• 検索結果がありません。

岡田一次名誉教授の米寿を記念して

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "岡田一次名誉教授の米寿を記念して"

Copied!
20
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

ミツバチ科学

1

8(

3

)

:9

7

-1

1

6

Ho

n

e

yb

e

eS

c

i

e

n

c

e(

1

9

9

7

)

岡田一次名誉教授の米寿を記念 して

研究施設のガラス戸棚 の中に,風呂敷 に包 ま れた木箱が大切に保管 されている. この木箱に はアメ リカで造 られたロバー ト・マ ッケンゼ ン 型 の人工授精器が入 っている. これが

,1

9

49

年 (昭和

2

4

年) に新制玉川大学の発足 と同時 に

3

9

歳の若手教授 として赴任 した岡田一次博 士が,翌年の

1

95

0

年 (昭和

25

年)に小原園芳 学長 (当時)の快諾を得て ミツバチ研究に着手 し,学校経営の苦 しい状況下にありなが ら, ミ ツバチの品種改良のために購入 していただいた 人工授精器,その ものである. 玉川大学での ミツバチ研究開始 のあ らま し は,岡田博士 によって 「玉川学園学術教育研究 所所報5号」

(

1

98

4

年7月)に 「自然研究 にお もうこと」 と題 して記 されている.人工授精器 を ご覧になった小原学長 が

,

「こんな簡単 な道 具で,世界一を目指すアメ リカの蜂の改良が進 むのか.素晴 らしい大発見だ」と喜んで下 さり, その一言で大金を使 って弱気にな りかけていた 気持ちが一新 され,新 しい研究がスター トした と述懐 されている. さらに ミツバチ研究に先立 ち,世界の情報を得 るに至 った出来事 は見逃す ことができない.岡田博士 の初期の研究 はキノ コバェについてで (p.117業績集参照),あると きアイオワ州立大学のラフーン教授か らキノコ バェ論文の寄贈依頼を受 けた.戦禍を逃れて残 った大切な2セ ットであったが,その内の 1セ ッ トを進呈 した.そのお礼 と共に,同 じアイオ ワ州立大学の ミツパテ研究者であるパ ドック教 授を紹介 され,教授のお骨折 りによって

,1

951

年 (昭和

26

年)9月にアメ リカか ら4種の種 蜂の輸入が実現 したのである. さらにイギ リス のクレイ ン博士の就任によって再起 された国際 図1 小原総長に人工授精器を見ていただく 誌

Be

eWo

r

l

d

」の入手や国際 ミツバチ研究協 会 との繋が りができ,その ことは世界の ミツパ テ ・養蜂研究の実状を知 る上に多 くの情報を も た らして くれた. 岡 田博 士 が常 日頃話 され る中で

,1

95

5

年 (昭和

30

年)頃か ら始 まったローヤルゼ リーの ブームのきっかけを作 った重要な貢献を忘れる ことはできない.

1

959

年 (昭和

3

4

年)

4

2

6

日に朝 日新聞社 か ら発行 された 「アサ ヒグラ フ」の表紙 には,現在の天皇陛下の結婚記念の 写真が飾 られてお り,紙面 の多 くは 「皇太子御 結婚」の特集である.その

1

2

-1

3

頁に 「話 題の薬ROYAL JELLY」 と西 ドイツか ら輸入 された ローヤルゼ リー製剤が大 々的に紹介 さ れ,王台中のローヤルゼ リーの写真が岡田博士 によって提供 された.その後岡田博士のもとに は製薬会社関係者の訪問が相次 ぎ,わが国にお けるローヤルゼ リー生産の開始 とローヤルゼ リ ーに対す る科学的知識の普及が行われ,今 日に 至 っているのである. 岡田博士を中心 に着々と進め られてきた研究

(2)

98 州 側 ,JJ 人々棚 しん-紳 匝壷 = ROYAL JELLY 図2 ローヤルゼ リーの全面広告が掲載されたアサヒグラフ の成果 は,世界 的 に も認 め られ るよ うにな り, その実績 が評価 されて

,1

979

1

1月 に玉川学 園学術教育研究所 の一 つ と して ミツバ チ科学研 究所 が設置 され,初代主 任 に就任 した. 同時 に 国内で唯一 の ミツバ チの学 術雑誌 と して 「ミツ バ チ科学」 が

1

980

1

月 に創刊 された. 岡 田 博士 は 「ミツパ テ科学」 にニホ ン ミツバ チ, ス ズメバ チ関連 の論 文 を多数発表 した.特 に1巻 2号 の 「参考図書紹介」 の欄 に 「- チ ミツの洋 書」を紹介 し,その後3巻4号 の 「ミツバ チ人 工授精 の洋書」まで,39冊 の外 国図書 を紹介 し てお り,外国 での ミツパ テ研究 の内容 を読者 に 伝 えて いる.「ミツバ チ科学」誌 は多少 の発行 の 遅 れが生 じることが あ りなが らも, 岡田博士 の 意思 を継 いで, 1回 の欠号, 1回 の合併号 もな く年

4

回,現 在 まで

71

冊 目で あ る

1

8

巻3号 の発行 に至 ることがで きた.

1

9

85

年3月退任 され た岡 田博士 は玉 川大学 名誉教授 とな られ,本年9月 には米寿 を迎 え ら れ る. この意義深 い年 にあた って

,1

9

90

年 に 自費 出版 された 「ニホ ン ミツパ テ誌」 が玉川大 学 出版部 よ り再版 され, 改 めて多 くの方 々の 目 に触 れ る事 にな った.また本号 で は

,75

年 にわ た る研究業績 を紹介 し, さ らに岡田博士 と関係 の深 い匡=内外 の方 々か ら思 い出の メ ッセー ジを 多数 いただ き,素 晴 らしい記念号 とす ることが で きた.

1

9

49

年 に開 始 され た ミツバ チ研 究 の歴 史 は

,50

年 を迎 え よ うと して いる.ここ数年 問 の 間 に, これ まで4種 で あ った ミツバ チが7種 に, さ らに9種 に と,新 しい発 見 が続 いて い る.玉川大学 で もニホ ン ミツバ チ, そ してマル ハナバチ と研究 のテーマは益 々深 く, そ して広 くな って きて い る. 筆者 は

1

9

97

4

月か ら松香光夫教授 のあ とを 受 け, ミツバ チ科学 研究 施 設主 任 を拝命 した. これか らもス タ ッフ一 同,さ らに ミツバ チ科学 に関す る研究活動 を押 し進 めた い と, この記念 す る年 にあた り誓 いを新 た にす る次第 で あ る. (玉川大学 ミツバチ科学研究施設 吉田 忠晴)

岡田博士の長寿を願 って

国際 ミツバチ研究協会終身名誉会長

D

r

.EvaCr

a

ne

玉川大学名誉教授, 岡 田一 次先生 が このたび

88

歳 の誕生 日を迎 え られ る と伺 い,心 か らお 慶 び申 し上 げ る. 玉川大学 ミツパ テ科学 研究施設 が今 日まで発 展 し続 けて い ることは, これを設立 され た岡 田 博士 の高 い見識 と確固 と した構想 の賜物 といえ よ う. また, 博士 は

50

年 におよぶ ニホ ン ミツ バ チ研究 か ら論文 を多数発表 され, この ミツバ チ種 につ いて は誰 よ りも深 い知識 をお持 ちで あ ろ う. ニ ホ ン ミツバチの多様 な活動 を と らえた

(3)

99 膨大 な生態写真か ら精選 した ものを,多 くの書 籍 にまとめてお られるが,他 の研究者の依頼 に も快 く応 じて,貴重 な写真の転載を許可 されて いる.私が この温帯 に生息す る トウヨウ ミツバ チ種 に興味を持つ きっかけは,岡田教授か ら与 え られたのである. 教授 の ミツバチ研究業績 は世界か らその価値 を高 く認 め られ

,1

97

4

年 に国際 ミツバチ研究 協会

(

i

nt

e

r

na

t

i

o

na

lBe

eRe

s

e

a

r

c

hAs

s

o

c

i

a

-t

i

o

n)

の評議員 に任命 された. 私 は

1

98

4

3

月に ミツパテ科学研究所 (当 時)の招僻 を受 けて 日本を訪れた.岡田博士 の お宅で楽 しいひとときを持 ったのち,岐阜への 旅行 にご夫妻 も同行 して下 さった,岡田博士 は 偉大な タイムキーパーであ った. とい うの も, 岐阜か ら東京へ帰 る新幹線 の車内で,博士 はポ ケ ッ トか ら大 きな懐中時計 を取 り山 して, こう お っしゃった,"この列車 は3時 10分 ち ょうど に富上山の近 くを通 ります. この時計 を見て頃 図3 クレーン博士をお迎えして 合いにあなたに知 らせれば,あなたはシャッタ ーチ ャンスを逃 さず に富士山の姿をカメラに収 めることがで きますね''. 福岡をおとずれた記念 にとある方か ら置物 を いただいた. ひとりの知恵 のある翁 とその足 も との丹頂鶴

(

Cr

a

ne

)

の倭で,日本の長寿の象徴 だとのことであった.今で も大切 に している. 私の母 は107歳 まで幸せ に暮 らした.岡田博士 もいっまで もお元気で,楽 しい日々を過 ごされ るよう願 っている.

岡田博士 の米寿 にあた って

ポー ラン ド農業大学教授

Pr

o

f

.Dr

.J

e

r

z

yWo

yke

玉川大学名誉教授岡田一次先生が米寿を迎え られ,心 よりお慶び申 し上 げる. ポーラン ドは日本か ら遠 い国ではあるが,私 は岡田教授 と

1

95

0

年代 は じめか らお付 き合 い いただいている.当時玉川大学では ミツバチ研 究 に必要 なロシアの文献が入手困難 との ことで 図4 ご自宅のニホンミツパチの前で 助力を求 めて こられた.私 は出来 る限 りのお手 伝 いをさせていただいた.

1

97

4

咋初 めて訪 ETの機 会 を得 たが, ポー ラ ン ドの通貨 は両替で きず,手持 ちの米 ドル も非 常 に限 られて凶 っていた私 は,教授 の ご親切 な 申 し出に従 って ご自宅 に泊 めていただいた. 日 本の習慣 に くらい私 はさらに色々 ご迷惑をおか け したが教授 は寛人に許 して下 さった. 岡田教授が準備 して下 さった奨学金のお陰で 私 は日本国内の ミツパテ研究組織や養蜂家を訪 問 し,美 しい日本の景色 に も接す ることがで き た.その後 さ らに2回の訪 日時にも重ねて先生 宅 にお招 きいただいている. 玉川大学 ミツバチ科学研究所 (現研究施設) の設立 は教授 の大 きな功績であろう.教授 とそ の同僚により幾多の重要な科学的発見 と報告が

(4)

100 なされ, きわめて短期間の うちに玉川大学 ミツ バチ科学研究施設 は,一流 の重要 な ミツバチ研 究機関 として世界 に知 られ る存在 とな った.今 回再出版 された 「ニホ ンミツパテ誌」 には トウ ヨウ ミツバチについての多 くの知見がまとめ ら れてお り,教授 の ミツバチに関す る最 も重要 な 出版物のひとつであろう. 数多 くのこれまでの ご親切 に改めて感謝申 し 上 げるとともに,岡田教授 が充実 した,すぼ ら しい日々を過 ごされるようお祈 り申 し上 げる.

老 いて ます ます研究 を

国際蜂療保健蜂針研究会会長

教授

岡田一次教授 はE1本 の最 も卓越 した養蜂学 者, 農業昆虫学者であ り, 1950年以来玉川大 学 において創始 された養蜂学研究 は豊かな成果 を収め られました. また先生 は国際交流に熱心 で 30名 もの博士 を心 を こめて指導 され,世界 的に傑 出 した養蜂学者であることは誰 もが認 め るところであ ります . 1986,1996年の二度,私 は岡田教授夫妻を お訪ね し暖かいもてな しを受 けま した.幸運 に もその折,半世紀余にわた って教授が蓄積 され た昆虫学養蜂学 の保存資料,執筆年別 に整理 さ れた手稿や公文書類,年別 に箱 に区分 けされた 写真 フイルムや新聞記事 の切 り抜 き等を見せて 頂 きま した.先生 はここまで学問に全てを捧 げ て打ち込んでお られ る,私 はこの時の感動を永 遠 に忘れることはないで しょう. 岡田博士 の米寿にあたって,当市 の書家陳鳳 桐先生が筆をふ るった祝詞 を謹んで贈呈 し岡田 先生の ご健康 と長寿をお祝 いす るとともに,塞 蜂生理学で ノーベル賞 を受 けたフォン ・フ リッ シュ博士のよ うに老 いてますます盛んに研究 を 進 め られますようお祈 り申 し上 げます.

.n

3*ヰ

・.<

T3

P

.・

JL.一

J

.育-.メ

7・.,.

一.

"

謬 何

せ 首 串

令 阜

市 議

図5 房枝氏より贈 られ た献辞 (大意)米寿を迎 えられた岡EEl翁は東西の 研究の高 い峰を究め ら れ, その著作は有余種, 写真は数千枚,三十名も の博士を世に出し, 世を

付 キf

q

i:./ -J- ∴ ●. ‡

>

長 句

嘉命は南山の松にL-Eすは

あ 琴 泉 を

どである・

品 (訳 松本 みどり・ 本文とも)

S

HB

P 幅

交誼

50

初めての出会 い 岡田先生が米寿を迎え られ ると聞いて, もう そんなお年か と驚 いた. は じめてお目にかか っ たのは終戦直後で,わざわざ岐阜へ来 られ,今 度 ミツバチの研究をは じめたいか ら, よろ しく とい うご挨拶 だ った,かれ これ50年 も前 の こ

渡辺養蜂場

渡辺

とだか ら,先生 はまだ 30代だ ったはずである. それか らしば らくしてお弟子 さんが卒論 に ミ ツパテを取 り上 げるか らよろ しくとい うお手紙 があ り,若 い学生 さんが来 られた.今か ら思 う と,それが酒井哲夫氏で,氏 はその後,岡田先 生 の後継者 として立派 に大成 された.

(5)

「月刊 ミツパテ」のえに し 岡 田先生 との交 流 が特 に深 くな ったの は, 「月刊 ミツバ チ」 とい う雑 誌 を通 じてだ った. 「月刊 ミツバチ」といって も,今では知 らない人 が多いだろ うが, 昭和

2

3

年 に創刊 され, 昭和 45年 に廃刊 にな った世 に もユニークな雑誌で, 農林省北海道農業試験場の関 口喜一技官が編集 長だ った.発行所 は養蜂技術 協会,会長 は桑原 万寿太郎博士で,顧問には徳 田義信 博士が名を つ らねてお られた.関口さんは編集長 といって ら,月寒の農業試験場 に勤務す るかたわ ら, こ ういう月刊誌 の編集 をつづ けたのだか ら,その 苦労 は並大抵ではない.隔月 とか,季刊 な らま だ しも,月刊 というのは毎 日が激務の連続であ る. これでは余 りに関口さんが気 の毒だ というの で,昭和

33

年 か らは編集委員 とい うものを設 け,北大 の坂上昭一助教授 (当時),畜産試験場 の中野茂氏,岡田一次先生,それに私 の 4人が 委員を仰せつか った. しか し正直なところ, こ れ もせいぜ い寄稿 の回数をふやす程度で,余 り 関口さんの負担の軽減 には役立 たなか ったよう である.しか し岡田先生 だけは例外で

,

「ミツパ テ記」をは じめ意欲的な原稿をっ ぎっ ぎに寄せ られ, また ミツパテや花の写真を撮 って表紙を 飾 られ るな ど,その活躍 ぶ りは群 を抜 いて い た. アメ リカ留学の印象 その うちに私 はアメ リカのある研究所へ留学 す ることにな った.岡田先生がわが ことのよう に喜んで下 さって,向 こうに行 った ら, アイオ ワ大学 のパ ドック先生 にぜひ会 って, よろ しく 伝えて くれ とお っしゃった.先生 のお言葉 によ ると,パ ドックさんは恩師だそ うである.私 は ピッツバ ー グの メイナー ド研究所 を足場 に し て, ミネソタ大学のハイダ ック博士, ルイジア ナ大学のマ ッケ ンゼ ン博士, ウィスコンシン大 学 のファーラー博士, ワシン トンの国立養蜂研 究所のマイケル博士 らを訪問 したが,そのほか に前 々か ら一度お会 い したいと思 っていたアイ オワ大学 の ローゼ ンビュ-ラ-博士 (当時)を 図6 パ ドック博士(左枠内)から贈られた蜂群の前で 訪問す ることを思 い立 ち, 1962年 の 5月のあ る日, エイムズを訪問 した. アイオワ州 は見渡 す限 りの牧場 のつづ く農業州だが, ローゼ ンビ ュー ラーさん はさっそ く私 を養蜂場 へ案 内 し て,彼の ご自慢の珍品種を見せて くれた. 白眼 の ミツバチ, ク リーム色の眼の ミツバチなどが 巣牌の上 をゾロゾロ歩 き廻 っている光景 は,正 直なところ余 り気持ちのいいもので はない. い ずれ も眼が見えない系統だか ら,実用的には価 値 はないが, ミツバチの遺伝法則を追求す る上 か らは貴重な ものだ とローゼ ンビューラーさん はいっていた. 彼 と話 し込んでいるところへ,パ ドックさん がや って来た.すでに リタイア している好 々爺 で,何を聞いて もニコニコしている.岡田先生 の伝言 を伝えた ら,一瞬 目を輝か して, くれ ぐ れ もよろ しく伝えて くれ といっていた. 玉川大学での講演 日本へ帰 ってか ら,岡田先生 に一度ぜひ玉川 大学 に来て, ミツパテを専攻 している若 い人た ちにアメ リカの話 を して くれ といわれた,晩秋 の午後だ ったと記憶す るが,大学へ出かけてゆ き,教室でカラースライ ドを使 ってアメ リカの 学会や業界 の話 を した. もう30年以上 も昔 の ことだか ら,当時,私の話 を聞いたみなさん も 今 はひとか どの学者や社会人にな ってい られ る はずである.講演を終わ ってか ら,岡田先生 に ぜひ家 に寄 って くれ と引 っぼ られ,奥様 の手料 理 のす き焼 きをご馳走 にな って しまった.私の 話 を聞いて くれた若 い人たちもいっしょで, と

(6)

102 て も楽 しい一夜だ った ことを覚えている. ブカ レス トのア ピモ ンデ ィア 昭和40年 (1965)の 8月,ルーマニア政府 か ら招待状が来て, ブカ レス トでア ピモ ンデ ィ アをやるか ら,ぜひ来て くれ という. ち ょうど いい機会なので,前後2か月 ヨーロッパの大学 や業界を見て廻 ることに した. ブカ レス トへ着 いて出席者名簿を見た ら, 日本か らの出席者 に は私のはかに岡田先生 の名前がある. これは, これはと驚いて, さっそ く先生のホテルへ出向 き,一緒 に食事 を した りア ピェクスポを見学 し た りした. 大会初 日には, アメ リカで親 しくな った-イ ダックさんやハ ンブル トンさんに も岡田先生 を 引き合わせが,-イダックさんは岡田先生 の論 文 を読んでいて

,

「ああオカダ,あなたの研究 は すぼ らしい. カイコをローヤルゼ リーで育てた ら,抜群の効果があ ったので したね. あれは画 期的な もので した」 と絶賛 していた. 先生の偉大な功績 その後,名古屋のア ピモ ンデ ィアにおける先 生 の活躍 とか, イギ リスのエヴァ ・ク レー ン女 史 をわざわ ざ拙宅 まで連 れて来 て頂 いた こと (昭和59年)など,思 い出は尽 きないが,残念 なが ら紙数が尽 きた. 最後 に一言 だけ結論 めいたことをつけ加えよ う.岡田先生 の学問的業績 は,上述 のよ うに, 最高の硯学ハイダックさえ絶賛す るくらい偉大 だ った. しか し先生 の偉大 さはそれにはとどま らないと思 う.先生 のより大 きな功績 は,多 く のす ぐれた ミツバチ学者を育て られたことだ と 思 う.酒井哲夫,松番光夫,佐 々木正己,吉 田 忠晴などという俊秀が ミツバチ研究所 という組 織の もとにユニークな研究 を展開 しているのは 壮観であるが, これはすべて岡田先生が手塩 に かけて育て られた人材 と組織である. この ご功 績 は不滅である.先生の一層 のご健康 とご多幸 をお祈 りしたい.

亡父の代か らの御親交を頂 く

岡田先生が御元気で滋 に米寿を迎え られた事 は私 は勿論養蜂業界 に取 って これ程喜 ば しい事 は御座 いません.先ず御祝福 を衷心 よ り申 し上 げます.私が先生 と出会 う事 がで きたのは遠い 過去の ことで亡父,清水混完 に 「今 日は玉川大 学 の蜂の大先生 の所 に連れて行 く」 と言 われ訪 問 しま した.丁度 日の短 い秋 の午後でありま し た.駅 より線路沿 いを歩 くと沼に当た りその辺 か ら坂道 にな り登 りつめた所 に木造 りの校舎が あ りま した.滋で先生 に亡父が 「俺の枠です. 宜 しく-」 と紹介 して くれたのが最初であった と記憶 しています.校舎 の下 には時折 トンネル を通過す る電車の乳 る音が身 に しみま した.先 生 はその時5-6名 の生徒 が 自分 の椅子を工作 で造 っている様 を案内 して くれま した.岡田先

埼玉養蜂株式会社 清水 進一

生日 く 「この学校 は小原校長が 自給 自足の精神 で何事で も生徒 自らが進んでや る気概 を起 こさ せ る事 を徳育 としている云 々-」 と諭 して くれ ま した.私 はこの時学問の原点 はここにあると 敬服 しま した. 図 7 埼玉養蜂 (秩)ローヤル会館にて

(7)

昭和

43

年亡父が念願の ローヤル会館 (養蜂 資料館)を開設 し,そこで自作の書画展を開き ました. この時岡田 ・松番両先生 はご純理 して 遠い所を御来館下 さったのだろうと,当時の写 真を見て今思い浮かべて居 ります.その後亡父 の叙勲記念誌 「吾がみつばち人生」の発刊 に当 たり序文に先生が 「日本養蜂の実力者, 日本養 蜂協会の幹部 として土台石のように活躍されて いる.個人的にも格別の御指導を仰 いだ異色の 大先輩であ る」 と御誉 めの言薬 を頂戴 しま し た.然 し末文に 「花を求 めて働 き続ける合理的 な ミツパテ社会への深い愛 これが総ての原動力 である-」 と結んであります.先生 は晴に人生 は蜂か ら蜜を搾 り取 るばか りでな く野 に於いて 花粉交配 し結実 させ巣に帰 りては蜜を貯め女王 蜂 を中心 に一群 の平和 と繁栄 を願 って止 まな い, ミツバチ社会の愛情,即ちこれが人間愛の 社会であると諭 されています.それ以降亡父 は 何時か らかは知れないが何事 も分か らない事が あった ら蜂に聞け 「蜂 は神であり師である」 と 言 う様 にな りま した.亡父 も私 も先生 を尊敬 し,また蜂屋 として近 しくお付 き合いさせて頂 いている事 を誇 りに思 って居 ります. 時は流れて日本が高度経済成長期を迎え蜂蜜 の需要が増大 しま した.昭和38年遂 に蜂蜜を 緊急輸入 し同

4

4

年 には中匡は り

6

,

800

トンと な り 「レンゲ

「アカシア」が主力で,その生産 の実情を知 る為翌年庶州の交易会に参加 しま し たが,そこでは生産状況を知 る事 は出来ません で した.蜂蜜の増産 と貿易拡大及び技術交流を 目的 として北京総公司に再三申 し入れを しまし た.当時北京 まで行 く事 は至難の業でありまし た.そこで私 は㈱組合貿易を交渉の窓口とし, 遂 に3年 に して念願 が叶 い全 日本 はちみつ協 同組合で岡田先生 を顧問 とし快諾を得て,我が 国最初の 「養蜂技術交流訪中団』を5名で組織 しま した,同48年8月14日羽 田空港 よ り香 港へ,それよりは列車にて深酬経由で広州駅 に 午後3時半頃到着 しました.す ると北京か ら電 報で 「す ぐ飛行機 に乗れ」 との指示が駅 に届い ていたので,あわてて上海経由で北京に向い夜 の9時半 に到着 しま した.そこで御要望のあっ たイタリアン種系の新女王蜂15匹を中匡卜養蜂 学会の馬先生 にお渡 し致 しました. 翌 日招待者の中国土産畜産総公司余光副総経 理を表敬訪問 し今後の日程を打合せ,訪問地を 北京 と上海 に定 めま した.毎 日午前中 は総公 司,養蜂研究所北京市養蜂関係各方面の方々と 世界 ・日本の養蜂事情や蜜蜂の品種蜜源等の状 勢 について会議を し,学術的な話になると岡田 先生の力に頼 るばか りで した.午後 は故宮博物 館を始 め万里の長城 ・貞陵 (地下宮殿) ・天壇 公園 ・顧和園 ・刺繍工芸館等を見学 しました. ドイツ製の日動車で毎 日送迎 され晩餐会では北 京 ダックを始め珍味ばか りで,岡田先生 は上席 につ くので遠慮 しがちで したが緊張の中にも楽 しい学習が出来た様子でありま した.北京空港 は当時は広々とした牧草欄 にコンク リー ト建て の事務所 とグランド式の滑走路一本で飛行機を 腕時計を見乍 ら飛来するのを待 った時代で した. 上海では日曜 日に少年宮 に案内された.9時 出発で暫 くす ると道路の中央で旗を振 っている のが見えま した.す ると車 は右折 し道路の両側 に日の丸を振 っている人波であ りま した,岡田 図 9 上海,少年宮で子供たちと

(8)

104 先生 は車の横 に居 った私 に 「どうしたのか ?」 と問い掛 けられ,私が 「歓迎のようですね」 と いうと先生 は 「国La'並みだな」 と言 いお互 いに 顔を見合せました.門の巾には熱烈歓迎の其赤 な看板があ りそ こで車 を降 りると小学5年位 の子供が一人づっ手を携えて我 々を会場 まで案 内 して くれま した.子供の代表 は 「私達が して いる仕事を日本の子供達 に伝えて下 さい」 と挨 拶 した.少年宮 は区単位 にあり絵画,音楽,戻 劇,工作,電気,通信,射撃等あらゆる分野に 渡 って活動 し,勉強の為総ての設備,指導がな されていて,皆 自由に使 い後 は整理 し保管す る.それ らの道具類 は一個 も紛失盗難 はないと の事でありました.将来 この子供達が大人にな った ら素晴 らしい国になるであろうと感激 した もので した. この訪中では先生の御指導 と御協 力により技術交流の使命を果す事が出来て皆感 謝致 して居 りました. その後中国 との国交の正常化 と共に日本 も蜂 針療法の発展の兆 しがあるので今より 11年前 に私 は連票港市蜂療医院長の房枝博士を知 り日 図10 自宅に房枝博士をお迎えして 本に招待致 しました.その時に玉川入学の岡田 先生 とお会 いしたいとの申入れがありま した. 既に先生の名声は広 く中国の養蜂学会に於いて 知れ渡 っていたのです.房博上は玉川大学で研 究設備や蜜蜂を見学 され,その足で先生の御家 庭を訪問 しやさしい奥様 の手厚い歓待を受けた 事をよく話 されます. 米寿を迎え られた先生への思 い出は尽 きるこ とな く私の胸の中で蘇 ります. 今後 とも益々岡田先生 ご夫妻の健康長寿を祈 念致 しましてお祝いの言葉 とさせて頂 きます.

岡田先生 とローヤルゼ リー

このたび岡田先生 には,米寿をお迎えにな ら れ,心か らお喜 び申 し上 げます.先生 とは, ミ ツパテ科学研究所の主任をされる以前か ら,義 蜂生産者の研究 グループで何回か会合を した記 憶があ ります.その頃か ら養蜂生産物の健康食 品 としての効用については興味がありいろいろ の面で ご指導をいただきました. 去 る1988年 1月 10日の ミツバチ科学研究 会より帰宅後,何 とな く発声が不 自由になり, 病院で診察を受 けま したが,喉を無浬はしないよ うにとのことで, しば らく無言の生活を しまし たが一向に回復の兆 しな く, 7月鳥取医大で精 密検査の結果,左声帯 に腫痕形成 とのことでさ っそく翌 日よりコバル ト療法が始 まりま した.

鳥取県養蜂組合 末次 晃

医師 として も治 るか治 らないかはやってみなけ ればわか らないとのことで大変職 りない話であ り,一応 は最悪の場合 も覚悟 していましたが, ちょうどその頃岡田先生 よりローヤルゼ リーは コバル ト治療の副作用に効果があるとのご親切 なお便 りをいただき,医師 とも相談の上,生 ロ ーヤルゼ リー10gを-チ ミツに溶か して毎 日 服用することに しました.コバル ト療法は1週 間に5回, 連続 35回実施 されましたがその間 何の副作用 もな く最後 まで普通食でガンを征圧 することができま した (喉のコバル ト治療 は熟 のため食道が腫れ食事が通 らな くな り中断する のが通常 のようです).担当の教授 も希 に見 る 体質 と不思議 そうに話 されま したが,小生 はロ

(9)

-ヤルゼ リーの効果 と確 信 しています. その 後,5年間 は毎月 1回検査のため通院 しま した が,再発 もな くその後 プロポ リスを服用 して健 康 な生活を送 っています. あの時岡田先生か ら の指導がな くローヤルゼ リーを服用 していなか った らどうなっていたことか.現在,小生 もロ ーヤルゼ リー ・プロポ リスを販売 しなが ら先生 の ことを思 い出 し感謝 いた しています. いっまで も健康 に留意 され業界のため長生 き して下 さい.小生 も今年 は喜寿を迎え友人 よ り 次のよ うな文面の掛 け軸を贈 られ,そ うありた いと願 っています. 福寿綿々長似海 春風浩 々気如河 (釈) (大意)幸福と長寿は海と同様に千年も続き,春の 風が浩々として吹いて気持ちを清い流れの川のよう にしてくれる.

ミツパテ生態写真家 岡田一次先生

元玉川大学 出版部 ・アマチュア養蜂家

田口

迫太郎

お庭 にニホ ンミツバチの巣箱がおかれている 玉川学園のお宅で,数冊のアルバムを拝見 した ときの ことが忘れ られません. すべて先生 ご自身が撮 られたニホ ンミツバチ の生態写真には,一枚一枚 に,撮影の場所 と年 月 日が凡帳面 に書 き込 まれていて,先生が写真 に語 らせよ うと してお られ る夢 と真実が,素人 目にもはっきりと読み取れ るまでに仕上 ってい ま した. にもかかわ らず,先生 は, なお も完成度を高 めるために,第三者の助言 を期待 してお られ る ようで した.思 いつ きを二,三並べた記憶が残 っていますが,私家版 『ミツバチ記』 と,それ につづ く 『ニホ ンミツバチ誌』 という名著誕生 の息吹 にふれることがで きた感銘 は一入です. 『ニホ ンミツバチ誌』が,このたび玉川大学 出版 部か ら再版 されて, より多 くの読者 に出会える 図11 イチゴハウスでカメラを構える ことはご同慶のいた りです. 思 い起 こせば

,

岡田先生 に最初 に執筆 してい ただいたのは,筆者が駆 け出 しの編集者 だ った ころ,昭和

31

(

1

956

)

刊行 の 「玉川 こども 百科」全

1

00

巻の中の一冊 『みつばち』で した. 紙の質 も印刷の程度 も, まだ戦後の混乱 を引 き ず っていた時代,岡田先生 が写真部 とともに, 2年 余 にわた って苦心撮 影 した,写真 で綴 っ た, 日本では じめてのまとまった本ではなか っ たで しょうか.先生の長 いご研究歴 と深 い学識 については, いまさら述べ ることもありません が,筆者が存知上 げているだけで も,先生の蜜 蜂 の生態写真歴 は,すで に40年 を超 えてお ら れるのですか ら,先生 の著作の

いで,写真が語 りか けて くる力 の大 きさが うなず け るわ けで す. 昭和

50

(

1

9

75

)

に玉川選薯 の一冊 として 書 いていただいた 『ミツパテの科学』の後書 き に,先生 は 「もし私たちの ミツバチ研究の成果 が学界で認 め られ,少 しで も世 のために役立 っ ているものであれば,今後 は世非 レベルを目指 して大 いに発展 したいものである」 と書 いてお られます.その後二十年余 を経て,先生 の膝下 か ら育 った豊富な人脈 (酒井哲夫,竹内一男, 松香光夫,佐 々木正 己,吉 日忠晴,小野正人, 叶斬 純他 の諸先生) は今や,アジア養蜂研究 協 会の主要 メ ンバーとして情報発信 に活躍 され る

(10)

u16 -万で世界的な研究舞台で,堂々 と発言 してお られる躍動ぶ りは,毎号 の 「ミソバチ科学」誌 上で拝見 しているとお り.先生の二十年前の願 望 は,今 日み ごとに現実の ものとなってお りま す.岡田先生のます ますの ご長寿 とご研鎖を, そ して玉川大学 ミツバチ科学研究施設の ご発展 を併せてお祈 りいた します. 筆者 は,残念なが ら,岡田先生 に,直接 ご教 授頂 く機会にめ ぐまれませんで したが,優れた お弟子 さんたちの親 しい指導 を仰 ぎなが ら,お かげさまで,庭先で,アマチュア養蜂を楽 しみ, ミツバチを介 して自然 との触れ合いを深めてお ります. その意味で,岡田先生 の孫弟子 を自任 してお りますが,お認 め いただ ければ幸 いで す.

岡 田先生 とニホ ン ミツバ チ

岡田一次先生 が ご壮健で米寿を迎え られま し た. ミツバチの とりもつ縁で思 いがけな く先生 の ご知遇を戴 いた者 として,心か らお祝 いを申 し上 げ, これか らも益 々お元気で ご活躍のお姿 を見せて下 さいますようお願 い します. 京都でニホンミツバチの講演があるか ら君 も 来ないか というお誘 いを戴 いて喜んで参加 しま した.野々垣補遺氏が ご一緒で した.会後お茶 の時に 「ところで岡田先生 の ミツパテの科学 に 雄蜂の幼虫でテ ン トウムシを育て るということ があ りますがその学生 さん はどなたですか

,

とお尋ねす ると

,

「それは私 です」と野 々垣氏が 言 われて,俄 に若 い教授 と学生 というお二人の 懐か しい時代が蘇 った.「た しか特許 を とられ たとい うことですが, もうか りま したか

,

「さ っぱ り駄 目だ ったなあ

,

」 と話 は続 いた.「夜が 更 けて疲れて くるので- ばい飲みた くなるので すが,先生が甘 い もの好 きなので, ア ンパ ンを 買 って こい といわれてガ ック リした

.

」 とい う 話 は実感があった.先生 の

い もの好 きは後 日 談があるが略す る. 先生が席を立 たれたとき, ニホ ンミツパテ誌 の話 になり,野々垣氏が 「この後先生 がほっと された ら困 るので次 の ことを皆 で相談 して い る」 と言 われた. さりげない言葉であったが, 師弟 とい うより仲のよい親子のよ うな情がかん じられて,岡田先生 のまわ りにあたかい人 の輸

京都府養蜂組合

野 口 耕司

が取 り巻 いていることが見えるような気が した. 岡田先生が情熱をこめて回 りの人々に接 しら れたか らこそ生 まれた人の輪である.玉川の研 究の柱をニホ ンミツバチに据え られたのは,岡 田先生 の卓見であ った.新 しい発見が次々と玉 川 で生 まれて いる. まだ まだ未知 な分野 も広 い.岡田先生が初めて京都へお見えにな ったと き,私 の家にニホ ンパテがいたので来ていただ くことにな った.平木二郎 さん,岡本俊輔 さん, 小林常員 さんなどニホ ンミツバチに縁 ある人達 に集 まって もらってお迎えを した.二段箱で各 階に縦長の巣門をつけたのがあった.暑 い日で 上の巣門の回 りに扇風蜂が出ていた. 岡田先生 はいきな りその前 の土 に ドカ ッと腰 を落 として脱みつけるようにカメラをのぞいて い られた.凄 い迫力であった.科学者の正体み たり, というか堂 々たる姿であった.後で伺 う と,ニホ ンバチは巣門に後 を向けて扇風す ると い うことになっているが,総ての蜂がそ うであ るのか調べた ものはない. ということであった. その ときの写真 をみ る と 5匹 は正規 の姿勢 で真面 目にや って いたが3匹が違 う方 をむ い て義務的に羽を動か していた.巣箱の一つにヤ ブカラシに包 まれて 1m程先 の小 さな隙間か ら セイ ヨウ蜂の盗蜂が盛んに出入 りしているのが あった.曲が りくね った通路の奥の巣箱のなか を盗蜂が どうして見つけ,仲間を誘導 している

(11)

のか理解で きかねたので岡田先生 に伺 うと 「音 だよ羽音」と言 われた.よ く分か らなか ったが, その後1月 の玉川研究会 で羽音 とコ ミュニケ ーションの関係 を測定器 を使 って解 り易 く解明 した発表があった, なるほどこういうことか, 107 と肺 に落ちた. ミツバチ科学研究所 は研究施設 と名を変えて 世 に大 きく認 め られる存在 とな りま した. これ を生 み出 し育て上 げ られた岡田先生 に改めて敬 意を捧げます.

岡田先生 の思 い出

岡田先生 との初対面 は1961年 2月 17日で ある.千葉県養蜂協会ではこの頃,春の総会に 講 師 を招 いて養蜂研修会 も同時 に開催 して い た.小生 も千葉県 に転飼 していた関係で総会に 出席 して,先生 の講演を聞 いたのが最初の出会 いである.1960-61年 はローヤルゼ リーブー ム到来の頃で,生産者 はローヤルゼ リー多収の 技術,採乳時間の問題,保管方法などわか らな いことが一杯あ った.先生 は学生 を3人 くらい 連 れて,何冊かの本を持 って きて外国の例 を出 して ローヤルゼ リーについての解説 を して くれ たが,苦言 の多 い講演 だ ったよ うに覚 えて い る.それで も懇親会の折 には小生遵若 い者 (当 時36歳) は岡田先生 を囲んで夢多 い ローヤル ゼ リーの問題点 について ご教授 いただいた こと を思 い出す. 1961年 頃 は,ナ タネ蜜 が年 間 1群 3缶 ∼4 缶採れて も,1缶 2400円 ぐらいだ ったので養 蜂経営 は楽 にな らない. ローヤルゼ リー1gは 金 1gと同 じ相場 という噂 にひかれて ローヤル 図12 ニホンミツバチの巣をうかがう

小野養蜂場

小野

保-ゼ リー生産 に養蜂経常の活路を兄 いだそ うとし た時代であった. 先生 はローヤルゼ リーについて最初か ら甘 い 言葉 は少 な く,苦言ばか り多か ったように思 っ ている.それで もその ことが現在の ローヤルゼ リー500億 円の市場 といわれ るまで大 きく発 展 し,40年近 くも続 いて きた原因の一 つであ ると信 じている. 岡田先生 は,北限のニホ ンミツパテを観察す るとい うことが あ った.1963年 7月 28日の ことである.秋 田県太 田町の藤原敏雄氏 (故人) と二人で青森駅か らお供を したことがある.む つ市大湊駅か ら案内人 に したが って山に入 って いった ら木の空洞 にニホ ンミツバチの巣があっ て大事 に守 られていた.後 日岡田先生 の本 に, この巣が北限のニホ ンミツパテの巣である, と 書 いてある.小生 にとって も記念のニホ ンミツ パテにな った. その後 も何 回か岩手 に来 て いただいて い る が, 二ホンミツバチのスムシとか,最高貯蜜量 はどれ くらいか,など岩手 に来 たときは養蜂家 達みんな集 まっていろいろお話がで きた,先生 がおいでになるのを仲間達 みんなで楽 しみに し ていた ものである. 1996年 5月 23日,吉 田忠 晴先生 と中村純 先生が北国のニホ ンミツバチ研究のため,ひと つの巣か ら数匹ずつでよいが捕獲で きないか と いう案内があった.普通 ニホ ンミツバチは岩手 にも青森 にもいるか ら簡単 なことだが,北国の ニホ ンミツバチの研究 とい うのであれば,岡田

(12)

108 先生 と見た北限にいる下北半 島のニホ ンミツバ チを是非研究材料 と して使 って欲 しい と思 っ て,下北半 島横浜町養蜂業沢谷昭四郎氏 に依頼 してニホ ンミツバチの巣 を探 していただいたが 見つか らなか った.今 は山の木 の空洞 も伐採 さ れて巣づ くりの環境 も悪 くな って きているので, あの岡田先生 と見た北限の ミツバチの子孫達元 気 に巣づ くりしているだろ うか と心配 して る. 1964年 9月 5日, 岡田先生 と四国徳島市山 口喜一氏を訪問す ることにな った. このときも 秋 田県太 田町藤原敏雄氏 と3人であった.ロー ヤルゼ リーをた くさん採 るためにはどうすれば よいか とい う問題 は常 に我 々養蜂業者 にはあ る. この頃小生 は,一群 あた りの乳量 は他業者 よ りも少ないと思 っていたので,た くさん採 っ ている業者 について勉強 したいということを先 生 に相談 していた.山口喜一氏 は剣山山麓 の何 か所かに蜂場 を設置 していて,環境 のいい採乳 - ウスの中で仕事 を しているのを見て大変勉強 にな った.当時 は末だ採乳方法等 については情 報公開 されていなか った時代だ ったので深 く感 謝 している.四国地方 の旅行 はこれが最初で最 後 にな っている. 岡田先生が玉川学園内に住んでお られた折 に は時々参上す ることもで きたが,数年前 か ら相 模原市 に転居 されたので遠 くな ってち ょっと不 便を感 じている. 岡田先生 と長 い間のおっ きあいか ら, ミツパ テは花粉媒介等 日本の農業 にとっては大切な昆 虫であ り,-チ ミツ, ローヤルゼ リー, プロポ リス等,人の健康に役立つ ものを生産 している のだか ら, そのために もみんなで もっとた くさ ん花 を作 って ミツバチが喜ぶ環境 を作 っていか なければな らないとい うことを教 わ ったような 気が している. 先生 も米寿 を迎え られた と伺 いま した.おめ で とうございます. これか らもミツバチのお話 をいっまで もお聞かせ下 さいますよう念願 して います.

ロー ヤル ゼ リーの創 製 期

およそ40数年前, フランス, ドイツなどヨ ーロッパ先進諸国で ミソバチロ-ヤルゼ リーが 人体 に対 して特効薬的な可能性を秘 めていると 話題 にな り,我が国で も 「不老長寿 に効果あ り」 とマスコ ミに誌 に大々的に取 り上 げ られ多面的 に深 い関心が もたれつつあ った.卒業後NHK 山形 に勤務 して2年,その職務 にも慣れて来た ある日,岡田教授 (当時)か ら一連の速達便を 受 け取 った.「今,世界的なスケールで重要 なこ とが起 きつつある. この大事 な仕事 は君 に しか で きない.現職を辞 して この事業推進 に参画 し て欲 しい.」との内容で,その後 も数次

亘 る強 い勧誘 をいただ きこの仕事 に賛同 した. その重要 な事業,それはカル ピスKKの創始 者で当時三 島食品工業 (秩)の社長であった三

三島食品工業 (

秩)

小畑

博美知

鳥海雲氏がかねてより人類 の健康増進 に寄与す ることが終生 の念帽であるとの強い理念の もと に幅広 く食品の研究開発 に力を入れ, ローヤル 製剤 について も外国よ り早 くか ら入手 して強 い 図13 三島雲海氏夫妻 と

(13)

IjAJL、の もと, その検討 を進 めていた. しか しこ れ ら輸入品 には満足がで きず, ローヤルゼ リー に関す るすべての面 か ら根本的 に しか も徹底 し た解答 を引 き出 したい との強 い願望 の もと岡田 教授 を中心 に東大 な ど多 くの研究機関 とタイア ップ したプロジェク トチームを組 み, その事業 を スター トさせた. まず手始 めに各種 の分析 に今 日す るため起源 の正確 な ローヤルゼ リーの採取 を行 う.当時, ま った く

中模索 の状況下 にあ った採取方法の 確立,将来 に向けての量産技術 の検討開発 (移 虫後 の時間別採乳塁 を含 む)などを初期 のメイ ンテーマとし,途中野 々垣禎造氏 も参加,岡田 教授 の厳 しい指導 の下 に この事業 が スター トし た.幸 い玉川大学 で は早 い時期か ら ドゥリッ ト ル民法 による女王蜂養成法 をほぼ完全 に確立 し てお り, この技術応用 によるローヤルゼ リーの 生産 に伴 う諸問題 は予想以上 に早 く完成す るこ とがで きた. この間,岡田教授 は 「人間 はウソ をつ くが ミツバ チは正 直, その生態を見極 めて 習性を充分 に応用す ることが最大 のポイ ン トで ある. この研究 の成功 が養蜂業界 の発展 につ な がれば喜 ば しい限 り」 と常 に厳 しい指導,激励 をいただいた. しか しま もな く全国的に ローヤルゼ リーの大 ブームとな り, あ る一 派 は移虫後

2

4

時間採乳 は特別貴重であると商業上 の差別化 を図 り,当 時純金 の取 引価格並 に法外 な価格 をつけるなど 悪徳商法 も横行 した. このよ うな非常 に混乱 し た時期 に も岡 田教授 は 「正 しい行為 は必 ず勝 つ」 と固 い信念の もとに自説 を押 し通 した. 現在,我が国の ローヤルゼ リー消費量 は世界 で最多量 を示 してお り, アジア諸国 をは じめ と した我 々の技術移転 による開発途上国の経済 向 上 に も役立 っていることは感銘深 い ものがある 「キ ミーそれ は違 うヨ」 といろいろな場面 で 指摘 をいただ き

,

「オヤ ジさん

「イ ッち ゃん

と我 々仲間で は呼 び合 い

40

数年 の長 さに亘 り 指導 を賜 った岡田先生 の米寿 を心 よ りお祝 い申 し上 げ, どうぞお元気 で多 くの弟子 の活躍 に ご 期待下 さい.

岡田一次先生 との接点

第1話

62-40-22

これ は昔話 をす るために何年 前 かを逆残下式 で,私 の年齢差である. この頃 私 は大学2年生 だ った.今 は自然保護 で ご活躍 中の柴 田敏隆 さんが横須賀市立 自然博物館 に勤 務 されて いた頃,柴 田さんの紹介で横須賀 の野 比海岸 の 自然観察会 に参加 した ことがある.当 日の海岸 は春 とい うのに寒風 が吹 いてたよ うに 思 う. この 日の指導者が岡田一次先生 だ った. 海 の観察会 になぜ ミツバ チ先生 なのかわか らな か ったが, 自然 を愛 し, 自然 に学ぶ とい う先生 だ と思 った.真面 目で,面 白い話 を して下 さる 普通 のお じさん と見 えた.

白梅学園短期大学 近藤 正樹

第2話 私 が 白梅短 期大学 に就職 したの はそれか ら 12年後 で あ る.篠原圭三郎先生 とい うムカデ の先生 か ら 「卒業生 でア リの勉強 を したが って いる者 がいる」 とい うことで玉川大学 の 1年生 進藤正男 さんを紹介 された. ミツバチで はな く ア リをい じくりまわすだ けで, どうや って卒業 研 究 をす す め るの か が私 の興 味 で もあ った. 「ローヤルゼ リー」 を食 べ させ るとア リの生殖 虫 (特 に雌 ア リ)が育 ちやす くな るはずだ」 と 彼 は言 った. ローヤルゼ リーの成分 の うち,敬 量 で機能的な物質 があれば発育 を促進す るメ ッ セ ンジ ャー と して の意 味 もあ るだ ろ う. しか し, タ ンパ ク質 の少 ない甘露 を常食 としている

(14)

110 ア リに このよ うな高 タンパ クの物質が与 え られ たな らば,健康優良児 (っ ま り雌)が育っ に違 いない.後者 の考 え方 は,昔 の粗食 の 日本人 に, 孫 太 郎 虫 を飲 ませ た り,鶏 卵 を飲 ませ た り し て,健康 を増進 させたの と大差 ないことになる. 結果 と しては, ローヤルゼ リーを与 え られた 幼虫が生殖虫 (哩) にな り易 いとい う現象 は肯 定 された と思 っているが, ホルモ ンや フェロモ ンのよ うな機能が備 わ って いたか否か は確 かめ ず に過 ごして しま った, とにか く御利益 の大 き い高価 な物質 を 自前 で供給 している組織 こそ, 岡田先生 が造 って育 てた ミツバチ科学研究所で あ ったのだ.先生 は研究者 と事業家 を兼備 した 方 だ ったのだろ うか. 第3話 1977年 とい うと,ち ょうど 20年前 の ことで あ る.第8回国際社会性昆虫学会議 (オ ランダ の ワ-ゲニ ンゲ ン) に出席 した私 と松本忠夫 さ ん,安部琢哉 さん とが帰国後,坂上昭一 さん と 山根爽- さんに呼 びかけて,休眠中の 日本地 区 会 の再興 をす ることにな った.会鼻 を募 ってみ ると,大手筋 の教室玉川大学 があ った.一般 に い う教室 と ミツバチ科学研究所 とい う人材 プー ルがあ り,皆 さんが ミツバ チやマルハ ナバ チと い う甘 い生活を している蜂 を研究 して いたので あ る. その頃 はポー ラン ドで野生 の ミツパテの 話 を聞 き, マルハ ナバチの蜜 を恐 る恐 るなめた 経験 と重 ね合わせて,興味があ った.私 は ミツ バ チを直接研究対象 に した ことはない. しか し 解剖 に しろ,神経系 の研究 に しろ,人工授精 の 研究 に しろ, ア リの研究で は見習 うべ きことが 多 い.国際学会 に出 るたびにア リ屋 と ミツバチ 屋 の間 を ウロ ウロ歩 き回 る癖 がつ いて しま っ た.「ミツバ チ科学」をいただ くに及んで,仲間 にな りきった気分 に もな っている.酒井哲夫 さ ん,松香光夫 さん,佐 々木正 己さん,吉 田忠晴 さん,小野正人 さん-・と第 1線級 の学者 を育 て て来 られ た のが 岡 田先 生 とい う こ とに な る. 質 ・量 ともに岡田先生 の偉業 に学ぶべ きと感 じ 入 っている. 第 4話 年賀状 は昭和63年以後 いただ いて いる.初 め は私が書 いたための返礼 だ と思 っていたが, このたび手紙類 を整理 してみた ら, その前年 か ら 「突然 のお願 いで恐縮」 とい う手紙がでて き た. これまた10年昔 の ことである. ミツバチ の巣箱 に出入 りす る気 にな る奴 ア リにつ いての 問 い合わせである.私 は大先生 に頼 まれた こと で気 をよ くして何か と返事 を出 し続 けた. そ し て 「ミツパテ記」や 「ニホ ンミツバ チ誌」 な ど を いただ くよ うにな った. 岡田先生 に憶 えてい ただいた ことが うれ しい. それに して も野比でお会 い した ときには先生 は46歳, 玉川大学 に着任 されて 6年 目とい う ことにな る.その とき

,

「若 い研究者 の礼儀」な ど堅 い調子 の話 を伺 った ことを記憶 している. その先生 か ら著書 をいただ ける身 にな った こと は本 当 に嬉 しい. こん な こ とを思 い出 しなが ら, この依頼原稿 を考えてみた.おや,私 の話 「先生 との接点」は10年 ごとに発展 しているで はないか. 先生 の歴史 の後半40年 を,私 な りに飛 び飛 びに拾 って米寿 の記念 に したい.次 の10年 に はどんな接点が待 っているのだろ う. また, この機会 を与 えて下 さった編集委員 に も御礼 を申 し上 げたい.

新昆虫」での出会い

三重大学生物資源学部昆虫学研究室 松浦 誠

岡田一次先生 の名前 を初 めて知 ったのは,今 か らもう40年余 も昔 の ことであ る. あ らため

(15)

て数えてみると,私が小学5年生 のときだか ら 1956年であった. 当時 「新昆虫」 という名前 の昆虫関係の月刊 誌が,北隆館か ら出版 されていた.内容 は,良 虫全般 にわた っていたが,現在の 「昆虫 と自然」 よ りもやや専門書過 ぎて,難解な部分が多か っ た. しか し,昆虫関係 の図鑑や書籍が乏 しか っ た時代 なので, その頃昆虫の採集や飼育 に夢中 にな っていた小学生か ら高校生 くらいまでの少 年 の多 くは, その雑誌 が店頭 に並 ぶのを待 っ て,立 ち読みに出かけた.私 も写真や図をなが めた り,巻末のムシペ ンなどを拾 い読み して, 毎月,書店でその本 と出会 うのが楽 しみであっ た. しか し,小学生 の身では, いっ も立 ち読み だけで買 うことはなか った. ところが, その年 の10月号 に 「オオスズメ バチの習性- ミツバチ保護 の立場か ら」 と題 し て,岡田先生の記事 が巻頭 に載 っていた.内容 は, この世界最大のスズメバチに関す る経過習 性,栄, ミツパテの被害,人の被害,防除法 な どの項 目があって,7頁 にわた っていた. オオ スズメバチについて, これだけ詳 しい記述 は初 めてであった. 小学生 の私 にとっては, これ らの記述 は難 し い部分が多か ったが,中身を全部読 まない うち か ら, この号だけはどうして も手元 におきたい と思 った.そこで,急 いで家 に帰 り,親 に頼ん で本代 を もらって再 び本屋 に戻 り,す ぐに買 っ て帰 ったことを覚えている. そこに書 かれていたオオスズメバチに関す る 記事内容 は,その後何度 も読 み返 し,文章 はも とより写真や表の配列 まで, ほとんど暗記す る ほどにな り,いまで も脳裏 に深 く刻 まれている その頃,私 はオオスズメバチに対 しては異常 な執着があった. というのは,その2年前 に, 札 幌市 の円山公園 で昆虫採集 を して い る最 中 に, オオスズメバチの巣 のそばを駆 け抜 け,怒 った集B]に攻撃 されて体 中を刺 された.体が麻 挿 したように動 けな くな り,九死 に一生 を得 る 体験であった.北海道で は現在で もオオスズメ バチは非常 に少 な く,私 にとってはこの時がオ オスズメバチとの初 めての出会 いであった. 図 14 内外の研究者を自宅に迎えて 蝉のように大 きな体,激 しい攻撃性 などには 圧倒 されたが,その一方でなん とも凄いハチが いるものだ と子供心 に感心 して しまった.それ 以来, このハチの地下王国の様子がどのように な っているのか知 りた くて,親 に内緒で何度 も 現場 を訪れた.2度 と巣へ近寄 ってほな らない と厳 しく注意 されていたか らである. しか し, オオスズメバチの生態の知識がなか ったので, 巣へ近寄 るたびに攻撃 されては森の中を逃 げ回 り,結局,巣 を掘 ることもないまま,冬が訪れ すべてが雪 に埋 もれて しまった.その後,高校 1年 の時に, 夏休みのほとんどをこの-チの追 跡 に費や して とうとうオオスズメバチの巣へた どりつ き, しば らく巣 の付近で観察を続 けた. そ して,秋 にな って初めて独力で掘 ることがで きたが, この時 も数 ヶ所 を刺 されて動 けな くな り,山中で夜を過 ごした.その時 は巣を採 る前 にも,採 った後 に も,上記 の 「新昆虫」を取 り 出 し,岡田先生のオオスズメバチの記事 を何度 も読み返 した.それは,私 にとってスズメバチ 研究の 「バイブル」的存在 として,表紙 はす っ か り擦 り切れて しまった今 も,大切 に本棚 に納 まっている. その後,私 は趣味 として も本業 として も,今 日までスズメバチの研究 を続 け,そのかたわ ら ニホ ンミツバチやセイ ヨウ ミツバチ も30数年 飼 い続 けている. この間,岡田先生か らは, いろいろとご助言 をいただいた り, ご自宅 に もお伺 い して ご指導 を受 け,お互 いに研究者 として もお付 き合いを いただいていることは,私 にとって この うえな くあ りがたいことと思 っている.

(16)

112

岡田一次先生の ご長寿をお祝 い して

岡 田先生 には父 (丹 治)の代 か ら私 の長男 (隆太) まで3代 にわた って ご指導 いただ き, 心か ら感謝 しています. このたび米寿をお迎え にな られた ことを知 り,誠 におめで とうござい ます. どうぞ,末永 くお元気で ご活躍賜 り,蜂 界 に生 きる私たちを, ご指導下 さいますよ うお 願 いいた します. 私 の学生時代 の強い印象 はなん といって もロ ーヤルゼ リーに閑わることです.私の養蜂人生 はローヤルゼ リーの創成期か ら始 まりま したの で ローヤルゼ リーの国際的な健全な発展を!摘う 者 の一人です.今 日世界屈指 のローヤルゼ リー 消費国 としての 日本が世界 に誇 るべ き実績をあ げるに至 ったことは本当に夢のようですが, こ こ数年 の現状を見 ると,決 して健全 とは言 い難 いのが残念です.我が国で ももっと生産量 をあ げて,本当に価値のあるローヤルゼ リーの存在 をア ピール していかな くてはいけないのではな いで しょうか.先生, どうぞ ご指導 をお願 いい た します. 平成4年 4月 7日に私 た ちの名古屋市養蜂 組合が創立

45

周年 を記念 して岡田先生 をお迎 え して記念講演会を開催で きたことは,私 にと って生涯忘れ得 ない思 い出のひとつです.幸 い 愛知,岐阜,三重,静岡の養蜂家 の皆様を中心

(

樵)養蜂研究所

井上

敦夫

に遠 くは埼玉,大阪,奈良,長野か らご出席 い ただき,盛大 な集 いになったことは感謝 の気持 ちで一杯です.私 は岡田先生がお元気な うちに ぜひ愛知へお越 しいただき,大勢 の養蜂家の皆 さんの前で ご講演いただ く機会を もてればと思 っていま した.私 たちの養蜂組合 の 25周年記 念を理 由に,勇気 を出 して,町田市 の先生 の ご 自宅へ直々お伺 い してお願 い したのですが,先 生か らOKの ご返事 をいただいたときは,長年 の夢が果たされた想 いで感慨無量で した.それ は長年 の蜂界の夢,願 いであったのではないか と思います. 岡田先生が戦後 まもな く玉川大学で ミツバチ の研究を始め られた頃,愛知 の安城市か らミツ バチが玉川へ送 られた ことを,当時 このお世話 を された神谷 さんか らお聞 き した とき(1981 年)以来,ぜひ一度,愛知県で先生 の ご講演を と思 っていたので した. 1985年 に名古屋 で開催 された第30回国際 養蜂会議 を記念 して 日本で初めての ミツパテ切 手が発行で きた ことも忘れ られないことのひと つです.岡田先生 のお気持 ちがニホ ンミツバチ がデザイ ンに登場す ることにあったと後で風の 便 りに知 り,岡田先生 のニホ ンミツパテへの限 りない愛着 に感服せざるを得 ませんで した. 岡田先生, どうぞいっまで もお元気で,そ し て私 たちを ご指導下 さい. 図15 国際養蜂会議 (名古屋大会)で 図16会議を記念して発行された切手

(17)

今 こそ岡田哲学 を世 の中に !

まず持 って,岡田先生 がお元気でお過 ごしの ことを心 よりうれ しく思 います.時代 の流れ と は本当に早 いものとつ くづ く感 じます.思 い起 こせ ば私 が大学 4年 の時 だ った と記憶 してお りますが, ち ょうど先生 が還暦をお迎えにな ら れ た折 り昆研 の 4年生 で相談 を してお祝 いの 記念品を贈 る計画をたて ま した.皆で少 々のお 金 を出 しあって菊の花の盆栽 を贈 る事 に しま し た.お祝いの宴席を奥様 に大変苦労をかけ (毎 度のことですが)先生 の ご自宅で行 うことに し て,私が百合が丘 まで買 いにいってまい りま し た.4年生一同はどれほど喜んで下 さるか期待 を して, さっそ く先生 にお渡 し致 しま した.先 生 の感謝 の言葉 は 「あ りが とう.で も,わ しゃ, キクは嫌 いです」で した-.その時だ ったかど うか定かではあ りませんがかな り宴会が盛 り上 が り,我 々同級生の十八番の岡田先生 へ贈 る, 例 の (いっちゃんはね, ア ンパ ンが大好 きほん とだよ-)の歌が飛 出 し (この歌 は,我々は気 にいっていたのですが,諸先輩 には人変不評で いつ も苦笑 をか っていま した./Jtd=.はいつ もニ コニコ してその歌 を聞いてお られま したがどう 思 っていたかは,今 もわか りません),ついには 先生のお宅のカラカ ミを破 って しまう仲間 も出 てまいりま した.先生 もその時, カラカ ミに大 きく 「男」 と書 いた ものを見せま した.今振 り 返 って見 ると先生 も,そ して我々 も大変若 く情 熱 が あ った ものだ と懐 か しく思 い山す ととも に,我 々は我々 としての帯春 の悩み,先生 は先 生 としての中堅教授 としての苦悩がそこにはあ ったような気が します.今では,楽 しい思 い出 の一つです. 岡田先生 と私 の御付 き合 いは他の同級生 より 少 し長 いお付 き合 いです.家業が養蜂業 という 関係 もあって,一年生 の頃か ら当時工学部 にあ

(

樵)下鳥養蜂園 下鳥 大作

った研究室や御 自宅 に出入 りさせていただ きま した.先輩諸氏が労作で先生 の御 自宅の庭 にツ ツジの木を植 え, その後 ご苦労 さん会を先生 の お宅でや らせて戴 いた会がありま した.私 も呼 んで戴 き,労作 は先輩方 におまかせで飲み食 い ではりきった思 い出 もあ ります. 先生 の授業 を受 けた学生 の多 くが感 じたこと ですが,当時では大変ユニークな授業で,物を 教わ る事 のみの教育 を受 け,あま り物事 をtコ分 で考 える訓練を受 けていない我々学生 にとって は不 可解で分か りに くい授業で した.崎には学 園の庭 に出ての勉強で, ウメの木の下 に行 き, 先生 は学生 に尋 ね ます.「この木 は何 の木 で す ?」.学Jl=_は答えます.「ウメの木です」.先生 はお っ しゃいます.「本 当に ウメの木 ですか ? どうして これが ウメなのですか ?」.この辺 にな るともう学生 はついていけな くな って しまいま す.先生 は常 にこういう方法で 自然の見方, 自 然 に対す る謙虚 さ.学問 は疑問か らは じまるこ と,科学す る心等 を身を持 って教えて下 さいま した. ヒメジョンとハル ジョンの違 い, ニホ ン タンポポとセイヨウタンポポの違 い等 も今思 う と懐か しい教材で,花を見 る度,岡田先生の事 や授業,学生生活が心 に浮かんで きます.小原 囲芳先生 がお っしゃっていた 「教育 とは卒業後 の思 い出ゾ」 という理念を受 け,実践の場で学 生 にその研き念をたたきこまれた岡田先生の授業 や,小原先生 の玉川教育 は,今 EL 社会 に山て 苦労 してみると初めて理解 もで き,懐か しくも 思 い,明 日への活力に もな ります. ともす ると競争社会で,正直者が馬鹿をみ る 今の世 の中.不正が横行 し,人間の助 け合 いの 心が乏 しくな り,希望や夢を もてな くなった子 供や大人が大勢 いて,全員が万年欲求不満のよ うな物質優先の世界において,ふ っと,ふ りか

(18)

114 図 17 学生たちと蜂場で え って見 ると,岡田先生 に,そ してその授業 に, 考 えかたにとって も心 の安 らぎを覚 えます.岡 田先生 は ミツバ チの世界 に大変貢献 され,研究 の業鏡 や,本 を含 めた出版物 は多数 あ り, そ し て現在 も研究 に取 り組んでお られ るお姿 はまっ た く頑 の下 が る思 いです. そんなお忙 しい先生 の毎 日に,大変 とは思 いますが,ぜひ先生 の科 学 す る心 や 自然 にたいす る物 の見方,考 え方 を ま とめた本 を書 いて戴 けた らと思 います. 先生 の生 き方がまさ しくそ うであるよ うに, 先生 が常 に口になさる 「何事 に も, ピュアーで な くて は,人生 は ピュアーでな くて はいけませ ん.」の言葉 こそが今 の世 の中を生 き,改革 して い く為 に一番必要 な指標 で はないで しょうか. 学生時代,今だに残念 だ った し申 し訳 なか った 思 い出 もあ ります.2年生 の時で したか,研究 室 で 3群 のセ イ ヨウ ミツパ テの イ タ リア ンの ゴール デ ン種 を入手 しま した.先生 に呼 ばれ 「この蜂 は君 に任せ るか ら管理 す るよ うに」 と 言 われ ま した.農場 の一部 に置 いて管理 を しま したが,蜂 に刺 され ると全身が揮 くな って しま う体質 もあ り充分 な管理 を しないまま蜂群 をだ めに して しまいま した. ま った く情 けない話 で す.せ っか く先生 が期待 して下 さったのに と, 今 で もくや しく思 い出 します.今であれば少 々 養蜂 に対す る知識 と技術 もあ り,体質 も蜂毒 に 対 し強 くな っているので きっと良 い結果 が出せ たのにと思 います.先生, すみませんで した. 卒業後 は幸 いに2年 間,研究室 に助手 と して残 らせていただ きま した. ち ょうどテ ン トウム シ の人工飼育 を ミツバチの雄 蜂児 を使 って行 う研 究が盛んにな って きた時期 で私 も勤務後,毎晩 遅 くまでテ ン トウムシのエサ替 えをや った もの です.毎 日,飼育終了 して帰宅す るさい先生 に 電話 を入れ るのが 日課 で した. あま り遅 いと先 生 は私 の健康 を きづか って くだ さり, その時の 言葉で また次の 日もがんばれたよ うな気 が しま す. 先生 は当時, 目が真 っ赤 に出血 す ることがあ りま した.そ うす ると先生 は目をおさえ

,

「また 目がパ ンク しま した.パ ンク しま した

.

」とお っ しゃいます.新宿 の病院 にす ぐに行 かれ,数 日 で出血 がひいて きます. そんな健康状態がかえ って, ご白身 の健康管理 に気 をお付 けになるよ うにな って, いま米寿 をお迎 えで きるのか も知 れ ません.本当に喜 ば しい限 りです. また. そ の陰で,子供 みたいに純心 な先生 を支 えて こら れた奥様 の御尽力の賜物 と も思 います. どうか これか らも御二人,末長 くお幸せ にお暮 らし下 さいます よ うお願 い申 し上 げます.

岡田先生 と- チ ミツ

(

礼)全国はちみつ公正取引協議会 相 田

由美子

岡田先生 が米寿 を迎 え られた こと,誠 におめ で とうございます.先生 に初 めてお会 い したの 紘,昭和50年 (1975)で した.存 じ上 げてい る先生 の紹介 によるものです.生物学 (植物学) 出身の ものの見方 と,昆虫学 や農学部 の立場 の 違 いを教 えていただ き, ミツバチに関す る全般 杏,詳細 にわ た って 自 らご指導 いただ きま し た.養蜂学 の一歩 と して,蜜源植物 を中心 に, 玉川学園周辺 の柵,林 などを歩 き, カ ラシナ, レンゲ, ミカ ン, ニセアカ シア, ク リな どを求

(19)

めて,写真を撮 り,都内の トチノキの場所 まで も教えていただ きま した.花粉 の重要性や,北 海道 の 自然,満州 の ことな どの話 を聞 くにつ け, いかに学生時代や卒業後 の勉強を しっか り されたか, またどんなにか熱心であ ったかをっ くづ く敬服 した次第で した.専門分野では,文 献 をた くさん備え られ,常 に新 しい情報の必要 性 も説かれてお られま した. その後,私 は,先生 の ご推薦で (礼)全国は ちみつ公正取引協議会が,ハチ ミツの品質向上 のために検査全般を行 うことにな り勤 め始め, 状況 は少 し変化 しま したが,現在 に至 ってお り ます.昭和

51

(

1

9

76)

には

3

月には,玉川 大学農学部昆虫学研究室 で研修を受 けま した. ミツパテ,養蜂一般,花粉分析,化学分析など について,当時のスタッフの皆様 に暖か くご指 導を受 け,学生時代 に戻 ったようで した.5月 には学生実習で,校内の巣箱か らの採蜜実習に 参加 させていただ き,初 めて蜜蓋をナイフで切 り取 り,遠心分離器 を回 し,臆過 したハチ ミツ と出会 いま した.採蜜を体験 し,採蜜直後のハ チ ミツの香 りのよさと,採蜜時についてきた ミ ツバチに刺 された痛 さは,強烈な印象 となって 残 ってお ります.

22

年 の間 には,ハ チ ミツに関す る様 々な問 題,新 しい検査法の開発,品質の判定法, ミツ パテ飼育上の問題,蜜源植物の減少 など,困難 な問題が多々あ りま した. しか しそのたび,覗 状に甘ん じることな く将来 につながる展望のあ る考え方で ご助言 いただけた ことは本当にあ り がた く思 ってお ります. 常 に,科学者の目で,毎 日の生活を観察 され, ハチ ミツの重要性,何千年 も続 いて きた根底 に あるのは, ミツパテ生産物 の中ではやはりハチ ミツであるということを忘れてはいけないとい うお考えを示 されま した. ニホ ンミツバチにつ いて も研究を進め られま した. 今後 とも,健康 に留意 され, いつまで も,お い しい,品質のよいハチ ミツ生産がで きるよう 見守 っていただきたいと思 ってお ります. 今回はこのよ うな機会 を与え られたことを感 謝 いた します.先生のますますのご健勝をお祈 りいた してお ります,

「ニホ ン ミツバ チ誌」 の発刊

元玉川大学 ミツバチ科学研究施設主任

酒井

哲夫

岡田先生 のニホ ンミツバチに対す る関心 と愛 情の深 さは, 日本人 として,その在来種 ミソバ チであ るところか ら当然 といえ るか も しれな い, 特別であった.

1

952

年研究室第 1匝I卒業 生大栄 申氏 に依頼 して宇和島 (愛媛県)か ら 1 群 のニホンミツバチを送 って もらい, セイ ヨウ ミツバチと隔離 出来 る学 内の西南 の端のクヌギ 林 に置 き,観察 を始 め られた. この群 の働 き蜂 や雄蜂を形態学的特徴を計測す るために供試 し た論文 も発表 された. 玉川大学では.百科事典を次々発行 していた 時期で写真部の職員 と共 に, 日本各地 を回 る機 会を活用 して, ニホ ンミツパテの写真 も撮 り始 め られた. その うち, 2眼 レフの角形 カメラを 使 って ご自分で盛んに ミツバチの生態写真を撮 られ るよ うになった. プロ顔負 けの作品が出来 るようにな り,写真部 の職員達 も驚 き 「ミツバ チの写真 については,先生 にかないません」 と 兜を脱 ぐに至 った. 北 は青森の下北半島か ら南 は鹿児島の大隅半 島に至 るニホンミツパテ行脚を繰 り返 された先 生 の観察,撮影 には竹内一男教授 (現文学部) もよ くお供を して助手を務 めた.カメラも 1眼 レフの高級な ものに,だんだん とグ レー ドア ッ プ して先生 の撮影の腕 は, いやが うえにも上昇 していった.米寿を迎え られた現在で も,毎 日

図 1 8 今春再刊行となった 「二ホンミソバチ誌」の 表紙 ( 右)の写真を撮影 ( 兵庫県美方郡温泉町井上 にて 1 985. 8. 25) のように 「 最近, カメラが重 くな ったよ」 と言 いなが ら,近 くの野や川へ昆虫を追 って出掛 け てお られる先生である

参照

関連したドキュメント

しかしながら、世の中には相当情報がはんらんしておりまして、中には怪しいような情 報もあります。先ほど芳住先生からお話があったのは

○菊地会長 ありがとうござ います。. 私も見ましたけれども、 黒沼先生の感想ど おり、授業科目と してはより分かり

C :はい。榎本先生、てるちゃんって実践神学を教えていたんだけど、授

・私は小さい頃は人見知りの激しい子どもでした。しかし、当時の担任の先生が遊びを

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま

 講義後の時点において、性感染症に対する知識をもっと早く習得しておきたかったと思うか、その場

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな

生育には適さない厳しい環境です。海に近いほど