この御旅所は、かつて長浜城内であった場所に位置しており、現在地の東を流れる水路は、 かつての長浜城の外堀にあたる。長濱八幡宮の管理地として、江戸時代初期に神輿堂が建て られたのがその始まりである。 神輿は、八幡宮から宮町通りを経て大手門通り に入り、大手橋の東手前で片町通りを南へ向か い、妙法寺門前で西へ曲がり、八幡町通りを南に 行き、次の角を西へ向かい、瀬田町通りから北国 街道に出て北へ向かい、札の辻で再び大手門通り へ出て西へ曲がり、御旅所についた神輿は 15 日 の夜まで神輿堂に安置される。 13 日の午後 1 時には、出番山の若い衆から選ば れたクジ取り人が長濱八幡宮に参会し、クジを引 いて曳山狂言の順番を決める「籤く じ取り式」が行わ れる。町内と八幡宮の行き来は、金棒引きを先頭 に、負担人がクジ取り人を従え、各山組特有の意 匠を凝らした扇子「招き扇」を頭上に振りながら 掛け声をかける若い衆がこれに続く。八幡宮では、 一番山を引き当てるため、クジ取り人を景気づけ る若い衆の「ヨイサ、ヨイサ」の掛け声で、神前 はしばし騒然とした空気に包まれる。 【籤取り式】 【御旅所】 【神輿渡御】 図 神輿巡行経路 実線矢印:渡御(13 日) 波線矢印:還御(15 日) 長濱八幡宮
13 日夕刻からは、曳山の舞台上で初めて狂言を行う「十三日番」が出番山の町内で行わ れる。役者の化粧や本衣装が整い、曳山の舞台も整えられると、若い衆や中老、役者親や家 族、親類らに見守られながら、緊張した面持ちの子ども役者が堂々と見得を切り、大きな拍 手喝采を浴びる。 なお、自町内で行う狂言を「自町狂言」という。自町狂言は、13 日の「十三日番」、14 日 の「登り山」の前、16 日の「後宴狂言」で行われ、下記の図に示すとおり、町内の各所で行 われる。 図 自町狂言の行われる場所(13 日:十三日番、14 日:登り山の前、16 日:後宴狂言) 旧河路家住宅 旧四居家住宅 黒壁ガラス館本館 長浜旧開知学校 長濱八幡宮
曳山の巡行する通りには、京町家の流れを汲む伝統的な建築様式の町家が多く残されて いる。 「旧四居家住宅」は、長浜の町家の中で最も古く、近畿でも最古級の町家と推定されるこ とが、京都府立大学大場教授の調査により明 らかにされた。外観は間口 5 間半と一般の商 家より大きく、板葺き屋根には卯建が上がっ ている。現在の建物は、平成 20 年(2008) に復元されたもので、現在は湖北観光情報セ ンターとして運営されている。 また、「旧河路家住宅」は江戸末期に建て られた町家で、醤油の製造卸問屋として栄え た豪商河路家の邸宅であり、現在はレストラ ンとして活用されている。表屋造りと呼ば れ、内部に水琴窟を配した中庭、奥庭を有し ている。 また、曳山の巡行路には、明治の近代建築 物も所々に位置している。 大手門通りと北国街道が交差する札の辻 には、明治 33 年(1900)に建設された旧百 三十銀行長浜支店、現在の「黒壁ガラス館本 館」が建っている。ここは古くから最も人通 りの多い辻であり、後述する曳山の桟敷席の 一つ「札の辻席」が設けられる。 また、旧長浜城下町の本町通り(現駅前通 り)と北国街道の交差には、県下初の滋賀県 第一小学校として開設された「長浜旧開知学 校」が位置する。明治 7 年(1874)に建てら れた現在の建物は、八角形の櫓をもつモダン な白い擬洋風の建物であり、かつては時を告 げる大太鼓が備えられていた。 【旧四居家住宅(現湖北観光情報センター)】 【旧河路家住宅(現びわこレストラン ROKU)中庭】 【黒壁ガラス館本館(旧百三十銀行長浜支店)】
14 日の午前中は、出番山の町内で自町狂言が行 われた後、午後から長濱八幡宮へ曳山を曳く「登 り山」が始まる。役者たちを舞台にのせた曳山は、 シャギリの音色と若い衆らの力強い「ヨイサ」の 掛け声が響く中、高く振りかざされた招き扇に導 かれ、四番山から一番山の順で八幡宮へと曳かれ ていく。 曳山は参道となっている宮町通りを東へ向か い、八幡宮の「一の鳥居」の前で南側の道を通り、 境内曳き入れの入口「筋交い橋」のところで一旦 止め置き、神前入りにそなえる。ここで、「正装」 という曳山の最終の飾付けを済ませた後、筋交い 橋から神前入りし、所定の位置に据え付けられる。 夕方には全ての曳山が境内に並び、提灯や燭台に は灯りが入れられる。 14 日の午後 7 時から行われる「夕渡り」は、子 ども役者らが長濱八幡宮から町内へ帰る行事であ る。八幡宮の境内を筋交い橋から出て、宮町通り、 大手門通りと西へ進み、神戸町の一八屋席で渡り 終わる。行列は、金棒引きを先頭に、陣提灯1対、 榊持、御幣持、面箱持、舞台方、役者と続き、最 後に中老、見送り箱と幟がつく。役者はその役に あった足取りで狂言終了時の姿で渡り、その両側 には警固の若い衆がつき、手に馬上提灯を提げ、 役者の顔や足もとを明るく照らす。 15 日の本日は、未明の起し太鼓で始まる。 役者の化粧や衣装が整えられると、午前 8 時前 から「朝渡り」が行われる。各山組の若い衆や役 者らは、夕渡りと同じ行列を組んで、各町内から 長濱八幡宮へと向かう。 午前 9 時 10 分になると、長刀組による「太刀渡 り」が長濱八幡宮の一の鳥居前に到着する。源義 家の八幡宮社参の姿を模したものといわれ、秀吉 が長濱八幡宮の復興に際して始めさせたと伝えら 【太刀渡り】 【夕渡り】 【長濱八幡宮に据え付けられた曳山】 【登り山】
太刀渡りが済むと「翁招き」が行われ、これを合図に一番山はシャギリを囃しはじめ、拝 殿を正面とする奉納場所へ曳山を曳き出し、いよいよ曳山狂言が奉納される。一番山では三 番叟が演じられ、終わると高らかな出笛が吹かれ、つづいて三味線、浄瑠璃がはじまる。こ うして狂言が始まり、子ども役者が可憐で優雅に見栄を切ると、境内からは大向こうの掛声 が飛ぶ。 図 曳山の巡行路と狂言席(15 日) 【長濱八幡宮での狂言奉納】 【御旅所での狂言奉納】 (市制 50 周年を記念し全基出場:平成 5 年) 豊国神社 長濱八幡宮
長濱八幡宮での約 40 分の狂言奉納が終わると、切 り笛が吹かれシャギリが囃される中、一番山は後 退し、筋交い橋で正装を解き、宮町通りから大手 門通りを巡行して御旅所へ向かう。このシャギリ は御幣迎えや朝渡り、曳山の巡行、曳山狂言の際 に囃される。郷土色豊かなシャギリは、太鼓・締 太鼓 1 人、摺鉦 1 人、篠笛 3~4 人の合計 6~7 人 で構成され、その場面ごとに、御遣お い やりり、神楽か ぐ ら、奉ほ 演間え ま、出で笛ぶ え、戻り山も ど り や ま、起し太鼓などの曲目が演奏 される。このほか一部の山組では、その山組にの み伝わる独自の曲目もある。曳山の巡行、曳山狂 言の際にはシャギリは曳山の二階部分にあたる亭ち ん で演奏される。 大手門通りは、かつての長浜城の大手筋にあた る通りである。他の通りよりも道幅が広くされ、 最も人通りが多く、今も多くの商店が軒を連ねて いる。天候に左右されることなく長浜曳山祭を執 行したいという地元の願いから、通りには太陽光 発電の明るいアーケードが設けられ、その柱は旧 長浜城の天守閣の柱に見立てられている。 長濱八幡宮から御旅所へ向かう曳山は、宮町通 りと大手門通りの各所に設けられた桟敷席で狂言 を行いながら巡行する。この道中には、鮒ふ な熊く ま席、 金屋か な や席、一八屋い っ ぱ ち や席、米こ め嘉か席、札ふ だの辻つ じ席という 5 つ の狂言席があり、各曳山はこのうち 2 つの席で狂 言を執行する。二番山以下も、三番叟はないが、 同様の方式で順次狂言を行う。 御旅所へ巡行する曳山は、大手門通りを西へ進 み、長浜城の旧外堀に架かる豊橋みのりばしの手前で一旦止 め置かれる。ここでは、御旅所入場(神前入り) に備え、曳山に正装が施される。 【大手門通り】 【平成 12 年に復活した桟敷席(金屋席)】 【かつての桟敷席】 「長浜市史第 6 巻 祭りと行事」より転載
御旅所に神前入りした曳山は、神輿堂に向かって狂言を奉納し、終わると所定の席に付き、 二番山をシャギリで迎える。二番山の神前入りからは、曳山の提灯やぼんぼり、燭台に灯り が入れられ、若い衆も扇子のかわりに弓張提灯をもって綱先で曳山を招く。 四番山の狂言が終わり、全ての曳山が所定の位 置に並ぶと、「神輿還御」が行われる。神輿堂にお さめられていた神輿は、七郷の手により担ぎ出さ れ、八幡宮へ戻ることになる。賑やかなシャギリ に包まれる御旅所の中を神輿は何度も巡り、さら に北国街道の札の辻までの間を何度も行き来した 後、ようやく神輿は八幡宮へ向かう。 神輿が札の辻を通り過ぎると「戻り山」が始ま る。長刀組が最初に出発し、一番山、二番山の順 で曳山は各町内へ戻っていく。 16 日は、各山組の町内で前述の「後宴狂言」が行われる。町内の人たちにゆっくりと見 てもらうため、場所を変えながら数回の狂言が行われる。最終の曳山狂言は「千秋楽」とよ ばれ、山蔵前で行われる。達成感と安堵感に包まれながら、曳山は山蔵にしまわれる。 最終日の 17 日は「御幣返し」が行われる。13 日に各山組が迎えた御幣を、同様の行列を 組んで長濱八幡宮へ返しに行く。最後に御幣を本殿におさめ、ひとまず祭礼は終わりを告げ る。 桜の花が舞い散る頃、路地裏の町家からシャギリの音色が聞こえてくると、人々は長浜曳 山祭の訪れを感じる。長浜曳山祭は、長濱八幡宮や御旅所、そして人々の暮らしの息吹が感 じられる町並みなど、まち全体を舞台空間としながら、厳粛に、華麗で優雅に、そして時に は気勢高くして執り行われる。秀吉公の時代に思いを馳せ、まちの発展に祈りを込めながら、 人々は宵闇に揺れる弓張提灯の灯りを見つめている。 【神輿還御】
[2]大通寺とその門前町にみる歴史的風致
~大通寺の寺観の形成~
大通寺は、真宗大谷派の長浜別院として、市街地のほぼ中央に位置し、多数の寺院建造物 によってその寺観を構成している。広間や本堂、含山軒、蘭亭は重要文化財であり、その周 囲を台所門や山門、鐘楼など、多くの歴史的建造物や庭園が配されている。
また、大通寺の大きな特徴として、その境内に因ちなみ講や二十八日講、茶所ち ゃ じ ょ、総会所そ う が い じ ょなどの 「講場こ う ば」の建物があり、それぞれに講中の組織があることがあげられる。これらは寺院の道 場として設けられたものであり、法要の際の説教場として、あるいは参詣者の宿泊所として 使用されるほか、講中に属する人々の世話により様々な行事が営まれている。このような講 場やその組織は、庶民による仏教信仰の一つとして特徴的なものであり、門徒衆の結びつき の強さを示している。 さらに、大規模な伽藍群の他、いくつかの庭園を有している。国指定名勝である「含山軒 庭園」は枯山水庭園で、縁側に近い部分を広く砂地に見立て、池のほぼ中央に石を積んで島 をつくり石橋をかけ、奥に立石を組んで滝をつくっている。植え込みは巨木を左右に分けて 配し、その間からは県内最高峰の伊吹山を借景として取り入れており、この庭をもつ客室に 「含山軒」の名が付けられた。また、同じく国指定名勝である「蘭亭庭園」は、建物に挟ま れた狭小な庭園であるが、奥に豪壮な立石をたてて枯滝を示し、手前の枯山水に流れ込む形 式をとっている。このほか、市指定文化財である「学問所庭園」を有している。 ~大通寺の諸行事~ 真宗信仰の篤い滋賀県湖北地方において、大通寺は約 400 の寺院の中心として、人々に 「御坊さん」の愛称で親しまれてきた。真宗門徒の心のよりどころとなっており、その信仰 の広がりが行事にも表れている。人々は自分の町内にある寺院の行事だけでなく、大通寺で 法要等が営まれるときには湖北各地から参詣し、こ れが年中行事の一つになっている。主な年中行事と しては、春と秋の彼岸会や「夏中げ ち ゅ う」、「報恩講ほ う お ん こ う」など がある。 7 月 2 日から 10 日にかけて行われる夏中は「夏中げ ち ゅ う さん」の名で親しまれ、市内のほか湖北地方各所か ら大勢の参拝者が訪れる。もとはインド以来の仏教 の慣習で、夏中の雨期の外出をやめて勉強に励む 「夏げ安居あ ん ご」に由来する。行事内容は日によって異な るが、早朝からの晨じ んじょう朝勤行ごんぎょうと暁天ぎょうてん講座(法話)、午 前と午後には「夏げの御文お ふ み」拝読や法話、夜には納涼 講座(法話)などが勤められる。また、境内の各講 場での法話は、毎日場所を変えて行われている。法 話のはじまりには、半鐘の音が叩かれる。 また、報恩講は、宗祖親鸞聖人の祥月命日に勤め られる法要であり、浄土真宗の寺院にとっては 1 年 で最も重要かつ盛大に執り行われる行事である。宗 祖の滅後、門弟らがその命日にお勤めをしたことに 始まり、第 3 代覚如上人が「報恩講私記」をつくっ て法要次第がととのえられ、第 8 代蓮如上人の頃に は各地の寺院や道場で広く勤められるようになっ 【大通寺へのおまいり】 【半鐘をたたく講長】
た。したがって、大通寺では、慶安 2 年(1649)の発足当初からすでに報恩講が勤められて いたものと考えられる。 大通寺の報恩講は 10 月下旬に三昼夜にわたって行われる。本堂や山門には幕を張り、提 灯が飾られる。本堂にはお華け足そ くに餅を盛って供え、打敷う ち し きなどの飾りは最上のものが用意され る。毎日、勤行や法話が行われ、正信偈し ょ う し ん げや念仏、和讃わ さ ん、回向え こ うが勤められ、御文や御伝鈔ご で ん し ょ うの拝 読もなされる。法要の前には、3 度の合図が告げられる。まず 1 時間前には太鼓楼に上がり 太鼓をたたく。次に 30 分前になると鐘楼の鐘をつく。最後に直前になると半鐘を打ち、こ れを聞いて僧が本堂へ向かうというしきたりになっている。 なお、報恩講は各地域の寺院でも行われるが、人々の楽しみは、お参りに来た門徒らが集 まっての会食であり、「お講」あるいは「お斎と き」と呼ばれる。とりわけ「お講こ う汁じ る」と呼ばれ る蕪(または豆腐)の味噌汁は代表的な食事である。 大通寺には、宗派を問わず大勢の人々が訪れる。広大な境内空間を有しており、子ども連 れの家族などが憩い、談笑する風景が見られる。また、大通寺は様々なまちづくり活動の拠 点でもあり、地場産業である和装産業の振興を図るためにはじまったきもの大園遊会や、地 元商店主らが丹精込めて育てた馬酔木の盆栽や菊の大輪の展示など、市民が主体となった 活発な活動が大通寺に彩りを添えている。 なお、湖北地方における真宗信仰の篤さを物語る習俗の一つに「回ま わり仏ぼとけ」がある。地域に 所縁のある法主(蓮如上人、教如上人、乗如上人等)の絵像などが村々に設けられた宿など を巡り、その地域に暮らす人々が参拝する行事の総称である。その規模や時期は様々である が、長浜市には蓮如御影ご え い道中どうちゅう、二十二日講、二十四日講、湯次ゆ す ぎ方ほ う、下寄組し も よ り ぐ み、五日講など多く の回り仏の習俗が伝えられており、いかに人々の暮らしの中に真宗が深く関わっているか をうかがい知ることができる。 表 大通寺の主な行事 月日 行事 内容 1 月 1 日 修正会 新年初めのお朝事(朝のお勤め) 2 月 10 日~4 月 18 日 大通寺馬酔木展 約 70 鉢の馬酔木の盆栽を境内に展示 3 月 18 日~21 日 春の彼岸会 5 月 3 日 花まつり お釈迦様の誕生を祝う行事(本来は 4 月 8 日) 7 月 2 日~10 日 夏中 蓮如上人の残した御文の拝読や法話を営む。 9 月 24 日~26 日 秋の彼岸会
~門前町のにぎわいと「浜行き」~ 大通寺周辺には、江戸時代から門前町が形成されてきた。特に山門から南へのびる門前の 通りの東西にかつての東御堂前町と西御堂前町があり、これに十軒町と南伊部町が隣接し、 この一帯(現在のながはま御坊表参道やゆう壱番街付近)は江戸時代から多くの商店が軒を 連ねていた。元禄 8 年(1695)の「大洞お お ほ ら弁財天べ ん ざ い て ん祠堂し ど う金き ん寄進帳き し ん ち ょ う」によると、東御堂前町は家数 29、住人 103 人、荒物屋 2、菓子屋、檜物屋、足袋屋、米屋、小間物屋らが住んでいた。ま た、西御堂前町は家数 32、住人 117 人、餅屋 6、小間物屋 4、飴屋 4、花屋 2、米屋 2、桶屋 2、大工、酢屋などが並んでいた。餅屋や花屋などが門前の町並みを偲ばせている。さらに 広範囲にみるなら、旧長浜町全体が湖北地方一帯から集客する大通寺の門前町としての性 格を持ちながら発展してきたともいえる。 古くから、長浜にまつわる産品や行事などには、その頭に「浜」を付け、浜仏壇、浜縮緬、 浜蚊帳などと呼ばれてきた。「浜行き」もその一つであり、旧長浜町周辺や湖北地方各地に 暮らす人々にとって、旧長浜町を訪れることを「浜行き」と呼んだ。いつ頃から「浜行き」 という言葉が定着したのかは文献史料で明らかにすることはできないが、城下町としてま ちの礎が築かれ、商工業が発達し、大通寺の門前町として人々の信仰を集めてきた江戸時代 初期から、都市の核たる旧長浜町への往来が盛んであったことは推察できる。大通寺への参 詣は「浜行き」の象徴であり、またお参りがてらに様々な買い物をし、ご馳走を食べて家路 につくことが、人々の大きな喜びであったといえる。 今も、「浜行き」を象徴する年中行事に、前述の 「夏中さん」がある。7 月に大通寺で夏中が執り行 われる時期には、大手門通りを中心に多数の露店が 立ち並ぶ夏中縁日が開催され、夏の風物詩として 人々に親しまれている。かつては露店の他にサーカ スやお化け屋敷などの興行もあり、皆が夏中さんを 心待ちにしていた。大正 6 年(1917)の新聞記事に は、「長浜町の賑ひ」の見出しを付けて、毎日大変 な人出で、御旅所に設けられた活動写真 (映画)や軽業をはじめ、数十の露店が出されてお り、好天の日曜日には遠方から来る人も多く、大通 寺と豊公園の間は通行さえ困難であったと記され ている(朝日新聞京都附録・大正 6 年(1917)7 月 11 日付)。娯楽の少ない時代にあって、人出は今と は比べものにならないほど多かったといえる。現在 も、夏中さんには大通寺の参詣者はもとより、子ど も連れの家族や浴衣がけの老若男女で門前の通り 一帯はあふれかえる。 【大通寺門前(大正 2 年)】 「長浜市史第 7 巻 地域文化財」より転載 【現在の大通寺門前(夏中縁日)】
表 元禄 8 年(1695)の長浜町民 の職業構成表(「大洞弁財天 祠堂金寄進帳」による) 図 長浜町絵図にみる門前町(元禄 9 年) 図 門前町における伝統的業種の店舗分布図(現在) いと吉呉服店 油甚 萬與 おおよその門前町の広がり 大通寺 長濱八幡宮
【浜仏壇の工芸職人】 【浜仏壇】 このように、門前町として栄えてきた大通寺周辺には、仏具屋や蝋燭屋、お供え物として 使われた和菓子屋や餅屋、花屋など、門前町の名残を伝える業種の店舗が数多く軒を連ねて いる。 前述のとおり、湖北地方は真宗王国といわれるほど多くの真宗寺院があり、人々の厚い信 仰心を背景として、江戸中期以後、多くの家庭に仏間が設けられ仏壇が整えられるようにな った。総合工芸といわれる「浜仏壇」は、長浜を代表する工芸技術であり、彦根と並ぶ仏壇 の産地である。 浜仏壇の特色としては、彫刻は丸彫ま る ぼ りで白木し ら きのまま使用し、釘を用いることのない構架こ う か組立 方式であることなどがあげられる。そして、曳山建造の技法を受けて、基本的に下地に漆と 砥との粉、地じの粉を用いる堅か た地じ下地(漆下地)の伝統を守っている。これら伝承者の多くは、 滋賀県から曳山修理の保存技術保持者として選定されている。現在、「濱仏壇工藝会」には、 木地師、塗師、飾金具師、蒔絵師、木彫師という 5 つの専門職人がいる。連綿と伝えられて きた技で、濱仏壇をつくり、曳山を修理し、その美を守っている。 なお、長浜曳山祭の曳山の建造にあたっては、浜仏壇の工芸技術が随所に活かされており、 浜仏壇の普及と曳山の建造は同じ時期でもある。大工であり名彫刻師であった初代の藤岡 和泉は、和泉壇ともいわれる浜仏壇の様式を 17 世紀に確立し、その後、18 世紀から 19 世 紀にかけて藤岡一門の手により青海山、翁山、諫鼓山、猩々丸などの曳山が建造された。曳 山の舞台や屋根の造り、唐破風の形や色、前柱の飾り金具、漆塗など、曳山の製造技術は、 浜仏壇と共通するものが多い。 図 浜仏壇の製造工程
また、電気のなかった時代、各家庭は菜種油で灯 りをとっていた。真宗寺院が多く点在し、また門徒 の各家に仏壇が設けられたこの地域では、仏壇に上 げる灯明の灯りは欠かすことができなかった。かつ ては数多くの油屋が存在し、古くは油桶を天秤棒に 担いで売り歩く姿もあった。明治 36 年(1903)創 業の「油甚」は、主家の油商・四居家から暖簾を受 けた油屋であり、江戸末期に建てられた町家の土間 では、漏斗と一合枡を用いて各種油が量り売りされ ている。 和菓子や餅類は、寺院や仏壇などへのお供え物と して、あるいは浜行きのお土産物として身近なもの であり、今も大通寺周辺には十数軒の和菓子屋が点 在している。曳山「萬歳樓」のイラストをあしらっ た最中を名物とする「萬與」は、江戸中期の享和年 間(1801~1803)創業の和菓子の老舗である。現店 舗は、嘉永 7 年(1854)に建てられた町家で、店内 には大福帳や昭和 4 年(1929)製の金銭登録機、嘉 永年間(1848~1854)の鬼瓦などが飾られている。 旧長浜町とその周辺では、江戸時代から浜縮緬や ビロードなどの繊維産業が盛んであり、大通寺周辺 には多くの呉服屋や履物屋が商いを営んでいた。大 通寺の山門前に位置する「いと吉呉服店」は創業約 320 年の歴史を持つ。その店舗は延享 2 年(1745) に建てられたもので、旧長浜町に 5 軒ある卯建のあ がった町家のひとつであり、威容をのぞかせる大通 寺山門とともに歴史的な町並みを残している。 静寂に包まれた大通寺からは、半鐘の音と信仰の篤い善男善女の読経が境内に響き渡り、 古と変わらぬ人々の営みを今に伝えている。その山門を一歩くぐり抜けると、そこには賑や かな雰囲気に包まれた参道が伸び、道行く人々の笑い声が門前町の風情漂う町並みに広が っている。 【油屋 「油甚」】 【呉服屋 「いと吉呉服店」】 【和菓子屋 「萬與」】
[3]竹生島にみる歴史的風致 ~信仰の島・竹生島~ 竹生島は、早崎町の地先約 5km の琵琶湖に 浮かぶ面積 0.14km2、周囲 2km の島である。島 内には、宝厳寺と都久夫須麻神社があり、観音 信仰や弁才天信仰により、古来より「神を斎く 島」として人々から篤い信仰を集めている。 竹生島は名勝・史跡で、島内には国宝「都久 夫須麻神社本殿」「宝厳寺唐門」の 2 件や重要 文化財「宝厳寺観音堂」「宝厳寺渡廊(低屋根)」 「宝厳寺渡廊(高屋根)」「宝厳寺五重塔」の 4 件が所在している他、弁才天本堂、鐘楼、護摩 堂、月定院などが配置されている。 竹生島の伽藍はこれまで何度も罹災してお り、貞永元年(1232)に全山焼失、嘉元年間 (1303~1306)には台風の被害を受け、さらに 正中 2 年(1325)の大地震により全山の堂舎が 倒壊した。その後復興するも、享徳 3 年(1454) と永禄元年(1558)の二度にわたり全山焼失し た。 この後、慶長 7~8 年(1602~1603)、豊臣秀 頼が社寺復興事業の一環として、片桐且元らにより、大きな修造の手が加えられた。このと き改修・移築されたのが、弁才天社殿(現都久夫須麻神社本殿)、宝厳寺唐門、宝厳寺観音 堂と宝厳寺渡廊であり、これらは桃山時代の特徴を残した貴重な建築物である。 竹生島は「近江国風土記」逸文によれば、夷服い ぶ き岳(伊吹山)の多多た た美比み ひ古こ のみこと命が、姪にあた る浅井岳(金糞岳)の浅井姫命あ ざ い ひ め の み こ とと高さを競い、負けた多多美比古命が浅井姫命の首を落とし たところ、その首が琵琶湖に落ちて竹生島になったという。こうした伝承から、竹生島の島 神として浅井姫命が鎮座し、水神として崇められ、特に湖上を往来する船の安全航行を願っ て崇敬されていた。この浅井姫命の信仰を古層として、時代とともに様々な信仰が重層され ていった。 宝厳寺は承平元年(931)の「竹生島縁起」によれば、神亀元年(724)、行基が聖武天皇 の命を受けて竹生島に渡り、弁才天像を造り小堂を建てて祀ったのが創始と伝えられ、天平 勝宝 4 年(752)には 3 間の仏殿に改築され、翌年浅井郡の大領浅井直馬養あ た い う ま か いが千手観音像を 造立して安置したとされる。宝厳寺は 8 世紀初頭に現れた神仏習合の流れを受け、当初、神 に仕える神宮寺としての性格を有していた。 平安時代には天台宗の僧が島を訪れ、天台宗を研鑽する修行の場として繁栄し、昌泰 3 年 (900)には、宇多天皇の行幸もあった。平安時代末期には、西国三十三所の観音巡礼が風 習化し、千手観音像を祀る宝厳寺も観音霊場の一つとして広い信仰を集めるようになった。 【名勝・史跡 竹生島】
その後、近世初頭には、宝厳寺は天台宗から真言宗への改宗が行なわれた。 竹生島に対する信仰や参詣は諸書に表れ、中世では「平家物語」巻七にみえる平経正の竹 生島参詣の他、「古今著聞集」巻十六の比叡山の山僧と稚児の竹生島参詣、戦国時代では「信 長公記」による織田信長の竹生島参詣などがある。 また古文書からは、室町幕府の祈願寺であることが確認でき、戦国時代には当地の戦国大 名である浅井氏をはじめ、浅井郡を中心とした地元の土豪からの信仰も篤かった。 弁才天本堂 凡例 石造五重塔 手水舎2 収蔵庫 雨宝堂 護摩堂 月定院 本坊 鐘楼 観世音御経所 観世音泰安殿 己月館 斎館 月星殿 都久夫須麻神社本殿 拝殿 宝厳寺唐門 宝厳寺観音堂 宝厳寺渡廊 行尋坊天狗堂 石造鳥居 手水舎1 神變大菩薩堂 末社
表 竹生島における建造物一覧 行尋坊天狗堂 観世音御経所 収蔵庫 鐘楼 己月館 雨宝堂 護摩堂 神變大菩薩堂 観世音泰安殿 月定院 黒龍堂 斎館 本坊 弁才天本堂 月星殿 石造鳥居 石造五重塔(重要文化財) 末社 2 棟 手水舎1 手水舎2 拝殿
~西国三十三所観音霊場・第三十番札所 宝厳寺~ 平安時代末期には、西国三十三所の観音巡礼が風習化し、千手観音像を祀る宝厳寺も観音 霊場の一つとして信仰を集めるにようになった。西国三十三所観音巡礼とは、近畿 2 府 4 県 及び岐阜県に点在する三十三の観音霊場を巡礼することで極楽浄土に行けるとされるもの で、「三十三」は「妙法みょうほう蓮華れ ん げきょう経」の「観世音菩薩普門品か ん ぜ お ん ぼ さ つ ふ も ん ぼ ん」第二十五(観音経)の教えに基づ く観音三十三応現身によるものとされる。巡礼の開創は、養老年間(717~724)、徳と く道ど う上人 が病のため急死して閻魔大王に会った際に、閻魔大王が三十三所の観音霊場を巡れば滅罪 の功徳があると説き、上人に起請文と 33 の宝印を授け、蘇生した上人が宝印に従って三十 三所の霊場を定めたこととされる。西国三十三所観音巡礼が初めて文献に現れるのは、嘉禄 ~天福年間(1225~1234)成立の「寺門高僧記」第四に収録されている園城寺の僧行尊によ る「観音霊場三十三所巡礼記」であり、このとき宝厳寺は第十七番であった。その後、室町 時代にはすべての順番が確立したと言われており、宝厳寺は第三十番札所になっている。 江戸時代になると諸国の街道筋の道が整備されてくることもあり、竹生島への巡礼も盛 んになっていった。竹生島への巡礼者が多くなると、街道の要所に竹生島への経路を示す道 標が建てられるようになった。今でも、そのときに建てられた道標が現存しており、香こ う花け い寺じ 町・湖北町速水の道標が元禄 12 年(1699)、曽根町の道標が文久 2 年(1862)に建てられた とされる。これらの道標により、当時、北国街道から竹生島へ渡る港への道として、曽根町 から難波町を経て早崎港へ至る経路、湖北町馬渡も う た りから小観音寺こ か ん の ん じ町・香花寺町・富田と ん だ町を経て 早崎は や ざ き港へ至る経路、湖北町速水から湖北町山本を経て尾上お の え港へ至る経路の 3 つの経路があ ったことがわかる。 早崎港のある早崎町は、かつて竹生島の神領であったなど竹生島と深い関わりがある。現 在でもそのつながりを示すものが残っており、早崎町地先にある竹生島の一の鳥居は、鳥居 の隣にある標石によると、天明 6 年(1786)に建てられたと記されている。また、この鳥居 を建立する際に、宝厳寺が「竹生島一鳥居地形講じ ぎ ょ う こ う」を結んで、広く周辺住民への協力を呼び かけた記録が残っており、この場所が竹生島にとって重要な場所であったと考えられる。さ らに、早崎町内にある五社神社は、慶応 4 年(1868)の「五社明神之由緒届出書控」による と、早崎村(当時)に竹生島の五社の明神を勧請したことが当社の起源とされている。 明治 15 年(1882)からは、太湖汽船株式会社によって長浜港~竹生島~今津港(高島市) の運航が開始され、それ以降、竹生島へ向かう航路は早崎港から長浜港などに移っていった。 現在も竹生島へは長浜港から定期船が出てお り、西国三十三所観音霊場の一つとして多く の人が宝厳寺を訪れ、笈摺お い ず る姿の巡礼者が参詣 する姿も見られる。(平成 22 年度観光者数: 148,559 人) 現在も多くの人が訪れる宝厳寺には、文化 財が多数保存されており、国宝の宝厳寺唐門、
囲には鳳凰や松・兎・牡丹などの彫刻が施され、扉正面やその両脇の羽目板は牡丹で装飾さ れている。柱頭には牡丹・獅子・菊の精巧な木鼻彫刻が付けられている。また天井は曲線型 の輪垂木を用いた化粧裏屋根であり、輪垂木は漆 塗に菊文様金箔置金具打、垂木間の裏板は花菱文 を入れた七宝繋し っ ぽ う つ な ぎの極彩色で施されている。 宝厳寺観音堂は折上お り あ げ格ご う天井てんじょうであり、華麗な色彩 で菊・桐・牡丹が描かれ、また天井を支える水平 材には唐門の天井と同様に花菱入りの七宝繋が見 られる。その他欄間彫刻は紅葉に鹿などの精巧な 作りであり、木鼻には籠か ご彫ぼ りも見られる。また扉や 腰羽目には唐門と同様の牡丹唐草を施した部分が 多い。 宝厳寺渡廊は両側に竪た て連れ ん子じ窓ま ど、天井は勾配形を なす化粧屋根裏で、垂木配置も粗く、疎まばら垂木た る き木こ舞ま い 裏う らである。渡廊は簡素な造りではあるが、細部に 桃山様式が見られる。 【宝厳寺観音堂に参詣する巡礼者】 【宝厳寺唐門 正面】 【宝厳寺唐門 内部】 【宝厳寺渡廊 内部】 【宝厳寺渡廊 外観】
① 尾上港 竹生島 早崎港 ④ ⑤ ② ⑥ ⑦ ⑧ ③ 早崎町 富田町香花寺町 難波町 小観音寺町 曽根町 湖北町速水 湖北町山本 湖北町馬渡 図 竹生島への参拝路 ①道標(曽根町) ②道標(湖北町馬渡) ③道標(湖北町速水) ⑤道標(香花寺町) ⑥道標(富田町) ④道標(小観音寺町)
~弁才天信仰と蓮華会れ ん げ え~ 竹生島の篤い信仰の中心をなすのが、弁才天信仰であり、平安時代末期に定着したと考え られる。仏教の水神である弁才天と島神として崇められている水神の浅井姫命とを習合さ せ、祀り始められたとされる。また安芸の厳島や相模の江ノ島の弁才天は、この竹生島の影 響を受け勧請されたものである。 竹生島における弁才天信仰を象徴するものとして、蓮華会があり、現在まで連綿と伝えら れている。蓮華会は宝厳寺最大の祭礼で、妙法蓮華経を称え、新造の弁才天像を奉納する行 事であり、毎年 8 月 15 日(かつては旧暦 6 月 15 日)に法会が営まれる。 蓮華会の名称の由来は、もともと妙法蓮華経を講讃し、神仏に供花として蓮華を献じたこ とから名付けられたとされている。蓮華会の起源については、応永 28 年(1421)の「竹ち く生ぶ 嶋し ま衆し ゅ徒と等ら目め安案や す あ ん」によれば、円融天皇が大干ばつに対応するため、慈恵大師良源に命じた雨 乞いの法会に始まるといわれている。また文暦元年(1234)に源仲により撰述された「慈恵 大僧正拾遺伝」の貞元 2 年(977)の記事によると、竹生島で法華経を書写し、弁才天を荘 厳する法会の後、僧が船に乗り散華する他、楽人も乗り込み、龍頭鷁首り ゅ う と う げ き し ゅを載せた船を使用し ていたとされる。「蓮華会」という名称はないが、すでに後世のそれと類似する祭礼がなさ れていたことがわかる。 現在の蓮華会では、まず行事で中心的な役割を果たす先頭・後頭の 2 人の頭役を旧浅井郡 (現在の浅井地域、湖北地域、虎姫地域、びわ地域、西浅井地域)内の信徒の中から宝厳寺 が選ぶ。元来、頭役は弁才天像を新造し奉納するが、弁才天像の新造は頭役にとって大きな 負担となるため、現在では奉納された弁才天像を竹生島から借りることが多い。 4~5 月頃、サカキマツリの日には、頭役の家 に竹生島から弁才天像が来られる。頭役の家に 住職、薬僧、神役の一行が訪れ、読経ののち、頭 役は港に弁才天像を迎えに行き、港から練り歩 きながら頭役の家に向かう。その後、弁才天像を 頭役の家に安置し、金光明最勝王経を読踊のの ち、竹生島より持参したサカキの葉を香水に浸 し、清める儀式(サカキマツリの儀)が行われる。 この日をサカキマツリと呼ぶのも、ここに由来 すると思われる。この時、「竹生島蓮華会頭役之 事」「竹生島蓮華会後頭目録」をいただく。その後、直会な お ら いが開かれる。 弁才天像を預かったその日から、頭役は水と塩、洗米を毎日替え、お菓子・果物をお供え、 お勤めを毎日行う。 祭礼当日の 8 月 15 日、頭役の家で読経が行われ、その後、竹生島へ向かう。竹生島では 住職、副住職、神役、露はらいの稚児に出迎えられ、先頭、後頭に順に階段を登り、弁才天 本堂の祭壇に弁才天像を安置する。弁才天像は、以前は弁才天社殿に納められていたが、明 治初期の神仏分離政策により、弁才天社殿を都久夫須麻神社に改称したため、現在では昭和 17 年(1942)に建てられた弁才天本堂に安置されている。この弁才天本堂は 17m四方で、 構造形式は身舎 5 間 5 間、四方裳も階こ し付・一重であり、外観は二重屋根・檜皮葺である。裳階 【サカキマツリの儀】
正面は中央 3 間の屋根が一段高く造られてお り、この方式は平安後期頃の社寺住宅などに用 いられたものであった。前方 2 間通りが土間の 外陣、円柱上挿肘木の二手先の組物で折上組入 天井とし、柱筋には前後に虹梁を架けており、 典型的な和様でまとめられている。組物間は二 ツ斗を置いた板蟇股であり、外陣外側は吹寄菱 格子、同内陣境は細かい彫刻欄間である。天井 廻りは外陣と同じ造りであるが、天井木組の辻 に四弁花、組物間の小壁には極彩色で雲などが 描かれ、また内法長押上の小壁には天女が描か れている。このように弁才天本堂は大部分を平 安後期様式に倣いつつも、細部に鎌倉、室町頃 の様式が見られる。 弁才天本堂で法要が小一時間ほど行われ、散 華が行われた後、先頭、後頭の一行は本膳の接 待を受ける。接待が終わり島を後にして、蓮華 会の行は終わる。 この蓮華会の様相は、室町時代の製作とされ る「竹生島祭礼図」(東京国立博物館蔵)や江戸時代初期の製作とされる「竹生島祭礼図」 (大和文華館蔵)により視覚的に知ることができる。今日行われている蓮華会においても、 先頭、後頭を決め、弁才天を家に迎え、供物を捧げ精進し、竹生島に奉納するといった形式 は以前と変わっていない。 【慶長 10 年(1605)に奉納された弁才天坐像】 【弁才天本堂】
人々の代表として祭礼の中心的役割を果たす頭役を務めることは、最高の名誉とされ、行 事が終われば、頭役の経験者は、「蓮華の長者」「蓮華の家」としてその名がとどめられる。 蓮華会の頭役を時代順に列記した「蓮華会頭役門文録」によれば、永禄 9 年(1566)に戦国 大名の浅井久政が、翌年永禄 10 年(1567)にはその母・寿松が、頭役を務めたとされ、浅 井久政と寿松が奉納した弁才天像が今も残っている。 ~都久夫須麻神社の諸行事~ 都久夫須麻神社は、蓮華会の際に弁才天 像を安置する弁才天社殿であったものが、 明治初期の神仏分離政策により、改められ た神社である。現在の本殿は、永禄 10 年 (1567)に再建された母屋に、慶長 7 年 (1602)に向拝及び庇が改修・増築されたも のである。本殿の内装は豪華絢爛で、本殿内 部の襖・折上格天井の鏡板には、花木・草花 が金地に極彩色で描かれている。また、内部 弁才天本堂 図 蓮華会の順路 【都久夫須麻神社本殿 外観】 【露はらいの稚児らによる出迎え】 【弁才天本堂に向かう頭役】 【弁才天本堂における法要】
の柱・床・長押などには、黒漆地に花鳥の文 様による蒔絵が施され、さらに桟唐戸には、 内外面ともに菊の、板壁は外部に菊・牡丹・ 鳳凰などの極彩色彫刻が隙間なくはめ込ま れている。特に内部の襖絵・天井画は、桃山 時代後期の絵師である狩野光信の作品と伝 えられており、四季の草花・花卉が金地の濃 淡で、精細かつ優雅に描かれている。 都久夫須麻神社では 6 月 10 日に三社弁才 天祭が行われる。三社弁才天祭は、大正 9~ 10 年(1920~1921)頃から始められたとさ れ、日本三大弁才天の安芸の宮島、相模の江 ノ島より御分霊と御神官を迎え、都久夫須麻 神社本殿にて三社祭が行われ、神事の中で弁 才天に舞楽の舞が奉納される。 また、拝殿の琵琶湖に面し突き出たところ に竜神拝所があり、ここでは土器(かわらけ) に願い事を書き、湖面に突き出た鳥居へと多 くの人がかわらけを投げている。投げたかわ らけが鳥居をくぐれば、願い事が成就すると 言われており、多くの人がかわらけに願いを こめて投げる姿が見られる。 琵琶湖に浮かぶ竹生島は深い緑に包まれ、一歩足を踏み入れると、そこには現代社会の喧 騒からかけ離れた空間が広がっている。島内は弁才天や観音様を信仰する人々で溢れ、桃山 時代の豪華絢爛な建造物が私たちを迎えてくれる。千年を経た今日でさえも、竹生島は人々 の心をひきつけてやまない。 【かわらけ投げ】 【三社弁才天祭】 【都久夫須麻神社本殿 内部】
[4]街道にみる歴史的風致 湖北地方の主な幹線道路として北国街 道と北国脇往還があった。 北国街道は、近畿と北陸を結ぶ街道であ り、中山道鳥居本宿(彦根市)の北で中山 道から分岐し、米原宿(米原市)・長浜町・ 木之本宿、さらに余呉町柳ヶ瀬・余呉町椿 坂・余呉町中河内と長浜市内を北上し、栃 ノ木峠を経て越前(福井県)の板取宿、今 庄宿へ出て北国へ至る街道である。 北国脇往還は、北陸と東海・関東を結ぶ 最短路であり、美濃関ヶ原宿(岐阜県)か ら中山道と分かれて藤川宿・春照宿(以上 米原市)、長浜市に入り小谷宿(伊部・郡上 宿)を経由して木之本宿に向かう街道であ る。 木之本以北の北国街道は北陸諸藩の大 名の参勤交代路として利用され、にぎわい を見せていたが、もともと参勤交代路では なかった木之本以南についても、幕末の動 乱期に京都の政治的重要性が増したことに伴い、北陸の大名やその関係者が京都・大坂へ向 かう際に利用され、繁栄するようになった。 諸大名や旅人が行き交い、「永禄六年北国下り遣足帳」にも記載があるように、木之本宿 は北国街道と北国脇往還の分岐にあたる交通の要衝であったことから、北国街道の宿場町 として発展してきた。 また、木之本宿の中心には時宗寺院の長祈山浄信寺があり、門前町としても発展してきた。 寺伝によれば浄信寺は白鳳 3 年(675)、祚蓮上人が難波(大阪府)に漂着した龍樹菩薩作の 地蔵菩薩像を唐隔山金光寺よりこの地に移し祀ったことに始まるとされ、古来より湖北地 方の中心的な寺院であった。仁治 3 年(1242)に造られた本尊地蔵菩薩立像は、木之本地蔵 として知られ、重要文化財に指定されているが、本尊は秘仏であるため、その写しである高 さ約 6mの金銅製の地蔵尊が、明治 21 年(1888)から 5 年の歳月をかけて造られた。本尊 と同一厨子内に安置されている鎌倉時代作の木造閻魔王立像と木造倶生神立像、平安時代 後期作の阿弥陀堂の木造阿弥陀如来立像と書院の木造阿弥陀如来坐像の 4 体も重要文化財 に指定されている。 弘仁 3 年(812)に空海が当寺に巡錫し、地蔵経を書写し納めており、建武 2 年(1335) には足利尊氏が毎年 3 月に遣使して法会を修することとし、これ以降歴代の足利将軍も崇 敬したとされている。また明治 11 年(1878)には、明治天皇が北陸御巡幸の際、浄信寺を 行在所とされ、当日だけで、約 750 人の高官達や従卒等が 90 軒余りの宿に分宿された。 図 近世近江の陸上交通図(部分)
浄信寺の境内には、本堂、阿弥陀堂を中心に、 書院、庫裏が建ち並んでいる。本堂は、正面 5 間、 側面 8 間に正側面三方に縁を廻し、入母屋造桟瓦 葺の立ちの高い大型の近世寺院本堂である。屋根 は降棟を積んでおらず、これは積雪対策と考えら れる。本堂の建立は棟札銘より宝暦 5 年(1755) であることが明らかであり、平面形式においては 近世初頭まで遡る可能性がある。柱など主要な部 材には大量の良質なケヤキ材を用い、内部には、 虹梁や蟇股、蓑束などの中備を多用し、組物を一 手出し、天井桁を受け小組格天井としている。特 に内陣と脇陣の境では、虹梁を架け、その上には 大柄な大瓶束、そして両脇には蓑束が見られ、さ らにそれらの上に三つ斗を出組状に二段に重ね て天井桁を受けている。また来迎壁の両脇の虹梁 上にも華麗な蟇股が置かれ、内陣周囲は豪壮な空 間となっている。 浄信寺阿弥陀堂は本堂に向かって右側奥に位 置し、建立は野棟木銘により天保 14 年(1843)か ら弘化 2 年(1845)にかけて行われたことがわか る。桁行 5 間、梁行 5 間で、向拝 1 間に正側面三 方に縁を廻し、屋根は入母屋造桟瓦葺であり、平 面形式は浄土宗本堂に類似している。本堂に比べ 一回り小規模であるが、本堂と同じくケヤキ材を 用い、木割も太く虹梁、蟇股、蓑束を多用するな ど本堂と共通する意匠が見られる。特に蓑束は三 つ斗を二段重ねて一手出し出組状に組む手法を用いており、本堂に通ずる特徴である。屋根 も本堂と同様に降棟は葺かず、低めの隅棟を積んでおり、大棟は甍いらか積みの上に熨斗の し積をし、 鬼板には獅子口を飾っている。 浄信寺庭園は国の名勝に指定されており、江戸時代中期の作とされている。庭園は築山林 泉庭の形態を備えており、その地割、石組等の手法からその特徴がうかがえる。庭園の池は、 東側が入江となり、北と東の築山の谷間には滝口がある。その滝口の手前には中之島(蓬莱 島)が配置されており、江戸時代の典型的な作庭様式を表した庭園である。 【浄信寺本堂】 【浄信寺阿弥陀堂】 【浄信寺庭園】
木之本地蔵は古くから眼病平癒と獣疫平癒、長寿祈願の仏様として信仰を集めてきた。浄 信寺では毎月 23 日、24 日に木之本地蔵の月縁日として御祈祷法会が営まれ、特に木之本地 蔵大菩薩の1年に1度の大縁日が、毎年 8 月 22 日から 25 日に催される。大縁日には、地蔵 菩薩の功徳を仰ぐ大法要が 23 日と 24 日の夜 8 時から行われ、また地蔵菩薩の御利益を授 与する祈祷法会が 4 日間にわ たり奉修される。享保 19 年 (1734)に寒川さ む か わ辰と き清き よによって編 纂された「近江お う み輿地よ ち志しりゃく略」に は、「毎年 6 月 24 日正月 24 日 地蔵の縁日、市をなして甚賑な り。」とあり、この当時から賑 わっていたことがわかる。現在 でも、全国から 10 万人もの 人々がそれぞれの願いを込め て、終日参拝に訪れる。 【木之本地蔵縁日の様子】 【参拝客でにぎわう浄信寺本堂】
また、浄信寺には境内社として秋葉神社がある。 木之本宿は近世に 2 度の大火に見舞われており、 元文 4 年(1739)の大火では、宿の大半の 270 戸 余りが焼失し、延享元年(1744)の大火では、元 文 4 年(1739)の大火よりも焼失範囲は狭いもの の、宿の主要部分が焼失した。富田八右衛門「近 江伊香郡志 下巻」(1983)によると、浄信寺も元 文 4 年(1739)の大火で被害を受けたことがわか る。このため、宝暦 11 年(1761)、浄信寺の住職 が、今後、本堂が火災の被害を受けないようにと 静岡県の秋葉神社より火ひ之の迦か具ぐ土大つちのおお神か みを勧請し、 境内に秋葉神社を建立したとされる。その後、明 治 14 年(1881)、地元住民らが秋葉神社に神輿を 購入し、火伏せを祈願して、これ以後毎年 3 月 18 日に、区内を神輿が渡行する秋葉祭りが行なわれ ている。 【秋葉神社】 【秋葉祭りの様子】 本堂 阿弥陀堂 秋葉神社 庭園
このように木之本宿は、北国街道の宿場町、浄信寺の門前町として発展し、室町時代から 昭和初期にかけては宿場の北部で木之本牛馬市が開かれるなど、にぎわいを見せていた。牛 馬市は毎年 2 回、春と秋に 20 軒ほどの民家を宿として開き、各家の裏庭や空き地に掘立小 屋を作り、それぞれ 30~50 頭の馬を繋ぎ、庭先で交渉をしていたとされ、戦国時代には山 内一豊がこの市を訪れて馬を購入したと伝えられている。江戸時代には彦根藩の保護を受 け、地元近江をはじめ、但馬(兵庫県)・丹波(京都府及び兵庫県)・伊勢(三重県)・美濃 (岐阜県)・越前・若狭(以上福井県)などから牛馬が集まり、600 頭を数えることもあっ た。明治 9 年(1876)の 11 月市の記録によると、牛宿 15 軒 477 頭、馬宿 5 軒 130 頭とあ る。市は 2、3 日で終わっていたが、大勢の売買人や商人らが数日にわたって泊まり込んで いたため、宿の収入をはじめ、商店、農家も食料品、飼料、資材等の販売で潤っていた。明 治 30 年(1897)頃の記録によると、宿の収入は年 2 回で 200 円前後であったとされる(当 時米一俵 6 円)。 宿場町・門前町としてにぎわっていた江戸時代の町並みを示す資料として、元禄 11 年 (1698)の「木之本村庄屋十右衛門・同喜右衛門留記」があり、当時の家数は浄信寺門前札 の辻より以南は 119 軒、以北は 74 軒で、本陣や脇本陣、問屋、旅籠、馬持及び 10 数戸の商 店と人家が街道の東西両側に並び、街路の中央には水路を通し、柳が植えられていたとされ る。現在、この水路は暗渠化されているが、かつては防火用や牛馬の飲用水に用いられてき た。 また、江戸時代の浄信寺門前の様子を表した「木之本浄信寺門前絵図」(浄信寺蔵)によ ると、この当時には現在と同様に、街道に沿った町並みが形成されていたことがわかる。絵 図は宿南部が欠けているが、北国街道に沿って家人の名を記し、倉を□印、井戸を○印で表 している。浄信寺は「地蔵堂」として記され、南の「御本陣郷右衛門」、その斜向かいの「八 右衛門」、地蔵堂北の「清兵衛」は、それぞれ現在の竹内家住宅、冨田酒造(酒屋)、山路酒 造(酒屋)であり、両酒屋からはともに複数の倉が確認できる。(78 ページ写真の赤線囲い 部分参照) 近世中期以前の木之本宿の町並みについては、大場修他「旧北國街道木之本宿の町並」 (1993)によると、妻入茅葺で広間型三間取り平面を持つ余呉型民家と同じ平面を持った町 家がかつてあったことが確認でき、また、当初妻入茅葺屋根であったとされる町家も現存し ていることから、当時は妻入りを基調とした町並みであったと考えられる。さらに、余呉型 民家は木之本・余呉・西浅井地域における代表的な農家形式であることから、木之本宿が周 辺農家の影響を受けていたと思われる。 【現在の木之本宿の町並み】 【木之本宿の町並み(昭和初期)】長浜市蔵
当時の町並みを知る上で竹内家住宅は、18 世紀 中頃の町家形式を残している貴重な建物であり、 木之本宿で代々本陣を勤めてきた宿内きっての大 型民家で、冨田家住宅とともに宿内では最も古い。 棟札によって延享元年(1744)に建てられたとさ れ、広いナカノマとミセをもつ平面形式で、上列 【西浅井町集福寺にある余呉型民家(重要文化財・田中家住宅)】 写真【木之本浄信寺門前絵図(江戸時代)】浄信寺蔵 【以前は妻入茅葺屋根であったとされる岩根家住宅】
と考えられる。また、表の登り梁の先端はそのまま軒先に突き出して出し桁を受けており、 この種の構造手法は、福井県下の町家における外観の特徴となっていることから、北国街道 を介して北陸地方の町家形式が伝わったと考えられる。 これらのことから、近世中期以前は、周辺の妻入茅葺民家と共通する妻入茅葺町家の中に、 竹内家住宅のような一部上層の平入板葺町家が混在するような町並みであったとされ、こ の板葺の上層町家の中から平入町家が普及していったと考えられる。 木之本宿では現在も、平入瓦葺きの町家が多く 残る中で、妻入りの町家も見られ、また宿場町と しての要素も見られる。 福井県境から山間の道を抜けて木之本宿に入る と、一里塚跡があり、現在は松が植えられ、その 名残をとどめている。ここから約 800mの間に木 之本宿が続いている。 一里塚跡から宿の中心である浄信寺までがかつ ての北木之本村であり、参勤交代の際に大名を見 下ろさないよう、2 階階高が低い中 2 階建の町家 が軒を連ね、袖卯建(市内では、「袖壁」と呼ぶ地 域もある。)をつけた町家が多く見られる。袖卯建 は、木之本宿が元文 4 年(1739)と延享元年(1744) の大火に遭い、宿の多くを焼失した経緯があるこ とから、防火のために設けられたものと伝えられ る。 山路酒造まで下ると、道幅も 2 倍になり広くな る。山路酒造は旧脇本陣であり、江戸末期には伝 馬所取締りとして柳ヶ瀬の関所を通過する人馬を 検査した場所であった。明治維新の際には、数万 人の武士が江戸から北陸に向かった記録が残って いる。 山路酒造から浄信寺の間に、北木之本村の庄屋 を務めた上阪家住宅がある。同家所蔵の「普請祝 儀覚帳」により、弘化 4 年(1847)の建築が明ら かである。間口 6 間、奥行 7 間、2 列 6 間取り型 の大型町家で、2 階を低くした当時の典型的な役 人家屋である。人馬駄賃帳の他、当時の宿場に関 係した古文書が多数残されている。 上阪家住宅からは浄信寺の石垣が見える。この浄信寺を境にして南と北では街道の趣が 異なっている。浄信寺から北国街道と北国脇往還の分岐までが南木之本村であり、北木之本 村は住宅が多いのに対して、南木之本村には宿としての機能を果たす本陣や問屋、旅籠など があり、商業を中心とした地域であった。また、南木之本村では、醤油屋や酒屋が多いのが 【一里塚跡】 【袖卯建】 【上阪家住宅】
特徴で、伊吹山系からの良質で豊富な伏流水が醸造に適していたためと考えられる。現在も 木之本宿には造り酒屋が 2 軒、醤油屋が 3 軒ある。 浄信寺の南側には前記の旧本陣・竹内家住宅が あり、大名等が泊まった印である宿札や当時の宿 帳が多数残っている。その中には、元治元年(1864) 11 月に徳川第 11 代将軍、家斉の娘が加賀藩の前 田家へ嫁ぐときに宿泊した記録があり、近くの 44 村から 3,000 人分の夜具・枕から風呂桶まで借用 したとある。竹内家は幕末頃から本陣とともに薬 舗を兼ねるようになり、表には明治頃のものと思 われる薬の木製看板が吊るされており、また、表 の柱には宿場時代に使われていた馬繋ぎの金具が今も残っている。 南に下ると本陣とともに重要な宿場の拠点であった問屋跡地があり、間口 15 間の大きな 屋敷であったとされる。物資の積み替えや馬車の乗り継ぎなどがここで行なわれていたこ とに由来し、この周辺は「伝馬町」と呼ばれていた。 ここには現在、洋風建築物が建っており、昭和 10 年(1935)に湖北銀行木之本支店として建築さ れたものである。構造は鉄筋コンクリート造 2 階 建で、外部仕上げは基壇部分を花崗岩とし、その 他は人造石洗出仕上げで、4 本のイオニア式のオ ーダーが独立柱のように立っている。平成 17 年 (2005)に改修され、「木之本町きのもと交遊館」 として、現在は地域住民の活動の場になっている。 湖北地方に残る鉄筋コンクリート造りの戦前の近 代建築として貴重な建物であるため、平成 19 年 (2007)に登録有形文化財に指定された。木之本 宿の近代の発展を表すこの建築物は、町並みを構 成する重要な要素になっている。 また、南木之本村の庄屋を務めたのが竹本家で あり、現在の建物は明治初期の建築である。当家 には、巡見使の応対記録や家紋調べ帳などの古文 書が保存されている。 木之本宿の南端は街道の分岐点にあたり、 「みぎ 京いせミち」、「ひだり 江戸なごや 道」と刻銘された道標が建っている。なお、現 在の道標は平成 4 年(1992)に作られたもの 【馬繋ぎの金具】 【竹本家住宅】 【木之本町きのもと交遊館】
木之本宿では、伊吹山系の上質で豊富な伏流水が得られたことから、古くから醸造業が行 なわれてきた。竹内家住宅とともに、木之本宿で最も古いのが冨田酒造である。冨田酒造は 天文年間(1532~1555)創業で 450 年余りの歴史を持つ酒屋である。冨田家の祖先は室町時 代に北近江を治めていた近江源氏佐々木京極氏であり、京極家の跡目争いに敗れ、浅井氏が 台頭したため一旦富田村(現長浜市富田町)に退 き、その後、天文年間(1532~1555)に当地に移 り、姓を「冨田」と改めたとされる。冨田家住宅 の中で最も古い主屋は、当家に残された天保年間 (1830~1843)の「覚帳」によると、延享元年 (1744)に建てられたとあり、竹内家住宅と共通 する古い町家建築の形式を残す貴重な建物であ る。冨田家住宅の表の柱にも馬繋ぎの金具が残っ ている。 【冨田酒造】 【北国街道木之本宿の町並み】 写真【清酒醸造所 富田八郎(明治 22 年)】「近江農商工便覧」より転載
宿内にもう 1 軒ある酒屋は、桑酒が有名な山路 酒造であり、天文元年(1532)創業の 480 年の歴 史ある老舗で、現在の建物は昭和 3 年(1928)に 建て替えられたものである。かつては木之本地域 一帯で養蚕業や製糸業が盛んに行われており、そ のような環境の中で桑酒が生産されるようにな った。桑酒は、蒸した餅米と麹米を焼酎に漬け込 み、半年ほど自然に溶解させたものに桑の葉の成 分を混ぜて搾ったものである。言い伝えによると 桑酒の起源は 470 年以上昔に遡り、祖先が「後園 の桑を用いて酒をつくれ」との夢のお告げによっ て作ったことが始まりとされている。また、慶長 年間(1596~1615)に、京へ上る旅人が木之本宿 の宿で疲れから動けなくなった際に、宿の人の勧 めにより桑酒を飲み木之本地蔵に参拝したとこ ろ、再び旅を続けられるようになったとして評判 になったことから、旅の安全を願い、立ち寄って 買い求める人が多くなったといわれている。冬に は冨田酒造とともに、両酒屋で青々とした杉玉が表に吊り下げられ、新酒ができたことを行 き交う人々に伝えている。 宿内に 3 軒ある醤油屋は、天保年間(1830~ 1843)創業の白木屋醤油店を始め、ダイコウ醤油、 岩根醤油醸造店といずれも 100 年以上の歴史ある 老舗である。ダイコウ醤油では、伝統の醤油造り を受け継ぎ、杉の大樽でじっくりと発酵、熟成さ せた醤油を販売している。建物はダイコウ醤油が 19 世紀前半、白木屋醤油店が元治元年(1864)以 前の建築とされており、ダイコウ醤油の平面形式 は 2 列 5 間取り型で、木之本宿における町家の標 準的な平面形式を有している。 また、木之本地域は、耕地の零細性や土地生産力が低かったことから、水田単作に加え早 くから養蚕が重要な産業であった。特に賤ヶ岳の麓に位置する木之本町大音・木之本町西山 は「琴糸の里」「糸引きの里」と呼ばれ、邦楽器で使う楽器糸(絃)の原糸となる生糸生産 が行われ、今も伝統技術として受け継がれている。明治期には大規模な製糸工場も設立され るなど、近世以降は生糸の有力な生産地として繁栄した。 当地で邦楽器の原糸が製造されるようになったのは、明治末期に加工技術が導入されて 【山路酒造】 【ダイコウ醤油】 【杉玉を交換する様子】
三味線や琴などの絃を製造する丸三ハシモト 株式会社は、明治 41 年(1908)創業で、現在も絃 を作る工程のほとんどが手作業で行われており、 伝統の技を守りながら、美しい音色を生み出すた めの製品作りが行われている。 さらに、浄信寺の他に真宗大谷派寺院の明楽寺 がある。「明楽寺由来・寺国法留記」によれば、明 徳 2 年(1391)に真敬が創建し、もとは真言宗に 属し菩提心院と称していたが、蓮如上人の北国下 向の時に帰依し、真宗に改宗した。その後、寛永 元年(1624)に寺名を明楽寺に改めたとされる。 明楽寺本堂は、安永年間(1772~1780)の再建 によるものとされ、桁行 7 間入母屋造の湖北地方 でも最大規模の真宗本堂であり、平面の構成は 18 世紀以降の大型本堂の定型的な形式を有してい る。軸組みは浄信寺と同様にケヤキ材を使用して おり、構造的な特徴として「立登柱」が全ての柱 に用いられている。設置されている蟇股は優れた 意匠を有し、古式な輪郭に多くの彫刻が飾られ、 その上に三つ斗を置き、天井桁を受けている。屋 根も浄信寺同様、桟瓦葺で降棟を置かず隅棟は小 さいが、大棟には大型の獅子口を置き、棟積も豪壮である。当寺はほとんど民家と変わらぬ 道場建築として、中世末に始まる地方の真宗寺院が近世において別院クラスの規模まで到 達した事例といえる。 また、田上山の麓には延喜式内社の意冨布良神 社がある。当社は飛鳥時代の草創とされ、木之本 宿が古来より交通の要衝であったことから多く の通行人が参拝に訪れ、豪族武将との関係も深か った。富田八右衛門「近江伊香郡史 下巻」(1983) によると、寿永 2 年(1183)に木曽義仲が上洛の 途中で当社に祈願したとされ、観応 2 年(1351) の八相山合戦の際に、足利直義に属した桜井直常 が当社に加護を祈ったとされる。また、元亀~天 正年間(1570~1592)の戦禍により社殿は焼失してしまったが、慶長 6 年(1601)、豊臣秀 頼が浄信寺とともに修造したとされる。 【糸を撚る様子】 【明楽寺本堂】 【意冨布良神社】
北国脇往還 北国街道 山路酒造(酒屋) 上阪家住宅(元庄屋) 明楽寺 竹内家住宅(旧本陣) 冨田酒造(酒屋) 竹本家住宅(元庄屋) 木之本町きのもと交遊館 一里塚跡 白木屋醤油店(醤油屋) 意冨布良神社 浄信寺 岩根家住宅 北木之本村 南木之本村
木之本宿の他にもかつての宿場町には本陣や町 並みが残っているところがある。 余呉町柳ヶ瀬は北国街道木之本宿と中河内宿の 間宿であった。当地には元和年間(1615~1624)に 彦根藩の関所が設けられ、「北国海道善光寺道中 記」などから関所の取り締まりが厳しかったこと がうかがえる。現在集落には関所跡を示す石碑が 建っている。またかつて明治天皇の行在所となっ た鈴木家住宅にある長屋門は、元関所役人柳ヶ瀬 家住宅にあったとものを移築したとされる。 湖北町速水は北国街道木之本宿と長浜町の間に 位置し、かつて旅籠があったと伝承され、間宿的な 性格があったと考えられる。当地では、伊豆神社の 例祭として、五穀豊穣を祈る八朔祭が 9 月 1 日か ら 2 日にかけて行われる。この祭りでは、幡ば ん母衣ば ら武 者行列と青物神輿の奉納、渡御が行われる。この祭 礼の起源は、仲哀天皇が南国巡礼の帰途、この地に 寄られ、その際の武者行列が現在の「幡母衣」とな り、貢ぎ物が「青物神輿」に発展したといわれてい る。青物神輿は氏子が郷内より収穫した穀物、野 菜、果物、干物、草花等約 80 種を使って造りあげ られた神輿のことで、約 1 週間を費やして作られ る。幡母衣武者行列は幡(旗)と割り竹に 48 個の 紅提灯を吊るした母衣を背負った 7 人の若武者を 中心に、総勢 100 人近くにも及ぶ大渡御行列であ る。北国街道沿いを青物神輿と幡母衣武者行列が 一体となって練り歩く。 本行事は古くより行われていたが、第二次世界 大戦により昭和 11 年(1936)を最後に青物神輿・ 幡母衣武者行列の二者一体の渡御は途絶え、青物 神輿のみが 5 年から 10 年に一度行われていた。し かし、昭和 57 年(1982)に「神輿・幡母衣保存会」 が結成され、幡母衣武者行列は昭和 63 年(1988) に 52 年ぶりに行われ、青物神輿も昭和 61 年(1986) に 9 年ぶりに行われた。現在も、不定期ではある が、祭礼が執り行われている。 【余呉町柳ヶ瀬・鈴木家住宅】 【湖北町速水の町並み】 【幡母衣武者行列】 【青物神輿の渡御】
北国脇往還の小谷宿は、小谷城の城下町として 発達した宿場町で、二宿一駅の形態がとられてい た。伊部宿は上りで上小谷宿として本陣と問屋が、 郡上宿は下りで下小谷宿として脇本陣が問屋を兼 務していた。伊部宿は北陸諸藩の大名の定宿とな っており、延享元年(1744)の福井藩の大名行列 の際には、総勢 852 人が本陣や旅籠など 50 ヵ所 に分宿している。伊部宿にある本陣肥田家住宅の 主屋は明治 42 年(1909)の姉川地震で倒壊したも のの、元の部材を使用して再建されており、湖北 では唯一の本陣遺構として貴重である。主屋は切 妻造瓦葺妻入りであり、平面構成は 3 列 3 行通り にわ型を基本としている。また御成門や庭園は江 戸時代以来のものとして残存している。郡上宿の 速水家住宅は大名の休息所として利用され、主屋 は入母屋造草葺トタン被せ、平面構成は 3 間取広 間型を基本とした余呉型民家である。 また、塩津(西浅井町塩津浜の旧名)から日本 海の要港である敦賀を結ぶ街道は塩津街道と呼ば れ、琵琶湖と北陸を結ぶ要路であった。塩津港は 「南の大津」「北の塩津」と並び称されるほど大き な港であり、敦賀から陸路を通って運ばれてきた 物資を塩津で船に積み替え、琵琶湖を渡り旧長浜 町や大津(大津市)などに運んでいた。また江戸 時代初期には丸子船が見られるようになり、琵琶 湖の旅客や貨物輸送の主役として活躍し、最盛期 には塩津で 130 隻が保有されていた。 江戸時代には塩津街道は、「上り千頭、下り千頭」 といわれるほど多くの人でにぎわっていたとさ れ、当時の繁栄を物語るものとして集落の北はず れに常夜燈とその傍らに道標が残っている。常夜 燈は塩津街道を往来した馬方衆が天保 5 年(1834) に奉納建立したものであり、また道標には天保 12 年(1841)の紀年銘がある。かつて塩津には問屋 や船宿が軒を連ね、現在も当時の町並みを偲ぶこ とができる。 【伊部宿・肥田家住宅】 【郡上宿・速水家住宅】 【塩津集落に建つ常夜燈と道標】 【塩津街道の町並み】