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野晒紀行における発句の考察 -漢詩文の影響下にある作品三について-

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Academic year: 2021

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野晒哨£1行における発句の考察

漢詩文の影響下にある作品三についてー

       宇 和 川   匠  助

      (教育学部・国語教室)

Considerations of Hokku

in Nozarashi Kiko

-About the Three works under the Influence of

Sh6suke UWAGAWA Chinese Poetry       (I)    秋十とせ却而江戸を指.故郷  これは<貞享甲子秋八月,江上の破屋をいづる程,風の声そゞ`ろ寒げなり>という地の文をもつ    野ざらしを心に風の しむ身かな  と肩をならべて出ている作品であって,<野晒の旅>の江戸出1発にあたっての感概を述べたもの である.  芭蕉の句には杜甫・白居易など漢詩をふまえた作品が多い.このことは彼が貞風俳諧・談林俳諧 の影響を脱却して,新風を樹立しようとした天和・貞享の時期に特にいちじるしいのであって,こ の句のごときも漢詩の願訳のごとき観すら呈しているのである.  これは唐詩選に出ている賢島の<度桑乾>というく客舎弁州已十霜,帰心日夜憶咸陽,無端更渡 桑乾水,却望弁州是故郷>の詩に負っているのである.       ブ  芭蕉は寛文12 (1672) 29才の時,志をたてて江戸に下ったが,延宝4 (1676) 33才の時一度帰 郷,貞享1 (1684) 41才の帰郷までの江戸での生活は9年になるので,この野ざらしの旅出にあた って<秋十とせ>と詠じたのである.賢島の詩の<十箱>を<秋十とせ>く却ッテ井州ヲ望メバ, コレ故郷>を<却而江戸を指.故郷>ど願案しているのである.したがってこの句の季語であるく秋 十とせ>の<秋>に季感の乏しいことはいうまでもない.  おなじ<野晒紀行>の作品に    馬に寇て残夢月遠しちやのけぶり  というのがある.これも杜牧の<早行詩>,く垂鞭信馬行,数里栄雛鳴,林下帯残夢,葉飛時忽 驚,霜凝孤鶴迪,月暁遠山横,位僕休辞険,何時世路平>を出典としているが,これはく茶のけぶ り>という表現に漢詩からはなれた俳諧化がみられる,<秋十とせ>の句が全面的に願訳であるの 化くらべると,いくぶん独自性がみられるのであるが,まだ真に芭蕉らしい作品とはいえない.古 典摂取か完全に行われて,芭蕉独自の詩精神が確立されるのは元禄期に入ってからである.    夏 草 や 兵 ど も が 夢 ●の 跡  となると古典的文学伝統はみごとに消化吸収されて彼の芸術が独自のすがたに深められ,拡げら れているのを知ることができる.この作品になると杜甫<春望詩>のく国破山河在,城春草木深, 感時銀涙,恨別鳥驚心,蜂火連三月,家書抵萬金,白頭掻更短,揮欲不勝笥>の影響は芭蕉の心の 中で内面化されて,原詩の面影は<夏草や>の句のどこにも見出すことかできない.古典は作者の 詩心に渾然一体化されて,悠久の時の流れに対して人生の短かさを嘆ずる人間と自然への深い観照 がうかがわれるのである.  このようにみてくるとこの〈秋十とせ>の句は独立した作品としてはいまだ未完成の域を脱して

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64 高知大学学術研究報告  第10号  人文科学  第.6号        一一一一-はいないのであるが,十年ぶりに故郷に向うにあたって,ゆくりなくも作者の意識にのぽったの は,彼のためには第二の故郷となった江戸への愛着の情であって,そのおどろきと感慨を托したの がこの作品であることを思うときまた捨てがたい味わいがある.  芭蕉は〈続深川集>にく九年の春秋,市中に住みわびて居を深川のほとりに移す.長安は古来名 利の地,空手にして金なきものは行路かたしといひけむ人の,かしこく覚え侍るはこの身の乏しき 故にや>となげいているか,寛文12 (1672) 29才で当時の新興都市,江戸の新天地に自己の運命を 開拓しようと郷里を出て以来,あらゆる物質的な欠乏にたえながら<此の一筋につながる>と後年 彼が述懐している俳諧芸術に生きようと決憲していた彼が,貞享1 (1684) 41才で9年ぶりに故郷 への旅に出ようとした心境を語るものとして,作品のできふできは別としてこれは記念すべきもの といわねばならない.  彼の友人山口素堂は<老人(芭蕉)常二mフ.他郷即チ吾力郷ト>(句賤別)と語っている.こ れは一所不住,旅から旅への途中で死んだ芭蕉の人生観から出1だことばであると思うが,その芭蕉 が普通人以上に故郷を愛し,また第二の故郷江戸に執着したところに二律背反的な,超脱しきれな い人間かあったことを証明している.        (!I)  野晒紀行にはく二十日余りの月かすかに見えて,山の根ぎはいとくらきに,馬上にむちをたれ て,数里いまだ鶏鳴ならず.杜牧が早行の残少:,小夜の中山に至りてたちまち驚<>    馬に宸て残夢月遠しちやのけぶり  とある.  この文や句が杜牧の<早行詩>に影響をうけていることは芭蕉も<杜牧が早行の残夢>と書いて いるのだからまちがいのないことである.杜牧の詩の全文については前に掲げたので省略するが, 芭蕉の文と句にある<鞭をたれて>は<垂鞭信馬行>,<数里いまだ鶏鳴ならず>はく数里未雛 鳴>,<たちまち驚<>は<葉落忽驚>,<残夢>は<林下帯残夢>,<月遠し>は<月暁遠山横> のように杜牧の<早行詩>の詩語にあてはめることができる.  前文についていえば<二十日余りの月かすかに見えて・,山の根ぎはいとくらきに>,く小夜の中 山に至りてたちまち驚<>一芭蕉の文のはあいのたちまち驚くは杜牧の詩句とは用いかたが異っ てはいるか一一という文を除けばその他はすべて杜牧の詩句によっている.内容的にも<早行詩> の庖詩的情趣に依拠していないとはいえない.        ‘’  次に句についてみても<月暁遠山横>という情趣に依拠していないとはいえない.ところが杜牧 の<早行詩>と蕉芭の句との非常に異なっている点は,杜牧の詩では<億牧休辞険,何時世路平> という作者の人生に処する感慨を叙するための背景として,早起馬上の旅の嘱目の景がうたわれて いることである.すなわち杜牧の詩は景のための景として,純粋にうたわれているのではないので ある.  芭蕉はこれに反して,たまたま早起馬上の旅の情を風景にしみこませてとらえているのである. しかも彼が馬上に目ざめた旭哉は,彼の私淑する西行法師かく年たけてまた越ゆべしと思ひきや命 なりけり小夜の中山>(新古今集)と詠んだ歌枕の地,小夜の中山であった.  <堕落忽驚>を<小夜の中山に至りてたちまち驚<>と用いたところに芭蕉の主体性があること に注意する必要かある.<位僕休辞険,何時世路平>という杜牧の主観語に相当するものが芭蕉の <小夜の中山に至りてたちまち驚<>である.  このことは支考の<笈日記>に画賛四幅の一つとして出ている,く巴上亭.はつかあまりの月か すかに,山の根ぎはいと閤く,こまの蹄もたどたどしくて落ちぬべき事あまたたびなりけるに,数 里いまだ鶏鳴ならず,杜牧が早行の残夢,小夜の中山に至りておどろく.馬に寝て残夢月遠し茶の

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      野晒紀行における発句の考察  (宇和川)       65 畑>を見るとよくわかる.      ノ  この文では<数里いまだ難鳴ならず,杜牧が早行の残夢>を除けば,ほとんどが芭蕉の文章であ る.この文によれば旅の疲れで馬上にうつらうつらしながらく山の根ざはいと闇く,こまの蹄もた どたどし<落ちぬべきことあまたたびなる>芭蕉の旅の姿が鮮明に目にうつってくる.杜牧の詩と はかなりはなれているのである.このようにみてくると,芭蕉のこの作が単に机上で杜牧の詩を願 案したものではなく.やはり野ざらしの旅の体験がこの作の基盤にあることは否定できない.  句のはあいにも杜牧の<霜凝孤鶴迫,月暁遠山横>の直訳とのみは言いきれないものかおる.こ のことは<三冊子>にみられるこの句の推敲過程から言っても肯定できることである.  わたくしはこの句の初案といわれている.   馬上眠からんとして残夢残月茶の煙(菊本木)   馬上落ちんとして残夢残月茶の畑(赤冊子稿本)  これらの句を興味ぶかく思う.これは巴丈亭の画賛の句の前文くこまの蹄もたどたどしくて落ぬ べき事あまたたびなりけるに>と一致している.この<落ぬべきことあま.たたびなり>の句がく馬 上眠からんとして>,<馬上落ちんとして>となっているのである.このようにみてくると初案の 句ははなはだ実景実感に近いものである.だがこれでは談林以来の破調になって格調の上からいっ てもおもしろくない.そこで芭蕉は再案して   馬 に 寝 て 残 夢 残 月 茶 の 煙(三冊子)  として初五はおちついたが中七の<残夢残月が>三冊子にもいっているようにく句に拍子あって よからず>である.いかにも談林的で軽い.また漢詩的でもありすぎる.貞風俳諧と談林俳諧を止 揚することによって蕉風俳諧にうつりつつあった芭蕉にとって,このような中七で満足するはずが ない.そこで芭蕉は決定句として   馬に宛て残夢月 遠し茶の煙  ’  としたのである.<月遠し>とすることによって展望がひらけてくる.その展望の彼方にく遠山 横>ではない<茶の煙>がある.1  この句の素材である<馬上残夢><二十日あまりの月><茶のけぶり>が現実の素材であること は動かせまい.ところで<茶のけぶり>は初案再案決定句ともに不動であった.人によってはく茶 のけぶり>は<遠山横>の俳諧化であるともいっているが,わたくしはそれを採らない.これは遠 山を茶のけぶりにかえたという程度の机上の作ではない.茶のけぶりには実感があり,具象性かお る.井本農=もいっているように芭蕉の通過している土地は製茶で名を知られたところでもあり, 地方的特性か出ているとも考えられるからで.ある.  岡崎義恵は茶のけぶりは茶人の趣味や禅僧の生活などを思わせる.したがってこの茶のけぶりの 立つところを寺などと考えている.そしてこの句からは風物の庶民化ではなく,原洒老蒼の俳味禅 味が感じられるといっているが,このような考えかたはこの句を机上の作とみるみかたに近いので やはり同意しがたい.これは朝のむ茶のけぶりではなく,飯をかしぐ民家から立ちのぼる畑とみて なんらさしつかえがない.  桑原武夫は茶のけぶりは同じ杜牧の<酔後題僧院>の中の詩句<茶畑軽剛落花風>を引用したも のとして,芭蕉の作は,テニヲハ以外の文字は凡て漢詩と全くおなじだといっているが,これはこ の作品の場をすべて無視した解釈である.       ’  芭蕉の作品に古典摂取のあることは,彼が伝統の文学を継承して大をなした詩人であることを思 えば,しごくあたりまえのことであって,そのことによって彼の作品の価値が上下するものではな い.要はその古典摂取が単なる模倣ではなくて,伝統文学の正しいうけつぎを基底として,その上 に独自の創造かおるか,ないかということである.

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 66      高知大学学術研究報告  第10号  人文科学  第6号  山本健吉はこの句は芭蕉が実景にふれて作ったとしても,杜牧詩かなければ生れてはこなかった であろう.その意味で芭蕉の意識の深層から生まれた句ではないといっているが,わたくしもそれ を積極的には否定しない.それはこの作品かまだ真に芭蕉のものになりきっていない不純物を残し ているからである.とはいえこの作品における漢詩的発想は芭蕉の旅中の実感によって呼びこまれ たものであって,これが単に机上の作でないことだけは`たしかに言えることであると思う.        (Ill)   猿をきく人すて子にあきの風いかに  この句は前文および末文との密接な関係において鑑賞し,批評せられねばならない.紀行の本文 をみるとく富士川の辺を行に,三ツばかりなる捨子の哀げに泣あり.北川の早瀬にかけて,浮世の 波をしのぐにたえず,露ばかりの命まつ間と捨回けむ,小萩かもとの秋の風,こよひやちるらん, あすやしほれんと,挟より喰物なげてとをるに.   猿をきく人すで子にあきの風いかに いかにぞや,汝ち丿こにくまれたるか,母にうとまれたるか.父はなんぢを悪ムにあらじ,母は汝 をうとむにあらし.叫是天にして,汝が性のったなきをなけ>とある.  この句について桑原武夫は<第二芸術論>の中の<芭蕉について>に次のように書いている. く芭蕉をヒューマニストと考える人は野ざらし紀行の次のくだりを何とよむか(紀行の原文引用省略) 芭蕉の人間愛などということは許されない.三つばかりにもなれば人の子は笑うことを知ってい る.芭蕉が近づくのを見て,赤ん坊は泣顔に笑をうかべたかも知れぬ.それをさむざむとした秋風 の中に捨ておいて小萩がもとの秋の風などといい,食ものを投げて素通りする.これは人間をも自 然物とみる自然詩人ではあってもヒューマニストとはいえまい.なぜ拾って次の宿まで抱いてゆか ぬのであるか,さいわいそばには門人の千里もいた.しかし私は芭蕉をとがめたりしているのでは ない.もともと泣きさけぶ赤ん坊などどこにもいなかったからである.思うに芭蕉は猿声秋風とい うシナ詩文において常に悲愁を観念させる二つの言葉の中へさらに捨子というこれまた悲惨な思い をよぶ言葉を投げ込んで,より悲槍的な風景をつくりあげ,いかにといってみたにすぎない,富士 川のほとりというのもシナ詩人では猿は巴峡その他いつも早瀬のそばで嗚くことになっているから である.(中略)ここに人生などありはしない.−・個の美文があるのみである.>  桑原武夫のいうところを要約すれば,芭蕉はヒューマニストではない.単なる美文家であるとい うのである.芭蕉は人間-このばあい捨子-をも自然物とみる自然詩人ではあってもヒューマ ニストとはいえないというのである.  これは氏の短歌俳句第二芸術論でく自然現象及び自然に影響される生活という言葉,この言葉を 換えて云えば植物的生活である>と規定しているのであるから芭蕉の作品に取材されている人間も 単なる自然物とみ,その意味での自然詩人として芭蕉をきめつけているのであるから,その論法か らいえばいたってもっともな結論である.だがそれが近世という時代に生きた芭蕉という人間の正 しいみかたであるかどうかについては多分に疑問がある.  次に桑原武夫がヒューマニストにあらざる芭蕉を説くために.この作品が単なる虚構にすぎない といっている点に注意したい.すなわち猿声秋風というシナ詩文の悲愁の観念に捨子という悲愉的 風景をつくりあげたのであって,ここに人生などありはしない.一個の美文かあるのみであるといダ う点についても吟味してみなければならない.゛  なるほど杜甫の<秋興詩>をみると<聴猿実下三声涙≧,あるいは白居易の<舟夜贈内>にく三 戸猿後垂郷涙,一葉舟中載病身>などとあって,芭蕉の<猿を闘<>という語は直接にこの詩句に よっているとみてよいであろう.

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       野││西紀行における発句の考察  (吏務坦Σ       67  謡曲の<鞍馬天狗>をみても<哀猿雲に叫んでは腸を断つとかや>などともある.それにこの句 のような漢詩調,破調の句は芭蕉が談林俳諧を脱却して蕉風樹立の過程にはしばしばみられるとこ ろのものである.  しかしそれにしてもこの作品かそのような支那詩文の古典的発想にのみよりかかり,それから一 歩も出ていないものとは思われない.第一この句は猿声の句ではない.あくまでも捨子の句であ る.猿声はむしろ捨子の泣く声のイメージをひきだすためのものであることに注意したい.しかも <猿を聞<人よ.この捨子の泣<声をききて如何に感ずるや>というこの句の呼びかけは他者への 伝達語ではなくてむしろ作者の心に問いを発した悲痛なモノ,ログであるとみたい.  猿声をうたった文人は支那のみでなく日本でも和漢朗詠集の大江澄明や,新続古今集の花山院前 内大臣の和歌など数多いのである.その意味では猿声は断腸の悲痛感をうたう文人の観念的風雅の マンネリズムである.ところか芭蕉はこの作品でそのようなマンネリズムに同調し,これを模倣し て心よしとしているのでないことは,猿を聞く人,すなわち古来の文人に対して,このような捨子 の現実をみてこれでよいのかと自分をもふくめていっているのではなかろうか.  この句につずくくいかにぞや汝父に悪まれたるか.母に疎まれたるか,父は汝を悪むにあらし, 母は汝を疎むにあらし,ただこれ天にして汝の性の拙きを泣け>といっている天は,荘子の天命と か性とかいう無為自然倣から出ている思想ではある.あるいは輪廻転生を説く仏教の因果観からで あるかも知れない.だが芭蕉はこうした運命論的な思想的解決によって,この現実の捨子を冷然と 傍知者のようにつきはなしてみているとするのはやや酷なみかたではなかろうか.  この悲惨な現実に直面して自│分の文学と称しているものがこれでもよいのかという,これまでの 文人的風雅に対する批判と反省,荘子によるいちおうの思想的解決で自分をごまかすにはあまりに もむごたらしい現実に対する苦悶.あるいは広末保の指摘しているように,寿貞を捨て子供をすて て,生きねばならぬ自分の運命への痛恨をも,読みとらねばならないのかも知れない.  この句と文が虚構であり,単なる美文に過ぎないと考えることの誤りであることは当時の封建 社会情勢をみてもうなずかれるのである.井本農一は<近世崎人伝>や<草茅危言>を引用してい る/く関東のならひ貧民子あまたあるものは後に産せる子をころす.これを間曳といひ,ならひて 敢て惨むことを知らず.貧凍餓に及ばざるものすら徴ひて此の事をなせり>く扨貧民ハ手元ニテ育 ツルヨリハ大形宣シク片付クル事ヲシリ,捨ツル時サヘ見付ケラレネバ跡ニテ詮議モ咎メモナキコ ト故ヨキコトニシテ争フテ棄ツルハ憎ムベシ>  農民の搾取の上に成立した封建体制下においては,やむにやまれず堕胎;間引:捨子は,しばし ば農村などでみられたことであったろう.そんな社会情勢のもとでは,富士川のほとりで芭蕉が捨 子を見てもかならずしもふしぎではないはずである.しかも彼は旅をしているのである.机上でこ の句を作ったのではない.頭陀袋をさげたいっかいの乞食僧のような俳諧師に,このばあい自分の 無力に対する反省以外に何かできたであろうか.  山本健吉はく赤子をうち捨てて旅をつづけた芭蕉の冷酷さを非難する説も多いが,迷子を交番に 届ければよい現代のわれわれの感覚で彼を批評するのはよそう.この時の芭蕉を非難する資格を持 つためにはわれわれは今日のすべの孤児・貧窮児・傷病軍人等のために財を投げうった上でなけれ ばならぬ>といっている.芭蕉のヒューマニズムを云々するまえに,このことを反省してみなけれ ばならない.  このようにみてくるとわたくしは芭蕉が単純に自然現象や植物的生活をうたう自然詩人であった とは考えることができない.彼の文学に人生かないというのはどうも言いすぎではあ,るまいか. 彼は一方においては超現実的,中世的,宗教的な永遠性にあこがれながら一方では常に現実をみつ めて生きた詩人であって,文那詩文のほんやくにすぎない美文家であったとは考えられないあので る.

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68 高知大学学術研究報告  第10号  人文科学  第6号  芭蕉の友人山口素堂が<野晒紀行>の蹟文の中でく富士川の捨子は側隠の心ぞ見えける.斯る早 き瀬を捨て所として捨て置きけん,さすがに流れよとは思はざらまし,身にかふる物ぞなかりきみ どり子はやらん方なくかなしけれども,と昔の人のすて心まで思ひよせて哀ならずや>と,この句 を評しているが,芭蕉のこの作品を深く読み味うとき,累堂評にすなおに耳をかたむけたいのであ る.       (1961. 9 . 15) 13 (昭和36年9月22日受理)

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