなに寂しいのか」そう言いな がら、「もし、女が信じていた神という存在がいるならば、神はこの寂しさを通して 私たちに声をかけてくださるのか」とも言うのです。その一行だけ書いてあるのです。 そこが、遠藤が訴えたかったところなのです。 また後ほど述べますが、私たちが誰かを捨ててしまうと、それで完全にその人のことが なくなるのではなくて、その人のことは私たちの中に痕跡として残ります。その痕跡が時 には悔い改めとして、時には痛さとして、時にはその時そう告げるつもりではなかった 様々な感情としてよみがえります。遠藤が語ろうとしているのは、神という存在はその私 たちの感情を通して声をかけてくださる。逆に言ってみれば、神が私たちに声をかけてく ださるので、私たちはその寂しさや悔い改めを感じることができるのです。 『わたしが・棄てた・女』では、神という言葉は最後の最後に 1 回出てきます。遠 藤はそれを書くために 300 何ページの長編作を書き上げたのです。私はそれが小説家 の力だなと思います。語りたいことを我慢して、我慢して、我慢して最後まで持って いく。最初のところで言ってしまうと誰も本を読みません。(「あ、説教するつもり だ」ってね。)遠藤は自身のエッセイの中で、自分がつけたタイトルは『わたしが・ 棄てた・女』だけれど、実際に自分が書きたかったのは『私が棄てたキリスト』であ った、と書いています。『私が棄てたキリスト」というのは、ちょうどそれは『沈黙』 のテーマと重なります。主人公であるロドリゴはキリストの踏み絵を踏んで捨てるの です。このように、『わたしが・棄てた・女』と『沈黙』は同じレベルの、同じ類の 作品なのです。ただその書き方が、一つは非常に純文学的な書き方であり、もう一つ はいわゆる大衆文学的な書き方ですが、私は、両方とも影響力が大きいのではないか と思います。特に日本のようにキリスト信者の少ないという風土の中では、むしろ『わ たしが・棄てた・女』のような大衆文学的なもののほうが、より多くの人々に長く考 えさせる、そういう効果もあるのかなと思います。 それから、歴史小説という作品がたくさんあります。キリシタン大名と呼ばれる、 戦国時代の人々を遠藤は書きました。まずキリシタン大名は秀吉によって虐げられ、 表向きでは「はい、信仰を捨てました」と言ったけれども、中ではずっと信仰を持っ ている。そういう姿を遠藤はたくさん書いたわけです。秀吉の命令で信仰を捨てたけ れども、一生彼はキリストから離れたことはなかった、と遠藤によって書かれていま す。それから、こちらが今日のテーマでもあるのですが、推理小説やミステリー小説、

(7)

探偵小説などに分類できる作品もたくさんあります。また、ユーモア作品もたくさん あります。ユーモアといっても今の若い方々からみるとちょっと親父ギャグのような、 そういう世代からみたらそう言うかもしれないですけれど、ユーモア関連でいうと、 遠藤の作品の中でも糞と尿の話しがたくさんでます。汚い話なのですけれど。なぜ遠 藤は糞と尿の話をしたかというと、糞と尿は人々に嫌われ捨てられるものなのです。 自分の糞が好きでずっと持っているという人はいないですよね。汚いといってすぐ捨 ててしまうのですけど。しかし自分が捨てた、自分によって捨てられたものによって 人間は生きていくことができます。捨てられたもの、人々が注意しないもの、汚いと 人々が思うものこそ、実はそれによって我々は生きているのだ、ということが遠藤の テーマなのです。このキリスト教神学的に見れば、人々に捨てられて十字架につけら れたキリストによって人々が命を得るというまさにこのテーマが、遠藤にとっては、 普通の、ごく一般の日常生活の中で見受けられることができるのです。 そのほかにも日記や評論、紀行文、エッセイなどがたくさんあります。全部あわせま すとどれほどあるか数えたことはないのですが、日本では遠藤周作学会がありまして、 そこで 3 年前から一つの企画として、遠藤周作辞典を編纂しています。それは何を載せ るかと言いますと、とりあえず遠藤が書いた作品を全部載せようとすると一字一句が目 標であって、第 2 版がでる時にはどうなるか分からないけれど、とりあえず最初の試み として遠藤作品を全部載せようと。作品によっては解説が長くなるものもあれば何行で 終わるものもあるのですけれど。とりあえずそれを全部載せようとしても、一冊の辞典 が出来上がるほどの作品になります。今年度、遅くても来年には辞典が出版されると思 いますので、ご興味のある方はぜひ買っていただければと思っています。そして、よう やくこの遠藤の年譜に入るのですけれど、だいたいのことはみなさんのレジュメに書い てある通りです。遠藤は幼い時に、2 人兄弟でした。父親が毎週仕事の関係で転勤をさ れたので家族 4 人で台湾にいったのですけれど、そこで不幸なことが起きてしまい、両 親が離婚をします。父親に別の人ができたということで離婚をして、遠藤は母親と一緒 に、親戚がいる神戸に戻ります。実は、遠藤は関西学院から歩いて 1 時間足らずの夙川 教会に通っており、そこで洗礼を受けました。私もそこへ行ってみて、神父様にお話を 伺い、伝わっているお話も伺ったのですけれど、遠藤は時々ポールに登りそこで何かを 一人で投げて神父様に叱られたり殴られたり、礼拝の時はずっとしゃべって後ろから神 父様にポンと殴られたりということがよくあったようです。もし皆さんもお時間、機会 があれば夙川教会に行ってみてください。そういった意味では遠藤周作と関西学院は縁 が深く、タイトルは忘れましたが、遠藤は作品の中で西宮の上の方に西洋風で創られた 非常に美しい大学がある、と書いたことがあります。そういった意味ではみなさんの大

(8)

探偵小説などに分類できる作品もたくさんあります。また、ユーモア作品もたくさん あります。ユーモアといっても今の若い方々からみるとちょっと親父ギャグのような、 そういう世代からみたらそう言うかもしれないですけれど、ユーモア関連でいうと、 遠藤の作品の中でも糞と尿の話しがたくさんでます。汚い話なのですけれど。なぜ遠 藤は糞と尿の話をしたかというと、糞と尿は人々に嫌われ捨てられるものなのです。 自分の糞が好きでずっと持っているという人はいないですよね。汚いといってすぐ捨 ててしまうのですけど。しかし自分が捨てた、自分によって捨てられたものによって 人間は生きていくことができます。捨てられたもの、人々が注意しないもの、汚いと 人々が思うものこそ、実はそれによって我々は生きているのだ、ということが遠藤の テーマなのです。このキリスト教神学的に見れば、人々に捨てられて十字架につけら れたキリストによって人々が命を得るというまさにこのテーマが、遠藤にとっては、 普通の、ごく一般の日常生活の中で見受けられることができるのです。 そのほかにも日記や評論、紀行文、エッセイなどがたくさんあります。全部あわせま すとどれほどあるか数えたことはないのですが、日本では遠藤周作学会がありまして、 そこで 3 年前から一つの企画として、遠藤周作辞典を編纂しています。それは何を載せ るかと言いますと、とりあえず遠藤が書いた作品を全部載せようとすると一字一句が目 標であって、第 2 版がでる時にはどうなるか分からないけれど、とりあえず最初の試み として遠藤作品を全部載せようと。作品によっては解説が長くなるものもあれば何行で 終わるものもあるのですけれど。とりあえずそれを全部載せようとしても、一冊の辞典 が出来上がるほどの作品になります。今年度、遅くても来年には辞典が出版されると思 いますので、ご興味のある方はぜひ買っていただければと思っています。そして、よう やくこの遠藤の年譜に入るのですけれど、だいたいのことはみなさんのレジュメに書い てある通りです。遠藤は幼い時に、2 人兄弟でした。父親が毎週仕事の関係で転勤をさ れたので家族 4 人で台湾にいったのですけれど、そこで不幸なことが起きてしまい、両 親が離婚をします。父親に別の人ができたということで離婚をして、遠藤は母親と一緒 に、親戚がいる神戸に戻ります。実は、遠藤は関西学院から歩いて 1 時間足らずの夙川 教会に通っており、そこで洗礼を受けました。私もそこへ行ってみて、神父様にお話を 伺い、伝わっているお話も伺ったのですけれど、遠藤は時々ポールに登りそこで何かを 一人で投げて神父様に叱られたり殴られたり、礼拝の時はずっとしゃべって後ろから神 父様にポンと殴られたりということがよくあったようです。もし皆さんもお時間、機会 があれば夙川教会に行ってみてください。そういった意味では遠藤周作と関西学院は縁 が深く、タイトルは忘れましたが、遠藤は作品の中で西宮の上の方に西洋風で創られた 非常に美しい大学がある、と書いたことがあります。そういった意味ではみなさんの大 学と遠藤は遠く離れていないと思います。 年譜に戻りますけども、ここで大事なのは、両親が離婚したことです。離婚は一瞬 で起こるものではなくて、長期間仲が悪くなり、その結果として離婚になるので、子 どもの遠藤にとって非常に辛い時期でした。家に帰りたくない、と。遠藤はたくさん のエッセイを執筆しているのですけれど、家に入りたくなくて家の周りを徘徊します。 どこから来たか分からないけれど一匹の犬が自分の周りでグルグル回っている。犬が 自分にとっては唯一の友達になってくれました。遠藤がしゃがんで地面に何かを書い ていたら、犬が遠藤の顔を見ながら「今日お前家に入りたくないだろう。今日学校で 先生に叱られただろう」とかそのような声をかけているような気がした、と遠藤は言 っています。遠藤は母親と一緒に日本に戻りましたので、犬と別れる日がきました。 荷物を全部車に積んで家から出て、ふと振り返ってみたらその犬が走ってついてくる のですね。犬は訳が分からないので、「あいつ友達になってくれたのに今日はどこに 行くのだろう」と走ってついてくる。どうしてもついていけないので犬は途中で止ま ってずっとこちらを見ている。その場面を遠藤は何回も繰り返し書いています。それ は遠藤の脳裏に深く印象を残しているのです。そこで遠藤はこう感じました。人間は 悪い者である、と。なぜ人間が悪い者であるかというと、人間は何かを捨てざるを得 ない者である。自分の都合のために利用したり出会ったり付き合ったり、買ったりす るけれど、都合が悪くなったり、あるいはもういらないと思うときはそれを捨てるも のだと。この「捨てる」という言葉は遠藤にとっては人間を理解するにあたって、非 常に重要なキーワードになっています。 先ほど申し上げましたように、キリスタン神父であったロドリゴはキリストを踏む ことによって、キリストを捨ててしまいました。そしてその「捨てる」ということが またさらに敏感になったのは、両親が離婚し、母が父から捨てられた。そういうこと としてある意味でトラウマにもなり、それがどんどん深くなって自分も母を捨ててし まうだろうというトラウマになっていきます。「捨てる」という言葉は遠藤を理解す るうえで非常に重要な言葉です。 その後、神戸に戻ってきた遠藤は、夙川教会で洗礼を受けました。これは小説家遠 藤にとって非常に重要なひとつの場面です。遠藤は洗礼を受けましたが、一生涯、自 分は洗礼を受けさせられた、というふうに感じています。つまり自分の決断によって 神を信じますと言ったわけではなくて、友達と一緒にそして母に連れられて教会に行 って、母の言う通りに洗礼を受けました。彼はそれを、「非自発的に洗礼を受けた」 と言っています。この洗礼を受けたことが、「日本人である自分が自分の意思と関係 なしに洗礼を受けさせられたけれど、果たして、この洗礼によって結ばれたキリスト、

(9)

神と自分はどのような関係にあるのか」という遠藤の一生のテーマになりました。 遠藤の色々なエッセイによりますと、遠藤はいつかそれを捨てようと思った時もあ ったそうです。自分は理由もわからないし、捨てたらむしろ軽くなるのではと思った けれどでも捨てられなかった。なぜできなかったかというと、それは自分を愛してく れた母からのプレゼントだから。母に言われて洗礼を受けたのでキリスト教という服 を脱いでしまうと裸になる。そして自分は父が母を捨てたように、もう一度母を捨て ることになる。このキリスト教の服を着ていても不便だが、捨てようとしたらもっと 大変になる。ではどうすれば良いのかというその疑問、問題意識から小説家遠藤は生 まれたのです。さらに遠藤は、キリスト教という、自分のからだにはよく合わない洋 服を母によって着せられたのであれば、これからは母によって着せられたこの服を、 自分のからだに合う和服にしようと考えたのです。よく遠藤を評価するときに、西洋 のキリスト教を日本に土着化させた小説家と評価されますが、まさにその通りなので す。これが遠藤を作家として誕生させた一番重要なきっかけでありました。 遠藤は、先ほど触れた通り、自分の体に合わないキリスト教を自分の体に合うキリ スト教に変えようとしました。神学では土着化や解釈という言葉で言いますが、遠藤 がどのようにして自分が考えたその目標を達成させようとしたかというと、それは、 遠藤が無我夢中にたくさん読んでいた探偵小説でした。 『宝石』という文芸誌があります。これは推理小説や探偵小説だけを載せたもので す。1957 年、江戸川乱歩が編集長の時に、遠藤にわざわざ「うちの雑誌に作品を一つ 書いてくれないか」と頼みこみ、遠藤は喜んで作品を書いたそうです。その作品が『影 なき男』というタイトルの小説です。この小説は遠藤の作品の中ではあまり注目され ていない作品なのですが、中身を読んでみますと『沈黙』の予告編のように感じられ ます。内容を簡単に紹介すると、以下のようになります。 ある村山というサラリーマンの前に、ある日、見知らぬ男が現れます。彼が現れた 理由はわかりません。しかし、村山はなぜか自分のポケットからお金を出して、「今 日はこれしかないけれども、またあげますので、今日はこれで許してください」と言 います。それが何回も何回も繰り返されます。なぜ村山は見知らぬ男にお金を渡した かというと、この村山には一つの暗い過去があったからです。村山は兵士としてソ連 からシベリアに行って、そこで戦争後も十年ほど抑留生活をしていた時期がありまし た。ある日、ソ連軍の将校であるこの作品の「犯人」から次のように言われます。「お 前の仲間の中で反乱分子の名前を言えば、お前を日本に帰らせる。共産主義に反対す るやつの名前を何人か言ってくれれば、おまえはこれから日本に帰れる。」と。最初 は村山も拒みましたが、どうしても日本に帰りたいという思いから、自分の同僚の名

(10)

神と自分はどのような関係にあるのか」という遠藤の一生のテーマになりました。 遠藤の色々なエッセイによりますと、遠藤はいつかそれを捨てようと思った時もあ ったそうです。自分は理由もわからないし、捨てたらむしろ軽くなるのではと思った けれどでも捨てられなかった。なぜできなかったかというと、それは自分を愛してく れた母からのプレゼントだから。母に言われて洗礼を受けたのでキリスト教という服 を脱いでしまうと裸になる。そして自分は父が母を捨てたように、もう一度母を捨て ることになる。このキリスト教の服を着ていても不便だが、捨てようとしたらもっと 大変になる。ではどうすれば良いのかというその疑問、問題意識から小説家遠藤は生 まれたのです。さらに遠藤は、キリスト教という、自分のからだにはよく合わない洋 服を母によって着せられたのであれば、これからは母によって着せられたこの服を、 自分のからだに合う和服にしようと考えたのです。よく遠藤を評価するときに、西洋 のキリスト教を日本に土着化させた小説家と評価されますが、まさにその通りなので す。これが遠藤を作家として誕生させた一番重要なきっかけでありました。 遠藤は、先ほど触れた通り、自分の体に合わないキリスト教を自分の体に合うキリ スト教に変えようとしました。神学では土着化や解釈という言葉で言いますが、遠藤 がどのようにして自分が考えたその目標を達成させようとしたかというと、それは、 遠藤が無我夢中にたくさん読んでいた探偵小説でした。 『宝石』という文芸誌があります。これは推理小説や探偵小説だけを載せたもので す。1957 年、江戸川乱歩が編集長の時に、遠藤にわざわざ「うちの雑誌に作品を一つ 書いてくれないか」と頼みこみ、遠藤は喜んで作品を書いたそうです。その作品が『影 なき男』というタイトルの小説です。この小説は遠藤の作品の中ではあまり注目され ていない作品なのですが、中身を読んでみますと『沈黙』の予告編のように感じられ ます。内容を簡単に紹介すると、以下のようになります。 ある村山というサラリーマンの前に、ある日、見知らぬ男が現れます。彼が現れた 理由はわかりません。しかし、村山はなぜか自分のポケットからお金を出して、「今 日はこれしかないけれども、またあげますので、今日はこれで許してください」と言 います。それが何回も何回も繰り返されます。なぜ村山は見知らぬ男にお金を渡した かというと、この村山には一つの暗い過去があったからです。村山は兵士としてソ連 からシベリアに行って、そこで戦争後も十年ほど抑留生活をしていた時期がありまし た。ある日、ソ連軍の将校であるこの作品の「犯人」から次のように言われます。「お 前の仲間の中で反乱分子の名前を言えば、お前を日本に帰らせる。共産主義に反対す るやつの名前を何人か言ってくれれば、おまえはこれから日本に帰れる。」と。最初 は村山も拒みましたが、どうしても日本に帰りたいという思いから、自分の同僚の名 前を教えてしまいました。そのおかげで彼は日本に戻ることができましたが、村山に とっては、自分の同僚を裏切ってしまったという思いがずっと後ろめたさとして残っ ていました。そのため、目の前に見知らない男が現れた時に、「あ!この人は自分が シベリアで裏切った人達の中の一人か」と思い、「申し訳ないけど、このお金で今日 は勘弁してください」、と言ってお金を渡したのです。ある日また男が現れてお金を 渡したところ、「これで結構です。これで十分です」と言いながら男はポケットから 出した領収書を渡してきました。村山が「これは何ですか」というと、男は「いや、 お前がいつか私のお店に来てお酒を飲んだじゃないか。お金がなかったから一筆書い て帰ったじゃないか。だから、お前の飲んだ酒代は全部これで払われたから、領収書 を渡そう」と言いました。領収書を見ると、自分の筆跡ではありませんでした。自分 の会社の同僚がお店に行ってお酒を飲み、お金がなかったので村山の名前と住所を書 いてしまったのでした。 この作品には、いわゆる「探偵小説が持つべき三拍子」がそろっています。江戸川 乱歩が語っていた、「面白い探偵小説になるための条件」というものがあります。① 出発点における不思議性がある。理解できない不思議なことが起きます。それを解決 するためのプロセスとして、様々な人が動きます。そこに、②必ずサスペンスがなけ ればならない。緊迫感がなければいけません。そして、③結末が非常に意外なものに ならなければならない。以上の 3 つの要素が、江戸川乱歩の語る条件です。 そもそも、「探偵小説」という言葉は日本ではあまり使われていません。むしろ日 本では「推理小説」という言葉のほうがより一般的に使われています。それには理由 があります。探偵の「偵」という字が、戦後の常用漢字の範囲に入りませんでした。 探偵という言葉が難しかったのです。もともとは英語の“Detective Story”ですか ら、直訳すれば警察小説や探偵小説になるはずです。しかし、探偵の「偵」という漢 字が常用漢字として認められなかったので、日本ではむしろ「推理小説」という単語 がよく使われるようになりました。あるいは「スリラー」や「ミステリー」という言 葉が推理小説と同じ文脈で使われます。 『沈黙』も、江戸川乱歩が定義した「面白い探偵小説」の 3 つの条件に合わせてみ ると、ピッタリ合う作品なのです。『沈黙』の書き出しを皆さんは覚えているでしょ うか。ローマ教会に一つの報告書が入ってきた、というところから物語は始まります。 その報告書の内容は何かというと、あの宣教熱心だったクリストヴァン・フェレイラ が棄教してしまった、つまり信仰を捨ててしまったというものでした。これはローマ にいる誰もが信じることができないことでした。フェレイラは、伴天連追放令が出た 後も日本に残って潜伏しながら宣教をしていた人なので、当時のローマ教会の人々に

(11)

はまさかフェレイラが棄教したとは思えませんでした。この「事件」における不思議 が、まさに江戸川乱歩が挙げた探偵小説の条件の 1 つ目の「出発点における不思議性」 に当たります。そのうえ、その「事件」の真相を調べるために、「探偵」が派遣され ます。それがロドリゴです。ロドリゴは一人で行ったわけではありません。ロドリゴ は、いわゆる「助手」を連れていました。その助手が吉次郎でした。ホームズがいつ もワトソンと一緒に行動するように、ロドリゴも吉次郎と一緒に行動しました。しか し、吉次郎はワトソンのように頼れる助手ではなく、むしろ頼れるどころか吉次郎の せいで逮捕されてしまうことになりました。多少の差異はありますがとにかく、『沈 黙』も「探偵」があって「助手」があるという構造をしています。 つぎに、「中道に於けるサスペンス」のところでロドリゴはフェレイラを追いかけ ます。そして、奉行の井上はそのフェレイラを追いかけるロドリゴを追いかけます。 「追いかけるもの」、「追いかけられるもの」があるのです。これは典型的な探偵小 説で、探偵と犯人の行為なのです。ここで重要なのは、『沈黙』では、実は「目に見 えないけれども追いかけるもの」があります。これは何かというと、神なのです。長 崎奉行の井上はロドリゴを追いかけていますけれども、実は井上も、神によって追い かけられている。井上も実はクリスチャンだったのですけれども、信仰を捨てて今度 は幕府の手先になってキリスト者を逮捕する役に代わりました。だから井上の心の中 には『わたしが・棄てた・女』の吉岡(男)のように、自分が棄ててしまったキリスト の痕跡が残っているはずです。遠藤が別の作品の中で、一度神に出会った人は神から 離れることができない、神は決してその人を手放しはしないという風に書いているよ うに、井上もそうなのです。だから井上は、目には見えないけれども自分の後ろから 神がずっと自分を追いかけているのを知っているはずです。そう考えてみると神の痕 跡が心の中にある井上も、ロドリゴもフェレイラも、実はそれぞれを追いかけながら も、その人自身もまた別の誰かに追いかけられることになります。これはサスペンス ならではですね。 江戸川乱歩が語っている探偵小説の条件の 3 つ目が、「結末の意外性」であります。 立派な探偵小説になるためには、読者がすぐにこいつが犯人だということがわかって しまうと失敗作なのです。そうするとその段階で読者は、本を閉じてしまいます。本 を最後まで読ませるには連発して誰?誰?誰?というそのいわゆる誘導力、その力に よってずっと引き込まれて読書は最後までいくので、結末は意外なものにならなけれ ばなりません。最後が驚くものになればなるほど、立派な推理小説、探偵小説になり ます。『沈黙』もそうです。『沈黙』の結末はロドリゴが踏み絵を踏みました。普通 考えてみますと、それによってロドリゴとキリストの関係はなくなってしまいます。

(12)

はまさかフェレイラが棄教したとは思えませんでした。この「事件」における不思議 が、まさに江戸川乱歩が挙げた探偵小説の条件の 1 つ目の「出発点における不思議性」 に当たります。そのうえ、その「事件」の真相を調べるために、「探偵」が派遣され ます。それがロドリゴです。ロドリゴは一人で行ったわけではありません。ロドリゴ は、いわゆる「助手」を連れていました。その助手が吉次郎でした。ホームズがいつ もワトソンと一緒に行動するように、ロドリゴも吉次郎と一緒に行動しました。しか し、吉次郎はワトソンのように頼れる助手ではなく、むしろ頼れるどころか吉次郎の せいで逮捕されてしまうことになりました。多少の差異はありますがとにかく、『沈 黙』も「探偵」があって「助手」があるという構造をしています。 つぎに、「中道に於けるサスペンス」のところでロドリゴはフェレイラを追いかけ ます。そして、奉行の井上はそのフェレイラを追いかけるロドリゴを追いかけます。 「追いかけるもの」、「追いかけられるもの」があるのです。これは典型的な探偵小 説で、探偵と犯人の行為なのです。ここで重要なのは、『沈黙』では、実は「目に見 えないけれども追いかけるもの」があります。これは何かというと、神なのです。長 崎奉行の井上はロドリゴを追いかけていますけれども、実は井上も、神によって追い かけられている。井上も実はクリスチャンだったのですけれども、信仰を捨てて今度 は幕府の手先になってキリスト者を逮捕する役に代わりました。だから井上の心の中 には『わたしが・棄てた・女』の吉岡(男)のように、自分が棄ててしまったキリスト の痕跡が残っているはずです。遠藤が別の作品の中で、一度神に出会った人は神から 離れることができない、神は決してその人を手放しはしないという風に書いているよ うに、井上もそうなのです。だから井上は、目には見えないけれども自分の後ろから 神がずっと自分を追いかけているのを知っているはずです。そう考えてみると神の痕 跡が心の中にある井上も、ロドリゴもフェレイラも、実はそれぞれを追いかけながら も、その人自身もまた別の誰かに追いかけられることになります。これはサスペンス ならではですね。 江戸川乱歩が語っている探偵小説の条件の 3 つ目が、「結末の意外性」であります。 立派な探偵小説になるためには、読者がすぐにこいつが犯人だということがわかって しまうと失敗作なのです。そうするとその段階で読者は、本を閉じてしまいます。本 を最後まで読ませるには連発して誰?誰?誰?というそのいわゆる誘導力、その力に よってずっと引き込まれて読書は最後までいくので、結末は意外なものにならなけれ ばなりません。最後が驚くものになればなるほど、立派な推理小説、探偵小説になり ます。『沈黙』もそうです。『沈黙』の結末はロドリゴが踏み絵を踏みました。普通 考えてみますと、それによってロドリゴとキリストの関係はなくなってしまいます。 ロドリゴはキリストを捨ててしまって、ロドリゴの信仰はなくなってしまったという のが一般の評価ですし、幕府も一応そういうことで終わらせようとする。しかし、『沈 黙』ではまさに意外なことが起きるのです。踏み絵を踏もうとした時に、なんとその 踏み絵のキリストの声まで出てくるのです。「踏むがいい」と。これは『沈黙』を読 んできた読者の誰もが想像することができなかった、意外な結論であります。 そして、結論にはもう 1 つ意外性があります。『沈黙』の一番最後がどのように終 わるか覚えていらっしゃいますか。『沈黙』にある「切支丹屋敷役人日記」を読まれ たことがある方、手を挙げていただけますか。遠藤周作読書会でもこれが話題になり まして、『沈黙』は「切支丹屋敷役人日記」をもって終結されましたと申し上げると、 読書会の参加者の中でも驚きの声が出ました。「この『沈黙』の後ろに書いてあるの はなんですか。昔読んだけれども注目しなかった。これはなんですか。これは付録で しょ」と。『沈黙』は英語でも訳されていますけれども「切支丹屋敷役人日記」は英 訳では“Appendix”というタイトルがついているのですが、これは「付録」の意味な のです。しかし遠藤にとってそれは「付録」ではなくて、そここそ一番大事な結末な のです。遠藤は、それを誰もがわかるようなかたちでは書いていなかったのです。候 文という 17 世紀の公文書からとってきてそこから抜粋して、自分の小説と合わせて 名前だけいくつか変えてそれを載せたのです。だから普通の人はある歴史資料を遠藤 が持ってきて引用したのか、なんらかの理由があって引用したのかと思うが、そうで はなくてそこが結論なのですよね。 みなさん『沈黙』の映画をご覧になった方は覚えていらっしゃると思いますが、映 画の最後のところでは、葬儀で棺桶の中にロドリゴが入っていて、ロドリゴの手の中 に小さな何かが置いてありましたね。これは藁で作った十字架なのですが、この「切 支丹屋敷役人日記」まで読まなかった読者であれば、あの場面はスコセッシ監督が勝 手に作った場面だろうと思うことになるかもしれません。しかしそうではない。「切 支丹屋敷役人日記」の中に十字架を握っていたとの具体的な表現はないのですが、屋 敷に入ってしまったロドリゴと吉次郎はそこで 40 年間生きた様子が描かれています。 その 40 年の間に、ロドリゴは何度もキリスト教をもう信じないと誓わざるを得なか ったことが記されています。というのは、彼は、屋敷の中でもキリスト教の宣教活動 をやまなかったということです。あるいは吉次郎の場合は、こいつまた信仰している のではないかと疑われて所持品を全部詮索されたりしたのです。「切支丹屋敷役人日 記」の中にある文章によりますと吉次郎の所持品を全部調べたところ、「本尊みいま せ」というメダル板のこと、実際には切支丹時代の遺物として博物館にあるものなの ですけれども、こういうメダルを吉次郎が持っていたと書かれています。これはどう

(13)

いう意味なのか。吉次郎は小説の中で何回もキリストを捨てて、踏み絵を踏んだので すが、彼は牢屋に入っていても死ぬまで自分の体の中にキリストの情、メダルを持っ ていた。この『沈黙』の結論は、踏み絵を踏むことによってこの 2 人は信仰を捨てた のではなくて、踏み絵を踏むことによって今までとはまた別のかたちでの信仰生活が 始まって、彼らが死ぬまで決してキリストから離れることはなかった。それが遠藤『沈 黙』の哲学かなと思います。実はこの「切支丹屋敷役人日記」こそ、この小説のハイ ライトなのです。 遠藤は亡くなる 3,4 年前に『沈黙の声』というエッセイを書いたのですが、そこに 「今もう一度『沈黙』を書くことになったとすれば、決してそんなに読みにくくはし ないだろう。」と自分のことを反省しているのですけれども、実はそこに遠藤らしさ が出ているのではないかと私は思います。それをみんなが全部わかるような形で書い てしまうと、その小説の面白さがなくなってしまうのです。見る人ぞ、見るという形 ですね。読みにくくしているその中に自分が語ろうとしていることを隠している。『沈 黙』こそ立派な探偵小説なのです。 遠藤周作はどうやって探偵小説に興味を持つことになったかという話ですが、彼は 慶応義塾大学を卒業して戦後初めての留学生としてフランスに留学しました。リオン 大学に留学をしたのですけれども、そこで遠藤はいろんな作家の小説を読みます。も ともと小説家になろうとして留学したのではなく、文学研究家になって日本に戻って 大学で教鞭をとろうという目的で行ったわけです。博論のタイトルで考えたのは「現 代カトリック文学による分析」でした。遠藤は小説家になったのですけれども、留学 中にたくさんの作家の作品を読んだわけであります。『作家の日記』という分厚い留 学時代の日記が今も残っていて 11 号まで書いています。フランスのモリヤックやヒ ルナーデスやカーミル、トーマス・マンという『魔の山』を書いた作家を読んでいま す。遠藤は結核が再発して何か月か病院に入っていたのですが、そこでトーマス・マ ンの『魔の山』を熱心に読みました。『魔の山』の内容は、人間は病気を経験するこ とによって、結果的に言えば死を経験することによって、自分の存在意味、存在によ る運命が変わると書いているのです。それを遠藤が真似をしたといってはあれなので すが、日本に戻って『沈黙』とまったく同じ時期に書いた小説があるのですね。それ が『満潮の時刻』という小説です。 『満潮の時刻』の内容を要約すると、ある人が病気になり病院に入って、二年ぐら い病床生活をしいられる。これは、遠藤は自分の話をしているのですね。それによっ て人生の理論や世界を見る目が変わります。この小説の最後はどういう風に終わった かというと、長崎に行って踏み絵を見るわけです。そこの人間のことが『沈黙』にな

(14)

いう意味なのか。吉次郎は小説の中で何回もキリストを捨てて、踏み絵を踏んだので すが、彼は牢屋に入っていても死ぬまで自分の体の中にキリストの情、メダルを持っ ていた。この『沈黙』の結論は、踏み絵を踏むことによってこの 2 人は信仰を捨てた のではなくて、踏み絵を踏むことによって今までとはまた別のかたちでの信仰生活が 始まって、彼らが死ぬまで決してキリストから離れることはなかった。それが遠藤『沈 黙』の哲学かなと思います。実はこの「切支丹屋敷役人日記」こそ、この小説のハイ ライトなのです。 遠藤は亡くなる 3,4 年前に『沈黙の声』というエッセイを書いたのですが、そこに 「今もう一度『沈黙』を書くことになったとすれば、決してそんなに読みにくくはし ないだろう。」と自分のことを反省しているのですけれども、実はそこに遠藤らしさ が出ているのではないかと私は思います。それをみんなが全部わかるような形で書い てしまうと、その小説の面白さがなくなってしまうのです。見る人ぞ、見るという形 ですね。読みにくくしているその中に自分が語ろうとしていることを隠している。『沈 黙』こそ立派な探偵小説なのです。 遠藤周作はどうやって探偵小説に興味を持つことになったかという話ですが、彼は 慶応義塾大学を卒業して戦後初めての留学生としてフランスに留学しました。リオン 大学に留学をしたのですけれども、そこで遠藤はいろんな作家の小説を読みます。も ともと小説家になろうとして留学したのではなく、文学研究家になって日本に戻って 大学で教鞭をとろうという目的で行ったわけです。博論のタイトルで考えたのは「現 代カトリック文学による分析」でした。遠藤は小説家になったのですけれども、留学 中にたくさんの作家の作品を読んだわけであります。『作家の日記』という分厚い留 学時代の日記が今も残っていて 11 号まで書いています。フランスのモリヤックやヒ ルナーデスやカーミル、トーマス・マンという『魔の山』を書いた作家を読んでいま す。遠藤は結核が再発して何か月か病院に入っていたのですが、そこでトーマス・マ ンの『魔の山』を熱心に読みました。『魔の山』の内容は、人間は病気を経験するこ とによって、結果的に言えば死を経験することによって、自分の存在意味、存在によ る運命が変わると書いているのです。それを遠藤が真似をしたといってはあれなので すが、日本に戻って『沈黙』とまったく同じ時期に書いた小説があるのですね。それ が『満潮の時刻』という小説です。 『満潮の時刻』の内容を要約すると、ある人が病気になり病院に入って、二年ぐら い病床生活をしいられる。これは、遠藤は自分の話をしているのですね。それによっ て人生の理論や世界を見る目が変わります。この小説の最後はどういう風に終わった かというと、長崎に行って踏み絵を見るわけです。そこの人間のことが『沈黙』にな るわけです。 遠藤はグレアム・グリーンが大好きで、彼の作品を沢山読んだわけです。また遠藤 が作品を必死になって読んだのが、アメリカのハードボイルド作家のダシール・ハメ ットです。その記録はどこにあるかというと、フランスの作家 J・マドールのグレア ム・グリーン論を読んだ際の、遠藤のものすごく細かい書き込みがあります。その書 き込みを読んでいるとこういうものがあります。「カトリック小説家になるためには 探偵小説と映画の技法を学ぶのがいい」。そういう理由で、遠藤は多くの探偵小説を 読むことになりました。 ハードボイルド小説というのは、探偵自らが犯罪などに加担する。一番わかりやす いのは、『ダイハード』という映画。ダイハードの内容は、刑事と犯人がどちらか分 からないほど、探偵刑事と犯人の悪さの程度が似ている。ハードボイルド小説という のは、探偵自らが汚い手を使って犯人を捕まえる。探偵の刑事も犯人も同じ現実の人 間です。我々が生きているこの現実というのは、非常に汚い。そういう問題がある現 実だということを、こういう作家は書いております。 さて、ダシール・ハメットの日本語では『影なき男』という本。これは遠藤が 1952 年にフランス留学のときに必死に読んだ本です。先程申し上げたように 1957 年に、 江戸川乱歩に頼まれて、書いた推理小説、『たぐいのもの』のタイトルも『影なき男』 だったのですね。最初は『影なき男』のタイトルで発表したのですが、後にその同じ 小説にいろんな探偵集を載せるときはタイトルを変え、『鉛色の朝』と改訂しました。 それでは、なぜ探偵小説だったのかという話に戻ります。遠藤は自分の目標とする、「西 洋のキリスト教を日本の土地に土着をさせる」という目標を達成させるために、なぜ、探 偵小説を起用するスタイルをとったのか。それは、探偵小説こそ、神と人間の関係を一番 よく表わすと遠藤は考えていたからです。遠藤は以下のように語っています。 「推理小説は、最後の頁を開けるまでは大体犯人がわからないように書いてあ る。つまり、この犯人というのが人生の意義です。時には鮮やかなドンデン返し もある。私たちの人生にも最後にドンデン返しがある。人生の意義というのはそ ういうもので、神様は、最後に私たちをドンデン返しさせてくれることがある。 どんなに神を否定しようとしても、最後の頁でドンデン返しをして、自分を信じ させる、ということです。推理小説のことを私たちは普通ミステリー小説と言っ ているが、私の小説も、人生も、やはりミステリー小説です。」 遠藤が考えているキリスト教信仰とはなにかというと、「神様によって、私たちが 追いかけられる」ということです。私たちが神を追いかけると思っているかもしれな いけれども、実際には、私たちは神によって追いかけられている。

(15)

遠藤は、先程申し上げたように、受けさせられた洗礼によって、神を追いかけることに なった。自分の意志と関係なしに結ばれた、その神とはどういう存在なのか。西洋宣教師 たちが伝えてくれたそのキリストの神と、日本人である私は、どういう関係があるのかを、 ずっと問い続けていたわけです。彼は彼なりに、神を追いかけていたのです。 しかし、最後になって彼が分かったのは、自分が神を追いかけていたのではなくて、 神が自分を追いかけてくださっていた。そのおかげで、自分は神を追いかけることが できた。それが、遠藤が『沈黙』等全ての作品を通して語ろうとするところであり、 それが遠藤文学の一つの重要なことではないかと思います。 また、『鉄の首枷―小西行長伝』という評論なのですが、小西行長は表ではキリス トを捨ててしまいました。しかし彼は最後の最後までキリストを捨てることがなかっ た。それはどういう風に表れているかというと、彼は関ケ原で負けてしまって、捕ま って処刑されるのですけれども、彼は処刑されるときにキリストが受けた苦難のこと を思い出します。遠藤はそれをどのように結論付けるかというと、行長は自分の出世 のために、自分の生活のために、神を捨てたと思っていたけれども、神は一度も彼を 捨てたことはなかった。神はずっと彼を追いかけていたと。それが『鉄の首枷』とい う評論の結論だと思いますし、遠藤が自分の作品全体に対して下す一つの結論でもあ るかと思います。 最後に一つ、詩を引用いたします。フランシス・トムソンという詩人の「天の猟犬」と いう詩です。この詩にでてくる“The Hound of Heaven”(天の猟犬)というのは、キリ ストのことです。中世の時代からキリストのことを“The Hound of Heaven”と呼んでい ました。それは、ずっと人を追いかけてくる猟犬のニュアンスがあり、そこで、自分はず っと神から逃れようとしていたけれどもそれができなかったことを表しています。 「今やかの長追ひの音は身に近く迫って来た。あの声は轟く海の如く私のまは りにある…かの音は私のそばにとまった。私のやみは、畢竟するに、ひろげられ た愛の御手の影であるか」。(佐藤清訳) 自分は神を追いかけようとして、時には神を見つけることができなくて不安に堕ち たり、あるいは神を信じることによって周りから色々言われたり、色んな苦労をした ことがあり、自分の人生には色々な影がある。暗闇がある。しかし、今考えてみると、 その影は実は神が私のことを愛し、広げくださったその翼によってできた影ではない か。その暗闇の中に陥っていたときこそ、実は自分は神の深い愛の中にあったのでは ないか。これは一つの告白であると思いますし、遠藤周作という小説家の、いろんな 作品を通して自分の信仰を表そうとした、その一つの結論でもあるかなと思います。 (2019 年 10 月 25 日(金)神学部秋季学術講演会)

参照

関連したドキュメント

* Windows 8.1 (32bit / 64bit)、Windows Server 2012、Windows 10 (32bit / 64bit) 、 Windows Server 2016、Windows Server 2019 / Windows 11.. 1.6.2

燃料取り出しを安全・着実に進めるための準備・作業に取り組んでいます。 【燃料取り出しに向けての主な作業】

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

(a) ケースは、特定の物品を収納するために特に製作しも

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

❸今年も『エコノフォーラム 21』第 23 号が発行されました。つまり 23 年 間の長きにわって、みなさん方の多く

モノづくり,特に機械を設計して製作するためには時

QRされた .ino ファイルを Arduino に‚き1む ことで、 GUI |}した ƒ+どおりに Arduino を/‡((スタンドアローン})させるこ とができます。. 1)