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<シンポジウム>方形土塁Viereckschanzen に見るケルト人の宗教的景観の一側面

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<シンポジウム>方形土塁Viereckschanzen に見るケ

ルト人の宗教的景観の一側面

著者

九鬼 由紀

雑誌名

関学西洋史論集

39

ページ

5-24

発行年

2016-03-28

URL

http://hdl.handle.net/10236/14363

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はじめに 紀元前8世紀から紀元前1世紀にかけヨーロッパ全域に居住したとされる「ケルト 人」。彼らは自分たちの社会生活について自らの手で書き遺すことをしなかったため、 その実態は非常に茫洋としたものである。そんなケルト人に関する研究において、「宗 教」はもっとも研究の盛んな分野であり、文学、芸術、考古学様々な視点からのアプ ローチがなされている。ユリウス・カエサルが、ケルト人は「宗教儀式には非常に熱 心である1」と記したように、ケルト人の社会は宗教と密接に結びついたものであっ て、宗教は社会を統御するものであったと考えられているからである2。 ケルト宗教の概説的なイメージとして、①自然信仰と多神教、②ドルイドによる祭 祀、③独特の死生観、の3つの事柄が挙げられる。 ケルト世界において、神々は岩や水、土などに宿ると考えられた。それらを敬う行 為は元々農民の家族単位のような小規模で行われるものであり、特定の神への信仰心 は地名に部族神の名を組み入れることや、美術装飾における抽象的、幾何学的な文様 によって表現された3。彼らの部族社会において宗教ごとの一切を引き受けたのが、 「ドルイド」と呼ばれる聖職者である。マルクス・アンナエウス・ルカヌスなどの古典 の作家が記す4ように、ケルトの「恐ろしく無慈悲な神々」への人身供犠を執り行い、 またそのほかにも薬学・魔術・天文学に精通し戦争の調停や裁判を担う、ケルト社会 を統御する人物として認識された。そのドルイドが人々に説いた死生観とは、魂は不 滅であり、死後の世界で別の生を生きたのち再び転生するという、地中海世界の人々 には馴染みのないものであったとされる5。彼らの描く「死後の世界」はアイルラン ド中世文学を読み解くと、海のかなたにあり、悦びと楽しみに満ち溢れた “Fairyland” であったことが分かる6。 ところで、これらの概説的なケルト宗教のイメージは、とくに②と③においては、 すべてガリア(現フランス・ベルギー)・ブリテン・アイルランドに残存するケルト文 化の痕跡から構成されたものであり、それらではガリアとブリテン、アイルランドの

方形土塁

Viereckschanzen に見る

ケルト人の宗教的景観の一側面

九 鬼 由 紀

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ケルト人が全く同じ文化を共有していたものとみなされる。すなわち、「大陸のケル ト」であるガリアにはその決定的な証拠は残っていないが、「島のケルト」であるブリ テンやアイルランドにはその痕跡があるので、大陸でもあっただろうという推測にも とづき、「汎ケルト的な」宗教のかたちが形成されてきた7。このような場合、同質の ものとみなされる時代や地域があまりにも広範であり、地域ごとの差異を看過してし まう可能性がある。いったん従来のケルトのイメージを離れ、異なる視点から、「ケル ト」というものを見つめる必要がある。 本来、「ケルト」という語句は、ヨーロッパ鉄器文化の担い手、あるいはケルト系の 言語の話者、そしてギリシア語やラテン語で「ケルトイ(Κελτοί)」や「ガッリー(Galli)」 と呼ばれた人々のことを指す。彼らはヨーロッパの全域に居住したが、地域ごとの環 境によってその社会の様相が変化する傾向がある8。ケルト研究において地域史的な アプローチをすることは、従来のヨーロッパ全体的な見方とは異なる、新しいケルト 像を見せてくれるのではないだろうか。 そこで本稿では、ローマ文化の影響を受ける以前のケルト人の宗教に対する姿勢や 考え方について地域を限定した考察を行う。対象となる地域は、考古学分野での研究 がとくに著しく、ローマ支配以前のケルトの痕跡を多く残すことで特徴的なドイツ南 部(現バイエルン、バーデン・ヴュルテンベルク)である。この地域に残存する「聖 域」とされるものに光を当て、発掘報告をもとに分析・考察を行い、ケルト人の宗教 観の一側面について新しい見方を提示することを目的とする。 1章 ドイツ南部のケルトの「聖域」 ―方形土塁 Viereckschanzen― かつて「ウィンデリキア(Vindelicia)」と呼ばれた現在のドイツ南部には、ケルト社 会の痕跡として大きく3つのものが挙げられる。 まず1つ目は大きな居住地(図1)である。大きな居住地は紀元前8世紀から紀元 前6世紀丘上要塞と、紀元前2世紀から紀元前1世紀のオッピドゥムに分けられる9。 2つ目は巨大な墳墓であり、丘上要塞と関連づけられる。それらは耕作に適さない場 所に目立つような大きさで造られ、しばしば石柱をともなう10。そして3つ目が今回 取り上げるドイツ南部のケルトの「聖域」とされるものであり、紀元前2世紀半ばか ら紀元前1世紀にかけて造られた「方形土塁(独:Viereckschanzen)」(図2)である。 方形土塁は、現在のバイエルンやバーデン・ヴュルテンベルクを中心とする地域に 広く点在する四辺形の構造物で、チェコのケルト研究者ナタリー・ヴェンツロヴァ (Natalie Venclová)はこれらを、「軍事的防壁の欠落した、壁や柵で覆われた領域」と称 する11。現在、ドイツ国内で264カ所が確認されており、うちバイエルンに176カ所、

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バーデン・ヴュルテンベルクに87カ所確認される(図3)。19世紀までローマ人による ものであると思われていたこれらの構造物は、1870年代に発掘調査が進展したことで 図2:Westerheim [Alb-Donau-Kreis] の方形土塁航空写真

[出典:Günther Wieland(Hrsg.), Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, Theiss, Stuttgart, 1999, Taf.3.]

図1:ケルト人の大きな居住地(左が丘上要塞、右がオッピドゥム)

[出典左:Wolfgang Dehn, „Die Heuneburg an der Oberen Donau und ihre Wehranlagen,“ in Deutsches Archäologisches Institut. Römisch-Germanische Kommission (Hrsg.), Neue Ausgrabungen in Deutschland, Mann, Berlin, 1958, S.127-145, Abb.9.

出典右:Werner Krämer und Franz Schubert, 1955-1961 Einführung und Fundstellenübersicht, (Die Ausgrabungen in Manching Band 1), Franz Steiner Verlag GMBH, Wiesbaden, 1970, Taf.1.]

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ケルト人の手によるものだと考えられるようになった12。20世紀に入ると、より本格 的な発掘調査がなされる。本稿ではとくに1950年代以降に発掘が行われた遺構を例に とり、分析を進めていきたい。 1)方形土塁の構造 では、方形土塁の概要について見ていこう。方形土塁が造られる地形はおおむね6 つに分けることができる。①山の斜面、②尾根、③山の円頂、④台地、⑤くぼ地、⑥ 急斜面である13。平地に造られることはめったになく、大半は斜面や尾根、とくに標 高400から700mのところに造られた。また、河川から100から300mほど離れた水辺に ある事例もいくつかあり、あるいはニーダーバイエルンのホルツハーランデン (Holzharlanden)のように、紀元前8世紀から紀元前6世紀にかけて造られた巨大墳墓 の近郊に建造される場合も、わずかだが見受けられる14。 図4は方形土塁の基本的な構造の例である。盛り土によってほぼ四辺形に領域が区 図3:方形土塁の分布図

[出 典:Kurt Bittel, Siegwalt Schiek, Dieter Müller; mit einem Beitrag von Günther Wieland, Die

keltischen Viereckschanzen (Atlas archäologischer Geländedenkmäler in Baden-Württemberg; 1: 1),

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切られ、必ず北以外の方角に入口がひとつ設えられる。ひとくちに「四辺形」と言っ ても、図5を見ると分かるように形状は多様であった。バイエルン(図5下)では台 形や平行四辺形の土塁が多く造られたことが分かる。 造りを見ると15、まず土塁の外と内を隔てる部分に溝が掘られ、その溝の奥手に盛 り土がされることで共通している。面積は平均して0.8ha、すなわち約90m四方で、大 きいものでは1.2haを超えるものも存在しないわけではない16。土塁の手前の溝は幅が 2m、広い場合は7m近くに及ぶ場合もあり、深さは比較的浅い(約1m)。壁となる 盛り土の頂上は丸みを持った造りで、溝を掘り起こして出た土を積み上げて造られた。 盛り土の高さは1m程度。つまり、人間の身長よりも低い土の壁に、おおよそ90m四 方の領域が囲まれている。それが土塁の外側の構造である。 2)土塁内部の構造 ―3カ所の方形土塁を例に― 入口を抜け土塁の領域内へ入ると、広い空間に構造物の痕跡がある場合が多い。こ こでは3カ所の方形土塁を例に挙げ、土塁の内部構造の一部を紹介する。 ①Esslingen-Oberesslingen, Kr. Esslingen17(図6、図7) 標高473mにあるエスリンゲン・オーバーエスリンゲン(Esslingen-Oberesslingen)の 方形土塁(北123m/東85m/南125m/西102m、面積1.15ha)は、南側に入口のある ものである。入口部分には門の役割を果たす構造物の痕跡があり(図7左)、土塁の外 図4:Neuhau-Forst, Ausmärkisch. Forst [Ldkr. Ingolstadt] の方形土塁(筆者加筆有)

[出 典:Klaus Schwarz, Atlas der spätkeltischen Viereckschanzen Bayerns, C. H. Beck’ sche Verlagsbuchhandlung, München, 1959, Blatt. 18 より抜粋。]

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側からそこへ至るために橋が架けられていた。 入口の構造物は西2.3×4m、東1.8×3.8mで、12本の柱によって支えられていた。 また土塁内の南西側には、18本の柱で構成された15×17mの構造物があった(図7右)。 このように入口に門の痕跡や、さらに土塁内にも構造物のある事例は散見される18。 ②Ehningen, Kr. Böblingen19(図8) 土塁内に構造物のある事例として注目すべきはエーニンゲン(Ehningen)の方形土 塁である。シュトゥットガルト近郊のこの地の土塁(北82m/東81m/南82m/西77 m)には、建造年代の違う2基の入口(共に東側に位置)と、7基の構造物が建てら れていた。各建物の詳細については図8を参照されたい。 図5:方形土塁の形状(上がバーデン・ヴュルテンベルク、下がバイエルン)

[出典上:Kurt Bittel et. al., Die keltischen Viereckschanzen, Abb.10a, 10b.

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図7:Esslingen-Oberesslingen 遺構、および想像復元図(筆者加筆有)

[出典:Kurt Bittel, et. al., Die keltischen Viereckschanzen, Abb.17, Abb.23.]

図6:Esslingen-Oberesslingen 方形土塁測量図

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これらの構造物は、2つの入口の古い門に建造年代が近いものと、新しい門にそれ が近いものの2つに分けることができる。建物D と建物 F が前者、建物 A 、建物 B 、 建物C 、建物 E 、建物 G が後者である20。また、これらのほかにも構造物があった可能 性が高い。土塁の至るところで紀元前2世紀から紀元前1世紀に年代づけられる陶器 の破片が出土しており、なおかつローマ時代や中世にまで比定される多くの遺構が残 されている21。これらのことは、入口が複数回建造されていることとともに、この囲 いが比較的長期間利用されたことを暗示する。 このように土塁内に建てられる構造物は、一般的な居住用の建物とは異なる(ある いは居住に適さない)構造であることが多い。 ③Fellbach-Schmiden, Rems-Murr-Kreis22(図9) 大半が損壊しているフェルバッハ・シュミデン(Fellbach-Schmiden)の方形土塁(北 105m/東62m(一部損壊)/南不明/西推定88m)には、上述の2カ所のように構造 物は残されていないが、非常に重要な縦穴が存在する。土塁内の北側にそれはある(図 9右)。直径2m、深さ20.5mのこの縦穴は腐植土や多くの出土物で満たされていて、 深さ16m地点からはオーク材で板張りが施される。出土物の大半は紀元前2世紀後半 図8:Ehningen 方形土塁遺構図(縮尺200分の1)

[出典:Kurt Bittel, et. al., Die keltischen Viereckschanzen, Abb.185.]

2つの入口…東側に古い門(3.0×4.5m)と新しい門の柱の跡 建物 A(直径1.8m,深さ0.9m,6.5×7 m)…東側に入口 建物B …3.1×4m 建物 C(約5.3×5.4m)…寄棟屋根 建物 D(3.5m四方)…建物 E の下に重なるように存在,四角錐の屋根 建物 E …7.5×7.8m 建物 F(2.6/2.9×3.3m)…台形型の建 物 建物G (長さ8m,5m間隔の柱の並び)…用途不明

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の陶片やあるいは装飾品で、そのなかに手桶のような木片、木製の合わせ釘、八角形 の木製のスピンドル、そして奇妙な木製の彫像があった。

縦 穴 は こ の 地 の ほ か、ド ル ン シ ュ タ ッ ト・ト ー マ ー デ ィ ン ゲ ン(Dornstadt-Tomerdingen, Alb-Donau-Kreis)や、あるいは後に詳述するホルツハウゼン(Holzhausen, Gem. Straßlach-Dingharting, Lkr. München)などにもある。縦穴の掘られる方角やその 深さはそれぞれ異なり、一方陶片や骨などが出土することで一致する(これは土塁周 辺の溝でも同様である)。これらは、土塁内側の領域における何かしらの活動の痕跡 を示すものである。 3)小括 すべての方形土塁に共通していることは以下の2つだけである。つまり、領域が(形 状の差はあれ)四辺形に囲われていること、北以外の方角に入口を持つということで ある。内部の構造においては、構造物や縦穴のある事例、ない事例種々様々であり、 統一性はない。しかし、この空間において人間の日常生活が営まれた可能性が低いと 図9:Fellbach-Schmiden 土塁遺構測量図(縮尺1000分の1)、縦穴図

[出典左:Günther Wieland, mit Beitragen von Konrad Dettner et. al., Die Keltische Viereckschanzen von

Fellbach-Schmiden und Ehningen, Landesdenkmalamt Baden-Würtemberg Konrad Theiss Verlag,

Stuttgart, 1999, Beilage 1 より抜粋。

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いうことは、現在一般的な見解である23。ドイツ南部のケルト人はこの囲いをどのよ うなものとみなし、用いていたのだろうか。 2章 方形土塁の果たした役割 ケルト世界において、「聖域」は紀元前2世紀から造られるようになった。それらは 地域ごとで3つのカテゴリに分けることができる24 フランス北部を中心とした地域にある「ベルギカ型」の聖域(図10)と、フランス南 部の「リグリア型」の聖域は、地中海世界風の内陣のある寺院や供犠の痕跡、石や人 骨を用いた独特の装飾などによって特徴づけられる。「ベルギカ型」の聖域はその領 域を溝や柵で囲まれ、部族の領域の中心か他部族との境界に孤立して建てられる。ま たその領域内、とくに溝のなかに膨大な量の骨や武器の堆積物が投げ入れられていて、 人骨を組んで造られた山がある例もある25。「リグリア型」の聖域はケルト世界では珍 しい石造りの寺院であり、柱廊式の玄関や装飾のある鴨居を備える。数少ないこのタ イプの聖域では、双頭の石像や人間の頭蓋骨を嵌め込んだ柱など、芸術的な遺物が見 つかっている。 これら3つのカテゴリの内のひとつが方形土塁である。この方形土塁を「聖域」と する見方は、1975年にクラウス・シュヴァルツ(Klaus Schwarz)によって提唱された。 それは、ミュンヘンのホルツハウゼンにある方形土塁の証拠に依る26。 図10:Gourney-sur-Aronde[Oise]のベルギカ型遺跡

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1)Holzhausen, Gem. Straßlach-Dingharting, Lkr. München(図11) ホルツハウゼンには2基の方形土塁の跡が残されている。1号基(図11左)は北100 m/東130m/南111m/西143mであり、そこから東へ90mのところに2号基(北87m / 東 97 m / 南 92 m / 西 96 m、面 積 0. 85ha)が あ る27。こ の 2 号 基 が 発 掘 さ れ た (1955∼1963年)。その結果として、この土塁は紀元前2世紀後半に計5回の増改築が 行われ、そのそれぞれの段階で造られた縦穴と焼き場、そして寺院のような構造物が あったことが分かった。シュヴァルツはこの「縦穴」を、方形土塁が「聖域」である 根拠の最たるものとするのだ。 縦穴は、北東側(深さ35.3m)、南西側(18.35m)、北側(6.1m)の3基がある(図 12内①,②,③)。このうち最も新しい時期にできた、北側の穴の内側に木枠が施され ている縦穴について、シュヴァルツはそれを宗教儀式のためのものであるとした。さ らにすべての縦穴より出土した動物の骨から、縦穴は土塁内における儀式において、 冥府の神への生贄をささげるための場所であると主張した28。そのほか、彼は囲い内 の寺院様の構造物にギリシアの聖域との類似をみとめている。これらのことによって 方形土塁は「聖域」とみなされ、この見方は長年踏襲された。 図11:Holzhausen 方形土塁測量図(縮尺1000分の1)

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2)方形土塁=聖域説への疑問 しかし後年、それに疑問が呈されるようになる。たとえば、ヴェンツロヴァは異民 族の「聖域」の定義を3つ挙げ29、方形土塁のほとんどがこれに合致していないことを 指摘する。なおその定義には、先に挙げたフランス北部や南部のケルト人の聖域が当 てはまる。また、ガリアのケルト宗教の研究者ジャンルイ・ブリュノー(Jean-Louis Brunaux)は、方形土塁が「聖域」ならば、なぜベルギカ型の聖域のようにローマ時代 の聖域に「再利用」されなかったのか、と疑問を述べる30。彼らの批判は言い換えれ ば、フランスのケルトの聖域と比較すると、方形土塁は聖域とは呼ぶことができない という意味になる。 考古学の観点からは、シュヴァルツ説において「聖域」である根拠とされた縦穴が 確認されていない事例もあり、それらは方形土塁を構成する必須の要素ではなかった とする意見もある。エーニンゲンなどの発掘に携わったギュンサー・ヴィーラント (Günther Wieland)は、縦穴は単に井戸である可能性を示唆する31。また、同じくフェ ルバッハ・シュミデンの縦穴と周辺の溝から出土した動物の骨はほとんどが家畜のも のであり、生贄かどうかは判別できない。なお、家畜たちは土塁の内側において飼育 図12:Holzhausen の縦穴と出土物

[出 典:Klaus Schwarz, „ Die Geschichte eines Keltischen Temenos im nördlichen Alpenvorland,“ in

Ausgrabungen in Deutschland: gefördert von der deutschen Forschungsgemeinschaft, 1950-1975,

Römisch-Germanisches Zentralmuseum, Forschungsinstitut für Vor- und Frühgeschichte, T. 1., 1975, Abb.14.] ①北側縦穴…深さ6.1m,木枠の跡 ②南西側縦穴…深さ18.35m ③北東側縦穴…深さ35.3m ④北側縦穴の柱の模式図 ⑤南西側縦穴出土の鉄製の肉吊り下げ鉤

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された形跡はなく、外から持ち込まれ利用されたと考えられる。各方形土塁で出土す る動物の骨に、同時代の居住地におけるそれとの差はほとんどない。それらは宗教ご とよりも、むしろ経済的活動の痕跡を色濃く残すものである32。 3)方形土塁の役割 方形土塁の役割は何だったのか。発掘の進展により、複数の事例から見ることがで きるようになった方形土塁は、手放しに「聖域」とみなすことはできなくなった。し かし、シュヴァルツの主張に疑問を呈する研究者たちも、それが「聖域」である可能 性を完全には否定していない。 フェルバッハ・シュミデンの縦穴が井戸である可能性について、発掘者のひとり ディーター・プランク(Dieter Planck)は、仮に井戸であったとしても、それが土塁の 「宗教的な目的での利用」を否定するものではないとする33。事実、この場所ではドイ ツ南部の方形土塁において唯一、女神像の一部と思われる木製の雄ヤギとシカの彫像 が出土しているのである(図13)。雄ヤギの像は2つ一組となっており、長さは87㎝お よび76㎝。一方シカの像は1つで、長さ77㎝である。プランクは、これらは女性の姿 を間に挟むようにしてそびえる神像の一部であるとみなす34。彼の主張に則るなら 図13:Fellbach-Schmiden の木製の彫像(深さ17.5m地点で出土・筆者加筆有)

[出典:Günther Wieland, mit Beitragen von Konrad Dettner et. al., Die Keltische Viereckschanzen von

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ば、少なくともこのフェルバッハ・シュミデンでは、土塁内で宗教的な行事が行われ たと考えられる。しかし、当然のことながら、すべての土塁においてそのような痕跡 が見つかるわけではない。 宗教以外の方形土塁の役割の可能性として、出土品の陶片の分析を行ったマ シュー・マレー(Matthew L. Murray)が、興味深い指摘をする。その分析というのは、 バーデン・ヴュルテンベルクの7基の方形土塁(フェルバッハ・シュミデン、ドルン シュタット・トーマーディンゲン、ハルドハイム・ゲリヒトシュテッテン、アルトハ イム・ハイリヒクロイツタール、アインズィーデル、エーニンゲン)と、これらと同 時代にあったドイツ南部とスイスの5カ所の居住地(バーゼル・ガスファブリック、 バーゼル・ミュンスターヒューゲル、マンヒング、アルテンドルフ、ベルヒンク・ポ ランテン)でそれぞれ出土した陶片の材質や形状の比率を分析・比較したものであ る35。それによると、居住地では黒鉛を混ぜて作った食糧を備蓄するための陶器が多 く出土するが、方形土塁ではこのタイプの陶片が非常に少なく、その一方で調理用や 食器として使われる粗雑なつくりの陶片が数多く出土していることが分かる。この結 果からは、土塁において食べ物が備蓄されるような環境がなかったにも関わらず、大 勢の人間による飲食が行われた可能性が示唆される36。マレーはその飲み食いの行事 を、権力者によって主催された「饗宴」と表現する。人々を集め、大規模な宴を開く 行為は「支配権」と同義37であり、あるいは権力者の威信や気前の良さを示す浪費的・ 競争的な役割(≒ポトラッチ38)を担ったとされる。彼が強調するのは、土塁の政治 的、あるいは社会的な役割である。 また、別の研究者は方形土塁の立地、とくに墳墓と方形土塁の関係から、方形土塁 の政治的・宗教的な役割を示唆する。先に述べたように、方形土塁のいくつかには紀 元前8世紀から紀元前6世紀の巨大墳墓の近くに造られる事例がある。この点におい て、紀元前6世紀のケルト社会の研究者ベッティナ・アーノルド(Bettina Arnold)は、 墳墓と方形土塁の役割の類似を主張する39。古代の巨大な墳墓は、その存在だけでな く人手が大量に必要なその建造の過程も、被葬者(=権力者)の権威の大きさを示す 装置であり、それは政治的な意味合いを強く有していた。方形土塁が墳墓の近くに造 られていることは、墳墓の「貴族の権威を示す」という政治的な役割を引き継ぐ場所 として、それらが機能したと考えることを可能にする。彼女はまた、方形土塁を墳墓 と同じように、英雄信仰・先祖信仰のための場であったと述べる40。しかし、墳墓の近 くにある例は極めて稀であることに注意する必要がある41。すべての方形土塁がそう であったわけではない。

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4)ボヘミアの方形土塁 もうひとつ、ドイツ南部地域以外の事例から、方形土塁の役割の可能性について述 べておこう。現在のチェコ西部、ボヘミアにおける事例である。 ボヘミアでは9基の方形土塁が確認されている42。それらは紀元前2世紀初頭に年 代づけられることから、ドイツ南部の方形土塁の「前身」とされている43。ムジェツ ケー・ジェフロヴィツェ(Mšecké Žehrovice)の方形土塁(図14)はボヘミアで最大(北 90m/東187.5m/南93.5m/西194m、面積1.17ha)で、紀元前3世紀から紀元前2世 図14:Mšecké Žehrovice 方形土塁遺構測 量図(筆者加筆有)

[出 典:Natalie Venclová, “Mšecké Žehrovice, Bohemia: excavations 1979-88,” in Antiquity, Volume 63, Issue 238, 1989, pp 142-146. Fig.1.]

図15:Mšecké Žehrovice 出土人頭像

[出典:ロイド&ジェニファー・ラング(鶴岡真弓訳),『ケル

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紀初頭に年代づけられる。その近郊からは、紀元前250年以降に作製された石造の人 頭の像が出土している(図15)。この像は、ボヘミアにおいて方形土塁が「宗教的役割」 を担った証拠であると複数の研究者が指摘する44。この地域では居住地のすぐ近くに 方形土塁が確認される例が多く、一部では内部での居住の痕跡もあったとみられる45。 ボヘミアにおいては、方形土塁は宗教以外にも経済的・社会的な役割を担う構造物と して存在し、最初から複合的な役割を有するものであったと考えることができよう。 おわりに 最後に、これまでの考察をまとめ、結びに代えたい。 ドイツ南部の方形土塁は、ボヘミアで造られたものの影響を受け、紀元前2世紀半 ばから紀元前1世紀にかけて数多く建造された。建造者は大きな部族の長か、あるい は小さな農村の住民であるかははっきりしない。けれどもそのほとんどが四辺形で、 どれもが北以外に入口を設けていることは、これらの構造物がある共通の観念に基づ いて建造されたことを窺わせる。 その土壁の内側での活動とは、宗教的・社会的・政治的、すべての要素を包括する ものであった。宗教儀式のみならず、たとえばマレーの言うように、饗宴などのよう な「世俗的な儀式」の行われる場であった可能性もある。一部の事例における墳墓と の関わりでは、英雄信仰や祖先信仰とのつながりも示唆される。けれどもすべての事 例がこれらの要素を持っていたわけではなく、その役割は多様で複合的で、場所ごと で異なっていたと考えられる。方形土塁とは単純な「聖域」ではなく、宗教・社会・ 政治すべてを包括する役割を担い、どの要素が色濃く出るかは立地・構造によって変 容するものなのではないだろうか。シュヴァルツの取り上げたホルツハウゼンは、そ の「宗教的な要素」が強く出たに過ぎないのではないかと考えられる。 領域を隔てたなかにおいて、神聖なことと世俗的なことの両方が執り行われたこれ らの構造物は、神聖な場と世俗的な場の中間の場として認識されるべきものだったの ではないだろうか。ほかの地域の聖域とあらゆる点で異なり、異民族の「聖域」に相 応しくない様相を呈しているのは、ドイツ南部のケルト社会独特の宗教観を反映して いる可能性があり、その独特の宗教観とは、「神聖」と「世俗」が明確に区別されない というものだったのかもしれない。今後、それらの方形土塁と同時代の居住地との関 係を考察することによって、どのような人々がそれを造り、またどのように使ってい たのかを具体的にしていく必要がある。また、居住地の遺構においても、聖域や宗教 儀式のための道具が出土している例があり46、そういった痕跡と方形土塁につながり があったのかを見ることも必要であろう。今後の課題としたい。

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〈註〉

1 『ガリア戦記』,第6巻16;石垣憲一訳,『ガリア戦記』,平凡社,2010年,221頁。 2 Anne Ross, The pagan Celts, Batsford, London, 1986, pp.102-103; Jürgen Zeidler, “Cults of the

‘Celts’: A new approach to the interpretataion of the religion of Iron Age cultures,” in Interpretierte

Eisenzeiten. Fallstudien, Methoden, Theorie, Folge 18, 2005, S.171-179, p.174 など。日本では疋田

隆康「古代ケルト社会の『祭司と剣』 ―ガリア、イベリア、ブリタニア―」,初期王権研究

委員会編『古代王権の誕生 Ⅳ ヨーロッパ編』角川書店,2003年,296-315頁が詳しい。

3 ケルトの神性やその表現法についての研究は数多い。本稿では、農民と祭祀の関わりについ てはJean-Louis Brunaux (trans. Daphne Nash), The Celtic Gauls: gods, rites and sanctuaries, Seaby, London, 1988, pp.82-83;部族神と共同体については Miranda J. Green, The gods of the Celts, Gloucester, A. Sutton, 1986, p.22;美術装飾については Ruth and Vincent Megaw, “The nature of celtic art,” in Miranda, J. Green (ed.), The Celtic world, Routledge, London, 1995, pp.345-375; Jean-jacques Hatt, „ Die keltische Götterwelt und ihre bildliche Darstellung in vorrömischer Zeit, “ in Ludwig Pauli, Louis Bonnamour et. al., Die Kelten in Mitteleuropa: Kultur, Kunst, Wirtschaft:

Salzburger Landesausstellung 1. Mai-30. Sept. 1980 im Keltenmuseum Hallein Österreich, Amt der

Salzbuger Landesregierung, Kulturabteilung, Salzburg, 1980, S.52-67 を参照。

4 『内乱記』,第1巻444-446;trans. James Duff Duff, The civil war (Pharsalia), William Heinemann LTD, London, 1925, rep. 1988, pp.32-34. 5 ケルト人の死生観については上記のルカヌスのほか、カエサルやストラボンなども記録を遺 している。 6 井村君江,「ケルト民族のFairyland 観」,『鶴見大学紀要 第2部 外国語・外国文学編』,18 号,1981年,27-52頁;同,「ケルト神話の宇宙観 ―ドルイドを中心にして」,鎌田東二・鶴 岡真弓編,『ケルトと日本』,角川書店,2000年,28-64頁。 7 このような例として、フランス、コリニー(Coligny)出土のケルトの暦を記した金属板が、 中世アイルランド文学に登場する「コナハトの女王メイヴ」と関連づけられ、ガリア南部出 土のベレヌス神への奉献碑文が、アイルランド島ケルトの夏の祝祭「ベルテイン」と結びつ けられる場合が挙げられる。T.G.E. パウエル(笹田公明訳),『ケルト人の世界』,東京書籍, 1990年,167頁;Miranda J. Green, The gods of the Celts, p.27.

8 たとえばイベリアのケルト社会が先住イベリア民族の文化と融合し、ほかの地域とは異なる 鳥葬の習慣や火葬の風習の継続、ウァラッコスという家畜保護の宗教的な意味を持つ石の彫 像 の 製 作 な ど の 文 化 を 有 し た 例 が 挙 げ ら れ る。Martín Almargo-Gorbea, “The Celts of the Iberian Peninsula,” in Venceslas Kruta et. al. (eds.), The Celts, Gruppo Editoriale Fabbri, Bompiani, Sonzogno, Etas S.p.A., Milan, 1991 (rep. Rizzoli International Publications, New York, 1999), pp.394-419; Jesús R. Álvarez-Sanchís, “Oppida and Celtic society in western Spain,” in Journal of

(19)

9 丘上要塞は紀元前8世紀から紀元前6世紀に建造された権力者の居住地(総面積30ha以内) であり、現フランス東部からオーストリアに多い。オッピドゥムは紀元前2世紀から紀元前

1世紀に建造された巨大な居住地(総面積30ha以上)で、著しく発展した経済活動などといっ

た都市的な要素を数多く含む共同体。ヨーロッパ全域で見られる。Franz Fischer (trans.

Bettina Arnold), “The early Celts of west central Europe: the semantics of social structure,” in Bettina Arnold and D. Blair Gibson(eds.), Celtic chiefdom, Celtic state: the evolution of complex social

systems in prehistoric Europe, Cambridge University Press, Cambridge, 1995, pp.34-40, pp.34-36;

John Collis, “The first towns,” in Miranda J. Green (eds.), The Celtic world, pp.159-175, pp.170-173; Ferdinand Maier, “The oppida of the second and first centuries B.C.,” in Venceslas Kruta et. al. (eds.),

The Celts, pp.423-429; Françoise Audouze and Olivier Büchsenschütz (trans. Henry Cleere), Towns, villages, and countryside of Celtic Europe: from the beginning of the second millennium to the end of the first century BC, BCA, London, 1991, pp.212-243 などを参照。

10 Bettina Arnold, “A landscape of ancestors: The space and place of death in Iron Age West-Central Europe,” in Archeological Papers of the American Anthropological Association, Volume 11, Issue 1, 2002, pp.129-143, pp.131-132.

11 Natalie Venclová, “Celtic shrines in Central Europe: A sceptical approach,” in Oxford Journal of

Archaeology, Volume 12, Issue 1, 1993, pp.55-66, p.55.

12 Kurt Bittel, Siegwalt Schiek, Dieter Müller; mit einem Beitrag von Günther Wieland, Die keltischen

Viereckschanzen (Atlas archäologischer Geländedenkmäler in Baden-Württemberg; 1: 1),

Kommissionsverlag K. Theiss, Stuttgart, 1990, S.11-14.

13 Dieter Müller, „Topographische Lage der Viereckschanzen,“ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische

Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, Theiss, Stuttgart, 1999, S.25-29. なおクルート・ビッテ

ルらは方形土塁の立地について、①山の斜面、②尾根、③山の円頂、④窪地、⑤山の鞍部、⑥ 急斜面、⑦共同体の境界 の7つの分け方をしている。Kurt Bittel et. al., op.cit., S.23 参照。 14 Matthew L. Murray, “Viereckschanzen and Feasting: Socio-Political Ritual in Iron-Age Central

Europe,” in Journal of European Archaeology, Volume 3, Number 2, 1995, pp.125-151, p.136. 15 方形土塁の構造については、Kurt Bittel et. al., op. cit., S.22-54; Günther Wieland, „Bauten in

Viereckschanzen,“ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.34-53 参照。

16 面積1.2ha以上の土塁の例として、バーデン・ヴュルテンベルクのハルドハイム・ゲリヒトシュ

テッテン(Hardheim-Gerichtstetten, Necker-Obenwald-Kreis)などが挙げられる。Kurt Bittel et. al., op. cit., S.25-32 参照。

17 Rüdiger Krause, „Esslingen-Oberesslingen (Kr. Esslingen, Baden-Württemberg),“ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.130-133; Kurt Bittel et. al., op. cit., S.34-43.

(20)

18 入口の門のある事例としてはアルトハイム・ハイリヒクロイツタール(Altheim-Heiligkreuztal, Kr. Biberach)やプリーツハウゼン・リュープガルテン(Pliezhausen-Rübgarten, Kr. Reutlingen)

が、土塁内の構造物のある事例としてはアルンシュトルフ・ヴィードマイス(

Arnstorf-Wiedmais, Lkr. Rottal-Inn)やハルドハイム・ゲリヒトシュテッテンがある。

19 Günther Wieland, mit Beitragen von Konrad Dettner et. al., Die Keltische Viereckschanzen von

Fellbach-Schmiden und Ehningen, Landesdenkmalamt Baden-Würtemberg Konrad Theiss Verlag,

Stuttgart, 1999, S.163-179; Günther Wieland, „Ehningen (Kr. Böblingen),“ Günther Wieland (Hrsg.),

Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.147-149; Kurt Bittel et. al., op. cit., 153-158..

20 Kurt Bittel, et. al., ibid., S.156-157.

21 土塁のほぼ中央に中世の土葬墓(1.9×0.9m)があり、身長1.7m、足を北東側に向けた人骨が

安 置 さ れ て い た。Günther Wieland, mit Beitragen von Konrad Dettner et. al., Die Keltische

Viereckschanzen von Fellbach-Schmiden und Ehningen, S.178-179 参照。

22 Dieter Planck, „ Die Viereckschanzen von Fellbach-Schmiden (Rems-Murr-Kreis), “ in Günther Wieland, Die Keltische Viereckschanzen von Fellbach-Schmiden und Ehningen, S.13-21; Günther Wieland, „ Fellbach-Schmiden (Rems-Murr-Kreis), “ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische

Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.150-152.

23 Natalie Venclová,“Celtic shrines in Central Europe: A sceptical approach,” p.63; Karin Berghausen and Jorg W. E. Fassbinder, “Magnetometry and soil magnetism on Celtic square enclosures in Bavaria, Southern Germany,” in ArchéoSciences, 2009/1, no. 33, pp.27-29, p.27.

24 Jean-Louis Brunaux, op. cit., pp.12-40; Jane Webster, “Sanctuaries and sacred places,” in Miranda J. Green(ed.), The Celtic world, Routledge, London, 1995, pp.445-464, pp.452-458 参照。なおブリュ ノーはここに「ローマ時代の水辺の聖域」を加え、4つにカテゴライズしている。 25 Jean-Louis Brunaux, op. cit., pp.15-24 参照。

26 Klaus Schwarz, „ Die Geschichte eines keltischen Temenos im nördlichen Alpenvorland, “ in

Ausgrabungen in Deutschland: Teil 1. Vorgeschichte, Römerzeit, Römisch-Germanisches

Zentralmuseum, Mainz, 1975, S. 324-358.

27 Günther Wieland, „Holzhausen, Gem. Straßlach-Dingharting, Lkr. München,“ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.194-198, S.195.

28 Klaus Schwarz, „Die Geschichte eines keltischen Temenos im nördlichen Alpenvorland,“ S.348-349, S.353.

29 「異民族の聖域の定義」とは、①人目につきやすく、居住用の建物から離れている ②居住地 で発見された建物と構造や大きさの点で異なる ③奉納物があり、居住地で見つかるような 発見物がない の3つである。Natalie Venclová, “Celtic shrines in Central Europe: A sceptical approach,” p.60 参照。

(21)

31 Günther Wieland, „Bauten in Viereckschanzen,“ in Günther Wieland (Hrsg.), op. cit., S.34-53, S.49-53.

32 Günther Wieland, Monika Doll, „Funde aus Viereckschanzen,” in ibid., S.54-67, S.62-65. 33 Dieter Planck, op. cit., S.41-44, S.82-84.

34 Ibid., S.38-40.

35 Matthew Murray, “Viereckschanzen and Feasting: Socio-Political Ritual in Iron-Age Central Europe,” pp.131-134.

36 Ibid, pp.134-135. 37 Ibid, p.135.

38 マルセル・モース(有地亨訳),『贈与論』勁草書房,2008年,26-30頁。

39 Bettina Arnold, op. cit., pp.132-133. 40 Ibid., p.133.

41 たとえばヴィーラントは、紀元前2世紀のケルト人にとって、500年以上前の墳墓は「重要な 意味を持たなかった」のではと推測し、Arnold と正反対の意見を述べる。Günther Wieland, „ Kultische und profane Funktionaspekte,“ in Günther Wieland (Hrsg.), Keltische Viereckschanzen:

einem Rätsel auf der Spur, S.73-80, S.77-78 参照。

42 Günther Wieland (Hrsg.), Keltische Viereckschanzen: einem Rätsel auf der Spur, S.216 参照。 43 Pavel Sankot, “The Celtic population of Bohemia in the fourth century B.C.,” in Venceslas Kruta et. al.

(eds.), The Celts, Gruppo Editoriale Fabbri, Bompiani, Sonzogno, Etas S.p.A., Milan, 1991 (rep. Rizzoli International Publications, New York, 1999), pp.294-296, p.296.

44 Jiří Waldhauser, „Die keltischen Viereckschanzen in Böhmen,“ in Fitz Jenő (ed.), The Celts in central

Europe, Székesfehérvár, István Király Múzeum, 1975, S.235-244, pp.235-236; Natalie Venclová,

“Mšecké Žehrovice, Bohemia: excavations 1979-88,” in Antiquity, Vol.63, Issue 238, 1989, pp.142-146, pp.145-146.

45 Waldhauser, op. cit., S.208.

46 居住地で出土する宗教的遺物等の考察については、拙稿,「紀元前3世紀南ドイツ地域におけ

るケルト宗教の一要素 ―「崇拝の木」に見るギリシア文化の影響―」,『関学西洋史論集』, 第38号,2015年,35-56頁を参照。

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