五
台
山
古
傳
攷
石
垣
源
瞻
慈
覺
大 師 に 依 つ て將
來 せ ら れ 仁 五 台 山念
佛 が、
天 台 本 來 の 止 觀念
佛・
こ聲
名 念 佛、
こ を 調 和 し て 口 稱 念 佛 の素
地・
こ な り 、叡
山常
行 堂 の 念佛
に 直 接 の 因 縁 を 持 ち 、 特 に 洛 東 眞 如 堂 に 傳 は り し 引 聲 念佛
の 如 き は 、 此 の 五 台 山 念 佛 の曲
調 を 傳 へ た も のー
こ 云 は る を 思 ふ 時、
彼 の 靈 峰 五台
山 は啻
に 文 殊 示 現 の 淨 土 ご し て 人 ロ に 囀 炙 す る の み な ら す、
叉 吾 々 淨 土 歉 徒−
こ し て も 多大
の 關 心 を 有 せ す に は 居 ら れ な い 。 筆 者 は 去 る 昭 和 + 四 年 の 五 月 初旬
よ り 六 月 中 旬 に 亘 り て 彼 の 豪 懐 鎭 に 駐 る こー
こ を得
て,
警備
の 餘暇
申 台漁
び そ の 附 近 の 諸 寺 を 巡 拜 し・
碑 文 そ の 他佛
像
に 關 し 親 し く 見 聞 す る こ ε を 得 、 特 に 衆 僭 の 和 す る 五 台 山 念佛
の リ ズー
・ ヵ ル な 音調
に 接 し て、
戎 衣 を纏
ひ戰
線 に在
ゐ身
を も 忘 れ て し ば し 法悗
の 境 に 入 り、
久 し く 失 は れ て ゐ た宗
教 的 情 緒 を 味 ひ 得 九 事 も一
再 な ら ざ り し は 限 り な き 喜 び ミ す る所
で あ る 。 古 來 我 が 國 よ り 此 の 靈 峰 に 參 籠 せ し 人 は 靈 仙・
圓 仁 等 の 諸 大 師 を 始 め、
こ し て、
近 時諸
學 者 の 踏 破 せ ら れ た る 記 録 も +指
を 出 で ん ご し て ゐ る 。 然 し そ の 多 く は慈
覺 大 師 圓 仁 の 巡 醴 記 に類
す る も の に し て 、 未 だ 五台
山 に 於 け る 夊 殊 信 仰 の 傳 五 台 山 古 傳 攷 ( 石 垣 )黛
五一
P
ク
西 山 驫 報 第 + 二 號 五 二 説 に 關 す る 古 傳 的 考 證 を も の せ ら れ た る は一
、
二 を 出 で な い 。 勿 論 之 が 究 明 に 關 し て は 畢 竟 闇 中模
索 の 域 を 脱 し な い・
こ し て も 、 先 づ 之 が 縁 起 の 所由
を 原 ね て 五台
山 造 寺 の 創 草 に 及 び、
次 に 之 等 造 寺 の 根 底 を 爲 せ る 諸 經 論 の 傳 來 並 び に 五台
山 信 奉者
の 行實
を 尋 ね、
最後
に 文 殊 信 仰 の 興 起 の 跡 を 辿 り 、 以 て 文 殊 示 現 の 淨 土、
こ 信 奉 せ ら る 曳 に 至 つ た 時 代 は 果 し て 何 時 迄 遡 り 得 る か を 、 之 等 の 史 實 に 徴 し て そ の 爰 當 點 を 見 出 さ ん・
こ す る ぽ 叉 我 等 佛 教 學 徒 に 課 せ ら れ た一
使 命 で は な か ら う か 。 筆 者 は か 玉 る 意 固 の 下 に數
部 の 史 傳 を 渉獵
し、
戦 塵 に ま み れ 仁 ノ ー ト の 巡 拜 記 録 等 を 辿 り 、 以 て 踏 破 せ し 靈 峰 の轍
甚
撮
レ?
箏
篷
ぶ 次 第 で あ る ・ 勿 論 古 記 録 の 全 部 に 亘 り て 之 を 閲 す る の 眼 幅 を 得 ざ る が 故 に 、 ( 法藏
の叢
慱 に 此 の清
凉
山 に 就 て 記 か る 中 「 如コ
清凉
由 記其
ワ 之 」−
こ あ る も 清 凉 山 記 ご は 何 を 指 す や 今 日 清 凉 山 記 の 書 名 も 見 當 ら ざ れ ば 古 清 凉 慱 等・
こ 比較
し 得 ざ る は 惜 し い 事 で あ る 。 ) 牲 々 一 し て 獨 斷 淺 見 に 陥 れ る は 筆 者 の 遺 憾 こ す る 所 な る も、
大 方諸
賢
の 歡 示 を 仰 い で 止 ま な い 次 第 で あ る 。一
五台
山 は 支 那 山 西 省 代 州 府 五台
縣 楊 林 街 に 在 り、
海
拔、
二 〇 六 二 米 の 高 地 に 位 し τ 東 四 南 北 中 の 五 峰 甕 立 し、
頂 に 林 木 な く 壘 土 の 台 の 如 く な る を 以 て 五 台 山 ぐ〕
稱 す 。 而 し て 盛 夏 す ら 尚 炎暑
を 知 ら ざ る が 故 に 清 凉 山 寸冒
も 名 づ け ら る 。 古 清 凉 傳 卷 上 に 夫清
凉
山 者 、 大 唐 東 北 、 燕 趙 西南、
山名
紫 府、
地 號清
凉 、 乃 菩 薩 修 行 之 地 、 是 龍 聊 久 住 之 郷 、 冬 觀 五 頂 如銀、
夏 観 干 峰 似 錦、
寔
文 殊 之 窟 宅、
號 衆 聖 之 林 園、
鐘 磬響
嶂 之 間、
樓
台
鎖 白 雲 之 内、
常
入 遊 醴 、 解 詮 忘 驅 、 禪 客 登 臨 , 群 魔 頓息
’
五 台 山 古 響 敦 ( 石 垣 ) 此 乃 不 離 聖 境 ご 。 華 者 は 五 月 十
一
日 蔓 懷 鎭 ( 現 今 の 中 台 ) に 入 城 す Q 戰 塵 を 洗 ひ暖
を沽
す湾
水 譲 々.
こ湧
き 出 で 淙 々−
こ 流 れ て 我 等 を 喜 ば し 、 四 方 の 山 頂 に は 自 雪 を 頂 き 冷 氣 堪 え 難 く、
そ の 風 容 得 も 云 は れ す 眞 に 靈 境 に 遊 ぶ を 覺 ゆ 。 古 松 般 若 を 談 じ 幽 鳥 眞 如 を 弄 ぶ・
こ ぱ實
に か 曳 る 幽 境 を 指 す に や.
こ 靈 感 ひ しく
ご 身 に 逼 る 。 翌 々 十 三 日 金 閣 寺■
に 向 ふ 山 中 猛 吹 雪 に 見舞
は れ、
馬 す ら 谷 間 に 倒 れ 落 ち ん、
こ す る そ の 猛威
筆 舌 に 鑑 し 難 し 。 以 て そ の 風 容 の】
端 を 知 り 得 ら る 」 で あ ら う 〇 五峰
の 周 廻 里 理 に 就 て は 法藏
の 華 嚴 傳 の み は 四 百 餘 支 里−
こ 云 ふ も、
他 の 諸 俳 に ぱ一
樣 に 五 百 餘 支 里・
こ 述 べ て ゐ る 。 ( 東 西 + 八 里 南 北 + 二 皿 で あ る ) 牲 昔殷
盛 の 際 は 此 の 周 廻 五 百 絵 支 里 の 間 に 、 或 は 山 頂 に或
は 溪 谷 に 勝景
の 地 を ト し て 三 百 餘 の 堂塔
伽 藍 賽 立 し τ そ の絢
を競
ひ し も、
現 今 は台
内 六 十 四 台 外 三 十 六 を 合 し て一
百 を 數 ふ る の み に し て、
叢
林 大刹
は 概 ね 中 台 の 下 臺 懐 鎭 に 在 り、
台 外 の 諸 寺 は襄
微 に 傾 き農
耕 を 以 て漸
く 糧 を 得 る 有 樣 で あ ゐ 。 而 し て 五 五 三西 山 學 羅 第 + 二 號 五 四 峰
・
の 名 稱 に 就 て も 魔 清 凉 摶 に 「 據 古 鬮 所 載、
今 此台
即 中 台、
中 台 即 南台
、 大 廣 尖即
北 台 」−
こ 孟 へ る が 如 く、
東 西 二 台 は 古今
異 り な き も、
南 北 中 の 名稱
は 古 來變
邁 が あ つ た や う で あ る 。 靈峰
五 台 山 が 文 殊 示 現 の 淨 土 こ し て 支 那 三 大 靈 地 の 随一
た る 所 以 の も の は 、 古 來 束 晋 以 來 の 信 仰 な る が 如 しー
、〕
云 は れ そ の所
憑
.
こ し て廣
清 凉 簿 に は 「 文 殊 師 利實
戴 陀 羅 尼 經 」 に.
説 く、
.
我滅
度
後、
於 此 瞻 部 州、
東 北 方 有 國、
名 大 振 郷 、 其 中 有 山、
名 爲 五 頂、
文 殊 師 利 覚 于、
遊 行 居 耗、
爲 諸 衆 生 、 於 中詮
法 ( 正 藏 二 〇 ノ 七 九一
C ) の 文 を 引 き 大 振 那、
名 爲 五 頂 等 の 文 字 に着
眼 せ る 設 を 爲 し、
叉 醤 華 嚴 經 の 菩 薩 住 處 品 に 説 く 、 東 北 方 有 菩 薩 佐 處、
名清
凉
山、
過 去 諸 菩 薩常
於 甲 住.
彼 塊 有 菩 薩、
名 文 殊 師 利 、 右一
萬菩
薩
眷 蟠 、常
爲 読 法 の 文 を 引 證 し て ゐ る 。 蓋 し 五台
山 縁 起 に 關 し て は 衆 詮 稍一
致 す る も 頗昌
荒 唐 無 稽 の そ し り を 免 れ な い も の が あ る 。 廣 靖 凉 慱 や 顯 通 寺 碑 や 菩薩
頂 碑 ( 顯 通 寺 は 山 中 第冖
の 叢 林 に し て そ の 驩 臾最
も 古 く 旦 つ て の 大孚
靈 鷲 寺 が 現 今 の 顯 通 き で あ り 、 そ の 雄 大 絢 爛 た,
る 諸 殿 堂 に ば 賽 者 を し て 驚 か し む 。 徇 又 有 名 な る 千 臂 千 鉢 曼 殊 窒 利 菩薩
ほ 千 鉢 殿 に 安 置 さ れ そ の 壯 槻 に驚
嘆 せ ざ る 者 な し、
現 今佛
敏 學 隴 を 置 き 蒙 古 語 に 依 る 經 興 讀 誦 を學
習 せ ら ) に よ れ ば、
後 漢 の 明 帝 の 時 ( 五 八 ー 七 五)
西 域 の 沙 門 漢 土 に 來 り て、
此 の 由 形 が 印 度 の 靈 鷲 山 に似
た る を 以 て 、帝
に 奏 し て 大孚
靈 鷲 寺 を建
王
に
始 ま る三
至
。 此 の 傳 説 は 何 處 よ り 餓 で た る も の な る か ば 不 明 な る も、
恐 ら く は 魏書
糧 老 志 等 に、
後 漢 の 明 帝 ぱ 裕 陽 城 西 雍 門 外 に 佛 寺 を 起 し 薔 工 に 命 じ て そ の 壁 上 に 千 乘 萬 騎繞
塔 三 匠 の 圖 を 書 か し め、
叉 釋 迦 佛 の像
を 圖書
し て 之 を 溝 凉 台 及 び 顯節
陵 上 に 置 か し むー
こ あ る によ り 、 ( 正 藏 五 ニ ノ
一
〇一
A 參 照 ) 後 世 清 凉台
は 彼 の 五台
山 を指
す も のー
こ 思 は る 曳 樣 に な つ た の で は な か ら う か 。 勿 論 茲 に 所 謂 清 凉台
が果
し て 五 台 山 を 指 せ ゐ も の な り や に 就 て は幾
多 の 考 證 を 要 す べ き も 、 既 に 佛 敏 東漸
史 に 於 け る 摩 隲 、 竺 法 蘭 の 傳 に 關 し て は 定詮
を 缺 く 今 日 俄 に 之 を 信 す る 事 は 出來
な い 。 況 や 古 清 凉 傳 に は 之 に 關 す る 記 事 な く、
且 叉 古清
凉 傳 ご 廣 清凉
傳 ご を 比較
す る に.
後者
は そ の 述 作 年 代 も 新 し く そ の 所 載 の 記 事 に は 特 に 世 傳 の 二 字 を 用 ひ、
多 く は 傳 読 そ の ま 』 を 記 蓮 せ る が 故 に 、 簡 單 に 儒 用 す る こ ご は危
險
で あ る 。 の み な ら す 傳 説 の 内 容 が 餘 り に戯
曲
的 で あ り 、 文 化 移 動 の 史 的慣
例 に そ む く も の は 價値
少 き も の こ 量 は ね ば な ら ぬ 。 徇 叉 大 孚 靈鷲
寺 に 就 て も 廣清
凉
傳 に は 感 通 録 ( 道 宣 撰 麟 徳 元 年 六 六 四 ) に 云 ふー
こ し て、
道 宣 律 師 が 天 入 に 冏 ふ て 曰 く 、漢
明 所 立・
こ 魏 の 孝 夾 帝 所 造−
こ 二 説 あ る が 如 何 ε 云 へ る に 對 し、
天 人 答 日 、 二 帝 倶 曾 於 此 造 寺 供養
、 乃 阿 育 王 、 亦 曾 於 此 遘 塔 、 昔 周 穆 王 時 、 已 有 法 佛、
此 山 靈 異 、 文 殊所
居 、 漢 明 之 初、
摩 騰 天 眼 亦 見 有 塔 、勸
常
造 寺 、 名 大 孚 靈鷲
( 正 藏 五 ニ ノ 四 三 七 A 參 照 )、
ご 爾 説 を肯
定 し て ゐ る も.
之 は 徒 ら に 佛 教 の 傳 來 を 古 代 祕 せ ん こ す る 態 度 に 外 な ら ぬ 。 古 清 凉 傳 卷 上 に は 大 孚 靈鷲
寺、
寺 本 元 魏 文 帝所
立 、 帝 曾 遊 止 、 具 奉 聖儀
、爰
發 聖 心、
創 茲 寺宇
ご 述 べ て 元 魏 文 帝 の 斯 立 な り・
こ し て ゐ る 。 茲 に 文帝
ご 云 へ る の は 彼 の 孝 文帝
の 事 に し て 、 廣 清 凉 傳 に は 南 台 の 北 に 孝 文 帝 迸 暑 遊 行 の 地 あ り.
こ し 、 叉 圓仁
の 巡 禮 記 に も 思 陽嶺
の 東 北 五 里 に 孝 文 帝 の 射 箭 瘍 の 跡 あ り−
、
こ 傳 へ て ゐ る 。 蓋 し 北魏
の武
帝
破 佛 後 二 代 六 十餘
年 を 經 て 文 成帝
、 献 文 帝 相 次 い で 位 に即
き、
共 に 佛 法 を篤
信 し 、そ の 興 佛 の 事 業
−
こ し て 首 都 李 城 ( 山 西 省 大 同 ) に 石佛
圖 を 造 り た る 事 は餘
り に も 有 名 に し て 、 次 な る 孝 文 帝 は 準 城 よ り 洛 陽 に 都 を 邁 す 。帝
は 延 興 元 年 ( 宋 の 太 始 七 年 四 七一
) 五歳
に し て 即 位 し ( 姓 を 元 氏 と 改 め た れ ば 爾 來 元 魏 と も 稱 す ) 太 和 二 十 三 年 ( 南 齊 の 永 元 元 年 四 噸 五 台 画 古 傳 攷 ( 石 垣 ) 五 五西 山 學 報 第 + 二 號
.
五 六 九 九 ) 三 十 三 歳 を 以 て波
し 仁 る故
在 位 は 二 十 九 年 間 で あ つ 九 。 か く 帝 は 比 較 的 早 く 世 を 去 り し も 「 佛 租 歴 代 通 載 卷 九 」 に は 七 度 び 詔 を 下 し τ 興 佛 す ご 樺 老 志 に 見 え た りー
こ 云 へ ば、
佛 敏 の 復 興 に熱
心 な り し 事 も 知 ら る 。 諸 傳 に は 大 孚 黨 鷲 寺 の 南 に花
園 あ り て 七 月 十 五 日 に 至 れ ば一
時 に花
開
き、
光 彩 晃 曜、
こ し て 恰 も 錦 を 舒 べ た る 如 く、
七 日 を 經 るー
こ 齊 し く 凋 むー
こ ω事
で あ り 、 此 の 花 は 今 云 ふ 所 の 孝 文帝
の 種 ゆ る も の,
こ 云 ふ 。 叉 中 台 の南
三 十餘
塁 の 山麓
に清
凉 寺 あ り 、 之 れ 魏 の 孝 文 帝 ω建
つ る 所 な り、
こ 古 清 涼 傳 に 見 ゆ る が 故 に 、 初唐
時 代 に は清
凉 寺 が あ つ たー
こ 見 る 可 き で あ る 。 徇 台 外 の 寺 院 に 鵬す
る も 五 台 山 隨一
の 名 刹 た る 大 佛 光 寺 は 北 魏 孝 文 帝 (一
説 に は 蕪 の 宕 昌 王)
の 創建
に 係 り , 隋 の 代 五 台 縣 昭 果 寺 の 僣 解 晩 之 れ を 再建
し、
大 殿 安 置 の 三 尊 佛像
は 山 中 唯一
の 傑作
な りー
こ 稱 せ ら る 。 之 等 に 依 つ て 見 れば
孝 文帝
五 台 山 遊 行 の 事 も 大 孚 靈 鷲 寺 創 建 の 事 も一
應
は 首肯
し 得 ら るΣ
こ 同時
に、
之 を 以 て 略 嚆 矢−
こ 見 る 可 き で は な か ら う か 。 勿 論 之 れ 以前
に は所
謂 草庵
の片
影
だ も 絶 無 な りー
こ 極 論 す る も の で は 斷 じ て な い 。稍
降
り て 北 齋 の 高 祺 ( 五 五 〇1
五 五 九 ) は 伽 藍 を建
つ る 事 そ の 數 二 百 に 遶 し、
叉 八 州 の 税 を削
き て 五 台 山 衆 徒 の 衣 藥 の資
に 供 し 弛・
こ の 記 事 も 見 え て ゐ る が 故 に 、 當 代 に 於 け る 山 衆 は 相 當 の數
に 達 し て ゐ たー
こ 見 る べ き で あ る 。へ
之等
は 畢 竟 信 仰 の 結 實 の 然 ら し む る 所 に し て、
五 台 山 中 そ の 創建
の最
も 古 き も の こ し て 知 ら る x 大孚
靈 鷲 寺 に 就 て.
も、
そ の史
實 に微
し て 首 肯 し得
ら る 」 は 所 謂 北 魏 の 孝 文 帝 の 代 で あ る 。 先 に 引 證 せ し 「 文 殊 師 利 寳藏
陀 羅 尼 経 」 に 五 台 山 の 地名
を 豫 言 せ し 文 あ る を 以 て 、 説 者 は 既 に 早 く よ り 西 域 地 方 に 此の 五
頂
の 峰 は 知 ら れ た りー
≧ 云 ふ 。 さ れ,
ご 此 の 経 は開
一
兀 羅骨
經録
卷
亠 九 に よ れ ばド、
唐
の 黨…
宀 示 見 兄 雲一
兀 年 ( 七一
〇 ) 黄 口提
流亠
文 に 依 つ て 譯 さ れ た も の な る が 故 に 、西
域 地 方 に 果 し て 何 時 の 頃 よ り 知 ら れ て ゐ た か は簡
單 に 推 知 し得
ら れ な い 。 併 し 之 れー
こ 同 木異
譯 ε 見・
夢 る 可 き も の に 、 竺 法護
が 西 域 に 近 い 凉 州 で 西 晋 の惠
帝 泰 安 二 年 ( 三 〇 三 ) に 諜 織 し た 「 文 殊 師 利 現 寳 藏 經 二 卷 」 が藏
經 に 牧録
さ れ て ゐ ゐ も 、 「 東 北 方 有國
、 名 大 振 那 、其
中 有 山、
名
爲 五 頂 、 云 云 」 に 類 す る 記 事 は 見當
ら な い 。 内典
録
に ょ れ ば 「 文 殊師
利 現 寳 藏 經 二 卷 西 晋 安 法欽
譯
」 を 餓 し、
叉 岡 名 の 經 を 西轡
支 法度
譯
−
こ し て 、 法護
譯 ご 大 同 小 異 で あ るー
こ 蓮 べ て ゐ る 。 ( 正 藏 五 五 ノ 三一
五 c ) さ れ ば 本 經 は 西 晋 の 代 に 三 譯あ
る 事 に な る が、
仔 細 に檢
す れ ば 之 れ は 璽 法護
譯 以 外他
の 二譯
は な し・
、
見
る の が 妥 當 で あ ら う 。 從 つ て 此 の 法 護 譯 は 文 殊信
仰 を 申 心.
こ す る 西 域 地 方 に 於 け る佛
敏 の蕎
を 物語
る に は 靈 要 な 役 割 を 果 す も 、 直 接 五 台 山 を 指 示 せ し も の・
こ 見 る 可 き で は な か ら う 。 さ れば
此 の 經 典 に 依 つ て 既 に 五台
山 が 豫 言 せ ら れ た り・
こ 云 ふ は菩
提 流 支 の譯
出
以 後、
支 那 本 土 の 入 々 に 依 つ て 提 唱 せ ら れ た り・
こ 見 る 可 き で は な か ら う か 。 古清
凉 傳 に は 此 の 經 典 の名
を 見 す し て 、 廣清
凉 傳 に 到 つ て 漸 く 此 の 經 興 を 指 示 せ る は 、 如 上 の 理 を 立證
す る も の で は な か ら う か 。 徇 茲窪
意 す べ き は 竺 法馨
遷
よ り鑿
に賚
以 後 は 、全
の 亂 に象
毛
二 +撃
聞
萎
を動
か ざ り し も の L 如差
れ書
、 諸 傅寡
照 すれ
竺
+ 餘 年聞
も 絶 えす
萎
に居
お
査
な い 。 彼 は婁
に 洛 陽巌
煤 に、
、
・
遊 化 し つ 玉 專 ら 翻謦
從 事芒
も の鳧
る 可 き で あ る 。 出 三藏
記 集 卷 七 所 載 の姦
師 利 淨 律 經 記 に よ れば
、 西業
康 +缶
洞 八具
二 八 九 ) に隻
殊 師 利 淨 律壟
奪
洛陽
の 白 馬 寺 で譯
し華
あ
る 。 之 等 よ り 推 し て 彼 の譯
経 は姦
信 仰史
上 に 於 て等
な む の 役 割 を果
し て ゐ るー
こ 見 る 可 き で あ る 。詰
七 五 台 山 古 慱 攷 ( 石 垣 )西 山 學 報 第 十 二 號 五 八 文 殊 示 現 の 淨 土 を
最
も簡
明 に 示 し 而 も 直 接影
響
を 與 え 九 も のー
こ 見 ら る 」 舊 華 嚴 經 は、
拙 三 藏 記集
等 に よ れ ば 支 法 領 な る も の 西 域 に 遊 び で 干 闖 よ り 三 萬 六 干 偈 の 華 嚴 經 の梵
本 を 齎 ら し た る を 、中
印 度 僣 覺 賢 三 藏 が 束 晋 の 安帝
義 熈 十 四 年 ( 四一
八 ) に そ の 翻 譯 に 從 事 し 、 法 業・
惠
嚴 9 惠 義 等一
百 除 人 の 助 力 を 得 て前
後 三 年 を 費 し 之 を 譯 出 し て 五 十 卷、
こ 爲 す 。 後 再 校 し て 永 初 こ 年 十 二 月 二 十 八 日 ( 四「
= ) 之 を 完 了 し で 六 〇 卷、
こ 爲 し た、
こ 云 ふ 事 で あ る 。 此 の華
嚴
經 第 二 十 九 卷 菩薩
佳
處 品第
二 十 七 に 、・
東 北 方 有 コ菩
薩 住 處 → 名 論 清凉
山 → 過 去 諸 菩 薩 →常
於 レ 中住、
彼 現歹
壺 口薩
→ 名 二 文 殊師
利 → 右 二.
萬
菩
薩眷
鸚 →常
爲
二 詮 法 , ( 正 藏 九 ノ 五 九 〇 ⊥ )、
こ 屯 の り 、 計 入 麿旧
の 則 譱 八 武後
聖ユ
暦「
一
年 (亠
ハ亠
ハ +川
) に W 干 m 闇閃
國一
二戴
實 湘 人 難 陀 「ド
依 つ て譯
さ れ た華
皿
敵 經 第 … 閏 十 五 卷諸
苙 口 薩 住處
口 叩 第一
二 十 二 に も 同}
の 意 味 の 文 があ
る 。 ( 正 藏一
〇 ノ ニ 四一
B 參 照)
が併
し 華 嚴 經 に 云 ふ 清 凉 山 は 元 よ り 支 那 の 五 台 山 を 指 す も の で は な く 、 印 度 の 靈鎹
山 か或
は他
の 靈 峰 を 指 す も の に 外 な ら ぬ で あ ら う 。 さ れ さ 經録
に よ れ ば 之 よ り 已 前 華嚴
經 の 分 譯−
こ し て、
佛
教
初 傳 の一
人 九 る 竺 法 蘭 が 十 地 斷 結 経 を譯
し 、 次 で 後 漢 の 世 に 支婁
迦 識 が佛
説 兜 沙 經一
卷
を 譯 出 し(
一
六 七 ) 、 叉 呉 の 支 謙 は 菩薩
本 業 經一
卷 を 譯 出 す ( 二一
「 八 年 頃 )−
こ あ る 。 法 戴 賢 首 大 師 の 華 嚴 傳 に は、
華 嚴 宗 成 立 に 至 る 迄 此 の 維 の}
昂 若 く は一
部分
の 傳 譯 さ れ た も の 前 後 三 十 五 部 を 列 ぬ る も 、 今 茲 に 擧 け た 十 地 噺 結 経 は しば
ら く 置 き 、 兜 沙 經 は 音譯
に し て 義 譯 に 非 す 、且 叉 本 業 維 も そ の 文 體 簡 に し て そ の 意 味 を 解 す る に は 稍 難 澁 で あ る 。
從
つ て 之等
が 文 殊 信 仰 に 如 何 程 迄 便 宜 を 齎 し 九 か は 疑問
覗 す べ き も の に し て 、 た 望 大 乘 歡義
の 發 展 過 程 に 於 け る 譯 經 史 上 重 要 問 題 九 る の み に し て、
直 接 信 仰 内 容 に は 左 程 影響
を 與 え た も のー
こ は 思 は れ な い 。古 溝
凉
傅 に は 文 殊菩
薩 の 信 仰 内容
に 直 接 影 響 を 及 ぼ せ る 經 典−
こ し て 般 泥 酒 經 を 擧 け て、
般泥
滬 經 云 、 若 但 聞 名 者 、 除一
十 二 劫 生 死 之 罪 、 若 醐 拜 者、
恒 生 佛 家、
若 稱 名 字 、一
日 至 七 日 文 殊 必 來 、 若 有 宿障
、夢
中得
見 形像
者 、 百 千 劫 中、
不 墮 悪 道 、大
矣 哉斯
道−
こ o 此 の 經 文 に 依 て 明 か な る 如 く 、 若 し 醴 拜 す る 者 は 恒 に 佛 家 に 生 れ 、若
し佛
名 を 稱 す る 享一
日 乃 至 七 日 す れ ば 文 殊 必 す來
るー
こ 信 解 し て 、 文 殊 信 仰 に 趣 き し 事 は 想鱇
に 難 く な い 。 然 し 此 の 般 泥 疸 經 は 開 元 録 等 に よ れ ば ,大
本 の 浬 槃 經 を 除 い て 十 三部
を 擧 げ て ゐ る も 、 現 存 す る も の 玉 う ち 小 乘 の 部 に 騰 す る も の に 左 の 三 部 が あ の、
佛
般 涅 槃 經 二 卷 束 晋 臼 法 耐 譯 大 般 涅 槃 經三 卷
東 晋
法
顯
譯 般泥
酒 經二 卷 東 晋 失 譯 大 乘 の 部 に 屬 す る も の に 左 の 二 部 が あ る 。 方
等
泥 滬 經 二 卷西 晋 竺 法 護
譯
大 般霑
經黍
・
東 晋欝
蕁
之 等 存缺
の 兩者
に 就 て 詳 細 に 檢討
す べ き 問題
多 々あ
る も 今 は 之 を 略 し 、 先 の 古清
凉 傳 に 引 用 じ た 般 泥 泪 經−
こ は 何 れ の 經典
を 指 す か 明 か な ら ざ れ ♂ も、
現 存 の 之 等 の 經 典 中 に は 先 の 文 は 見 當 ら す し て , 却 つ て廣
清
凉
傳 の 云 へ る 西 晋 の聶
道 眞 の 譯 せ る 「 佛 論 文 殊 師 利 大 般 浬 槃 經一
卷 」 に 左 の 語 を 見 る 。 若 有 衆 生 但 聞 文 殊 師利
名除
却 十 二 億 劫 生 死 之 罪 。若
禮 拜 供養
者 9 往 生 之 處恒
生諸
佛 家 し 爲 文 殊師
利威
紳 所 護 是 故 衆 五 台 山 古 傳 攷 ( 石 垣 ) 五 九西
墨
郭 第 + 二 號.
六
Q
生 。 當 懃繋
念 文 殊像
。 念 文 殊嫌
法 。 ( 正 藏一
四 ノ 四 八一
A ) 蓋 し籤
眞
は 竺 法 護 の鬱
に 於 い て簍
雀
文 の役
郵
め 、 竺 法 護 の沒
後 (三
三 )諸
維 奥 を譯
出 し、
麗
筆 を 以 て 知 ら れ て ゐ る 。併
し 此 の 般 涅 槃 経 は 内 典 録 第 ニー
こ 謄 代 三 寳 記 第 六 に は 西 晋聶
道眞
譯 ご あ る も、
出 三藏
記 集 第 四 ぐ旨
法 經 録第
て、)
に は 失 譯−
こ し て あ る ・ 思 ふ に 之 は 凉 州 地 方 に 於 け る姦
信 仰 の殀
謦
し 叩 、 な つ砦
の に』
L、
支 那 本吉
於 い て婆
舞
の 爲 に 文 殊 の佛
名 を 稱 し た の は 恐 ら く 東 晋 以 後 で は な か ら う か 。 か く考
察 し 來 れ は ・ 經 典 を 中 心・
こ し て 發 促 せ る 文 殊 信 仰 は・
西 晋 の 代 聶 道 眞 に 依 つ て 般 浬 槃 維 の 譯 出 せ ら れ 之 が 支 那 本吉
流 傳 し て 以後・
即
ち 束 晋 の 初 頃 よ り、
・
見
ゐ が書
な る も、
而 も 五台
山 に關
す る 限 り に 於 い て は 、 之 よ り 約 百 年 を 經 過 し て 莓 華 嚴 経 が 翻 譯 せ ら れ て 以 後 、 此 の 地 方 の 人 々 が 我 等 の 信 す る 文 殊菩
薩 の塗
は 、 此 の 五台
山 帥 ち清
凉 山 な りー
こ 俄 か に?
ご ひ 寄 つ て 釜 々 尊 信 せ し も のー
こ 見 る べ き で は な か ら う か 。 茲 に 於 て 吾 人 は か 」 る 五 台 山 崇 拜者
ぱ 果 し て 何 時 頃 よ り 見 ら る 」 か を 尋 求 し な け れ ば な ら ぬ 。 四詔
清
涼 傳 に 散 見 す る 五 台 山 の 文 殊 信 奉 者 を 諒 ぬ る に 、 先 つ そ の 嘴 矢−
こ 見 る 可 き は 智 猛 法師
「
じ あ ら・
フ 。 古 清凉
傅 卷 下 に は 、 叉 按 別 儕 云 、 文 殊 師 利、
周 宇 文 時 、 化 作梵
借、
而 來 此 土 云、
訪
輩 迹.
欲 詣 清 凉 山 、 文 殊 師 利 住處、
於 時 智 猛 法 師 乃 問 其 事 、纔
伸 啓 請 、俄
失梵
僣、
此 以曉
勵 塁 蒙、
全 生 渦 仰、
若 篤 信 紳 通 者、
豈 遠 乎 哉、
−
こ 。智
猛 法師
の 傳 に 就 て は 幽 三藏
記集
及 び 古 今 譯 經圖
記 に よ れ ば 、 離 州 京 兆 郡 新 豊 縣 の 人 に し て、
僞
秦 の 弘 始 六 年(
戊 辰 は 甲 辰 の 誤 、 四 〇 四 ) 戊 辰 の 年 同 志 の 沙 門 十 右 五 人−
こ 長 安 を 發 し、
凉 州 城 よ り郵
善 , 霾 茲 、 干 蘭 の 諸 國 を 聴 遊 し 、 葱 嶺 に 登 り 波倫
・
闘 賓 國 を 經 て華
氏 城 に 至 り 、 大 智 の 波羅
門 羅 閲 宗 に 會 ひ 泥 滬 の胡
本[
部 を 得、
甲
子 の 年 ( 元憂
兀 翠 四 二 四 ) 天 竺 を 發 し曇
纂、
こ 共 に凉
州 に 還 り、
泥 沮 本 を 譯 出 し て 二 十 卷・
こ し ( 四 三 七 ) , 元 嘉 十 隅 年 ( 四 三 七 ) 蒟 に 入 り 同 十 六 年 七 月 七 日 鐘 山 の 定 林 寺 に 於 て 傳 を 造 り 、 元 嘉 の 末 ( 四 五 三 ) に 卒 すー
こ あ る 。 古 清凉
傳 に 云 ふ 智 猛 が 之・
こ 同[
入 な ゐ 享 は 略 々 疑 な き所
で あ り、
凉 州 に 還 り て 泥 滬 經 二 十 卷 を譯
出 し、
蜀 に 來 り て 沒 す る 迄 十 有 餘 年 あ る を 以 て 數 千 里 を 遠 し、
こ せ す し て 五゜
台
山 に 登 り し 事 も 首 肯 し 得 ら る 」 事 で あ ゐ 。 術 彼 が 譯 出 し 池 る 泥 濱 經 二 十 卷 は 現 存 せ ざ る が 故 に 、 そ の 内容
を 伺 ひ 知 る 事 の 出 來 な い の は惜
し い 事 で あ る 。 茲 に 疑 問・
こ す べ き は 先 に 引 用 せ し 「 周 宇 文 時 、 化 作梵
僣
、 而 來 此 土 云 」 の 記 事 で あ る 。 茲 に 云 ふ 周宇
夾,
こ は 大 唐 内 奥 録 卷 五 に 周 之 先 岨 宇 文 覺 者、
即 西 魏 大 瓶 相 黒 泰 之 世 子 也、
泰
擧 高 陽 王 爲魏
帝 西 邁 長安
、 改 衣 幡 爲 葛 皀 、 號 大 統 元 年 、一
十 八 載 改 年、
屡 帝 立 、魏
齊 王 四 年 而麗
、 覺 承 魏 禪 、 當 年被
廢 ( 正 藏 五 五 ノ ニ 七一
λ )募
る を 見 れザ
周宇
文 が 魏 の禪
を 承 け て 周ぎ
な つ た の は 西 暦 五 充 七 年 に常
る 。 之 れ 先 に 論 證 せ し智
猛 法師
滅後
百 年 に 當 り 、 此 の 記 事 に は 大 な る 矛盾
ガ あ る 事−
、
)
な る 。 尤 も 別 傳 を 按 す る、
こ あ れ ば 果 し て 何 に據
つ た も の で あ る か 明 か な ら ざ れ,
こ も 、 之 は 古 溝 凉 傳 の 著 者慧
鮮 の 誤 聞 か 或 は 今 云 ふ 智 猛 法師
が 別 入 な る か 、 更 に檢
討 を 要 す る も 今 は 只 だ 疑 問−
、
u し て 擧 ぐ る に 留 め る 。 や 五 台 山 古 傳 攷 ( 石 垣 )六
}
西 山 風 甲 報
第 十 二 號 亠 ハ ニ 次 に 擧 ぐ 可 き は 沙 門 靈
辯
で あ る 。 古清
凉 傳 卷 上 に よ れば、
昔 元魏
熈 李 元 年、
有 懸瓮
山 沙 門 靈 辯、
頂 戴 此 經 、勇
猛 行 道 、 足 破 血 流、
勤 誠 感 悟 、 乃 同曉
茲
典 、 著 論一
百 卷 、 時 孝 明帝
、請
於式
乾
殿、
數 揚 奥 旨 、宰
輔
名倫
、 皆從
北 面,
法
師、
以 正 光 三 年 正月
而 卒 、 時年
三 十 有 六 、 豈 非 精 進 所致、
異 世 同 塵哉
、−
こ 。 即 ち 靈辯
は華
嚴 經 を 頂 戴 し て 此 の 山 に 登 り、
文 殊菩
薩 の 加護
を 求 め ん が爲
に 勇 猛 精 進 行 邁 し て 足 破 れ 血 流 る 」 を も厭
は す 塗 に 華 嚴 論一
百 卷 を 作 つ た・
こ い ふ 事 で あ る 。 之 に 依 つ て 見 れ ば 彼 れ 靈辯
は華
嚴 維 護 持 の 爲 に特
に 文 殊菩
薩 を 信 仰 し た や う で あ る 。 法 藏 の華
嚴 傳 卷一
に よ れ ば華
嚴 論】
百卷
は 正 光 元 年 〔 五 二 〇 ) 九 月 著 す ε あ る か ら、
熙 準 元 年 ( 五一
六 ) よ り 正 光 元 年 迄 の う ち に 五 台 山 に 登 つ た 事 に な る 。 以 上 の 二 入 に 就 て は 之 れ 以 上 知 る 由 も な いが
、 茲 に 最 も 非常
の 事 を 爲 し 五 台 山 崇 敬者
の 嚆 矢−
こ ま で 云 は る 」 は 、 北 齊 の 天 和 の 初 め ( 五 六 六 ) 第 三 王 干 の燒
身 供 養 の 事 であ
る 。 古 清 凉 傳 に よ れ ば 至 北 齊 初 年、
第 三 王 子 、 於 此 求 文 殊師
利、
竟
不 得 見 、 乃 於塔
前、
燒
身 供養
、 因 此置
寺 焉、
共
王 子 有 閹 豎 劉 謙 之、
自慨
刑余、
叉 感 王 子燒
身 之 事、
途奏
訖 入 山 修 道、
勅
許
之 、 乃 於 此 處、
轉 誦華
嚴 經.
三 七 行 道 、 所 見 文 殊師
利、
邃 獲 冥 應、
還 復 根 形 、 因 便 悟 解宀
、 乃 著 華「
嚴 論…
六 百 卷 、岬
・
こ 。 即 ち 北 齊 高 狙 ( 五 五 〇i
五 五 九 ) の 第 三 王 子 は、
文 殊 菩 薩 の 眞容
を 拜 せ んー
こ し て 此 處 に 來 れ さ も 邃 に 拜 す る 事 能 は す、
仍 て塔
前(
阿 育 王 塔 ) に 於 て燒
身 供養
・
こ 云 ふ 非 常 の 事 を 爲 し 九−
こ 云 ふ事
で あ る 。 そ の 子 劉 謙 之 は 此 の 王 子 燒 身 の 事 を感 じ て 入 山 し
、
華 嚴 經 を 讀 誦 行 道 す る 事 三 七 日 途 に 冥應
を 得 て後
王 子 の 燼 骨 を 拾 つ て 此處
に塔
を 造 り 、 寺 を 創 建 し 王 子 燒 身 寺−
こ 號 せ し が 、宋
の景
徳 の 初 め (一
〇 〇 四 ) 改 め て 壽 寧 寺−
こ 稱 し た・
、
」
云 ふ 事 で あ る 。 古 清 凉 傳 に は 此 の 阿肓
王 塔 は 大孚
靈 鷲 寺 の 北 四 里 に 在 りー
こ 云 ひ、
圓仁
の 巡 禮 記 に も 此 の塔
を 明 記 せ る が 故 に 唐 末 に は 獪 ほ 存 在 し て ゐ た 事 が 知 ら れ る 。 而 し 丁華
嚴 傳 に 依 れば
北 齊 大 和 の 初 年 第 三 王 子 清 凉 山 に 於 て 云 云・
こ あ る も 、 北 齊 に は 大 和−
こ 云 ふ 年 號 は な い 。 之 は 恐 ら く 北魏
の 太 和 の 誤 り か 北 齊 の 天 和 の 誤 り で あ ら・
フ 。 さ れ ♂ 北 魏 北 齊 の諸
王 子 は 皆 史 上 に そ の 名 を 存 す び も、
清
凉 山 に 於 け る 燒身
供養
の 王 子−
こ稱
す る も の を 見 出 さ な い 。 叉 犬唐
内 典録
に 魏 高 祖 大 和 中 、 代 京 閹官
自
慨 刑 余 奏 乞 入 由 修 道、
勅
許
之、
乃齎
華
嚴 晝 夜 讀 誦 、 禮 悔 不 息、
[
夏 不 滿 、 至 六 月 末髭
鬚 生 得 丈 夫 相、
以 歌聞、
帝 大驚
重 之 、於
是 國敬
華 嚴 復 尊恒
日、
( 正 藏 五 五 ノ 三 三 九 R ).
° 茲 に 劉
謙
之 の 名 は 見當
ら な い が 、 閹官
自 慨 刑余
の 文 よ り推
せ ば 華 嚴 傳 の 劉謙
之−
こ 同一
傳 で あ る 事 は 明 ら か で あ る 。 而 も 内 典 録 に は 王 子燒
身 の 事 も 六 百 卷 述 作 の 享 も な い 。 若 し 六 百 卷 の 大 著 が あ つ たー
こ す れ ば、
道 宣 に し て 之 を 記 せ ざ る筈
は な い 。 況 や 道 宜 は 唯 だ 閹官
−
こ し て 名 さ へ も揚
け て な い 。 此 の 六 百 卷 華 嚴論
な ゐ も の は 甚 だ 信 を 置 け な いー
こ 同 時 に、
之 は 華 嚴 經 普 及 の一
左 證 を 物 語 る に 過 ぎ な い も の で あ ら う 。尤
も 古 清 凉 傳 や 華 嚴 傅 の 此 の 記 事 は 、 著 者 が 實 際 五 台 山 に 登 り 山 上 の 傳 に 依 つ て 書 い た も の で あ り、
彼 等 が 山 上 に 詣 で 九 時 は 現 に 王 子 燒 身 の 蕪 地−
こ 稱 す る 處 が あ り 、 此處
に ぱ 塔 を 建 て 」共
の遺
跡 を 表 し てあ
つ たー
こ い ふ か ら、
何 か 根 據−
こ す る 所 が あ つ た か或
は 山僭
の 傳 説 を そ の ま 」 記 し 九 も の か俄
に 斷 定 は し 得 ら れ な い 。 が併
し燒
身
供養
・
こ 云 ふ が 如 き 非 常 の 事 は 信 を 置 く わ け に 行 か な い が 故 に 、 恐 ら く 之 は 先 徳 が 如 何 に華
嚴 經護
持 に熱
烈 で あ つ 九 か を 文 殊 信 仰 の 篤 き 事 に な ぞ ら へ て か 玉 る 記 事 を 擡 造 し た も の で は な か ら う か 。 五 台 山 古 傳 攷 ( 石 垣 )宍 三
西 山 學 報 第 + 二 號
六 四 爾 ほ 文 殊 菩 薩 の 聖 容 を 拜 し 九 人 に 元 魏 の 釋
曇
鸞 ( 四 七 六1
五 四 二 ) を 擧 げ、
北 齊 の 明 勗 は ( 五 五 〇 以 後 ) は 甞 て華
嚴 經 を 閲 し て 此 の 山 谷 を 渉臘
し、
警
を 出 で す し て一
異僭
に 邁 ひ、
姦
の所
居 を誇
、
、
あ
輩
を 見 る ( 共 に 古 滴 凉 慱 卷 上 參 照 ) 之等
に 類 す る 記 事 は清
凉 傳 に 幾 多 列 擧 す る 所 に し て 、 悉 く 信 を 置 く 能 は ざ る も 而 も 之 等 傳詮
を 通 じ て文
殊 信 仰 が 比 較 的 深 く 民闇
に 迄 及 ん で 居 た 事 は容
易 に 想像
し 得 ら る 所 で あ る 。 飜 つ て 文 殊 信 仰 が 比較
的 早 く 傳播
さ れ て ゐ た 西 域 地 方 よ り 此 の 五 台 山 に 參 籠 せ し 篤 信者
に 就 て は 史實
に 微 す べ き も の乏
し き焦
そ の 最 初−
竟
らゑ
き も の に 就 て 古 清凉
傳 卷 下 に は、
唐
の 高 宗 麟徳
年 中 ( 六 六 四⊥
ハ亠
ハ 丑 ) 錫虜
蠶
密纛
が 五台
山 に 來 り て 苦 修 練 行 し 、 文 殊菩
薩 を 拜 せ ん ご し た 記 事 が 見 え て ゐ る 。帥
ち 西 域梵
僭、
釋 迦 密 多羅
者
、 本 師 子 國 人、
少 出 家、
本 住 摩 伽 陀 國 大 菩 提 寺 、 遊 方 利 物、
蓋 自 天眞、
麟 徳 年 中 、 來 儀 此 土 云 向清
凉,
禮 拜 文 殊 師利
、自
至 九 十 五 夏、
毎跣
足 而 行、
常 唯一
食、
或
復 盧 中 七 日 、 象 修 露 座 、 不 栖 房宇、
而 輙 至 食 蕊 向 東 北 遙 禮、
至 止 未 久 、 奉 衷 以 聞、
特 裳 恩 許 、 仍資
行 調 、 敕 遣鴻
臚 寺 掌 客、
爲 譯 語 人、
−
こ 。 以 て そ の 信 仰 の 熱 烈 さ を 窺 ふ に 足 る 。 徇 此 の 外 凉 州 沙 門 智 才 が 唐 の 高 宗乾
封 二 年 へ 六 六 七 ) 五 台 山 に 登 つ 九 記 事 あ る も ・ 特 に 有 名 に し て 諸 慱 に 明 か な る は 唐 の 高 宗儀
鳳 元 年 ( 六 七 六 ) 佛 陀 波 利 の 五 台 山 杖 錫 の 事 で あ る 。廣
清
凉 傳 に 之 を 記 載 せ る も 、 今 段 宋 高 僭 傳 に 依 つ て 見 れ ば、
釋佛
陀 波 利、
華 言 覺護、
北 印 度 騎賓
國 人 、 忘 身 徇 邁 觀 靈 跡 、 聞 文 殊師
利 在 清 凉 山,
遠 渉 流 沙 躬 來 禮 謁 、 以 天 皇儀
鳳 元 年 丙 子 杖 錫 五 台、
虔
誠
醴 拜 悲 泣 雨 涙 、 冀 覩 聖 容 倏焉
、 見一
老 翕 從 山 而 出 、 作 婆羅
門 語、
謂波
利 日 、 師 何 所 求 耶、
波 利 答 日.
聞 文 殊 大 士 隱 迹 此 山 、從
印度
來 欲 求 瞻 禮 、 翕 日 師 從 彼 國將
佛 頂 尊 勝 陀 羅 尼 経 來 否 、 此 土 衆 生 多 造 諸 罪 出 家 之 輩亦 多
所
犯、
佛
頂 棘 呪 除 罪 秘 力 、 若 不 齎 経 徒 來 何 谷 、縱
見 文 殊、
亦 何 能 識、
師
可 還 西 國 取 彼 經、
來 流 傳 此 土、
( 正 藏 五 〇 ノ 七一
七 G )−
こ 。 倚 此 の 記 事 は 佛 頂 璽 勝 陀 羅 尼 經 序 に も 見 ゆ る 所 に し て 、 仍 ち 佛 陀 波 利 は 文 殊 菩薩
の 眞 容 を 拜 せ ん ご し て西
國 よ り 來 り て 五 台 山 に 詣 で 玉】
老 翁 に邁
ひ , そ の 歡 に よ り て 西 國 に 還 り佛
頂 尊 勝 陀 羅 尼 經 を 將 衆 し て 此 の 山 に 登 り た れ ば、
老 翁 正 に 文 殊 の 所 居 を 示 す べ しー
こ 云 ふ 。 波 利 大 に 喜 び 山 に 向 つ て 禮 し 頭 を 擧 ぐ る 頃 既 に 老 翕 は 見 え す・
こ 。 鬩仁
の 巡 禮 記 卷 二 に は波
利 が 老 瓮 に 見 免 る 圖 が、
彼 の 竹 林 寺 般 若 道 鶚 の 裏 に あ る¶
こ 記 し て ゐ る か ら 、 之 は 事 實 に 近 い も のー
こ し て 言 ひ 傳 へ ら れ て ゐ た で あ ら う 。 更 に 圓 仁 の 巡 禮 記 卷 三 に は波
利 が 經 を 取 り 來 り て 此 の 山 に 到 る 時 文 殊菩
薩 彼 を 引 接 し て 共 に 金 剛 窟 に 入 る、
窟 門 自 ら 合 し て 今 に 到 る 迄 開 か す・
こ 記 し て ゐ る 。 さ れ,
ご佛
陀波
利 傳 に は、
唐 の 高 宗 彼 の 精誠
を賞
し 永淳
二 年 ( 六 八 三 ) 長 安 鴻 臚 寺 に 於 て 日 照 三 藏 及 び 杜 行 頻 等−
こ 共 に 此 の 經 を譯
蹴 せ し む・
こ あ り 、 且 又 此 の事
は 支 那佛
敏史
上 有 名 な 話 し で あ る が 故 に 、 金 剛 窟 に 入 る 云 々 の 事 は 此 の經
を 譯 し絡
つ て か ら 五 台 山 に 登 り し も の か 更 に 檢討
の 餘 地 が あ る 。 蓋 し 此 の 陀 羅 尼 は 之 を 受 持 ん 讀 誦 し 書寫
し 叉 は 聽聞
す る事
に 依 つ て よ く惡
道 を 淨 め 乃 至獪
壽 を 得快
樂
を 受け、
死 後 は 極 樂 世 界 に往
生 す る 事 を 得−
こ 詮 か れ 九 る を 以 て、
當時
支 那 の 大 乘 佛 數徒
に 信 仰 せ ら れ た も の で あ る 。 圓仁
の巡
禮 記 卷 三開
成 五年
( 八 四 〇)
七 月 の條
に 、 佛 陀波
利 の 舊 跡 た る 思陽
嶺
に 寳幢
あ り、
瞳 上 に 佛 頂陀
羅 尼 及 び そ の 序 の 篆 せ ら れ 仁 る事
を 記 し 、 現 に 五 台 山 の 古 寺 に は 孰 れ も 此 の 佛 頂 軍 勝 陀 羅 尼 の 經 幢 を 慱 へ て ゐ る 事 に 依 つ て も 、 此 の 經が
如 何 に 奪 信 せ ら れ て ゐ た か 十分
に 推 知 せ ら る の で あ る 。 茲 に 云 ふ 金 剛 窟 は 那羅
延窟
く丑
ハ に 文 殊 居 住 の 處 ご 信 ぜ ら〜
れ 山 中 唯一
の 聖 地 に し て、
唐 末 既 に 此 の 窟 を 堵 塞 し 別 に 小窟
五 台 肉 古 慱 攷 ( 石 垣 ),
汰 五四 山 學 報 第 十 二 號
亠
ハ 亠 ハ を 作 り 門 前 に 金剛
窟 の 三 字 を 鐫 り 中 に 丈 殊 の 牙・
こ 稱 す る も の を藏
すー
こ 傳 ふ 。 さ れ¶
ご 茲 に 注 意 す べ き は 古清
凉 傳 等 に 云 ふ 金 剛 窟 の記
事 であ
る 。 金 剛 窟者
、 三 世 諸 佛 供 養 之 具 、 多 藏 於 此、
按
羝 疸 圖 云 、 羝 恒 内、
有 天樂
一
部 、 七寳
所 成 、 箋 日 又 按 靈 跡 記 去 、、
此 樂、
是 楞 伽 山羅
刹 鬼 王 所 造、
將獻
迦葉
佛、
以 爲 供養
、 迦葉
佛滅
後、
文 殊 師 利 、將
牲 清 凉 山 金 剛 窟中
、 釋 迦佛
出 時、
卻 將祗
滬 、「
十 二 年 、 文 殊 師 利、
遐將
入 清 凉 山 金剛
窮 内 、 叉 有 銀 箜篌
、 有 銀 天 人 、 坐 七寳
花
上 、 彈 此 箜 篌、
又 有 迦 葉佛
時 金紙
銀書
大 眦 奈 耶藏、
銀 紙 金書
修 多 羅藏
、佛
滅後、
文 殊 並 將 往清
凉 山 金 剛 窟 中 、 こ 述 べ て 佛陀
波
利 の 記 事 は な く 、 叉 之 れ よ り 少 し 己 前 に 成 れ る 「 法 苑 珠 林 」 卷 二 〇 に は 世 尊 所 造塔
及 白銀
鶴
、 付 文 殊 師 利 曹 賢 觀 昔、
將 此觀
塔 、 周 遍大
干界
、「
國 留一
親 及}
金 塔 、 如震
且、
爾 時 文 殊 將塔
觀
往 清 涼 山 金 剛 窟 安 置 、 至今
流 行 、・
こ 。 仍 ち 道 宣 の 祗 滬 寺 圜 經 ( 乾 封 二 年 三 月 撰 六 六 七 ) や 玄揮
の 法 苑珠
林 ( 總 章 元 年 三 月 撰 六 六 八 ) 等 よ り 見 れ ば 、 此 の 金剛
窟 ε は 印度
の 靈 鷲 山 中 の 何 處 に か あ り て 珍寳
高 貴 の 供 具 を藏
し て 居 るー
こ の 詮 よ り 類 推 さ れ て、
そ れ が 五台
山 を 文 殊 示 現 の淨
土三
試 は れ る に つ れ て、
此 の 窟 を 金 剛 窟 ご名
づ け て信
仰 の 中 心 地、
こ爲
し 九 も の で あ ら う 。 さ れ ば 古清
凉 傳 に は 金 剛 窟 に 就 て 佛 陀波
利 の 記 事 は 見賞
ら す、
勿 論 古清
凉
傳 は唐
高宗
の 上 元 三 年 五 月 十 三 日 ( 六 七 六 ) の 記 事 が 見 え て ゐ る か ら 此 の 頃 の 著 述−
こ 見 る 可 く、
此 の年
儀 鳳 元 年−
こ 改 元 さ れ て ゐ る か ら 佛 陀 波 利 の 入 山 し た 年 で あ り 、 東 だ 佛 頂 尊 勝 陀 羅 尼 經 の 譯 出 さ れ る 以 前 の作
な り・
こ 推 定 さ れ る が 故 に、
・
此 の 記事
の 見 當 ら ぬ の は當
然−
こ 云 は な け れ ば な ら ぬ 。 街 之 等 に 類 す る 記 事 は 厨 々 に 散 見 す る も、
以 上 に 依 つ て 吾 人 の 略 ぽ 推檢
し 得 ら る 製所
は、
五台
山 信 奉 者 も 舊 華 嚴 經 の譯
出 以 前 に は そ の 史 贊 に 徴 す べ き も の も 見 當 ら ぬ 樣 で あ る 。 が併
し 之 等 に 依 つ て 五 台 山 に 文 殊菩
薩 佐 し給
ふー
こ 云 ふ 読 が 、 如 何 に 廣 く 且 つ 深 く 印 度 、 西 域 及 び 支 那 各 地 に 傳 へ ら る 」 樣 に な つt
か を 想 像 す る に 難 く は な い 。 玉噛
支 那 本 土 に 於 け る 文 殊信
仰 が 何時
の 頃 よ り 起 つ た か は 推 知・
ー−
苦 し む も、
相 當 古 く か ら 行 は れ て ゐ た こ・
こ は 事 實 で あ る 。 史 傅 に 見 ゆ る そ の 最 初 は 廣 弘 明集
等 に 記 す 東 晋 明 帝 の 太 寧 三 年 ( 三 二 五 )置
州 の漁
人 が 海 上 に 於 て阿
肓 王 所 造 の 金 像 文 殊 を 得 之 を 武 昌 の寒
溪 寺 に 安 置 し 、 尋 い で 太 元九
年 ( 三 八 四 ) 之 を 盧 山 瑞像
殿 に 安 置 し た.
こ 云 ふ事
で あ る 。 江 州 虚 山 文 殊 師 利瑞
像 者 、 昔 晋 名 臣 陶 侃 建、
旗南
海
有 漁 入 見 海 濱 有 光、
臼侃
令 尋 之 、 俄 見 金 像 凌 波 趣船、
接
銘 乃 肓 王所
造 文 殊 也 、 逡 往 武 昌 塞 溪 寺 、後
邁荊
州 迎像
上 船、
船帥
沒 水、
遠 法師
迎 入 臟 山 、一
無 有 礙 、 今 在 山 東 林 重閣、
( 廣 弘 明 集 卷 十 五 正 藏 五 ニ ノ ニ 〇 三 A ) そ の 後 劉 宋 元 嘉 二 年 ( 四 二 五 ) 劉式
之 が 金 像 を 敬 造 し て 之 を 醴 拜 せ りー
こ か ( 法 苑 珠 林 卷 + 四 ) 強獨
樂 が 北 凋 文 王 ( 五 六 〇 頃 ) の 爲 に 四 川 省 簡 州 大 佛 崖 に 於 て 普 賢 文 殊 の 二 菩薩
像
を 鐫 刻 せ し 事 を 傳 へ ( 金 石 苑 第 二 ) 殊 に 唐 代 以後
に 於 て は 天 下 の倫
尼 寺 に 各 た 大 聖 文 殊 師 利 菩 薩 院 を 設 立 し て塑
像 を 安 置 せ し め た る 享 等 文 殊 信 仰 に 關 す る 記 事 は随
處
に 傳 へ ら る 玉 所 で あ●
る っ 蓋 し 南 海 の漁
人 金 像 を得
、あ
ニー
こ は、
當 時南
印 度 地 方.
・
麦
那 本 土−
・
・
の間
“ 海 上 よ り す る 交 通開
け 盛 に 文 物 の 交 流 あ り し 享 を 物語
る も の に し て 、 殊 に 南 印 度 地 方 に 於 て 文 殊 信 仰 の 盛 な り し事
・
こ 思 ひ 合 せ て 見 れば、
此 の 記 事 も そ れ 等 丈 物 の 、 五 厶 口 山 H 古 僅四
攷( 石 垣 )
亠
ハ 七 喩、
西 山 學 報 第 + 二 號 六 八
・
交 流 に つ れ て 南 方 支 那 に 文 殊 菩薩
像
の 傳 來 せ し 事 も 當 然・
こ 見 る 可 き で あ る 。 さ 糺,
ご 支 那 に 於 け る 文 殊 信 仰 は 古 來 五 台 山 を 中 心・
こ せ る も の に し て 、 之 が 傳 來 の 考 證 は 銑 に し ばく
觸 れ た 所 で あ る も 、 此處
に は そ の 傳 來 の 經 路を
考 證 し て 以 て最
後 の 斷 案 に 到 逑 せ ん・
こ す る も の で あ る 。ゆ
彼 の 印 度 及 び 西 域 地 方 に 於 け る 文 殊 信 仰 に 關 す る 記 事 は 割 合 少 な く 、 唯 だ 法 顯 傳 及 び 大 唐 西 域 記 第 四等
に 秣 菟羅
國 に 樺 迦 如 來 の 諸 聖 弟 子 の 翠 堵 婆 あ り て、
此 の中
に 曼 殊 案 利 の 堀 卒 堵 婆 も あ り 、 歳 の 三 長 及 び 月 の 六 齊 毎 に 大 乘 敏 徒 が 盛 に 之 を供
養 し た 事 を 傳 へ て ゐ る の み で あ る Q 部 ち 西 域 記 卷 四 に 有 洗 卒 堵波
一
並 無 憂 王 所 レ 建 也、
過 去 四佛
遺 迹 甚 多、
釋 迦 如 來 諸 聖 弟 子翠
堵 波 、 謂 舍 利 子 巾 略 曼 殊 室 利 諸菩
薩翠
堵 波 等、
毎 歳.
二 長 及 月 六 齊 僭 徒 相競、
率
曲ハ
同 好 慶 持 供 具 多 榮 奇 玩、
隨其
夙 宗 而 致佛
像 、 ( 正 識 五一
ノ 八 九 〇 B ) 彼 等 そ の 宗−
こ す る 所 に 隨 つ て佛
像
を 致 す・
こ あ る が 故 に、
既 に 當 時 彼 地 に 文 殊 信 仰 も 行 は れ て ゐ た 事 が知
ら れ る 。 故 に 先 に 論 じ た 竺 法 護 が 凉 州 に 於 て 文 殊 師利
現 實戴
經 や 泥 滬 維 を 譯 出 し 九 の も 偶 然 で は な く 、 既 に 西 域 地 方 に 於 て 文 殊 信 仰 が 行 は れ,
そ の 必 要 に 應 じ て 之等
の 經 典 か 譯 出 さ れ たー
こ 見 る 可 き で あ る 。 從 つ て 之 等西
域 及 び 凉 州 地 方−
こ 長 安−
こ の 交 通繁
く な る に つ れ、
次 第 に 北 方 支 那 に も 文 殊 信 仰 流 傳 し 、 茲 に 東 晋 の 頃 よ り 諸佛.
こ併
行 し て 文 殊 信 仰 も 漸 次 盛 んー
こ な つ 九 も の で あ ら う 。 然 し た こ ひ 五 台 山 地 方 に 於 て漸
次 文 殊 信 仰薯
及 せ り、
、
“
す る も 、 未 だ一
般 的 信 仰 の 域 を 脱 せ す し て、
當 時 既 に 此 の 五 台 の 地 が 文 殊 示 現 の 淨 土 こ し て そ の 信 仰 の 中 心 的 靈 傷、
こ し て 入 々 の 奪 信 を 衆 め 九.
こ は 考 へ ら れ な い 。 何・
こ な れ ば 今 日 そ れ を 實 證 す る 史 實 を 徴 し 得 ら れ ざ る の み な ら す、
奮 華 嚴 經 翻 譯 以 前 に 於 て 文 殊 菩 薩 の 住處
を清
凉 山 也−
ご 指 示 せ し 經論
を 見 出 し 得 な い か ら で あ る 。 さ れ ば 束 晋 の 代 覺 賢 三 藏 に よ つ て 華 嚴 經 が 譯 出 さ れ た 事 を 黜 起・
こ し て 江 北 の 地 殊に 五 台 山 を 中 心