氏 名 大 岩 幸 太 学位(専攻分野の名称) 博 士(畜産学) 学 位 記 番 号 甲 第 698 号 学 位 授 与 の 日 付 平成 27 年 3 月 21 日 学 位 論 文 題 目 丹沢山麓におけるシカ・サルに対する広域獣害防止柵の効果 論 文 審 査 委 員 主査 教 授・博士(農学) 岩 田 尚 孝 教 授・農 学 博 士 谷 口 信 和 教 授・農 学 博 士 安 藤 元 一 教 授・博士(畜産学) 小 川 博 准 教 授・博士(理学) 佐々木 剛 准 教 授・博士(理学) 松 林 尚 志 論 文 内 容 の 要 旨 シカ,イノシシ,サルなどによる獣害対策の一つとし て広域獣害防止柵が各地で設置されている(山梨県, 2007 ; 兵庫県,2010)。神奈川県でも丹沢山麓の市町村 に人里と山との境に広域に柵を設置する広域獣害防止柵 (以下,広域柵)が総延長 100km 以上にわたって山麓 に設置されている。獣害防止柵の防除効果にかかる研究 は,電気柵を用いたイノシシやサルによる農業被害抑制 (本田,2005 ; 藤田ほか,2009)やシカ侵入防止柵の開 発(新井,2008)など多くなされている。しかし,これ までの研究は農家が農地周辺に設置する柵を主要な対象 としてきた。行政が設置する広域柵については永田 (2009)が広域柵の維持管理問題を研究しているのみで あり,広域柵による侵入防止効果についてはほとんど研 究されていない。全国的にはシカによる被害が最も大き く,イノシシがそれに次ぐ。しかし神奈川県ではシカ害 に次いでサル害が深刻である。また,県内産業として農 林業の占める比率が低く,都市住民が多いという特徴も ある。 そこで本研究では神奈川県の丹沢山麓地域において, シカ・サルの生息状況,加害状況および広域柵による防 除効果を調べた。第 1 章では 1)神奈川県における獣害 被害実態と行政や住民による取り組みを概括した。同時 に,2)住民の獣害に対する意識と行政と住民が求める 要望を調査した。第 2 章では広域,集落単位の地域の特 徴をどのように獣害対策に反映させればよいか調べた。 第 3 章では広域柵の開口部がシカの侵入防止にどのよう な影響を与えているか検討した。第 4 章では広域柵のサ ル侵入防止効果を検討した。第 5 章ではサルの人馴れと 獣害との関わりを調べた。第 6 章ではこれらの結果を総 合考察し,獣害対策の方向を示した。 【第 1 章】丹沢山麓における獣害被害実態と住民の意識 1) 被害実態と行政の取り組み 鳥獣による全国の農作物被害金額は 2011 年度で 226 億円であり,シカが 83 億円,イノシシが 62 億円を占め る。我が国の経済規模からみると,被害額自体はそれほ ど大きなものではない。それなのに獣害がこれほど大き な問題となっているのは,獣害による影響が農作物被害 額だけでは判断できないことにある。 丹沢には推定生息数約 3,000-5,500 頭のシカが生息し ている(神奈川県,2012)。サルは丹沢地域個体群,南 秋川地域個体群,南湘地域個体群の 3 地域個体群が生息 しており,合計 23 群,推定生息数約 1000 頭が確認され ている。そのうち 18 群が農業被害を恒常的に発生させ ている(神奈川県,2012)。 被害の発生している各市町村は保護管理計画をもと に,実施計画案の作成や鳥獣対策会議等の設置し,追い 払いや柵の設置および住民への支援,適切な農地利用の 普及啓発等を行っている。神奈川県のシカ保護管理計画 をみると,被害指標となる被害面積,被害量,被害金額 の推移は一致していなかった。また,シカの捕獲場所で みても猟区外での捕獲は少ないことから,現行の保護管 理計画は林業をベースにした計画であり農業被害には不 向きであった。被害金額にかわる代替指標は現在のとこ ろない。サルの保護管理計画をみると,サル害では農業 被害よりも生活被害が目立った。サルの行動圏は林縁部 にあるので保護管理計画は生活被害を中心にしていた。 2) 獣害に対する住民感情のアンケート調査 行政で扱う被害額は,農家が本来得られたはずの収入 からの減収分のことであり,農家がそれを行政に報告す ること表面化する。このため,届け出されない被害は集 ─ 55 ─
計に含まれない。被害に対して行政が対策を行ったとし ても,目に見える対策でなければ申告しても何も変わら ない,面倒だから申告しないでおこうとなりがちであ る。また動物が荒らした畑や土手を修復するなどの被害 額では表現できないタイプの被害もある。体力的や心理 的なダメージなどの獣害に起因する耕作放棄も被害には 含められていない。獣害は農作物への被害であると狭く 考えず,地域への被害と考えることが必要だろう。すな わち,獣害対策は地域インフラの整備であるという発想 が必要である。 神奈川県の獣害問題は広域柵が設置してある山麓だけ の問題であるのか,獣害問題への考えの地域差をみるた め,厚木市の中山間地域と平地農業地域における獣害に 対する住民感情を 2009-2010 年にアンケート調査し, 1,462 件の回答を得た。 いずれの地域でも農作業への関わりの高い住民は野生 動物に強い「怒り」を感じるのに対し,農作業への関わ りが低くなると「かわいい,うれしい」と感じる傾向が 見られた。捕獲駆除については,中山間地域では農作業 に関わりの高い住民の賛成率が高まる傾向があったのに 対し,平地農業地域では逆の傾向がみられた。行政への 要望として,中山間地域では情報提供や資金・物品提供 など農地を守るために直接役立つ対策への要望が多いの に対し,駆除促進の要望順位は低かった。このことか ら,アンケートから判明した住民の求める要望と,行政 が行っている実際の獣害対策を比較すると,住民の要望 が反映されているのは駆除対策だけであった。 【第 2 章】広域柵の設置が各種の野生動物に及ぼす影響 広域的にみて野生動物の被害がどこで発生しているの かをみると,サルでは林地沿いを中心に出没しており, 近くに林地がある道幅 30-40m の道路は渡っていた。 サルの泊まり場も人里に近い林地にあり,一時的にその 場からサルを追い払うことはできても山の奥にサルを追 い上げることは難しい。シカ被害の場所は,サルに比べ 山側に近い林地と河川沿いのヤブで確認した。林地が パッチ状に続いている場所も被害を確認したが,林地か ら 100m 以上離れた平地では被害がなかった。イノシ シは林地から離れた被害はなかった。ハクビシンにおい ては林地からの距離に関係なく被害が発生していた。広 域柵が設置されている地域の集落環境調査では,農地柵 が設置されていた場所では獣道が少なく,林縁部から 80-100m 前後はなれると大型哺乳類の痕跡が少なく なった。このことから柵の設置やヤブ刈りは,林縁部付 近の農地を中心に行なうことが大切である。 獣害を引き起こす野生動物がどのように人里に侵入し てくるかを調べるため,広域柵が設置してある林縁部の 人里から山の中腹および山頂の獣道を調査した。獣道は 人里および山中に数多く存在しており,獣道から何らか の対策に結びつけることは難しかった。 神奈川県の県央地域(清川村),湘南地域(秦野市, 伊勢原市),県西地域(足柄市)において自動撮影カメ ラで動物撮影頻度をみると,県央地域ではシカが最も多 く,次いでサル,イノシシの順であった。秦野市ではシ カ,イノシシ,サルの順であって,伊勢原市でシカ,タ ヌキ,サル,イノシシ,アナグマなどの姿が確認され た。県西地域ではシカの出現率はほとんど確認されな かった。これは神奈川県の他地域と比べて低い値であっ た。このことから丹沢寄りの地域ではシカの生息密度が 高く,箱根寄りの地域では低いことがわかった。 【第 3 章】広域獣害防止柵におけるニホンジカの侵入防 止効果 神奈川県はシカ対策として丹沢山系の山麓沿いに 2002 年から 2004 年にかけて 83km の広域柵を設置し た。広域柵は多くの場合,山麓林と農地との境界に長 距離に設置されるため,道路や河川などと交わる場所で 柵が途切れて開口部が生じる。自動撮影調査と踏査の結 果から,広域柵の開口部は 2.0 箇所/km の割合で存在し ており,道路と河川による開口部が多くほぼ同数(各 0.8 箇所/km)を占めた。開口部のシカ通過頻度は,開 口部幅 3.0m 以下で有意に低くなった。柵の山側から農 地に侵入してくるシカは,開口部 1 箇所あたり 0.24 頭/ 日と推定された。山から里への移動は日没後に,里から 山への移動は早朝に活発となった。すなわち,農地への 侵入は夜間に行われており,侵入したシカは柵から最遠 2km の農地にまで侵入していた。しかし日没後と早朝 に開口部を逆方向に通過する個体も少なからずみられ, 人里から山側に動くシカは 37% で山側から人里に動く シカは 30% を占めた。このことより昼間に人里側のヤ ブに潜む個体が存在することが示された。以上のことか ら,広域柵はシカの侵入を完全に防ぐことはできない が,侵入頻度を低下させる効果を有していた。また,河 川由来開口部への対策が,道路由来開口部に劣らず必要 であることがわかった。更に,人里側に潜む個体を減ら すため昼間のシカ隠れ場所となる人里側のヤブ刈りが大 切といえる。 ─ 56 ─
【第 4 章】広域獣害防護柵におけるニホンザルの侵入防 止効果 神奈川県厚木市は 2009 年から 2012 年にかけてシカと サルを対象とした柵上段に電流が流れるシカ・サル兼用 柵を約 25km 設置した。電圧線が張ってある方を柵の 山側と定義し,その逆を人里側と定義した。 広域柵の自動撮影調査から,広域柵直近における人里 側と山側の撮影頻度をみたところ,2011-2012 年では撮 影頻度に差はなかった。このことから広域柵直近の調査 では柵沿いに獣道が作られそれを動物が利用していると 考えられた。 広域柵の維持管理について,広域柵の状態や周辺環境 の経年変化を踏査と聞き込みで調べた。広域柵の管理方 法は自治会ごとに異なっていた。倒木による破損は 0.6ヶ所/km の割合で見られた。自然災害による大規模 な修理を要する柵破損カ所は 1.5 カ所/km の割合で見ら れた。また柵基礎部分の土砂流出において将来的に倒壊 の危険性のある箇所は 3.7 カ所/km の割合で見られた。 柵メーカーの示す耐用年数は 16 年であったが,実際に はその半分の年数も満たないうちに多くの破損を確認し た。サルが柵を越えることのできる樹木が 78 本/km の 割合で存在したことから倒木および広域柵沿いの立木は サルにとっては開口部であった。 サル 2 群について,直接観察とラジオテレメトリー調 査から柵設置前と柵設置後の行動変化をみると,柵設置 直後の 2009-2010 年は,柵の無い開口部も多く,柵の両 側をまたぐように利用し,山側の使用も多かった。しか し 2010 年-2011 年の柵延長にともないサルの行動は柵 の人里側を使用する割合が増えた。柵が完成した 2012 年から現在においても人里側を利用する状況は変わって いない。広域柵のサルへの効果については 1)広域柵が 効果を発揮しているとするとサルを意図していない人里 側に閉じ込めたことになる。2)柵が効果を発揮してい ないとすると人を恐れなくなり,柵を自由に行き来し里 地を移動している。3)新しい集団が 2011 年に山側に確 認され山側に戻れないという 3 つの可能性が考えられ る。現状の維持管理体制では十分な効果は期待できない ので,広域柵を山間部から山際に設置し直す,柵沿いの 伐採を徹底する,枝折れによる漏電対策をとった柵の開 発などの改善が必要である。 【第 5 章】ニホンザルの人馴れ現象 野生動物の人馴れが及ぼす影響として,農業被害が発 生し深刻化している。最近では農業被害や人身被害だけ で無く,サルが屋根の上を走ったり,家の中に入ったり する生活環境被害も各地で報告されている。ニホンザル の人馴れについてサルが人から逃げる距離を逃走距離と して調査した。神奈川県の群れには加害レベルが 5 段階 で分類されている。加害レベルは数値が大きいほど,被 害が大きい。群れ間の加害レベルの違いから逃走距離の 関係をみると,加害レベルが高いほど逃走距離が短くな る傾向があった(加害レベル 5 の群れ平均 10.0m,加 害レベル 1-2 の群れ平均 27m)。次にサルの滞在場所別 (森林・人里)で逃走距離を調査すると,川弟群,煤ヶ 谷群,日向群のいずれについても,森林滞在時の逃走距 離(平均 19.0-33.0m)よりも人里滞在時の逃走距離 (平均 14.9-22.2m)が有意に短く,人里滞在時の方がサ ルに近寄れた。煤ヶ谷群において 6 年間の逃走距離によ る経年変化はなかった。調査者が武器となる棒を持った 時と手ぶらでサルに近づいた場合の逃走距離は武器とな る棒を手にしていた時の方が逃走距離が長くなる傾向が あった。以上のことからサルの逃走距離は,サルの加害 レベルと滞在場所に影響されることが分かった。森林内 で人里よりも逃走距離が短くなったのは予期していない 場所に人が出現したことがサルを強く驚かせた可能性が ある。 【第 6 章】総合考察 神奈川県では人と動物の軋轢を緩和するため広域柵の 設置を県や市町村で行ってきた。被害態様(森林被害, 農業被害,生活被害)は地域によって異なっており,被 害を発生させる動物種が異なるため状況に応じた対策が 必要とされる。行政が広域柵の対策を進めるには,設置 における土地の問題や維持管理など地域住民の協力が不 可欠である。現地調査から広域柵の設置で被害をなくす 効果は望めないが,シカに対しては人里側への侵入を半 分は防いでいたので広域柵の設置は効果があった。また 開口部幅を 3m 以下に狭くし,特に河川部の対策と人 里への定着を防止のためヤブの刈払いを行うことで効果 を向上させることができると考えられる。動物の出没場 所や環境調査では,シカ,サル,イノシシの被害や出没 は林地から 100m 前後で少なくなったことから林地に 近い場所から柵や草刈りなどの獣害対策を行なうことが 望ましい。また被害地周囲にある耕作放棄地や道路脇の 緑草帯の管理も重要と考えられた。シカ・サル兼用柵で は,人里側にサルを閉じ込めた状態と柵を自由に行き来 できる矛盾した状態であり,サルに対する広域柵の効果 は判断できない。そのサルの逃走距離を指標とした場 合,人馴れは見られなかった。広域柵の効果を向上させ るためには,広域柵と他の対策を併用することで柵の効 ─ 57 ─
果が向上するといえる。 審 査 報 告 概 要 本論文は神奈川県丹沢山麓にシカ,サル対策として設 置された広域獣害防止柵の効果と問題点を中心に検討し た。行政による獣害対策の基礎となる被害額について は,精度に問題点が多かった。地域ぐるみの獣害対策推 進の基礎として動物に対する住民感情をアンケート調査 したところ,職業などによる意識差が大きかった。現地 調査ではシカ,サルによる被害発生場所は林縁に集中し ており,林縁から離れた場所にはほとんど無かった。獣 道は林内に高密度に分布した。山麓で自動撮影された動 物種は地区によって異なっていた。広域柵には開口部が あるが,柵による侵入低減効果はあった。しかし柵の里 地側のヤブにシカが潜むことが問題であった。広域柵の サルに対する効果は不明であり,柵の側に樹木があると サルは柵を簡単に乗り越えた。サル群の人馴れ程度は, 加害レベルや遭遇場所の環境によって異なった。本研究 では獣害対策について新規性のある知見を得た。 よって,審査員一同は博士(畜産学)の学位を授与す る価値があると判断した。 ─ 58 ─