Kobe Shoin Women’s University Repository
Title
服装史に現われた留具の暼見
―釦・ストラップ・レーシングを中心として―
Author(s)
山根 弘子
Citation
研究紀要,第二号:57-81
Issue Date
1961
Resource Type
Bulletin Paper / 紀要論文
Resource Version
URL
Right
ι古血 え
第一章
第二章
第一節 部二郎 第三郎第三章
第一節 第二郎 筋三郎服
装
史
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次 カ三 き 釦 の 語 源 に つ い て ストラップ・レl
シ ン グ ・ 釦 使 用 の 起 り 古代アツア諸国 古代欧洲諸国 中山欧洲諸凶 釦・レl
シ ン グ の 使 用 形 式 の 変 化 と ボ タ ン ホl
ルの発生 ピザンチン時代 ロマネスク時代 ゴシック時代 第四節 第五節 第六節 第七節 第入節 第九節 あ と が L 古 品山
根
弘
子
ルネッサンス前則 ルネッサンス本則 バロック時代 - 57ー フランヌ革命前後 ト ・ し 宜d
-J aノ 4 l i v e z 崎 川 二O
世紀 九 4 U えカ
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L d 現夜我々は、外出者に、日常狩にと、何の掘抗もなく、極く自然に釦 を用いているが、その目的は、問中に衣服の前ゐき又は後あきを、たr
か き合せる機能的な役目のみや﹄持っているのであろうか。 一見ごく小さな、愛らしい服飾品の一つでゐるボタンが、実則的な川 ‘ 一、一途と同時に、骨折って仕上げられた衣服のポイントとして、非常に大き な装飾を兼ね、衣服をより立派に見せている事が多いということは何人 にも解ることなのである。 では、ボタンその他の留共は、何時凶から、我々の衣生活の上に現わ れて来たのか、叉、その後如何なる.陛史的変移をたどって、現在に至つ ているかを、木編は服装史を通じてこの問題ぞ考えてみたいと思うので ゐ る 。
第一章
釦 の 語 源 に つ い て 現在のボタンσ
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く・:フランス語)即ち押すこと、突き出ること、と同じ語源から来℃ いる。(註一)叉一説には、現在のボタンはポルトガル語のσ o
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ロ ( ボ タ ン又はブタン)が変化したものとも云われ、英語のボタン ( ゲ m H 片 付 。 ロ ) は 古代ゲルマン訴のσ o
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ロと古代ラテン語のσ
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-ポタレイから米 たものであるとされているがいまだ定説はない。(註二)尚乙のげEZ
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ロ 円 凶 州 戸 吋 仏 関 口 の U1 門 日 ︼ O H X W︻ 凶 { 仰 に よ る と 、 ( 一 ) ボ タ ン き の こ、(二)電鈴のボタン、(三)フェンシング練習用の剣の端のつば、(四︺ 指物師が箱の蓋ゃ、タンスの一戸等を閉めるのに用いた長方形の掛金の一 師、(五)試念分解に於いて、融併後るつぼに残る余粒等の泣味にも川い られ、俗語としては、長談義、とるに足らぬ等のな味にも用いられるの は 面 白 い 。 註z q
毛 ω S ロ 門 凶 白 E H W ロ nU1n ︼ O H出 品 目 何 よ り r、、 、一一
、 、J ﹁ ア ク セ サ リ イ の 文 化 史 ﹂ 背 木 英 夫 、 大 橋 俗 一 郎 蒋 抄 山 山第二章
ス ト ラ ッ プ ・ レl
シ ン グ ・ 釦 使 用 の 起 り 第一節 古代アジア諸国 では、ボタン等の使用は何時頃より始まったのであろうか。 説は多々あるが現在では、まだその点が明確に解っていないのである。z o
詩 的 仲 良 戸 内 目 白- E
開 ロ ミ の- o
匂色町"には、エジプト王朝第四期から館六期 の間に始まった事は明らかであると記してある。開ちエジプト芸術の最 n D F h u も両度な水準にあった時期に、ボタンが現われたと記してあるが、これ は明らかな証左はなくその起原はびも・ブローチの形式よりボタンへと 発達したものと忠われる。 元 前 三 五OO
年の苦から、 エジプトは、附男文化を伝えた最初の国で組 ロインクロス(
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チュニック 、 H,c
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の ) が ゐ り 、 スカートも分離していた。上衣は貫頭衣で、長万担の 布に首の入る穴を明けて、かぶって着ていたのである。 西洋の衣服は頭が通る穴を明けただけの直線裁ちのものより始まり、 東洋の衣服は、山口小にもある如く前に切り ζ みを入れて者ていたので あって次第に紐でくくる様に発達して行ったのである。 こうしてみると打合せのある背広等の洋服の形式も、元来は東洋より米 た 仰 山 で ん る と ・ ? ? っ ぃ 引 が 附 司 令 。 口 一 凶 衣 の わ ぐ り は 一 山 が 泊 る 為 に は 川 市 l 明寸法の不足を補う意味で前明を作り、 大きくあけねばならず、首穴がだぶつくので、衿円、りを小さくする為に とを考えついたのである。 ( 1 図 ) その明の始末として組を結ぶ乙 (第1図) チュニツク姿のシリ7人衿元のひも結ぴ B.C 14ω年 尚附記すべき乙とは、乙の時代に既に針を用いていた事で、石材製の 事は、興味深く感じられる。(註三) 太い針、骨製の優秀なメドのあるかなり先の鋭利なものが生まれていた エジプトの服装で特記するもの、一つとして、上半身裸のネックにび {第2図) 組元前十四世相回、 ギ9>ノヤのサンダル(ひもI-.',i:n つ 三 り ー J ヒ 、
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-つ カ ラ l e ゼつけている 4 1 1 1 j J J 1 ! 1 ・ 111 が、この後側が組で結ぶようになっていた 縦であるが、ブローチ止めの形式でボタン がけにしていたのではないかとも、組像き れ る 。 次に王族に限って用いられたサンダルに エジプトの履物(ボタン留め) は金銀の飾りや宝石を飾つでありボタン留 めのようにも見られ、ぺルシア地方即ち、 高原地の風俗の影響とみられるものであ る 。 ( 2 図 ) アブラハムがアラピヤ沙漠より出て国を建て、 ~ - 59ー 。フライと呼ばれた乙の地方の衣服は、カナンの文佑を代表したもので、 紀元前三000
年より定住しているエヲプト・パピロニアの服飾をも充 分に阻鳴していた。 乙の国の最も風変りな服のカフタン(のえ宮口) iこ ボタンの前身とも云うべきストラップが見えている。 ( 3 図)即ち正面が 下まで広く切り開かれていて、丁度日本の三斉羽織のような筒袖の羽織 形のもので、乙、で特筆すべきことは、胸に羽織のように紐をつけたこと で、その紐は 3 図のように、ストラップ印昨日匂式で、襟の左右に紐のわな ( ル l プ F o o u ) があり、それに一本の紐の両端を円く結び間めた丸い結 び目}自己を作り、乙れをかゲに過してとめているのは、非常に興味 と ん ぱ が し ら のあることである。この結び目を中国では踊蛤頭といい、(註四)日本で も奈良明前、文武天皇大宝元年に川いられ、また藤原時代以後今日も決の で あ る 。 現在中国でも中国服には用いられている 東に用いられており、また、 (第3図)
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英 語 で は こ れ 吾 ( 印 けE M
︼ ) へプライのキヤ7
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ン 胸のストラップ 生百蛤頭と石のボタン 世界服装史要(江馬務若) によればこれがボタンの前身であるとも云われている。乙の前の割れた 服は東洋の特色であるからペルシヤ或は遠く支那あたりとも東西文佑の といっている。 交流があったものと推測きれる。 ペルシャの特色ゐる衣服の一ったる上衣はクロークの一一服でその形状 は今日の男子のオーバーと大差はない。乙れの特色は襟が別についてい ることでまだ前の重なり即ち打合せにははっていない、襟先の下左右に 官に表わしている。(註五) 紐がついている等丁度我が国の羽織の形体を持ち、東洋衣服の特色を世 ペルシヤのぺプロスがアッシリヤへ移入し更にアラピヤへ入ったもの ぞケ!プ ( n m w U ゆ) の如く阿同にかけて両端をボタンで止めたものもあ った。乙のボタンと云うのはσ
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ロで、ブローチ(凶g
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が 西 洋 の創案であるに対して東洋の創案によるものであり、それは紐を結び間 めたもの(崎蛤頭)から発迷したものであった。 ペルシャ湾に真珠が多 産し乙の真珠貝がボタンを作る要件に最も適したのでこれを崎蛤顕の代 りに用いたらしい。即ち真珠とか宝石を紐で括りつけたり、穴吾明けて 紐ぞ通したりする原始的な万訟で使用し始めたのであろう。 このように 自国の産物を多く用いて飾りつける方法より流行も起ったのであろう。 ( 3 図 ) 詮 ( 一 ニ ﹀ 丹 野 郁 者 西 洋 服 飾 発 迷 史 抄 出 。 ひ ふ ( 四 ) 紐 を 組 合 せ て 釦 の よ う に 凶 く し た も の で 、 被 布 の 飾 り 、 支 那 服 の 服 印 刷 め に 用 い ら れ て い る 形 式 。 ( 五 ) -江 馬 務 者 世 界 服 装 山 門 前 官 妙 出 。 .,.-6
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ー 第二節 町 三 、 恥 入 判 H 祝 日 川 町 -I t -H M り 羽 o d -w h ト。
ク リ 1 ト の 円 。 件 。 ク リ l ト島はエ l ゲ文化闘にある古代文化国で、組元前三000
年 に 発 達 し た 。 当時の服装の前身国にレ l シングを、面白く扱っている ( 4 図)即ちボ ディス(切 O 品 目 。 止 と 称 す る 上 衣 は 裁 断 行 口 片 付E m
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がある事が特徴で前 身は下迄割れている。 これにはモーニング風に下まで開いたのと特に大 きく上の万で聞いて下で左右が接近しているのと二部がゐり、その内後 者は前ゐきの始末としてよくしまるように、紐留めにして処理している(第4凶) ツーピースをつけたクリートの 蛇の女神胸のひもしめが面白い B.C約17∞牢 乙 と で あ る 。
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図)今ならさしずめファスナーを用いるところである。 ース形式で、欧洲でツーピースが始まった最初と云うことになる。 乙の服を着てスカートを別に穿いたのであるから明らかに完全なツ l ピ a (第5図)。
ギリシャ( の
円 。
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σ ) 、ギリシャはヨーロッパの東南の半島国で、ヘレン人の建国である。 b ヲリート・ボディス その後マケドニヤよりアレキサンダ!大王が出て、東洋遠征の大志を実 現して、ペルシャを占領し遂に印度迄軍隊を進めた。彼は東洋の文佑を 大巾にギリシャに移入し、一以.内山飾の交出に口献じたのである。 正J) ‘ り ("t 発押したのである。 る方面にい川皮の文化ぞ築き上げた古代ギリシャ人は、衣服にも独創性を で 、 ア ク ロ ポ リ ス ふ れ ︿ 9 悲しみのアテナの彫像 4 これが所訓キトジ( n
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ロ ) はキトシに丸いボタン状のブロ l 術館にある (第 6図) 、丸、[:JJ
・ ギリシヤの留只(装身m
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61-チが左右につけられている。キトンにはドリア式キトンとイオニックキ トンの二極がありドリア式キトン(ロ
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ロ)は長万形の布で、 先ず横長にとって上を梢に外部へ折返し、次に中央折目の中程へ身体 を入れ頚の左右をピンで止め ( 6 図)‘手を上の前後の合せ白から出し て、隅は左右の肢の下に章一れ下り時(ベルト)ぞして中心へ左右の巾を 引き寄せ援を多くとるのである。次にイオニックキトン ( H O ロW Q丘
O ロ ) であるが、これは大きな底なしの筒状に布ぞ縫い上部は幾つも前後をピ ン で 止 め る 。 ( 6 図 ) このように布を留める目的をもって装身具を肘いて い る の で あ る 。。
エ ト ラ ス カ ン ( 開 可 ロ 曲 。 山 口 ) ェトラスカンは伊太利の中部エトルリャ地方に紀元前七世紀頃移住川町 た民族で、深くギリシャ文化に感染・同佑して新しい服装を創り出した が、紀元前二世相頃から衰微して遂にロ 1 マに統一会れたo
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ある衣服として若者や兵士等の用いたギリシャのクラミス(長方形のケ は両一日に掛けて用い、上の両端ぞ正面の頚下でブローチで留めた ー プ ) ぞ ル l プ ( F 。 。 匂 ) に 通 し て 留 め る こ と も め つ に 。 エトラスカンでは衣服の外聞線が曲線を描いているものも多々ありス り叉ボタン(∞EZ
ロ ) カラップ(
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などの、美しい山娘もこの時代より用いられてい ることは裁縫の面でも相当発達していたものと推察される。 大英博物館に紀元前三山組作の。臥せる女性の像 e があるが、白色の 薄いキトンを若て一周でボタン印閉めにしているのは、釦使川のあった事を 物 語 っ て い る 。 現在でも木で作った丸い形のものの上部に洋服の布地と共布をかぶせ た 9 くるみ釦 4 を作り同じく共布のバイアス地で細いル l プを作り、衿 あき・袖口あき等にル 1 プを半円形にして留めつけ、その中に 9 く る み 釦 4 を通して間める・形式を川いているので、この万法らしき事が乙の時 代より行われていた引は、興味めることである。まことにボタンの使用 方法にしては、装飾性をも兼ねたドレッシイな方法と思われる。。
H N 0 5 σ ロ ー マ ギリシャのクラミスに当るものにラセルナ ( F m w の ゆ 吋 ロ m w ) があり丈は膝 迄位な長方形のもので右一同で上の両端をブローチで留める形である。 ζ の時代のブローチは美佑し花形の美しいもので、東洋の特色たる宝 石を飯入したものが多い。例えば東ロ 1 マ 帝 国 の ユ ス チ ニ ア ヌ ス 大 帝 一 の正法の右同下に止めにブローチも、赤い宝石が飯入さ臼 ( 五 六 五 年 ) れ 、 ブ 同 l チからも先端に玉のついた鎖が三本も垂れていにのであ る 。 ( 註 六 ) 《 註 ( 六 ) 江応務者枇界服装史直接抄出 ロ ! ? 限 立 美 術 館 械 の ロ 17 大 石 棺 ( 侵 入 省 を う つ ロ ! ? 人 押 彫 ) a b に も 右 . 同 に 釦 様 の も の が 叫 見 え て い る 。 第三節 中世欧洲諸国 名 中町と呼ばれるのは大体五山記から十五世記までの間であって、 キリスト教時代とも一五われている。乙のキリスト教がロ 1 マで一般に蔓 延するようになってからは似の様式が一変すおに.主った。つまり裁縫し ない布地を身体に活きつけて波う式の時代が終ったのである。キリストれ約仰によって、即決の刑訴をする奴却述が解放されて、円分の服は、 自分で泊る時代となったのである。叉他万ロ l マ - M W問内に移住していた ゲルマン民族は、高度のロ l マ文化を自己のものとすると川時に自己の 従来の服装をも忘れず、 乙﹀に現代洋服と呼ばれるものの掠磁を捉供し
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ド る の で あ る 。第三章
釦 ・ レl
シ ン グ の 使 用 形 式 の 変 化 と ボ タ ン ホ ー ル の 発 生 第一節 ピザンチン時代 古 代 ロ l マ帝国とは興った文佑的発展のあとが見られるのは、キリス ト教が国教とされた事と、首都がロlマからコンスタンチノlブルに移 された事によって東方的な袋奈が被服の面にも多分にとり込まれるよう に な っ た 。 即ち東万の絹、金欄、錦の織物、或いは刺繍が用いられ、まばゆいば かりの豪来絢測にる服装となっていったのである。 フランスも元来は同一ゲルマン民族でゐるから、風俗に於いては相通 ずるところも多かったわけで、多分に服装の色、文様に東洋の影響を取 り 入 れ て い た 。。
フランク王国とフランス フランク王国五町組の婦人服装の新しいものは、中央撚下に長い間目 を入れた金色のボヂス ( 胸 衣 ) で あ る 。 乙れは中山になってヅプレ l ( u c g z m け ) とも呼ばれた納なしの短衣で、 正面が聞いて後にはボタン 告多数につけたものであるが叶時は三,に一般に将比していなかった。 六仰い叫の上流社会では宝石入りのブローチをお脇より正十山中央へと移 動してつけているのが見られ始めた。 マントル或は、ガi
メントは変つ た一一仰のオーバーとも一五うべきもので袖口が広く、前あきの上部をブロ ーチで留め、又は上端に組をつけて繋いだ。前は全然とめていない。 ロマネスク時代 十 字 軍 は 一O
九六年t
一二九一年に至る聖戦で封強制度の下に、諸問 の武士が帝王に率いられて従附した。この将士を騎士ナイト(間口目的伊丹) と 一 一 令 っ 。 第二節 ノルマンはノi
スマン(北人) とも云い、乙れら北人を加えた武士 - 63--の出征風俗は、鎖鎧を者ていたがこれが日光で光るので、その上に羽織 なるものを岩山し始め、これがはからずも る スl
ル コ 1 ト(
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ロ 円 。 。 問 。 一般社会の服となった。即ち男女共この形式を川いてをりしかも前身切、 上部、衿あきの始末にボタン(切口洋。ロ)を始めて使川し、十三世紀に は前身出の上部より脱凶線に去る前あきに、ループにさした形式で釦を 使刑している。叉盟のボタンホールもあったらしく、 ζ の時代よりドイ ツ・フランスにてボタンを出いる引が大いに流行したのであり、フラン スの十ニ附紀から十三位記にかけて岩られたガ l メントも、正面の上部 ピけが聞いてボタン掛けとなり裾はフレヤ!となっている。叉一間口から 股へ大きく開放された上に、ケープをつけたス 1 ル コl
ト、これは前正 面が飾り釦らしく見える。 前あきは右前でボタン掛万式、正面打合せには、ボタンを多数に並べる風が生じて来た。 このように外に見せる飾りボタンをつけて装飾とす るのが見られ出した。 十三世紀の終り頃より十四位紀にかけてのイタリヤ市民の服装を見る に、詰襟で筒袖の、足首まであるような長いオーバーの襟の合せ目に、 ボタン三つがつき、それから下へニ
O
個以上のボタンが並び、ボタンホ ールが明けられている事は注目に航する。即ち当時は切角立派に仕立上 った衣服にボタン穴をあける一引を嫌がっていたのである。尚打合せがこ の十三位相で始めて中国の影響を得て右まえとなっているので、後世の 男子服の始まりである。又この頃のスペイン人の衣服は、ジャケット ( し ﹃ 仰 の W O 門 ) の形となりタイトスリーブで長袖・襟にボーダーをとり、前 は割れて正面に合せ目を作り無数の釦でとめていた。 手首にも四・五個又は多数のボタンを竪につけているのは、手首をま くり上げる時に便利な為であったらしい。乙の万法はナイトの服装より 起ったものとも云われる。 上流男子の変った服装はケl
プとスルコ1
トの合併でゐるカl
リック (後のインバネス)で、前に合せ白を作って三つボタンを七ケ所につけ た が ζ れもループ形式と思われる。。
ド イ ツ ドイツ風俗も、紀元一二OO
年国から一三五O
年頃に至る期間、仏国 と大体併行して共通したものがあった。即ち上流男子は、リリパイプ 戸 昨 日 立 ℃ ゆ 式 頭 巾 で 咽 喉 を も 包 み ζ んだ上に新式のジャケットを着用し た。前はボタン掛けで右まえとし、グリーンのショl
ゼ ( 長 ズ ボ ン ) を つけ袖口もボタン五・六個をつけ、バンドをしめていた。 このジャケツ トは右は赤、左は背臼斜縞の半々のパ!チカラー (片身替り)もあった とは、奇抜極まるものでゐった。しかし大衆は保守的で、ドイツには殆 んど特色はなかった。 英 今和次郎若﹁女性服装史﹂による英国十三世紀闘の英国皇后の図を見 るに、ロ l ネックのワンピースの前めきを紐でか Y っている o ( 7 凶 ) ζ。
国 (第7凶) - 64ーf
背を縦み緊めた般の若附レーシング(Lacing) 131世記 れ を レ l シング(
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註七) と云い、すでにクリ l トのボディス にて用いられたものと同方法に岡山われるが、クリl
トは上衣式の背丈迄 のもの、十三世紀頃よりは前上部よりヒップにかけて、相当長く用いて いる。叉同時期に後に打合せのある服が起り、背中があみしめ(レ 1 シ ング)られるように、鳩目(アイレット)が沢山あけである。(七図)こ れを着て紐をしめるのであるが、これで胴が自然のま﹀のシルエットを示 す ζ とになる。しかしこの方法で者付けると、 シ ル エ ッ ト は 一 一 小 さ れ る が、欠点として沢山の梢じわが出米る。 背中で紐じめにする代りに、胴の両側で紐じめにする式のものもあ る。胴の械のくり取った個所に鳩目を並べ左右両側でしめると、 でしめるよりも、素直な﹁シルエットが出る乙とになる。 一 ケ 所 このようなぴっちりんた胴体、広くて長いスカートに、馬鹿気た長い 袖ぞっけ地上を曳きずって歩くものもあった。 ( 8 図)男子のクロークは (第8図) (第9図) 1180年女子服 1180年男子服 できる限り後にはねて、下に持ている衣裳をなるべく見せようとし留め 具は今迄一つのブローチやピン等を用いたが、ブローチニつ叉はニつボ タンに変り
(
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関)ボタンからボタンに紐やリボンを渡し前にかけて留 め て い た 。 婦人の下に若ているチュニックの衿元にもボタンょうのものを、多数 並べてつけているが、中位の宝石で飾ったある和の金属で作られている ように見えると記してゐる。(アイリス・ブル1
ク者英国服装史)尚同書 によれば十二世紀後期の男子関に見えるクロークの右肩の上部に見られ るバックルょうの留め兵と 8 閣の女子服の惜の前中央部に留め共が認め られるがおそらく皮革の表面に金を塗ったものを使川したと思われ、留 具は材質的・意匠的にも相当発達してきたことが抗媒ぢれる。 - 65ー 註 ( 七 ) 衣 服 を 身 体 に 合 わ す と 云 う こ と ( フ イ ッ テ ィ ン グ ) を 目 的 と し て 、 釦 の 将 り に 穴 を あ け て 、 紐 を 通 し て し め る ζ と で ( 仲 町Z
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ロ 伺 ) 紐 の か け 方 に 次 の 二 騒 が あ る 。 0 = 0 0 = 0:
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ゴシック時代 第三節 地上に於ける抑の国としての寺院教会を十三位紀以より美しく飾る為 に寺院に尖塔吾作り内部の壁面告ステンド・グラスによって飾り始め た 。 ζ の時代をゴシック時代と昭ぷ。 十三批記に現われたシクラス(詑八﹀の男子用は、野外へ若て出るた めか丈が比較的短く、同相の下半分が剖れて、毛皮の裂がつけられ開閉 旬、、が訓節されるようにボタンがつけられていた。丁度日木の附羽織と似て 、 ‘ , 、 , 内 V
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EV--このシクラスと似た外套は袖がゐるにもかかわらず袖の肢の下の 穴から腕を出して荘るもので、服の前面が全部開いていて、ボタンがけ にするものもある。今和次郎著﹁女性服装史﹂によれば袖の変ったものも あって、袖付から袖口迄切れていて、そこを適当にボタン掛けにする式 になっているが平常は聞いたま訟の丞袖にしているものもゐった。明ら かに釦とボタンホールとを多数に用ドたもので閲閣の自山さと共に、ボ 1間 年 制lのポ空ンm
け a (第101ヨ) b タンのリズムカルな配列が全体としてのアクセントになり、決飾的にも 面白く十四川紀から十六位紀にかけて、好んで用いられたようで(叩図 a -b ) アイリス・ブル l ク若﹁英附脱出史﹂による図(叩関 b ) に表わ れているダ 1 ツの位置につけられたボタンの扱い万も同椋に面白い。 当時の北万人は来、冷な土地に住み狩猟生活で経済を立て﹀いたので被 服の材料として手近な獣皮や欺毛を附いた。従って而引の限られた欺の 皮吾川いるため、切ったり縫ったりして、形づける工夫を生みだし現在 の洋裁技術上の常法としている事柄の先駆をなしたと云っても過言では なかろう。そのため裁断は発注したがデザイン的に服そのものは質素と なった。中町期を通じてこの時代位人体をそのま三一小すように、しかも 全身を包んだスタイルの例はない。袖も前述の大きな柏、ハンギングス リーブも影をひそめ、殆どタイトなもののみとなった。即ち腕の形をそ - 66ー のま﹀表わしている事が多かったのである。元来私共の腕は山線の多い 棒状なもので、若ていて屈仰の楽なもので怠ければならない。それを機 能的にしかも美しく始末する i ためにボタンが活用され始めにのである。 (日図)胴衣も胴体の線をその服法上に現わそうと努めたので ζ れ に も (第11図) 1.1世紀のコト・7;レディー釦とひもしめ ( レ l シング)が行われたが袖口にはレ 1 シングは用いら れるに至っていない。被服大事典によるとボタンの起原はドイツの金属 (第12図) p -F i j i -北方人の留兵 (装身具) ボタンを始祖と称せられているが、 一 三
001
四OO
年頃の未聞のゲル マン人は、金属製の装身具を沢山遺している。 青銅製のものを主とし、金・銀更に美しい色の石をはめた安全ピン・バ ックル等の精巧な細工物が見られているが、乙れらが後世の金属ボタン の起源と思われる。(臼図)叉荒い生活をしていた北方人は革の周聞に沢 山小穴をあけて、組を通してしめつけて足ぞ包むようにしたり、釦閉め を用いたりしていた。(註九) 註 ( 八 二 }今和次郎著﹁女性服装史﹂抄出。 ( 九 ) }。
国- 6
7
ー 英 江馬務者﹁限界服波史要﹂によると、英国服には右まえ釦掛けの、小 豆色のジャケットに金色の太い措ぞ低く腰の上にしめ、紫のショ1
ゼ を つけ、真紅のケ l プをはおっていたと記してある。ケープは打合せを右 肩上近くにあけ、大型のボタンをつけ、縁(エッヂ)は当時の流行に倣 って全部かじ子炉併に切り乙みが入っている。(ダッグド仏国向尚昆様式) ( 日 図 ) 袖口にも五つ以上の釦をつけて、 ひじから下を引きしめていた の で あ る 。 次にサイドレス・ガウンで、 この装いの上にプラストロンと呼ばれた 毛皮のついた胸当てをつけるのであるが、その中央の線に沿って宝石入 りのボタンが飾られていて、サイドレス・ J ガウンに作つである小穴を迎 して、下のコト・アルディ 1 のボタンと止める仕掛けになっていたと記 i l l -‘ : ; i ' ー! ? A t l ! 1 3 J 、 : i i f h f i l e t-註 ( 十 ) さ れ て い る つ ( 抗 十 ) アイリス・ブル l ク者﹁英図服装史﹂抄出。 (~113図) 1345"F -グツグド様式 lth口・ケープの;rl 1468年 ポインツ・アイデア (Points:idea) 世界より宮廷中心の時代へと移るのである。 (第14s1) 第四郎 ルネッサンス前期 寺院中心として判の提にしばられていて、とかく暗く出み勝ちだった 十字軍以米商業的緊公がもたらむれに北イタリアの祁都市は、新興の 市民附級による新しい社会が出現した。 ζ のようにイタリアでは十五山 妃に、ルネッサンスの最盛期を見たのである。即ち法王栴は漸く衰え部 市の勢力が盛大となってきたので、イタリアの若者が舵快で実用的な活 動し易い服民ぞよろこんだのは、当時の時勢の要求より来たものであ
。
ザ 心 上衣は総て丈が短く、服に主る程度で服部にぴったりとっき、叩でし め て い る 。 この頃からボタンホールが出米た。胸もV
ネックのものは胸当様に布 を見せて合せ目はなく、又合せ目のあるものは右前にして、竪ゐきのボ タンホ1
ルをつけ、小会いボタンのついたものもあった。 叉地方風俗の内ミラノの上流男子服は、思の伐いトルコ帽に、日而の 割れた所在三ケ所も釦でとめて、細い袖そ若ていた。 p , 、 - 68ー。
イ ツ ド 一 三 五01
一 五O
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年凶ドイツでもボタンは、ケープやガウンなどに も多くなった。袖口のボタンもその一例である。農民とか、大工の如き 労働者の服装はほとんど、ーイタリー?スペインと大諜はないが上流社会 の男子風俗は、ジャケットが延長して始めて十以前のボタン掛けのコ!ト 斗叫ザ(制記ニO
以上の釦がつく)袖口も制くして、ボタンを六つもか けタイトシ自l
ゼにフl
ド付の右 A n せの長いケl
プをまとっていた。 の ケ l プの A Hせ日も数制のボタンで留めていたのである。 こ 叉別の開制のチベットコ l トは(叶e
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一 昨 ) お ま え で 釦 が 下 ま で つ き 、 左右の色・文械が巡う派手なものもあった。(註十一)又上胸中央から一本の赤い打紐のチベットが下り、その所々に房がついていて、腰はロ l ウエストでバンドをはめ、中央にバックルがついていた。(註十一一)下部 はタイトのブリ!チ(ショ l ゼ)を用い先の細い大きな半沓クラコ l ( め 司 削
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一 四O
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年 ) 乙 の コ l トこそ背 広の前身であると云われる。 (註十一ニ)をあけることも多く用いられ、袖口はタ 袖口にスラッシュ イトにするため釦留めが多く用いられている。一四六八年頃より八0
年 代に至る数年間に、ポインツ・アイデア(句。山口g
出g )
が 広 く 行 わ れ た。上衣の正面等に幾つかの穴をあけ、太い紐で縫うように締めて、ド レスの正面に変怖を与える方法でゐってM
図は袖に川いられた方法で下 の シ ャ l ツが見えるように紐で結ぼれている。婦人服の前身国よりは釦 留めの手法は影をひそめたようである。 註(十一)服を色分けにしておと左とぞ巡った色にする取は、十三世紀既に祭礼 の 時 等 に 着 る 服 に 誠 み ら れ て い た 。 こ れ に 紋 所 を 加 味 し た の で 更 に 派 手 な も の と な っ た の で あ る 。 既 婚 の 婦 人 は 別 家 の 紋 所 と 生 J M か の 紋 所 と を 片 身 ず つ 組 合 せ て い た 。 ( 十 一 一 ) 江 応 務 者 ﹁ 西 洋 服 装 史 ﹂ 袈 抄 出 。 ( 十 一 二 ) 表 地 に 裁 ち 白 を 入 れ て そ の 裁 ら 白 か ら 災 地 の 生 地 告 の ぞ か せ る 方 法 で あ る 。 ζ れは新しい生地にわざわぎ裁ち目ぞ入れて喜んだものでその流行の始 め は 軍 人 の 服 の 名 誉 の 刀 き ず の た め の 彼 れ を 真 似 た も の と 云 わ れ る 。。
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ヰ AM4 H 口 ↑ 仏国の服法はドイツと大差なく上流社会の男子は、チャイニ l ズカラ ー様の衿が目立って附しており、ジャンパー式に前あきのあるものは、釦 一般市民の男子の衣服はダブレ がつき打合せは右前以前混川であった。 の版記の衣服が多く、前正面の襟下を少し開 きボタンで一・ニケ所をつけたものもありで大体保守的風俗が多かっ ット(コツテ式)(註十四) た 。 後世のオーバー式に丈の長いもので、E .
両の上から下まで割れ、釦ぞ 上に数個つけ、表に毛皮ぞづけたものも川いられた。 今和次郎帯﹁女性服強史﹂によるとページ(若侍) まえに割れて釦留めにしており、襟は詰襟である。巾間服とよく似てい のコッテも上衣が左 るので、当時としてはエキゾチックなものとして珍らしかったのであろ h 円 ノ 。 - 69ー ロシア・ハンガリー ロシア・ハンガリー人は共に中間伺奴肢に侵略されて東洋文化の進入。
を蒙ったので一四00
年間のロシアは、一応間耐文佑が交錯していて中間 風のトンボ聞が流行していたのである。江馬務者﹁世界服装史袈﹂によ ると当時のロシア賞族の姿は、黒毛織の高い帽子に、大ちな袖で前の一同 いた諜黒毛のガウン式のオーバーをおており、襟は大きく周を習うへち ま衿様の形であった。下に有る衣服の合せ日は に紐を幾本も並行に締付けて的蛤頭を作り、ワナに迎して留める手法 のもので、ヘブライのカブタンに似た手法である。 ( 日 間 ﹀ のように肋付式 ︿ 3 関参照) ザー ( n N 釦吋) と称するロシアの一十一は袖口の広い襟伝大きく折返したガウン ぞ者て、矢取り前は蛸的頭で閣めていた。五
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、 、 円 秘 資 一 切 で 丈 は 知 く 、 版 迄 で 北 町 の 下 に ひ だ が 多 く 入 る ジ ャ ケ ッ ト の 一 註 ( 十 凶 )-L1
M U パ 干 ム 何 州 ルネッサンス本期。
フランス・ドイツ フランスの一五五O
年J
一 六OO
年頃に至る服装は、イタリー・スペ インの影響を受けており、兵士は襟ぞ折返した袖無しの青いタブレット ぞ 付 け 、 f I . 耐にはボタンが付き、同色のホ I ゼ(半ズボン)をはき、脇 にトンボ副がついた服装で、前ボタンは二O
側近くつけられた腰迄の長 さの上衣(胴着)で、後山のコ l トの前身と見られている。(写真参照) ( 註 十 五 ) 置量密置冨 積踊蹴騎臨灘圏量 同時代のドイツの服装は仏国に比して多少の特異性があった。 特に面白いのは、 サイズの大きなボタンが現われた事である。 を入れこの巾程に、輸に ジ ャ ケ ットの胸に三ケ一山も墜に切裂き(スラッシュ)下
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十
l i l -i 157011ユ演のスペイン式服者 Spaniscjles Wams. ボタンを3
し込んでその長さを二分している。 アイリス・ブル 1 ク若 ﹁英悶限法史﹂に乙のスラッシュぞブローチで止めている例も凡える。 又衣服の随所に剖日を作って紐でかがり、組をたれ、水兵服のような襟 を後中央と一村の上で切開いて切目をひも結びにした例もある。(江応務 者、枇界服装史要) 設(十五)開 58 同 ︿ O ロω
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英国に於けるボタンはエリザベス王朝(一五三一ニ1
一 六O
三年)から輸 入取引川としてボタンの製造が始められたという。災凶の有名なサリ l - 70ー 公(一五四O
年 ) の 像 は 、 すべての衣が前聞となり、 ダブレットロ。ロ l σ -0 4 V ( 長 チ ョ ッ キ ) と ト 一 衣 が 民 く な っ て 、 後 山 の コl
トの前身ぞなし、 更にエドワード六町(一五五三年﹀ の少年の像を同ても肋件のようにし に紐を前で釦留めとした背い長いコI
トを者で詰襟&顕ゆ包装返し、下に 短い青色の半ズボン ( ホ ! ゼ ) と臼省下在はき、上から半袖の茶色地に 金線の入ったガ l メント奇羽ていた。 当時の央悶風はチュ l ダ l 削の特 質たる幻似的なものであった。。
ロシア・ハンガリー ロシアは北欧に偏しているので脳波も中欧とは大なる変佑がめり肋骨 式釦がけ万法が多く旧いられていた。 これはレ l シングの発述変形した ものである。両人の風俗は一五O
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年引には青いクラウンの向いお毛の郵船に、長い古いオーバーを岩て誌毛の襟を大きく折返して、下にチュ ニック式の長衣をつけて革バンドをしめ、上半身の中央にボタンをつけ て打合せは右まえとし茶の長沓と云うような服装である。大公(グラン ジ
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等と云う身分の両い人は、長い肋骨付のオーバーと云う文芸仮興 前期と大差のない服装であった。(日間) (第15図) ロシ7j!t校 1400年 JJJJ骨 形 式 的 的 頭 間 ロシア弓人 1500年 JJMI'式ポ今ン留 玄たハンガリーの将軍の姿は前の削れた肋件付の長い赤い衣に、胴と 都千・腔ヨに釧欽の鎧を粁込み川買の兜を冠って天辺に武色い羽根をさ す 0 ・長衣は官色の助合もめり、この長衣の脇も切れボタン掛けにした亦 の シ ョ I ゼをつけている。 ハンガリーのプリンスと云う人の服はトルコ帽に羽ぞ前に立て、緑色 のボタン付おまえの長衣の上に襟を向く立て裾まで肋骨のついた赤い長 衣のオーバーを若て長持をはいている。キングもボタンがけの長いコl
トを若しており、この地方は民、いだけに丈長く裂毛で、釦ホールはやり にくいためか、胸だけが削れて釦がけ又は肋骨様式のルーブル也以って、 あきを処閉していたものと山われる。。
ムーア人 ムーア人は多少共政洲風俗に時出品していたが、木川川特有の風俗告出え 特殊な穿山気をかもし出していて、チコニックの胸に肋付をつけたん仙人 りな欧亜折衷も凡られた。-71-。
イタリー 伊太利の当時の服法は宗教風俗では進んでいたが、仙の万聞には大差 はなかった、婦人服の不服なることは、ここに述べる迄もないので省略 するが、アイリス・ブル 1 ク者﹁英同服法的﹂によると上流刷人の行川 せるウ l ブランドは、円山から仙へかけて、スラッシュを入れ、所々奇 ボタン止めにし下部よりパフスリーブをのぞかせていた。。
ス ペ ペ a ン 欧洲で日以も花々しい日出守持続しているのはこの凶のスペインであ る。
打合せは山前と右前と川万川いられたものらしく批肢の亦い討伐の柏 無しヅブレ!の前は削れて点的としている。 当時スペインの王として有名なフイリップ二川の保は、右前の、ボタン出け万誌で怜一川等は今日の背広と大荒がないようである。尚芥下の両側 も紐で結ばずボタン.かつげてゐった。
。
本 1 =1 一五四三年(天文十二年)ポルトガル船が九洲和子山に流れ若いたの が、ヨーロッパ人の日本に来た批初で、ポルトガル人によって中国・ヨ ーロッパの珍らしい文佑が紹介され始めた。一五問九年にはフランシス コ・ザピエルが胞児島に来てキリスト教の布教を始めたがこれも文化の 交流に大いに役立っているのでみる。一五八七年(天正十五年四月)禿 古が出沖征伐の途追手の大将山住民郷に与えた腕服と云うのがあるが、 裂は縦紗・毛織の矧が多く、紋文様も好み切入りにしたとあり、紐はボ タン掛けにしてゐる(口凶) (第171送i) 別1111 1587年前はボタン掛け ゲへ肌衣とは口付足下に叩一ねる衣で筒袖で前合せの半服であるが、その古い ものは京都女子大学江馬務教授の発見で有名となった熊本木妙守に加藤 山正の肌衣がある。面白いことにはシャツに似て、同径一糎位の多数の 包みボタン掛で前守合すようになっている。脇下に袖付縫目を締い残し たスラッシュ (切口)がんり、干先もボタン五州乃五十仰がつき'刺く沿 っ て い る 。 布地は武土色に以の制い縦じまの木綿地械で、穴かがりは白 の木綿糸らしく現在でもまだしっかりしている。衿はハイネック式とな り、腰間,料上に切換線ぞつけて縫日をつけそれから下は在右うしろに削 日 吾 作 る 。 ( 四 凶 ) 日図はチャ l ルス一防白時の斬新なスタイルであるが 乙 れ と 、 四凶とぞ比較して形の矧似守発見すると共に、西洋文化の交流 と、その恩思に浴したものとして瓦に戎が同衣服上判的中すべき遺品で、 同宝価仙のめる色のである。 ー くI
M U 月 4fM 州 バロック時代 十七川紀前半にアメリカ大開発見を契機に経済的繁栄吾訪ったスペイ ンに代ってオランダ・イギリスが繁栄し、 フランスも統一国家としてル 72 -イ十四川がニハ四三年王位についてからヨーロッパの強国として他問中匂 圧するようになり、 こ L に守院中心の川界より宮活中心の専制的王制時 代を坐み出したのである。。
フ -ブ ン ス ルイ十四位の治批で俳優の如く服川訟を者り宮廷の京市さは前代無比で 下民にまでその影山初は大きかった。 ζ の時代にはヨi
トもボタンの数おら ノ 5 B ベ 州出して来た。白の刊を到にまいてネタタイとし上衣は丈が延長してフロ ツ ク コl
トに矧似し、多数のボタンそっけ、下に短い右まえのボタン付 き の 9 ウエストをおていた。仙口ち少し制って四つボタンをつけたものも あり、今日の背広に殆んど似たタイトスリーブのものもあった。 コート トの前あきより下の白いシャツ在日見せて岩ていた。 乙の時代に非常に流行したものはリボン結びで、V M
ボタンの替りに紫11!
(1~181沼) (第四図) (第20図) の紐で結び合せ、ズボンの上メは側面の左右下にも紐飾りがつけられ た。上流婦人の服装にも多くの紐飾りが見出された。。
ド イ ツ 一 六OO
年に入ると前の五O
年の盗が洗鈍されて搭ちつき告見せ、叉 菱形のボタンも生じてきた ζ と で あ る 。 熊本木妙寺球 !JIIm恥5正の肌、'tl -市民はヅプレl
の下にも前を開いたボタン掛けのジャケットぞ羽川 し、上衣に肋骨の三段つく衣服もあった。貴族の 9 フランデルブルグ伎と 云う人のジャケットには、前に赤い造形のボタンがつき、ズボンの同協 をボタンでとめたり紺で結んだりしたが、二ハニ0
年 代 及 び 一 ニ0
年 代 の初期には脇の泉地あら見せるために膝の上約一O
糎をあけたま、にして (却凶)乙、で気のつく引は釦の形が丸型の他に菱形の変り加が 出て来た引でボタン自体のデザインも考えられ始めたのである。、 , ﹄
O L j - 73ー ドイツ国内でも各都市女性風俗には地方色盟かなものが出て来たが、 1627年 チヤールス一世当時の服装 衣服をおしなべて見るにタイトスリーブで、E
商にボタンのついた所前 ダブレット︿コッテ式)で卜一衣の形式で面白く感じるのはチュニック式 の正面中央に合せ同のないもので、正面ボタンは上から、問・五例にし て、左脇へと折れ山って脇へ聞くのである。そして下の中央が切り開か れてボタンがついている。今日の中国服の打合せと考えられるようであ ってアンバランスの打合せが信れ出たのである。十七位紀の半ばに述す ると、服装はこの頃からようやく新段階に入る兆を一却しカラーはレl
ス 1629年 ズポンの)fJ留 の白いフラット型となり、合せ日に紐をつけて結んでいたジャケットは、 前合せで右まえとし、ボタンをつけたがボタンは孔に抑込むのでなく、 、かわ﹀ル心ルトかいさいて止めるひとも多く江ったことは、川といっても ボ タ ン の 山 一 佑 で ゐ る 。
。
~ 一 六0
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年代の欧洲風俗の尖端的な且つ市一一胞なる服組は英閃に集まっ 11t
ていると云って過百ではあるまい。例えばボタンの拡大、な匠の変化も その一つでわるつ﹁西洋服民文化史﹂(飯塚・青木共布) によればヒ衣は 青色ヅブレ l は武色、襟が黒ピ口、 l ドで、ダブルのボタン穴 (第21図) (全糸のへり のある胡桃色のフロックと云った 服装で服叫が以前に比して何巾になって くると、刺紺と打紐(ガロン m m H O ロ ) は っ き ) 官犯似のためにのみ川い、代りにフロツ クに大別飢貨ほどの釦をつける乙とが流 行 し た と 一 心 し て い る 。 これには鋭をはめ こんだもの、色々の虫色を形どったミニ 17j世紀頃 ア チ ユ Jレ (註十六)を加で緑どったも のも現われた。(担図) >tf宜ンの図 ボタンを.加に見て行くと物語の絵巻に l ζ 、 。 は つ な な 、 中 た つ つ 、 で り て て 、 も す し 、 い 変 る た た っ こ り そ て とH
を う い も 代 で て あ の あ ボ 、 っ ロ る夕、?こl
が ン 、 。 マ 、の、ァ主主 各、ノレ 帝 々 、 ト の が 、 ヮ 肖 時 、 公 像i
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、 の だ 乙れは何の 役にも立たなかった事であろう:::。 ボタンの材料は十七批紀の半ば迄は、 小平の毛や純だったがのちに金属に変 り、愉人取引川としてボタンの川訳出がめめられた。 即ら独立の尚 H 川 と 江 っ た の で あ る 。 註 ( 十 六 ) ミ ニ ア チ ュ l ル ( ヨ 山 口 由 民 日 ロ ) に は 二 つ の 泣 味 が あ り 、 一 般 に は 手 写 木績の淡仰さし絵の絵阿をな味するが他に主として近間以後に行われた、ごく 小 形 の 細 密 州 を も さ す 場 合 が あ る ( 刊 界 百 科 市 山 内 )。
才ランダ・ベルジウム其他 婦人の衣服ちこの時代に江ってオランダ・ベルジウムからツーピース が進出して米た。これは大休前の聞いたもので釦凶け及び組で胸を引合 オ l ストリヤ・ポーランドは討結で日耐は在玄え打合せに 釦がつきコ l トは長いチュニックで、しとき貯をするものもあり、卜一か らお川するものには、毛皮をお打したオーバーで、日地のため釦留めが すのである。74
-困難であった為か、組み紐で作ったルi
プ の 肋 骨 式 打 合 せ に し で あ っ た。(沼岡)又タイトスリーブの袖口にも、援に一文字にスラッシュをあ (第22[事1) 1832年 Jレープの肋骨式打合 けボタンをつけて、その切目をとめられるようにして手口にレ 1 ス を つ げたのがカフスの起原である。袖口の釦も七個位つけていた。可
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-第七節 フヴンス革命前後 一名ロココ時代とも称される優雅な女性的な来やか 3 を持つ時代で、 十七世紀のバロック時代の如き男性的な力強きは持っていない。貴族・僧 侶・一般大衆の三つの階級が構成され、彼らは一般大衆より取り立てた 税金にて衰容な佐伯をしていたのである。乙の時代の服装は宵延的な市 麗さが目につくのであるが、内心は国王中心の宮廷生活にも倦怠磁を持 っていたのである b その現われとしで個人の住活を楽しくするため自分 の趣味を生かして私室を飾り始めた。 フランス革命によって王及び貴族の追放はあったがこの世かな生活、 内尚な趣味は大衆の心にあこがれとして残ったのでゐる。。
フランス・ドイツ ルイ十五位凶の上流社会はルイ十四位の頭髪の美しさに憧れて男女共 (宅配かつら)をかぶる一やが大流行し、蝶結びのリボンがよく ウオ l ド・ロウブ つけられた。リボンとレ l スは当時の婦人の衣裳部屈にある衣裳ならど ウイッグ れにもついていでしかも驚くほど四百に川いられていた。 服装はユストコ i プスの時代で、ボタンも余鋭(託十七)となりダブ ルボタンが起?た。又ボタンホールにも刺山酬をしていた。長い忠商の聞 いたボタン付の衣で背の掘或は後身のた右相が切れ、何時も背にひだを とったのである。叉この袖口は太くかたいもので、大きなカフスには時 としては刺山酬をし飾りカフスの上部は、ボタンホールを作りボタン留め となっており、折返されて美しい装飾をかねた。(お図)(註十八)当時は 金銀のボタンを沢山つけていることはその人のいい川を向めたとしたもの である。叉吋時の男子服の上衣は釦に合せてボタンホールにも刺山酬をし (第23図) (第24図) 1740年 ジユストロール 1698fJ' J~l1武スタイノレの打合 - 75ー れをつけたようであった。 制闘は、 て飾り、又フランス革命当時は革命の版制等ぞボタンに標し、好んでこ カフス・袖山・ポケット・前打合 ぜとボタンの間隔ぞはなして肋什式に A J . H ハ慌のものでひっかけて間めて いるが、これは当時の鉛凪のスタイルを法飾の形式に織りこめたもの でリボンやレ 1 スに代って好んで川いられた。即ち人以糸や銀糸・宝石又 はそれに準ずる一品価な石ぞ断続的につけて引き立たせた一陣巾の金の紋飾 (フリンヂ)等である。。(民凶)バックル・大きな練物のブローチ・ロケ ットが吋び流行し始めた。又ユストコ l プス(ジュストコール)は後批の フロックコi
トの原則と江り、この変佑したものとして前はダブルボタ 町h、(第25図) ゲートルのボタン 1895年 ンで短く襟は
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状に閃いて阿側に襟ぞ折り、前身は丸くカットされて背 巾のみ長く角形に垂れるのが後此の燕尼服の起原で、モ!ニシグ・オーバ ー等もこれより変化したものと忠われる。この打合せは左まえのもの が多い。ドイツはフランスと興って服装は堅実に進み、とり立て、いう ほどの差はないが、軍隊風俗中日ゲートルがボタン付、きであることを添 えておく。(お図) 註 ( 一 七 ) 海 賊 キ ッ ド ( 一 七 O 一 年 に ロ ン ド ン で 絞 首 刑 に な っ た と い う 伝 説 人 物 ) は 純 金 や 銀 ボ タ ン を 縫 い つ け て い た と 云 わ れ る 。 ( 十 八 ) 一 七 五 O 年フイラデルフイアでプラス(真愉)のボタンが製造された と 記 録 に あ る 引 よ り 考 え る と 金 印 刷 ボ タ ン で あ っ た と 思 わ れ る 。。
前命後のフランス 一七八九年のフランス革命勃発直後の市民風俗は白ウイッグ自の立カ ラ l 、白布ネクタイをしめ、ノッチドカラ l で、ダブルボタンがつき煎 尼服式の尻の長い上衣に上衣の下から桁の出る白チョッキぞつけてい た 。 カフスのサイズは次第に小むくなり、 スリーブの仕上げはカフスの代 りにバンドやボタンが使われた。燕屈のうしろ身凶はボタンが左右につ き、割目が出来た。一七九五年切には大きなラペルがつき.ダブルボタン で、有まえ A H せとなり、チョッキにも衿がつき右前、 中 央 釦 留 め で あ る。
館八節 近代郵政の主要なる事件はフランス革命でありこれにより萎縮した服 飾界に取やかなアンピ l ル時代を実現して文化発反の動機を与えたこと と、もう一つは産業革命で、殊に被服の材料に関する繊維工業の発述は 京附しく一八O
七年出、デンマーク人のB
・サンダ!スはくるみボタン 一 % 一 ﹂ ー し ト I 4 1 U 斗24 ノ 日 H 土 小 製造の新しい万法ぞ発明した(註十九﹀そのためボタンは敏速に製造さ れ、相・釧等の共布で調和のよいボ Fタンをつくることも容易となった。 骨・角ボタンは一七七七年t
一八一二年頃起に作られ、その原料には家苔 のヒズメ等が川いられた、 その後脱応年間ご八六五年)に日本で家内工 業的に作られ、 明治一五年凶より ︿一八八二年)感となり第一次此界大 的問羽川山畑川公必父、f
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大正 一 年J
一二年迄に(一九ニ二年J
二三年)ナットボタ ンの代りとして川いられた。 一般民衆にボタンが行きわたったのは安価1 i
な欽や真鍬が数多くボタン工業に川いられ始めたからで服装界にも大き な変佑を与えた。 裁絡に関しても一八五一年米国人のアイザック・メリット・シンガー が始めて突出に適するミシンを発明し裁縫専門家が続出し、時代に即し た被服が作り出され始めたのである。 詮 ( 十 九 ) 最 初 サ ン ダ i ス の ボ タ ン は 金 属 の 柄 を 持 っ て い た が 、 一 八 二 五 年 彼 の 息 子 が 如 何 な る 方 向 に も 自 由 に 絡 針 を 通 す こ と の 出 来 る 柔 軟 な る 栂 ぞ 発 明 し 、 包 み ボ タ ン は 一 八 二 七 年 に ア メ リ カ で 始 め ら れ た 。。
フランス・ドイツ 一 八O
四年ナポレオンは即位したが当時の婦人の服装は極めて薄地の 布で、ウエストラインは極度に上にあり、即位の儀式にふさわしい豪来 きが加わっていた。復古趣味が大いに起り、古代ロ l マ及びルネッサン ス時代のものも現われた。袖に新工夫がこらされ英国風のボタン留めの 袖・ふくらんだ短い袖・長い袖等が川いられた。 一八一二年型の男子服装もシルクハットをかぶり、上のオーバーは現 在のものとあまり変佑はないが、水色の長、スボンをはいて膝下両側はボ タン掛けになっている。 一八一五年J
一 八 二O
年にかけて軍隊風のスタ イルが流行し、(お図参照)組紐(ブレイド)胸のモi
ル飾り、真鍬ボタ ン 一 周 常 等 が 者 刑 さ れ た 。 ル I ヴル美術展集によると、フランスの代表岡家の一人たるダヴィト ( 一 七 四 八 年J
一八二五年)の、一八一九年J
一八二五年の聞の作品 で、ブリュクセル亡命後描いた知友の俳優ヴォルフの肖像を見るに、上 衣は右まえで前身巾心に七例のボタンぞつけているが、その釦の糸脚一が とても長く釦がぶら下っているのである。ボタン穴に通した結果は、 糸の長さだけ打合せが聞いて、下に者ているチョッキがよく見られるの である。現代の鼓釦式のあっかいで、突に奇抜な、商白いボタンの使用 形式と思われる。ニ
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年代には麻の白ネクタイ・思のボブルボタンの燕尾服白チョッキ は、カシミヤで作られ宝石のボタン会つけ、タイトの閉山ズボン(トラウ ザ l ズ ) ヒップにゆとりをつけ、パットぞ入れているが、その先は lま 限までの先細のスタイルであり、乙の先は靴の下に革紐(ストラップ を)まわし、ボタンでとめると云う新しい方法で留められている。(アイ リス・ブル 1 ク 若 ﹁ 英 国 服 装 史 ﹂ ) ~ 77-一八四九年J
五O
年にかけての肢新スタイルは、ラベルの狭いもので あって下に折返したカラーやウエストが殆んどかくれるほどボタン留め の高いコl
トが現われたことである。数年前はボタン留めを低くしてウ エストコ!トをあらわに見せるのが、木質的な特色であった(お図)川図 に於ける婦人服のスカートの飾りも、ブレイド・ワl
ク(組紐細工げE
広 l とボタンの併川である。次にサック・コ l トが現われた。 者。円}内) て コ ボタンでそのうち一帯上のボタンだけを掛け服地はベルベットで、打組 でふちとりをしていた。 きくカットされている。 一帯下のボタンから七・人組位 m 消して内側に大 この時代はボタン・ホール(か Y り 穴 ) が 好 士 山 れたようで姉人服の前打合せ及びカフスに多く凡られた。乙の時期に女 性服の上に児性服から借りた形のものが現われた。川途・目的に応じた 合問性があるやり方で例えばレインコート等の出現にも乙のことがよく呪わされている c (第26図) 日 本
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いボタン留め 1860年 プレイド・ワーク (braid-work) とボタン{井用 児 女 一 六O
三年から一八六七年にかけてを江戸時代と云い、文化の非自に 発迷した時代である。当時の羽織の組は最初は裂のくけ組であったが、 次に八ツ打が刑いられ貞享(一六八五年﹀から平打となり元雄三六八 九年)にはボタン掛とて、来い裂紐奇霊ねて厚くしその片方の先にボタ ンをつけ、他万に輸をつけてボタンをはめるようにしたものもあった。 京都伊藤家蹴の伊藤仁斉先生の相羽織がこの形式であった。江戸中期の 火事羽織はぶっ裂で背・袖に三つ紋をつけ色は白・茶・黒・青等で定紋 特に大きく、紐は共裂でボタン掛とした。大きさは一・五糎位とげ茶色 で誌に穴守二つ明けて皮ひもを通して土台に止めつけてある。胸当も北( 裂で胸に大きな定紋があり謀には隠し(ポケットの事)がついている。 このウエスト辺で共ひも一王制杭守山し先に刺入りのくるみ釦 ( 共 裂 ) (幻図) をつけ、これを切には 3 みて身につけたのであって仲々よく考えている。 (第27図) 火 事 羽 織 J~~ のねり ~I 江戸時代のボタン 78 -同 胴 当 ひも先のくるみ京1 日本でボタンと云う名が川いられているのは、江戸時代の末別である と 9 安 ' 汗 附 州 46 にのっている。それには﹁股引キヤハン等につける、ボ タンは、オランダ人の装束より出たものなり、 オランダにてコノブと云ぅ、ポルトガル凶にてはブタンと云う。 これよりいいたがえて日本にて ボタンと一五うなり﹂と記されてある。 た び ひ も 叉松永氏仙の﹁俳譜御傘﹂には﹁踊皮等の緒に、 り﹂とある。その後元職以前にボタンから現在のコハゼが考えられたこ ボタンと云う物あ とは﹁我衣﹂にも記された。民ボタンは元職時代(一六八九年
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一 七O
同 年)すでに附羽織の止め等に川いられていたもので煙車入れの緒締めの ような形で、ル l プをつくりそれにはめこんで留めたのである。 貝ボタンが製品として取引されるようになったのは、明治一O
年前後で ある。硝子・陶器ボタンは貝ボタンの代川として下計川に川いられたこ ともある。合同ボタンは幕末出仙川民の紋・試ぞ入れた金属ボタン(輸入 品)ぞ幕附仰民の服装に川いたとの引で、我が国では明治七年凶に軍服 川としてA
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れの州地ボタンが製造されたと一五う。この金属ボタンは沈 滞方法と関係が深く、市洋万面の的文佑地域の衣服抗協万法は、被服を 作で打ったりするので、削れない為に、金-属ボタ 又メリヤス肌羽等は金同土台のくるみ釦としたのは出 ,']ン石 L、
l乙 lこ。
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以 た る h と き さ つ オLけ 、?こ り ナットボタンは、 明治問二J
三 年 に 始 り 、 大正九年には挺禿なものが 出来始めたが、原材料の山地が泣い乙とと、 価枯の点等で問題ぞ担って い り 心 。 骨・角・蹄ボタンは一八六五作 ( 山 間 応 年 間 ) より家内工業として巡ら れ始め色ものも明治問O
作凶より出来始め、 最大の取引先は中国・イン ド・市洋地域でめった。 第九節 二O
山記ニ
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川紀に入つては、ボタン・レi
シングの前川形式の点では大きな 変化は見られない。 然し近代戦が.虫求する科学の進歩に作い、ボタンの 材質の両に於ても全く新しい材料が表われたことは、 特記すべき乙とで ゐ る 。 即ち一九川紀までは、 ボタン材としては、 その加工の梢判・或は その材質的尚価・版師はともかくとレて、 総て天然材料であったが、化 学工業の急テンポな発述と共に、天然材料に.俊るとも劣らない佑叩巾介 成材料が表われて来た。合成樹脂の材質的近代性、 叉その加工の砕い切性 から合成樹脂ボタンが新材質のボ久ンとして、急速な流行を凡たのであ る。飛行機の風防、ガラスと川悦の透明ボタンは、その部会胤の沈仰され た北大しさの故に現代のれい女性の晴好に八日ったボタンの一っともなって 一 判 ー いるのがその例である。 あが
L U し f ﹂ 以 で 釦・ストラップ・レ!シングを山中心としての服法的‘に現われ た 回 日 パ 宇 佐 帥 引 見 し た の で あ る が 、 川 山 山 火 山 火 に 表 わ れ た 各 時 代 に よ っ て も 、 制 川 る ' 川 川 く 、 気校風土・凶肢の昭川町の変選誠は文化の先日必交流等により、山 波形式岳民にしており、 そ れ と 仙 人 ハ に 衣 服 の 間 川 ハ の 使 川 形 式 も 川 内 り 、 う 〈 'CU
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; ; l ( の使川目的の点でも変造がけんられるのである。例えば(一)0
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作凶から栄えた、ギリシャの代公的山決の一つであるイオニックキ トンの上部には、 割 引 ・ リ人はブローチを似川しているのである ( ピ ン ) が 、 ζ れは一枚の大きな引を体に添わす為、 即ら刊に夫しいドレイヅを与えることを日的とレて川いているのである。又(二)中山別の北万人 はー氏、冷な土地に生活を白む上より、獣皮等の裁断技術が非日に発注し、 体型をそのま、現わすスタイルを多く用いた。このため防 ' X 、 の 目 的 で 衿 明きにも袖口ゐちにもボタンを多数用いたのでゐる。(一一一)東西川文化の 交流が行われた地万には、文化の交錯を見ることが多く例えばチュニツ クに、巾同凪の崎的出・チャイニ l ズカラ 1 等が川いられたり、組が胸 の明、さを則川めるために川いられたりした。トルコ地乃のシリヤ v 刀 . 出 の マ ンテルも、ハィ、ネックで
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衿ゐきとなり、その衿あき料は抑制迄斜に延長 して、右まえの打合せとなり、胸の山間共は、ループに通した崎的顕形式 で、今日まで永続していることは特記すべきことで ( 冨 目 、 ロ ロ 内 ゆ い 問 。 印 lE
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ロ ) メソポタミヤの衣服も同形式 ロシヤ・オi
ストリヤ・ポーランド等の衣服には装毛のオ ーバー式のものが多く、衣服材質の厚地の為、ボタン穴をゐける一引が附 で め る 。 ( 四 ) 難なので、肋付形式打合が多く行われていた。(五)十三批判切迄は、切 角出来上った衣服に釦山八をゐける乙とを蛾っていたので、ループ形式を 用 い た 。 ( 六 ) 一 六00
年代には装飾を主として、ボタンの芯匠の変化が 肢となり、釦ー一つ一つが時計になった奇抜なもの迄明われている。 かくの如く、衣服の限史と共に歩んできた、 これらの間共の踏史もま たなかなか山内呼深いものと云い得ょう。尚十九位組未明から、釦・ス トラップ・レ l シングとは全く追った形式の留兵として、 フ ァ ス ナ ー 司g
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註二十)が出現している。 しわも出ず、釦がけの手数もはぷけ、 こ れ は 、 ス ナ ッ プ の レ よ !っ
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t,J, 間叫ハの使川目的としては劃期的な技術的進歩と一疋えよう。従って機能を 川 刊 一 辺 に 川 K 小 山 小 3 れるスポーツ服、ひいては一般衣服の叫んいでも、ワンピー スのゐき、山子服のズボンの前あち等、問問只としての機能のみを型求され る刷所に慌に川いられ出しているのである。しかし衣服の装飾性の点よ り考察するに、ファスナーは単に問只としてのものであり、デザインの ポ イ ン ト と し て の 一 一 山 一 裂 さ は 少 な い 。 生し、今日迄、衣服と共に長い限史の流れを歩んで来た釦その他の間ハハ との大きな相違点であろうと川 ω われる。何れにせよ現在の段附では、釦 ( 註 二 十 一 ) 乙の点が有史以前に発 はまだまだ被服の機能上、デザイン上欠くことの出米ぬものとして川い られているのであるが、将米如何なる道を辿るであろうか。興味ある問 胆と云わねばならない。日以後に、江馬務教授の絶大なる御折導を何た一引 を深く感謝して、 この小稿を終ることとする。 - 80ー 註 ( 二 十 ) チ ャ ッ ク め げ5
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℃ 宮 門 と も 呼 ば れ 、 同 国 め 余 の 一 一 利 で 、 一 八 九 一 年 W ・Lジャドソンが靴組を結ぶ而倒をはぶこうとして考策し、特許在 得 た 後 一 八 九 一 一 一 年 、 シ カ ゴ の コ ロ ン ピ ヤ 博 覧 会 に 出 品 し た の が 、 そ の 初 め で あ る。一九一一年現布のような形式のごく初歩の新製品を完成するに至った。一 九 一 七 年 に 海 軍 の 飛 行 服 に と り つ け て 成 功 し た 。 日 本 で は 附 利 樹 別 か ら 研 究 尚 品 化 さ れ る よ う に な っ 、 た 。 ( 二 十 一 ) 最 近 金 属 製 に 代 り 、 ナ イ ロ シ ー フ ァ ス ナ ー が 出 現 し て 、 そ の 色 彩 り 宇 治 ︿ し さ の 為 に 、 デ ザ イ ン へ の 応 用 が 研 究 さ れ 始 め て い る 。 参 宥 に し た 書 籍 ﹁ 限 界 服 装 史 南 京 ﹂ 刑 制 ﹁ 日 本 服 装 む . 裂 ﹂ ﹁ 女 性 服 装 史 ﹂ 今 i C 江 次 f$ A労 務 著 者 者 称IJJ,¥s,¥本稿に掲減した参考悶は次の若山引けより引用させて頂いたことをお断りしておき ま す 。 八 図 ・ 九 函 ・ 一 O 図 ・ 一 ゴ 一 図 ・ 一 四 図 ・ 一 九 図 ・ ニ O 図・ニニ図・二三図・二 四関・二五図・二六図は町山師切 BOW 白 の R ﹀ 回 目 白 仲