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昭和・戦前期教育政策史研究ノ-ト その4.昭和・戦前期教育政策史の帰結:教師の<戦争参加>をめぐって-(1)

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≪−≫ ≪二≫ ≪三≫ ≪四≫ ≪五≫

昭和.I戦前期教育政策史研究ノ・−ト

  その4.昭和・戦前期教育政策史の帰結:教師の

   <戦争参加>をめぐってーバ1)

埴   野  謙 (教育学部特殊教育研究室) 一 一

   A Note on the History of Educational

Policy in the Showa-Era

・ Pre-War

Japan (N0.4)

By Kenii Hano はじめに 一問題の所在について一 昭和・戦争期教育史研究の反省 一問題検討の視点をめぐってー一一 (前半まで木号・以下続稿) 昭和・戦争期教育政策の展開過程 一教師像の再編と教師(組織)論の性格をめぐって一 昭和・戦争期の教師:教師の<戦争参加> -その類型と若干の事例-おわりに 一戦争期と敗戦期の問題について一一一一       ≪−≫ はじめに 一問題の所在についてー  ① 一つのドキュメントーある教師の「詩作史」の記録から一  雑誌「新日本文学」39年11月の「戦後一私の戦後史」という特集に,一人の教師が,以下に提示 するような「詩」を含む,戦争期から今日にいたる自らの「詩作史」の記録を,「わが詩に悔あり」 という反省をこめて寄せている.(記録は,戦争期から今日にいたる自らの「詩作史」を,いくつ かの「詩」を示し,それにコメントをつけるというかたちでたどっているのであるが,ここではそ れらを仝てとりあげることは不可能であるので,この小論における私の問題関心にかかわる一つの ドキュメントという意味で,そのコメントを参照しながら,その「詩作史」を年譜というかたちで 提示する.なお,以下の「」は記録のコメントからの引用である.) 昭和4年(17才)    処女詩集「無花果」    文明社「国史唱歌」二等入選(これを機会に「従来作ってきた純粋詩と訣別して,国民歌謡の作詩に専    念」)   7年(師範学校在学中)    毎日新聞社・「爆弾三勇士の歌」・選外作   ’毎日新聞社・「国難突破目本国氏歌」・第二位入賞   9年(小学校に勤務)    日本国民音楽協会・国民歌「吾等の日本」・第二位   13年    朝日新聞社・「建国奉仕隊の歌」・一等入選(入選作について「右翼系学者団体の圧力」から新聞社によ    って「改作」される.)       ああ霧深き橿原に       遠きみ民が畏みて

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178 高知大学学術研究報告  第15巻  人文科学  第14号 −     太しく建てし宮柱      ・ ●       今そのかみを仰ぎつつ       久遠の栄え讃えなん       われら 建国奉仕隊  (「原文の一部」)         ………  「当時の私は平凡な庶民の一人として,まじめに戦局の勁きに対して,≒喜一憂していた.政府の宣伝  は額面通りに受取って,一点の疑いをもさしはさまなかったし,まして戦争に対する罪悪感など,毛す  じ程も念頭に浮かばなかった.」)(傍点 旭野) 14年  内閣紀元二六〇〇年奉祝会・式典用奉祝歌・二位入賞  一犬     歴史は古く 国若く     永久に栄えて窮みなき       し     \‘     祖国日本の栄光を      ・ `     讃えて仰ぐ感激に     大地もゆらぐこの朝  (第一辿)      ’ 14年  日本放送協会・「奉祝小国民歌」・一等入選     ..     紀元は二千六百年       ‘     明る’く清い日本の      ・     栄えを祝うこの朝     幼い胸にいっぱいに      l,     みくにの民と生れきた       ▽     感謝をこめて祈るのだ     今年も支那で満州で     御苦労なさる兵隊さん       ダ     はるかに思い勇みたち       li     わたくしたちも僕たちも     負けない覚悟固めては     銃後をかたく守るのだ  (第一,二辿) 15年  日満中央協会・満州国皇帝来日「奉祝国民歌」・佳作入選。  ,/ 16年  毎日・神戸新聞県内版・「特別攻撃隊の歌」 17年  大日本婦人会・「大日本婦人会の歌」・佳作入選     , 19年   (「郷里の地方事務所募集」)   「母親学園の歌」   「学童増進隊の歌」   「少年必勝輸送隊の歌」   (「銃後の食糧難は遍迫し,・・・学校では二階の階段を昇るのに手すりにつかまって辛うじて昇った。‥・)       ●  大日本婦人会・「婦人総進軍の歌」・住作入選       ‥・ 20年  日本放送協会・各新聞社て国民の軍歌」に応募  :・  i。   !’      ・     八州をこどるこの国の       ●     神明,今ぞみそなわせ      ‥     戦禍の中に厳としで

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昭和・戦前期教育政策史研究ノ。−ト その・4   (埴野) 17?    雄々しく起る一億が      ,.,.    その手に肩,に皇国の      ,.    安危を担う時到る  (第三連)  (8月14日投函,「最後まで信じ切っていた‥‥‥‥神風は;遂に吹かなかった.‥ヤ‥・「よい所に連れて 行ってやる」と言って,目隠しをして,散々引っぱり廻した揚句,目が開いた所は,.おそろしい断崖の  絶壁だったとは.……」) (傍点 埴野) 22年  日本自由党・「日本自由党歌」・佳作入選 23年  兵庫県教職員組合・「兵教組の歌」・一等入選     生命の泉,涸れ果てて       ‘ ゛     なに教育の 復興ぞ     生計の憂 なくてこそ     職場に熱と 光あれ       .求めよ さらば与えられん      ●       敲けよ さらば開かれん       いざ起て われら兵教組       ,    ’空しき誇り「聖職」’の       犬     美名になかく 酔う莫れ     二万のカ ー丸と     結びて起たん 時到る  (第一,三迎) 24年   へ  朝日新聞社・「日の丸の歌」・一等入選(文部大臣賞)   (「戦時中の,ちぬられた日章旗…はもはや私の脳裏には浮かばなかった.みどりの朝風に羽ばたく純  白の平和の小鳩,そうしたイメージが,私の心をさわやかにした.」) (傍点 埴野)  (これを「機縁として,その後,小・中学校の校歌作詞の依頼か相継ぎ,・・・・・・百篇に近い数に及んでい  る.」)      ‥ 25年  大阪新聞社・平和塔建設記念「平和を讃える歌」・一等入選 26年(埼玉県に移転)  日教組・「国民歌」・入賞三篇の内に入選(当選作は「緑の山河」)     よろこびは空にみち     栄光は 民にあれ     大いなる 世紀の朝は     はらからの上にかがやく       いざ われら   尚       とこしえの 幸をもとめて       生命あしたに 生命あらたに 27年  日教組づ組合歌」・一等入選   (「組合員でありながらも,組合について知ることの少なかった私は,その頃起草されたばかりの日教  組の綱領を; くりかえしよみ,`忠実にその内容を表現しようと試みた.……当時,この歌の激越な調子 は,組合の実体とは,しっくりそぐわないものがあった.……しかしやがて任命制教育委員会の発足を 手はじめとして,・・・・・・権力側の攻撃が露骨になってきた時,この歌は徐々に組合歌としての真価を発揮        い するようになった.」) (傍点 埴野),

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180 石知大学学術研究報告  剃5巻  人文科学  第14号 − かがやく朝の 雲そめて いまひるがえる 自主の旗 正義と愛の 指すところ 仲びゆく生命 育みて 世紀の教師 われら行く   われら われら   われらの日教組 平和の願い 血と燃えて 働くものの 意気高く 結べる同志 五十万 職場の守り いま固く いばらの道を われら行く (第一,二連) 34年  U市教組執行委員長に推される.  (「勤評斗争は第二年目を迎えて…前後二回に亘る統一行動に‥・市教組七百の組合員は「「教え子を再び  戦場へ送るな」のスローガンのもとに,ガッチリと腕を組んだ.」) (傍点 埴野)  ●●●●●● 戒告処分となる   (「理由は,組合員を教唆煽勁して授業放棄をさせたというのであ,る.」)  県人事委員会に処分の不当性について審査詰求(現在「公開口頭審査」継続中) 38年  市内の中学校に転任   (「この分では多分平凡な教員として.きままに,あと数年間をすごすことになろう.」)(傍点埴野)  年譜というかたちで示せば以上のようなものになるそ4!)「詩作史」をたどづた後で, ま,私は詩が書けない」という,次のような反省と今日の心境をのべることをもって, れている. 記録は「い しめくくら  「顧みて一沫のさびしさかある.それは,戦前戦後を通じて,私の詩に一貫した筋金か通っていないこ とだ.私は常に自分の置かれた立場に忠実であろうと念願した.そのことか,却って,激動する時局の波 に足許をさらわれる結果を来したのだろうか.私はただ.私の詩を通して,忠実なアンテナの役目を果た そうとしただけなのに………      j  あまりにも作られたものか多すぎる.日く経済開発のための人間づくり,日くオリンピックのためのム ードづくり.恐ろしい戦争メーカーはいったいどこに隠れているのだ.人間の本質を忘れた,政治が,経 済が,騒音をたてて私の周囲を,から廻りしている.  あれこれと考えているうちに,私のアンテナはもろくもこわれてしま・つた.いま, (傍点 埴野,ただし○点は原文) 私は詩が書けない.」  以上に提示した一人の教師の戦争期から今日にいたる「詩作史」の記録からなにをよみとり,如 何なる問題をひきだすことか出来るだろうか.-いうまでもなく,ある人が教師であるとして, その人の「詩作史」をもって,直ちに教師としてのその人の「精神史」(適当なことはではないけ れども)であるとすることは一義的には可能でない.詩意識と教職意識ないしは教師意識を単純に 同一視すること,べったりと対応するものとみなすことは許されないだろう.しかし,それは,問 題となる詩(ここでの問題に即していえば,ある「詩作史」の過程で生みだされた詩)が,たしか に詩である時にのみ,いいかえれば詩としての独自の世界をもつものである時にのみそうである, ということもまたいうまでもない.私には,上に提示した一人の教師の「詩作史」の記録はそのま

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昭和・戦前期教育政策史研究ノート その4   (埴野)         一一 181 ま一人の人間の教師としての「精神史」の記録であるとみなしてよい,ように思われる.上に提示 した最後の部分にみられる自らの「詩作史」についての反省は,この教師か詩というものをどのよ うなものとして考えてきたかということをよく示しており,まさにそのことの内に,私の判断が不 当でない根拠があると考えられる.-このように上に提示した記録が一人の教師の「精神史」の 記録だとして,そこに,あるいは,そこから如何なる問題をよみとり,如何なる問題をひきだすこ とが出来るだろうか.  ② ’この小論における私の問題関心を明らかにする手がかりとして,最初に,今から数年前に行 われた一つの重要な問題提起-「思想の科学研究会」による共同研究「転向」において,「教育 者の転向一東井義雄」を分担した原芳男・中内敏夫(2)が「教育者の転向のーヶ一ス」としての 東井義雄の「転向」の検討との関連において,「残された問題」として「教育者の転向」について 行った問題提起-をひいておきたい.     「……現在の日本の教員層には,「教え子をふたたび戦場へ送るな」という,戦後権力に対する逆転向        ●●●●●●・●●●●●●●  ●●幽    宣言となって現われる転向問題の処理機制が,・・I・・I相当広く拡がっている.ここでは,東井らに起る可能 性がある「ふたたび」の転向ルートは一応遮断されている.ところか,この宣言文は,それを唱えること によって,戦前転向事実も含めて過去一切を,判断停止のまま免罪符として利用されうる仕組みになって いる.そのため,ここでは,転向問題の実質的処理は,凍結されたままになり,かえっておくれている. この凍結機制か,「戦前教師の教職モラルに対する適応の類型」(3)をどのように解体し,再編成しながら 生まれてきたかというその発生経路と内面構造を明らかにする仕事か残っている.  われわれか東井の転向研究を進めている期間中に,教育者の転向に少なからぬ関係をもつ新しい事態か 生じてきた.八・一五を境とする教員の「東京からの命令」(M・ゲイン)による総転向をゆるさず,彼 らか教えた戦前日本のイメージに対する忠誠を守りつづけ,十数年かけて漸くその呪縛から放たれはじめ たかつての「教え子」のあいだに,まさにその時点では,ふたたび,今度は逆方向への転向をはじめつつ  ー  −   ・  − ある教員層を批判する観点が形成されはじめた.」(4)  この問題提起が行われてから今日にいたるまでの数年間そしてまた現在において,この問題提起 は,それに対する如何なる解決がよせられるものとして存在してきたのだろうか,そしてまた存在 しているのだろうか.今日にいたる数年間の時間の経過の中で,この問題提起は,それが所有して いた問題提起の実質を止揚されてきたのだろうか,あるいはそれとも,その実質の密度をますます 重くしてきたのだろうか.私達が今日立ちあっている教育の状況を考えるならば,答えは明白であ るように思われる.  今日私達の教育の状況はいったいいかなるものに立ちいたっているのだろうか.現在私達のまわ りに,今日の状況について,あるいは「教育の荒廃」,あるいは「教育の軍国主義化」などという 規定か流布しているけれども,そのような規定が流布していること,まざにそのことの内に,今日 の状況の性格がろていされているということが出来るように思われる.そしてまた,そのような規 定が流布することを許していることの内に,日本の教師の,今日の状況へのコミットの内実が示め されているといってよいように思われる.上記の問題提起か,それが行われた時点で「ふたたび, 今度は逆方向への転向をはじめつつある」というかたちで言及した事態は,より一層進んだものと して,その内実を充填しつつあるように思われる.  このような今日の状況への教師のコミットは,それが深まれば深まるほど,上記の問題提起が所 有していた問題提起の実質,問題提起に即していえば,戦後日本の教師の内で「(戦前)転向問題 の処理機制」ツμ「凍結機制」になってきてしまったということと「逆方向への転向」ということと の結びつきという問題に,ますます重い密度をおびさせるにいたっている.その重たさを目の前に つきつけられる時,私達の内にわいてくる感慨はなんだろうか.←一一-その重たさの前で,「『教え子

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182 高知大学学術研究報告  第15巻‘人文科学一 第14号 をふたたび戦場へ送るな」という,戦後権力に対する逆転向宣言」いらい今日にいたる時間の長さ はたじろいでしまうのではないか,という思いだろうか.戦後20年の時間は,そのような「宣言と なって現われる転向問題の処理機制」が「ふたたび,今度は逆方向への転向をはじめ」るというこ とへ結ばれていくのに要した長さの時間にすぎなかったのではないか,とい/う卜思いだろうか.しか ・し,重大なことは,そのような感慨とはべつに,戦後20年の時間は,その経道のなかでその「処理 機制」が自らの能力を試されてきた時間であったということであり,その「処理機制」が「凍結機 制」に転化するのを阻む努力が,その成果を問われてきた時間であったということである.そし て,今私達の内にわいてくる様々な感慨とは無関係に,すでに今から数年前に上記の問題提起が問 題提起としての実質を所有して成立しえたということ,そのことが,そうした努力の成果がどのよ うなものに立ちいたっていたかを示していたのであり,それから数年後の現在,そこで示めされた 努力の性格は,その内にはらんでいた問題性を,より深刻なかたちで今日の状況によってろていせ しめられているのである.「処理機制」が「凍結機制」になってきてしまったということと「逆方 向への転向」ということとの結びつきという問題が,今日の状況においてますます重い密度をおび てきているということ,その密度の重たさということは,こうした努力が今日の状況によってつき つけられてろていしているところの,その内包してきた問題性の深さを象徴するものにほかならな もy.      .  ・私達にとって,日本の教師の今日の状況へのコミットを阻止し,否定することで,今日の状況を 認服しなければならないことが自明の課題であるかぎり,私達が上記の問題提起か問題提起として 所有している実質を止揚しなければならないことはいうまでもないだろう.そして,そのために ,は,なによりもまず,今日その深い問題性をろていせしめられている努力-「処理機制」が「凍 翁機制」に転化することを阻む努力の歩みを否定的に媒介することを通じて,これまでの「処理機 鋼」に内在していた矛盾を止揚した新たな「処理機制」,「凍結機制」に転化することを許さない根 拠を自らの内に確保する「処理機制」を創り出すことが必要であるように思われる.さきに現在私 :達のまわりに流布している今日の状況についての,あるいは「教育の荒廃」,あるいは「教育の軍 國主義化」などという規定についてふれたが,それらの規定はそのような努力の歩みを否定的に媒 介することを怠ることによって,その流布が今日の状況の性格を示すことになるというようなもの として流布されることを自らに許しているのである.私達は,自らの課題に真剣であろうとするな らば,状況へのコミットを意味するにすぎないそのような規定に自らをゆだねてはならないのであ .る.  ③ この小論における私の問題は,上.にのべたような問題関心から生れたものであり,今日その ・深い問題性をろていせしめられている,「処理機制」が「凍結機制」に転化することを阻む努力の 歩みを否定的に媒介するということの実質かどのようなものでなければならないかという問題を, どのように考えるかということとかかわっている.  そうした努力の歩みの否定的な媒介の実質が,それに先きだって検討されるべきところの否定的 ’な媒介は如何にして可能かという問題かどのように考えられるかということによって,規定される ことはいうまでもない.例えば,そうした努力のこれまでの歩みを,その努力の成果が問われつづ 廿てきた時間の経過にしたがって再検討するということで,その否定的な媒介は可能になるだろう :か.勿論その再検討するという再検討の方法や視点の性格が問題になるだろう.しかし,そのよう な再検討の方法や視点のあり方を吟味するというかたちで,今日ろていせしめられているそうした 努力のはらむ深い問題性に対応することは不可能であるように思われる.再検討の方法や視点がど ・のようなものであろうと,再検討するというところで否定的な媒介は如何にして可能かという問題 が考えられるに先きだって,そうした努力がそれを前提とすることによってその規定性を自らの内

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       昭和一・戦前期教育政策史研究ノート その4   (埴野)        185 に惨透させてしまったところのものに,注意することが必要ではないだろうか.即ち,「処理機制」 が「凍結機制」に転化するのを阻む努力を,それが前提としたところの「処理機制」にそくして捉 えなおすことが必要で,あるように思われる.「処理機制」にそくして捉えなおすとは,「処理機制」 それじたいにはらまれでいる矛盾-「『教え子をふたたび戦場へ送るな』という,戦後権力に対 する逆転向宣言となって現われる転向問題の処理機制」が,「この宣言文は,それを唱えることに よって,戦前転向事実も含めて過去一切を,判断停止のまま流す免罪符として利用される仕組みに なっている」という矛盾,いいかえれば,「逆転向宣言となって現われ」ながら「転向問題の実質 的処理」の「凍結機制」になるという矛盾---・を止揚しようとする努力として捉える,ということ である.しかし,自明のように,そのように捉えなおすということは,たんに,「処理機制」が「凍 結機制」に転化するのを阻む努力ということを,「処理機制」がはらんでいる矛盾を止揚する努方 というようにいいなおしておきかえればそれでよいというようなことではない.そのようにいいな. おしおきかえることによってその努力の歩みを再検討するというのであるならば,それは,先きに. のべたような再検討の方法や視点のあり方を吟味するということと同じ次元にとどまるものにすぎ ない.その努力の再検討は,その努力を上のように捉えなおすということを媒介にしてその努力に 先きだつ過程への下向的検討をとりこむことなしには,・その努力の否定的な媒介ということにつな がることは出来ないのではないだろうか.したがって重要なことは,捉えなおすということに,「処 理機制」がはらんでいる矛盾が生れてくる過程,その過程の内容にそく.していえば,そのような矛 盾をはらむ「処理機制」が成立してくる過程を検討するというかたちで実質を与えることである. この意味において,捉えなおすということは,「処理機制」そのものを歴史過程の中でもうー度柑 対化してみるというごとにほかならない.具体的にいえば,「処理機制」をもう一度「教え子を牧 場へ送る」ということから「…………再び………送るな」ということへいたる歴史過程へさらすこ とによって,その歴史過程と「処理機制」とのかかわりの性格をもう一度反省してみるということ である.真の否定的媒介は,その対象であるこれまでの努力がその歩みのなかで前提にしてきた.  「処理機制」そのものをこのように相対化することを含んでこれまでの努力の歩みが再検討される 時にはじめて,その端緒をもつことが可能になるだろう.このようにこれまでの努力を,それに先 きだつ過程への下向的検討を含むというようなかたちで,まるごと対象化することによってのみ, 今日それがろていせしめられている深い問題性に対応することか出来るように思われる.  ④ この小論における私の問題は,<戦争期>教師の思想と行動の問題を,教師が如何に戦争と かかわり,どのように戦争へ参加したのかという教師の<戦争参加>という問題として,検討する ことである/いうまでもな<<戦争期>は,一方で「教え子を……戦場へ送」りつづけた歴史過裡 の帰結であり,他方でそのように帰結であることによってそこでは「教え子を……l我場へ送る」こ とがいねば凝集してあらわれたのであり,そのことにおいて「教え子を再び戦場へ送るな」に直揚 している.その意味において<戦争期>は,上にのべた「処理機制」の相対化をはかる下向的検伴 にとっていわばその基点としての意義をもっているのである.したがって,そこにおける教師の思. 想と行動の問題の検討はたんにすぎさった過去の時点の問題の検討であるのではなく,それは教師 の<戦争参加>の問題の検討であることによって,下向的検討のための重要な素材を準備する作業. となるのである.そのような作業になるものとして教師の<戦争参加>の性格を検討することが可 能になるためには,その検討においてどのような視点が用意されなければならないだろうか.視点. がそなえていなければならない要件はなんだろうか.一以下≪二≫においてこの点について考え ることにしたいが,その前にあらかじめ,<戦争期>いうことの時期規定ともかかわって私の昭和 ・戦前期教育政策史研究ノートにおIけるこの小論の問題の位置について,及び,問題の検討のすす め方とかかわって≪二≫以下の構成について,簡単にふれておきたいL

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 184         高知大学学術研究報告  第15巻  人文科学  第14号  第一にこの小論における問題が私の昭和・戦前期教育政策史研究ノートにおいてしめる位置とい うことについてであるが,私は研究ノートを,その1=ファシズム化過程における教育政策のく政 策決定>の性格(5)その2=ファシズム「体制」期の教育政策の<政策決定>の性格,その3=昭 和・戦前期教育政策思想史の諸問題,その4=昭和・戦前期教育政策史の帰結,その5=敗戦期教 育政策の諸問題,という構成で計画している.この小論の表題に示しておいたように,この小論は <戦争期>における教師の<戦争参加>という問題を,昭和・戦前期教育政策史の帰結にかかわる 問題として,いいかえれば教師の<戦争参加>の性格の内にその帰結の性格が表現されているので はないかというそのような問題として検討することをめざしているのであり.上記の計画のその4 にあ尭る部分である.なお,ここで<戦争期>といっているのは,ファシズム「体制」確立期,具 体的な指標に即していえば,昭和12年・「教育審議会」設置(同時に日中戦争勃発の年でもある) から敗戦にいたる時期である(6). (例えば<15年戦争>という観点からすればこのような時期区分 には問題があるということになるだろうが,教育政策史の問題としては上記のように考えるのが妥 当だと思われるが,なおこの点については〈三≫でもう一度ふれたい.)上記の私の研究ノートの 計画を私は一方で昭和・戦前期の教育政策の歴史過程にしたがった時間の推移によって構成してい るが,他方ではそうした時間の推移を考慮しながら,その歴史過程における教育政策を決定・支持 ・貫徹させた思想・意識の構造をその構成において明らかにすることを考えている.-一一その1及 びその2を通じて教育「統治眉」の問題を,その3を通じて一方で教育「イデオローグ」の,他方 で教育運動の「リーダー」層の問題を,その4を通じて一般教師層の問題を,そして,その5を通 じて以上のような諸層の思想・意識及びそれらの相互の関連の構造がどのような変容を示すかとい う問題を,それぞれ検討することをめざしている.以上に簡単にのべた私の研究ノートの計画から 明らかなように,その計画の構成においてその4にあたるこの小論の問題は,再びくりかえすこと になるけれども,一方で昭和・戦前期における教育政策の歴史過程の帰結にかかわるという,他方 で昭和・戦前期の教育政策を支える思想・意識の構造の基底にかかわるという,その二重の意味に おいて,すでに以上においてのべてきた私の問題関心にとってきわめて重要な意義をもっているの である.そして,この意義ということに照して逆に私の研究ノートの計画を考えるならば,私の研 究ノートにおける意図は自ら明らかになるだろう.私は,この研究ノートとそれに対応する昭和・ 戦前期子ども学習・生活史研究ノートとによってはじめて私の<自己史>を対象化することが出来 るのではないかと考えている.さきに②の最初にひいた問題提起で指摘されていた「ノい一五を境 とする教員の……総転向をゆるさず,彼らか教えた戦前日本のイメージに対する忠誠を守りつづ け,十数年かけて漸くその呪縛から放たれはじめたかっての「教え子」」が「ふたたび,今度は逆 方向への転向をはじめつつある教員層を批判する観点」を本当に確立するためには,まだまだなす べきことは多いのである.  次にこの小論における問題の検討のすすめ方ということについてであるが,私は次のような ≪二≫以下の構成で検討をすすめていきたいと考えている.即ち,≪二≫において,≪一≫におい て明らかにしたような問題関心にもとづくものとして教師の<戦争参加>という問題か検討されな ければならないとすれば,その検討の視点はどのような要件をそなえていなければならないかを, 従来までの<戦争期>教育史研究のあり方の反省との関連でi考える.とくに,いわゆる「勤評反 対闘争」とあい前後して進められた日教組の「戦争教育の記録」運動の成果としてのいくつかの  「記録」の視点の性格と,そうした「記録」の<戦争期>教育史研究における摂取と扱い方の性格 を検討することで,視点の要件を考えてみる.次に≪三≫において,昭和・戦前期教育政策史の帰 結過程としての<戦争期>教育政策の展開過程を,ここでの問題に照応して主として教師像の再編 がどのように進められたかという側面(7)から,また,教育思想の水準でそれに応じて一般教師層 を組織するどのような論理が展開されたかという側面(7)から検討する.教師の<戦争参加>は,

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       昭和・戦前期教育政策史研究ノート その4   (埴野)        185 なんらかの意味とかたちにおいてそのような再編に応ずる論理を媒介にして自らの像(イメージ) を転換するということとmなっていたのであり.また同時にそうした再編の進行を含む<戦争期> 教育政策の展開過程やそれによりそう教育思想の展開か構造的に生み出す矛盾をそのー身にうけと めるというかたちで存在したのである.≪四≫でそうした教師の<戦争参加>の性格を具体的に検 討するのであるが,ここでは<二≫においてのべる方法上の制約もあり,いくつかの類型を設定 し,その類型に応ずる若干の事例を検討するというか・たちをとる.その類型設定の基準は,≪二≫ において検討する視点にもとづいてー方でさきにのべたように≪三≫で検討する教師像の再編とそ れに応ずる教師(組織)論の論理とをどのようにうけとめ,どのように自らか自らについて抱いて いるイメージを転換しようとしたか,他方でそのような再編の進行となってあらわれる<戦争期> の教育政策をその根底において規定した<戦争>をどのような性格をもつものとして,自らとどの ような範鴎と次元においてあいかかわるものとしてうけとめようとしたか,というところにおかれ る.いうまでもなく<戦争期>という場合の<戦争>は事実としては二つの<戦争>(日中戦争と 太平洋戦争)として存在したのであり,それに照応して教師の<戦争参加>も単純な性格のもので はありえないのであり,類型の設定もそうした質をもつ時間の経過を考慮する必要があるのであ り,同時にその類型に応ずる事例の検討も更に<戦争期>の,ある特定の時点にとどまってはなら ず,むしろ〈戦争期>をその前後にひろがっている時間として考えることが必要となる:≪五≫で はそうした事例を<敗戦期>とのかかわりにまでひろげて考えることによって教師の<戦争参加> が<敗戦期>でなにをもたらすかを考えるヒントを少しでも明らかにす.ることを考える.    〈二≫ 昭和・戦争期教育史研究の反省-一問題検討の視点をめぐってー  ①  ≪−≫にのべたような意味において「処理機制」の相対化をはかる下向的検討のための索材を準 備する作業として教師の<戦争参加>の問題の検討が行われるためには,その検討においてどのよ うな視点が用意されなければならないだろうか.<りかえしになるけれども,教師の<戦争参加> という問題に即していま一度確認しておくならば,ここでいっている相対化をはかる下向的検討と は,「処理機制」をそれが成立してきた歴史過程につきもどすことによって,その歴史過程の中で の教師の思想と行動の実質をなした<戦争参加>の性格ということから逆に,一方で「処理機制」 が内包する矛盾の発生根拠と性格を,他方で「処理機制」がそのような矛盾を内包したものとして 成立することを阻む契機,いいかえれば,それが「凍結機制」へ転化することを許さない根拠を自 らの内に所有するような「処理機制」が成立するのを可能にするような契機の有無を明らかにする ことによって,「処理機制」が内包している矛盾を止揚する努力のあり方を検討するということで ある.このような下向的検討の素材を準備する作業として教師の<戦争参加>の性格の検討か行わ れるのであるかぎり,その検討の視点がたんなる過去を捉える,いわんや過去をさばく視点であっ てはならず,今・日において生きてはたらく現在の視点でなければならないことはいうまでもない. したがって,その検討の視点のあり方を吟味することにとって重要なことは,過去の教師の<戦争 参加>・という問題をどのように捉えることによって,一方で過去と現在とをどう関係づけるか,と いういわば視点のたつ位置を,他方で過去をどのようなものとして現在につながるものとして考え るか,といういわば視点の過去に対する角度を,自らの内にそなえておくべき要件の問題として考 えることである. .<戦争期>教育史研究がこれまでこの教師の<戦争参加>という問題をどのように考え,どのよ うに取扱ってきたかを吟味してみることは,それを検討する視点のあり方を考えるうえで,一つの 手がかりとなるのではないかと思われる.以下の③において日教組の「戦争教育の記録」運動のな

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186 高知大学学術研究報告  第15巻  人文科学  第14号 かで生まれたいくつかの「記録」の性格と<戦争期>教育史研究におけるそれらの「記録」の摂取 の性格を,そうしたこれまでの<戦争期>教育史研究における考え方,取扱い方を示す一つのいわ ば典型的とでもいうべき事例として,上にのべた要件の問題に即して具体的に検討するが,それに 先きだってこれまでの<戦争期>教育史研究におけるこの問題の考え方.,取扱い方にみられる基本 的な性質についてごく簡単にふれてみるならば,そこには次のような問題かあるのではないかと思 われる.即ち,第一に,<戦争期>教育史研究はこれまでのところ教師の<戦争参加>という問題 をそれじたいとして検討することに必ずしも積極的ではなかったのではないかということである. それじたいとして検討することに積極的でないということは一つには研究そのものの内部でこの問 題にかかわる素材が個有にさぐられ,準備されたことが少いということ,またもう一つにはこの 問題か<戦争期>教育史の中核的な主題として積極的に位置づけられていないということである. 第二に,第一の問題を更に具体的に示すということになる蝋 <戦争期>教育史研究はこれまで・ この問題を主として問題ないし素材という観点から取扱ってき・だのではないかということである. いいかえれば,例えば<戦争期>の教育政策か,またそれによりそう教育思想がどのような性格の ものであったか,それらが内包する矛盾かどのようにろていされたかなどを,それらが貫徹され, 惨透した状態において明示する素材として,総じていえば<戦争期>教育史が教育そのものの崩壊 へいたる歴史過程であったことをいわば証拠だてる素材として取扱われてきたのではないかという ことである.教師の<戦争参加>という問題は,<戦争期>教青史を検討する視点にかかわる問題 ではな<,<戦争期>教育史を検討する素材の問題として取扱われてきたのではないかということ である.第三に,<戦争期>教育史研究がこの問題を上のようなものとして取扱ってきたときにそ の基底にあったのは,この問題に対するいねば悪しき歴史の強制としての<戦争参加>とでもいう 考え方ではなかっただろうかということである.このことは,さきにのべたようなこの問題をく戦 争期>教育史を検証する素材として収扱う際のその検証そのものにはたらいている<戦争期>教育 史研究の視点にかかわることである.いうまでもなくこの問題を悪しき歴史の問題として考えると いうところに真の問題かおるわけではない.問題は歴史の強制ということが悪しき歴史という視点 の前でその内実を問われぬままに放置されてしまうという点にある.この点から考えるならばく戦 争参加>という問題が素材として取扱われることになるのはきわめて当然であるといえる.しか し,そのよう扱に取うことによって<戦争参加>の主体はその主体性をはくだつされるのであり, そのことによって悪しき歴史という視点はその内部に重大な矛盾をとりこんだということになるの である.悪しき歴史という視点にとってその矛盾はきわめて重大な意味をもち,その視点を成立さ せた<戦争期>教育史研究に対する意慾はその矛盾によってうらぎられるように思われる.悪しき 歴史という視点がそれを成立させた意慾に応じてみのりのあるものであるためには,教師のく戦争 参加>という問題を,単純否定の対象として,いいかえれば歴史の強制としての<戦争参加>とい うように考えるのではな<,否定的媒介の対象として,いいかえれば<戦争参加>という.かたちで の歴史と教師とのかかわりあいというように考えることが必要なのではないだろうか.第四に,以 下の③において具体的に検討するが,<戦争期>教育史研究はこれまで<戦争期>教育史にかかわ る「記録」---・いねば教師の「戦争体験」の記録とでもいうべき「記録」を,素材主義的に摂取し てきたのではないだろうかということである.いうまでもなくこのことは以上にあげた問題のいわ ば帰結とでもいうべきことにほかならない.この「記録」に対する素材主義的摂取という態度は, 一方でそうした「記録」を自らの繁材としてしか視ようとしないことによってそうした「記録」じ たいが内包しているかもしれない<戦争期>教育史に対する視点を看過することになるのであり, 他方でまたそのことによって<戦争期>教育史にかんす.る・「記録」と研究との間の相互媒介的な往 復迎動を豊かにすることを自らはばんでしまうことになるのであ・る.そこから結果されることか,

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       昭和・戦前期教育政策史研究ノート その4   (埴野)_        187 「記録」.が研究によりそおうとすることであり,研究がその内部で個有にその素材を準備する努力 を怠けていくことであるとすれば,問題は重大であるといわなければならない.(以下続稿)  ≪注≫ (1)今井広史「わか詩に悔あり」雑誌「新日本文学」208号 (2)思想の科学研究会編「共同研究 転向(下)」(昭37,平凡社)第3篇第2章第2節.なお,以下の文中敬   称は全部省略する. (3)この「適応の類型」については,後にふれる.前掲轡p. 129参照. (4)前掲書p. 156.         ノ (5)この (その1)については,高知大学教育学部研究報告第17号,18号にのせた. (6)この点については 注(5)にあげた私の論文でもふれた. (7)この二つの側面は,それぞれ私の研究ノートの(その2)と(その3)に対応し,その一部にあたるもの   である. (昭和41年9月30日受理)

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参照

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