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スポーツにおける文明化論の可能性と今後 39 特集 : スポーツ社会学の理論を再考する スポーツにおける文明化論の可能性と今後 坂なつこ 1) 抄 録 本稿では 日本におけるエリアス学派のスポーツ研究を概観し そのインパクトや可能性について考察する 1980 年代以降 スポーツ状況の多様化を受けて

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抄 録 本稿では、日本におけるエリアス学派のスポーツ研究を概観し、そのインパクトや可能性につい て考察する。1980 年代以降、スポーツ状況の多様化を受けて、体育・スポーツ研究は、新たな理 論的枠組みを模索してきた。そのなかで、N. エリアスの研究はその理論的可能性を評価されてきた。 しかし、スポーツ研究においては、「文明化の過程」、「自己抑制」、「暴力論」などが強調され、エ リアスの社会学的方法論をそれらと結びつけ、理論構築する試みは限定的である。エリアスの文明 化論や暴力論は、彼の社会学的方法論から導かれたものであり、伝統的な二元論や認識論を克服す る試みでもあった。「スポーツ化」や「開かれた諸個人」といった概念を方法論から読み解くこと によって、グローバリゼーションにおける新たなスポーツの可能性を考察する理論的枠組みを提示 しうる。 キーワード:エリアス、文明化の過程、スポーツ化、「開かれた諸個人」

■特集:スポーツ社会学の理論を再考する

スポーツにおける文明化論の可能性と今後

坂 なつこ

1) 1)一橋大学社会学研究科 〒 186-8601 東京都国立市中 2-1 [email protected]

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Abstract

The purpose of this paper is to review Eliasian sport studies in Japan and to consider how these studies could benefit Japanese sport studies. Since the 1980s, Japanese sport sociologists and others have been trying to establish a new theoretical framework in order to deal with the growing diversity and complexity of sport in Japan. Elias has long been regarded as an important figure in the field of sport sociology, but most people have tended to focus on his “civilizing process” , “self-control” and “violence” rather than on his sociological theory. His “civilizing process” concept which derived from his sociological methodology was an attempt to make a sociological break from the traditional dichotomy of structure-agency and epistemology. I would like to show how his theoretical framework for sport in the globalization process can be beneficial, taking into account Elias’ s “sportization” and “open personality” from a theoretical point of view.

Keywords: Norbert Elias, civilizing process, sportization, open personality

■ Japan Journal of Sport Sociology 19-1(2011)

Considering Eliasian Sport Studies in Japan

SAKA Natsuko

1)

1)Faculty of Social Sciences, Hitotsubashi University 2-1, Naka, Kunitachi-City, Tokyo, 186-8601   [email protected]

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はじめに

E. ダ ニ ン グ(Dunning)、S. メ ン ネ ル (Mennell)らエリアス研究者の「第一世代」

を中心に、2003 年に英語とドイツ語による N. エリアス(Elias)研究の論文が全4巻で編 纂 さ れ た[Dunning and Mennell, 2003]。 さ らに、2005 年からは、エリアスの全集も編ま れ、現在も刊行が続いている。それに先だっ てまとめられたドイツ語による 19 巻の全集 も、2010 年には出版が完了した1)。また、イ ンターネット時代にふさわしく、Norbert Elias Foundation のウェブサイトでは、詳細なエリ アスや関係論文の書誌も公開され、ニュースレ ター “Figuration” をはじめとして、インターネ ット環境におけるエリアス関連研究のアーカイ ブ化が進んでいる2) ドイツ系ユダヤ人であり、1930 年代の亡命 後、不遇なアカデミックキャリアを辿ったエリ アスも、主要著作は各国語に翻訳され、資料へ のアクセスは飛躍的に容易になった3)。エリア ス研究に関する国際会議や学会も定期的に開催 されており、研究ネットワークも緊密である。 日本では 2001 年(『エリアス・暴力への問 い』)、2003 年(『エリアスと 21 世紀』)と、 相次いでエリアスの名前を冠した研究が出版さ れた。エリアスの生涯と著作との関係について も詳しく紹介され、日本におけるエリアス研究 の深まりを感じさせるものであった。また、『エ リアスと 21 世紀』の巻末には、博士論文や雑 誌論文などの書誌も含められ、その広がりを見 ることができる4) スポーツ研究においては、ダニングと K. シ ャド(Sheard)による『ラグビーとイギリス 人』(原題は Barbarians, Gentlemen and Players, 1979)が 1983 年に邦訳出版され、また、エ リアスによる「文明化の過程におけるサッカー」 (1986 年)、さらに「スポーツと暴力」(1986 年)が雑誌等に掲載されている。英国において、 ダニングとともに 1960 年代からスポーツ社会 学の論文を発表してきたエリアスは、日本のス ポーツ研究者にはすでにその名を知られていた といえるだろう5)。1995 年には、『興奮の探求』 (邦題は『スポーツ文明化:興奮の探究』)の邦 訳が出版され、エリアス研究におけるスポーツ の重要性がスポーツ社会学以外の分野でも知ら れるようになったといえるだろう[Elias and Dunning, 1986, 訳書:1995]。 本学会においても、ダニングも来日した 1997 年の国際シンポジウムを開催するにあた って、菊や山下によって積極的にエリアス学派 やカルチュラル・スタディーズなど、ヨーロッ パの研究動向が報告されている。また菊は、多 木浩二や三浦雅士らのスポーツ論、身体論に摂 取されたエリアスの理論を紹介し、新たなスポ ーツ社会学の理論的枠組みを形成する試みに挑 戦している[菊,1997]。 本稿では、日本におけるエリアス研究のスポ ーツ社会学におけるこれまでの受容の過程を概 観し、そのインパクトや今後の可能性について 考えてみたい。他の領域に比較すると比較的早 い段階から、エリアス学派は日本のスポーツ研 究において受容されてきた。しかしながら、近 年のエリアス研究をみると、スポーツ研究は 限定的である。それはどのような意味をもっ ているのだろうか。エリアスの理論は「西欧限 定」であり、「非西欧」である日本のスポーツ 研究にはなじまなかったのか。あるいは、多 木が指摘したように、「近代スポーツの発生に おいては有効であるが、現代スポーツの分析に とってはその可能性は見られない」のだろう か[坂,1999]。しかし、海外ではエリアスや エリアス学派に依拠したスポーツ研究はいくつ も見られ、日本においてもその理論枠組みの発 展が期待される。菊はエリアスの身体論にその 解を求め、「『文明化された身体』の向こう側に 現代スポーツの社会学を論じる視点」をエリア スにおけるスポーツ研究の理論的可能性として 探求することが必要であると述べている[菊,

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1997:23]。この指摘は重要であり、さらに 発展させることが求められる。エリアスのスポ ーツ研究は、自己抑制の変化や身体的暴力の漸 進的減少が注目されがちであるが、それは彼の 方法論と密接に関連している。本稿は、エリア スの社会学的思考の基盤となる「開かれた諸個 人」という人間観に、「つながる身体」を探る 一方で、スポーツ研究の理論的、実践的可能性 を探る試みでもある。 1.N. エリアスとスポーツ研究 『興奮の探求』において、エリアスは、彼らが スポーツの研究にとりかかったとき、スポーツ 社会学はまだ揺籃期であり、「スポーツ、とり わけフットボールが権威者たちによって、社 会科学の研究の、特に修士論文のまともな主題 と見なされるかどうかという問題についてダニ ングと私が議論を交わしたことを私はよく覚え ている。われわれはスポーツをそのようなも のにするのに少しばかり役に立ったと私は思う のである」と述べている[Elias and Dunning, 1986: 19,訳書:27]。 彼らがスポーツ社会学の確立に貢献したこと は疑いえない。エリアスとダニングは、『興奮 の探求』において、近代スポーツを「新たな娯 楽の形式」ととらえ、その新しい娯楽を「楽 しむ」ことのできる社会とはどのようなもので あるかという問いを立てた。それは議会制民主 主義が発達し、「政治における妥協」という行 動様式を身につけ、自己抑制を要求する社会に おいて、「暴力への感受性」は強くなり、その ような社会において「肉体の行使や技をともな いながらも、その過程で誰かが(自らも:筆者 補足)重傷を負う可能性を最小限に減らす闘 争の開放的な興奮を人びとに与えてくれる」娯 楽が好まれるようになるのである[Elias and Dunning, 1986: 20,訳書:28]。種々のルー ルに従いながら、しかし身体を行使する「模擬 的な(mimetic)」戦いである。19 世紀イング ランドで確立するこのような社会において発展 する「娯楽のスポーツ化(sportization)」が、 新たな文化の意味をもって世界に広がっていく 過程を描いていくのである6) エリアスは、ダニングとともにスポーツ研究 に着手するが、すでに『文明化の過程』におい てスポーツへの言及が見られる。エリアスが「文 明化の過程」における社会構造の変化と情動の 変化との関係をとらえる上で、スポーツという 文化現象にすでに着目していることが読み取れ る。攻撃欲の変遷について論じられている箇所 において、「もちろん、文明社会の日常におい てもこれらの情感は、洗練され合理化された形 で、合法的でかつ綿密に限られた特定の位置を 占めている。そしてこの事実は、文明化につれ て情感生活に起こる変形の在り方を明確に特徴 づけている。戦闘欲・攻撃欲は、たとえばスポ ーツ競技において、社会的に公認された形で顕 現する[Elias, 1976a[1969=1939]:280, 訳 書:388]。さらに、ボクシングの聴衆に言及 しながら、「本来能動的で、ときとして攻撃的 な面を見せる欲望表出を、受動的でたしなみの ある鑑賞欲」へと、すなわち「目で楽しむ」こ とができるまで抑制された情動の変化について 「文明社会の特性」であるとしている。さらに、 「いずれの場合にもそれぞれの社会が求める娯 楽は、その社会の情感基準の顕現であり、個々 の情感のモデル化がたとえ多種多様に見えよう とも、その基準をはみ出すことはない」と述べ ているのである[Elias, 1976a[1969=1939] : 281, 訳書:390]7)。ここではまだ情動の抑 制とその社会的規制の在り方の変化、暴力の形 態の変化に焦点が当てられているが、のちにス ポーツ研究において詳細に論じられる「暴力へ の感受性」の変化について、すでに触れられて いる。そして、このような情動の変化は、「そ れ自体心理的であると同時に社会的な現象であ る」[Elias, 1976b[1969=1939]: 386, 訳書: 409]。そこに現れる行動様式は、エリアスに よれば、ヨーロッパに生じた大規模な「上流

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階級」という巨大な人間関係の相互依存の編み 合わせが複雑かつ長大になる社会において生じ る、新たな人間関係のもとで形成されるのであ る。そこにおいて、社会構造は諸個人の情動の 変化とともに変化するのであり、そのために諸 個人の身体がその結節点となるといえるのであ る。 A. ギデンズ(Giddens)やカルチュラル・ス タディーズ、A. グラムシ(Gramsci) を支持す る立場から、エリアス学派らと激しい論争を行 った D. ジェリー(Jary)と J. ホーン(Horne) も、「スポーツ化」という概念を提示した点に ついて、歴史的、社会学的説明や「社会生成 的」な研究を開拓した側面を評価している[清 野他,1995:176]。だが、その後エリアス自 身が現代スポーツの状況に分析を進めることは なかった。エリアスの議論を引き継いで発展さ せるのは、J. マグワイア(Maguire)であろう。 彼は近代スポーツの形式が地球規模で拡散して いく様相を、グローバリゼーションとの関係 で 捉 え て い る[Maguire, 2001[1999]]。 マ グワイアは、グローバリゼーションを長期的な 視野のもとに捉え、様々なレベルにおける人間 の相互依存のネットワークが拡大するだけでな く、不均衡だがしかし強まっていく過程ととら える。そのなかで例えばオリンピックのように、 レジャースタイル、習慣、実践が、ある場所か ら別な場所へと広がっていくことは、そのプロ セスの好例である。また、マグワイアは、グロ ーバルなスポーツのフローを5つの次元で捉え ることによって、グローバル企業やメディアが 作り出すスポーツの意味やイメージが、国境を 越え独特なスポーツのマーケットを形成してい く過程を捉えている。このようなグローバルス ポーツの研究は、近年のエリアス学派の大きな 潮流であろう8)。マグワイアは、単に近代スポ ーツが世界に拡散していく様子を描いたのでは なく、エリアスの「対象の幅の拡大と差異の縮 小」という文化の混交過程によって捉えたので あり、そのため、エリアスのスポーツ化という 概念は、スポーツのグローバル化をとらえる際 に重要な分析枠組みとなったといえる。 スポーツと暴力の関係については、ダニング により、とりわけフットボールにおける暴力研 究という領域で展開されていく。日本において も、サッカーがプロ化され(1993 年)、サッ カーファンによる暴力が取りざたされるように なるにつれ、フーリガン研究もよく知られるよ うになる。とりわけ 2002 年のワールドカップ 開催に際して、メディアが大きく取り上げるこ とによって注目され、P. ミニョン(Mignon)、 D. ボダン(Bodin)などダニングらの研究に依 拠したフランスの研究者による著作が翻訳され るなどしている[Mignon, 1998=2002; Bodin, 2003=2005]。 『ラグビーとイギリス人』は、①フットボール と呼ばれていた各地で慣習的に行われていたボ ールゲームの「洗練[文明化]されたチームゲ ーム」への発展、②より真剣で、競争的な、プ ロフェッショナル化されたゲームの発達、そし て③フットボール・フーリガニズム、につい て展開されている9)。『ラグビーとイギリス人』 の主要なテーマははじめの2つであったが、そ の後「レスター学派 」(イングランド・レスタ ー大学を中心に行われた)と呼ばれるほど知ら しめるようになるのは、3つ目のフーリガン研 究だった[Murphy et al., 2002: 96]。ダニン グとシャドは、フーリガニズムの背景に、スポ ーツにおける社会的統合手段の機能が、「 より 粗暴な労働者階級」の帰属意識と結びつくこと で、「 機能的連帯 」(デュルケム)の特徴をも つと論じた。「 似たもの同士の絆 」 は、「 われ われ意識 」 を強め、集団の外に対しては強い敵 意を表す。さらに、サッカーファン同士の対決 における暴力行為は、「 頑強さ」や 「 真の男」 あるいは忠誠心を表すものでもある[Dunning and Sheard, 2005[1979]: 242, 訳書:335]。 ダニングは、サッカー以外のスポーツにおい てもフーリガニズムは発生する可能性はある が、「サッカー・フーリガニズムという現象が

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どこでも見られ、それらが同じ原因から発す るということはあり得ない」としており、フ ーリガニズムあるいは暴力をともなう傾向に あるサポーター集団間の激しいライバル関係 に発展する要因は、様々に考えられるとして いる[Dunning, 1999:158, 訳書:280]。その メカニズムを、エリアスの「定着者と部外者 (established-outsider)」 の 形 態(figuration) によって示しており、「われわれ集団」の強い 結束、それに対応する「かれら集団」あるいは 部外者への激しい反発へと発展すると指摘して いる10)。そこでは、どのような相互依存の「フ ィギュレーション」が描かれるかによって、暴 力のあり方も異なってくると考えられる。 スポーツにおける暴力の問題は、レスター大 学で学位を取得した K. ヤング(Young)に引 き継がれ、北米やカナダにおけるアイスホッケ ーなどの調査を中心に研究が進められる。ヤン グは、北米のスポーツファンは、「健全(squeaky clean)」であるというイメージ(かつセルフイ メージ)の一方で、スポーツにおける暴力や混 乱は、決して新しい現象ではないこと、また、 そのような認識には、1970 年代以降調査が増 加しているにもかかわらず、研究者が直面する のは理論的な枠組みの不足であると指摘してい る[Dunning(eds), 2002: 216]。また、ヤング はスポーツと暴力について、フィールドの内と 外の暴力、また、オーソリティに監視されてき た様々なスポーツ暴力の側面、さらに、メデ ィアとの関連について論じている。メディアや インターネット環境がスポーツをいっそう多様 化するなかで、ファンの暴力だけではなく、ア スリートの身体にかかる複雑化する暴力の様相 (ドラッグ、過度な身体管理、メディア等)を スポーツにおける逸脱と捉えて理論化する試み は、日本のスポーツ状況においても検討される べき領域であろう11) 2.日本におけるエリアスのスポーツ 研究のインパクト それでは、このような、エリアス及びエリア ス学派のスポーツ研究は、受容の過程において 日本ではどのような意味をもっていたのだろう か。ここでは、二つの側面について捉える。第 一に、体育・スポーツ状況の変化のなかで新た な方法論の模索が求められていく過程であり、 第二に、諸個人の情動の変化と社会構造の長期 的な変化の関連の結節点として人間の身体(情 動)を捉える社会学的方法基盤であろう。エ リアスが主張した徹底的な動態的(プロセス)、 相互依存的な諸関係の捉え方であり、構造-主 体という二元論の克服を目指す試みである。 2-1 スポーツ研究の方法論の探求 高津は、日本の体育・スポーツ研究におい て、エリアスやブルデューらのスポーツに関す る言説が影響力をもってくるのは、1990 年代 以降の日本のスポーツの新たな展開が背景にな っているとする。それは、「スポーツが一つの 産業となって立ち現れ、『体育』の枠組みを超 えて社会の中に広がり、さまざまな文化のジャ ンルと関係を深めていった」のであり、そのた め、「体育の枠組みに囚われることのない新し いスポーツ認識」が求められたのである[高津, 2008:24]12)。岡田は、「体育やスポーツに 専門的にコミットした後から社会学を身につけ るといった経歴」が多い日本の体育・スポーツ 研究を、スポーツ・体育経験者→社会学的考察 (「対象→方法」)と図式的に論じ、政治や経済、 宗教、家族など他の分野では「方法→対象」タ イプが主流を占めていることと対比して、「体 育・スポーツという対象のもつ固有の認識、価 値づけのされかた」が働いているのではないか としている[岡田,1989:51]。そのなかで、 社会学的考察→スポーツ・体育研究という「方 法→対象」タイプとしてのエリアス研究は、「個 人的な経歴やスポーツに重きをおく個人的な価 値観ではなく、彼の社会学の構成そのものであ

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る」と論じる。岡田はそのため、そこからスポ ーツを自明視するのではなく、スポーツの社会 的意味を歴史的、構造的に捉える視点が可能と なることを捉えるのである。 山下は、1991 年にアメリカ社会学の構造= 機能主義、フランクフルト学派に依拠する批判 理論、エリアス学派の文明化論などのスポーツ 社会学の理論潮流に対して、80 年代以降、構 造=機能主義への懐疑や、グランドセオリーの 衰退から、ギデンズやグラムシらのヘゲモニ ー論、解釈社会学、生活世界論などに依拠した 「New Direction あるいは Alternatives と示しう るようなまとまりをもった理論潮流」などが表 れている様子を概観し、スポーツ社会学の方法 論的課題について論じている[山下,1991: 1]。山下は、それら「Alternatives」の潮流が 提示した状況規定と状況創造の統一を評価しな がら、他方で「規定性と能動性・創造性を統一 した生産=” 創る” 論理の提示は、人間の作用 力の軸からのみでなく、スポーツの内的な・自 律的な論理を介在にしたものでなければならな い」と述べている[山下,1991:16]。山下 は、ホーンらの指摘するエリアス学派がもつ機 能主義的、進化論的側面を認めつつも、彼らの 批判がすべて妥当しているとはとらえず、「エ リアスの社会構造と人間作用力の統合という見 地」については、むしろ “Alternatives” の方向 と相補的関係にあるとみている。そして、課題 としてあるスポーツ社会学の方法論について、 素朴実証主義、経験主義に陥らず、理論のもつ 規範基準としての性格が重視されることで、現 実に表れている新しいスポーツの展開や、スポ ーツ観の変化、スポーツの産業化の趨勢の両 者をみることができるとするのである[山下, 1991:17]。ここではエリアス学派の方法論 的課題の検討がなされているわけではないが、 スポーツ社会学における方法論的課題を、理論 的精緻に求める一方、「社会を単に再現する」 のではなく、スポーツ固有の自律的論理を捉え ようとする試みがみられる。とはいえ、この点 は、エリアスが主張する「スポーツ研究の相対 的自律性」と対立するものではないだろう。エ リアスは「スポーツの構造や社会的機能と他の 社会的局面とを明確にするためには、長期的な 展望にたち-過程に注目し-、スポーツをあり きたりに存在する事実として単純に扱うことを やめ、いかにして、なぜそれが発生したのかを 問わなければならない」と述べているのである [高津,2008:29]13) 同様に、高津もまた、「スポーツ問題の社会学」 とは趣旨を異にする「社会研究としてのスポー ツ社会学としてエリアスを捉え、二つの論点を 見いだしている。 第一に、「『スポーツがもつ社会的構造および 社会的機能』を問う場合、スポーツを固有の社 会的実態とみなすのではなく、他の社会的諸現 象との関係において明らかにしなければいけな い」という点である[高津,2008:13]。 第二に、それは第一の論点と結びついており、 「スポーツの歴史を、太古ないし古代以降の自 律的・内在的な発展とみなすこと、あるいは、 近代のスポーツを古代のスポーツの『リバイバ ル』とみなすことへの批判」である。 スポーツの自明性を前提するのではなく、あ る特定の社会的歴史的状況において生まれた 文化が、どのような人びとの織りなす「図柄 (figuration: 相互依存関係の生み出す文化、状 況)」によって変化し、意味づけられていくの かを考察することができ、そこから、スポーツ という文化の特性を捉えることができるように なるのである。日本においては、スポーツ社会 学における方法論的課題を模索する中で、エリ アスのスポーツ研究が始められたといえるであ ろう。 2-2 エリアスの社会学的方法基盤 方法論への課題意識により、エリアスの社会 学的方法論についての検討も行われるといえ る。菊は、エリアス派社会学の方法論的基礎に ついて、その特徴を徹底した認識論的、存在

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論的、科学論的二元論の批判であるとしている [菊,1997:17]。それに基づき、エリアス派 社会学は、すべての事象を動態的な変化におい て捉え、社会のあらゆる側面はダイナミックな 相互依存、相互保持と相互補強の関係の網の目 によって成立するとしている。この点について エリアスを参照し、少し詳しくみていくことと する。 エリアスの徹底した関係論的、過程的社会 理論は、『文明化の過程』に 1969 年に加えら れた序論において展開されている。エリアスが 批判するのは、M. ウェーバーや T. パーソンズ の主意主義的社会行為理論であり、方法論的 個人主義であろう。前者は、個人が主体として 社会構造や諸関係から自律した存在であるかの ように捉えられており、後者は、そのような 『ホモクラウスス(閉じた人間 die schlossene Persönlichkeit)』を理念型とするものである。 これはエリアスが拒否した西洋近代哲学におい て達成された「近代的な自己」を想起する。そ のような人間像にかわって、エリアスが示す のは「開かれた個人 die offene Persönlichkeit」 としての人間像である。エリアスは、「この個 人は、他人との関係において相対的自律性は多 少有しているが、決して絶対的自律性をもつこ とはなく、事実上は一生涯に渡って終始他人に 調子を合わせ、他人に頼り切り、他人に依存し ている存在である」と説明する[Elias, 1976a [1969=1939]: LXVii, 訳書:50]。 そして、そのような諸個人が形成する相互依 存の編み物(Geflecht)が、諸個人をまた結び つけている。「この相互依存は当研究で、図柄 (Verflechtung)ないし、相互に調整し合い相 互に依存し合う人間の構図と名付けられている ものの核心である。人間は、生まれながらにし て、次いで社会的訓練・教育・社会化・社会的 に覚醒された欲求を通して、多かれ少なかれ相 互に依存しているので、もしこう表現してよけ れば、人間は多元性としてしか、図柄の形とし てしか存在しないのである」[Elias,同上書]。 ここには、研究者が必要とした「『理想型』の 構成物(ideal typische Konstructionen)」であ る人間像(「閉じた個人」)とは異なり、社会無 しに存在する個人の特性の抽象ではなく、かつ 個人の彼方にある「体系(System)」や「総体 (Ganzheit)」などではない、分析枠組みが提示 されるとしている。エリアスは、それが「個人 相互によって形成される社会的体系」といって も間違いはないとしながらも、本序論で批判の 対象となっているパーソンズの「社会体系」を 念頭に置いていると考えられるが、「体系」と いう語は不変性の表象を強く帯びすぎているた めに、「編み物」や「図柄」という語を当てて いるとするのである。ここでエリアスは「図柄 (Verflechtung)」という語がエリアスのキー概 念であることが分かる。そして、邦訳において は未だ確定されていない概念でもある。引用し たように、『文明化の過程』においては「図柄」 と訳され、『社会学とは何か』においては「関 係構造」とされ、あるいは「形態」とされる ときもある。「編み物(Geflecht)は英語では “network” と訳されるが、「図柄(Verflechtung)」 は、“figuration” と訳されたため、ここからエ リアス学派をフィギュレーション社会学、ある いはエリアスが主張したという過程(プロセス) 社会学などと呼ばれることになる14) このような訳語をめぐる揺れは、しかし単な るジャーゴンの問題とはいいきれない。ドイツ 語、英語、日本語をめぐる翻訳の難しさと同時 に、エリアスが目指した「新しい社会学」をと らえるための概念装置をわれわれはまだ持ちえ ていないということであろう。エリアスは『社 会学とは何か』において、思考と言語表現の新 しい手段の必要性を説いている。「今日の社会4 4 4 4 4 学理論の多くが複雑になっている理由は、理論4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 が解明しようとする対象領域が複雑だからでは4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 なく、他の科学とりわけ物理学でかなり確証さ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 れた諸概念を用いたり、あるいは社会に固有の4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 機能連関を解明するには不適切な、自明視され4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 る日常的な諸概念を用いたりするからである」4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

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[強調はエリアス。Elias, 1996[1970]: 118, 訳 書:129]。 さらに、エリアスは、彼がもっとも表現した いもの、すなわち「恒常的運動や継続的変動を 表現するのに、多くの場合、言語表現や考察に あたってまず静止した状態にある孤立した対 象という性格を与え、それからほとんど事後的 に動詞を付け加えることによって、通常は運動 しているという表現を行うことしかできないよ うに構成されている」とする。たとえば、「風 が吹く」というが、「それはあたかも風がまず 制止した何かであって、一定の時点で運動を 開始して吹き始めるかのようである」[Elias, 同上書]。エリアスが繰り返し強調する比較級 (「より進んだ」)や「~化」といった用法も過 程の状況を表そうとする試みである。エリアス は「社会学の対象となる人間のネットワーク (Menchengeflechte)の理解を著しく阻害する」 従来の思考と言語表現について、批判的に検討 することもまた、社会学の重要な領域である ことを主張するのである[Elias, 1996[1970]: 120, 訳書:131]。 エリアスは、われわれが自分たちの「意識」 というレベルでは「社会は個人によって形成さ れていること、そして個人は、自分の人間固有 の性格、例えば言語を用いたり思考したり愛し たりする能力を、他者との関係の中でその関係 によって、すなわち『社会の中で』はじめて獲 得することができることを、全く正しく認識し ている」と指摘する[Elias, 同上書]。そのた めそれらの「意識」の社会科学における概念化、 精緻化が必要なのである。 ここにおいてエリアスの、「社会学的思想、 教育、調査のオーバーホール」という壮大なプ ロジェクトが理解できる[Jarvie and Maguire, 1994: 131]。用語の問題は、このようなプロ ジェクトに位置づけられるものと考える。菊も また、エリアスのそのような「伝統的な社会科 学における方法論的認識の二元論に対する鋭い 解体作業」が、「あらゆる事象の過程(プロセス) を社会発生的なフィギュレーションの全体像と して論述していく具体的な用語(terminology) を必要とする」とする[菊,1997:18]。他方で、 そのような用語の使用が、エリアス学派によっ て、「価値判断を周到に回避する対象との距離 化、分離」というもう一つの特徴を帯びること になる。エリアスによる徹底した過程的、フィ ギュレーション的な対象の把握と、「神話の摘 発者としての社会学者」は「あらかじめ与えら れた原理に基づいて科学の進むべき道を決定」 したり、「与件となるドグマ」によって教条的 仮説を実証したりするべきではないという警告 は、エリアス学派の研究者たちによって、独自 性として強調されることになる。 しかしながら、そのようなエリアス学派の「意 気込み」は、ジェリーとホーンによって批判さ れつづけてきた。“figuration” のような用語が、 十分には従来の社会学との相違やその独自性を 説明しきれていないという指摘であった。それ に対して、エリアス学派からの反批判は、繰り 返しエリアスの独自性を擁護することになるた め、議論は「感情的」な部分が否めず、お互い の相補性について検討が不十分となっていると 考えられる15)。P. マーフィーら(Murphy et al.)は、そのような「建設的とはいえない」議 論を避けるために、前述したように、エリアス が試みた「過程」の概念化や、静態的な含意が ある用語から「流動性や人間諸関係の終わりの ない変化」を表現しうる概念の研磨の必要性を 指摘している[Murphy et al., 2002: 100]。 さらに、ジェリーとホーンは、エリアス学派 の構造機能主義への親和性についても指摘す る。エリアス学派が分析する「機能的民主化」 や「相互依存」などの概念は、社会学の伝統に おいてはデュルケムの機能主義に起源をもって いるとするのである。この点についてマーフィ ーらは、エリアスは確かに「機能」という言葉 を使うけれども、スポーツ・レジャーを「補償 機能」とみなしたのではないし、通常機能主義 者たちが無視する傾向にある「コンフリクト」

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や「矛盾」を見逃してはいないとしている。だが、 これについては、マーフィーらも、ダニングの 初期の研究には、デュルケムの機能主義的影 響がみられることを認めている。『興奮の探求』 における序文には、スポーツの儀式的な側面を デュルケムの分析に当てはめており、「スポー ツにおける社会的結合と暴力」にも明らかな影 響がみられる。さらに、この点は、エリアス学 派のスポーツ研究について、これまで十分に検 討されてこなかった部分でもあろう。すなわち、 エリアスとダニングの異同である。スポーツ研 究については、とりわけ、彼らの共同作業を「分 割」することは容易ではない。しかし、冒頭で 言及したように、エリアス研究における資料の 集積が進み、アクセスが可能になってきている 現在、行うべき課題であろう。また、理論史的 研究の上でも、エリアスとダニング、さらには その後継者たちの理論的枠組みの検討は、さら なるスポーツ社会学の理論の発展を目指すうえ においても必要不可欠であると考える。 エリアスのそのような方法論への認識を深め ることによって、当初見られがちであった、ス ポーツ研究の暴力論や単純な進化論的評価を避 けることができる。その点において菊は、「開 かれた個人における相互依存的な身体それ自体 の復権を意図しながら、現代社会における新た な身体的コミュニケーションの可能性とその基 礎なる考え方」を求めることができるとしてい る。そして、スポーツ社会学の理論的可能性も 見据えながら、「身体的コミュニケーションの 独創的なモノサシ(基準)を伴う社会的資源と して『スポーツから社会学』を構築」する必要 があると述べている[菊,1997:23]16) 3.「開かれた諸個人」のスポーツへ 日本におけるエリアスのスポーツ研究は、他 の社会学領域よりも先駆けて、方法論の模索な ども深まっていったと考える。だが、身体論に おいてエリアスの名前を挙げない研究者は少 ないにもかかわらず、スポーツの社会学的理論 枠組みの探求や身体論においてエリアスを深く 論じる研究の広がりはそれほどみられない。三 上が指摘するように、エリアスの身体の扱い は「淡々と身体技法の社会的構成を辿る」も のであるため、すなわち、歴史的身体として は扱われても、「主体の解体を経由しない」た めに、哲学的、現象学的な(すなわち抽象的 な)議論にはあまりなじまないといえる[三上, 2005:41]。それに対し、菊はスポーツ社会 学における身体論の特徴を、「身体の主体性を 身体図式に求めること(略)によって、逆にそ の独自性を主張してきた」と考える。しかしな がら、ここでも、菊は、「スポーツ社会学とい うアカデミックフィールドの背景や特徴、ある いはそれ以前の体育社会学と身体の関係がさら に論じられなければならない」とし、「肉体論」 へと可能性を探っている[池井・菊,2008: 73]。 それでは、スポーツ社会学におけるエリアス 社会学の可能性をどのように考えることができ るだろうか。スポーツ社会学におけるエリアス 受容は、概観してきたように、新しい方法論 を求める課題意識を背景に広がってきた。しか し、そのような認識を持ちつつも、多木や三浦 にみられるように「暴力」あるいは「文明化」 といったキーワードとともに用いられ、それら と比較するとエリアスの社会学的な分析枠組み は、十分に検討されてきたとはいいがたい。本 稿でもみてきたように、エリアスのスポーツ研 究の課題は、彼の社会学的認識基盤とは分かち がたい。なぜなら、エリアスが近代の発生に着 目したのは、第一にスポーツが近代社会におけ る重要な文化現象としてエリアスの文明化論か ら導かれるからであり、第二にそれは、文明化 論にあらわれる彼の「コスモポリタニズム」へ とつなげることで、グローバリゼーションにお けるスポーツのあり方をとらえていくことに貢 献できると考えるからである[山下,2002;坂, 2004]。

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エリアスは、国家が暴力を独占し、合理化し ていく社会において、人間の情動が自己抑制さ れ、肉体的暴力が減少していく様相を捉えた。 それは他方では、規律訓練化され、内的、外的 に管理される社会であり、また、スポーツ化と いう概念は、近代西欧の画一的な文化が、人び との多様で多層的な実践を駆逐していくかのよ うである。しかしながら、エリアスが捉えたの は、「文明化[合理化]」していく社会においても、 なお「スポーツ」という新たな娯楽の形式を生 み出していく、構造化され尽くされない情動で はなかっただろうか。エリアスは、サッカーを 例に、アリストテレスのカタルシス論を援用し、 「楽しい緊張(興奮)と弛緩」があらわすもの が、「私たちの生の心理的-社会的パターン[略] の実例にほかならない」のであり、これは「人 間の根本にある要求」なのであるとする[Elias, 1983, 訳書:1989]。 山下は、ホイジンガやカイヨワの遊び論に依 拠しつつ、スポーツのもつ「遊びの固有の世界」 に着目する。そして、「スポーツが作り出す楽 しみの感覚」が、「近代的まじめ」の支配する 公的世界と、民衆のカーニバル的感覚の「調節 点」にスポーツが形象化すると考えた。そして、 そこにエリアスのスポーツ研究の可能性を見い だしている[山下,1999b]。 高津も、スポーツの、「構造」に規定されつ つ「反構造」の契機をもつ側面にその可能性 を追求している。高津は、『スポーツと文明化』 の序論に示されているエリアスのスポーツ論 は、一見「機能主義的な説明が散見され、カタ ルシス論に覆われているようにみえる」のだが、 エリアスの身体と感情・情動に関する関係認識 を注意深く考察するならば、そこには、「社会 的紐帯としての身体」への理解を読み取ること ができるとする。高津は、菊による次のような 指摘に注意を向ける。すなわち、「身体や感情 の自己抑制を内面化した、文明化した身体は、 身体の個別化を意味しない」つまり、「開かれ た諸個人」としてしか存在し得ない人間存在は、 「身体、情緒、言語なるものの『関係』を保持 しなければ社会を構成しえない」というエリア ス社会学における身体理解を説明する[高津, 2008:31]。だが、高津はそのような身体理 解をマクロに収斂する身体論へと再度戻すので はなく、歴史研究の分野において展開されるソ シアビリテ論との親和性に注目するのである。 社会構造がより分化し、複雑さの度合いが増す ことによって、ますますわれわれは高度な統 合能力によるシンボルの相互理解を行うのであ る。そのコミュニケーションは「人間の自然に よって必要になり可能になる」のであり、スポ ーツとは、われわれの産業社会における高度な シンボルのありようであると考えられる[Elias, 1988: xxxiii, 訳書:25]。具体的な文脈から切 り離された「ルール」や「フェアプレイ」とい った抽象的な概念をお互いが理解することによ って、われわれは擬似的な闘争を介した「興奮 と緊張」を味わうのである。そしてそれらはお 互いの承認がなければ「楽しい興奮」とはなら ないのである。 では、そのような文化形式としてのスポーツ が広がる過程は、どのように描くことができる だろうか。マグワイアは、アイデンティティの 多層性と「文化の環流過程」を強調する。そこ においてスポーツの普及過程は、西欧、非西欧 の『機能的民主化』(エリアス)の過程のなか にあり、その受容は一方的なものではなく、固 有の文脈に即した抵抗、再解釈と環流の過程と してあらわれる。従って、近代スポーツの普及 過程で、その西欧的形態やモデルが、抵抗なし に受け取られたと見えても、それは固有の文脈 に基づいて再解釈され、維持促進されたのであ り、そのまま受容されたわけではなく、また非 西欧社会に固有の身体文化も消え去ったわけで はないのであり、さらに西欧的形態が、この普 及過程における相互作用においてどのような 変容を被っていったかが重要になる[Maguire, 1999: 64, 山下,2002:374-5]。「機能的民主 化」は、相互依存関係の増大による関係構造の

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変化において、支配層と非支配層との相互依存 関係が強化されていく過程において生じる。そ こにおいて、肉体的脅威・暴力による一元的な 支配が不可能になり、自らの超自我をモデル化 することによって、被支配層や植民地の人々を 自らの編み合わせに引き込んで支配せざるをえ なくなる。その過程は、よりいっそうお互いを 緊密な相互依存の網の目として形成するのであ る。そのような相互依存関係と機能連関の増大 が、「支配層であっても他者と独立に意志決定 を行う可能性は縮小し、社会的結合の全領域に わたって権力格差の縮小、権力比重の配分が平 等化していく傾向」として生み出されていくの である。 マグワイアは、近代スポーツは、はじめに人々 の具体的なアイデンティティにインパクトを与 えるが、次にはそのようなアイデンティティは、 より広い「ローカル」あるいはナショナルな文 化プロセスに埋め込まれ、再解釈されるとする 17)。そこに新しい文化の可能性がみいだされる といえる18)。高津も、M. フーコー(Foucault) や J. ハーグリーブス(Hargreaves)、P. ブルデ ュー(Bourdieu)のハビトゥス的身体につい て検討する中で、エリアスの「自制的興奮や身 体的競技の非暴力化を特徴とするスポーツの行 動様式・制度・組織・倫理(…略)は、より能 動的主体的に、近代の規律権力・生政治を支え る権力装置」だったといえるのであり、スポー ツ空間の拡大が意味することは「『パノプティ コン』の毛細管を社会の隅々に拡大する役割を 担った」としている[高津,2008:44]。し かし、他方で、ポストコロニアルな状況におい て捉え返せば、植民地における近代スポーツ受 容の過程においては、解釈や受容の多様性、重 層性が見られるのである19)。このように捉え ることで、地理的文化圏において「非西欧」で ありながら、政治経済的には「西欧」の枠組み に組み込まれうる日本のスポーツ状況について 検討する枠組みを提供できるだろう。近代スポ ーツが「すでに近代社会の世界編成の中で表れ てきている文化であるゆえに、この融合は固有 の社会や人びとの同時的変化の中で進んできて いる」という山下の指摘は重要である[山下, 2002:379]。 まとめにかえて ここまで概観してきたように、エリアスのス ポーツ研究は、日本においても十分認知され てきた。他方、理論的な発展が十分に進んで きたとは言い難い。エリアスにおける社会学 的方法論の深まりは、スポーツ研究にとっても 不可欠である。ダニングとの理論的な異同や、 “figuration” や “process” といった概念の十分な 検討など課題は多く残されている。 応用的な側面からは、日本のスポーツ状況を 分析する試みもみられる。大平は、エリアスの 後年の論文から日本について論じている箇所を 手がかりに、戦中から戦後の日本人のメンタ リティの変化とスポーツ化について論じている [大平,2001:142]。日本のスポーツ環境が、 科学的な方向へと進展しているという点は、疑 いようがないだろう。だが、他方で、非科学的 な体育言説は今でも根強く、また、儀式的な側 面も残っている。このような日本的なスポー ツ状況については、まだまだ分析する余地があ ろう。また、J. マニング(Munning)は「駅伝 と日本の近代化」と題して、箱根駅伝の初期の 発展が、いかに明治期の近代国家形成とエリ ートの役割と結びつき、組織の発展における人 間関係の「形態(figurations)」に依存してい たのかを分析している[Munning, 2001, 訳書 2001]。これらの研究からは、エリアスのスポ ーツ化という概念が、単なる肉体的暴力の減退 や自己抑制の強化といった単純な理論を導いて いると結論づけているのではないことが読みと れる。 ス ポ ー ツ 研 究 で は な い が、J. ア ー ナ ソ ン (Arnason)は、エリアスがほとんど言及しな かった日本について、江戸時代の封建制度にお

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ける武士の変容と組織化された暴力について小 論をまとめている[Arnason, 2003[2002]]。 アーナソンは、エリアスの用いた概念を直接的 に日本に適用することは困難だが、もっとも基 本的な国家形成の過程における自律的なダイナ ミズムは、日本の歴史において特に重要性をも っているのではないかと指摘している。これら をスポーツ研究に応用するのであれば、武士の 非戦士化の過程と武術の武道化など、注目すべ き領域が残されていると思われる20) 課題という点では、本稿では十分に検討でき なかったジェンダー領域の研究は、エリアス学 派のスポーツ研究においても重要な領域であ る。ダニングは、近代スポーツを「男性の保護区」 と分析したが、近年の女性のスポーツ界におけ る活動の広がり、セクシャリティなどを考える うえで、ジェンダー関係における権力バランス を「定着者と部外者」関係によって分析してい る K. リストン(Liston)は示唆的である21) エリアスは、余暇とは「自分自身の楽しい満 足感(pleasurable satisfaction)に関して個人 的な決断が基本的になされる唯一の公的領域」 であるととらえた[Elias and Dunning, 1986: 92, 訳書:132]。そして、われわれの意識と しては「閉じた個人」へと個別化していく諸個 人を捉えつつも、エリアスは、社会的な存在と してしか存在し得ない人間の在り方、すなわち 社会の在り方を捉えていたのであり、そこに構 造化され尽くされない人間の情動のありかたを みていたといえる22) エ リ ア ス が 捉 え て い た の は、W. ホ プ フ (Hopf) の い う「Spannung(tension で あ り excitement)」させる時間としてのスポーツの 意味であったと考える。スポーツは、規律化さ れた身体によって行われるが、他方で「スポー ツは、社会的な制御不能状態を引き起こす機 会を与える。すなわち、Spuk(喧噪、大騒ぎ) になるのである」[Hopf, 1981: 13]。 エリアスが示した人類という単位へと向か う編成過程、すなわち「抽象的な世界システ ム」の生成の過程にスポーツはあらわれる一方 で、公的世界に規定され尽くせない、生活世界 にも位置づけられる[山下,2002:382]。山 下は、ホイジンガやバフチンが、遊びやカーニ バル世界が民衆世界のなかでも他に還元できな い本源的位置を占めていることを示唆している とする。そのため、「近代社会においても、連 綿と存在する民衆世界の感覚は、しばしば他の 遊びと同じようにスポーツにおいても公的世界 を踏み出してしまうのである」[山下,1999b] 23)。そこにおいて、エリアスもまた、「近代が、 人びとの生活がシステム世界に編入されるとと もに、同時にそこから離脱する傾向をもつ、二 面性に生きる民衆の文法を調整する装置として スポーツを『発明』したことを指摘」している とする。エリアスの「民衆世界の中に近代の文 法の植民地化を絶えず超出する情動と実践が現 れるという見地」を、「人間関係の編み合わせ」 がより緊密化し、より長大になっていることを よりいっそう認識できる現代社会において、ス ポーツという「アリーナ」を足場として、私た ちがどのように生活世界を描いていくことがで きるのかが、問われていると思われる。 【註】 1)UCD Press のウェブサイトでは、エリアスの没 後 20 年を記念してドイツのラジオ局が放送した 15 分の番組をポッドキャストで聞くことができ る。また、Suhrkamp 全集の 17 巻にも CD が付属 されていて生前のインタビューを聞くことがで きる。

2)Norbert Elias Foundation は、http://www. norberteliasfoundation.nl/ あ る い は、HyperElias© WorldCatalogue も参照のこと。 3)遺品や原稿などは、アムステルダムの Norbert Elias Foundation と、 ド イ ツ・ マ ー ル バ ッ ハ の ア ル ヒ ー フ に 保 管 さ れ て い る。http://www.dla-marbach.de/ 4) 大 平 章 氏 は 2010 年 4 月 に ア イ ル ラ ン ド・ ダ ブリンで行われたエリアス会議に際して、日 本語論文の書誌をまとめられている。リスト は Norbert Elias Foundation のサイトに公開され て い る。www.norberteliasfoundation.nl/docs/pdf/ BibliographyJapanese.pdf

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5) 奥村は J. Goudsblom の、スポーツ研究は彼らに「マ イナーな名声をもたらした」という言葉を紹介 している。そのような名声は、特に国外からも たらされた。たとえば、ブルデューは 1978 年 の講演でエリアスを引用している[ブルデュー, 1980=1991]。また、『ディスタンクシオン』に もエリアスへの言及が多々見られる。 6)中江は、中世の馬上試合に着目し、エリアスが 「消極的であった」中世から 17、18 世紀への連 続的変容を論じることで「スポーツマンシップ の起源」を捉える試みがなされている[中江, 2006]。 7)「文明化の理論のための見取り図 第六節 羞恥 心と不快感」も参照。 8)最近では、野球のイチロ-選手を表紙に冠し、 スポーツ選手の国際移動についての論文集が出 版された[Maguire and Falcous (eds), 2011]。 9)“football hooliganism” は「フットボールの暴力」、 “hooligan” は「暴徒」などとされている。 10)高橋は、日本のサッカーファンについて論じて おり、基本は礼儀正しい日本人ファンにも、『暴 力的な』行為が生じることを歴史的に指摘して いる[Dunning(eds), 2002]。 レスター学派の研究に対しては、サッカーフ ァンの位置づけが一面的すぎるという批判もな される。小笠原は、労働者階級文化と暴力が一 元的に結びつけられる研究について、より複雑 化した現実について目を向けるよう注意を促し ている[小笠原,2002]。また、月嶋も 2002 年 日韓においてフーリガン対策が成功したことに ついてダニングが言及している点を批判してい る[月嶋,2008]。 11)今回は参照することができなかったが[Young, 2011]が近刊の予定である。 12)山下・清野もまた同様の認識に立っているが、 時代的には、80 年代の日本資本主義の 21 世紀 戦略において、スポーツをはじめとする余暇活 動が、新しい統合形式のなかに定位され、文化 装置として組み込まれていった点を指摘してい る。文部行政の中で行われてきた日本のスポー ツの大きな転換を画すものであったとする[清 野他,1995:23]。 13)当時のスポーツ社会学をめぐる学会動向などに ついては、[高津,2008:54]を参照。 14) ダ ニ ン グ は、Barbarians, gentlemen, and players

の 2005 年 に 追 加 さ れ た「 あ と が き 」 の 注 釈 に お い て、“figurational or process-sociological perspective” が、はじめて体系的に使われたの は、『興奮の探求』においてであると述べている [Dunning, 2005[1979]: 299]。初版序文には、エリ アス的な用語を用いることについて説明してい る。現在では “figuration” と使うところを、“social configuration” と用いており、訳語は「社会的型態」 となっている。 15)山下はエリアス学派のマルクス主義への「過度 な敵意」も論争に拍車をかけているとする[ジ ェリー,ホーン,1994]。 16)[池井・菊,2008]を参照。 17)この点については、[Gutmann, 1994=1997]も参 照のこと。 18)海老島は, エリアスの「われわれ=われバランス」 を手がかりに, アイルランドのゲーリック・ア スレティック・アソシエーションがいかにナシ ョナリズム運動に結びついていくかについて論 じている[海老島,2004]。アイルランド自体も, マグワイアの「西洋=非西洋」という枠組みで は捉えられない位置にあり, ポストコロニアル 研究的視点からも興味深い。アイルランドにお けるスポーツとナショナルアイデンティティに ついては、[Maguire and Tuck, 2005]。また、北ア イルランドについては、[Bairner, 2001] を参照の こと。 19)アパデュライは、インドにおけるクリケットの 受容について、帝国主義の表象としての近代ス ポーツ(高津にならっていえば、行動様式・制 度・組織・倫理など)が、現地エリート層や民 衆にどのように解釈され、変容されていくのか を捉えている[Appadurai, 1996=2004]。さらに、 公共圏に関する議論については、[高津, 2008: 286]。 エリアスとフーコーとの関係については、以 下 を 参 照。[Binkley, et al., 2010] 及 び[Dolan, 2010]。また、エリアスの時間論について、平子は、 『文明化の過程』において「すでに時間の重層性 について言及されている」ことに注目している [平子,1996:66]。 20)[井上,2004][坂上,2010]など、歴史研究 の蓄積がある。 21)「独特な歴史的発展段階に基づいて、イギリス に国境がないことは、日本の場合と違って軍人 としての有能さ、もっと具体的に言えば、兵士 という職業が何ら特別に大きい威信を表す価値 をもたず、社会的機能の段階つけのなかであま り高い地位をもっていないということに寄与し て い る 」[Elias, 1976b[1969=1939]:484, 訳 書: 454]。エリアスは、『定着者と部外者』でも日本 の部落民について言及している。 オランダのエリアス学派からは、「脱形式化 (informalisation)」についての研究など多様な研 究がみられる。オランダエリアス学派について

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は、[市井,2001]。

22)[Liston, 2006]を参照。現在 Liston は Figuration の編集者でもある。アイルランドにおけるナシ ョナリズムとジェンダーバランスについての研 究は[坂,2010]。 23)山下は、長野オリンピック開会式の分析におい てこの点を検討している。また、そこに表れる ローカルな表象とグローバル[ユニバーサル] な表象の多層的な現れも見て取ることができる [山下,1999a] 【文献】

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