乳幼児期の子育て支援にむけて : 発達相談活動から見えてくること 利用統計を見る
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(2) させていく過程である。発達の主体者は子どもであり,子どもは豊かに,また自分らしく ありたいと心の深いところで自らの要求としてもっている。そのことを前提に,子どもが 本来もっているその子らしい力を発揮できるように環境を整えていくことがおとなの責任 であり,役割なのである。 筆者は主に就学前の子どもを仕事の対象としている関係上,以下述べることは就学前に 焦点を当てたものである。とはいえ,ここで述べることが就学前の時期に限定されること でないことはいうまでもない。さらにいうなら,就学前年齢の子どもの発達過程において 以下に述べる諸点が真に大事にされることは,その後の発達の基礎となるものである。そ れゆえ,この時期の育ちにおいて何が大事にされなければならないかを問題にすることは ことのほか重要だと考える。もちろん,人間の成長過程のどこかをきりとってそこだけを 強調しさえすれば,あとは自動的に発達が促されるとか,反対にある時期を逃すとその後 の発達過程に大きな過痕を残すとする(例えば3歳児神話のように)のではなく,人間と は失敗やあやまちをバネにその後のあり方をより豊かにしうる存在であり得ると考える。 とはいえ,もし幼児期を充実したものにすることができるのならそれに越したことはない。 その立場で,以下の提起をしたい。. Ⅱ.家庭の役割を考える. 1.子育ての前提について 発達相談は既に見てきたように,相談者が主に子育ての担い手であるお母さん方ととも に子どもの成長について現在を起点にしつつ,過去の育ちを検証し,将来について考えあ うことである。別のことばで言えば,子育てとはそもそも何かをもう一度問い直す機会で もある。障害をもっていたり,発達的な課題を抱えていることを考慮した上で,子どもの 発達を保障する観点から今,そしてこれから何をしなければならないかを考えあうのであ る。 筆者が発達相談などの場で,お母さん方とともに子育てで確認してきた第一のことは, 子育ては就園までとか,就学までとかで完結するものではないということである。すなわ ち ,「自立とは何か」こそがテーマであり,自立への道筋を幼児期に即して今,さらにこ れからを見通した上で,この時期の子どもに求められるのは何かを確認してきたのである。 その際,注意しなければならないことは,家庭の役割とそれ以外の子育てを支援する場で の役割の区別と協同を混同しないことである。子どもが育つことの責任のすべてを家庭や 親に押しつけることで親への負担を増大させることは子育て支援の役割とは無縁である。 もちろん,子どもにとって家庭とそれ以外での場の対応がまったく異なることは,混乱を 招くだけである。その意味では協同(ここでは協同ということばを後にみるように,子ど もの問題についての共通認識を大事にしつつも,家庭や幼稚園,保育所など,また必要に 応じて親子教室などのそれぞれの場の役割を明確にし,協力しあうとの意味で使用する) - 45 -.
(3) という視点を欠かすことはできない。しかし,それと同時に家庭の固有の役割を明確にす ることは,家庭がダイレクトに子どもたちを結んでいるが故に,そして親が子どもの成長 を見守りつつ,親としても充実していくという,子育てを真に楽しみ,親育ち,子育ちす るために,今どうしても必要だと思われる。このことをいくら強調しても強調しすぎるこ とはない。. 2.家庭の役割 結論から言うなら,家庭とはそれぞれの家庭文化を継承する場であり,子どもはおとな とともに生活する中でその家庭でのやり方を教わりながら,共同者として対等に新しい家 庭の文化*1を創造することを通して,社会文化を培い,次代の担い手となりゆくのである。 すなわち,家庭には家庭なりのやり方がある。食文化,衣文化,住文化は家族の住まい方 を起点として我が家流がつくられる柱である。もちろんそれらは明文化された,意識化さ れ,自覚化されたものとは限らないが,その家庭なりの価値観が働き,一定の規律のもと に,家族による生活が営まれている。たとえば朝食はばらばらでも夕食は家族一緒に摂る とか,一年に一回は家族で旅行を楽しむことを恒例にしているとか,子どもの小遣いは年 齢に応じて決めようとか,大きな枠から細かいことまである基準で決定され,それに沿っ て家庭生活は営まれている(加古,2000)。しかしこれまで培われてきた,子どもが育つ上 での家庭の役割は,今,大きく,そして急速に崩れつつある。そのことがもたらす問題は, 商品経済が家庭にダイレクトに入り込み,幼い子どもを直撃して,子どもが子どもとして ゆっくり時間をかけて成長,発達することを保障する基盤を突き崩すことになり,大変危 険な事態になってきている*2。家庭が,家庭として自分達の価値観をしっかりもたなけれ ば,例えば「みんなもっている」という子どもの言葉に引きずられかねない。それは同時 に子どもを幼い頃から商品消費者にすることで,人のために労力を惜しまない,つまり子 どもはその年齢に応じて人との関わりにおいて自己の存在を確信する経験を経ることなく 成長せざるを得ないことになる。その最も顕著なものは家族の団らんの象徴であった夕食 ですら,家族がばらばらに摂ることになり,その結果,子どもがむしろ一人ひとり自分の 好きなものを食べるという個食の方を選ぶとか,家族とは別に一人だけ別室で食べるとい う孤食を肯定する現象が広がってきていることに現れている *3。子どもは次代の担い手で あるが,同時に現在を生きている存在でもある。将来のために,現在を犠牲にするあり方 は,将来を危うくする。つまり,今を充実させたその先にこそ未来を自らの力で切り開く 力を展望することができるのである。このことは,いうまでもなく今さえよければ,とい う刹那的なあり方を肯定することを意味しない。むしろ,今をどれだけ豊かにするか,発 達の土壌を豊かに耕すことができるか,現在の自己の可能性を追求することを通じて,明 日のために今日を耐えることも含めてより充実した人生の基礎を創る存在になることを可 能にする,ということである。. - 46 -.
(4) Ⅲ.幼児期における課題. 幼児期およびそれ以降の学童期の成長・発達にとって大事にすべきことは何だろう。筆 者は何が大事なのかを伝える指標として,身体的発達,手指の発達,および表現手段の獲 得を考えており,身体的自由,道具の操作の自由,表現方法の自由として提起したい。. 1.身体的自由の獲得 第一にあげなければならないのは身体的自由である。それは何よりも身体をつくること, すなわち,栄養,睡眠,健康など自分の身体を形成する土台についての認識である。また 年齢や発達に応じて身体を自在に動かし,働かせることができるようになることである。 身体的自由を保障するものは栄養であり,睡眠であり,身体の健康である。食事を考え る際,まず何を,誰と,どのように食べるのかが問題となる。睡眠はおとなの生活が幼い 子どもにはダイレクトに影響しやすく,生活リズムとしても問題になる。栄養や睡眠,休 息などの生理的土台を充実させることで子どもの健康は保障されるのである。子どもは当 然ながらおとなと共同生活をすることによってその生活が営まれるのであり,おとなの生 活が大きく子どもの健康を左右する。さらに身体的自由という場合,身体を自由に使いこ なすこと,何よりも歩く,走るなど自分で自分の身体を目的に応じて動かすこととともに, 友だちやおとなと身体を使ってじゃれ合うことまで含む。それが重視されるのは,自分の 身体を自在に動かすことだけではなく,また身体だけの問題ではなく,心の問題と深くつ ながっているからである。と同時に他の人びとと適切な身体的な距離をとりつつ,人間的 な関係を創る土台,すなわち,共感の基礎ともなる *4のである。以上を含めて身体的自由 とした。 身体発達の問題について正木(1982)らは早くから警告を発している。発達相談の場面に おいても身体が年齢に応じてしっかり発達していないことにしばしば驚愕させられる。何 よりも歩く,走る,跳ぶなど直立歩行する人間の最も基本的な特徴が崩れつつあることが 実感させられる。モータリゼーションの発達によって単に歩く,歩き続けるということさ え十分に経験していない子どもが増えていることは危機的でさえある。さらに親子での身 体を使った遊びなどの経験も少なくなっている。その元凶の一つはテレビにありそうだ。 親子でテレビを見ているか,テレビを見せている間に家事をするという生活スタイルが大 勢を占めている。既に親世代がテレビのある生活が当たり前になり,その生活スタイルに 何ら違和感がない *5。それらのことも関係するのであろうか。何よりも自らの身体につい て子どもは存在すら意識していないのではないかと思わされる。筆者の大学で,学生に食, 睡眠,および排泄に関する論文などを読んだ感想を論述する課題を課したことがある。こ れら自分の身体に最も直接的なことについての認識を促すことが目的であったが,感想を 一読すると,いかに今の若い世代が身体というものを無視しているかがわかる。自らの身 体の機構や機能に熟知してないものがどうして,幼い子どもの身体づくりに心を込めて対 - 47 -.
(5) 応できるか,たいへん気がかりである *6。身体的自由とは,自分の身体を意識的に受け止 めることと同時に,自分の身体の主人公になることを意味する。それゆえ,健康という領 域だけでとらえるのではなくて,生き方の土台に身体的自由というものを据えて豊かな身 体づくりが目指されなければならない。そして身体を管理するのは最終的にはその持ち主 たる自己なのである。そのような存在となるために,幼児期においては,周りのおとなの 適切な配慮がたいへん重要なのである。. 2.道具操作の自由 第二は手指を使いこなす場と経験を大事にしたいということである。それは何よりも自 分の身体の管理を自らの責任ですることとあわせて,家庭の仕事の手伝いや分担を意味す るが,それを道具操作の自由と表現したい*7。 これにはいわゆる幼児期の課題のひとつである身辺自立を前提として ①道具の一つひとつを使いこなす(この点では手指の巧緻性という問題でもある) ②段取りをとることや見通しをとらえることが年齢に応じてできるようになる ③自分のためではなくて家族のために(=家庭文化の真髄がここにある)することの 心地よさを経験する。それは他人にとって必要な「自分」を形成する土台でもある ④家族の触れ合い-共にする仕事を通してこそ可能である。家事といわれるものには 家族が共に作業をする機会が,至るところにある。ただ子どもが幼ければ幼いほど そのための前後の手のかかり方また神経の使い方はおとなが一人で行うよりも数倍 の労力を必要とする ⑤将来の「生活的自立」の能力形成をこの経験を土台としてその技能を習得する 以上のことを含む内容として,この課題を第二に挙げたい。 上述の①について,道具を使いこなす機会が大変減っている。かつて,凶悪な少年事件 をきっかけに持ち物検査をすることが文部科学省で検討されたことなどを思い浮かべて も,たとえば刃物を幼い頃から年齢に即して,また子どもの能力に応じて使いこなす機会 をきちんと保障すること自体が難しい。1歳半から2歳ころは手指が少しずつ巧みになりお 母さんのやることを見て自分もやりたがる時期であり,包丁なども使いたがる。それを奨 励するとそんな危ないことはさせられないとたいてい拒否されてしまう。また,発達相談 などの場面ではさみを使わせると,家では危険だから使わせたことがないと言われること がある。はさみも包丁も人類の発展の過程で自分達の生活を合理的に営むために工夫され て利用されてきたものである。年齢に応じて,手と眼をしっかりかけながらその使い方を 教えるなら決して危険なものではない。逆に,正しい扱い方を知らない場合,力だけつい てきて凶器として使用されてしまうことがあるのではないだろうか。本末転倒になってい るように思われる。年齢に応じてこれらを使いこなす過程で手指の巧緻性もよりしっかり してくるのである。そしてこれらを使いこなすことで,自分の可能性を拡げ,より自由に なるのだ。 - 48 -.
(6) ②について,家庭でお母さんの家事を見よう見まねでその一部分を引き受けつつ,全工 程が見えるようになってくる。それは最初からできるのではなく,年齢ももちろん関係す るが,共にすることを経験する過程で全体が把握できるようになり,先の見通しがつくよ うになるのである。失敗も含めて実際の経験が大事である。 また③について深谷(1974)が次のように述べている。すなわち「お手伝いをして,お母 さんによろこばれ,食卓でお父さんにほめられる。仕事を介してそういう人間関係の中で, 子どもは生きがいを感じ,仕事をする喜びと誇りを身につける」のだから ,「子どもをち いさいうちから『失業者』にしてはいけない。仕事をいやがる子にしてはいけない。仕事 をすることに欲をだし,それに喜びと誇りをもつ子にしなければならない-家庭教育の中 心は,そこにあるのだと思う」。お手伝いといわれるものの重要性を正確に指摘している。 さらに④や⑤も同様に,家庭のなかで子どもにどのような経験をさせるかが決定的に重 要である。幼い頃から早期教育(文字教育)にのみ眼を向けていたのでは,身近にある生 活を通した教育の機会を失ってしまう。実際,相談場面でもお稽古ごとや塾に幼児期から 通わせている家庭は増えつつあることを実感する。子どもの発達的力量の弱さを指摘する と,稽古事などに活路を求める傾向が強くなっている。家庭でお母さんと一緒にする,で きたことを確認しあう,それによって自分達の生活そのものを豊かにできるというヒント をなるべく提示しなければならない。そうでないと,先ほど見たように生活を丸ごとテレ ビに乗っ取られかねない。 この第二の課題は,当然第一の課題とリンクしている。しかし,独自の役割もあること を強調すべきであろう。すなわち,人間だけに可能であるとされている道具の使用の意味 を深く捉えることなしに私たちは人間的自由を得ることはできないのである。. 3.表現方法の自由 第三は自分の思いを表現すること,同時にそれが受けとめられることを包含するもので あり,これを表現方法の自由としたい。 人類は進化の過程でことばを獲得した。それは,自分の思いを相手に伝えたり,相手の 意図を受けとめる道具として発達してきた。しかし,人間は単にことばにのみ頼るのでは なく,ことばをも含めたさらにさまざまな表現手段をも手に入れた。その中にはポジティ ブなものだけではなく,ネガティブなものも含まれていることを忘れてはならない。筆者 (1994)は,たとえば幼児期におけるだだこねやグズリなども,子どもの権利条約の第12条 に言われている意見表明権の範疇に入れるべきだと考えている。それはそのように表現せ ざるを得ない状況を読み取られることをも含めることによってはじめて意味を持つ。だだ こねやグズリはすでに0歳,1歳から見られるが,0歳児などことばが未獲得段階ではある 意味ではグズルのは当然であり,それを子どものサインと受け止めて対応するのはたやす い。しかし,グズリはその後,幼児期後半になり,ことばがしっかり自分の思いを表現す る手段になって以降も見られる。この時期のグズリは周囲のものには不快な気分にさせら - 49 -.
(7) れるものである。それゆえつい ,「ぐずぐず言わないで,ことばでちゃんと言いなさい」 などと叱ったりする。しかし,グズルというのはそのようにしか表現できない本人の内的 な状況の表れであると,とらえるべきだろう。きちんとことばで表現できるのなら,あえ てグズる必要はない。表現方法の自由という場合,そのような子どもの側の,ことばにな らないことばをどのような形で表してもよいということである*8。 グズリなどそのように表現せざるを得ない状況を認めた上で,その読みとりも含めて, 「聴き取られる」ことが子どもに保障されるべきである。すなわち, ①自分の思いをどんな形で表出・表現してもよい ②表現を聴き取られることは,自分の思いを的確に把握する道筋へと連なるものであ る。だから時には,適切な表現のしかたを教えてやること,たとえば,遊びに入り たいときは「入れて」と相手に言うことで自分の思いが正しく伝わることなど具体 的に一つひとつ知らされることも含められるべきである ③子どもの権利条約第12条にある意見表明権は,それ自体に自己決定・自己責任の主 体者たることを内包していない といわれる。表現方法の自由とは,子どもが自分の思いを正確に,より正しい方法によっ て表現しなくても,否,それができないからこそ,子どもなりの表現方法のすべてを受け 入れ,認めた上で子どもの思いを汲み取る,読み取る相手が存在することによって子ども は自分の思いをより的確に表現する道筋を得るのである。その際,読み取る側が読み取る という点では明らかに子どもより優位に立つ(恣意的に解釈することが可能という意味で, また行為においては絶対的な力を持っているという点で)が,関係としては対等でなけれ ばならない。そうでなければ,子どもは自分のまだ混沌とした思いを,自分のもっている, 使うことのできる限られた手段を使って自由に表現することはできないからだ。 子どもの権利条約NGO・DCI日本支部(1999)によると,意見表明権は ,「私はあなたを見 捨てない」ことを態度で示すことを意味するとしている。というのは,子どもの不適切な 行動をより適切なことばに置き換えてみせること,ダメと禁止したり,叱ったりするので はなく(年齢なりの)子どもの「辛さ」に共感することが大事であるからである。この「意 見表明権」は,自己決定権とは異なる新たな人権であり,意見表明権は,能力次元での成 熟度を問わず,およそ人間としての独立主体性を自ら実現する具体的な権利とされている。 それに対して自己決定権は能力次元での一定度の成熟度と結びつけられた自己責任の主体 性を画する権利である。また,意見表明権は,表現の自由という発言権とも異なるもので ある。すなわち,意見表明権の本質は,人間関係を形成する権利であり,相手方には意見 表明に対して誠実に耳を傾ける応答義務が生じ,その人間関係を前提として,双方の対話 を通しながら,主体的に生きていくことになる-だから意見が否定される場合には,その 理由が示される必要がある-ことが指摘されている *9。意見表明権と,表現の自由,そし て自己決定権の区別とその関係を明確にしたように,意見表明権を人間関係を形成する権 利であるとしていることに注目するべきであろう。これは相手との関係を人間としては対 - 50 -.
(8) 等であり,自分の思いを表現することでより的確なものにする過程は,主体的な存在にな りゆくプロセスである。 このことに関わっては,障害児教育の世界では「問題行動を発達要求と読み替える」と いう言い方で表現されてきた。おとなからは問題行動としか見えないが,子どもにとって そのようにしか表現しようがない,しかたを知らない,原初的な思いがそのようなもので あっても本音の要求は何か,として追究されてきた視点である。障害をもっているという ハンディがあることを考慮しているとはいえ,この視点はすべての子どもに通じるのであ り,ここに明瞭な人間観が表現されている。表現方法が自由であるといっても,その意図 を受け止めてもらえる基盤がなければ,それは表出するのみで,むしろ,受け止めてもら えないむなしさを深くするのでは無力感は一層増すこととなる。だから,聴き取られる, 受け止められる場の保障が前提である。これは表裏の関係にある。表現方法の自由とはこ のようにその子どもなりの表現のしかたが認められ,それを適切に翻訳して受け止められ るというプロセスによって,他の誰にも従属しない真に人間的な自由を得るのである。 表現形態として身体表現はもちろんのこと,道具の使用もある種の表現形態であると言 える。道具をなぜ,どのように使うのか,それを使って何をするのかを伝える手段とする ことは,広い意味で表現のしかたであるとすることができよう。結局,この三つはそれぞ れが独自の意味や役割をもっているが,それらは相互に深く関係しているのである。そし て改めて,それらを子ども自身が自ら充実させるというより,まわりのおとなの周到な配 慮によって可能となることを強調すべきであろう。そのような配慮なしで,子ども自身が それらの自由を得ていくというのは空論でしかない。したがって,これらの問題の後ろに それを保障するおとなの役割を同時に位置づけるべきことはいうまでもない。発達援助者 はいつでも子どもや親の前にダイレクトに出るのではなく,これらの関係をよりスムーズ に,かつ豊かになるような配慮を後ろから支えていくことが,求められる役割なのである。. Ⅳ.家庭と幼稚園や保育所などとの共同,協力関係を築く. 上述の三つの自由を保障するためには次の二つの点で,細心の注意を払う必要がある。 それは,一言で表現すると協同という視点である。 第一は,幼稚園なり保育所なり子どもの集団での様子と家庭での様相の突き合わせをす ることである。別のことばで言えば子どもの育ちに複眼的把握が求められることである。 子どもであっても状況や場面によってさまざまな表情(顔)をもちうる。家庭と,社会的 集団と,またそれ以外の,たとえば発達相談の場面でも異なる様相を示すこともありうる との認識をもつ必要がある。だからこそ,それぞれの場での子どもの姿の突きあわせが必 要であり,そのためにも親と協同することが不可欠なのである。いずれの姿も子どもの真 の姿でありうる。どうしてそのような違いが生まれるのか,どのような場面でそのような 姿を見せるのかを突きあわせてこそ,子どもの真の姿,思いが見えることもあるのではな - 51 -.
(9) いだろうか。このとき,おとなからみたよい子にとらわれると真実が見えなくなることが ある。幼稚園や家庭などをお互いに責め立てるようなあり方では何も明らかにならない。 そのためには双方の信頼関係の上に,家庭との意思疎通は欠かせない重要な要件の一つと なるのである。 第二は,子どもの育ちにおける集団の果たす独自の役割についてである。家庭の幼稚園 化(または学校化)に注意しなければならないとも言い換えられる。筆者は,家庭の独自 の役割を見失うことの危険性を危惧する。家庭と幼稚園や保育所および学校などが協力関 係をもつことと,幼稚園でできないことを家庭に求めたり,幼稚園と同じように家庭でも させるように要求するなどということは基本的にはすべきでないと考える。つまり家庭の 幼稚園化は親を幼稚園から遠ざけてしまう危険性をはらむ。幼稚園などの集団生活は,家 庭とは異なり,子どもにとっても家とは異なる外の世界であるという一定の緊張関係のな かでの生活であることを考慮する必要がある。家庭は,親や兄弟などとの私的な場であり, リラックスする場である。だから外の世界では少々我慢していることでも,また背伸びし て頑張ることができても,家庭では逆に甘えてやらない,できないなどと背伸びをしない 姿を何の構えもなく,出せるのである。もちろん,家庭とこれらの公的な場でのやり方や 対応がまったく異なり,子どもが混乱してもよいと主張するものではない。しかし,家庭 はある程度甘えが許される私的な場であることを忘れたやり方をしてはいけないことを肝 に銘じなければならないと思う。親などを先生にしてはいけないからである。先生との関 係で頑張れることであっても家庭でお母さんとは頑張れないのは,ある意味で当然である。 そうしないことに対して母親を責めるというのは,結局家庭による幼稚園や学校への不信 感を募らせるだけで問題解決にはならないことが往々にしてあり得るのであり,そのこと への配慮が十分でなければならないのである。集団生活は家庭とは異なる場であり,そこ での仲間との関わりの中での成長を見守ることを大切にしたい。なぜなら,集団での問題 は家庭では解決のつかないことが多いからだ。家庭では,どうすることが集団での問題解 決に間接的に寄与するかとの視点が必要であり,ダイレクトに課題を家庭に帰すことのな いように細心の注意を払う必要がある。同時に,家庭でわがままな自我をしっかり出せな い場合は最も問題が深刻になる場合がある。その意味でも,家庭が,親との関係が緊張関 係を強いることになる対応は間違いである。. Ⅴ.子育てとは. 再び,子育てとは何かと問うてみたい。子育て,すなわち子どもを育てるという営みは 同時に親が親として育っていく過程でもあり,それを通じて家庭やそれまで継承されてき た文化を時代に即して伝承するのである。だから発達援助者の役割は,子どもの育ちその ものの問題や子どもを取り巻く環境の問題を明らかにしつつ,何よりも子どもの育ちに共 感し,お母さんやお父さんが子育てを楽しめる環境の整備することにある。親が孤立した - 52 -.
(10) 状態では豊かな子育てはできない。つまり「親育ちへの援助」の必要性を改めて強調した い。親は親としての人生があり,子育てもそこで重要な位置を占めるとしても,それがす べてではないし,そうしてはいけない。時には親の,子育てを含めた悩みなどが受け止め られる場が必要なこともある。それが発達援助者の役割の一部でもあろう。先に,子ども の声を聴き取ることの重要性を指摘したが,親とてその親の思い,ひとりの人間としての 苦しさや悩みを受けとめられ,聴き取られることが大事である点ではいささかも子どもに 劣らないのである(荒木,2004)。 さらに指摘しなければならないことは,子どもの問題を親の責任に転化しないことであ る。そうではなくて「子どもの成長の姿をともに喜び合える関係を」創っていくことが大 事なのである。そのためには,子どもの成長を子どもの育ちの姿に即してとらえることで あり,子どものよい面,変化した姿をプラスの眼でみること,その成長した姿を親と共に, 一つひとつ確認し,共通認識にしていく。それと同時にそこで積み残した課題,発達的な 課題などを明確にしてそれへの取り組みを確認することである。このことを家庭との関係 での核にしないと親は決して心を開いてこないことを強調したい。. 註 *1 堀尾によると「文化culture」は,「cultivate(耕す),すなわち,耕したものを身につけている, というのが,教養・文化という意味のカルチャー,人間の生活がほんとうに人間らしいものである かぎり,それは人間的文化です。そういう意味では,自然に手を加えるものであり,そして日常的 な生活と不可分のものとして文化を考える。」とされている(堀尾,1999)。 *2 そのことを指摘する事態は枚挙に暇がない。現象としては小学生にまで携帯電話が普及してきてい る,化粧品が幼児用や小学生対象のものが出回っているなどなど。これらを含めて構造的な問題と して指摘しているのが中西(2004)である。 *3 足立(2000)は朝食も夕食も一人で食べる子どもが確実に増えていると指摘している。とりわけ朝食 を一人で食べる子どもの中に問題が集中しており,一層深刻になっている。すなわち,それらの子 どもは朝夕とも日常的に一人であることが多い,空腹を感じる前に食べる,食事が楽しいと思えな い,食事は一人が楽しいと思っているなど,食が持つ最も人間らしい点がそぎ落とされていること などの現象として現れているのである。 *4 竹内(1998)は,現代の子どもの問題を心の問題として捉えるだけでは不充分であり,むしろ心とか らだの問題としてトータルに捉えるべきことを主張している。そのなかで,これまでのスキンシッ プをからだのぶつかり合いと捉え直すことを提起している。すなわち「日本の子どもの伝統的な遊 びは,おしくらまんじゅうにはじまり,馬跳びを経て,エスケンで卒業するといったものではない でしょうか。子どもはこのような身体接触を基本とする遊びのなかで,ボディ・コミュニケーショ ンの技量を身につけると同時に,それを基礎にして言語的コミュニケーションの技量を身につけて きたのです。長馬跳びはやりようによってはいじめに近いものですが,そうしたなかで子どもはか らだの弱い子どもをかばうことを覚えると同時に,他の子どものからだの発達をからだをとおして 知ってきたのです。そうした形で,子どもは互いにからだを確かめあい,ボディ・コミュニケー ションの仕方を覚えてきたのです 」(別のところで,竹内と共に座談会に参加した正木は宇都宮の 幼稚園での「じゃれっこ」遊びを紹介している。コミュニケーションの発達にとっても子どもがこ れらの身体をぶつけ合う遊びをしっかりすることの重要性が確認されているのである(竹内・正 木・中西・その他,1999)と述べている。 「 じゃれっこあそび」については正木(2000)など。なぜ, スキンシップでなくて身体接触とするかについて司会の竹内は「公的な空間には,立ち居振る舞い のルールがあることを教える必要がある・・・身体的接触と身体間距離の両方を考えないといけな. - 53 -.
(11) い」と指摘している。すなわち,人間と人間との関係のあり方の基本をこのように身体のあり方に 求めることができるとしているのである。 *5 この点に関連してコモ編集部編(2004)で扱われている「テレビを消したら何かが変わった-わた したちのノーメディアディチャレンジ」はとても興味深い。テレビをつけないノーメディアの生活 を一週間経験するという目標に向けてチャレンジする過程が取り上げられている。そこで如何にテ レビにとらわれているか,自分たちで時間を管理するとか家族でゆったり過ごすことの大事さを知 るなど沢山の副産物をえている。われわれの日頃の生活を見直す機会としても重要だと思われる。 たとえば,ノーメディアの生活2日目でテレビがない生活で発見したことを挙げている。①食事中 の会話が増えたこと,②食事中 ,「ちゃんと食べなさい」としからなくなったこと,テレビがあっ たから食べられなかっただけだった。③そして,最大かつ衝撃の発見は,私(母親)が今まで余り子 どもと遊んでいなかったこと。これらを挙げた上で ,「子どもはテレビ,私は読書(新聞・雑誌) という時間が多かったですね。そして最後に子どもが寝る前『明日はママと何して遊ぼうかな?』 と嬉しそうに眠りました」としている。これは,テレビの功罪を見事に指摘している。現代の子育 てにテレビがどっかり中心に居座っていることが当たり前になり,そこから子育てでほんの少し前 まで当たり前のようにあったであろう家庭での家族の過ごし方が大きく変化していることが伺え る。蛇足だが,このチャレンジで最大のガンは父親だったという事例が多く出されていることは一 考に値する事実である。 *6 例えばウンチの話などをすることは今まで考えたことがないという意見が多かった。しかしそうい う学生の中にいかに便秘気味の子が多いことか。それは何を物語っているのだろう。自分の身体を 無視した生活をしていることを指摘することが出来るだろう。このアンケートを実施したのは,将 来保育士や幼稚園の教諭になることを希望している学生である。彼女たちが近い将来,これらの現 場に出て行くことを考えたとき,大人としての自分の身体にもっと関心を持つ必要があると考えて 実施したアンケートであった。 *7 手指の巧緻性としても問題にしうるが,道具を使って外の世界へ働きかけていくことをここでは問 題にしている。現代ではそのような道具の操作がボタン一つで生活のあらゆる分野が操作可能にな りつつあることの是非も視野に入れつつこの問題を提起したい。 *8 筆者はこの点に関して竹内(1996)の次の指摘が重要だと考える。つまり ,「私たちはからだとし てこの世界に棲んでいる。精神だけの私というのはありませんし,もちろん肉体だけの私というも のもない。精神と肉体の統合したと言いますか,そういうからだとしてこの世界に棲み込み,そし て相手のからだに向かい合っている。それが働きかけ,相手に触れるということによって自分も, そして当然相手も変化する。そしてさらに変化が発展する。そういう行動の一部が話しことばであ る,というふうに私は考えます 。」その上で,柳田国男が『涕泣史談』の中で「近ごろはよく子ど もに,泣いてばかりいてはわからないからちゃんと話しなさいと言うけれども,しかし話せるくら いならば泣いたりはしないのだ」と,指摘していることを竹内は紹介している。すなわち「泣くよ り仕方がないという,その全身での表現を受け止めることがなかったならば,相手を理解すること はできない。その子が泣くより仕方がない状態を抜けだして,それをことばにできたとしても,泣 いた動機などは説明できるでしょうが,そのときの子どもの切迫感,人間的な矛盾そのものを,ま た古い日本語の言い方を使えば, 『 その身になって』受け取るというときはもはや過ぎ去ってしまっ ている。」というのである。 *9 日本の子どもたちの現状を分析することで,子どもの権利条約を日本の現実に即してどのように実 現させていくかを明らかにしている, 「子どもの権利条約 NGO・DCI 日本支部」副代表の堀尾(1999) は,わが国の子どもたちが“子ども期を喪失している”と分析する。すなわち,子ども期の喪失と は,彼らにふさわしい人間関係,コミュニケーション,そして,自分のことばと自分たちの文化を 失っているということである。その回復のためにこそ,意見表明の権利は,幼児期から不可欠であ り,要求を感情として,ことばとして表現し,それを通して新しい関係をつくり,自らの人生を生 き,社会に参加する主体となっていくと指摘するのである。. - 54 -.
(12) 文献. 1) 足立己幸(2000)NHK「子どもたちの食卓」プロジェクト知っていますか子どもたちの 食卓-食生活からからだと心がみえる-.NHK出版. 2) 荒木美知子(1994)乳幼児期の“グズリ”について-自己表現の手段の一つとして-. 乳幼児保育研究(京大乳幼児保育研究会),18,19-30. 3) 荒木美知子(2004)親育ち,子育ち-親にとって子どもとは-.大阪女子短期大学紀要, 29,49-57. 4) 子どもの権利条約NGO・DCI日本支部(The Recovery of Children inJapan)(1999)子 ども期の回復-子どもの“ことば”をうばわない関係を求めて-.花伝社. 5) コモ編集部編(2004)テレビに子育てをまかせていませんか?.SYUHUNOTOMOSYA. 6) 竹内常一(1998)少年期不在-子どものからだの声をきく.青木書店. 7) 竹内常一・正木健夫・中西裕一他(1999)座談会:荒れるからだと引きこもるからだ. 生活指導,536,18-31. ドラマ. 8) 竹内敏晴(1996)話すということ-朗読源論への試み.国土社. 9) 田中孝彦(2002)教育科学研究会再建五十周年記念シンポジウム:これからの教科研の 方向と担い手について-五十周年記念シンポジウムでの発言.教育,2002年11月号, 110-117. 10) 中西晋太郎(2004)若者たちに何が起こっているのか.花伝社. 11) 深谷鍋作(1974)家庭教育.新日本新書. 12) 堀尾輝久(1999)はじめに-子ども期の「喪失」から「回復」へ.子ども期の回復-子 どもの“ことば”をうばわない関係を求めて-The Recovery of Children inJapan, 子どもの権利条約NGO・DCI日本支部,花伝社,1-5. 13) 正木健夫(1982)からだの発達のゆがみと不調.日本体育大学体育研究所. 14) 正木健夫(2000)子どもの遊びと「脳の発達」.食べもの文化,282,24-31.. - 55 -.
(13)
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