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『宗教研究』新第10巻第3号(*75号)

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(1)

――目次――

1,

国史における政教関係序説(続),辻善之助,Zennosuke TSUJI,pp.1-15.

2,

唯識学に至る種子説構成の経過と理由,結城令聞,Reimon YŪKI,pp.16-46.

3,

ルスの洗礼,宗教史の取扱方に関する一考察,佐木秋夫,Akio SAKI,pp.47-58.

4,

法華経中妙音語義の研究について,河口慧海,Ekai KAWAGUCHI,pp.59-65.

5,

支那宋斉時代の道仏論争,太田悌蔵,Teizō ŌTA,pp.66-95.

6,

殉教者ユスチヌスの神学,教父時代のあけぼの,森敬之,Takayuki MORI,pp.96-107.

7,

大華厳の成立年代,近藤隆晃,Ryūkō KONDŌ,pp.108-124.

8,

基督教伝道の再考,頭本元貞,Motosada TŌMOTO,pp.125-136.

9,

キヤノン・ストリーター著『仏陀とキリスト』,Canon B.H.Streeter,

The Buddha and the Christ,

姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.137-139.

10,

橋川正氏の『綜合日本仏教史』,横超慧日,Enichi ŌZYŌ,pp.140-146.

11,

ソ・ロシヤの最近数年間における宗教史関係目録,小島鄭夫,Teio KOJIMA,pp.147-156.

12,

新刊紹介,pp.157-173.

(2)

平安時代における信仰が形式化したこと、骨董化したこと、道楽的にな少、遊戯的になつたこと、之と共に寺 院伶侶の貴族化したことが、主なる原因を成して、鎌倉時代の新彿数が生れた。かくて新体敦は貫際的になり平 民的になつた。信仰は純一で奉り、教理は簡明であり、貰行を重んじ、力を貴ぶ。これはまたこの時代の文化の 各方面に通じて現る1所の特徴であつた。この特徴は、特に繹宗に於て著しく現れた。かくて絹宗は武士と結ん で武士道精神の滴蕃に興って力あつた。武士が貰戟に於て生死の境を切り抜け、経験的に悟得したものが、自ら 繹完の直裁簡易にして非形式的なる軟風と一致するからである。尤も多くの武士の中には、或は曹宗教の新橋に 耽り、或は念俳宗に蹄伏する者も在つて、濁り躍宗のみが武士の問に行はれたとは言ひ待ない。然し躍宗が他の 何れの階級よりも、武士階級に最も多くの辟依者を有って居たことは確である。従って武士は滞京によつて蚊も 多く培はれ、これによつて大なる力を得た。この﹁力﹂が武士に自覚を輿へた。そもく鎌倉期の時代精神は、 ﹁力﹂である。この﹁力﹂が修行工夫の上に自己の力を絶封にまで高めようとする捕宗によつて般も多く培はれた のは常に然るべきことである。蘭渓迫隆、北竜普寧、大体正念、手元組元が、北條時税及び時宗に於ける関係の

国史に於ける政教関係序説︵績︶

国史に於ける政教随伴序批

菩 之 助

占∂タ

(3)

国史に於ける政教観係序詑 二 如き、最もよくこれを代表するものである。元弘三年北條氏滅亡の時に常少、塵飽新左近入道聖遠が、その末期 に臨んで、提括吹毛.裁断虚茎、大火衆裏、一道清風の偽を遺し、曲兼の上に結蜘扶坐して、その子四郎をして 首を打たしめたが如き、或は長崎次郎高重が、北條高時の膵仮借南山士雲を訪ねて問うて日く、如何なるか是れ 勇士焦磨の事と、南山答へて、吹毛急に用ひて前まんに如かずと、高重大に悦んで、敵陣に突撃し、縦横奮哉の 後∵高時の面前に自匁したるが如きは、生死を睨却したる勇気と犠牲的精神とが、繹宗に負ふ所大なるものある を示す適例であらう。 九 鎌倉時代における俳教が貰際的であつたことは、たゞに新彿数のみではなかった。葛餅教徒にあつても、亦貰 行を第一義として.徒に理論に馳せるを却け、造は眞皆伝求められ、生命ある信仰を婆求した。華厳の中興につ とめた明意、戒律の復興に志した輿正菩薩蕃尊の如き、その代表と見るべきものであらう。これ等の人は、何れ も修行を専一として、つとめて名利を排し、貴族に近づく整骨ばす、高潔にして純粋無垢なる鮎に於て、その揆 を一にして居る。明意が、承久の乳に高山寺に逃げこんだ官軍の武士をかくまつて、関東武士に捕へられ、北條 泰時の前に引出されて、臆せす所信を述べ、却って泰時をして、その徳に服せしめてよ少、厚き郎伐を受け、寺 領を寄進しょうと串Ⅲたのを退けて、之を受けなかつたといふ博詮は、先年発見せられた明意上人歌集によつて 傍許せられたことである。この明恵は、また泰時に向つて、彼が、武威を以て朝廷を抑へ、天皇を遠島に遷し奉 るが如き事を敢てしたことを責めて、彼が平素の性格にも似合はしからぬと不審をかけ、泰時をして晰悦の思に β90

(4)

堪へざらしめた。

客車は北條時頼に招かれて、鎌倉下向を求められ、その馬めに一切檻を寄進しょうといはれて之を拒絶し、馬

めに時頼をして、一切軽の寄進は下向の有無に拘らぬことだと陳謝せしめ、その懇請によつて、益々錬倉に赴き

時頼に戎を授け、彼をしてその高潔なるに傾倒せしめ、郁をつくしての寺領寄進の申出を却けた。

︻0

次に鎌倉時代の伸教界に於て注意すべきことは、閑寂意識の向上である。これは、濁れば平安時代にその源流

を求むべきであらう。即ち平安時代における日本文化の礪立と共に、国民が漸く自主観念を得るやうになり、そ

れが鎌倉時代に至って大に費達し、更に封外事欒によつて激賛したものであつた。平安時代にあつては、源信恰

都が彿敦を博ふるに漢文に依らすして恨事を以てしるすべしといへる如き、成尋が入来して常に囲の名啓を重ん

じ、お園自慢に類する問答を交せる如きはその例である。

鎌倉時代に入つては、親鸞がその内息に於て、朝家の御ため困民のために念体中すべしといへる、また現世利

益和讃に於て、金光明経の典接の下に、倦教大師の鎮護国家の精紳を歌へるが如きは、その国家主義の傾向を徹

すべきものである。

日蓮に至っては、更にその国家主義の顛著なるものがある。その徴詮は、立正安国論を始として、安岡論御勘

由水、輿北條時宗書、禰源太殿御返事、筒御器妙.諌暁八幡砂等に於て歴々之を求むることができる。

柴西の如きも、夙くその著輿韓護画論に於て、新二門鋲護国家門を立て、仁王軽以下諸鐙を引用して、その図

国史に於ける政教関係序詑 ∂タメ

(5)

家主義を明かにして居る。蒙古の事あるに及んで、京都西賀茂正俸寺の東厳禁安が、文永六年蒙古再度の牒状に 封して、朝廷よ少返書を下され、和親の議あゎとの風聞を開いて、愁款極少無く、敵国降伏を刷彿に所って六十 三日間の所躊を凝し、その願文に於て、溢る1ばかカの熱誠をこめて愛国の至情を決し、たるが如き、また繹家の 京風のあらはれたものであらう。年代が梢降つて鎌倉の末、後醍醐天皇の元享年聞に、東福寺の虎閥が元亨樺書 を航し、その王臣篇の序及び後序に於て、我国憶の優秀なるを論じ、固性の支部と比較すべからざる所以を説き、 我国を以て閣浮界裏至治の域と輸して居る。また建武二年伶侶の服色を改めんとするの議あ功し時、之に反封し て論議した中に、我国百三同姓、四海一律の語あ少、同年また東福寺を五山列より斥けんとするの議ありし時、 之に封する論奏の中にも、我国は百三一種未だ改換あらす、此れ我図の昇平を空しむ所以な少といつて居るが如 きは、何れも注意を促するものである。 沸教垂術に於ても、亦この時代には、この主義のあらはれたものがある。井上侯停家所戒の藤原長隆撃と倦ふ る不動明王は、蒙古退治の本尊として書かしめられたものといひ、その国枝は、普通のものと異わ∴不動明王も 二重子も疾駆飛躍の状あゎ、恰も閥家非常の急に馳するかの如き姿を見せて居る。三賓院所減信渥阿閣梨芸く所 の不動明王及び金剛童子の粉本も亦所梅本専として葺かれたもの1如く、何れも敢闘退治の薦め、遠く海外に赴 くべく、波涛を躇まんとするの状を描いて居る。 −■ 鉄倉時代に於て武家と緑をつないだ繹宗は、足利時代に入つて、武家が貴族化すると共に、更に探い関係を結 国史に於ける政教関係序説 朗柁

(6)

んで.殆ど貴族件数と成り了せた。かくて賂軍大名に用ひられ、その顧問に備はつた。夢窓疎石と尊氏、義堂周 信と義満の関係の如きは、その代表的のものである。固よりこの二人ともに、その性格は高潔にして、情淡無欲 敢て樺勢に阿らす、名聞利春を排斥することに於ては、決して明恵省令等にも劣らぬ人であつたことは、その言 動に徹して明かであつて、その貴族と結ぶが如きは、最も欲しなかつた所であるに拘らす、その意志と相反して か1る結果となつたのは、知らず識らす時勢の潮流に推し流されたものであらう。 これより後、室町時代の締伶は、多く幕府に近づき、将軍大名の文事秘書として用ひられ、絹宗は文筆の宗と なつて、不立文字の宗旨、却て文字の宗となつた。心ある者はつとめて之を諌めた。夢窓並に義堂の如きも、夙 く之に封して訓誠を垂れて居るが、大勢の赴く所、つひに膵伶をして儒者の代をつとめしむるやうになつた。 締伶が文事に携はつた関係から、外交の事も多くその手に重ねられ、遣明使節はすべてその仲間より選ばれた 而して使節として彼地に赴くものは、多くは貿易の利潤分配を目的としてゐたものであつて﹂一種の貿易商たる の観を呈した。また五山の中で枢要の地位にある伶侶は、金銭の利殖の事に長けて、富裕なるものが多く、遣明 船の貿易に資本を投するものも少くなかつた。文筆の宗はかくてまた金銀の宗と化した。 〓− 宝町時代に於ては、中央政府は殆どその統制力を失ひ、薦めに各地方に於ける群雄割嬢の形勢を馴致したので あるが、宗教界に於ても、亦この風潮に伴ひ、恰侶は各地方の大名と結びついて、師柄の閲係を成立した。これ は大名の側よりいへば、或は眞の道心よ少、或は文塾の趣味よ少、或は他国との交際の必要より、或は又その地 国史に於ける政教踊係序改 五 占9∂

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国史に於ける政教関係序詑 六 方文化の誇りよりするものもあつたであらう。僧侶の側よりいへば、大名と結ぶことによつて、その保護を得て 法の焉め寺の蔑めに、自衛の必要より出たことであらう。その貰例は、各地方至る所に之を見出すことができる かくて大なり小なり、その地方文化の中心を作る一の成分とな少、多くの小都合を現出し、やがて後の封建制虔 を産み出し、都市番達.の濫煽となり、同時にまた後の摂家制度の基礎を築いたのである。 地方大名と結びついた恰侶は、その幕僚として椎梶に重し、その文筆と掃舌とを以て、諸国に使して交渉の任 に営力、重要なる任務を英Lたものも少くない。應永の上杉膵秀の乳の頃よゎ∴京都将軍と踊東公方の間の交渉 について−膵恰が使者として、双方より派遣せられたのを初として、永享の持氏の嵐の前後、及び文明年間成氏 と義政の和睦についても、繹倍がその斡旋の任に雷つて居る。戦国時代に及んで、各大名は軍陣の中に多く僧侶 を川ひて.栂狙折衝の任に営らしめた。上杉氏、武田氏、北條氏、今川氏、尼子氏、大内氏、毛利氏、大友氏等 に閲する文書には、有名無名の恰が使に過された事蹟が多く遣って見える。毛利氏における安図寺意竣の如きは その最も傑出したものである。佃降つては踊原役の起らんとして未だ著せす風雲の念なるに甘粕り、島津氏の幕僚 として関束と交渉したる文之南浦の如き、また徳川家康の焉めに上杉氏の家老直江乗輯と往復してこの役の序幕 を開いた相国寺の承免凸実の如きも、亦この種の人物の中に於て最も著しいものである。 〓ニ 鎌倉時代より梢萌してゐた平安文化の費達は、室町時代に入って著しき豪展を示し、配合の各方面に於て、民 衆勢力の伸張を示した。その勢の選る所、その方向を逸して、途に所謂下剋上の相を現じ、到る所民衆一揆とな ∂94

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って現れた。その時勢の相は、宗教界にも反映して、嘗梯教新伸敦何れも皆その潮沈の中にまきこまれたのであ つたっ南都北嶺は昔ながらの暴威を追うし、叡山、興福寺、束大寺、高野山以下大小の寺院、皆僧兵を蓄へて、 朝廷幕府への反抗、他の寺院又は大名との闘争、仲間の喧嘩に没頭した。本棚寺には一向一揆があり、文明の前 後より漸くその鋒鑑を現し、天文より天正に至る比、其勢最も狛狭であつた。その一揆の成分は、主として百姓 であつた。日蓮宗も亦これに劣らす、夙く室町時代の初よ少、時代の風潮を受けて、大衆の勢力漸く強く、厘暴 動を起して居る。天文の初に於て、其勢最盛にな少、途に本願寺と指抗し得るまでになり、爾細川の乱に利用せ られて、本鞘寺と戦ひ、天文五年松本法乱によつて叡山に攻められ、京都の二十一本山悉く焼撃に遭ふまでは. その勢は責に凄まじいばかりであつた。臨済宗の如きまで、民衆主義的傾向が強くあらはれて、夙く南北朝時代 應安年間に南醒寺山門建立について、その費川を徴する篤め関所を造った事から、三井寺と寧ひ、叡山が之に應 じて倣訴し、つひに山門を撤廃せざるべからざるに至つた。この一件について、五山の徒は幕府に反抗して、五 山派寺院住持の同盟退職となつた。鎌倉にあつては、建長例覚所沢の事あ少、或は暴力に訴へ、或は放火を企つ るものさへあつた。躍寺には一般に兵器を蓄ふるもの多く、大衆の蜂起も頻紫にあり、恰兵気分に満ちてゐた。 下剋上といふは、民衆勢力の伸張を意味する言英でもあるが、また﹁成上り﹂を意味する言英でもある。武家 の文化は、その初にあつては触る平民的のものであつた。その武家が室町時代に勢力を得たのは、その文化が平 民色彩に富でゐたからである。然るにこの武家文化は下剋上トて成上り、時の移ると共に公家文化に化せられて その富有を悼んで生活を美化し、終に貴族化して、結局滅亡の運に陥る。武家の公家化したのは、足利義満に始 国史に於ける政教関係序説 七 595

(9)

国史に於ける政教閥係序詭 八 士る。而してまた養満に於て故もよく代表せられて居る。その大臣となり准后となり、詩歌管絃を弄び、公家風 の遊楽に耽り、宝町の邸に花の御所を造り、また金閣を造営したが如きは、その成上りの有様をよくあらはした ものである。武家は成上ると共に系固を作って、その儀容を整へた。系固買ひといふ事が、この時代には多く見 える。大名小名共に系間作成に努めた。この武家の貴族化と並行して、宗教界にも亦同じ風潮が認められる。繹 宗が武家と結んで将軍大名等と探き掬係を有するやうになつたことは、前にも述べた通力である。日蓮宗にあつ ては、南北朝の頃妙顛寺第二世大覚僧正の時、朝廷及び幕府との親密なる関係を結んでよ少、漸次公卿衆の問に その勢力を及ぼし、戦闘時代に及んで、左官廷に接近するの横倉を得て、紆紳の中に比較的多くの辟依者を得て 漸く貴族化するやうになつた。 浄土宗にあつては、蝕倉時代よ少、宮中との関係探いものがあつたやうに俸へて居るけれども、確かな詮揚は ない。宝町時代になつて、漸く宮廷に接近し、後花園天皇の頃より、次第に締着になカ、後土御門天皇の時最も 盛である。 本願寺についても、またこの成上りの様子、貴族化の跡を認めるのであつて、夙く南北朝の頃覚如の時よ少、 既に貴族的傾向があつた。卸本願寺中心主義を立て1、田舎の門徒等を軽賭したことは之を示すものである。蓮 如に至つては、その宗風は平民的であつたけれども、伺つとめて武家に接近を求めた。これはその日街の馬めと 宗勢蹟張の方便に出たことであらうけれども、伺貴族的色彩があつたことを否むことはできない。その晩年には ︼向宗は地下の仲間に蔓街したらしい。これはやがて堂上方へ弘通の先駆であつた。箕如の時には、公武への接 ∂9β

(10)

近の傾向は著しく進んだ。脾軍管領公卿衆との維復が頻繁であつたことは.多くの公卿衆の日記に散見して居る 謹如の時に至つて、本僻寺の貴族化は更に大に進み、詮如は九俵家の靖子とな少、また四方臍等を用うることを 許された。四方膳は天子親王大臣に限り用うるものである。本願寺の系固が作成せられ、本願寺と日野家の相承 系統が明かにせられた。即ち日野有範より範宴︵親鸞︶へのつゞきを示し、本願寺は日野家の流れをつぐものであ るとせられた。この系固は、叡覚にも供せられたが、それは朝廷に公認せられたと、世間へ棟模する雷めであら う。是に至つて、本願寺は常時流行の成上りの型にそつくりはまつたのであつて、貴族化の類型的のものとなつ たのである。 元来件数は、鎌倉時代に於て大に興ったといはれては居るが、それはたゞ新宗教が芽を生じて梢畿育したとい ふだけであつて、未だ大なる成長を途ぐるには至って居らぬ。その眞に繁茂して花を開き賓を結ぶやうになつた のは室町時代の事である。銀倉時代に賛成せられた賓力が、室町時代に入つて大に頚挿せられたのである。この 時代になつてこそ、新件数は最も内的になり深く人心の奥底に泌み込むやうになり、また上下の階級に普遍的に なり、文化の内容に密接なる交渉を有するやうになつたのである。その理由は、一には時勢の影響にも由ること であらう。また一には、前にのべた如く、貴族大名との関係の結ばれたにも由ることであらう。また一方には、 各宗族の平民的色彩に富んでゐたにも山ることであらう。かくて各完とも、その盛を極めたのであるが、それは 室町時代の中期如来山時代に於て、その頂鮎に達したのであつた。それより以後は漸く下り坂に向つたのである その理由の主なるものは、即ち上にのべ来った如く、一方には平民的色彩が逸して下剋上とな少、民衆的傾向を 閲見に於ける政教細僻序訟 九 597

(11)

国史に於ける政教関係序詭 一〇 帯び、伶兵気分に墜落したこと\ 一方には成上りの下剋上となつて、貴族的に堕落したに由ることであらう。 −四 江戸時代に入つて、祀倉の秩序も整頓し.政治上の権力も統一して、復興趨勢の盛なるに雷って、件数界も之 に伴うて興隆の運に向ひ、各宗とも相常に撞着なる人物が輩出した。中に裁て金地院崇偉の如きは、その代表的 のものであらう。初め家康は、前に述べた如く、相国寺の承允を用ひてその顧問とし、外交の事務寺社の公事並 に書籍の刊行、共他の文事に興らしめた。承免の寂後は、国光寺の元信之に代少、元倍の寂後は、崇俸がその後 を承けた。かくて崇俸は、初は文事を以て家駿に仕へ、外交事務を委ねられ、また文萎復興事業に秋草したので あるが、漸くその才幹を認められて、幕府の枢機に重し、大阪陣前後における東西の交渉に輿少、また寺社法度 の制定は悉くその手に成少、寺社行政の責務は、殆すべて彼の方寸にHたのであつた。三代将軍家光の時に及び 朝廷と幕府の関係の最も緊切なるものありし時に常つて、克く幕府の閥老を助けて、その政策を強調し、世の憎 悪誹誘を一身に受けて、事件を虚理し、〓息幕府の焉めに努めたのであつて、所謂黒衣の宰相の語は、常さに彼 の亨くべきものである。此の如きは、固より僧侶の本分といふべきものではない。然しながら、之を五山僧侶が 徒に文事の遊戯三昧に彷捜したのと比べては、賓に雲泥の差があゎ∴僧侶として政治に参興したものとしては、 我邦政教関係史上皮も傑出したものといふべきであらう。 購軍家光には、倍二人その最高顧問として浮奄が屈つた。然しこれは、崇博の如く、寺社行政の責務に興った のではなくして、裏面に在って、その精紳修養の上に、また政論上の根本方針等について献巷したのである。而 釦β

(12)

して浮奄が権勢に近づくを好ます、家光の好遇を受くるを以て、困惑の甚しきものとしてゐた状況と、その寡慾 にして人格の高潔なることは、恰も錘倉時代における明恵寄合等と匹敵するものであらう。 −玉 江戸時代の蝕教は、組じて之をいへば、墓碑の時代であつた。固よりその間には、一進一退波瀾の上下はあつ たけれども、金牌の趨勢としては、退潮に向つたのであつた。元線時代を中心として、宗教界には復古の気運が 漆少、各宗に於ても、多くの俊傑が現れ、それÅr−或る意味に於ての中興を成した。然しながら、それは燈の終 に滅せんとして復た明かなるが如くであつた。民心は一般に彿教に封して雉厭不満の情を有してゐたことは事貰 である。かくて、排件の思想が起った。排彿に関する著作は、倍率の側より、神道の立場よ少.また経済及び政 治の方面より、移しく現れた。足利時代には、倍率は僧侶の手に在つたが、江戸時代になつては、俗人の手に移 った。儒者も初めは従来の慣習によつて恰衣を着けたが、忽ちにして之を臨ぎ、髪をのばした。将軍の院耽も足 利時代には怖教の語を探ったが、江戸時代にはすべて典接を倍音に求めた。檜書彫刻の題材にも、前の時代には 沸教に関するものが多かったが、江戸時代には世間的のものが流行した。随つて彿教に閲する作品には、全く傑 作が見られなくなつた。青紫に於ても亦同じく彿教の影響が稀薄になつた。一般に時代の思潮は反件数的にな少 世俗的傾向が著しくなつた。 かくの如く件数の構成が失墜したのは何故であるか。その理由としては、第一に伶侶の堕落を数へねばならぬ その堕落たるや、由て来る所は久しきにあ少、少くも足利時代にその端緒を求めねばならぬ。郎前にも述べた如 国史に於ける政教関係序説 ら99

(13)

一二 国史に於ける政教関係序詑 く、下魁上の風潮による大衆一揆が、その常道を逸して、伶侶の本分より諦離したこと、是れその一。女犯並酒 肉の惇乱か行島多かったこと.これは固より足利時代に始まつたことではないが、この時代に殊に霹骨なるもの l多かったこと、是れその二。男色の盛なりしこと、殊に碓林にその弊甚しく、有髪の童子締羅を飾り、鉛粉を 塗って痘に侍り、伶侶の間美少年に封する締交の草創しいものがあつた、是れその三。職位の安男が僧侶の間に 公然行はれ、餞若干貰を射めて官位を求め、寺の住持職といふはたゞ名ばかりのものが多くなつた。この弊はま た殊に膵宗に甚しかつ冤収入の多い挿寺の役恰の地位は、多く銭を以て費買せられたの甘ある、是れ四。金銀 利殖の事が役紺たちの打隙となつた。殊に繹寺の役伶は﹂多く富を蓄へ、質を取り金を貸し、また前にも述べた 如く外国貿易にまで手を出した、為れその五月かやうにして、足利時代の僧侶は、時代相の現算主義の中に絶し て、露骨なる現算暴露に隋つた。これ等の弊は、江戸時代に入つていよ′∼益はげしくなつた。大衆一揆こそは 国家の統制力によつて抑へられたが、女犯、男色、貨殖何れの造にも言語道断なるものが多い。 彿教義緻の第二困は、彿教の形式化したことである。件数の形式化は、一般に此時代の文化の形式化したのに 作ふものであつて、必しも彿教界にのみ起った現象ではない。即ち一般に文化が型にはまり、固定して、蔑めに 囲滑に流動せす、その間腐敗の気を生じたのによることである。件数の形式化は、また幕府の政策にも困ること である。即ち一には新儀の禁止せられたこと、即ち研究の白由を東縛せられたことである。之に因つて、一︷ホと 他宗との寧、宗内の同志討が始まつた。例せば浄土宗と本願寺との誌名論訴、東西本願寺の本末寧、各宗内にお ける異安心の寧など、その貫例は移しいものである。また信仰の内容が形式化したことも著しいものがある。蓮 βα)

(14)

華往生、郎身成彿、或はまた本願寺における小見往生の論争の如きその例である。形式化の二は、桶家制度であ る。その起因は前にも述べた如く、足利時代にあることであつて、大名と寺院との結合に始まつたことである。 それが江戸時代になつて、政治腰制に於て封建制虔の樹立するに伴うて、宗教界にもその型を族め、更に幕府が 基督教禁制の手段として之を利用したことによつて、いよく確定せられたのである。之に因つて、改放と離横 は特別なる理由あるに非れば容易に許されす。寺院は幕府の保護に睦れ、伶侶は桶家に封して椎柄高く、柄邦を 塵迫し薦めに民心はいよ′1彿敦よ少背離した。 形式化の三は、本末制度と階級制度である。これまた政治界の形勢に順應したことであ少、叉幕府の宗教政策 として、寺院法度に於て定められた中央集椎の主義によつたことであるが、これまた寺院の自由を束縛して、そ の樗敗の原因となつた。寺の格式が厳重に定められて、動きの取れぬものとなつた。末寺は転封に本寺に服従せ ねばならなくなつた。本寺より末寺に至るに随って、其聞に尊卑の階毅が煩はしく刻まれた。その階級によつて 檜侶の服制履物乗物等まで規定せられ、幕府の待遇も、亦之によつて差別があつた。かくてもと′1平民的に起 つた宗派、たとへば本餌寺の如きさへが、殊に甚しい階級観念に捉はれて、伶侶は益貴族的に堕した。排併給の 一因はまたこ1に存してゐたのである。 明治になつて、紳彿分離焼餅毀樺の勢凄まじかったのも、この側より見ればげにもと首肯すべきものがある。 〓︵ 二百六十飴年間徳川幕府の保護政策によつて惰眠を食って居たる寺院伶侶は、明治維新の改革と共に、一朝に 国史に於ける政教関係序訟 β∂J

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国史に於ける政教関係序説 一四 して保護者を失うたのみならす、靡彿毀樺といふ凄まじい嵐に吹きさいなまれた。利を見るに敏なるもの、若く は初より彿道に心なく、たゞ世すぎの馬めに、形ばか少に頭を剃ったもの、又は父組以来の習慣によつて、檜特 に入つてゐたものなどは、忽ち辟俗して、それ′ヾその生活の途を求めた。伶侶でも神官でも、生活の安定を得 る見込のある朗に奔ったのである。穣ったものは、虞に道を求めんとするもの、彿教の主義に殉ぜんとするもの であつた。かくて伶侶の淘汰は行はれた。伶侶は今や頼むべき何物も持たない、自ら立たね璧ならぬことを覚っ た。志操堅固のものが嘩されて、奮闘努力を輯けて、教界の復興を志した。鹿彿毀樺の鴬めに、寺も失はれた、 寺の財産もなくなつた、領地は後攻せられた、師簡閲係も脆くなつた、本尊彿像も破毀せらる1ものもあつた、 安物などは塵芥の如くに棄てられた。然しながら、これが焉めに、恰侶は目覚めた。これは確かに靡彿毀樺の訝 した意外の賜物であつて、寧ろ皮肉の感がある。これよりして、心あるものは、或は上菩に、建白に、或は伶侶 仲間の囲結に奔竜した。或は顧みて従来檜偶の紋隋をn唆し、その癖正につとめた。かくて不健全なる分子は飾 ひ落され、浮化作用が行はれた。やがて明治二十年前後よ少、俳教は多少息を吹かへし、幾分活動を見るやうに なつた。 然しながら、一部分には、今日に於ても、庸二百年前の江戸時代の姿をそのま1に保持する向もある。江戸時 代の貴族化したる各完本山の﹁成上り﹂ぶりは、昭和の今日に於ても、庸よく保存せられ、われくに向つて生 きた史料を提供して居るものもある。 抑日本文化費達の大勢は、その一面に於ては、貴族文化享り平民文化へと進歩して居る。差別より平等へと展 β0β

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関して居る。固よりその間には、多少の波瀾上吉あつたので雪が、大勢はその方向に動いて居る。但その進闘

歩展開が、序に楯ひ中を執る所に、我図民の特長がある。然るに沸教のみは、江戸時代に惰眠を食ゎ、文化の停

滞凝固したが爵めに、一般配合の進運に伴はなかった。かくて明治時代に至彗 l般杜合には、四民平等階級撤

靡等、平民文化の費達者しきものあるに拘らす、寺院伶侶のみは、自ら意識してか、或生息識せすしてか、落伍

者とな少、依然江戸時代の奮套を襲ひ、偶然として自ら誇カ、階級観念に没頭し、以て濁り尊大を維持し得たり

として喜んで居る。寺院僧侶の文化は、外の祀倉に比べて、少くも五六十年は返れて居る。志ある者若くは狂慧

なるものは、たゞその名のみを檜籍に列して、外の職業に栢じて居る。昔着、三善清行の意見封事を延菩の帝に

上るや、常時の僧侶多くは私に自ら落髪して、猥に法服を着け、形は沙門に似て、心は屠兄の如しとのべた。こ

れは浮浪の徒が、形を檜侶に侶ることの利益ありしに由るのであつた。今は之と反封で、僧侶の籍にあるものが

伶形の装皇骨ばす、名は恰侶にして、賓は俗人たるものが多くなつた。また曾ては、平安時代より、宝町時代に

至り、寺院は文明の中心となり、恰情は祀倉の先駆となつたものであるが、今や伶侶は一般配合の進運より造に

後れて、寺院はまさに胚史的造物と化し去らんとするの状態である。一部覚醒者の努力が、これ等の僧侶寺院に

新なる生命を賦興すべきか﹂または、このま1に、ぐづぐづに須磨して、現にわれくが奈良の古寺を見るが如

く、彼の国賓保存命の手にかゝるべきか、そは慮管抄の語を恨りていへば﹁未来記ナレバ申アテクランモ誠シカ

ラズ⋮⋮リノヤウヲ又カキッケツ、、心アラン人ハシルシクハヘラルペキナリ。﹂︵昭和八年一月二十五日︶ 国史に於ける政教関係序説

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唯識単に至る種子説構成の超過と理由

結 城

令 問

緒 言−−、穐子の免除思想としての瞭眠詮−〓、穐子の先隔思想としての不失法−≡、種子の免陥思想とし ての其の他の諸説1I四、経真部の種子詑 −五、種子説構成の動機と種子の新東本右党後論−六、部汲の築造設 に封する経部及び唯識畢汲よりの論破−−︵こ有部の三世賓有詑に対してl二︶梯子的不相膣貿法認に射して1− 七、現行法に対する穐手法の領域1八、無真部より唯識撃扱へ!飴語。

第四年めの冒H本件教拳協倉年報﹄が最近に至つて刊行せられ、其の中に加藤精神教授の論文﹁唯識単に於け

る桂子詮の費達に就いて﹂と云ふのがある。叉昨年の冒ボ教研究﹄中に水野弘元氏が﹁阿頼耶識思想の蟄生﹂と

題した論文を孝義せられ冤前者は達意的に、後者は資料を豊富に提供し、共に註するところが少なくない。此

等が最近頚表せられたものの中で今自分が述べんとする事柄と紺係を有するものであらう。此等の論文があるに

も拘らず白分の此の稿に意味があるとするならば、それは加藤教授の詮は達意的なるが焉め﹁構成の経過﹂に閲

して飴りに解れておられぬ様であるからであり、水野氏の詮とは﹁構成の理由﹂に関して見解を異にするからで

唯識単に至る種子記構成の経過と璃由 仰塵

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−種子の先駆思想としての随眠誼 種子︵男a︶思想の先駆として最も早く現はれたものは大衆部︵Mal−訝aづghika︶一説部︵Ekavyaくah裟ka︶詮 出世部︵LOkOttaraく邑in︶鶏胤部︵内岩kkl已ka︶等川部の本宗同義と云はるる随眠詮である。即ち詮一切布部 ︵紆rく訝tiく邑in︶が随眠は煩悩の異名にして心所の一に過ぎないと云ふのとは興り、大衆部等に於いては現起の煩 悩を糎と栴し、煩悩の現起ならざる性のものを随眠と栴してゐる。言ポ輪論﹄に依れば 此中大衆部、一語部、詮出世部、難胤部本宗同義者⋮⋮⋮随眠非レ心、非二心所婆亦筆画墜随眠異レ纏、纏 ︵l︶ 異二随眠↓應レ詮随眠輿レ心不こ相謄↓糎輿レ心相應 と誼き、糎と随眠と云ふ用語に依って相違を示し、随眠を以つて不相應法喪としてゐる。﹃宗輪論h等の記述は単 にそれのみであつて、随眠の立てられた理山に関して一向に解れてゐないが﹃完輪論述記虹には其の問の消息を て謝意を表す。 の著﹃小乗件数概論﹄は此の種の研究には必読の良書であゎ、筆者の之に負ふところ亦少なからざることを白し 由﹂に関する意見は最初よ少之を異にしてゐたので、此の鮎特に誤解のない様にことわつておく。叉高井観海師 翳られ初めてその内容を知ったわけである。此虚に記して同氏の好意を謝す。斯様な次第であるから﹁構成の理 ってゐた水野氏の読も不注意から之を知らず起稿の中途以後に於いて友人よ少之あるを聞き、水野氏から披刷を あらう。殊に自分の論文は濠め爾論文を承知し然る後之に封抗的な意味で起稿したものでなく、以前に蟹表にな 唯戦野に至る種子訟楠成の経過と理由 坑道

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唯識畢に至る種子詑構成の経過と理由 一八 漏らして、若し煩悩の潜鹿的なもの即ち随眠を認めずLて現起のもののみを認めるとすると、無心位にあるとき 或は前の剃都道悪人であつた人が、何等かの機縁で善心が生起したとすると、現にその剰郵その人には不善心と 解せらるる何物をも存在しないこととなつて、その人は聖者と云はれねばならぬ。而して聖者と凡人と云ふ梗準 は結局その人の剃郵剰郵に起る善心と不善心とに依つて規定せられねばならぬこととなり、然かも善心と不善心 との生起の推移牲父五に刻々に欒化するから、途には凡聖の棟準を立てることはそれ自鰭無意味なこととなつて しまはねばならない。右の如き不都合を除去せんとして、大衆部等は煩悩に現起の纏と、その潜在性の随眠とを 認め、現起を梗準として云へば、成る程善心生起の剃郊その人は聖者であるかの如く考へられるが、随眠性の煩 悩が依然潜在的にその人の人格を構成してゐるから、その人は聖者たり得ないのである。即ち﹃婆要論﹄巻五十 に、不相應の随眠とLて随縛の義をあげ、随縛義の随眠は一切位に於いて恒に現起すと説いてゐるが、まさしく 右逃の義を指示したものであらう。 次に大衆部所説の随眠が、成立した種子思想の先駆をなすものであることには異論はないが、果してこれを種 子と栴しうるや否やと云ふことは一個の問題である。即ち快食の普光は大衆部の詮として現題の煩悩を糎と柄し. それに依って稟成せらるる種子を随眠と云ふと述べ、法貨は案成種子と云ふ程には明確な言ひ方はしてゐないが、 煩悩の力に山つて別して随眠あり、それを煩悩の種と名づくと云って.雨着共に大衆部の随眠を種子と云ふ鮎に 於いて一致してゐる。唯識の邑師も亦﹃義雄﹄の中に大衆部の随眠を以って種子だと見偵してゐる。以来近世に至 るまで単著多く光、賓等の詮に従ってゐるのである。然るに唐の室泰のみは右の所詮に反封を唱へ、著し随眠を βα7

(20)

以って直ちに種子と云ふならば何故に食、喝痴、慢等の煩悩に於いてのみ随眠を立てて三性の心に通じて立て 仰

ないのか、即ち三性の心皆悉く随眠よ少生すと云はねばならないではないかひ然るに三性心に立てずして煩悩に

於いてのみ之を云ふは、これ程子ならざることを許するものであると稀し﹃成唯識論疏抄誓巻四に

有人云、大衆部有こ種子壷此誼不レ然、既有二種子”何故唯於二食隕痍慢疑等煩悩之上一立レ有二随眠”若草種

︵9︶

チ郎艦レ云、三性心皆有二随眠一生、既於二三性心中一不レ立、故知無レ有三種チ也

と説き、随眠を種子だと解する人々に封して極力反封をしてゐる。両説何れに空音表すべきかは単著の意趣に

依って異なるであらうが、自分は麗容師の着眼鮎に敬意を表し且つ讃成する。何とならば後にも招ずる如く、大

衆部と同高容の随眠詮里芋た部派に化地部︵Mahi訂aka︶の本宗や増子部︵尋s官tr官︶等がある。此等の

主張は大衆部と何等の相違鮎を認め得ないが、化他部の末宗に至っては本宗の随眠思想を頚展せしめ、随眠の自

性は前波後生して恒に現在に於いて存在すと科し、更にその随眠が因と為って現起の煩悩を生する以上、理とし

て煩悩以外の諸の現起の法にも亦常然能生の囚を認めねばならぬこと1な少、途に諸の産廃界三科の法、換言す

れば一切の諸法は煩悩で云へば随眠に相雷する滞在的な或るものがあゎ、それが恒相続し恒現在し、練あれば因

となつて諸法を生すと云ふ思想にまで豪展したのである。斯くの如き経過を観察すると、化地部の末宗に至つて

大衆部及び化地部本宗の随眠思想は初めて一般的に菅ノー種子的に吾恐屏せしめられたのである。此の意味に

於いて、塞泰が随眠を無雑作に種子誓する誼に反封したのは卓竺ある。

大衆、一説−詮出世、難胤の四部の随眠詮は右の如くであゎ1此等の思想に影響せられ、その説を採用したも 堆識翠に至る托子詑構成の経過と理由

(21)

述の如くである。即ち化地部の本宗は

其化他部本宗同義⋮⋮随眠非レ心、非二亦心所蕪所縁東レ経典、随眠自性心不相應、纏自性心相應

と云ひ、暁子部は

︵生︶ 随眠醒是不相應行

と述べてゐるのであつて、全く大衆等四部の所詮と同様である。次に化地部の未完に至っては

へ5︶ 其未完異義者⋮⋮随眠自性恒居二現寧諸鐙魔界亦恒現在

と稲し、明らかに本末頼義の聞に義の相違が認められ、前述の如く未完に来って初めて表の種子的思想と云は

るゝものが成立した様である。水野氏が﹃婆婆論﹄巻九に依って化地部が心不相應の悪を認めてゐることを指示

されてゐるが、恐らく化地部未完の思想であらう。

斯くの如くして吾々は化地部未完によつて特殊的な随眠思想より一般的な粒子的思想へ韓廻する要求と経過と

が明らかにせられた。然し化地部の未完と雑も狗ほ粒子思想として、随眠詮を完呑に教展せしめたと云へない鮎

がある〇それは特殊的より一般的に迄牽展はしてゐるが、然し依然不相應詮に留まつてゐて、未だ種子自髄の或

る組織を構成するまでには達してゐないからである。此の鮎より考察すると随眠思想より出敬しながら、不相應

法の範疇を耽し、完全に種子としての領域、紐絨を完成せしめたのは軽量部でつて。此の鮎加藤教授が﹁俳教に

放ける種子霹習詮の畿見者は軽部である﹂と、その挙動を潜へておられるのは至営の嘗である。

二〇

唯識寧に至る種子記構成の過経と理由

のに警部、化地部等があること、並に化地部の末宗に至り遽に極めて進歩し忘子的思想に碍回し警と呈

︵4︶ 6αヲ

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以上随眠を種子思想の先駆として一膳考察したのであるが、水野氏の研究に依ると.更に﹃論事﹄の中の案連 流・北道汲が﹁随眠は無断路なり﹂と云つてゐるとのことである。此の細沢も恐らくは随眠を心不和應としたの であらうから上に準じて知るべきである。 ︵1︶異部宗翰論︵大正顛経四九p・−晋︶ ︵2︺成唯識論疏抄巷四︵持戒八十之二p・−宅盲︶ ︵3︶興部宗輪論︵大正裁経四九p・−晋︶ ︵4︶大局婆婆諭巻二︵大正顛経二七p・空8 ︵6︶異部宗翰論︵大牢戒経四九p・−首︶ こ 種子の先駆思想としての不失法 大衆等四部の随眠思想は上述の如く化地部を経て次第に種子的思想へと接近せしめられてゐた。然るに他方に 於いても亦別な動機から種子思想が要求せられた。それは今述べんとする不失法の思想である。前者は思想生起 の動機を凡聖の簡別と云ふ鮎に於いて考察され、それが延いて一般的な粒子的思想へと蟄展せしめられたのであ るが、後者にあつては純然たる柴道思想の原理とLて之を求め、葬ら凡聖の簡別と云ふことをも考慮に入れてそ の説を構成してゐる。即ち過去の業より現在の果を引起すと云ふけれども、過去の葉は既に滅して無である。既 に城Lて無なるものより如何にして現在の結英を生するや、と云ふことは業道思想を反省するとき何人と雄も菊 附くところの疑問である。此虚に於いて不失法の思想が創咽せられ、而してその創唱者は、此の思想に依って業 唯識畢に至る粒子説梓成の経由と理由 60タ

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と述べてゐる。池田講師の近著﹃根本中論疏無畏論単によれば 発と不失法とは負債と券との如し。 負債の如く菜を見、券の如く不失法を見るべし。例へば負債は費消せらるるも、券あるが故に富者の財は失 はれす、元金は利子と共に来るが如く、一利郷の柴は減速するも、因よ少生ずる不失と名けらるる法あるが 故に、作者の業果は失はれす、殊勝の果と共に氷るべし。⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ ︵9︶ 是政に不失法によカて柴の果は生ぜらる。 と繹されてゐる。不失法の思想が正長部の所詮であることは、虞諦、嘉揮、慈思等の言を待つまでもなく、既に ︵3︶ ﹁顛談論﹄に明記されてゐるので疑の飴地を存しない。而して此の法が純然たる菜道思想の解決より聾してゐるこ とは上に依って明瞭であるが、同時にその中に凡聖の簡別をも考慮に入れてゐることは﹃成業論﹄に 若爾應レ許下由二善不善身語二葉一克相揖中引二別準奄、其鰭賓有心本村應行産所擁山有詮此法名琴南長↓有 詮此法名二不失革∵㌘此鱒故能得二常釆愛非変異∵意業亦應レ許レ有二此法∵若不レ爾者飴心起時此便断滅、心 ︵生︶ 相械中若不レ引二起如レ是別法↓云何能得二富来世英↓是故定應レ許レ有二此法↓ と説き.全濃としては兼道思想の詮明として不失法を立てながら、意業に不失法を立てる理由として﹁飴の不善 唯識嬰に至る縄子詮構成の経過と理由 道の問題を解決せんとしたのである。﹃中論﹄の頚に、その不失法に関して 不失法如レ券 菓如二負財物一 見諦所レ不レ断 但思惟所断 此性別無記 分別有二四桂一 ︵I■︶ 以二是不失法︼ 諸共有こ果報一 ニニ β∫∂

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等の心が生起するときそれと反対の善等の業が便ち断滅して凡聖の簡別が出来なくなる﹂からだと述べてゐるこ とに依って察知せられる。蓋し大衆部等が、凡聖の簡別の焉め随眠を立てたと云ふことも、結局は黄道思想の一 特殊的場合をあげて之を解決せんとしたまでであつて、高虚より概観すれば此等は結局業道の解決にその動機を 饗してゐると云ふことに踪結する。而して此の不失法が不相應法に梼せられてゐることは、上所引の﹃成業論﹂ の文に依って明らかであるが、此の法の理解に至つては、大衆部等の随眠、或は化地部未完の所詮の如く、その 概念が明瞭でない。何とならば不失法に関する論疏の樺を見るのに両様に考へられるからである。即ち蕃思が ︵5︶ 不失と増長とを不相應となすと云ふ、是は得の異名な少 と云ひ、﹃按識論﹄にも ︵8︶ 正量部は無欠と名づけ⋮⋮薩婆多部は同随得と名づく。 と云ってゐる如く、不失法を有部の得の如く、或は得と同義に考へられる様な言葉があるからである。前所引の ﹃無長論﹄に﹁負債の如く業を見、券の如く不失法を見るべし。例へば負債は費治せ 財は失はれす、元金は利子と共に来るが如く﹂と述べてゐるところの﹁元金は利子と共に来る﹂の言襲、或は叉 ﹃中論疏﹄に へ7︶ 一切衆生の一念の業を起すに随って必ず不失法之に随って起ることあ少。 と説いてゐる言葉等に依ると、不失法と所得の発との閲係は、現行と種子と云った様な直接的な閲係でなく.有 部の云ふ所得の法と能得の照と云った様な附随的な踊係の如くに考へられるのである。然るに叉他方には﹁一利 唯識単に至る挿子詑椛成の経過と理由 βJJ

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唯識撃に至る種子詑構成の経過と理由 二四 部の業は城塞するも囚より生する不失法と名づけらるる法あるが故に作者の業果は失はれず﹂と云ひ、﹁由二幸不 善身語二葉一夜相紆中引二別法一起⋮⋮由l血法一故能得こ常釆愛非愛果一﹂と云はれ、更に﹃中論疏﹄には不失法は書 或は憩の糞に依つて生ぜらるる法であつてそれ自照は無記法である。而してその功用は念々に滅して相続し、果 を引起するときに初めて滅するものであると稀してゐるなど、全く種子薫習的思想である。何れにせよ今は正量 部自身の研究でないから南棟の言葉を必ずしも一方的に決揮食通する必要はない。香後段に於いて此等の思想が 唯識畢派より如何なる論破を受けるかと云ふことを論ぜんとする鮎より考へると、寧ろ両様の意味をそのま1保 持せしめて置くことこそ却って今の場合必要である。因つて今はたゞ右述の如く、正量部が種子思想の先駆とも 見らるべき不失法を説いてゐること、而してそれは随眠を不粕應法に拝したと同様に不相應法に接して賞の別法 としてゐることを理解することとする。 ︵1︶申請巻三︵大正裁経三〇p・柏♪b︶ ︵2︶根本中諭疏無臭諭︵p・−−甲1−−占 ︵3︶期識論︵大正裁挺三一p・0080︶C︶ ︵4︶大乗成業諭︵大正戒経三一p・諾♪b︶ ︵5︶成唯識論連記巻二本︵p・警手︶ ︵6︶蘇我論︵大正顛経三一p・S8つ︸C︶ ︵7︶中諭疏巻八本︵大正赦経四二p・−ロ甘︶ βJ2

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三 種子の先駆思想としての其の他の諸説 ︵⊥︶ 衆賢論師は﹃順正理論﹄巻十二に於いて有部の立場より種子詮を破樺し、種子の異名として﹁随界﹂﹁薫習﹂﹁功 能﹂﹁不失﹂﹁檜長﹂等の別名をあげてゐる。此の中葉習と功能との両名は軽部も唯識も共に用ふるところであ る。増長は前章所引の﹃成業論﹄中にも有詮として述べられてゐる詮である。意思の﹃唯識速記﹄には不失と増 長とを共に正量部の所詮であるとしてゐるが他に判然たる詮接があるわけではない。﹃成柴論﹄では 菩不善の身語二共に由つて薙相績中に別法を引き起すことを許すべし。其の牌貫有にして心不相應行薙の所 持な少。有説は此の法を名づけて増長となし、有誼は此の法を不失壊と名づく。此の法に由るが故に能く常 ︵包︶ 来の愛非愛の果を得すべL。 と云ってゐるのであるから、果して慈恩の云ふ如く正量部の所詮であるか香かは不明であるとしても、正量部の 不失法と同様な思想であり、それを増長と稀し、それに依って業道問題を解決せんとしてゐた人々のあつた事は 事貰である。 次に随界であるが、随界に閲しては南棟の考へ方が出来る。如意二は随眠の異名に過ぎないとL、他は随眠よ り費展して更に一般的になつた思想だとするのである。前者は﹃順正理論﹄奄五十九に上座が契経を引用して 纏と随眠とは異る。謂く諸の煩悩の現起せるものを纏と名づけ⋮⋮煩悩の界に随ふ︵臨界︶を説いて随眠と ︵3︶ 名づく。囚性恒随にして眠伏するが故に。 と述べてゐることに依って、随界は随眠の異名に過ぎないことが首肯せられる。後者は化地部の末宗が、煩悩の 唯識嬰に至る種子詑構成の経過と理由 6J3

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種子を随眠とし、更に論理的な要求より、その随眠思想を薙・虚・界の三科に迄擁張したその時、煩悩の場合には 随眠と辞してゐたが、十八界の諸法にまで擁げられた結果、その思想を相承した人々の閲に途に随界と云ふ言葉 が想起せらるるに至つたのかも知れない。然し何れにしても桂子思想の先駆をなしたことは、衆賢諭師が笹子の 異名としてあげてゐることより推して明瞭である。 ︵1︶周正理論巻十二︵大正顛経二九p・∽誌︶b︶ ︵2︶大乗成業諭︵大正読経三一p・記録−b︶ ︵3︶恨正理論巷五十九︵大正薪経二九p・笠ごβ 次に鮭量部の如く法としての種子誼には完成されてゐないけれども∵業と発との時間的隔りを、相輯と云ふ概 念を以って潜合し∵誓喩を植物に採少、菜は種子、相続は芽、莫典は基質と云ふ関係のもとに考へてゐる人々が ある。即ち﹃中論﹄の頒に次の如く説いてゐる。 誓喩に於ける名和を見ると、粒子思想とも云ふべき粕揖を桂子と云はすして芽と云ひ、業を種子と解してゐる 如二芽等相接一 従レ種有三相枝一 如レ是従二初心一 従レ心有こ相続一 唯識寧に至る種子誼構成の経過と理由 皆従こ種子一生 琴l神埼一有レ果 心法相績生 徒二相続一有レ果 従レ是両生レ果 先程後有レ果 従レ是而有レ兼 光栄後有レ果 離レ種無二相続一 不レ断亦不レ常 離レ心翠一期嶺一 ︵l︶ 不レ断亦不レ常 βJ4

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のであるから、一見種子思想に封して疎線の如く感ぜられる文であるが、その内容を翫味すると、此の思想は軽 部及び唯識の種子思想と、最も密接な関係を有してゐるものであつて極めて重要な思想である。恐らく此の考へ が一同韓して軽部の種子誼になつたものか、或はこれを以って軽部の所詮と見るも何等支障はないと思ふ。 右の思想に於いて﹁種より相続あh∴相接︵芽︶より果あり﹂と云ひ、叉﹁初心より心法の相続は生じ、是れ︵相 接︶より果あり﹂と云ってゐる如く、業と相績と発との三法を区別し、種子垂萄の思想があるのは明瞭である。而 して他の諸派の随眠、不失、増長等の種子的思想に於いて、それらを何れも不相應の算法としてゐるのに封し、 此廃に謂ふ相接は如何様に考へられてゐるであらうか。頓には﹁種を離れて相輯なく⋮⋮心を離れて相続なし﹂と 明瞭に述べてゐる。即ち此の派に於いては相績を他派の如く不相應の算法とは云はす、心を離れては存在し碍な いところのものであり、同時に後時の心を生ぜしむる功能と解してゐる。此の鮎他派の算法思想と全然別異な態 度を持してゐる。菓道思想を説明するために砧物を例として説明することは一般に用ひられた楼である。﹁婆婆 諭﹄巻五十一には飲光部︵再思ya甘ya︶が生位の異熟英を芽と云ひ、未生位の異熟因を種子と云ってゐる。叉軽部 ︵望︶ が之を用ふるは飴りにも有名である。﹃華厳経﹂わ慮合邦品に﹁種子の差別の故に果賓の生すること不同なり﹂と ︵3︶ 云ひ、明難品に﹁また田の種子の如し⋮⋮柴性も亦是の如し﹂と説いてゐるのも亦此の瀬である。果して然らば ﹃中論﹄の頒に於ける相績は何部に依って主張せられたのであらうか。﹃中諭疏記﹄の著者安澄は畳無徳部︵法密 部︶の誇だとも云ひ、或は瑚沙塞部︵化地部︶の詮だとも、或は薩婆多部の立義だとも云ってゐるが、その根掠は 不明或は薄弱である。自分は恐らく軽量部初期の詮でないかと瓜ふ。即ち軽部では能生の功能を法としての撞子 唯諸学に至る粒子詑構成の経過と理由 仇ほ

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二八 唯識寧に至る種子詑構成の経過と理由 と稀しながら、然かも之を誓囁として云ふときには芽と解する例が少なくない。例せば﹃倶合論﹄巻十九には﹁念 の種子は是れ詮智より生じて能く督念を生する功能差別なり﹂と功能を種子と解しながら、誓喩に於いては ︵杢︶ 芽等が前の果より生じて能く後の果を生する功能差別を有するが如し。 と云ってゐる如きはその一例である。叉芽に喩へられてゐる法を相接と解してゐるが、軽部が芽に誓へられる種 子法のことを相績痺壁差別と科することも有名であつて、此虚にも亦合致を示してゐる。叉軽部が種子法を現行 法以外の別物として認めないこととも一致する。唯だ﹃中論﹄の嶺のままでは右の如き合致を示しながらも、な ほ果して軽部の云ふ様な種子法と云ふ明瞭な概念∵即ち法としての種子なるものが明確に自覚せられてゐたか香 かが疑問である。此の鮎自分が右の思想を冒して軽量部種子詮の新芽、或は軽部初期の思想だと推定する所以で ある。 ︵1︶中諭巻三︵大正頼経三p■琵︼a︶ ︵2︶華族経巻四︵p・−柏−a︶ ︵3︶華厳経番犬︵p・∽、Plb︶ ︵4︶快食諭巻十九︵校詫p・ナa︶ 四 軽量部の種子思想 既に述べた如く、小乗部次に於いては各種各棟の名目のもとに、一種の種子思想が現はれてゐる。而してそれ ら各派の主張はl各々礪自の立場に立って他派の主張に満足しきれない理由を有してゐるのであるから、其の聞 βJβ

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の膠劣に就いては軽々に断すべきものでない。然るに自分は大乗唯識拳流への蟹展経過として之を批評すると せ、如上諸派の思想よりも、軽量部の種子思想の方が進歩したものであると考へ、且つ他派の思想は種子詮への 一党脇息想に過ぎないと見倣し、大乗に比較すると幼稚ではあるが、兎に角軽量部の思想を種子思想の費展上よ り考察して直劃的なものとして取扱ひ庇いと思ふ。換言すれば大乗に乗って種子の意味が詳細に規定せられ、軽 量部のそれよhソも厳密になり明確になつたけれども、それは要するに出来上ったものに封して磨きをかけたのに 過ぎない。荒削りのままの種子思想は、軽量部に於いて既に完結せしめられたと云つてよい。右の如く云ふ理由 は種子法とは現行法に封する言菓であつて、如何なる現行法の概念をも適用することの田釆ない、叉適用すべか らざる法である。色心等の現行法と別物ではないが、然し色心等五位の何れの概念をも適用することの出来ない、 叉適用すべからざるところに種子法白身の領域がある。飴他の部次が或は随眠と稀し、或は不失と柄L、或は増 長と稀して種子詮に相常する無意識的なものを立ててはゐるが、然しそれらは結局不相應法に持せらるべきもの である。後にも詳述する如く、軽部が随眠の不相應算法詮を破し、種子を﹁心相應にあらず.不相應にあらす、 別物なきが故に﹂と稀して色心等五位の組織より脱却せしめT白煙の上の差別功能﹂と云ったのは、消極的では あるが現行法に封してよく種子法猫自の領域を指示したものと解すべきである。別物なきが故にと云ったのは、 種子は無照法だと云ふ意味でなく、五位の閉域より別な種子自身の領域を意味してゐるものであると解すべきで あらう。果して然らば種子法として現行法とは別な領域のものだとせられた軽量部の種子法とは如何なる意味の ものであらうか。﹁倶合論h懇四に軽部の種子詮をあげて 唯我単に至る種子詑構成の経過と理由 βJ7

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三〇 唯我寧に至る輝子詑構成の経過と理由 此中何法名焉二種子完洞名輿レ色於レ生二自畢所有展靖隣近功能、此由三相揖樽欒差別一何名二韓攣謂相揖中歯 ︵⊥︶ 後異レ性、何名三相績↓謂因果性、三世諸行、何事垂別完桐有二無間生凛功能” と云ひ、巻三十には更に 如レ是難レ言二従レ共生ウ果、而非下従二彼巳壊業一生山亦非下笹一業無間左上レ果、但祐二業相模特欒差別一生、何名工 相模輯欒差別感乗馬レ先、後色心起、中無二間断一名夢一相続↓即此相接後後剰郊異二前前一生名琴南欒”郎此樽 ︵2︶ 欒於二最後時一有二膠功能義問生レ果勝一森特欒一故名二差別↓ と云ってゐる。果して然らば軽量部の所謂種子とは色心等一切諸法が自果を生する展特隣近の功能であり、菓の 相績捧欒差別と云ふ意味に他ならない。而Lて巻四の文には、展穣隣近の功能を相接輪欒差別を云ふ文句に依っ て樺してゐるから結局雨着は同一養に辟着する。展韓隣近の功能と云ひ、相緯樽欒差別と云ふことは、展持す る功能と隣近する功能と云ふ意味であり、展持する功能とは下の句に依って樺せば相揖の特欒と云ふことであ少、 隣近する功能とは下の句に依って拝すと相続の差別と云ふことに他ならない。即ち現行に依つて薫習せられた現 行法自鰭の功能それを種子と栴し、その種子は前念の種子が囚となつて後念の種子を兼として引起し、前後相綬 して三世に亘るものであり、然かもそれが展持と云ひ樽撃と稀せられてゐる如く、文筆二十に﹁後後の剃郵に前 前に異んじて生するを名づけて樽撃と為す﹂と云ってゐる如く、前念よ少も後念は次第に成熟して相続するもの である。次に前念より後念へと次第に成熟して相続する種子は、途に最後時に於いて膠功能に依って無間に現行 へと樽愛する。此の最後時の韓努は飴の轄野上りも勝れてゐるから差別と辞せられ、現行に隣近するから隣近の βJ∂

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功能と云はれるのである。此の最後時を境界線として種子の領域と現行の領域とが直別せられてゐるのである。

軽部が種子に関して規定してゐることは上の如くであつて、大乗の種子詮に比較すると極めて不明瞭であるけれ

ども、然し前にも述べた如く他流の如くこれを不相應法に擁することなく、現行法の組織とは別に種子法なる礪

自の領域を暗示してゐるところに軽部種子詮の薫要さがある。

︵l︶倶合諭巻四︵校誌p・㌍︸a︶ ︵2︶倶合諭啓三十︵校託p・−ダa︶

五 種子詮構成の動機と桂子の新薫本有先後論

種子詮の先駆思想として先づ大衆部等の随眠誼をあげたのであるが、随眠詮は或る特殊の場合のみに限定せら

るべきものであるから、後世種子詮が完成せられた後に於いても、一般に種子を説きながら煩悩の種子に限って

随眠と解せられる風習を残すに至つた。故に種子詮恐生の動機と云ふ一般的理由を探求する場合は、一般的なる

もの即ち随眠詮より直接費展した化地部末宗の寧辱界三科恒現在の思想、正量部の不失法、其の他寮習、功能、

増長等並に讐喩としての種子思想、法としての種子詮等に閲して考察する必要がある。果して然らば此等の種子

的思想の思想史的事貫は如何なる一般的理由と要求とに由つて構成せられたのであらうか。此虚に寧貰に封する

理由の問題がある。蓋しそれは過未無照現在有鰻誼を基調とし、業道問題を解決せんとしたところに種子的並に

種子思想構成の理由がある。即ち過未無照詮である以上、過去の柴は巳減無鰹である。既に無照である兼が如何

唯識寧に至る挿子設構成の経過と理由 βJ9

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托して果を引くことが出来るかと云ふ難問に逢着したとき、此庭に種子−或は種子的誓設定することに由つて その間題を切抜けんとしたのである。﹃大乗成業諭﹄には世尊の自説として ︵t︶ 業錐レ経こ百功一而経無一兵撃 退二衆練合時一要常レ酬l疲果︼ と云ふ頚が述べられ、これを中心として業道の必然性が各流を立場として論争されてゐるし、﹃鯨識論﹄にも彿詮 の侶として へ9︶ 諸業不失 無数劫中 至こ釆集時一興こ衆生一報 と稀せられ、これを根接として各派の種子詮が述べられてゐるのに依っても、種子詮を立てねばならなかった理 由の自ら判然たるものがある。其の他﹃中論﹄省三に説かれてゐるjE量部の不失法、及び相揖の思想が﹁脱糞品﹂ 中の所詮であること、叉﹃似合論﹄巻三十に於いては﹁若し貴に我なくんば業は巳に城壊す、復云何んぞ能く未 来の兼を生するや﹂と云ふ外難に封して ︵a︶ 業の相接韓欒差別に依り生す︹菅へば︺種の果を生するが如し。 と答へ、或は叉巻十三には ︵4︶ 應に知るべし即ち此の微細相続縛欒差別を名づけて菜道と残す。 と稀してゐるなど、菜遣の理を完成せしめんことを動機としてゐること極めて明瞭であ少一々枚拳に追がない。 種子構成の理由及び動機が右の如く業造の理を完成せしめん蔑めのものである以上、後世唯識畢次に於いて一 大論争を醸した種子の本有新案の問題に関しても、その原始的形態如何の問題に就いても、略見首がつくのであ 唯識畢に至る種子記構成の経過と理由 62∂

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る。種子本有の思想が先であつたか、或は種子新薬の思想が先であつたかと云ふ本有新稟の克復論は、聾者の問 に於いても見解の相違があるであらうし、未だ畢界には定詮がない。然L自分は種子構成の動機論から推して、 新重森が原始的なものであらうと思ふ。何とならば種子詮の起源は、過去或は現在の柴が如何にして常来の果を 引くかと云ふところにある。換言せば種子を蒔くところの善悪の業を竣想せすしては所詮種子問題は起り得ぬか らである。高井観海師は﹃成唯識論﹄﹃唯識同率抄﹄﹃異部宗輪論﹄﹃婆婆論﹄等の文に依って、軽部の鳩摩辣多論 ︿ 師を新垂衰として認めてゐられる様であるu−佐伯定胤和上は﹃同率抄﹄四之二、及び四之三の詮を詳細に閲L、 而して極めて明瞭に﹁一百年出世日日論者唯新案﹂﹁四百年H世衰利薙多立二法爾種一﹂と判別されてゐる。何れに せよ種子詮を創唱した根本軽部が、よし後代に至つて法爾種を立てたにせよ、先づ新薬誼よりH著したことは寄 算である。此の事貰は、恰も桂子詮構成の動機論より推して新案説こそ原始的形態であると推定した自分の詮を 裏書きするものだと思ふ。 ︵l︶大乗成業諭︵大正戒経三一p・ご㍍−p︶ ︵2︶顕識諭︵大正裁経三一p・∽80−C︶ ︵3︶似合論巻三十︵校託p・−A甘︶ ︵4︶快食論巻十三︵校託pゝ−も ︵5︶小乗偶数概論︵p・∽2−聖β 唯識撃に至る粍子詑構成の経過と理由 ββJ

(35)

大 部派の業道詮に封する軽部及び唯識畢派よ少の論破 ︵一︶ 有部の三世算有詮に封Lて ﹁柴は百劫を経ると錐も而かも終に失壊なからん、衆繰の合する時に遇ひ要す常に彼が果を酬ゆぺし﹂と云ふ頚 は、世食の自説と稀せられてゐる如く部流体教各派が伝受奉行したところのものである。随つて前述の如く、種 子並に種子的思想は週末無饅詮に立って此の菓道思想に根穣を輿へんが焉めに畿生したものであるが、同時に他 方.有部の三世貰有法鯉恒有の思想も、その思想形態は週末無濃詮とは正反封に進展してゐるが、依然此の莫逆 を成立せしめんが薦めに建立せられたものであることは、有部が三世貰有の宗を接する理由の一として 巳謝業有二雷撃故、謂若黄撃過去琴者、菩琴一業常男應レ無、非三果生時有二現国璽由こ此教理”屈婆抄師 ︵ュ︶ 定立こ去来二世貰有一 と稀してゐることに依って明瞭である。果して然らば唯識撃沈は有部が三世貰有の上よ少、或は他の諸派が週末 無憶を立場として各々糞道に関してその所詮を成じてゐるのに、如何なる坪由に依ってそれらの詮に満足せすし て自説を唱導したのであらうか。 既に述べた如く、有部些二世貫有法腰恒有と云ふ主張に依って業遣を成立せしめんとしてゐる。随って唯識笹 沢より有部の業造語を批評し.之に満足し得ないことを表示するには、自派の週末無牌諒と相許さない三世貫有 語が元来理に應じない主張であることを明瞭にすればよい。然るに週末無煙詮は軽量部と唯識畢派とその誼を同 じくするのであるから、軽量部の思想を採用して有部の三世貰有誼を披した世親の﹃倶合論﹄に於ける詮を理解す 唯磯嘩に至る種子詑構成の経過と理由 β2β

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