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ハンガリーの「体制の強化」と対外政策(1957-1959) : 対オーストリア関係を中心に

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(1)ハンガリーの「体制の強化」と対外政策(1957-1959) : 対オーストリア関係を中心に 著者 雑誌名 巻 号 ページ 発行年 URL. 荻野 晃 法と政治 66 4 51(765)-75(789) 2016-02-29 http://hdl.handle.net/10236/14161.

(2) ハンガリーの 「体制の強化」 と 対外政策 (1957 1959) 対オーストリア関係を中心に. 荻. は. じ. め. 野. 説. 晃. に. 1956年11月4日のソ連の本格的な軍事介入 (第二次介入) によって, ハンガリー国民の蜂起は鎮圧された (ハンガリー事件)。 第二次介入の後 に成立したハンガリー社会主義労働者党第一書記カーダール (      . ) を中心とする政権にとって, ソ連の軍事介入を招くに至った経緯 から, ハンガリー事件で崩壊の危機に瀕した社会主義体制の強化を可能な 限り自力で進める必要があった。 他方, カーダール政権はハンガリー事件によって生じた共産圏を除く国 際社会での孤立を脱するために, 中・長期的に欧米諸国との関係改善をは からねばならなかった。 とりわけ, 永世中立国とはいえ唯一の自由主義体 制の隣国であるオーストリアとの関係修復は重要であった。 しかしながら, ソ連軍の介入によって総人口の2%弱にのぼる約17万 ものハンガリー国民がオーストリア領へ脱出したことで, オーストリア政 府はハンガリーを激しく批判していた。 さらに, ハンガリー・オーストリ ア国境では, 双方からの挑発, 侵犯行為が多発した。 ハンガリー側もオー ストリアの中立違反を問題視し, 与党・社会党や閣僚の反ソ連・反共姿勢 (1). に批判を強めていた。 にもかかわらず, カーダール政権は1957年の前半 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 論. 51( 765 ).

(3) の時点でオーストリアとの関係修復を意図していた。 ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. 会主義陣営への忠実さ, 自国の利益を追求するプラグマティックさの二つ (2). の側面が挙げられる。 とくに, 後者に関して, 1960年代以降に経済面を 中心とした国内改革の進展に伴い, 欧米諸国との経済的な関係の強化を模 索した点が指摘された。 その際, オーストリアはハンガリーの重要な相手 国となったのである。 冷戦期のハンガリー・オーストリア関係は, ハンガリーの国内改革とオー ストリアの中立政策に焦点をあて, 冷戦構造を前提とした異なる社会制度 (3). の国家間における関係強化の模索を中心に論じられてきた。 同時に, ハン ガリー事件が二国間の関係に及ぼした深刻な影響も指摘された。 とくに, 冷戦後に公開された一次史料にもとづく研究で, ゲチェーニ (    . Lajos) はハンガリー事件での二国間関係の悪化から1960年代の関係の修 (4). 復までの過程に焦点をあてて論じた。 先行研究の成果を踏まえつつ, さら に, 1957年から1959年にかけて, ハンガリーがオーストリアに粘り強く. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. カーダール政権下のハンガリー外交の特質として, ソ連を中心とする社. 関係修復をはたらきかけた点に筆者は着目する。 本稿では, カーダール時代のハンガリー外交におけるプラグマティック な国益追求の側面の形成過程を探る目的で, 1950年代末に二国間の関係 修復へ向けた協議が本格化するまでのカーダール政権のオーストリア政策 を検証する。 分析に際して, 当時のハンガリーの国内情勢も視野に入れる。 そして, ソ連の軍事介入後に自力で国内問題の処理を遂行した 「体制の強 化 (. 

(4).  .  )」 とともに萌芽しつつあったハンガリー外交の新たな 一面を考察する。 なお, 本稿のアルファベットによるハンガリー人の氏名は, 現地での表 記に合わせて姓・名の順序で記した。. 52( 766 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(5) 1. ハンガリー外交とオーストリア 論. 1956年から1960年代初頭までのカーダール時代初期は, 「体制の強化」 の時期とよばれる。 スターリン ( J. V. Stalin) 時代の過度の 「対ソ従属」 により蜂起の原因をつくった元ハンガリー勤労者党第一書記ラーコシ (   .   ), 蜂起勃発後に急速な 「対ソ自立」 で軍事介入を招いた 元首相ナジ (Nagy Imre) 双方の教訓から, カーダールは自力でハンガリー 事件によって生じた国内問題を処理しようとした。 そのため, 政権掌握か らまもない段階で, ソ連軍の介入後も抵抗を続ける労働者や学生に対して 力による秩序の回復が強行された。 さらに, カーダールはソ連軍に身柄を 拘束されてルーマニアに連行されたナジとその協力者の処罰, ケベル (

(6).

(7)       ), ジェネシュ (Gyenes Antal) などナジに好意的な姿勢を (5). 崩さない党中央委員の排除を試みた。 ナジの処罰と同時に, ハンガリー事件以前に権力の中枢にいたモスクワ 帰りのスターリン主義の排除も不可欠だった。 スターリンの生前にモスク ワ帰りの党指導者たちが行った重工業に偏重した経済政策, 強引な農業集 団化への反発が, 1956年10月23日の蜂起の要因となったことはいうまで もない。 1957年2月26日に党中央委員会は, 元第一書記でソ連に亡命し た二人の元勤労者党第一書記ラーコシ, ゲレー (     ) の帰国を5 (6). 年間禁止した。 1957年3月20日からカーダールを中心とする社会主義労 働者党およびハンガリー政府代表団がソ連を訪問した際, ソ連共産党第一 書記フルシチョフ (Nikita S. Khrushchev) はラーコシやグレーの帰国禁 (7). 止に関する決定を支持した。 ソ連のハンガリーへの軍事介入は, 国際世論の激しい反発を招いた。 そ のため, ソ連の軍事力を背景に権力を掌握したカーダールの政権は国際社 会において孤立状態に陥った。 カーダールがソ連の愧儡でなく国際的に認 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 53( 767 ). 説.

(8) 知されるためには, 社会主義陣営以外の国々との関係を改善しなければな ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. ど西欧の植民地支配から独立してまもない第三世界の国々との友好関係樹 (8). 立によって存在の正統性を示そうとした。 だが, ソ連軍の撤退, 蜂起に加 わって逮捕された政治犯の釈放を要求する国連における 「ハンガリー問題」 が議題から取り下げられるために, カーダール政権は欧米諸国との関係改 善に取り組まねばならなかった。 1956年2月のソ連共産党第20回党大会で, フルシチョフはスターリン 時代の西側との戦争は不可避という立場をあらため, 東西陣営の平和共存 を打ち出していた。 ハンガリーがソ連に歩調を合わせて欧米諸国との共存 関係を模索する場合, 永世中立国ながら西側の政治, 経済制度の隣国オー ストリアは重要な相手国となった。 ハンガリーにとって, オーストリアは 国境線や少数民族をめぐる紛争の火種をかかえていない唯一の隣国であっ た。 また, 歴史的にもつながりの深いオーストリアとの関係改善が, カー ダール政権の国内基盤の強化に寄与することは明白だった。 1955年5月. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. らなかった。 当初, カーダール政権はエジプト, インド, インドネシアな. の国家条約 (Staatsvertrag) でオーストリアが戦勝4か国による占領統治 を終わらせて主権を回復し, 永世中立国として再出発したことが, ハンガ リー事件の最中のナジによるハンガリーのワルシャワ条約機構脱退と中立 の宣言に影響を与えたことはいうまでもない。 さらに, ボーキサイトを除いて鉱物資源に恵まれず, 貿易への依存度の 高いハンガリーは, ソ連の国益に抵触しない範囲において, 長期的には欧 米諸国との経済関係の強化を視野に入れる必要があった。 オーストリアと の経済交流を図る前提条件として, ハンガリーは鉄道, 自動車, 航空機, 船舶による交通, 二国間の出入国, 通関手続きを円滑にするための協定を 締結しなければならなかった。 さらに, ハンガリーにとって, オーストリ アは西欧諸国との回廊に位置しており, 関係修復は単なる二国間の問題に 54( 768 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(9) とどまらない重要な意味があった。 ハンガリーがオーストリアとの関係修復を進める場合, ソ連の支持を得. 論. ることが不可欠だった。 1957年4月23日, ソ連第一副首相ミコヤン (Anastas I. Mikoyan) がオーストリアを訪問した。 ハンガリー事件当時, オーストリアはソ連の軍事介入を批判していた。 ハンガリー事件の後, ソ 連もオーストリアの対応を中立に違反していると反発した。 にもかかわら ず, フルシチョフはスターリン以後の新たな対外政策として, 東西陣営の (9). 対立を緩和するための中立国の存在と役割に注目していた。 そのため, ソ 連・オーストリア関係の修復が早期に実現したのである。 また, ミコヤン はオーストリア首相ラープ ( Julius Raab) に東欧諸国との関係改善を促し, 対ソ関係を考慮してもハンガリーとの関係修復はオーストリアの国益にか (10). なっていると述べた。 ハンガリーはソ連の対オーストリア姿勢の変化にすばやく反応した。 駐 オーストリア・ハンガリー公使プヤ (Puja Frigyes) は, オーストリア滞 在中のミコヤンにハンガリーの対オーストリア関係修復の意図を伝えてい (11). た。 ミコヤンのオーストリア訪問の後, カーダールは5月9日の演説の中 (12). でオーストリアと善隣関係を築く意思を表明した。 5月4日には, ハンガリー外務省からプヤに関係修復へ向けてオースト リアと協議すべき議題5点が示された。 5点の議題とは, 次のとおりであ (13). る。 1) 二国間の長期間有効な通商協定の締結, 2) ブダペシュト・ウィー ン間の航空便の就航, 3) オーストリアにいるハンガリーの未成年者の帰 国, 4) スポーツや文化の交流, 5) オーストリアにあるハンガリーの資 産の返還問題。 ハンガリーは対オーストリア関係修復のための協議の準備を進める一方 で, ソ連の軍事介入後によって多くの自国民が流出したオーストリアとの 国境を4月27日に高圧電流の流れる鉄条網によって封鎖した。 オースト 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 55( 769 ). 説.

(10) (14). リアはハンガリー側の一方的な国境封鎖に対して反発を強めた。 ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. 還を求めており, 応じないオーストリアの対応に不満を持っていた。 1956 年11月28日と1957年1月31日に, ハンガリーはオーストリアに18歳未満 のハンガリー人をハンガリー国内に住む親元へ還すよう要求した。 しかし, オーストリアは1951年の難民条約にもとづいて国連難民高等弁務官事務 所 (UNHCR) などの国際機関と協力して解決することを意図しており, (15). ハンガリーの要求に応じなかった。 さらに, 未成年者に関して, オーストリアは, 自国内にいる未成年者の 親が今もハンガリーで生きているのかどうか, 赤十字を通して確認する必 要があると強調していた。 最終的に, 1,100人の未成年者が帰国せず, オー (16). ストリアに残ることになった。 1957年の秋, 部長シラージ (     .

(11).  ) を中心に, 党中央委員会 国際部がこれまで部内で検討してきたオーストリアとの関係修復を図るた めの協議で議題とすべき問題点, 交渉の進め方を 「ハンガリー・オースト. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. ソ連の軍事介入の後, ハンガリーは親から離れて越境した未成年者の送. (17). リア関係の修復」 と題した文書にまとめた。 文書作成にあたっては, 国際 的孤立状態からの脱却のきっかけをつかむため, 早急に隣国オーストリア との話し合いを始めたい社会主義労働者党指導部の意向が反映されていた。 「ハンガリー・オーストリア関係の修復」 には, すでにラープが専門家に よる外交協議の形で, ハンガリーとの対話にのぞむよう指示を出している という, ウィーンのハンガリー公使館からの報告にもとづき, 近い将来, 両国の間に存在する問題点について協議が開催されるだろうと述べられて いた。 また, 協議で取り上げる問題点は, 次のとおりであった。 (1) 長 期間有効な通商協定の締結, (2) 二国間の国境で発生する侵犯行為を防 止するための協定の締結, (3) 軍事介入の際にオーストリアヘ出国した ハンガリーの未成年者の帰還, (4) オーストリア国内における反ハンガ 56( 770 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(12) リー的なプロパガンダの禁止, (5) その他, ハンガリー航空のオースト リアヘの乗り入れ, 在留邦人の権利保護, 国境付近の河川の水利用に関す. 論. る条約の批准, 植物保護協定の締結。 ハンガリーには, オーストリア政府から譲歩を引き出すのに適した時期 に協議の開催に持ち込みたいという思惑があった。 具体的には, 1958年 7月にラープのソ連訪問をひかえており, おそらくラープと外相フィグル (Leopold Figl) は二国間の関係修復のための協議をモスクワでのソ連首脳 との話し合いを有利に進めるために利用する, そしてオーストリアが対ソ 関係に配慮してラープの訪ソ前にハンガリーとの関係修復のための協議に (18). 応じると党中央委員会国際部は予想したのである。 オーストリアとの協議に際して, ハンガリーは, 次官クラスを団長とす る5, 6名の代表団の編成を検討していた。 また, 協議の早期開催を意図 したハンガリーは協議の議題, 協議の進め方について予備協議で決定する (19). より, 本協議で直接決定しようとしていた。 10月17日, プヤは駐オーストリア・ソ連大使ラピン (Sergei G. Lapin) と会談した。 ラピンはハンガリー・オーストリア関係の問題点を指摘した。 とくに, オーストリア側がハンガリー国内での人権問題を重視しており, フィグルや外務次官クライスキー (Bruno Kreisky) が投獄された政治犯 (20). の恩赦を求めていることをラピンはプヤに伝えた。 ハンガリー事件の後, 国連総会で問題となったハンガリー事件後に逮捕, 投獄された人々の釈放に関して, オーストリアも中立の立場にかかわりな く賛同していた。 他方, ラピンの指摘にもかかわらず, ハンガリーにとっ て, 政治犯の釈放はあくまで自国の内政問題であった。 さらに, ハンガリー は二国間の問題点の話し合いによる解決を重視していた。 二国間交渉の開 始以前から, 両国の外交姿勢には相違がみられたのである。. 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 57( 771 ). 説.

(13) 2. 二国間交渉の中断 ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. (     Imre) がウィーンでフィグルと会談した。 会談の席で, ハンガ リー事件当時, オーストリアが1947年にスパイ容疑をかけられてアメリ カに亡命した元首相ナジ (Nagy Ferenc) を入国させたこと, 亡命ハンガ リー人極右団体の機関誌 道と目標 ( .

(14). ) がオーストリア国内で 発行されていることについて, ホルヴァートは不満を述べた。 フィグルは 二国間の国境管理の問題の解決の重要性を指摘した。 両者は互いに相手に 不信感を持ちつつも, 二国間の諸問題を話し合いによって解決することで (21). 一致した。 外相会談の後, ウィーンのハンガリー公使館はオーストリアとの接触を 開始した。 11月25日にプヤがオーストリア外務省政策局長ハイメルレ (Heinrich Haymerle) を訪問して, 1958年1月に関係修復のための協議開 催を提案する内容の覚書を手渡した。 1958年1月10日, ハイメルレは国. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. 1957年11月6日, 国連総会からの帰路, ハンガリー外相ホルヴァート. 境紛争の防止の合同委員会設置には賛成したが, 他の問題については外交 ルートを通じて合意を見出していくにとどめるべきと返答した。 その後の 交渉でも, オーストリアはハンガリーとの協議の開始に慎重な姿勢を崩さ なかった。 交渉を進展させたいハンガリーは, 多くの点でオーストリアに 譲歩した。 1958年4月11日までに, 両国は, オーストリアが要求した在 外資産の補償問題, 在留邦人の権利保護を議題に加えること, 各議題をウィー ン, ブダペシュトで交互に協議すること, ハンガリーの未成年出国者の問 (22). 題, 国境管理の問題を扱う合同委員会を設置することで合意した。 にもか かわらず, オーストリアは協議開催の日程には言及しなかった。 オーストリアが関係修復のための協議に応じないため, ハンガリーは前 年の 「ハンガリー・オーストリア関係の修復」 で想定した対オーストリア 58( 772 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(15) 政策の修正を迫られた。 ハンガリーは話し合いを進展させるために, 平和 共存関係を築く意思をより明確に示す必要があった。 3月24日, 外務次. 論. 官ペーテル (   . ) からシラージに, 党中央委員会国際部内の対 西ドイツおよびオーストリア関係に関する分科会がまとめた報告書が提出 (23). された。 この報告書では, 東欧諸国とオーストリアの関係はヨーロッパ秩 序の現状維持を前提とした, 平和共存関係の構築にあると記されており, 二国間の信頼醸成のために文化, 経済交流の再開の必要性が強調された。 この報告書の内容は, あくまで東西陣営の現状維持に基づくフルシチョ フの平和共存の枠を超えるものではない。 だが, 単なる二国間関係の修復 にとどまらず, 米ソの対決を前提とするスターリンの世界観から脱皮して, ラーコシ時代とは異なり, 自発的に緊張緩和と政治, 経済制度の違いを越 えた国家間の平和共存をめざす新たなハンガリーの対外政策の一面も垣間 見られる。 党中央委員会国際部が新たな指針を示したにもかかわらず, オーストリ アの対ハンガリー姿勢に変化はなく, 二国間交渉に進展はみられなかった。 4月21日にプヤが本国に宛てた報告書でも, 4月17日にフィグルと会談 したラピンから得た情報として, 「今はまだハンガリーとの協議の時期で (24). ない」 というオーストリア側の立場が確認された。 5月22日, ハイメル レと会談したプヤは, 5月26日からウィーンで協議を開始することを提 案した。 両者は, 29日にもう一度会談して議題を決定した後で30日に専 門家を交えて協議に入ることで合意した。 しかし, 翌23日にハイメルレ が具体的な協議に必要な専門家が揃わないために, 30日に協議を始める ことができないと通告してきた。 30日にプヤはハイメルレと再度会談し た。 この日の会談でも, ハイメルレは専門家が揃わないことを理由に夏ま でに協議を開始することは不可能だと主張し, 両国は何ら具体的な合意に 至らなかった。 6月12日にもう一度, ハンガリー公使館はウィーンでの 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 59( 773 ). 説.

(16) 協議開始をオーストリア外務省に促した。 だが, オーストリアは秋までに (25). ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. オーストリアがハンガリーとの協議に応じなかった背景には, 反対派へ の弾圧が続くハンガリー国内の状況に加え, アメリカがカーダール政権に 強硬姿勢を取っていたことも挙げられる。 アメリカはオーストリア国内に 残るハンガリー難民への多額の経済支援を行っていた。 さらに, オースト リアはナチス支配時代になされたユダヤ人迫害への補償, 1955年のウィー ン覚書に基づく西側石油会社の資産弁済などの問題をかかえていた。 主権 回復後の永世中立の外交方針にもかかわらず, オーストリアは欧米諸国と の関係に配慮しなければならなかったのである。 また, ラープやフィグル はハンガリーとの関係修復に反対でなかったが, ラープ政権の内部には反 対の立場を取る閣僚が含まれていた。 とくに, ヘルマー (Oskar Helmer) 内相はハンガリーに対して強硬姿勢を取っており, 1958年5月にハンガ リー公使館の二等書記官ケルテース (    .    ) をスパイ容疑で国 (26). 外退去させていた。 5月14日にプヤはオーストリア外務省に抗議した。. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. 専門家を揃えられないと返答した。 7月には交渉が中断した。. ヘルマーは内相として UNHCR との交渉にあたるなど, ハンガリーか らの難民への対応においてオーストリア政府内で中心的な役割を果たして いた。 1957年1月29日にジュネーヴの UNHCR の執行委員会において, ヘルマーは1956年10月23日に始まった事件を 「蜂起」 「ハンガリーの革命」 (27). と位置づけて, ソ連軍の撤退, 自由選挙, 民主的な制度の再建を主張した。 7月30日, プヤとラピンが会談した。 ラピンはプヤに7月21日から28 日のラープ首相のソ連訪問について報告した。 訪ソ中, 東欧諸国との関係 について, ハンガリー, チェコスロヴァキアとの関係修復が適切でないと ラープは述べた。 しかし, その一方で, フィグルは, 1957年の秋にはハ (28). ンガリー外相シーク (

(17) Endre) と話し合う機会があると語っていた。 オーストリアとの交渉が進展しない時期, ハンガリー国内では, カーダー 60( 774 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(18) ル政権の 「体制の強化」 が重要な局面を迎えていた。 1958年6月16日, ハンガリー事件当時の首相ナジの死刑が執行された。 1956年11月24日に. 論. ユーゴスラヴィア大使館を退去した直後にソ連軍に身柄を拘束されたナジ と彼の協力者は, ルーマニアのスナゴフに連行された。 その後, カーダー ル政権との対決姿勢を崩さないナジ・グループの身柄は, ハンガリーに引 き渡された。 カーダールや社会主義労働者党内の主流派であるミュニッヒ.

(19)   .  ), カーライ (

(20)     (  Ferenc), マロシャーン ( Gyula) は, 1957年3月の時点で自分たちの政権との妥協を拒否したナジ を起訴することで合意していた。 最終的に, カーダールを中心とする社会 主義労働者党指導部は, 1958年6月にナジを判決の直後に処刑したので (29). ある。 ナジ裁判に関して, ユーゴスラヴィア共産主義者同盟の新綱領の内容を めぐるソ連・ユーゴスラヴィア対立の再燃を背景に社会主義陣営内部で修 正主義批判が強まる中で, ソ連や中国の圧力を受けてハンガリーが遂行し たと考えられる。 だが, 最終的な裁判の時期や方法は, 国内問題を自力で 処理しようとしたハンガリー側の判断でなされた。 カーダールと彼の協力 者は社会主義体制の強化のために, 最終的にナジを葬り去る必要性を感じ ていたのである。 実際に, ソ連は国際情勢に及ぼす影響を考慮し, 1957 年8月と1958年2月の二度にわたって社会主義労働者党指導部にナジの (30). 裁判の延期を指示していた。 ナジの処刑を強行した結果, カーダール政権 は国際社会からより激しい批判にさらされた。 第13回国連総会では, ハ ンガリーの国連加盟資格停止も検討された。 6月24日のブダペシュトでのプヤとの話し合いの際, 駐ハンガリー・ オーストリア公使パインシップ (Walter Peinsipp) はナジ問題と国際社会 でのハンガリーへの批判に言及した。 それに対して, オーストリアがナジ (31). 問題を口実にして協議に応じようとしないとプヤは反発した。 ナジ裁判は 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 61( 775 ). 説.

(21) 自国の内政問題であるとの立場をハンガリーは崩すわけにはいかなかった。 ハ ン ガ リ ー の. オーストリアにとって, ナジ処刑の直後にハンガリーとの協議を開始する ことが困難だったのはいうまでもない。. 3. 二国間交渉の進展. 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. 関わる決議の採択を阻止するために, 発展途上国を中心に多くの国にはた らきかけを行い, ソ連の影響力が強いエジプトやシリアから支持を取り付 けた。 さらに, カーダール政権はハンガリー国内のギリシャ系移民やユダ ヤ人への処遇を利用したかけひきによって, 議決の際にギリシャとイスラ (32). エルを棄権させることに成功した。 同じ時期, ハンガリー外務省は, オーストリアと早期に外相会談を行う ことを意図していた。 具体的には, シークの国連総会からの帰路にウィー ンでの開催が検討された。 また, ウィーンでは, プヤがクライスキーやハ イメルレとの話し合いを再開した。 話し合いの結果, プヤはハンガリーを. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. 1958年夏から秋にかけて, カーダール政権は国連での加盟資格停止に. とりまく厳しい国際環境に言及し, 対オーストリア政策の方針が定まるの (33). に2∼3年はかかるとの見通しを示していた。 1958年9月25日の ブント 誌に掲載されたインタヴューの中で, フィ グルは, オーストリアは近隣の東欧諸国との間に存在する問題の解決に努 力し, 近い将来において, その利益がもたらされると述べた。 ハンガリー 外務省は, フィグルの発言をオーストリアの対ハンガリー姿勢が変化しつ (34). つある兆候だと捉えた。 カーダールは10月16日にブダペシュトのアンジャ ルフェルド地区での演説で, オーストリアとの関係修復に取り組む意思を (35). 示した。 オーストリアの対東欧姿勢が変化した背景には, 米ソ対立の狭間でオー ストリアが中立政策の新たな定義を迫られていた点が挙げられる。 7月21 62( 776 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(22) 日にオーストリア政府代表団がソ連を訪問した。 首脳会談で, ソ連側はオー ストリア首脳に東欧諸国との関係改善を求め, ハンガリーにとって, オー (36). 論. ストリアとの関係修復が国際的孤立からの脱却の第一歩になると示唆した。 ラープの訪ソをきっかけに, アメリカ・オーストリア関係が悪化した。 アメリカはオーストリアの中立をイデオロギー的側面でとらえ東西の架け 橋としての役割を果たそうとするラープの外交ヴィジョンに懐疑的であっ た。 ソ連でラープが 「オーストリアの中立は無制限 (unlimited)」 と発言 したことで, オーストリアでソ連の影響力が強まることへの疑念をアメリ カは深めた。 1958年12月の訪米の際, ハイメルレはラープの中立に関す (37). る発言を 「時間的に無制限 (unlimited in time)」 と訂正した。 ハイメルレ の釈明は, 東西二大陣営の間で架け橋の役割を果たすことを意図したラー プの外交のいきづまりを示していた。 他方, ヘルマーなど反共的な閣僚が 求めるオーストリアと西側との関係強化を警戒して, オーストリアのヨー ロッパ経済共同体 (EEC) 加盟は中立に違反するとの姿勢をソ連も取っ ていた。 東西陣営が対峙するヨーロッパ中央部に位置するオーストリアは, ラー プが思い描くような東西対立の圏外に立った米ソの仲介役となりえず, 微 妙なバランスのうえに成り立つ国際秩序の一構成要素であった。 実際, 東 西陣営の間での戦争が勃発した場合, ヨーロッパ大陸の真ん中でオースト リアの中立が尊重されるとは考え難かった。 クライスキーが論じたように, 東西冷戦の現実を前に, オーストリア外交は中立をいかなる同盟ブロック にも与しない軍事的な側面にとどめ, 東西関係における力の均衡を維持す (38). るため, 積極的に緊張緩和の創出に貢献する路線へと修正されつつあった。 現実の国際政治における中立とは, 冷戦期にわが国の一部の識者の間で議 論されたような非武装ないし極度の軽武装で超大国の対立の局外に立ちな がら, 他国から侵攻されることもなく自国だけが平和を維持できるという 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 63( 777 ). 説.

(23) ようなものでは決してなかった。 さらに, 東側陣営との関係において, オー ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. 極的な対話が必要となった。 オーストリアの東欧諸国に対する姿勢に変化が生じると, 二国間の話し 合いが再開された。 そして, ハンガリーがオーストリアの提示した条件を 受諾する形で, 協議開催の合意が成立した。 1958年10月17日, 国連総会 からの帰路, ウィーンでシークがフィグルと会談した。 ハンガリー側から プヤ, オーストリア側から外務次官クライスキーとハイメルレも加わった 会談で, 両国の外相は関係修復ための二国間協議について意見を交わした。 フィグルはハンガリーを取り巻く状況が好転すれば, ハンガリーに赴く用 意があると述べた。 他方, 国境封鎖に関するクライスキーとの話し合いの 中で, プヤはオーストリア国内のアメリカのスパイの存在について述べた。 それに対して, オーストリアには東側のスパイもいるとクライスキーは反 論した。 この会談でシークとフィグルは, 二国間での協議の形式, 場所, いかなる問題で専門家による分科会を設置するかについて, 両国が話し合. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. ストリアはソ連との関係のみを重視するのでなく, 近隣の東欧諸国との積. (39). いを継続することで一致した。 外相会談の後, 10月23日にプヤはハイメルレにすみやかに専門家によ る分科会を設置し, 協議を始めるよう提案した。 ハイメルレは, まず議題 ごとに予備協議をへてから, 専門家による委員会を設置し本格的な協議に 入るべきだと返答した。 オーストリアは国内外の根強いハンガリー批判に 配慮して, 慎重に時間をかけてハンガリーとの話し合いを進めようとした。 オーストリアがこれまで通り協議開始をひきのばしているような印象を, プヤをはじめハンガリー外務省は持った。 だが, オーストリアとの話し合 いを進展させるには, ハンガリーはハイメルレが示した条件をのむ以外に なかった。 30日, プヤはハイメルレにオーストリアの条件を受け入れる (40). と述べた。 64( 778 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(24) 1959年に入ると, ハンガリー国内では, カーダール政権が国際世論の 批判を和らげオーストリアとの本腰を入れた話し合いにのぞむ環境を整え. 論. つつあった。 「体制の強化」 はナジ裁判をピークとする反対派への激しい 弾圧を伴った社会主義体制の再建から国内統制の緩和の段階へと移行しつ つあったのである。 そして, 経済や交通に関するオーストリアとの協議に 進展がみられた。 具体的には, 二国間の3年間有効な通商協定, 航空協定, (41). 陸路での輸送協定などが挙げられる。 当初, ハンガリーが想定したような二国間の在外資産に関する権利や国 境管理などの重要課題の処理ではなく, 解決の容易な問題から先に二国間 の協議が進展していくことになった。 また, ハンガリーが求める国家レベ ルの経済, 文化, スポーツなどの人的交流は再開されなかったが, 地域レ ベルでの人的交流が始まった。 とくに, ハンガリーとの国境に位置するブ ルゲンラント州との交流は, 国境付近での緊張緩和, 両国の信頼醸成, オー ストリアでのハンガリーのイメージ・アップの点でも重要な問題だった。 通商問題に関する協議で, 2月7日にハンガリー対外貿易省顧問ニェルゲ    ) と在ハンガリー・オーストリア公使館参事官クー シュ (Nyerges  デルナッチュ (Friedrich Kudernatsch) が, 秋に期限切れとなる一年限り 有効なバーター通商協定に代わる, 長期間有効な協定を締結することで原 (42). 則的に合意した。 5月17日には, 二国間の航空協定が締結され, ブダペシュトの工業見 本市視察を目的とする知事ヴァーグナー ( Johann Wagner) を団長とする ブルゲンラント州代表団のハンガリー訪問が実現した。 さらに, 5月のウィー ン, ブダペシュト双方での予備協議をへて, 6月にブダペシュトで, 関係 修復の経済的な前提条件でありながらハンガリー事件により三年にわたり (43). 中断していた在外資産の補償問題の協議が再開された。 対オーストリア交渉の進展に関して, プヤは8月7日の本国宛ての報告 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 65( 779 ). 説.

(25) 書の中で, オーストリア社会党の対ハンガリー姿勢の変化を要因として挙 (44). ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. 党の一つ社会党では, ドリムメル (Heinrich Drimmel) 文化相, ヘルマー 内相などがハンガリーに強硬な姿勢を取っていた。 他方, 1959年5月の 総選挙の後で外相に就任したクライスキーには, ハンガリーとの話し合い を慎重に進める用意があった。 1959年9月には, 通商問題でさらなる進展がみられた。 長期間有効な 通商協定締結のための交渉にハンガリーから対外貿易省次官が参加したこ とで, 当初, ハンガリーが意図していた次官レベルでの協議が実現した。 当時, オーストリアもハンガリーとの通商関係を強化することに前向きな 姿勢に転じるようになっていた。 9月7日から19日にかけてウィーンで 行われた通商問題の協議で, 両国は二国間のバーター通商協定を1960年 も延長することで合意した。 10月20日には, ニェルゲシュとオーストリ ア外務省顧問ピフラー (Erich Pichler) が, 三年間有効な協定の締結を前 提に, 1959年10月1日から1962年9月30日の期間, 従来のバーター通商. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. げていた。 ハンガリー事件後, 大連立であるラープ内閣を構成する二大政. 協定より貿易額を20%増加させることで合意した。 さらに同じ日, 正式 (45). な三年間有効なバーター通商協定締結のための協議が開始された。 ようや く, ハンガリーはオーストリアとの間での問題解決へ向けた話し合いを軌 道に乗せたのである。. お. わ. り. に. 1950年代後半のカーダール政権の対オーストリア関係修復の試みは, 国内外の厳しい情勢に左右されて難航した。 とくに, 1958年6月のナジ 裁判で頂点に達した 「体制の強化」 の初期の段階における反対派への弾圧 は, 国外からの激しい批判にさらされた。 実際に, 対オーストリア交渉を 通して, 国内統制の緩和と非スターリン化の遂行なしに, 国際社会におけ 66( 780 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(26) る孤立からの脱却の糸口をつかむのは不可能なことが明確になった。 1959 年に入って, ようやくオーストリアとの話し合いに進展がみられた。 だが,. 論. 本格的な二国間協議は途についたばかりで, 両国の間には未解決の問題が 存在していた。 1959年10月17日のシーク・クライスキーの外相会談の際, シークによるブダペシュト訪問の提案に対して, クライスキーは 「まだ機 (46). が熟していない」 と拒否していた。 冷戦期に中立国ながら西欧の外相とし てクライスキーが最初にハンガリーを訪問したのは, 二国間の国境管理問 題, 在外資産の権利に関する問題が解決に至った後の1964年10月であっ (47). た。 ハンガリー・オーストリア間での問題解決のための協議は, 当初のハン ガリーの予想に反して長い時間を要することになった。 ハンガリー事件に よる関係悪化のみならず, 1938年のアンシュルス (独墺合邦) から第二 次世界大戦とその後の冷戦の始まり, オーストリアの占領統治の長期化を 経て, 両国は多様な問題の解決を必要としていた。 また, 二国間の問題点 にとどまらず, 国内統制の緩和, 国連における 「ハンガリー問題」 の解決 など, カーダール政権には交渉を進展させるためにまだ多くの課題が残さ れていた。 確かに, ゲチェーニの研究で指摘されるように, 両国の関係改 善が進展したのは1960年代に入ってからである。 しかしながら, 1950年代後半のハンガリーからオーストリアへのはた らきかけを, その後に二国間交渉が進展するまでの準備段階として過小評 価すべきでない。 とくに, 1958年10月のシークとフィグルによる外相会 談の後に少しずつ二国間の対話が進展し始めた時期は, ハンガリーにとっ て国内政治の変化と相俟って対オーストリア関係のみならず対外政策の重 要な分岐点であったともいえる。 ハンガリー事件からまもない時期にオーストリアとの関係改善を意図し たハンガリーの対外政策は, その後のドナウ川流域における緊張緩和にむ 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 67( 781 ). 説.

(27) すびついた。 先述のクライスキーのハンガリー訪問直後の1964年12月, ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. (. は, ともに暮らしともに死すべき運命共同体に生きている。 われわれが異 なる社会制度の下で生きているなら, 平和共存の原則を守らねばならない。 ともに社会主義制度の下で生きているなら, 社会主義の原則に従い対外政 策, 経済協力をこの地域に生きるすべての人々の繁栄に結びつけるべきで (48). ある。 これがわれわれの政策である」 と述べた。 カーダールの演説は, ま さに1960年代半ば以降に生じたハンガリー外交の変化を表していた。 1960年代半ば以降, すでに先行研究で論じられたように, ハンガリー で経済システムを中心にした国内改革が進展する中で, 次第に二国間の関 係は強化されて, 社会制度の異なる隣国の平和共存の模範的な一例となっ た。 1950年代後半にカーダール政権が国内で 「体制の強化」 を進めなが らも, オーストリアとの対話を継続したことは, 異なる社会制度の国々と の平和共存を模索する対外政策の出発点となった。 そして, 二国間関係の 強化は1989年にハンガリー事件後に閉じられた国境の開放に至り, まも. ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. 共産主義青年同盟における演説で, カーダールは 「ドナウ川流域の諸国民. なく冷戦終結への大きな一歩となったのである。. 注 ハンガリー・オーストリア関係 (1956 1964年) に関する公刊資料集 に収録のハンガリー・オーストリア関係に関するプヤ公使の報告書 (1957. (1).     Lajos. Iratok.

(28).      

(29)  Ausztria 年 1 月 24 日 ) , Szerk.:  kapcsolatainak          19561964 [ハンガリー・オーストリア関係史に       ! "   #2000), 関する資料集 19561964年] (Budapest : Magyar  45 47.o. を参照。 (以下, Iratok

(30).      

(31)  Ausztria kapcsolatainak           と略記。) Johancsik $    #

(32).      

(33) %&' (  ' )  ) % * 1918 1999 [ハンガリーの. (2) 外交 (3). 19181999年] (Budapest : L’Harmattan, 2010), 270.o. Szirtes I. $    #“A magyar-   "   +kapcsolatok , . / 0 1 2 3 4 -[ハンガリー・. (  ' )  ) % 68, 5, 1981, 88 103.o.; Hans-Georg オーストリア関係の進展],” 5&' 68( 782 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(34) Heinrich, ‘Die Entwicklung der         . ungarischen Beziehungen,’ in

(35)       et al., Die Beziehungen zwischen         und Ungarn : Sonderfall oder  ! ! "(Wien : # $ %&'( (   )1985), S. 11 44 ; Hajdu *+,   )A. 論. magyar-  .   / 0kapcsolatok 40 1 2 [ハンガリー・オーストリア関係の40年] (Budapest : TIT, 1986); Peter Haslinger, Hundert Jahre Nachbarschaft : Die Beziehungen zwischen         und Ungarn 1895 1994 (Frankfurt am Main : Peter Lang, 1995). 3   4+5 Lajos : A magyar-6  7   8kapcsolatok (1956 1964) [ハンガリー・ ( )Sipos #$ ( 7  ) オーストリア関係 (19561964年)]. In : Szerk.: Pritz 9Zeidler : 8( ;  <= > ? =    . />helye a 20.  . / . =@A B C / D = E[20世紀ヨーロッ. (4).   4 + ( &F  %( $  ) パにおけるハンガリーの位置] (Budapest : Magyar F 2002), 147154.o.; 3   4+5 Lajos, G H 7   8. magyar kapcsolatok 194565 [オーストリア・ハンガリー関係 (5). 1945 65年],” I   B   = J2005, 5, 20 26.o. ―ソ連・ユーゴスラヴィア間での自. 拙著 冷戦期のハンガリー外交. 彩流社, 2004年, 130133頁。 Szerk.: K4 & +4LM 5Karola, N O +P 6 ( 5 <A Magyar Szocialista. 律性の模索 (6). AE0 /  C /    > !  E Q R S R T U V    W!     E 0X R Y Z S U V [ \ ]Z Q R ^2 [ハンガリー社会主 義労働者党暫定指導部議事録 第2巻] (Budapest : Intera Rt., 1993), 171.o. (7). 4月2日の社会主義労働者党暫定中央員会でのソ連訪問に関するカー. ダールの報告, uo., 346347.o. を参照。  )G P'( _6 (    8$486 + 7 6 (  ,  ;[対外政策と体制の強化],” (8) Sipos 94 I   B   = J18, 4, 1996, 29.o. (9). Heinrich Haymerle, ‘Die Beziehungen zur Grossmacht im Osten,’ in. Erich Bielka et al., eds., Die ` =Kreisky : Die Schwerpunkte der a               E Aussenpolitik (Wien : Europaverlag, 1983), S. 154. (10). ミコヤンの発言は, b6   7  4: cd 8. Figl  $ ( ( 86 7 ;[シーク・フィグル会. 8. Figl  $ ( ( 86 7 ;と略記), Magyar 談に関するファイル] (以下, b6   7  4: cd Nemzeti e 2 1 !  /f  . />  e 2 1 !  /[ハンガリー国立公文書館 (以下, MNL OL と略記) XIX-J-1-k Ausztria Admin. 3.doboz. sz.n.4 / bd / 1959. (11). ミコヤンのオーストリア訪問に関するプヤの報告書 (1957年4月26日),. Iratok = > ? =    . / >1 Ausztria kapcsolatainak  a   1 E  1   . J55 57.o. (12). Szirtes I. g +6  )i.m., 91.o.. (13). ハンガリー外務省からプヤ公使宛ての文書 (1957年5月4日), Iratok. = > ? =    . />1 Ausztria kapcsolatainak  a   1 E  1   . J65.o. を参照。 (14). ハンガリーによる国境封鎖に対するオーストリアの抗議文 (1957年5 法と政治 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 69( 783 ). 説.

(36) 月29日) は, uo., 68.o. 1957年4月27日から始まった高圧電流の鉄条網に よる国境の封鎖をハンガリーが解除したのは, カーダール退陣から1年後 ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. に国内で民主化の進展し始めた1989年5月であった。 (15). 1956年から1957年のハンガリーの未成年者の帰還問題をめぐるハンガ. リー・オーストリア間の交渉に関する文書は, 以下のハンガリー外務省の. [未成年者問題に関するファイル], 文書を参照。      : Fiatalkoruak  MNL OL XIX-J-1-k Ausztria Admin. 45.doboz. sz.n. 30 / d / 1959.

(37) . Katalin, “Ausztria a magyar     . 1956 57 [オースト       1998, 5, 1043 1044.o., リアとハンガリー難民問題 195657年],”  1049.o.. (16). (17). 「ハンガリー・オーストリア関係の修復」 は, 社会主義労働者党中央.  .e.1957. 委員会国際部の文書, MNL OL 288.f.32 / 2. Uo.. (19). Uo.. (20). ラピンとの会談に関するプヤの報告書 (1957年10月22日), Iratok. (. (18). ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九.    !  " !Ausztria kapcsolatainak # $# " %& # " ' &  73 75.o. (21). ホルヴァート・フィグル会談に関するプヤの報告書 (1957年11月7日),. uo. 7678.o. (22). 1957年11月の外相会談から1958年4月までの二国間交渉については,. *  +    を参照。 なお, 1957年11月25日から1958年7月      (

(38) ) -Figl  17日までに, ハンガリー公使館とオーストリア外務省との間で交わされた 文書の邦訳として, 以下を挙げておく。 拙稿 「資料 トリア間の外交文書の交換. 1957 1958」. 法と政治. ハンガリー・オース 第47巻第4号, 1996. 年12月, 108122頁。 (23).  , e. 党中央委員会国際部内の分科会の報告書は, MNL OL 288.f.32 / 11.. 1958. (24). ラピンとの会談に関するプヤの報告書 (1958年4月21日), Iratok.    !  " !Ausztria kapcsolatainak # $# " %& # " ' &  98 99.o. (25). 1958年5月から7月のプヤとオーストリア側との交渉については,. Figl  *  +    ; ハンガリー外務省のプヤへの訓令 (1958年5      (

(39) )  !  " !Ausztria kapcsolatainak # $# " %& # " ' &  103 月27日), Iratok  105.o ; ハンガリー外務省のハンガリー・オーストリア間の協議に関する 記録文書 (1958年6月2日), uo. 106107.o. を参照。 (26). 当時の駐オーストリア公使としてのプヤの回想録, Puja Frigyes, A. . / 0 1 2 3 . / 0 45 6 78 9 2 3 :a ;< %< !  # &!  " < [印刷工のロッカーから大臣の椅子まで] 70( 784 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(40) (Budapest :     1988), 188 191.o.; ケルテース問題に関するプヤの.      

(41)  Ausztria kapcsolatainak 報告書 (1958年5月15日), Iratok

(42)            102.o. を参照。. 論. (27).   Katalin, i.m., 1047.o.. (28). ラピンとの会談に関するプヤの報告書 (1958年8月5日), Iratok.

(43).      

(44)  Ausztria kapcsolatainak            114 115.o. (29). ナジ裁判に至る過程と国際的背景, とくにソ連・ユーゴスラヴィア対.  ! " #

(45)   $  立 の 再 燃 と ナ ジ 裁 判 と の 関 連 性 に つ い て は , Ripp  Moszkva %      &A ' (

(46)    # )kapcsolat   *

(47) + ,  %   $  (1956. november1959./  0  (  ) [ベオグラードとモスクワの狭間で. ―対ユーゴスラヴィ. ア 関 係 と ナ ジ ・ イ ム レ 問 題 (1956 年 11 月 − 1959 年 2 月 )] (Budapest : 1  2  2 3  4 5  !6 27  8  !9 1994), 6778.o. (30). 1957年8月の最初のナジ裁判延期に関しては, 訪ソ中のハンガリー内.  6) とナジ問題について協議したソ連共産党中央委 相ビスク (Biszku : 員アンドロポフ (Yuri V. Andropov), ルデンコ (Roman A. Rudenko), イ ヴァシュティン (Piotr I. Ivashutin) の党中央委員会への報告書 (1957年 => ?> @B ACB. 7!D5 E2  !;9 4 5 F 9 Rainer M. 8月26日), Szerk.: ; < G!  HA „Jelcin-$    I  J &K  ) '  $ %(,  (, %LMNO P #[「エリツィン・ファ イル」.  D   F・1956-os ―1956年に関するソ連資料集] (Budapest : . Q !   6  1993), 202203.o. を参照。 1958年2月の二度目のナジ裁判延期に 関しては, 1958年2月5日のハンガリー社会主義労働者党政治局の議事録, MNL OL 288.f.5 / 65.A R S e. を参照。 (31). パインシップとの話し合いに関するプヤの報告書 (1858年6月25日),. Iratok.

(48).      

(49)  Ausztria kapcsolatainak            111 113.o. (32). 当時のハンガリーをとりまく国際環境は, 後にアメリカへ亡命した外. 交官ラドヴァーニ (T D!9 2G!  ) の回想録に詳しく述べられている。 G! T D!92 Hungary and the Superpowers : The 1956 Revolution and Realpolitik (Stanford, California : Hoover Institution Press, 1972), pp. 53 56. 1956年以降の国連における 「ハンガリー問題」 の詳細に関しては, Szerk.: : 3Csaba U6V  3 D. ;W  HA forradalom  a magyar %   $  az ENSZ-ben, 1956 1963 : X (# ,  %$ % (,  (, % %    # P

(50) I [革命と国 19561963 年 ― 研 究 , 資 料 集 , 年 表 ]   F 2006) を参照。 (Budapest : Magyar ENSZ Y 5. 連におけるハンガリー問題 (33). プ ヤ に よ る 本 国 外 務 省 へ の コ メ ン ト (1958 年 9 月 10 日 ) , Iratok.

(51).      

(52)  Ausztria kapcsolatainak            128.o. を参照。 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 71( 785 ). 説.

(53) (34). ハンガリー外務省の分析は,      .

(54) Figl       を参照。.           1955- ! " 1961.december (35) A semleges Ausztria :  ハ ン ガ リ ー の 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. ( ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. 31-ig [ 中 立 オ ー ス ト リ ア 資 料 集. 1955 年 か ら 1961 年 12 月 31 日 ま で ]. $%&' (  . )  *'  *'+ (  ,   - .   & .1962), 24.o. (以下, (Budapest : #$ A semleges Ausztria と略記。) (36). Bruno Kreisky, “Austria Draws the Balance,” Foreign Affairs, Vol. 37,. No. 2, 1959, pp. 278279. Foreign Relations of the United States, 1958 1960. Vol. IX (Washington D.C.: U.S.G.P.O., 1993), pp. 772773, p. 795. 1950年代後半のアメリカ・オー. (37). ストリア関係については, Oliver Rathkolb, “The Foreign Relations between the U.S.A and Austria in the Late of 1950s,” Contemporary Austrian Studies, Vol. 3, 1995, pp. 2438 を参照。 (38). ク ラ イ ス キ ー に よ る オ ー ス ト リ ア 外 交 の 分 析 は , Bruno Kreisky,. op.cit., pp. 269 281. (39). シーク・フィグル会談に関しては, Dosszi: S. k-Figl tal lkoz; フィグ. ル と の 会 談 に つ い て の シ ー ク の 記 録 文 書 (1958 年 10 月 18 日 ) , Iratok /0   01  1 2 3 4 2Ausztria kapcsolatainak  5 1      6  3 7132 135.o. (40). プヤとハイメルレの間での交渉は,      .

(55) Figl       を参照。.  . )  kapcsolatok (1956 1964), 150.o. 8+,  &Lajos : A magyar- Szerk.: Nagy 9    : A magyar ; <  ; =  =  0 1956 1989 : >5 1     = 1   ; ?  = 0[ハンガリー外交 19561989年 ―歴史年表] (Budapest : MTA. (41) (42). @ +  + (  ) * . A  .   %.1993), 35.o. (43). 1959年5月から6月のオーストリアとの協議の経過に関しては, A. semleges Ausztria, 66.o. (44). ハンガリー・オーストリア関係に関するプヤの報告書 (1959年8月7.   01  1 2 3 4  2Ausztria kapcsolatainak  5 1      6  3 7141.o. 日), Iratok /0 (45). 1959年10月20日付けのハンガリー社会主義労働者党の機関紙. ネープ.  E +)20. サバッチャーグ , B < 2 3 0C 0D 2 4 71959.  (46). プヤに代わり1959年9月に駐オーストリア公使となったシェベシュ. . G  () によるシーク・クライスキー会談の報告書 (1959年10月22 (Sebes F  01  1 2 3 4 2Ausztria kapcsolatainak  5 1      6  3 7157.o. なお, 日), Iratok /0 オーストリア首相官邸がシェベシュを教条的な共産主義者だと警戒してい  . )  kapcsolatok たとゲチェーニは指摘する。 8+,  &Lajos : A magyar- (1956 1964), 151.o. (47).   Katalin, “Dr. Bruno Kreisky   . )    H G +.   %  $ $% & ' (  . + ). 72( 786 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(56) budapesti           .      

(57) (1964.     . 29-november 1) [オース トリア連邦外相ブルーノ・クライスキー博士のブダペシュト訪問と協議  46, 4, 2001, 187 212.o. クライス (1964年10月29日11月1日)],” . 論. キーのハンガリー訪問を契機に, 両国の在外公館は大使館へと格上げされ た。 (48). カーダールの演説内容は, Charles Andras, “The Slow Drift to Danube 説. Cooperation,” East Europe, Vol. 17, No. 12, p. 21 を参照。. 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 73( 787 ).

(58) ハ ン ガ リ ー の. Hungary’s ‘Consolidation’ and Foreign Policy : With Special Reference to Relations with Austria (19571959) Akira OGINO. 「 」. 体 制 の 強 化 と 対 外 政 策. ( ). 一 九 五 七 ︱ 一 九 五 九. One of the fundamental principles of Hungarian foreign policy under the   regime was the peaceful coexistence of states with different social system. Hungary tried to establish good relations with West European states pragmatically after ‘Consolidation’ of the socialist system in the end of 1950s. The purpose of this paper is to examine the formative Hungary’s pragmatic foreign policy. Especially this study is focused on Hungary’s policy toward Austria. The Hungarian Revolution of 1956 was crushed by the Soviet army. After the suppression of the people’s uprising,       . the First Secretary of the Hungarian Socialist Workers’ Party, and other leaders had to eliminate Stalinist leaders from the party in order to stabilize the domestic situation. At the same time, it was an urgent task to grow out of the international isolation that had resulted from the military intervention and suppressing the opposing forces. It was Austria that Hungarian leaders regarded as important, when they carried out their policy toward non-socialist states. So Hungary was intent to negotiate a settlement with Austria and tried to promote neighborly friendship, in spite of the deteriorating relations after the Hungarian Revolution. The author analyzes how Hungary developed negotiations with Austria until the beginning of the formal consultation between the two states. For the    regime to make relations with Western Europe, including neutral Austria, better, it was essential to relax oppressive domestic policy. After long and difficult negotiations, the consultations between Hungary and Austrian began in 1959. This paper consists of following sections : 1. Introduction 2. Hungarian Foreign Policy and Austria 74( 788 ). 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月).

(59) 3. Discontinuation of the Negotiations between Hungary and Austria 4. Development of Negotiations between Hungary and Austria 論. 5. Conclusion. 説. 法と政治. 66 巻 4 号. ( 2016 年 2 月). 75( 789 ).

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