25日(毎月1回25日発行)ISSN 0919-4843
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部落のいまを考える⑩ 部落問題の転換点に立って 八木晃介 ひろば⑮ 「踏まれたものの痛みJ
再考 加藤陽一 追 悼 井 上 清 先 生 を 送 る 藤田敬一 こべる刊行会部落のいまを考え る ⑮ 晃介︵花園大学︶
部落問題の転換点に立って
人
木
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] 部 落 問 題 の 今 日 像 私のある友人は、物心がつくかつかないかの頃にムラ をはなれて生活し始めた出身者である。両親もかなり以 前にムラから出て大阪で暮らしているが、その両親から も独立して京都でのシングルライフをかなり長く続けて いる。休日にはしばしば親元にもどり、身体の弱ってき た両親をクルマに乗せて温泉巡りや釣り旅行などをして いる。四年制大学を卒業し、三十歳代半ばの現在までま ずは安定したサラリーマン生活を営んできた。 女性とつきあったことはあるが、結婚までにはいたら なかった。そのことで、私は彼から何度か相談を受けた ﹂ と が あ る 。 彼女もムラの出身であったという。ただし両親も本人 も部落問題から距離をとろうとする生活信条をもち、も ちろん、運動とも無縁の境涯を生きてきた。私の友人も ムラから離れて生活し、運動ともほぼ無関係といえると ころにいるが、しかし、どうしても部落問題を忘れたり パスしたりすることができず、仕事の合聞に個人的にこ つこつと部落問題の歴史研究を続けるような日常生活を 送 っ て い る 。 こぺる ムラから遠く離れながらムラを忘れられない彼の生活 史的な背景には私の知るかぎりでもさまざま重要な事情 1があるのだが、ここではプライバシーの関係で、これ以 上はふれられない。パスしたい彼女とパスしたくない彼 との出会いがどのようであったかについて、私は詳細を 知らされていないが、交際の事実を知らされた私は、そ の時、﹁どうなんだろう、ネ﹂と凡庸で暖昧な感想しか 口にできなかったことを記憶している。 交際が続いていた頃の彼からの中間報告によれば、私 の想像どおり、やはり、彼はデ
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トの時などに、自分が 勉強していることの内容を説明したり、運動の現状につ いての感想を話したりしていたらしい。しかし、彼の話 に対する彼女の反応はあまりなく、どちらかといえば迷 惑そうだつたという。私の察するところ、そのような彼 のありょうが彼女にはある意味で重たく、かつ替陶しく 受け止められたようである。 相手が彼ではなく部落外の男性ならどうであったのか、 は分からない。できれば避けたい話題を、なまじ同じ出 身者同士であるばかりに避けきれない、そんな思いの中 で彼女の彼への気持ちは徐々に遠ざかっていったようで ある。私の予想は概していつも悪い方にあたるのであり、 二人の関係は双方によって語り尽くされぬままに不幸な やがて別離の形で終罵した。 同じ噴の話だが、彼の弟の結婚話があった。弟も彼と 同様、経済的には安定した平凡なサラリーマン。ただ、 弟は彼とは違って、ほとんど部落問題をひきずることの 転 帰 を と り 、 ない、ドライな現代っ子タイプの青年のようであった。 しかし、結婚を決意した恋愛中の相手が部落外の女性と あって、さすがに少々ナl
ヴアスになったらしく、部落 問題を真面目に考え続けている兄に相談をもちかけ、そ れがまた私にも伝えられたという次第。要するに、出身 者であることを相手の女性とその家族に告げるべきか否 か 、 で あ る 。 私にしても、彼の弟の相手やその家族がどんな人たち であるかを知るよしもなく、したがって、これといった はかばかしい回答や展望があるわけでもなく、まずは常 識的に﹁隠すこともなければ、告白する必要もないと思 うけど。ごく普通にふるまう以外にないんじゃないか な﹂と述べるにとどまった。結論的にいえば、彼も彼の 弟も、そして彼らの両親も普通にふるまい、結果的には 相手の知るところとなったが、それによって相手やその 家族の気持ちが揺らぐようなこともなく、幸いにもこの恋愛と結婚は成就した。 その彼が、今度は別の相談をもちかけてきた。彼の従 兄の問題である。 従兄も彼と同じムラの出身。仕事は事務職公務員で、 彼と同様、安定したサラリーマン生活を送っている。現 在は官舎住まいだが、多少の蓄えもできたので、二戸建 てを購入する気になったのだという。﹁そこでモノは相 談だが﹂と、従兄が彼にもちかけた話とはこうである。 ﹁京都市内に適当な物件を見つけたのだが、ひょっと してそこはムラではないか。おまえは部落問題を勉強し ていて詳しいはずだから、内緒で教えてほしい﹂ 0 従兄のつれあいは京都市の部落外の出身だが、従兄が ムラの出だということを知ったうえで結婚したはずだと いう。私は、﹁たぶん、そのおつれあいの圧力が強いん じゃないかな。いや、ことによると、その実家の圧力か も。もしかすると、本人に問題があるかもしれない。い ずれにしても、キミの従兄に対しては、キチンと手紙を 書いて教育しておく必要があるぞ﹂とは言ったものの、 おおいに憤慨し、また、おおいに情けなさそうでもある 彼に、説得的な言葉を返せないままになってしまってい る 実 に な あ の れ で こ あ れ る の 。 部 お 落 そ 問 ら 題 く に 遭 出 遇 身 し を な た い え で ず は 意 す 識 ま す な る い と の 否 が と 現 以上、ここで記した三つの出来事はすべて、わずかこ こ一!二年の聞に、私の身近な重要な一人の友人に降つ て湧いたことがらである。ことごとく事実であり、
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ず れのエピソードにもまったくフイクシヤスな修飾などほ どこしてはいない。私の友人は、ほかにも部落問題にか かわる他の問題をかかえていたかも知れないが、私に伝 えられた出来事はここに記した三点であった。 私とこの友人とは比較的高頻度に出会っているが、も ちろん、部落問題ばかり話し合っているわけではない。 それどころか、酒を呑み、 ウマシカ噺に興じたりしてい る時間の方が長い。また、この友人は出身者として特異 な存在でもなければ典型的な存在でもなく、逆に、二疋 の学歴と一定の安定就労を獲得しつつある今の比較的若 手の出身者にあってはむしろマジョリティに属している と思われる。それなのに、いうなれば平凡な彼のような 出身者も、日常の具体的な関係世界において、このよう こぺる にかかわらず、パスを志すと否とにかかわらず、部落出 3身者の日常生活世界は多かれ少なかれ、かくのごとき色 彩を帯びざるをえないのが現状なのではあるまいか。た だし、従来の部落問題とはその内実においていささか趣 きを異にしているとはいえるのであるが。 [
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]排除記号としての︿
部
落
﹀
野口道彦さんの著書﹃部落問題のパラダイム転換﹄ ︵明石書店︶をめぐって、雑誌﹃部落解放﹄︵解放出版 社︶を舞台に、当の野口さんと部落解放同盟中央執行委 員の谷元昭信さんとの聞で論争が展開されている。論争 の一つの骨子は、︿部落﹀を地域概念として把握するこ との是非である。野口さんが地域概念としての︿部落﹀ や血縁概念としての︿部落民﹀ではもはや部落問題を捉 えきれないとするのに対し、谷元さんは﹁地域概念を捨 象しては部落問題を語れない﹂と主張しており、まさに 水 と 油 で あ る 。 私は、自分自身の実証研究などの知見からしても、ど ちらかといえば野口さんの観点に賛同している。とはい の代替概念として︿被差別市 ぇ、野口さんが︿部落民﹀ 民﹀を提案している点については、概念の拡張度がいさ さか極端にすぎており︵仮に叙述の文脈を無視すれば、 他の被差別市民と区別がつかない︶、 ゆ え の 占 対 する賛否については現在のところ、 アポケ l ︵ 思 考 停 止︶の状態にあるのだが。 ﹂こで、前項に記した私の友人の経験的逸話に話を戻 そ 、 っ 。 こ の 友 人 が こ こ 一l
二年の聞に体験した三つの出来事 はすべて、すでに述べたように、従来の部落問題をめぐ る常識的な言説の範囲に必ずしもおさまることのない内 実をそなえていた。彼が交際していたことのある出身女 性の部落問題への忌避の意識と態度は、かつて被差別部 落の出身者ではない人々がしばしば見せるものであった t 他方、彼の弟の相手の女性とその家族の反応は、︵その 奥深いところでのホンネはいざ知らず︶彼と弟、それに 彼らの両親の予期不安を打ち消し、よい意味での当て外 れ を も た ら し た 。 友人の従兄のエピソードは、交際していた女性の反応 に類似しているが、さらに複雑である。女性の場合は、 部落問題へのいわば忌避意識であったが、従兄の事例はムラそのものへの忌避行動であって、その限りでは差別 的でさえある。部落出身者がムラを忌避する場合、それ が差別行為にあたるのかどうか、 いささか当惑させられ るのであるが。以前、障がい者解放運動の活動家から、 軽度の障がい者が重度の障がい者を差別することがある という話を聞いたことがあるが、 やはり出身者もムラを 差別するのだろうか。むろん、部落出身に軽度も重度も ムラや部落問題への執着 ない。差異があるとすれば、 ︵意味付与︶の度合いくらいのものではあるまいか。 おそらくは、今後、私の友人の従兄のようなケ
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ス が 増えることであろう。私自身の調査研究においても、現 時点においてはムラにとどまっている青年層の過半数が ︵場合によってはぜ大多数がてできるだけ早い機会にム ラを出たいと回答していたものである。 い う ま で も な く 、 こうした意識は単なる引っ越し願望ではなく、︿部落民 をやめたい﹀意向の反映なのである。そして、現実問題 として、青年層のムラからの︿脱走﹀は加速度的に進ん 一方においては、私の友 でいるといってよい。しかし、 入 の よ う に 、 ムラから遠く離れ、運動とも直接的な関係 いわば選択的に︿部落民﹀を生きよう を も た な く と も 、 とする存在もあるのである。 部落問題を考えることを思避する出身者の増加、ムラ を脱出してムラを忌避する出身者の増加などの現実をみ るとき、ある意味では、谷元昭信さんがいうように、地 域概念としての︿部落・部落民﹀を捨象しては部落問題 を考えることができないということになるかもしれない。 しかし、私の友人のように、地域とはかかわりなく︿部 落民﹀であり続けようとする人間もありうることは忘れ られではならない。また、毎日新聞記者をしていた頃の 私が、編集局のトイレに﹁解同の八木、会社をやめ ろ!﹂と落書きされた事実をもここで記しておきたいと 思う︵私が毎日新聞記者を定年退職時まで続けずに転職 した直接的な要因がこの事件に内在していたことは否定 できないが、私が部落差別に負けたのかどうかについて は い ま な お 総 括 し え て い な い ︶ 。 このような具体的なあれこれの事例を下敷きにおいて 考えてみた時に、それでもなおかつ︿ムラ﹀や︿部落﹀ の概念を、現在においても地域概念としての内実を有す るものと捉えるべきかどうかおおいに疑問である。︿部 こべる 落民﹀も差別するし、︿非部落民﹀も差別されるのであ 5る。また、事実の問題として、部落差別に異議を申し立 て、部落解放運動を闘うものは何も部落出身者には限ら れ な い の で あ る 。 私 の 友 人 は ︿ 部 落 民 ﹀ であることを選択し、落書きさ れた当時の私もそのようにして生活を続けたのであるが、 逆に、友人がつきあっていた女性や友人の従兄は︿部落 民﹀であることを選、はなかったのである。さらに象徴的 な事例もある。数年前に大学を卒業した私のある教え子 の卒業論文の題目は﹁オプションとしての部 ︵ 出 身 者 ︶ 落民﹂であり、この教え子は選択肢としての︿部落民﹀ を選び取って今も生きているのである︵そう、︿部落民﹀ は、若い世代にとっては、いまや選択の対象でさえある の だ ︶ 。 私がここで述べていることは、おおかたの了解をえら れないかもしれないが、ここまでの叙述によって私が表 現したかったことは、部落差別にかぎらずすべての差別 は社会的定義過程の産物以外の何者でもないということ であった。すなわち、差別は他者の︷喜義または自己の定 義に依存するということを主張したいのである。 なるほど以前は属性由来の差別︵すなわち、属地・属 人を軸とする地域概念としての︿部落﹀概念を媒介させ ての差別︶であったかもしれないが、いまやそれは、私 の用語でいえば、︿排除の観念形態﹀ないし︿排除の記 号﹀のワン・パターンでしかないように思われるのであ る。人口や成層における猛烈な社会移動の現実が、いっ そう︿部落・部落民﹀の地域概念としての性格を希薄に していることも明白である。繰り返すが、︿部落民﹀も 差別する場合があるし、︿非部落民﹀も差別される場合 が あ る の で あ る 。 差別を︿排除の観念形態﹀ないし︿排除の記号﹀の一 類型として捉えることができるならば、なぜに部落差別 の存在が希薄な出雲地方に部落差別と同形態の︿狐もち 差別﹀が存在し、部落差別が存在する石見地方︵出雲の 隣接地域︶に︿狐もち差別﹀が非在であるのかという謎 ゃ、部落差別の存在しない長崎県五島列島になぜに部落 差別と同形態の︿隠れ切支丹差別﹀が存在するのかとい う謎も、ある程度まで解けるというものであろう。 私がここで述べていることは、誤解がないようにして おかなければならないが、地域概念に立脚して部落差別 をとらえることが全面的に誤りであるということではな
ぃ。現時点においては、なおも地域概念としての︵場合 によっては血縁概念としての︶︿部落・部落民﹀概念が それなりに差別の根拠として有効に利用されている事実 をも私は十分に知っているのであり、その限りにおいて 谷元さんの所論を一蹴するつもりもなければ一蹴するこ ともできないと考えている。しかし、全体としての状況 の推移は、間違いなく部落問題の地域性を希薄化する方 向で進展していることも事実なのであり、この点は絶対 に無視されてはならないということを主張しているだけ の こ と で あ る 。 上記のような私の発想が、いわゆる部落史の見直し作 業に触発されてのものであることはいうまでもない。私 の社会学的発想にとって、かつての近世政治起源説とそ れに付随する悲惨貧困史観はほとんどショートするとこ ろがなかった。しかし、部落史の見直し作業から徐々に 鮮明化されてきた知見、たとえば、被差別部落︵民︶の おかれた状況の如何にかかわらず︵つまり、経済的に貧 困であろうと富裕であろうと、あるいは社会的地位が高 かろうと低かろうと︶、人々はムラを差別してきたとい う事実︵まだ確定的とはいえないにしても︶は、私の社 会学的想像力を激しく刺激したのであった。つまり、差 別する人間の関係性を、差別しないでも済む関係性、さ らには差別と闘いあえる関係性に脱構築するにはどう行 動すればよいのかという問題関心を引き起こしてくれた のである。この間題意識はまた明らかに、藤田敬一さん の ︿ 両 側 か ら こ え る ﹀ の提案にも直結するものでもあっ た と 私 は 考 え て い る 。 文化人類学者メアリ・ダグラスの言説をまつまでもな く、社会学的にいっても、社会関係の形成とは︿秩序﹀ が作られることを意味するのである。いうまでもないが、 ︿秩序﹀には、いつも︿中心﹀というものがある。とい うことは同時に、秩序はたえず︿周縁H周辺﹀を作り出 すということでもある。私と思考の軌跡をほぼ同一にす る今村仁司さんは、次のように指摘していた。 ﹁秩序形成の動き方は、一般的に次のようにいえる。 外へと何者かを排除する。それによって私ゃあなた方と が敵対する状況を解消させていく。排除されたものは外 にいるけれども、観念的にはいわば下の方とか格下げの イメージをもって外へと叩き出されていく﹂と︵今村、 こぺる 一 九 九 二 、 ﹁ 排 除 と 差 別 ﹂ ︵ ﹃ 年 報 ・ 差 別 問 題 研 究 ﹄ 第 一 7
号 、 明 石 書 店 ︶ 。 私もほぼそのように考える。人間は一人では生きられ ないがゆえに集団や社会を営む。しかじ、私たちが形成 する集団や社会の成員数は、理想主義的にはともかく、 現実には案外少ない Aあまり相互作用をもつことのない 人々をも宛て名に含めて投函する年賀状の数を考えても みよ︶。このことのもつ社会学的な意味は、私たちの集 団形成過程は好むと好まざるとにかかわらず、他者排除 過程に照応するという事実である。まさに集団形成を含 む社会関係の形成は︿秩序﹀の形成を意味するのであり、 このような︿秩序﹀形成はほぼ不可避的に排除の招来を 結果するのである。この事実はまことに寂しく、かつ情 けないものではあるが、どうしょうもない社会学的事実 として認めざるをえない。そのような意味において、差 別は︿秩序﹀の存在を前提にした記号であると私は考え る わ け で あ る 。 私は最近、インターネット犯罪の被害者になった。そ の中身については省略するが、そのような経験があった ものだから、かねてから問題になっていた﹁
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チャンネ ル﹂という書き込みサイトを検索してみた。見れば、多 くの人々によって指摘されているように、そこでの部落 問題にかかわる書き込みの内容は、それはそれはひどい ものであり、私にもふつふつたる怒りがこみあげてきた こ と は 事 実 で あ る 。 ただし、私の印象からすれば︵個人的な印象なので、 他の人々の印象と合致するという自信はないが︶、部落 差別の文脈で伝統的に問題化されてきた﹁差別の意図 性﹂をあまり感じとることができなかった。表現に差別 性がないわけではないが、﹁意図性﹂という点ではあま り濃厚ではなかったという感想を私はもっている。言っ てみれば、このサイトへの書き込み主体は、排除の記号 として︿部落﹀という言葉を選択的に使用しているにす ぎないのではないか、というのが私の感想であった。だ からといって、必ずしも私の差別にたいする感性が磨滅 しているのではないと信じる。 もちろん、排除の記号として︿部落﹀を選択している 点では差別的ではあるのだが、書き込み全体から受けた 印象としては、書き込み主体の存念︵意図︶としては ︿排除﹀が主であり、︿部落﹀は徒であるというものであ った。確かに被差別部落の所在地を﹁地名総鑑﹂よろしく叙述する書き込みもあり、その点では地域概念として の A 部落﹀が健在であるようにも見えるのだが、しかし、 私の感覚からすれば、被差別部落の所在地の書き込み自 体が記号として観念されているのではないかというもの で あ っ た 。 ここで私が主張していることは、部落差別は︿地域概 念﹀に由来するものであるというよりは、むしろ、︿関 係概念﹀に由来するものであるという一点なのである。 [
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]︿第三期の解放運動﹀から ︿第二世代の部落問題﹀"
問題の本質は、︿関係﹀と︿関係の組み直し﹀とにあ るといって過言ではない。私の考えでは、解放とは、畢 寛、︿関係の解放﹀以外のなにものでもないのである。 部落問題の諸状況が決定的な転換点にある現在におい ても、部落解放運動の主流︵部落解放同盟︶は以上のよ うな関係論についてあまり・自覚的ではないように思われ る。せっかく﹁第三期の運動﹂を提起しながら、運動方 針を見るか、ぎり、第二期運動︵行政闘争︶の温存・維 持・発展の域をほとんど脱皮しえていない。それどころ か、部落解放同盟の最近の出版物などをみるかぎり、 ﹁第三期運動﹂という言葉さえもかなり影をうすくして いるという印象を受けるほどである。二OO
二 年 三 月 の 法システム期限切れを前にして、同対審答申後のキャン ペーンと色彩を同じくする﹁同和行政継続発展の全国大行 進﹂を継続している現実からもそのことは見てとれよう。 第二期運動︵行政闘争︶は確かにムラの経済的状況 ︵環境や就学や就労を含む︶を一定程度以上に改善して きたのであるが、すでに多くの心ある人々から緩々指摘 されてきたように、ついにムラの人々を解放の主体とし て登場させることがなかったばかりではなく、むしろム ラの人々を一貫して同和行政の客体におしとどめてきた の で あ っ た 一 。 行 政 を 叱 時 激 励 な い し 桐 喝 す る こ と を も っ て部落解放運動といいならわす作風が、ムラの人々をか なり深いところでスポイルしてきたという作風上の暇庇 についての総括が運動主流によって行われたなどという 事実を私は寡聞にして知らない。現実問題として、同和 対策の法システムの期限切れを前にして、部落解放同盟 の成員数は減少の一途を辿っており、また、機関紙﹃解 こぺる 9放新聞﹄の購読者数も激減しつつあるのが実態である。 金の切れ目が縁の切れ目ーーー。そのような自虐的な台 調を私はこれまでに部落解放運動の複数のアクテイヴか ら聞かされてきた。その台調を半信半疑で受け止めてい た私の楽天主義︵おめでたき︶を、今の私は痛切に自己 批判している。事態はまさにそのように推移しつつある の で あ る か ら 。 ﹁これ等の人間を勤るかの如き運動は、かえって多く の兄弟を堕落させたことを想へば、此際吾等の中より人 聞を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の集団運 動を起せるは、寧ろ必然である﹂||。 これは、周知のように﹁水平社宣言﹂に含まれた一文 であるが、運動の現実はある意味で、水平社創立期より も深刻かもしれない。というのは、第二期の﹁自ら解放 せんとする者の集団運動﹂であったはずのものが、結果 においては﹁多くの兄弟を堕落させ﹂る﹁人聞を勅るか の知き運動﹂として推移してしまった可能性が大であっ たからである。解放奨学金を父親が酒代やパチンコの資 金に流用して、しかも返済できずに踏み倒してしまった などという話を聞くのはまことにつらいものであるが、 しかし、それも一つの事実として受け止めねばならない のである。また、状況は異なるが、かつて、私の教え子 のある出身学生が﹁部落民宣言﹂を、他者を畏れ入らせ るための﹁葵の紋所﹂としてのみ利用し、ゼミを崩壊さ せてしまったこともある意味で象徴的な出来事であった と 思 う 。 ア メ リ カ で も 、 ア フ ァ
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マティヴ・アクション︵差別 撤廃のための行政的積極行動︶がマイノリティ・グルー プの成員を道徳的に額廃させてしまったとする黒人自身 による痛切な反省と告発が出ている︵シェルビl
・ ス テ ィl
ル 、 邦 訳 ﹃ 黒 い 憂 欝 ﹄ ︶ 。 こ う し た 事 態 を イ ヴ ア ン ・ イリッチが﹁貧困の近代化﹂として一般化したことはよ く知られている。つまり、従来の単純な経済的な意味で の貧困をイリッチは古典的貧困とよぴ、制度に依存する ことにより自ら成し遂げる能力を失わされた状態を﹁近 代化された貧困﹂と命名したのであった︵邦訳﹁脱学校 の 社 会 ﹄ ︶ 。 第二期の運動と、それをやや修飾したものにしかすぎ ない第三期の運動は、結果的に、ムラの人々から状況に 影響を与える力を奪ってしまい、ムラの人々の潜在的・顕在的能力を喪失させてしまう恐れがある、といっては 言い過ぎかもしれないが、そのような傾向性が全然ない とも言い切れないのが現実なのではあるまいか。 差別がなくなったのならば、それでもよいのかもしれ ない。しかしながら、私の友人の事例からも明らかなよ うに、古典的な差別的な事象という形をとらないまでも ︵否、結婚差別などのケ
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スをみれば、なおもそうした 古典的かつ典型的な差別もなお健在なのであるが︶、多 彩な差別的なエトスが多かれ少なかれムラの人々の日常 生活世界のなかに忍び込んでいるのが実態なのである。 にもかかわらず、総理府調査を含めて多くの調査結果が 示すように、ムラの人々は差別を受けてもひどく反発力 に欠けている現実があり、かでてくわえてムラの人々は 地域の運動組織である部落解放同盟をほとんどアテにし て い な い の で あ る 。 私は今年︵二OO
一年︶もまた部落解放研究全国集会 ︵於・高松市︶の﹁部落差別の実態と差別糾弾闘争の課 題﹂分科会のパネリストとして参加してきた。そこでは、 すでに部落解放同盟全国大会で決定されたという﹁差別 糾弾闘争強化基本方針﹂についての議論が行われたので あるが、私は、組織と組織成員に対してはまことに失礼 なことながら、糾弾闘争の基本方針を議論する前提それ 事態がもはや崩壊しているのではないかと批判したもの である。しかし驚くべきことに、こうした私の非礼とも いうべき問題提起に対しての反批判がほとんどなかった のである。差別されても﹁黙って我慢する﹂ムラの人々 のありょうが、ここでも再現されたというほかない。 差別は、否定しょうもなく厳存している。しかし、ム ラの人々は、差別が厳存していても、それによって飢え 死したりする状況にあるわけではない。しかも、従来の ように差別を運動の資源としてとらえることの有効性が 保証されるような現状があるわけでもない。部落解放運 動はここにきて、その存在根拠がラディカル︵根源的︶ に間われているというべきであるが、それに対する議論 が沸騰する風情はさらにない。 私自身は、﹁第三期の運動﹂ではなく、﹁第二世代の部 落問題﹂についての構想力が今こそ必要であると考える も の で あ る 。 第 一 期 、 第 二 期 の 連 続 的 継 続 と し て の 第 一 一 一 期ではなく、第二期までの運動を批判的に止揚したうえ での、質的に異なる運動の質こそが必要なのではないか こぺる 11と考えるわけである。単なる連続ではなく、世代を異に する部落問題への構想力こそが今求められているはずで ある。つまり、従来の行政や制度の反応を拒絶したり、 あるいは自らによる既存のものに対抗しうるオルタナテ イヴ︵とってかわる、もうひとつの︶な提案こそが現在 の運動体、あるいは意識的な諸個人につよく求められて いると考えるのである。ないものねだりかも知れないが、 逆に今こそ、ここでいう意味での部落問題のジェネレー ション・ギャップについての議論の勃興をこそ求めたい。 その意味で、︿関係性の解放﹀を求めて、﹁両側から超 える﹂という展望を、藤田敬一さんからのみならず、部 落解放運動中央からも提起して貰いたいと心底願うもの である。また、住田一郎さんが強調する﹁カムアウト﹂ の重要性も、︿非部落民﹀による︿非部落民﹀としての 同様の﹁カムアウト﹂がなければ、絶対に完結するもの ではないと思う。それがなければ出会える他者とも出会 えないという存念は、単に住田さんをはじめとする出身 者の思いであるのみならず、非出身者のそれでもあるか らである。もちろん、ここでのカムアウトは︿葵の紋 所﹀でもなければ︿逆・葵の紋所﹀でもないことはいう ま で も な い が 。 そうした関係性の脱構築の取り組みの継続以外に、排 除の記号を装置化したこの入聞社会において、排除きれ る側と排除する側とがまともに出会うことなどありえよ うはずもないと私には思えるのである。
ひ ろ ば ⑮
﹁
踏
ま
れ
た
も
の
の
痛
み
﹂
再考
加藤陽
︵ 中 学 校 教 員 ︶ 例えば、私は、列車の座席でたまたま隣り合わせた人 に、自分から気軽に話しかけていくようなタイプの人間 ではない。見知らぬ人と関係を持つにあたっては 1 そ れ なりの必然性がないと積極的にはなれないのである。だ から、大学時代、部落解放研究会主催の学習会には興味 を持って参加していたが、研究会のメンバーが関わって いた地元の子ども会活動には、何度誘われでもついに一 度も参加しなかった。大学生というような中途半端な立 場の、しかも持続的に関わろうという意志を持っていな い私が、単なる興味で子ども会に出かけるのは、相手に 失礼だと強く感じていたからである。 一方、私は、自分にとって必然性があると感じた場合 は、人並以上に積極的に関係をつくろうと努力する人間 でもある。高校時代に知り合った、友人の中学時代の先 生の家に通いつめ、当時疑問に思っていたさまざまな事 柄をぶつけつづけながら、 いつのまにか私自身の﹁先 生﹂にしてしまったことなど、その好例である。 部落問題や部落解放運動に関わるということと、被差 別部落そのものに関わるということは別のレベルの問題 である。部落問題や部落解放運動には、文献を読むこと や学習会に参加すること、カンパや署名などの行動によ って、第三者的ではあっても関わりを持つことができる。 しかし、被差別部落そのものに関わるということは、そ こに暮らす人々と関係を結ぼうとすることであり、識字 学級に出かけるといった行為は、本来その意思表示にほ かならない︵単なる仕事上の役割で出かける人々のこと は、ここでは除外して話すことにする︶。 ところが、一部の運動指導者を除き、関わられる被差 別部落の人々の多くは、識字学級に通ってくるようにな った﹁私﹂と、積極的に関係を結ぶ必然性を持っている わけではない。そして、そのような出会いの中にあって は、関係をつくる努力は、﹁私﹂の側が全面的に負って しかるべきものであって、決して﹁両側﹂が等しく負う べきものではない。彼らには﹁私﹂が誰で、どのような 考えを持ち、何を求めてここにいるのかを問う権利があ こベる 13り、その聞いに対して説得力ある回答を出せるか否かが、 ﹁私﹂の関係づくりの成否を決めるだろう。少なくとも 私は、そう考え、識字学級に通い始めたのである。 何人かの人によって﹁踏まれたものの痛み﹂が私に向 けて問いかけられたのは、そのような場においてであっ た。私はそれを、関係を断つ言葉としてではなく、私と すいか いう突然現れたよそ者に対する当然の誰何であり、大切 にすべき当然の聞いとして受けとめた。生徒が、急に自 分の前に現れた教師に﹁先生にオレの気持ちがわかるは ずはない﹂と問いかけるのと、それは全く同質の問いで あると、当時の私は感じたし今もその感覚は変わってい ない。以後、今年で二十数年目を数える私の識字学級通 いは、その時間われた﹁踏まれたものの痛み﹂に対する 私なりの回答の一つのつもりである。 そうは言っても﹁踏まれたものの痛み﹂という聞いが、 場合によって、関係を断つ言葉として使われる可能性を、 私はすべて否定するわけではない。同和教育関係の組織 の中で、ある肩書きを持って動いていた時、一人の運動 体の幹部から怒鳴りあげられたことがある。彼は﹁踏ま れたものの痛み﹂を使ったわけではなかったが、その時 の彼の言葉は、運動体の幹部という立場から私の所属す る教師の組織に対して向けられた政治的言葉であり、一 人の被差別部落民として私と対話することをハナから拒 否した物言いであった。ただし、この話には後日談があ る。数年後、肩一書きを持たぬ一教師として、私はある啓 発演劇の脚本演出を担当したのだが、そのことで出演者 であった彼の妻子と知り合いになり、結果として彼との 個人的関係を偶然にもつくれたのである。この出来事は、 同一人物であっても、被差別部落に生まれた一人の人間 と向き合うということと、運動体の幹部という肩書きと 向き合うということの本質的違いを知る上で貴重な経験 で あ っ た 。 このような政治的文脈で発せられる言葉には、人間的 関係を拒否する言葉は多い。また、当たり前のことだが、 それが部落解放運動の場であるからといって、この傾向 から自由であるわけではない。私は、政治的な言葉だけ が飛び交う場所に対しては、生理的な拒否反応があるの で、基本的にそういう場には近寄らないようにしている のだが、それでも識字学級に通い始めた頃は、支部の リーダーたちから、本来なら校長や教頭に向けるべき言 葉を幾度となく投げかけられ、閉口したことも少なくな
かった。私の頭の上を通り過ぎていくような言葉ばかり だったので、その内容をよく覚えてはいないのだが、中 には政治的道具としての﹁踏まれたものの痛み﹂も含ま れていたような気がする。しかし、私が識字学級に受け 入れられていき、彼らのムラの中での愛称やその由来を 女性部の雑談で聞かされたりしている内に、いつのまに か、彼らとの個人的関係も生まれ、気づいたときには、 学校運営者が問われるべきことを私が問われることはな くなっていた。それ以降、幸いにして、政治的道具とし ての﹁踏まれたものの痛み﹂とは縁がない。 結論的に言えば、﹁踏まれたものの痛み﹂が関係を断 つ一言葉と感じられるのは、それが政治の場で発せられて いるからではないだろうか。そして、政治的な場におい てなら、両側から超えることの大切さが叫ばれることに、 私は何の異論もない。けれども、それが普遍的な結論と されるとするなら、納得できないものがある。例えば、 過去の私のように、一人の教師が被差別部落と出会おう とする時に、両側から超えるということはありえない。 超えるべきは、間違いなく教師の側なのであり、その時 ﹁踏まれたものの痛み﹂は、関わろうとする教師の主体 性を問う言葉として、過去も現在も有効であると私は考 え る の で あ る 。 部落問題から人権・部落問題へという方向性が間違っ ているとは思わない。しかし、被差別部落との出会いや その出会いの経験の中でもたらされるある種の感受性の 欠落の中で、人権を理解することは果たして可能なのか という危慎が私にはある。別に﹁踏まれたものの痛み﹂ という問いだけが大事であると思っているのではないが、 そのある種の感受性を自分のものとする上で、﹁踏まれ たものの痛み﹂は、今日なお、二疋の意味を持つ聞いの 一つであると私は思うのである。 註 ﹃ 部 落 解 放 史 ふ く お か ﹄ 一 O 二 号 に 私 は ﹁ 踏 ま れ た も の の 痛 み 考 ﹂ と い う 文 を 寄 稿 し ま し た 。 そ れ に 対 し 、 藤 田 敬 一 さ ん か ら ﹃ こ ぺ る ﹄ 一 O 四 号 ﹁ 鴨 水 記 ﹂ で ﹁ 説 得 力 に 欠 け る ﹂ ﹁ 疑 問 は っ き ま せ ん ﹂ と の 指 摘 を い た だ き ま し た の で 、 少 し で も 生 産 的 な 議 論 が で き れ ば と い う 思 い で 、 こ の 文 を 書 き ま し た 。 ﹁ 踏 ま れ た も の の 痛 み ﹂ と い う 聞 い が 、 ち っ と も 嫌 で は な か っ た 人 間 も い る と い う 事 実 だ け で も 分 か っ て い た だ け れ ば と 思 こベる い ま す 。 15
追悼井上
清先生を送る
藤田敬
井上清先生が亡くなられた。享年八十七歳。この五月、 京都で聞かれた米寿をお祝いする小さな集まりでお会い し た の が 最 後 と な っ た 。 学生時代に﹁部落問題の研究その歴史と解放理論﹄ ︵部落問題研究所、日・日。のち改訂増補版﹁部落の歴 史と解放理論﹂田畑書店、印・ロ︶を読んで以来、わた しのなかでは井上先生の存在は身近だったが、六十年代 末、大学闘争のころからは親しくお話をうかがう機会が 増えた。先生と文化大革命下の中国を約一ヶ月ご一緒し た こ と も 忘 れ ら れ な い 。 先生の著作は多い。なかでも﹁日本現代史I
明治維 新﹄︵東京大学出版会、日・日︶は総合的で躍動的な歴 史叙述として評価が高く、再刊が待たれていたところ、 その新装版が宮地正人氏の解題をつけて出版されたばか りだった。第四章 ﹁半植民地化の危機 との闘争﹂は中国近 代史研究にとっても 示唆に富むものとし ていくどとなく読み かえしたから、その新装再刊はほんとにうれしく、先生 の明治維新史研究の再評価が始まる予感がしていたやさ き の 計 報 で 、 残 念 で な ら な い 。 井上先生が日本近現代史研究ばかりでなく、天皇制の 歴史、女性史、部落史・部落解放理論の方面でも大きな 貢献をなさったことはよく知られている。先生は、羽仁 五郎﹃明治維新史研究﹄︵岩波書店、日・ 9 0 のち岩波 文 庫 、 河 −U
︶の﹁たたかう歴史学﹂との表題がついた 解 題 に こ う 書 い て お ら れ る 。 ﹁ ﹃ 人 民 史 観 ﹂ と 、 一 部 か ら は 冷 笑 的 に あ っ か わ れ た 羽 仁五郎の明治維新史研究は、このように、いかなるとき にも終始一貫して、﹃人民﹂のがわに立ち、死せる図式 ににげこまず、マルクス・レi
ニンの引用に頼らず、生 きた日本人民の生活とたたかいの歴史をえがき、われら の祖先の光栄ある伝統を明らかにし、自由と民主のため の、ファシズムと戦争に反対するための、人民のたたか いに、はげましと希望をあたえたのであった。それは、 た た か う 歴 史 学 で あ っ た 。 ﹂ これはまさに井上先生の志そのものではなかったか。 先生は文字どおり﹁たたかう歴史学﹂をたずさえて﹁た たかう﹂人びとのなかで生きようとしてこられたのだ、 と わ た し は 思 う 。鴨 水 記 マわたしがはじめて部落解放運動に ふれた一九五八年、木村京太郎さん、 朝田善之助さんは五十六歳、奈良本 辰也さん、井上清さんはまだ四十五 歳。みなさんそれぞれに風格があっ たように思います。明治維新をおし すすめた志士たちを持ち出すまでも なく、時代が下がるにしたがって人 物が小さくなるというのはほんとで すな。わが身をかえりみての実感で す 。 マ奈良本さん、井上さんが亡くなっ て、知識人と社会運動をつないでい たある種の時代の気風が確実に終わ ったという感じがします。奈良本さ んは部落問題研究所所長として、井 上さんはときには部落解放同盟中央 委員として、運動と密接にかかわり ながら友情にみちた関係をたもって い る よ う に お 見 受 け し た も の で す 。 知識人がそれなりの存在感をもって いた時代だった。フランスではサル ト ル が 元 気 だ っ た 。