はじめに 寺社領の変遷と神仏分離政策の動向
‑弘前藩を事例に‑
神仏分離政策は慶応四(一八六八)年三月の神仏分離令に端を発した
神道国教化政策である。一部で行き過ぎがみられ'松本藩や富山藩で紘
廃仏穀釈に発展した。同政策は明治二年四月、神祇官が太政官の外に置
かれることによって頂点に達するが'仏教側の反撃などにより挫折し'
神仏合同の教化政策へと転回するに至る。
この中で寺社領政策'特に明治四(一八七1)年正月の上知令は'寺
院の経済的拠りどころを絶ち'廃合に追い込んだものとして'神仏分節
政策'特に廃仏聖釈と同様の影響を与えたものと評価されてきた。しか
し'それ自体が個別藩の政策の流れの中で位置づけられ'考察されるこ
とはなかった。それは従来の神仏分離の個別研究が廃仏穀釈の激しかっ
た地域に偏っていたことから'両政策が一体化したものと見倣されたこ
とによる。
そこで本稿では'神仏分離政策が廃仏穀釈に発展しなかった弘前藩を 田中秀和
事例に'
①寺社領政策はどのような変遷をたどるのか。
②寺仏分離政策は江戸時代の宗教政策とどのような関係にあるのか0
③この関係は寺社領政策をどのように規定しているのか。
以上≡点を中心に考察する。
寺社領に関する研究としては'安藤宜保﹃寺社領私考‑明治維新期を(‑)(2)中心として‑﹄'豊田武﹃日本宗教制度史の研究﹄などが挙げられる。
つぎに各章の構成について述べる。
第一章では江戸時代の寺社領の形態・性質を確定する。
第二章では'第一節で神仏分離政策が展開された明治初年の藩政の動
向と寺社領について'その事実の確定をする。第二節ではそれを基に当
該期の寺社の役務とその変質を考察する。これらを踏まえて、第三節で
は寺社領政策の変遷と神仏分離政策の関係を考察する。
(3 )
なお'史料としては主に弘前八幡宮神主小野家の社務日 記 を
使用する。また対象とする時期は'弘前落城での神仏分離政策が終了する明治五
年四月までとする。であるから廃藩置県後'記述の上では明治四年七月
四日以降九月二二日までを弘前県'それ以降を青森県とするが'対象也
域は'江戸時代の弘前藩域であることをあらかじめ断ってお‑。
第三早藩政期における寺社領とその変遷
弘前藩の寺社領は'黒印地・除地・社司抱地・村中抱地(村限除地・
村抱除地)から構成される。これらは全て検地時に'藩より寺社の由緒
などを考慮した上で設定された。黒印地以外は基本的に除地であり'そ
の意味で同藩の寺社領は黒印地と除地に大別される。なお'同藩には慕へ4)府朱印地は存在しなかった。
黒印地は藩主の寄進地で'黒印状を以って給付された知行地である。
その宛行先は寺院の場合'各寺院宛である。神社の場合'弘前八幡宮を
例にとると'
知行目録 (7)御長久之御祈祷不可怠事」と神社の役務が規定され'宝暦六(一七五六)
年二月一二日付の小野若狭(八代正政)宛の津軽信寧黒印状において'(8)「如前例令寄附於当社託'全可所務老也」と寄附の文言が記されるに至る。(9)また正徳元(一七一一)年の寺社分限帳によれば'
最勝院支配
八幡宮神主
一'高三拾石
・;比=亘.:・・:・...I.iH.I....I..
信義公社領御寄附寛永年中' 小野若狭
高三捨石
右令扶助詰' 矢沢村之内
下和徳村之内
慶安五年
二月五日(信義黒印)
八幡神主(5)光宮太夫とのへ
その宛行先は神主である。本黒印状の様式は'慶長一四(一六〇九)午(6)に発給された同藩の小知行への知行宛行状と変わらない。しかし延宝九
(一六八一)年正月二一日の社寺法度によって「於神社毎日天下御静譜 (後略)
「社領」とはあっても'社家を宛行先とする寄進地であった。それは特
定の一族が代々社司を世襲してい‑という'神社のあり方に起因する。
黒印地を与えられた寺社は'藩の「国家安全」と'それを支える寄進
主たる藩主家の「子孫繁昌」に関する祈祷を役務負担としていた。表
Ⅰ
によれば'同港の黒印地の総高は貞享四(一六八七)年に二一八石であっ
たものが'正徳元年には三六九二石二斗六升四合と飛躍的に増加してお
り'宝暦五(一七五五)年には三八一八石五斗'そののちは多少の変動
はあるものの'黒印地を拝領する寺社の総数も安定し'幕末に至るので
ある。
なお'貞享年間から正徳年間にかけての窯印地の総高の大幅な増加は'
四代藩主信政(治政'明暦二
‑
宝永七年'一六五六‑
一七一〇)の積極的な寺社保護政策によるものと思われる。
黒印地は地方知行であり'安永三(一七七四)年七月二八日'
(10 ) 御 家 中 一 統 地 方 知 行 相 止 ' 御 蔵 四 ツ 成 被 仰 付 t
と な っ た の ち も 寺 社 領 の み は 変 わ な か っ た 。
天 保 五 ( 一 八 三 四 ) 年 一
〇月 七 日 ' 寺 社 領 は 俸 禄 制 に 移 行 し ' 月 割 渡
と な っ た 。
口 達
御 家 中 知 行 井 寺 社 知 行 共 地 元 二 両 被 下 置 御 蔵 給 地 両 様 之 御 扱 侯 処 '
安 永 三 年 御 家 中 給 地 御 引 上 不 残 御 蔵 入 被 仰 付 ' 知 行 米 御 蔵 渡 被 仰 付
侯 処 ' 差 当 批 判 も 可 致 侯 得 共 ' 当 時 之 姿 格 別 取 締 外 向 難 儀 之 筋 茂 相
見 得 不 申 、 一 鉢 之 御 貢 法 二 付 ' 百 姓 共 : 茂 難 渋 無 之 ' 然 処 寺 社 之 知
行 所 其 俵 被 差 置 候 儀 今 更 難 相 分 候 得 共 ' 必 菟 寺 社 丈 御 世 話 落 二 相 成
侯 儀 二 茂 可 有 之 哉 ' 去 年 荒 作 : 相 成 侯 処 ' 寺 社 地 門 前 之 者 共 垂 御 取
扱 二 相 成 ' 右 等 之 老 共 1二 戊 随 分 致 難 渋 候 ' 然 者 御 国 中 一 体 之 御 大 法
二 基 寺 社 之 差 別 無 之 等 二 付 ' 一 統 御 家 中 同 様 御 蔵 入 之 上 並 合 段 取 割
合 を 以 月 割 渡 被 仰 付 侯 ' 寺 社 門 前 之 老 共 在 々 者 郡 奉 行 ' 町 々 者 町 秦
行 之 支 配 江 相 属 一 般 之 夫 役 相 勤 侯 様 ' 寺 内 人 夫 之 俵 茂 一 統 割 合 是 迄
之 通 差 支 無 之 様 ' 左 侯 老 変 革 之 貯 向 老 両 奉 行 取 扱 之 上 隔 意 無 之 様 被
仰 付 侯 ' 此 旨 申 達 候 '
(‖)十月 御
家老そ の 理 由 は ' 安 永 三 年 の 藩 士 知 行 の 地 方 知 行 か ら 俸 禄 制 へ の 移 向 が '
差 し 当 た り 批 判 も な ‑ ' 百 姓 に も 難 儀 し て い る 様 子 が な い の で ' 領 内
「 一鉢 之 御 貢 法 」 で あ る 俸 禄 制 を 寺 社 だ け 適 用 し な い わ け に は い か な い 。
そ の 上 昨 年 か ら の 凶 作 で 「 寺 社 地 百 姓 井 門 前 之 者 共 」 が 難 渋 し て い る か
ら で あ っ た 。 ま た 寺 社 門 前 の 支 配 も 郡 奉 行 ・ 町 奉 行 に 移 り ' 一 般 の 夫 役 を 勤 め る こ と と な っ た 。 加 え て 知 行 高 一
〇〇石 以 上 は 年 貢 四 ツ 成 ' 一〇
〇
石 未 満 三
〇石 以 上 は 年 貢 四 ツ 成 渡 し の 上 附 扶 持 二 人 扶 持 ' 三
〇石 未 満
(12 ) は 年 貢 五 ツ 半 成 と 知 行 高 が 低 ‑ な る に 従 い 俸 禄 は 高 率 と な っ て
いる。な
お'
「 寺 社 被 下 米 」 す な わ ち 供 米 に つ い て は 歩 引 用 捨 さ れ た 。
し か し 四 年 後 の 天 保 九 ( 一 八 三 八 ) 年 四 月 に は '
口 達
昨 年 案 外 之 劣 作 二 而 御 収 蔵 過 分 之 御 減 石 二 付 ' 御 家 中 井 寺 社 波 方 共
昨 年 新 割 渡
葺御 収 減 二 随 ひ 相 当 歩 引 可 被 仰 付 侯 所 、 近 年 度 々 四 合 扶
持 渡 井 歩 通 り 御 差 引 等 被 仰 付 ' 尚 又 昨 年 別 段 御 趣 意 も 被 差 立 米 穀 御
買 〆 等 専 御 手 当 被 仰 付 候 得 共 ' 皆 手 順 違 二 相 成 、 追 々 御 米 不 足 二 而
連 も 当 新 穀 迄 本 渡 可 被 仰 付 ' 御 都 合 難 被 為 行 届 不 被 為 停 止 事 ' 此 度
御 家 中 渡 昨 年 之 御 減 石 相 当 割 ヲ 以 歩 通 り 御 差 引 被 仰 付 侯 間 ' 寺 社 行
渡 之 儀 も 右 同 様 之 歩 引 可 被 仰 付 等 之 所 ' 寺 社 之 儀 者 両 御 寺 初 五 山 其
外 日 々 御 尊 霊 江 御 献 備 も 有 之 誠 : 重 キ 御 祈 願 御 祭 事 等 も 有 之 所
葺格
段 以 御 尊 慮 去 ル 末 年 御 例 ヲ 以 御 家 中 渡
AQ格 段 御 用 捨 之 割 合 二 被 仰 付
侯 ' 尤 是 迄 数 月 之 間 無 理 成 御 差 繰 ヲ 以 押 而 本 渡 被 仰 付 厚 キ 思 召 之 程
難 有 仕 合 二 奉 存 ' 御 場 合 柄 厚 差 合 勤 務 大 切 二 相 心 得 侯 様 ' 尤 御 扱 向
不 申 出 候 様 此 旨 申 達 候 ' ( 13 ) 四 月 御 家 老
「 昨 年 案 外 劣 作 二 而 御 収 蔵 過 分 之 御 減 石 」 と い う 状 況 で ' 家 中 に 対 し て
は 減 石 相 当 の 割 を 差 し 引 い た 俸 禄 を 下 す よ う 仰 け つ け ら れ た に も か か わ
ら ず 、 寺社は「御家
中波音格 段御
用捨之割合 」
に仰せ つ
けられた。そ
して
(14) 同 月中 に俸禄制は廃
止され'寺 社領
及び門前支 配
は天保 五 年
以前に戻 っ
た。
廃
止され'寺 社領
及び門前支 配
は天保 五 年
以前に戻 っ
た。さて'ここで弘前藩における寺社の位置づけを前記史料から考えて衣
たい。
天保五年においては「御国中一体之御大法」を前提として'領内「一
鉢之御貢法」すなわち俸禄制への移行を必然化している。そして安永≡
年に家中が俸禄制へ移行したのちも寺社の知行を地方知行のままに置‑
のは今更理解し難‑'「寺社丈御世話落」にはできないと述べている。
またその直接の理由が寺社の難渋ではな‑'「寺社地百姓井門前之老共」
の「難渋」であることも見落せない。これらの点から藩政初中期の寺社
保護の考え方が'断絶していることを窺うことができる。特に寺社だけ
地方知行であることが「今更難相分」と述べられていることは、「去午(
1
5)荒 作 」
による藩政の危機感を如実に示しているといえよう。天保九年においてほ'「過分之御減石」という状況で'藩の米穀買占
等の諸政策が失敗したにもかかわらず「寺社行渡之儀も右同様之歩引可
被仰付等之所(中略)家中源才格段御用捨之割合」に仰せつけられ'寺
社の役務の特殊性が理由として挙げられている。そして同月中に寺社領
の俸禄制は「寺社一同難渋」によって廃止されるのである。なお'この
とき「御時合柄厚‑相心得'寺社共御祈願等格別抽丹誠精勤いたし居候
段御満足二被為思召侯」と'藩士が寺社の「精勤」を積極的に評価して
いる。
以上'寺社領の知行形態をめぐる天保五年と同九年の動向は'結局は
藩政における寺社の役務を再評価させることになったといえよう。その
役務とは'「両御寺初五山其外」の寺社が「日々御尊霊江御献備」及び「誠:重キ御祈願御祭事等」を行うことであった。 除地は黒印地を給された寺社及びそのはかの寺社に設定された年貢免
除地である。これらは「社司抱」'「村中抱」と記された屋敷地であり'
貞享四年の検地時に寺社の由緒により設定された。
当初黒印地以外の寺社領は原則として除地であったと考えられるが'(
1
6)宝暦四(一七五四)年の寺社御年貢地高反別寄 帳 に
よれば、右今度御検地帳書上候社地'明暦井貞享年中之御検地二無之故遂詮
儀候処'不残明暦以後二而何之由緒茂無之侯'依之御年貢地相究之
当分御年貢老御免二俣'仇而如件'
貞享以後新建の寺社で由緒のない堂社地は'除地にならなかった。
( 17 )
なお'除地の高については'貞享四年に総高一二七石六斗三升三 合 で
あったことがわかるだけである。
寺社領のはかに寺社経済を支えるものとして'供米'祈祷料・神楽料・
守札代などがあった。黒印地拝領寺社はこれらの代金を藩から支給され
たが'そのはかの寺社は各々の霞所・壇家からの徴収によった。
下相野村飛竜宮では'石灯寵再建の神楽執行・石灯寵清加持の際'(上略)
御加持井御神楽料共百六拾匁'社家一統相談之上当年之分ハ諸品高
直二付'御祭札割合之義ハ割増相願へ之事'
当村之義ハ八月八目大風二付屋根破損二付'村中手入致侯問'拾匁
割増相成申侯'
一四拾五匁下相野
二二拾九匁上相野
一拾≡匁