天之日矛伝承の考察
烏
谷
知
子
はじめに 応神記の終わりに置かれた天之日矛伝承は、天之日矛がもたらした八種 の 神 宝 の 分 注「此 は、伊 豆 志 の 八 前 の 大 神 ぞ。 」を 介 し て 次 の 秋 山 春 山 の 兄 弟 争 い の 伝 承 と 結 び つ く。伝 承 の 始 ま り は、 「又、昔、新 羅 の 国 王 の 子 有 り。名 は、天 之 日 矛 と 謂 ふ。是 の 人、参 ゐ 渡 り 来 た り。 」と、時 間 の 流 れを遡行する形で語られる。天之日矛の来朝は、書紀には垂仁紀三年三月 条に載せられている。記紀には天之日矛の子孫である多遅摩毛理の非時の 香の木実伝承が記されており、古事記においても、垂仁天皇の条に当該伝 承を置くことは可能であったと思われる。中巻の終わりの応神記に、人の 世が始まる下巻に先立って二つの説話を配したのは、上巻からの歴史や思 想を受け継いだ仁徳天皇の新しい時代への布石と考えられる。仁徳天皇は 難波高津宮に都を置いた。仁徳天皇の国見歌謡には、 淡道島に坐して、遥かに望みて、歌ひて曰はく、 押 し 照 る や 難 波 の 崎 よ 出 で 立 ち て 我 が 国 見 れ ば 淡 島 淤 能 碁 呂 島 檳榔の 島も見ゆ 離つ島見ゆ (記第五三番) と 歌 わ れ る。 「淡 島」 、「淤 能 碁 呂 島」の 創 世 神 話 に 関 わ る 島 々 が 詠 み 込 ま れ、仁 徳 天 皇 が「神 話 的 根 源 を 負 う 世 界 を 所 有」し、 「世 界 の 始 ま り か ら を引き受ける存 在 (1( 」として描かれる。仁徳記冒頭の国見の記事には、課税 を免除し穀霊の体現者として民に豊穣をもたらす天皇が描かれ、日女島で の 雁 の 卵 の 祥 瑞 の 伝 承 に は、 「高 光 る 日 の 御 子」と 讃 え ら れ る 日 継 の 継 承 者 と し て の 天 皇 像 が 表 れ て い る。古 事 記 に 伝 え る 応 神 天 皇 の 宮 は、 「軽 島 の 明 宮」と あ る。こ の 宮 の 他 に 書 紀 に は 二 十 二 年 三 月 条 に、 「天 皇、難 波 に 幸 し、大 隅 宮 に 居 し ま す。 」と 伝 え る こ と か ら、大 和 だ け で は な く、 難 波 に 宮 が あ っ た こ と が わ か る。四 十 一 年 二 月 条 に は、 「天 皇、明 宮 に 崩 り ま す。 」と あ る。明 宮 は 軽 嶋 の 明 宮 の こ と と 思 わ れ る が、そ の 条 の 分 注 には、 「一に云はく、大隅宮に崩りますといふ。 」とある。書紀には応神天 皇と難波との関わりが記される。また応神記には天皇が日向国の諸県君の 女、髪 長 比 売 を 喚 し 上 げ た 時 に、 「其 の 太 子 大 雀 命、其 の 嬢 子 の 難 波 津 に 泊てたるを見て、其の姿容の端正しきに 咸 でて」とあり、難波津が舞台と な る。 応 神 紀 二 十 二 年 四 月 条 に は、 「兄 媛、大 津 よ り 発 船 し て 往 る。 」と あり、大津は「難波の港」と新編日本古典文学全集日本書 紀 ((( の頭注に記す。 応神記には新羅人による技術の渡来や百済の朝貢が記され、論語十巻 ・ 千 学苑 ・ 日本文学紀要 第九三九号 一~一八(二〇一九 ・ 一)字文一巻が伝えられたとある。先進技術や文化が渡来人によってもたらさ れ、仁徳天皇の時代の幕明けがそれとなく語られる。難波津は海外への窓 口 に な る。応 神 天 皇 の 御 陵 は、 「川 内 の 恵 賀 の 裳 伏 岡」と 伝 え ら れ、大 阪 府 羽 曳 野 市 誉 田 の 地 (新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 古 事 記 頭 注) に あ る。次 代 の 仁 徳天皇に先立ち、河内や難波が注目されてくるのである。 古事記上巻の天孫降臨条において、邇々芸命が「此地は、韓国に向ひ、 笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国ぞ。故、此地 は、甚 吉 き 地」と 詔 る「韓 国」は、新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 古 事 記 頭 注 に 「古 代 朝 鮮 を 指 す。支 配 が い ず れ 朝 鮮 半 島 に 及 ぶ こ と を 視 野 に 入 れ て い う (( ( 。」と あ る。金 井 清 一 氏 は、古 事 記 の「韓」に は 先 進 的 高 文 化 の 響 き や 匂いがあり、邇々芸命の文言は、古事記の編纂から成立の時代、すなわち 七世紀後半から八世紀冒頭にかけての天皇王権 (律令政権ではない) が、自 らの王権の、この地上世界に発現した地点を、王権にとって本質的に親縁 性のある地点として宣言した声明 文 ((( と意義付ける。中巻の仲哀記の息長帯 比 売 命 の 新 羅 親 征 に よ っ て 支 配 が 達 成 さ れ、 「朝 鮮 半 島 を 含 む も の と し て の天皇の世界=天下が保障され」 、「胎中の皇子が保つこととなる世 界 ((( 」が 定められるのである。難波は海外への窓口、宮都への入り口となる。古事 記は上巻 ・ 中巻 ・ 下巻を通して天皇家と朝鮮半島との関係を説くことにな る。天之日矛伝承は、古事記上中下巻の理念を貫く結節点であると思われ る。福 島 秋 穂 氏 は 古 事 記 編 纂 と 構 成 の 観 点 か ら、 「海 幸 彦 と 山 幸 彦 の 話」 が上巻の末尾に置かれるのと釣り合いを保つように、中巻の末尾に此れと 同じく兄弟の争いを主題とする「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫の物語」 が 置 か れ る こ と に な り、其 の 物 語 と「天 之 日 矛 の 我 国 へ の 渡 来 事 情 説 明 譚」とが既に結合していた関係から、同譚が応神天皇と結び付けられたの ではない か ((( と考える。また村上桃子氏は、天之日矛伝承を仁徳天皇を予祝 す る 物 語 と 捉 え、 「上 巻 の 豊 玉 毘 売 が 引 く 海 神 の 血 筋 が 神 武 の 重 要 な 特 質 のひとつとなったように、息長帯比売命が天之日矛の血筋を引くことを示 すことも仁徳の特質を示すためのもの」と述べる。さらに「遠い昔の新羅 王家の血と倭王家の血の融合は、倭が異国との関係を結んで統治世界の完 成」を果たし た ((( とみる。しかしながら、応神天皇は母方の系譜では天之日 矛の七世の孫、仁徳天皇は八世の孫となり、神武天皇が海神の女玉依毘売 を母とするのと比べるとその繫がりは希薄といえよう。天之日矛伝承は、 「故、大雀命、天の下を治めき。 」の記述の後に配されるので、仁徳天皇の 治政と 繫 がると思われる。天之日矛伝承が語られる目的は、仁徳治政の拠 点としての難波と、王権の版図としての新羅をプロットすることであると 考えられる。本稿では、日光感精と赤玉、比売碁曾社の阿加流比売神、殺 牛信仰のモティーフ、新羅との関係から、古事記における天之日矛伝承の 意義について考察する。 一 日光感精と赤玉、比売碁曾社の阿加流比売神 天之日矛伝承は次のように記される。 又、 昔 、 新 羅 の 国 王 の 子 有 り。名 は、 天 之 日 矛 と 謂 ふ。是 の 人、 参 ゐ 渡 り 来 た り 。参 ゐ 渡 り 来 た る 所 以 は、新 羅 国 に 一 つ の 沼 有 り。名 は、阿 具 奴 摩 と 謂 ふ。此 の 沼 の 辺 に、一 の 賤 し き 女、昼 寝 せ り。是 に、 日 の 耀、虹 の 如 く、其 の 陰 上 を 指 し き 。亦、一 の 賤 し き 夫 有 り。其 の 状 を 異 し と 思 ひ て、恒 に 其 の 女人が行を伺ひき。 故、是 の 女 人、其 の 昼 寝 せ し 時 よ り、 妊 身 み て、赤 き 玉 を 生 み き 。爾 く し
て、其 の 伺 へ る 賤 し き 夫、其 の 玉 を 乞 ひ 取 り て、恒 に 裹 み て 腰 に 著 け た り。 此 の 人、田 を 山 谷 の 間 に 営 れ り。故、耕 人 等 の 飲 食 を、一 つ の 牛 に 負 せ て、 山 谷 の 中 に 入 る に、其 の 国 主 の 子、天 之 日 矛 に 遇 逢 ひ き。爾 く し て、其 の 人 を 問 ひ て 曰 は く、 「何 ぞ 汝 が 飲 食 を 牛 に 負 せ て 山 谷 に 入 る。汝、必 ず 是 の 牛 を 殺 し て 食 ま む 」と い ひ て、即 ち 其 の 人 を 捕 へ、獄 囚 に 入 れ む と し き。其 の 人 が 答 へ て 曰 ひ し く、 「吾、牛 を 殺 さ む と す る に 非 ず。唯 に 田 人 の 食 を 送 ら く の み ぞ」と い ひ き。然 れ ど も、猶 赦 さ ず。爾 く し て、其 の 腰 の 玉 を 解 き て、其 の国主の子に幣ひき。 故、其 の 賤 し き 夫 を 赦 し て、其 の 玉 を 将 ち 来 て、床 の 辺 に 置 く に、即 ち 美 麗 し き 嬢 子 と 化 り き 。仍 ち 婚 ひ て、嫡 妻 と 為 き 。爾 く し て、其 の 嬢 子、常 に 種 々 の 珍 味 を 設 け て、恒 に 其 の 夫 に 食 ま し め き。故、其 の 国 主 の 子、心 奢 り て 妻 を 詈 る に、其 の 女 人 が 言 は く、 「凡 そ、吾 は、汝 が 妻 と 為 る べ き 女 に 非 ず。 吾 が 祖 の 国 に 行 か む 」と い ひ て、即 ち 窃 か に 小 船 に 乗 り て、逃 遁 げ 度 り 来 て、 難波に留りき 。 〈此は、 難波の比売碁曾社 に坐して、 阿加流比売神 と謂ふぞ〉 。 是 に、天 之 日 矛、其 の 妻 の 遁 げ し こ と を 聞 き て、乃 ち 追 ひ 渡 り 来 て、難 波 に 到 ら む と せ し 間 に、其 の 渡 の 神、塞 ぎ て 入 れ ず。故、更 に 還 り て、 多 遅 摩 国 に 泊 て き 。即 ち 其 の 国 に 留 り て、多 遅 摩 の 俣 尾 が 女、名 は 前 津 見 を 娶 り て、 生 み し 子 は、多 遅 摩 母 呂 須 玖。此 が 子 は、多 遅 摩 斐 泥。此 が 子 は、多 遅 摩 比 那 良 岐。此 が 子 は、 多 遅 麻 毛 理 。次 に、多 遅 摩 比 多 訶。次 に、清 日 子 〈三 柱〉 。 此 の 清 日 子、当 摩 の 咩 斐 を 娶 り て、生 み し 子 は、酢 鹿 之 諸 男。次 に、妹 菅 竈 由 良 度 美。故、上 に 云 へ る 多 遅 摩 比 多 訶、其 の 姪、由 良 度 美 を 娶 り て、生 み し 子 は、 葛 城 之 高 額 比 売 命 〈 此 は、息 長 帯 比 売 命 の 御 祖 ぞ〉 。故、其 の 天 之 日 矛 の 持 ち 渡 り 来 し 物 は、玉 津 宝 と 云 ひ て、珠 二 貫、又、浪 振 る ひ れ、浪 切 る ひ れ、風 振 る ひ れ、風 切 る ひ れ、又、奥 津 鏡、辺 津 鏡、 幷 せ て 八 種 ぞ 〈此 は、 伊 豆志の八前の大神 ぞ〉 。 (傍線は筆者が付した。以下同じ。 ) この伝承は、前半部に日光感精型と卵生型の二つの要素を取り込んでい る。 『三国史記』の編纂は一一四五年、 『三国遺事』の編纂はそれより時代 が 下 る が、 『三 国 遺 事』巻 第 一 紀 異 第 一 高 句 麗 に 記 さ れ る 高 句 麗 の 始祖王朱蒙の出生譚の日光感精型と卵生型の複合型や、同書の新羅始祖赫 居世王の出生譚、同書の新羅 第四 脱解王に記される卵生型の新羅第四 代脱解王の出生譚、同書巻第二 紀異第二 駕洛国記 に記される、六つ の黄金の卵から駕洛の始祖王首露と五伽耶の王が誕生したとする、始祖王 出生譚との類似性が三品彰英氏によって指摘されてき た ((( 。次に記事を記す。 三国遺事 巻第一 紀異第一 高句麗 金 蛙 異 之。幽 閉 於 室 中。爲 日 光 所 照。引 身 避 之。 日 影 逐 而 照 之 。 因 而 有 孕 。 生 一 卵 。大 五 升 許。王 弃 之 與 犬 猪 。皆 不 ⻝ 。 弃 之 路。牛 馬 避 之。弃 之 野。 鳥 獸 覆 之。王 欲 剖 之。而 不 能 破。乃 還 其 母。母 以 物 裹 之。置 於 煖 處。有 一 兒 破殻而出。骨表英奇。… 三国史記 巻第十三 高句麗本紀 第一 始祖 東明 圣 王条 金 蛙 嗣 位。於 是 時。得 女 子 於 太 白 山 南 優 渤 水。問 之 曰。我 是 河 伯 之 女。名 柳 花。與 諸 弟 出 游 。時 有 一 男 子。自 言 天 帝 子 解 慕 漱。誘 我 於 熊 心 山 下、鴨 淥 邊 室 中 私 之。即 往 不 返 。 母 責 我 無 媒 而 從 人。 遂 謫 居 優 渤 水。金 蛙 異 之。幽 閉 於 室 中。爲 日 所 炤 。引 身 避 之。 日 影 逐 而 炤 之 。 因 而 有 孕 。 生 一 卵 。大 如 五 升許。王棄之與犬豕。皆不 ⻝ 。… 三国遺事 巻第一 紀異第一 新羅始祖 赫居世王 前 漢 地 節 元 年 壬 子。三 月 朔。六 部 祖 …。於 是 乘 高 南 望。楊 山 下 蘿 井 傍。異 氣 如 電 光 垂 地。有 一 白 馬 跪 拜 之 狀。尋 撿 之。有 一 紫 卵 。馬 見 人 長 嘶 上 天。剖 其
卵得童男。… 三国遺事 巻第一 紀異第一 第四 脫 解王 迺 言 曰。我 本 龍 城 國 人 …。時 我 王 含 逹 婆。娉 積 女 國 王 女 爲 妃。久 無 子 胤。 禱 祀 求 息。七 年 後 產 一 大 卵 。於 是 大 王 會 問 群 臣。人 而 生 卵。古 今 未 有。殆 非 吉 祥。乃 造 櫃 置 我。 幷 七 寶 奴 婢 載 於 舡 中。 浮 海 而 祝 曰。任 到 有 緣 之 地。立 國 成 家。便有赤龍 ・ 護舡而至此矣。… 三国遺事 巻第二 紀異第二 駕洛国記 唯 紫 繩 自 天 垂 而 着 地。尋 繩 之 下。乃 見 紅 幅 裹 金 合 子。開 而 視 之。有 黃 金 卵 六 圓 如 日 者 。衆 人 悉 皆 驚 喜。 俱 伸 百 拜。尋 還 裹 著 。 抱 持 而 歸 我 刀 家。寘 榻 上。 其 衆 各 散。 過 浹 辰。 翌 日 平 明。衆 庶 復 相 聚 集 開 合。而 六 卵 化 爲 童 子。容 貌 甚 偉。…忽有 琓 夏國含 逹 王之夫人妊娠。彌月生 卵 ・ 化爲人。名曰 脫 解。… 『三 国 遺 事』の 赫 居 世、 『三 国 遺 事』 『三 国 史 記』の 東 明 王 の 出 生 は、日 光感精型と卵生型の複合型である。王朝の始祖の誕生を語るこれらの伝承 は、卵から生まれるのが男子であり、王の異常出誕を語ることで王の尊貴 性や唯一性の根拠を示すのに対し、天之日矛伝承では日光に感精して生ま れるのが卵ではなく赤玉とされ、赤と太陽の関係が図られる。また、日光 に感精して赤玉を産む女と赤玉が変じて誕生する子の関係は希薄である。 奇異な現象を覗き見して女から譲りうけた農夫の手から、赤玉は天之日矛 に 渡 る。天 之 日 矛 は 新 羅 の 国 王 の 子 と 伝 え ら れ る が、 『播 磨 国 風 土 記』の 四つの記事では、次に引くように葦原志挙乎命と国占めを争う神の名であ る。 ・ 揖 保 郡 粒 丘。粒 丘 と 号 く る 所 以 は、 天 の 日 槍 の 命 、 韓 国 よ り 度 り 来 て 、宇 頭 の 川 底 に 到 り て 宿 処 を 葦 原 の 志 挙 乎 の 命 に 乞 ひ て 曰 は く、 「汝 は 国 主 為 り。 吾 が 宿 る 所 を 得 ま く 欲 り す」と い ふ。志 挙、す な は ち 海 中 を 許 す。そ の 時、 客 神 、 剣 以 て 海 水 を 攪 き て 宿 る 。主 の 神、す な は ち 客 神 の 盛 り な る 行 を 畏 み て、先 に 国 を 占 め む と 欲 ひ、巡 り 上 り て 粒 丘 に 到 り て、 湌 し た ま ふ。こ こ に、 口 よ り 粒 落 ち き。故 れ、粒 丘 と 号 く。そ の 丘 の 小 石、皆 能 く 粒 に 似 た り。ま た、杖 以 て 地 を 刺 す、す な は ち 杖 の 処 よ り 寒 泉 涌 き 出 づ。遂 に 南 北 に 通 り き。 北は寒く南は温し。 白朮生ふ。 ・ 宍 禾 郡 奪 谷。葦 原 の 志 許 乎 の 命 と 天 の 日 槍 の 命 と 二 は し ら の 神、こ の 谷 を 相 奪 ひ た ま ひ き。故 れ、奪 谷 と 曰 ふ。そ の 相 奪 ひ し 由 を 以 ち て、形、曲 れ る 葛の如し 。 ・ 伊 奈 加 川。葦 原 の 志 許 乎 の 命 と 天 の 日 槍 の 命 と 国 占 め し た ま ひ し 時 に、嘶 く 馬ありて、この川に遇へりき。故れ、伊奈加川と曰ふ。 ・ 御 方 の 里 土 は 下 の 上。 御 形 と 号 く る 所 以 は、葦 原 の 志 許 乎 の 命、 天 の 日 槍 の 命 と、黒 土 の 志 尓 嵩 に 到 り ま し、 各、黒 葛 三 条 を 以 ち て、み 足 に 着 け て 投 げ た ま ひ き 。尓 時、葦 原 の 志 許 乎 の 命 の 黒 葛 は、一 条 は 但 馬 の 気 多 の 郡 に 落 ち、 一 条 は 夜 夫 の 郡 に 落 ち、一 条 は こ の 村 に 落 ち き。故 れ、三 条 と 曰 ふ。 天 の 日 槍 の 命 の 黒 葛 は、皆 但 馬 の 国 に 落 ち き。故 れ、但 馬 の 伊 都 志 の 地 を 占 め て 在 し き 。一 云 へ ら く、大 神、形 見 と 為 て、御 杖 を こ の 村 に 植 て た ま ふ。故 れ、 御形と曰ふ。 また、 『播磨国風土記』には、天日槍と伊和大神の伝承が二箇所ある。 ・ 宍 禾 郡 波 加 の 村。国 占 め ま し し 時 に、 天 の 日 槍 の 命、先 に 到 り し 処 な り。 伊 和 の 大 神、後 に 到 り た ま ふ。こ こ に、大 神、大 く 恠 し と お も ひ て 云 り た ま ひ し く、 「度 ら ず あ り て 先 に 到 り し か も」と の り た ま ひ き。故 れ、波 加 の 村 と 曰ふ。
・ 神 前 郡 粳 岡 は、 伊 和 の 大 神 と 天 の 日 桙 の 命 と 二 は し ら の 神、 各 軍 を 発 し て 相 戦 ひ ま し き 。尓 時、大 神 の 軍、集 ひ て 稲 を 舂 き き。そ の 粳 、聚 り て 丘 と 為 り き。そ の 簸 き 置 け る 粳 を 墓 と 云 ひ、又、城 牟 礼 山 と 云 ふ。一 云 へ ら く、城 を 掘 り し 処 は、品 太 の 天 皇 の 御 俗、 参 度 り 来 し 百 済 人 等 、そ の 俗 の 随 に 城 を 造りて居りき 。その孫等は、川辺の里の三家の人、夜代等なり。 揖 保 郡 の 記 事 は、日 槍 が 海 水 を 掻 き 回 し て 剣 の 上 に 座 る。こ れ は 伊 耶 那 岐 ・ 伊耶那美の二神が、天沼矛で海水を掻き回してオノゴロ島を形成した 話や、国譲りの交渉に際して、建御雷神が十握剣を浪の穂に逆様に立てて その上に胡坐をかく話と類似性があり、矛に象徴される神の威力を示す表 現であろう。客神の行為を恐れた葦原の志挙乎がとった飯にまつわる国占 めの行為は、神前郡粳岡の稲をつく伝承と同様に、農耕儀礼的な宗教的な 色彩を有する。また宍禾郡の奪谷の伝承には、両神が奪い合ったために、 谷が藤蔓のように曲がりくねってしまったとある。神前郡に「八千軍と云 ふ 所 以 は、天 の 日 桙 の 命 の 軍、八 千 在 り き。故 れ、八 千 軍 野 と 曰 ふ。 」と あるのによれば、この記事も日槍の軍事的な性格を表していよう。伊奈加 川の伝承には馬が関係している。御方の里の伝承は、国占め争いの結末は 闘いではなく「うけひ」による決着であり、神意は外来神に不利な判定を 下 し た た め、日 槍 が 但 馬 国 に 赴 く こ と に な っ た と い う。 『播 磨 国 風 土 記』 に登場する天日槍には、太陽神的な性格はみられない。土地を奪いに来た 神 の 日 槍 に つ い て、新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 風 土 記 頭 注 に は、 「葦 原 の 志 許 乎 の 命 と 伊 和 の 大 神 の 二 神 の 出 現 時 期 が 異 な っ て お れ ば 両 者 は 争 わ ず、 別々に天の日槍と争うはずであり、天の日槍の命が播磨に勢力を持ってい たのは相当長期と考えられ」 、「天の日槍の命の勢力が播磨国内で衰えてい な か っ た こ と を 意 味 し よ う ((( 。」と 述 べ る。播 磨 地 方 に は 渡 来 系 の 人 々 が 多 く移住していたことが、播磨国風土記の記事から知られる。三品彰英氏は、 ヒ ボ コ (日 槍 ・ 日 矛) は、太 陽 神 の 招 ぎ 代 と し て の 呪 具 ・ 武 器 で あ り、矛 を神体とする太陽信仰を奉ずる集団が大陸から渡来しており、その信仰の 神がアメノヒボコと呼ばれ た ((1( と説く。風土記と記紀のアメノヒボコ伝承は 同列には扱えないが、少なくともアメノヒボコを奉ずる集団が、但馬国に 関係していたことは三書に共通している。 天之日矛の名は渡来人らしくないものである。允恭記には、新良の国王 の御調の大使の名を「金波鎮漢紀武」とする。古事記の天の沼矛や八千矛 神 の 神 名 か ら す る と「矛」は 国 作 り の 呪 具 と 関 わ る。 「塩 こ を ろ こ を ろ に 画き鳴して」という淤能碁呂島形成の記述や、万葉集巻六 ・ 一〇六五には 「八 千 桙 の 神 の 御 代 よ り 百 船 の 泊 つ る 泊 ま り と 八 島 国 百 船 人 の 定めてし 敏馬の浦は」と敏馬浦の泊りが歌われているので、矛が海と関 わることがわかる。また崇神記の「宇陀の墨坂神に、赤き色の楯 ・ 矛を祭 り き。又、大 坂 神 に、黒 き 色 の 楯 ・ 矛 を 祭 り き。 」の 記 事 で は、矛 は 国 境 の 祭 祀 と 関 わ る。日 本 書 紀 巻 第 一 第 七 段 一 書 第 一 で は、天 石 窟 に 籠 っ た 天 照 大 神 を 招 禱 き 奉 ろ う と し て、 「石 凝 姥 を 以 ち て 冶 工 と し、天 香 山 の 金 を 採 り て 日 矛 に 作 る。 」と あ り、日 矛 は 茅 纏 の 矟 と さ れ、太 陽 神 を 招 ぐ 霊 的な矛の性格が付与される。矛には海の水霊を祭る祭器の性格もあるが、 古 事 記 は「天」 「日 矛」と い う 太 陽 信 仰 と 関 わ る も の を 意 図 的 に 取 り 入 れ たようである。 阿具沼のほとりで女が妊娠するのは、一種の水辺の婚姻譚であり、その 描 写 に「日 の 耀、虹 の 如 く、其 の 陰 上 を 指 し き。 」と あ る。日 の 輝 き が 虹 に喩えられた表現であるが、雄略紀三年四月条には次のような記事がある。
三 年 の 夏 四 月 に、阿 閉 臣 国 見、 更 の 名 は 磯 特 牛。 栲 幡 皇 女 と 湯 人 の 廬 城 部 連 武 彦 と を 譖 ぢ て 曰 く、 「武 彦、皇 女 を 汙 し ま つ り て、任 身 し め た り」と い ふ。武 彦 が 父 枳 莒 喩、此 の 流 言 を 聞 き て、禍 の 身 に 及 ら む こ と を 恐 り、武 彦 を 廬 城 河 に 誘 へ 率 て、偽 き て 使 鸕 鷀 没 水 捕 魚 し て、因 り て 其 の 不 意 に 打 ち 殺 し つ。 天 皇、聞 し め し て 使 者 を 遣 し て、皇 女 を 案 へ 問 は し め た ま ふ。皇 女、対 へ て 言 さ く、 「妾 は 識 ら ず」と ま を す。俄 に し て 皇 女、神 鏡 を り 持 ち て、五 十 鈴 河 上 に 詣 り、人 の 行 か ぬ を 伺 ひ、鏡 を 埋 み て 経 き 死 ぬ。天 皇、皇 女 の 不 在 こ と を 疑 ひ、恒 に 闇 夜 に 東 西 に 求 覓 め し め た ま ふ。乃 ち 河 上 に 虹 の 見 ゆ る こ と 蛇 の 如 く し て、四 五 丈 ば か り の も の あ り。虹 の 起 て る 処 を 掘 り て、神 鏡 を 獲、 移 行 く こ と 遠 か ら ず し て、皇 女 の 屍 を 得 た り。割 き て 観 る に、 腹 中 に 物 有 り て 水 の 如 く、 水 中 に 石 有 り。枳 莒 喩、斯 に 由 り て、子 の 罪 を 雪 む る こ と 得 た り。還 り て 子 を 殺 せ る こ と を 悔 い、国 見 を 報 ひ に 殺 さ む と す。石 上 神 宮 に 逃 げ匿る。 太陽祭祀と関わる神鏡の埋められたところから蛇のような虹が立つ記述は、 虹 と 雨 の 関 わ り を 想 起 さ せ る。和 名 抄 に は「虹 毛 詩 注 云 、 螮 蝀 帝 董 二 音、 螮 作 レ蝃 、和名爾之 」とある。 『詩経』では虹のことを「 蝃蝀 」 ( 鄘 風) と 言 う。 『山 海 経』海 外 東 経 に は、 「 其 の 北 に 在 り。 [ 音 は 虹] 。 各 〻 兩 首 有 り [虹、 螮 蝀 な り] 。 一 に 曰 く、君 子 國 の 北 に 在 り と。 」と あ る。虹 は 中 国では双頭の蛇という観念があった。説文解字には「 螮蝀 也狀似蟲」とあ る。説 文 に い う 虫 と は、蛇 の 種 類 を さ す ら し い。 『淮 南 子』原 道 訓 に は 「虹 蜺 不 レ 出」と あ り、中 国 で は 虹 の 出 る こ と を 凶 兆 と す る。 『淮 南 子』天 文訓には「虹 蜺 彗星 者 天之忌也」とあり、虹や彗星は天忌のあらわれであ る。万葉集巻十四 ・ 三四一四「伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の現はろ までもさ寝をさ寝てば」は、虹が天と地が男女のように交合する時に生ま れる常軌を逸した現象として意識されたのであろう。雄略紀の記述は天が 皇 女 の 身 の 潔 白 を 明 か し 立 て る 為 に 示 し た 現 象 で あ る。 「如 虹」の 例 は、 『宋書』巻二十七 志第十七 符瑞上に、 帝 摯 少 昊 氏、母 曰 女 節 、見 星 如 虹 、下 流 渚 、 旣 而 夢 接 意 、生 少 昊。登 帝 位、有鳳皇之瑞。 帝 顓 頊 高 陽 氏、母 曰 女 樞、見 瑤 光 之 星、貫 月 如 虹 、 己 於 幽 房 之 宮、生 顓 頊 於若水。首戴干戈、有 圣德 。生十年而佐少昊氏、二十而登帝位。 とあり、星の光に喩える。日光ではないが、帝の出生にまつわる記述であ る。 『続 日 本 紀』巻 第 十 四 天 平 十 三 年 (七 四 一) 二 月 の 条 に よ れ ば、牛 一 頭 を 殺 す 罪 は「蔭 贖 を 問 は ず、先 づ 決 杖 一 百、然 し て 後 に 罪 科 す べ し。 」と ある。例外なく科せられる罰は非常に重いものである。言掛りとはいえ、 その罪と引き換えに神貴なものとして日矛にもたらされた赤玉が化成して 嬢子となる。朱蒙の卵の伝承のように赤玉が捨てられることはない。嬢子 は日矛の妻となるが、女神の神威の一端を示し、日矛に様々な味わいを供 して仕えたのにも拘らず罵られ、夫の仕打ちに耐えかねて出自を明かし、 祖国に逃走する。嬢子の正体は、難波の比売碁曾社の阿加流比売神である。 ここには比売碁曾社の縁起が語られるが、天皇家と女神の関わりは記され な い。天 之 日 矛 伝 承 は、 『三 国 遺 事』や『三 国 史 記』に 見 ら れ る よ う な 王 朝の始祖の誕生を説く話ではないのである。赤玉は古事記の、 赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり (記第七番)
の歌謡に詠まれる。この神話において赤玉は、天つ神の御子虚空つ日子か ら誕生した鵜葺草葺不合命を象徴し、白玉は、日子穂々手見命を象徴する。 赤玉は新生の霊威に満ちた日の御子の尊貴性を喩えていよう。松前健氏は 赤玉のアカは、もと「明玉」の意で、その光輝を表す語とし、ヒメコソの 縁起は、韓土の一女子が海を渡って難波に着き、霊石の神として鎮座した という、一種の寄石伝承とみ る (((( 。寺田恵子氏は生まれるのが赤玉で、それ が女子に化成するところに日本的な要素を見 る ((1( 。先に引いた雄略紀の記事 に は、皇 女 の「腹 中 に 物 有 り て 水 の 如 く、水 中 に 石 有 り。 」と あ り、皇 女 の潔白を証立てるように、皇女が仕えた天照大神の神意が表れたかのよう な奇事が語られる。 『日本霊異記』下巻第三十一縁には、 「女人の石を産生 みて、之を以て神とし斎きし縁」がある。未婚の美乃国方県郡の県氏の娘 が二つの石を生んだという奇異譚である。その石は隣郡の伊奈婆大神の子 であるとの託宣があった。神と女人との一種の神婚譚とみられる。二つの 石は「女の家の内に、忌籬を立てて斎けり」とあり、石を御神体とする伊 奈 婆 神 社 の 起 源 譚 で あ る。こ の 話 で は、 「方 の 丈 は 五 寸、一 つ は 色、青 白 の 斑 に し て、一 つ は 色、専 青 し。年 毎 に 増 長 す。 」と あ る。石 は 神 霊 の 依 代とされ、卵生型説話の変形とみられる。下巻第十九縁の「産み生せる肉 団の作れる女子の善を修し人を化せし縁」では、 「其の姿卵の如し」 「肉団 の殻開きて」とあり、一種の卵生型の異常出生譚であ る ((1( 。雄略紀の伝承も これに類するだろう。霊異記説話は日矛伝承と類似した要素を伝えている。 古事記の天之日矛来朝の経緯と似ているのが垂仁紀二年是歳の条に記さ れた、任那と新羅の抗争の由来を説く記事の異伝、意富加羅国の王之子、 都怒我阿羅斯等来朝の由来を説く異伝である。 一 に 云 は く、初 め 都 怒 我 阿 羅 斯 等 国 に 有 り し 時 に、黄 牛 に 田 器 を 負 せ て 田 舎 に 将 往 く。黄 牛 忽 に 失 す。則 ち 迹 を 尋 め 覓 ぐ に、跡 一 郡 家 の 中 に 留 れ り。時 に 一 老 夫 有 り て 曰 く、 「汝 の 求 む る 牛 は、此 の 郡 家 の 中 に 入 れ り。然 る を 郡 公 等 曰 く、 『 牛 の 負 せ た る 物 に 由 り て 推 る に、必 ず 殺 し 食 は む と 設 け た る な ら む。 若 し 其 主 覓 ぎ 至 ら ば、物 を 以 ち て 償 は ま く の み』と い ひ て、則 ち 殺 し て 食 ら ふ 。 若し 『 牛の直 に何物を得むと欲ふ』 と問はば、 財物をな望みそ。 便ち 『 郡 内 に 祭 る 神 を 得 む と 欲 ふ』と 爾 云 へ」と い ふ。俄 に あ り て 郡 公 等 到 り て 曰 く、 「牛 の 直 に 何 物 を 得 む と 欲 ふ」と い ふ。対 ふ る こ と 老 父 の 教 の 如 く す。其 の 祭 れ る 神 は、是 白 石 な り。乃 ち 白 石 を 以 ち て 牛 の 直 に 授 つ 。因 り て 将 来 て 寝 中 に 置 く。其 の 神 石、美 麗 童 女 に 化 り ぬ 。是 に 阿 羅 斯 等、大 き に 歓 び て 合 は む と 欲 ふ。然 る に、阿 羅 斯 等 他 処 に 去 き し 間 に、童 女 忽 に 失 せ ぬ。阿 羅 斯 等 大 き に 驚 き て、己 が 婦 に 問 ひ て 曰 く、 「童 女、何 処 に か 去 に し」と い ふ。対 へ て 曰 く、 「 東 方 に 向 に き」と い ふ。則 ち 尋 め て 追 求 ぐ 。遂 に 遠 く 海 に 浮 び て、 日 本 国 に 入 り ぬ 。求 げ る 童 女 は 難 波 に 詣 り、比 売 語 曾 社 の 神 と 為 り 、且 豊 国 の 国前郡に至り 、復 比売語曾社の神と為る 。並に 二処に祭らる といふ。 赤玉や白石からの誕生は、普通の人間と異なる神としての神秘性を呈する。 瀧川政次郎氏は、白は太陽の光の色を表すとす る ((1( 。垂仁紀では白石が化し た童女との神婚は語られない。栲幡皇女の場合、腹中のものが胎児ではな く、身の潔白を証しだてる石であったところに、霊異記下巻第三十一縁に 通じる観想がうかがえ、天照大神に仕える者の神性が見られよう。 『新唐書』巻三十六 志第二十六 五行三には、 大 順 元 年 六 月、 資 州 兵 王 全 義 妻 如 孕、 覺 物 漸 下 入 、至 足 大 拇、痛 甚、 坼 而 生珠 如 彈 丸、漸長大如杯。
とある。また同書 馬 禍 には、 文 明 初、新 豐 有 馬 生 駒、二 首 同 項、各 有 口 鼻、生 而 死。 咸 陽 牝 馬 生 石 、大 如升、上 微 有 綠 毛。皆馬禍也。 という例はあるが、寺田恵子氏の指摘のように赤玉を生むのは日本的な要 素 ((1 ( であろう。 『 延 喜 式 』 巻 九 神 名 帳 摂 津 国 東 生 郡 の 条 に は 「 比 賣 許 曾 神 社 名 神 大 。 月 次 相 甞 新 甞 。 」 とある。松前健氏は、各地にあるヒメコソノ社の祭神の性格は異な る ((1( とす る。ヒメコソノ神は渡来神とされるが、瀧川政次郎氏は、筑前国怡土郡の 高 祖 神 社、豊 前 国 田 川 郡 の 香 春 神 社、豊 後 国 国 前 (国 東) 郡 の 比 売 許 曽 神 社、摂 津 国 東 生 (東 成) 郡 の 比 売 許 曾 神 社、同 国 住 吉 郡 の 赤 留 比 売 神 社 を 西から次々につないでいった線が、近畿の帰化人が博多郡の糸島水道に上 陸してから、近畿の各地に移っていった行程を示すものではない か ((1( と考え る。垂仁記には本牟智和気御子が、出雲に「出で行く時に、到り坐す地毎 に、品遅部を定めき。 」と、御子の移動に従い品遅部が定められたとある。 後世の菅原道真の場合も、祭神になる人が移動していく道々に神社が建て られる。渡来人の経由地に信仰の跡が残された可能性はあると思われる。 寺田恵子氏は一云の伝承にある都怒我阿羅斯等来朝の記事の背後にある新 羅と任那の抗争関係に、両国の怨恨のもととなった日本から贈られた赤絹 があることに着目する。赤絹を太陽を表象する色と捉え、さらにヒメコソ の 神 の 性 格 に つ い て『肥 前 国 風 土 記』基 肆 の 郡 姫 社 (ヒ メ コ ソ) の 郷 の 次 の記事を引 く ((1( 。 こ の 郷 の 中 に 川 あ り、名 を 山 道 川 と 曰 ふ。そ の 源 は 郡 の 北 の 山 よ り 出 で、南 に 流 れ て 御 井 の 大 川 に 会 ふ。昔 者、こ の 川 の 西 に、荒 ぶ る 神 あ り、行 路 く 人、 多 に 殺 害 さ れ、半 ば は 凌 ぎ 半 ば は 殺 に き。時 に、祟 る 由 を 卜 へ 求 ぐ に 兆 へ て 云 は く、 「筑 前 の 国 宗 像 の 郡 の 人、珂 是 古 を し て、吾 が 社 を 祭 ら し め よ。若 し 願 ひ に 合 は ば、荒 ぶ る 心 を 起 こ さ じ」と い へ ば、珂 是 古 を 覔 ぎ て 神 の 社 を 祭 ら し め き。珂 是 古、す な は ち 幡 を 捧 げ て 祈 禱 み て 云 は く、 「誠 に 吾 が 祀 を 欲 り するにあらば、この幡、風の順に飛び往きて、吾を願りする神の辺に堕ちよ」 と い ふ。す な は ち 幡 を 挙 げ、風 の 順 に 放 ち 遣 り き。時 に、そ の 幡 飛 び 往 き て、 御 原 の 郡 姫 社 の 社 に 堕 ち、更 還 り 飛 び 来 て、こ の 山 道 川 の 辺 の 田 村 に 落 ち き。 珂 是 古、自 づ か ら 神 の 在 ま す 処 を 知 り き。そ の 夜、夢 に 臥 機 と 絡 垜 と 儛 ひ 遊 び 出 で 来、珂 是 古 を 圧 し 驚 か す と 見 き。こ こ に、 織 女 神 と 知 る。す な は ち 社 を 立 て て 祭 る。尓 よ り 已 来、路 行 く 人、殺 害 さ れ ず。因 り て 姫 社 と 曰 ひ、今 以ちて郷の名と為す。 これによれば、ヒメコソの神は女神であり、機織女の性格を有する。臥機 と絡垜は織機と糸繰り道具であるが、機織女を象徴するのは、手玉 ・ 足玉 である。仁徳紀四十年二月条の雌鳥皇女の手玉 ・ 足玉をはじめ、万葉集巻 十 ・ 二 〇 六 五 の「足 玉 も 手 玉 も ゆ ら に 織 る 服 を」の 例、 『播 磨 国 風 土 記』 讃容郡 弥加都岐原の伝承では、手玉 ・ 足玉が機織女の身分を保証する。 仁徳天皇の御代、狭井の連佐夜が伯耆の加具漏 ・ 因幡の邑由胡とその一族 を搦め捕えて朝廷に参上する際に、何度も水の中に漬けて酷く打ち叩くが、 その中に玉を手足に巻いた二人の女性がいた。 中 に 女 二 人 あ り、 玉 を 手 足 に 纏 け り 。こ こ に、佐 夜、恠 し み 問 へ ば、答 へ て 曰 く、 「吾 れ は こ れ、服 部 弥 蘇 の 連、因 幡 の 国 の 造 阿 良 佐 加 比 売 に 娶 ひ て 生 め
る 子、 宇 奈 比 売 ・ 久 波 比 売 な り」と い ふ。そ の 時、佐 夜 驚 き て 云 は く、 「こ は これ、 執政大臣のみ女 なり」といふ。すなはち還し送りき。 とある。仁徳記には、機織女女鳥王や「韓人」奴理能美が登場する。奴理 能美が営む養蚕 ・ 絹織物生産は時の最高権力者仁徳天皇や石之日売の関心 を惹きつける。そして蚕は養蚕の統括者石之日売皇后に献上される。崇神 記 に は、 「是 に、初 め て 男 の 弓 端 の 調 ・ 女 の 手 末 の 調 を 貢 ら し め き。故、 其 の 御 世 を 称 へ て、初 国 を 知 ら す 御 真 木 天 皇 と 謂 ふ ぞ。 」と あ る。手 先 で 紡いだ糸や織物を貢納することが、国を領有 ・ 支配することにつながるの である。阿加流比売神の赤玉は太陽に関わるとともに機織女に関わるので はないかと思われる。また次の記述を見ると、赤玉は天子の支配と関わる ようである。 『後漢書』巻三十下 郎凱襄楷列伝第二十下 には、 王 者 隨天、譬 犹 自春徂夏、改 靑服 絳 者 也。 とあり、この部分の注に、 禮記 ⺼ 令、孟春 子衣 靑 衣、 服 倉玉、孟夏則衣朱衣、 服 赤玉 也。 とある。 「四庫全書」所収の『月令解』巻四に同文の解として、 朱 衣 所 衣 之 衣 尚 赤 色 也。赤 玉 謂 玉 色 之 赤 者、服 謂 冕 及 笄 佩 玉 尚 赤 色 也。 相玉經云赤擬鷄冠。 と 見 え、こ れ は 赤 玉 を 身 に つ け る、お び る 意 で あ る。 『五 禮 通 考』巻 二 百 には「礼夏則衣赤衣佩赤玉」とあり、 天子居 明 堂太廟乘朱路、駕赤 駵 、載赤旂、衣朱衣、 服 赤玉。 と記されるので、 「佩」は「服」字と同義である。 『礼記』月令第六には、 天 子 は 孟 春 之 月 に「衣 二靑 衣 一、 服 二 倉 玉 一 」、孟 夏 之 月 に「衣 二朱 衣 一、 服 二 赤 玉 一 」、孟 秋 之 月 に「衣 二 白 衣 一、 服 二白 玉 一 」、孟 冬 之 月 に「衣 二黑 衣 一、 服 二 玄 玉 一 」と あ る。青 赤 白 黒 は 五 行 思 想 に 基 づ く 色 相 で あ る。玉 は 服 飾 を 完 成 させるものではあるが、全世界を統御する者としての天子、帝王の祭祀、 権威に関わる。同様に、古事記の天照大御神の御頸珠、火遠理命の御頸の 璵、記第七番歌謡の赤玉、白玉には、このような統治にまつわる観念が投 影されていよう。 太陽神天照大御神の高天原統治の象徴は御頸珠の玉であり、誓約の段で は両手に珠を纒きもち、大嘗の際の忌服屋では神御衣を織らせる機織女の 性格を有する。こうした機織りの職掌は、観念上は神代から人の世に伝え られたとみていたのであろう。応神天皇の御代には、百済国から「手人韓 鍛、名 は 卓 素、亦、呉 服 の 西 素 の 二 人 を 貢 上 り き。 」と 記 さ れ、こ れ は 仁 徳記の「韓人」奴理能美の記事にもつながるのだろう。赤玉から化成した 妻を追いかけて来朝した天之日矛の話は、そうした渡来人の移住や先進技 術の定着と関わりを有するものであったと思われる。 二 殺牛信仰と新羅 ・ 日本 古事記では赤玉は殺牛の罪と対価、日本書紀では白石は黄牛と対価とな る。天之日矛の、牛を殺して食おうとしているという言葉にはどのような 信仰や背景が存在するのであろうか。従来これは殺牛信仰の観点から考察 されてきた。牛を殺す記事は『日本書紀』皇極天皇元年 (六四二) にある。 六 月 に「是 の 月 に、大 き に 旱 す。 」、七 月 に「客 星、月 に 入 れ り。 」の 凶 事
が記された後に、次の記事が置かれる。 戊 寅 に、群 臣 相 語 り て 曰 く、 「村 々 の 祝 部 の 所 教 の 随 に、或 い は 牛 馬 を 殺 し て 諸 社 の 神 を 祭 ひ、或 い は 頻 に 市 を 移 し、或 い は 河 伯 に 禱 る も、既 に 所 効 無 し」と い ふ。蘇 我 大 臣 報 へ て 曰 く、 「寺 々 に し て 大 乗 経 典 を 転 読 し ま つ る べ し。 悔過すること、仏の説きたまへるが如くして、敬びて雨を祈はむ」といふ。 庚 辰 に、大 寺 の 南 庭 に し て、仏 ・ 菩 薩 の 像 と 四 天 王 の 像 と を 厳 ひ、衆 僧 を 屈 請 し て、大 雲 経 等 を 読 ま し む。時 に、蘇 我 大 臣、手 づ か ら 香 鑪 を 執 り、焼 香きて発願す。 (中略) 八 月 の 甲 申 の 朔 に、天 皇、南 淵 の 河 上 に 幸 し て、跪 き て 四 方 を 拝 み、天 を 仰 ぎ て 祈 り た ま ふ。即 ち 雷 な り て 大 雨 ふ る。遂 に 雨 ふ る こ と 五 日、天 下 を 溥 く潤す。 新編日本古典文学全集日本書 紀 ((1( 頭注、新日本古典文学大系続日本 紀 (11( 注では 殺牛馬は中国の習俗としている。中国には夏殷代より、宗廟での祖霊の祭 り、祭天、告天、死者の霊への祭祀、軍事の時に、牛馬羊犬などを犠牲に す る 例 や、殺 牛 を 禁 じ る 法 令 や 王 命 も 見 ら れ る。栗 原 朋 信 氏 は、 「大 和 朝 廷は、本來、犠牲禮の習俗を有しなかったもの、大陸風の、とくに北方系 の習俗に強く影響されたことは事實であるが、これも、巨視的な角度から すれば、犠牲禮だけは拒否して、奉馬の法によってきたも の (1(( 」とみる。井 上光貞氏は、古代日本に、犠牲の行事がなかったと考えることが誤りであ るが、それは一般的なことではなく、令 ・ 式の定める公的祭式は「唐の公 的祭祀と著しくその色彩を異にしてい る (11( 」と指摘する。それに対して上田 正 昭 氏 は、 「殺 牛 馬」の 習 俗 に は 明 ら か に 渡 来 の 要 素 は あ る が、民 間 の 習 俗としてかなりの広がりをもっていたとみる。 すなわちこの記事は、 「村々 の 祝 部 の 所 教」に よ る「諸 社」の ま つ り = 民 間 習 俗、 「大 寺」 (百 済 大 寺) の 南 庭 で 礼 仏 読 経 を な し、 「蘇 我 大 臣」 (蘇 我 馬 子) が 発 願 祈 雨 = 仏 教 的 礼 仏 読 経、 「跪 き て 四 方 を 拝 む」= 儒 教 風 の 祭 儀 と シ ャ ー マ ニ ズ ム の 三 つ の 要 素 か ら な り た っ て い る (11( と 指 摘 す る。書 紀 に あ る「市 を 移 す」は、 『三 国 史記』 巻第四 新羅本紀第四 眞平王の五十年 (六二八) 条に 「夏大旱。 移市。 畫 龍 祈 雨。 」と あ る。書 紀 で は 祈 雨 に 際 し て 牛 馬 が 神 に 捧 げ ら れ た こ と が わ か り、こ う し た 信 仰 が 民 間 に は 広 ま っ て い た よ う で あ る。天 武 紀 四 (六 七五) 年四月の条には、 庚 寅 に、諸 国 に 詔 し て 曰 は く、 「今 よ り 以 後、諸 の 漁 猟 者 を 制 め て、檻 穽 を 造 る こ と、及 機 槍 等 の 類 を 施 く こ と 莫 れ。亦、四 月 朔 よ り 以 後、九 月 三 十 日 よ り 以 前 に、比 満 沙 伎 理、梁 を 置 く こ と 莫 れ。且、牛 ・ 馬 ・ 犬 ・ 猿 ・ 鶏 の 宍 を食ふこと莫れ。 以外は禁例に在らず。 若し犯す者有らば罪せむ」 とのたまふ。 とあり、 牛の肉を食べることを禁ずる詔が出される。 持統紀五年 (六九一) 六月条にも、 戊 子 [五 月 十 八 日] に、詔 し て 曰 は く、 「此 の 夏 の 陰 雨、節 に 過 へ り。懼 る ら く は 必 ず 稼 を 傷 り て む。夕 に 惕 み 朝 に 迄 る ま で に 憂 懼 り、厥 の 愆 を 思 念 ふ。 其れ、公卿 ・ 百寮人等をして、酒 ・ 宍を禁断めて、摂心悔過せしめよ。…」 と食肉を禁じ、やがてその効果があって雨が降り始めたという。これらの 記事は、天武 ・ 持統朝の頃から浄 ・ 不浄の意識が次第に具体化したことを 示 し て お り、こ う し た こ と が 屠 殺 ・ 肉 食 禁 止 令 と 関 わ る よ う で あ る。 『続 日本紀』巻第十四 天平十三 (七四一) 年の条には、
二 月 戊 午、詔 し て 曰 は く、 「馬 ・ 牛 は 人 に 代 り て、勤 し み 労 め て 人 を 養 ふ。 茲 に 因 り て、先 に 明 き 制 有 り て 屠 り 殺 す こ と を 許 さ ず。今 聞 か く、 「国 郡 禁 め 止 む る こ と 能 は ず し て、百 姓 猶 屠 り 殺 す こ と 有 り」と き く。其 れ 犯 す 者 有 ら ば、蔭贖を問はず、先づ決杖一百、然して後に罪科すべし。 とある。国郡の百姓が牛馬の屠殺を行っていたことが記され、禁令にも拘 らず守られないために罪科を科すことが記される。馬牛が人に代わって勤 労する大切な動物であることが強調される。この考えは天武 ・ 持統朝の詔 に も 通 じ る で あ ろ う。上 田 正 昭 氏 は、馬 牛 を「軍 国 の 資」 、役 畜 と し て 保 護しようとする政治的目的も禁令には介在し た (11( と述べる。聖武天皇の御代 (神 亀 元 (七 二 四) ~ 天 平 感 宝 元 (七 四 九) 年) の こ と と し て、 『日 本 霊 異 記』に は殺牛 ・ 食肉にまつわる二つの説話がある。 中巻 第五縁の「漢神の祟りに依り牛を殺して祭り、又放生の善を修し て、以て現に善悪の報を得し縁」には、次のような話がある。聖武天皇の 御代に摂津国東生郡撫凹村の富豪の家長が漢神の祟りにあって毎年一頭ず つ牛を殺し、殺牛が七頭に至り重い病気になる。病が牛を殺した罪業によ ることがわかったので放生の業を修めたという。この「殺牛」をして祭り をした説話では、漢神の祟りによる殺牛の信仰が摂津にも広がっていたこ と が 知 ら れ、 「放 生」の 信 仰 が 反 映 さ れ て い る。佐 伯 有 清 氏 は、殺 牛 の 信 仰を雨乞いに関わるものと、祟りに関わるものとに大別し、特に後者の八 ~九世紀の殺牛の信仰を祟り神による疫病の流行と結びつけ る (11( 。中巻第二 十四縁の「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の賂を得て免しし縁」には、次 のような話が載せられる。聖武天皇の御代に、平城京左京六条五坊の人楢 磐嶋が、大安寺の修多羅分銭三十貫を借りて、越前の都魯鹿の津に赴いて 交易をするが、病を得る。閻羅王の使いである鬼が「気に病まむが故に」 近づくなと言う条りには、行疫神の信仰が垣間見える。磐嶋は使いの鬼を 「我家の斑牛二頭」で「牛宍饗」し、 「率川社」の相八卦読の命と引き換え に命を助けられる。楢磐嶋は新羅系の渡来氏族、大楢君の一族 か (11( といわれ る。磐嶋は越前の敦賀から琵琶湖の西岸を経由して近江国高島郡志賀の唐 崎を経て、山城国の宇治橋に至り、平城京に戻る。この話には「牛の宍の 味き」を食する習俗や、都から日本海を通じて大陸に至る交易ルートが記 される。 『続日本紀』巻第四十 延暦十 (七九一) 年九月条には、 甲 戌、 (中 略) 伊 勢 ・ 尾 張 ・ 近 江 ・ 美 濃 ・ 若 狭 ・ 越 前 ・ 紀 伊 等 の 国 の 百 姓 の、 牛を殺して漢神を祭るに用ゐることを断つ。 とあり、東海 ・ 東山 ・ 南海などの諸地域に漢神信仰が波及し、諸国百姓に 及んでいたことが知られる。この中に北の海の玄関口となる「越前」が含 まれる。牛を殺して漢神を祭る信仰はかなりの広がりをみせていたのであ ろう。 『古語拾遺』では牛宍を食らう次の話が知られる。 一 昔 在、神 代 に 大 地 主 神、田 を 営 る 日、牛 宍 を 以 て 田 人 に 食 は し む。時 に 御 歳 神 の 子、其 の 田 に 至 り て 饗 に 唾 て 還 り て 以 て、状 を に 告 す。御 歳 神 怒 を 発 し て、蝗 を 以 て 其 の 田 に 放 つ。苗 葉 忽 に 枯 損 て 篠 竹 に 似 れ り。是 に 於 て 大 地 主 神、片 巫〔志 止 々 鳥〕 ・ 肱 巫〔今 俗、竈 輪、及 び 米 占 也〕を し て 其 の 由 を 占 ひ 求 め し む る に、御 歳 神 祟 り を 為 す。宜 し く 白 猪 ・ 白 馬 ・ 白 鶏 を 献 り て、 以 て 其 の 怒 を 解 く べ し。教 に 依 り て 謝 り 奉 る に、御 歳 神 答 へ て 曰 く、 「実 に 吾 が 意 也。宜 し く 麻 柄 を 以 て 挊 に 作 り て 之 を 挊 ぎ、乃 ち 其 の 葉 を 以 て 之 を 掃 ひ、 天 押 草 を 以 て 之 を 押 し、烏 扇 を 以 て 之 を あ ふ ぐ べ し。若 し 此 の 如 く し て 出 去
らずは、 宜しく牛宍を以て溝の口に置きて、 男茎形を作りて以て之に加へ 〔是 れ 其 の 心 を 厭 ふ 所 以 也〕 、薏 子〔古 語、薏 を 以 て 都 須 と い ふ 也〕 ・ 蜀 椒 ・ 呉 桃 の 葉、及 び 塩 を 以 て 其 の 畔 に 班 置 く べ し」 。仍 て 其 の 教 に 従 ふ と き、苗 葉 復 た 茂 り、年 穀 豊 稔 な り。是 れ 今 の 神 祇 官、白 猪 ・ 白 馬 ・ 白 鶏 を 以 て 御 歳 神 を 祭 る縁也。 こ の 記 述 に つ い て 上 田 正 昭 氏 は、 「田 作 り に 牛 の 肉 を 食 わ せ た り、牛 の 肉 を溝口において男茎根を作るという伝承は、当時の民俗を反映したものと みられ、御歳神の怒りは、神にまずささぐべき牛の肉を、さきに田人に食 わせたところにあり、牛の肉を溝口におき、男茎根を作るという伝えも、 溝 口 ま つ り の 投 影 と い え よ う」と し、 「朝 鮮 半 島 に お け る 牛 馬 の 供 犠 が、 古代日本の殺牛馬の信仰や習俗の直接的なルーツとみても、さしてあやま り で は あ る ま い (11( 。」と 結 論 づ け る。ま た 門 田 誠 一 氏 は、 「鳳 坪 新 羅 碑」 「冷 水 新 羅 碑」の 例 を 挙 げ、 「新 羅 で は 誓 い を か わ す 時 に は、当 事 者 や 立 会 人 が集まって牛を殺して、天を祭っていた」ことが知られ、日本古代の殺牛 祭祀について、日本霊異記の斑牛、古語拾遺の牛の肉を溝口に置いて蝗の 害を防ぐこと、祈雨のために牛馬を殺して諸社の神を祀る記事は中国古代 に発する殺牛信仰の直接の系譜を引くのではなく、新羅の祭儀の要素の一 部を受け継ぎながらも、在来の信仰習俗として取り込まれ た (11( とする。この ような新羅との関係を重視する歴史学の立場からの見解もある。牛が放牧 されていたことは『播磨国風土記』宍禾郡に「塩の村。処々に鹹き水出づ。 故 れ、塩 の 村 と 曰 ふ。牛 ・ 馬 等、嗜 み て 飲 め り。 」と あ る 記 事 や、揖 保 郡 に「塩阜。惟の阜の南に鹹水あり。方三丈許り、海と相濶ふこと三十里許 りなり。礫以ちて底と為し、草以ちて辺と為す。海の水と同に往来ひ、満 つる時に、深さ三寸許りなり。牛 ・ 馬 ・ 鹿等、嗜みて飲む。故れ、塩阜と 号く。 」などからうかがえる。 『延喜式』巻二十三民部の諸国貢蘇番次では、 諸 国 か ら 蘇 が 貢 上 さ れ、 「但 馬 國 十 一 壺 三口各大一升。 八口各小一升。 」と あ る。牛 乳 も 飲 まれたことが長屋王家木簡からも知られ、牛の恩恵は人々の生活を支えて い た と み ら れ る。 『類 聚 三 代 格』巻 十 九 延 暦 十 年 九 月 十 六 日 付 太 政 官 、 応禁制 牛用祭 漢 神事には、 諸 國 百 姓 レ牛 用 レ祭 。冝 下 嚴 加 二 禁 制 一莫 上レ令 レ爲 レ 然 。若 有 二 違 犯 一科 二故 煞 馬 牛 罪 一。 とある。先に引いた天平十三年二月の詔にも、こうした禁令が発せられて いるのにも拘らず、殺馬牛がなくならないために、蔭によって優遇を受け たり、贖によって、相当額の贖銅を納めて実刑を免除されるような特権を 有する者でも、例外なくまず杖一百を科するとある。牛馬殺しには、廐庫 律 に「凡 故 殺 二 官 私 馬 牛 一 者 。徒 一 年」と あ る よ う な か な り の 重 い 罰 が 科 せられた。新羅と日本は農耕儀礼や殺牛信仰をめぐって相通する習俗を有 しており、天之日矛の殺牛の言葉は違和感なく受け入れられる素地があっ たのであろう。 三 古事記における天之日矛伝承 天之日矛伝承に載せられた系譜は、坂下圭八氏が説くように「征韓」の 合理化、息長帯比売命とその子である応神天皇の母方の出自を説くために、 応神記の終わりに置かれ た (11( と考えられる。しかしながら息長帯比売命は新 羅国の王子とされる天之日矛の六世の孫にあたり、律令では五世までを皇 親とすることからすれば、王族の血を引くとはいってもこの範囲には入ら ない。新羅親征が母方の祖国を支配下に置くことであるとの正当性を示し
つつも、天之日矛とは出来るだけ世代を離そうとしているかのようである。 書紀では天日槍と神功皇后との関係は語られない。記では神功皇后の父方 の系譜は開化天皇の五世の孫、書紀では玄孫である。上に系譜を記す。 これによれば、仮に息長帯比売命を仲哀天皇の世系と揃えると、母方の 系譜でいえば天之日矛の来朝は孝霊天皇の御代、多遅麻毛理を垂仁朝に設 定 し て も 日 矛 の 来 朝 は 孝 霊 天 皇 の 御 代 と な る。孝 霊 記 に は、 「大 吉 備 津 日 子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を 居 ゑ て、針 間 を 道 の 口 と 為 て、吉 備 国 を 言 向 け 和 し き。 」と あ り、吉 備 国 の服属が記される。針間を道の口の国として天皇家の支配が吉備にも及ん でいく。孝霊紀には、吉備のことは出てこない。応神記には「此の御世に、 海 部 ・ 山 部 ・ 山 守 部 ・ 伊 勢 部 を 定 め 賜 ひ き。 」と あ る。吉 備 の 海 部 直 が 出 てくるのは仁徳記である。大和朝廷は吉備の陸と海を支配下に置くととも に日本海の航路も支配下に置いていったと考えられる。日本書紀では、新 羅の王子天日槍の来朝の記事は垂仁紀三年三月条と八十八年七月の条に見 え、日 槍 が も た ら し た 神 宝 と 清 彦 誕 生 の 経 緯 を 説 き、田 道 間 守 の 出 自 (三 年 三 月 条) を 記 す。田 道 間 守 を 垂 仁 朝 に 設 定 し 仮 に 世 系 を 揃 え る と、天 日 槍の来朝は孝霊朝となり、記紀で一致する。古事記は多遅麻毛理を垂仁朝 の人物とする。日本書紀でもそれは同様だが、書紀は天日槍以下田道間守 までをすべて長命の垂仁天皇の御代の人物とする。坂下圭八氏は天日槍の 系譜は日本書紀においては、垂仁天皇の命を受けて常世国に赴いた田道間 守との関係を説くことに主眼があっ た (11( とする。それに対して古事記は、天 之 日 矛 来 朝 を「昔」 、と 記 す だ け で 具 体 的 に は 述 べ な い。し か し な が ら、 「昔」と 語 り 始 め る こ と で 捉 え ら れ る 時 間 の 幅 が 大 き く な り、垂 仁 記 に 多 遅麻毛理の話を置くことによって日矛の来朝は垂仁朝よりも前の時代が意 古事記の系譜 父方 伊迦賀色許売命 崇神 垂仁 景行 成務 開化 日子坐王 倭建命 仲哀 意 祁 都比売命 山代之大箇木真若王 応神 袁 祁 都比売命 迦邇米雷王 丹波能阿治佐波毘売 息長宿禰王 高材比売 息長帯比売命 葛城之高額比売命 母方 天之日矛 多遅摩母呂須玖 多遅摩斐泥 多遅摩比那良岐 多遅麻毛理 前津見 多遅摩比多訶 清日子 葛城之高額比売命 菅竈由良度美 当摩の咩斐 日本書紀の系譜 垂仁紀三年三月 天日槍 但馬諸助 但馬日楢杵 清彦 田道間守 麻多烏 (但馬国の出島の人太耳が女) 垂仁紀八十八年七月 清彦は天日槍の曽孫 天日槍 但馬諸助 〇 清彦 麻 拕 能烏 (但馬国の前津耳、一云 前津見 一云 太耳の女) 9 10 一世 一世 二世 二世 三世 三世 四世 四世 一世 二世 三世 四世 五世 五世 11 12 13 14 15 (孝霊) (孝元) (開化) (崇神) (垂仁) (景行) (成務)
識されるようになる。古事記は朝鮮半島に存在した国家として新羅と百済 を記し、その背後に 繫 がる大国中国は、応神記に「秦造が祖 ・ 漢直が祖」 とは出てくるものの直接には記されない。仲哀記において新羅と百済は天 照大御神の神意のもとに天皇王権に服属すべき国として描かれる。森田喜 久男氏は、垂仁紀二年是歳条の都怒我阿羅斯等来朝記事、仲哀紀二年三月 丁卯条~六月庚寅条の背景に次のような政治情勢を分析する。 仲 哀 が 熊 襲 征 討 を 企 て た 時、神 功 は「角 鹿」 (= 敦 賀) か ら 出 航 し、 「渟 田 門」 を 経 由 し て、 「豊 浦 津」で 仲 哀 と 落 ち 合 っ て い る。 (中 略) こ の よ う な 伝 承 が 成 立 す る た め の 歴 史 的 条 件 と し て、北 陸 と 山 陰 と を 結 ぶ「北 ッ 海」沿 岸 の ル ー ト が 古 墳 時 代 以 降 も 存 続 し て い た こ と は 否 定 で き な い と 思 わ れ る。 (中 略) 水 上 交 通 の 担 い 手 と し て 重 要 な 役 割 を 果 た し た 存 在 と し て、日 本 海 沿 岸 の 津 々 浦 々 に 存 在 し た 海 人 達 が 想 起 さ れ る。 (中 略) 水 上 交 通 の 担 い 手 で あ っ た 海 人 達 が、 「海 部」と し て 再 編 成 さ れ (中 略) 「北 ッ 海」沿 岸 に 分 布 し て い る (中 略) 。 「海 部」は、越 前 ・ 若 狭 ・ 丹 後 ・ 但 馬 ・ 因 幡 ・ 出 雲 ・ 隠 岐 な ど の 諸 国 に 広 範 囲 に わ た っ て 分 布 し て い る の で あ る。 (中 略) 瀬 戸 内 海 だ け で な く、 (中 略) ヤ マ ト 王 権 は、 「北 ッ 海」沿 岸 の 海 人 を「海 部」と し て 再 編 成 す る こ と で、水 上 交 通 の ル ー ト の 掌 握 を 図 っ た。 (中 略) 「丹 波 国 造 海 部 直 等 氏 之 本 記」 (海 部 氏 勘 注 系 図) に よ れ ば、 「丹 波 国 造 建 振 熊 宿 禰」の 尻 付 に、 「建 振 熊 宿 禰」は 神 功 が 新 羅 を 征 討 し た さ い に、丹 波 ・ 但 馬 ・ 若 狭 の 海 人 を 率 い て 奉 仕 し た と い う。 (中 略) 神 功 の 新 羅 征 討 と い う 対 外 関 係 に 関 わ る 伝 承 と 深 く 関 わ る 形 で 海 部 の 設 置 が語られていること自体は重視すべきであろ う (1(( 。 海部によってこのようなルートが確立されていたとすると、天之日矛が難 波から瀬戸内海を通り、日本海を経由して但馬に上陸したという伝承は自 然なルートとして理解できる。銅矛について岡本健児氏は、祭器としての 矛は北九州から大阪湾沿岸地域を通して移入されたとみられ、海の水霊信 仰としての祭器の役割を果たし、航海者の守護が目的であったとす る (11( 。 天之日矛がもたらした玉津宝「珠二貫、浪振るひれ、浪切るひれ、風振る ひれ、風切るひれ、奥津鏡、辺津鏡」は、航海に関わる呪具の性格が濃い。 そ れ に 比 し て 垂 仁 紀 三 年 三 月 条 の 天 日 槍 が 将 来 し た 七 物 は、 「羽 太 玉 一 箇 ・ 足高玉一箇 ・ 鵜鹿鹿赤石玉一箇 ・ 出石小刀一口 ・ 出石桙一枝 ・ 日鏡一 面 ・ 熊神籬一具」とあり、但馬国に蔵められたとある。この中には赤石玉 があり、古事記の赤玉との関係や、出石を冠した神宝と土地との関わりの 深さを思わせる。 天之日矛の子孫たちは多遅麻毛理の世代まで名に「多遅摩」が冠せられ る。 『播 磨 国 風 土 記』飾 磨 郡 安 相 里 条 の 地 名 由 来 で は「但 馬 国 朝 来 人」が 到 来 し た と あ る。さ ら に 同 郡 に は、 「新 良 訓 と 号 く る 所 以 は、昔、新 羅 の 国 の 人、来 朝 け る 時 に、こ の 村 に 宿 り き。故 れ、新 羅 訓 と 号 く。 」と 記 さ れ、新羅国から日本の朝廷に人が来たことが記される。朝鮮から来た人々 が土着の一族と婚姻を繰り返して定住していった事実が先にあり、但馬の 豪族と実際に関係があった物語ゆえに、天之日矛が難波から但馬に廻った と い う 話 が 語 ら れ る 合 理 性 が 存 し た の で あ ろ う。 『播 磨 国 風 土 記』揖 保 郡 の条には、 麻 打 山。昔、但 馬 の 国 の 人、伊 頭 志 の 君 麻 良 比、こ の 山 に 家 居 し き。二 人 の 女、夜 麻 を 打 つ に、す な は ち 麻 を 己 が 胸 に 置 き て 死 に け り。故 れ、麻 打 山 と号く。今に、この辺に居める者、夜に至らば麻を打たず。 とある。但馬国出石郡出石郷の人に関わる話である。新編日本古典文学全
集風土記の頭注には、この話を「他国からの移住者が能率的な作業をしよ う と し て 土 地 の 禁( 「夜 は 仕 事 を 休 む」と い う 風 習)を 破 り、土 地 の 神 の 怒りにふれた話。但馬出石方面からの移住者集団に麻打ちの技術を学びつ つ も、一 方、高 い 文 化 を も つ 者 へ の 警 戒 と 恐 怖 が、話 の 背 後 に ひ そ む (11( 。」 と解釈する。天之日矛が婚姻によって定住した出石から技術が動いている ことがわかる。天之日矛伝承は、機織に関わる先端的産業の到来の素地が、 多遅麻毛理の生きた垂仁朝よりも前にあったことを天之日矛の系譜によっ て示唆し、かつ天之日矛や阿加流比売神の渡来を語ることによって、新羅 と日本が太陽神を奉ずる同じ領域に属していることを言おうとしているの で は な い か。 『三 国 遺 事』巻 一 紀 異 第 一 延 烏 郎 細 烏 女 の 話 に は、新 羅 から日本へ渡った太陽と月の精の物語が記される。 第 八 阿 逹 羅 王 卽 位 四 年 丁 酉。東 海 濱 有 延 烏 郞 ・ 細 烏 女 ・ 夫 婦 而 居。一 日 延 烏 歸 海 採 藻。忽 有 一 巖 〔一 云 一 魚〕 。 負 歸 日 本。 國 人 見 之 曰。此 非 常 人 也。乃 立 爲王。 細 烏 恠 夫 不 來。歸 尋 之。見 夫 脫 鞋。亦 上 其 巖。巖 亦 負 歸 如 前 。其 國 人 驚 訝 。 奏獻於王。夫 婦 相會。立爲貴妃。 是 時 新 羅 日 月 無 光。日 者 奏 云。日 月 之 精 ・ 降 在 我 國。今 去 日 本。故 致 斯 恠。 王 遣 使 求 二 人。延 烏 曰。我 到 此 國 ・ 天 使 然 也。今 何 歸 乎。雖 然 朕 之 妃 有 所 織 細 綃 。以 此 祭 天 可 矣。 仍 賜 其 綃 。 使 人 來 奏。依 其 言 而 祭 之。然 後 日 月 如 舊。 藏其 綃 於御庫爲國寶。名其庫爲貴妃庫。祭天 所 名 迎 日縣。 都 祈野。 天の意志として太陽と月の精の夫婦が新羅から日本に渡来する。二人が不 在になると新羅の月日は光を失い、新羅王は日本に使者を派遣して、夫婦 を取り戻そうとする。二人の代わりに細烏女が織った絹を天に祭ると、日 月の光は戻ったという。天という地上世界をあまねく覆うものが、新羅よ りも日本が太陽と月の精の鎮まる国として相応しいと見做す伝承があった こ と が 知 ら れ る。 天 之 日 矛 伝 承 に お い て、天 に 輝 く 日 は 卑 し き 女 を 選 び 日光を照射するが、そこからすら尊貴な赤玉が生み出される。一夜孕みよ りも早い昼寝の時間で妊娠させ、卑しい農夫ののぞき見の間に産み落とさ れる。本人すら自覚がないような状況での妊娠と出産を経て赤玉は男の手 に渡るが、それは男の罪を許す程王子の心を引きつける美しさであったの だろう。赤玉は人から人の手に移って女神となり日本まで渡る。流離の末 に祖国まで帰ったとある。 『後漢書』巻八十五 東夷列傳第七十五 挹婁には、 人形似夫餘、而言語各異。有五穀麻布、出 赤玉 、好貂。 とある。また、同書の夫餘の条にも、 土宜五穀。出名馬、 赤玉 、貂 。 とある。さらに『説郛』巻六十一上所収の「葊志」には、 白 玉 美 者 可 以 照 面、出 交 州、靑 玉 出 倭 國、 赤 玉 出、夫 餘。 玉、玄 玉、水 蒼 玉皆佩用。 と あ る。 「赤 玉」は 着 物 を 着 た 身 の 上 に 佩 び 飾 る も の で あ る が、こ れ が 夫 餘から出すると記される。古事記の新羅国の阿具奴摩の記述と直接関わる わ け で は な い が、 「赤 玉」は 朝 鮮 半 島 に 産 出 し、海 の 彼 方 か ら 日 本 に 渡 っ てくる珍宝という認識がこの伝承の背景に存した可能性はあろう。一方天 之日矛は阿加流比売神が辿った瀬戸内海から難波に入る航路では難波に上
陸出来ず、再び瀬戸内海を経て日本海を経由して但馬に入る。息長帯比売 命の新羅親征以前に、日本と朝鮮半島が古くから海を通して繫がりをもつ ことが記される。垂仁記において多遅麻毛理が常世に渡り、再び戻ってく る話で、上巻に記された太陽神や穀物神少那毘古名神とも関わる他界の常 世が、具体像をもった海彼の国として意識される。さらに天之日矛伝承に おいては日光感精型説話が説かれる。天之日矛も太陽の祭儀を連想させる 名前である。皇祖神天照大御神は、日本書紀第五段には大日孁貴と記され、 太陽神に仕える巫女の性格を有し、太陽神に昇格していく。天照大御神は 伊耶那岐命から高天原統治の象徴として御頸玉を渡され、機織りにも関わ りが深い。仲哀記において息長帯比売命は神を帰せて、胎中に日継御子を 宿 し 新 羅 親 征 を 行 う。そ れ は「是 は、天 照 大 神 の 御 心 ぞ。 」と し て 成 し 遂 げられた。日継の継承者である倭建命、仁徳天皇は「日の御子」と讃えら れ、大八島国を平定し、朝鮮半島からの高い文化を取り入れながら、王権 を拡充していく。新羅で日光を浴びた赤玉から化成した女神は、祖国日本 に渡り、日本と新羅は太陽信仰によって一つに包摂されるように描かれる。 おわりに 『続日本紀』巻第四十 延暦九年正月十五日の条の高野新笠薨伝には、 皇 太 后、姓 は 和 氏、諱 は 新 笠。 (中 略) 后 の 先 は 百 済 の 武 寧 王 の 子 純 陀 太 子 よ り 出 づ。 (中 略) そ の 百 済 の 遠 祖 都 慕 王 は、河 伯 の 女、日 精 に 感 で て 生 め る 所 なり。皇太后は即ちその後なり。 のように、桓武天皇の生母高野新笠の祖先にまつわる日光感精型説話が記 さ れ る。桓 武 天 皇 の 父 は 光 仁 天 皇 で あ る。宝 亀 元 (七 七 〇) 年、白 壁 王 は 齢六一にして皇統を継ぎ、天武系から天智系への皇統の回帰をもたらす。 『続 日 本 紀』巻 第 三 一 に は、白 壁 を 詠 み 込 ん だ 光 仁 天 皇 即 位 の 徴 と さ れ る 童 謡 が 載 せ ら れ、即 位 を 祝 福 す る。と こ ろ が 宝 亀 三 (七 七 二) 年、皇 后 井 上内親王、皇太子他戸親王に天皇を呪詛したとの嫌疑がかかり、両者は廃 される。代わって皇太子となったのが山部親王であった。親王は生母の高 野新笠が百済系であったので、反対する者も多かった。光仁天皇が病気と 高 齢 を 理 由 に 譲 位 し た こ と か ら、桓 武 天 皇 は 天 応 元 (七 八 一) 年 に 四 四 歳 で即位する。光仁 ・ 桓武帝は本来は即位する可能性のなかった方である。 天皇の即位の必然性や正当性を示すために童謡を配したり、生母にまつわ る伝承を記したのであろう。百済は既に白村江の戦いで滅亡している。続 紀に記された日光感精型説話は、遠い昔にあった異国の出来事として、百 済王の血を引く高野新笠の高貴な神秘性を印象付け、桓武天皇を権威付け るものであろう。続紀の記事は、日の光を介して新羅で誕生した阿加流比 売神が日本に渡ったという古事記の伝承を媒介としてはじめて、宮廷貴族 たちに受け入れられるものであったろう。古事記は天照大御神信仰を背景 において新羅と日本との関係を説こうとしているように思われる。寺田恵 子 氏 は 古 事 記 の「た ま」の 用 例 を 検 討 し、 「た ま」に は 何 ら か の 呪 能、霊 能 を 表 す も の が 多 く、 「玉」に は 宝 玉 一 般 の 性 格 が 現 れ て い る が、特 に 女 性にまつわる品が多 い (11( と指摘する。皇祖神を女神とする日本神話の独自性 と赤玉から女神が誕生する事象は、誓約神話において、天照の物実である 玉から天照の後継者が誕生する事象と類同性がある。第一節で述べたよう に、赤玉は統治の観念と関わるが、赤玉から誕生した阿加流比売神は天皇 家の血筋とは無関係である。日光感精伝承を通して新羅と日本が太陽が照 らし日の光が照射される領域に属し、習俗や文化の土壌を共有し、かつ太