Bull.Fac.Educ.HiyosakiUniv.45:ll‑15(Feb.1981)
空 間 と存 在 と時 間 と
‑ 彫 刻 に 関す るそ の随 想 的 試 論 ‑
岡 田 敬 司*
序
三次元空間の中に存在す る我 々人間は, 自己の存在理 由を確認す る為に,様 々な行為に よって他者 との関 係を形作 り働 きかける。それは,その人の興取 関心の持ち方に依 って時には人対人であ り,時には人対%, 時には人対社会 (人 と物 との集合体 としての) となった りす る。 ここでは彫刻 と自分 との関 り合いを確認す る為に,人間 と物質 との関係について考察 してみ よう。
I.歴史的考察
かつて古代人は 日々の生活の中か ら,その物質的必要性か ら様 々な生活用具を生み出して来た (デザイン の源泉)。それに対 し,豊猟,豊作,子孫繁栄,病気快癒な どを祈願す るための洞窟壁画や,縄文期にみ ら れ る様な土偶の類,あるいは祭柁又は権力の象徴 として用い られたと言われ る銅鐸や,墓地の周囲に故人 と 関係の深か った物を形造 り埋めた埴輪な どは,その制作 された必要性は精神的意味合いの強いものである。
これ らの性格を持 った物に今 日の我 々は芸術 とい う言葉を当てはめ,それ らを芸術の源泉 と言 う事 もできよ う。現代で もアフ T)カなどの未開部族の人々の作 り出す仮面な どは,祭 りや成人式な ど種 々の式典に使われ た りす るが,何千年 とい う長い時間の経過を飛び越えて,古代人の作 り出した霊的空間に同一化 しようとす る。
(1)
私の魅かれ るものにア7 1)カの黒人彫刻があるが,その魅力の源泉は,端的で,直哉的で, プロポーシ ョ ンを超越 した,その呪術的表現にある。その表現の技術的特色は, 自然界の様 々な動物の形体を 自由に取入 れなが らその現実の姿を大胆に力強 く,且つ又,直接的に単純化 し造形化す る事に依 って,その姿は擬神像 や鳥霊像になった りす る。その視覚的効果は我 々にとって時には奇異であ り,驚異であ り,神秘的である。
しか しなが ら,それ らの像は作 り出した彼 らに とって土着的信仰に裏付け られていた為に,正に必要だ った のであ り, 自然で もあ ったに違いない。 自然の力は強大で大いなる恵みを与えると同時に,時には生活をお びやかす大 いなる脅威 を人 々に与えた。か くして 自然崇拝の信仰が生れ,その対象物を通 して 自然神 との和 解を願い,又は悪霊を追い払 う道具 として多種多様の偶像が作 られた。特に儀式用 として作 られた仮面は 自 然界の様 々な動物の形体 と人面 とが複合的に構成 され,時には装飾的に,時には幾何学的に見事なまとま り をみせ る。その造形的処理 と彩色が滞然一体 となって,我 々を Lで隆奇な幻想世界に引きず り込 もうとす る。
その表情は一律で, 目は半眼, ロは開けていて も無表情に近いが故に,見 る著 も,それを被 る踊 り手 も共に 神霊世界に遊び,桃惚鼻に誘われ る.その表情の魔力は,遠 く東洋の仏像や時代をず っと下 っての我国の能 に於け る能面の表情 と不思議に一致す る。その無表情 さはそれを見る著に とって無限の想像力を喚起 させ,
まなぎ
無限の感情移入を可能 とす る。その限先 Lは神 々や精霊の守護者である先祖の棲む超 自然界に常に向け られ ている。換言す ると,仏教で言われ るところの彼岸に向け られている。それは人間の知恵や能力を超えた叡 智の世界である。それ らの勝れた彫像の前に,人 々は 自らの卑小 さと虚弱さを 自覚せ ざるを得ないOそ して 俗世の垢に塗れてしまった我身を噸笑 し,煩悩か ら脱 しきれず足掻 き苦 しむ者にとっては絶対的 存 在 で あ
り,思わず救いの手を差 し伸べてしまったに違いない。
(2)
更に驚 くべ き事に同様の表情がみ られ る一例 として,南太平洋の絶海の孤島イ‑スター島に 「モアイ」 と 呼ばれ る人面巨石彫刻がある。その数はお よそ900, と言われているが,高さ20m,重 さ50
t
もある巨像を*弘前大学教育学部美術科教室
誰が,いつ, どんな 目的で作 られたかはほとんど謎である。島民の話に よると,モアイに祖先の霊がまつ っ てあ り,その 日か ら霊力が出て村人を守護 していた。それでモアイは海を背にして村の方を向いて立 ってい た とい う。その存在はまさに驚異である。その表情は これ又一律で無表情である。海岸に一列に並んで立つ 7体の巨像は全て手を腰に当て一定の方向を見つめている。その存在は まさに謎だが周囲の空間を完全に制 覇 している。それ らの像は不思議な力 と同時に魅力を持 っているのが感 じられ る。エジプ トの ピラ ミッドや スフ ィンクスなどの巨石文化 も又,何千年 もの昔か ら静諾 さを湛え続けて来たその表情は清 らかにして強大 で美 しい。その制作過程で多 くの民人の犠牲を強いたに しても,その威様は正に王者の風格にふさわ しく, 我 々を完全に圧倒 してしま う。 これ らの物 と比較す ると,その後沢山の彫刻が制作されて来ているが,時代 が下 るに従 って,文明が発達す るに従 って,その表現方法は多様化 し,表情は豊かにな り, より人間的にな る。ギ リシア彫刻では人体の美 しさを認め,それを肉迫 しようとし,ルネ ッサ ンス期の彫刻では人間の様 々 な苦悩 とか願望な どの内面性に 目を向け,それを造形化 しようとす る。
洗練 された美意識の変遷は確かに高度にな って来ている。人間や 自然界のすべての生き物などを含めた生 命の本質を追求 し,それを造形化 しようとす るあ らゆる試みは非常に多角的な面か らなされて来ている。が しか し,表情が豊かになればなる程,表現内容が豊かで複雑で人間的になればなる程,又,文明が発達すれ●●●●●●
ばす る程,逆に,その存在の力強 さとい う点で脆弱化の一途を辿 って来ている様に思えてな らないQ今や我 々は失われつつある古代人の心を取戻す必要がある。
2.
彫刻概念の変遷前章でみて来た様に,彫刻はその発生の段階で最 も素朴な人間の心の表現手段であ った。それは権力のあ る者はその力を誇示す る為の象徴であ り,記念碑であった。権力を有さない民衆に とってほ 日々の生活の安
イ コン
定,生命の安全を脅かす 自然の強力な力に対す る畏怖の念,太陽神な どを含めた 自然神信仰の為の偶像 とし て,つ ま り宗教的なイ コンとして発生 して来た。 この宗教 と彫刻 との結びつきはその後,中世期に致 るまで 世界各国に存在 して来た。 しか し今 日の我 々は高度な科学技術の発達に より, 自然の脅威か ら解放 され ると 同時に宗教を失い, とい うよりも一定の宗教に頼 らず して何 らかの造形表現活動を余儀無 くされて来た。超 自然的な力が存在す る予感を抱 きつつ も,神の存在を疑 う様にな って来ている。つ まり宗教的偶像か ら離れ て,純粋に美的対象 として鑑賞すべ く,彫刻を含めたあ らゆる芸術作品を制作す る様になって来た。その存 在理 由は精神的必要性か ら遊離す るものではあ りえないが,学問を含めた文明の発展に貢献す る必要がある が,人間性を より豊かにす るとい う意味合いも内包されている。人間性を豊かにす るとは非常に暖味で漠然 としているが,私流に解釈すれば,極論か も知れないが,その作品に接 した時,その驚 きに よって,その人 の生 き方 まで変えてしま うか も知れない強烈な何かである。時には博然 とし,す っか り自信を無 くしてしま うか も知れない。時には恐 くなるか も知れない。時には
『
いいなあ』 とその作品の前に何時問で も庁んで視 線を離 した くな くなるか も知れない。その作品は或 る人には とても素晴 らし く思え,又,別な人にはつ まら ない物にみえるか も知れないが,す ぐれた作品は人を打つ ものがあるに違いない。つ ま り人間性を豊かにす るとは様 々な意味を内包 しているが,いずれに しろ,その作品の存在は強烈な力を持 っていなければな らな い。勿論鑑賞者 としての受け手の心理状態 も問題であるが,例えば寂 しい時は寂 しく見え,楽 しい時は楽 し く見え,今 日はいいと思 ったのに翌 日はつ まらな く思えた りす るか も知れないQいずれに しろ勝れた作品は 様 々な要素を包含 しているに違いない。か くして現代に於ける作家の表現活動は 自己の感得 した世界観を作 品を通 して世に発表 してゆかねばな らないが,その世界観,宇宙像は作家個人独特のものでなければならな いが,それが他に勝れたものになるためには,その表現活動は何らかの思想的裏付けが必要 となる。時には 円空の様に求道的な場 として自己の立脚点を確認 した り,あるいは政治的社会的な諸問題に対す る問いかけ であった り,あるいは趣味,趣好性の強い ものであった り,遊びの境地であった りするが,いずれにしても その思想性は グローノミル ・アイ (全地球的視野)を有 した ものでなければならない。即ち, 自己の存在を常 に国際的視座か ら客観視 し続けてゆかねばな らない。ロダンの出現以来,真実の追求 とい う事が強 く叫ばれて来たO真実 こそ美であると。 しか らば真実とは何 か ?。人間,動物,植物を含めた生命休としての自然の核心又は構造を掴む事 とか, 自然の本来の姿に到達
空間と存在と時間と
す る事 とか色 々説明されて来たが,いずれにしろ,その作家的態度は 自分を含めた 自然 と自分がいかに関 り 合 うか とい うその姿勢が問題視 され るにちがいない。例えば,現代彫刻の巨星 と称 され るアルベル ト・ジャ コメッテ ィの様に自然の一部 としての対象に,いかに肉迫す るかにその一生を賭けたその生 き様は,人間の 生 と死 と孤独に常に対面 し続けて来た一人の人間の記録 として,凄 まじい程の リア リテ ィを彫刻の作品の中 に封 じ込め,我 々を感動 させ る。その制作態度は常に 自己否定の連続であ り止 まる所を知 らない。その感得
した世界観は正に独 自であ り,他者の追随を許 さない。
又,彫刻概念の変遷 とは空間概念の変遷 と言い換える事ができるが, 「ルネ ッサ ンス期に発明された遠近 法は近代の科学技術の発達に伴な う合理主義に よってまずキ ュービスムによって否定 された.対象を解体 し, 視点を移動 して色 々な角度か らみた面を 自由に組合わせて再構成 した。 アポ リネールのい う 『視覚的真実か
ら知性に よる真実へ』の変化,つ ま り目にみえるままではない空間が現れた。 しか し,キ ュー ビスムの空間 は 自然の空間ではないが対象を捉えるための空間であった。 (遠近法については,高松次郎が視覚的遠近感 を強調す る手法に よって面白い試みを呈示 した。)構成主義や新造形主義などの抽象美術になると造形的空 間は 自然の対象 とは無関係に 自律的な空間になる。抽象美術の自律的な空間が合理的な追求の所産であるの に対 し,一方では合理主義に対す る深い疑いも存在 した。非合理的な意識を重要視 し,意識下の世界を探求 したシュ‑ル レア ])スムは部分的には 自然を連想 させなが らも自然か ら全 く独立 した異質の自律的な空間を 獲得したO従来の美学では造形的空間にはイ ])ユージ ョンに よる絵画空間と質量をもった彫刻空間の区分が なされていたが,絵画にも質量的要素が導入 されて くると,絵画,彫刻の区分そのものが暖昧にな って来た。
最近では環境を含めた空間が一般の関心をひいている。彫刻では内部のつ まった質量をもつ空間 とその周辺 に中空の空間を持つが,その中空又は見 ることはできるが触れ ることのできない空間が強 く意識 されている。
前者を実空間 と呼び,後者を虚空問 と呼ぶ。 これ も現代の特色である。 このことは透過あるいは反射す る素 (3)
材の登場に よっても促進 されて来た。」
この他に も様 々な美術思潮が存在 して釆たが,現代彫刻の概念は一 口に言 って多種多様であ り,一見,荏 滝 としているが,我 々はその中で 自己を見失わない為に選択す る眼が必要 とされ る。現代彫刻に於ては,そ の素材 (材質) と自己 との関係の確認が必要であるが,更に重要な点は,その表現内容が常に問題視 され る。
作者に よってその表現内容がまず優先 され,その表現のためには考えられ得 る全ての素材の使用が可能であ り許 されている筈であるO換言すれば作者の想像力が全ての材質の特性を生か し,引出す こともさる事なが ら,それを凌駕 し,可視的実在 として具現化 されねばな らない。
彫刻に於ける空間概念について更に詳述 してみれば,三次元空間の一部を占有す る物体 として存在す る一 個の彫刻は,物理的質量を有 した存在であると同時に,それを取囲む周囲の空間と不離不断の関係にある。
具象的彫刻に於けるその関係は,物理的質量を有する事,即ち重力の法則の受容を前提 とし存在す る。又, 質量は密疎の属性を有 し,その特性は視覚的力動関係の表現に活用 された りするOその力動関係は固体 とし て求心的であると同時に遠心的で もある。その質量的空間 と周囲の空間 とは常に緊張状態にあ り,その境界 面は圧 し潰そ うとす る力とそれに反擬す る力との括抗す る面であ り, 目前の形体はそれ らのギ リギ リのバ ラ
(4)
ンスの上に成立 しているのであ る。例えば,アン トワ‑ヌ ・ブルデルの名作 「弓を引 く‑ ラクレス」は まさ
(5)
にその緊張関係をは らんでいる。同時にアルベル ト・ジャコメッテ ィの静止す る人物像にもその緊張関係は 存在す る.前者の作品は, まさに弓か ら放たれんとす る矢の前方が コンク7)‑ トの壁で遮 られ る場所に置か れた場合,作品が全 く死んで しまう例 として良 く引合いに出され るが,後者に比すると,その空間概念の把 握の仕方は前段階的である。なぜな ら彫刻の存在感 と緊張感の強 さほ本質的に言 って,彫刻のポーズ (身振 り又は手振 りな ど)で表現す るものではないか らであるC後者の例は,動きは前者程無 くとも,その存在感 は偉大である。それは人間の存在に対す る問いかけとして,まさに消え去ろ うとす る対象 (モデル)が,そ うされ る事を拒否 しているかの様に,作者にあ らが うかの如 く,彫像それ 自体が抵抗を示 しつつ,辛 うじて 原形を留めている。 これ も緊張ある平衡関係にあるかの様である。つ ま り二重の意味で, この関係を保 って いるが故に,その存在感が強め られているのである。 とは言 うものの彫刻のポーズも重要な造形表現の一要 素である事は言 うを待たない。 この良い例 として,現代イタ リアの具象彫刻の大家, マ リーノ ・マ リーこの
(6)
作品,馬上にまたが る人物像を思い浮べてみ よう。 この例の場合は,馬は四本の足をほぼ垂直に並べて静止 している。馬首 と頭部ははば水平に前方に突 き出されている。騎乗の人物は,両手を左右水平に,両足を左 右斜め下方に,それぞれ強 くピッと突 き出しているO人物の胴体部は垂直で,静 ま正面斜め上方を向いてい るとい う彫刻であるが, これ らの様 々なポ‑ズは全体の構造上重要な役割を担 っているO この作品 も実に力 強 く充実感に満ちている。全体を直線的に構成 し,水平線 と垂直線で安定感 と強 さを示 し,それに交叉す る 斜線で変化 と面白さを表わ している。 しか し誤解 してな らないのは この例でもポーズで充実感や緊張感や強 戦 きを表現 しているのでは無 く,全体の構成上必要だか らこれ らのポーズを採用 しているのである。つま り 重要ではあるがあ くまで二次的な要素であるに留 まるのである。換言すればポーズの助力無 しでも緊張感の 表現は可能なのである。
抽象彫刻に於て も,概念的彫刻においてす らこの緊張関係は崩れない。前に も述べた様に,その存在は周 囲の空間に負けてはな らない。屋内にあって も,広い野原にあ って も,常にその生気は蘭測,強固,強靭な ものでなければな らない。時には大 自然 と融合和解 し,時には太陽 と反撰す るか も知れないが,その存在感 は太陽にす ら負けてはな らない。
実材 としての内的空間 とそれを取 り巻 く外的空間を総合 して我 々は芸術的空間 と総称す るが,その空間は 当然,異次元空間を志向する。 この異次元空間は心理的空間であるが,ある種の視覚的効果を内在 し,特定 の雰囲気を醸 し出す。時には詩的であ り,時には哲学的であ り,時には夢幻の世界‑誘 う狂気を含んでいた りす る。彫刻を楽 しむ為には雰囲気 も必要な要素である。無視 し去 る事はできない。 しか し, これは時 とし てしば しば構築的甘 さに流れ易い危険性をは らんでいる。
又,芸術的空間は物理的質量空間を凌駕す る。つま り,‑米の丸太材か ら彫 り出された彫刻は,それ以上
(I)
の大 きさを感 じさせねばな らない。 これを感覚量 と言 うがそれを可能 とす るす ぐれた彫刻は,ある種の不可 視光線を内在す る。その光線は心理的空間に存在す るが故に, 目には見えない。 目には映 じず とも何かを感
じさせる光空であ り,輝 きであるO
又,一つの彫刻作品 とその周囲に存在す る物体は呼応 しているか,反掻 しているか,その存在感を打消し 合 っているかな どと,常に相関関係にある。両者の位置関係 も重要であ り,大小関係 も無関係ではない。小 は より小 さ く,大は より大 き く感 じさせ る。又,質感 も対比に依 って強め られた り弱め られた りする。位置 関係とは,二次元空間においても,三次元空間においても,互の距離が近ければ近い程,密集,凝縮,圧迫 な どの感 じを抱かせ る。人体に於ては, プロポーシ ョンに この位置関係を当て朕めてみ ることができる。
3.物の存在 と認識
人間 と物質 との関係について,古来その関係は 自然界の一部 として共に並存関係にあった。が,人間中心 的な考えが時には 自然界を破壊 した り,人間の生活に役立つ部分を自然界か らどんどん取入れて来た。が, 本来,その両者は対等であ り,共に尊重 されねばな らない。路傍の石 も看過 して しま う場合には,その存在 は無に等 しい.つ まり石の存在を識 る為には,その認識が必要であるC存在即認識である。橋本平八は,石
..。.。.。.。.。 .(8)(傍点輩 者)
に就て色 々考察 し石の石 らしさを超越 した石 として,石の中に うず くまる牛の姿を観た。再に円空は木の中 にアニ ミズム的な生命感を感得 し,更に木片の内部に秘め られた仏の像を観た。 この事は ミケランジェロが 石の中に彫 られ ようとして待 っている姿を観待 した事 と不思議 と一致す る。表現内容は異なるが,高松次郎
(9)
は川原の石に0.1か ら1までの無限の数字を記す事に よって作者 と石 との関係を意味付けた。その無限性に 挑戦す るかの様な所作は一見,ほかないが,認識論的には意味があると思われ る。つ ま りここでは川原の石 塊の質や大小関係は問題でな く,数字を石に記 してゆ く事に依 って認識論的に所有関係を持つのである。石 に限 らず,今 日の我 々は,素材に対 し,あ らゆる先入観を取去 って物に対峠 し.直面 しなければな らない。
そ こには無限の可能性が秘め られている。 自然界に於け る全ての対象物は時には能弁に,時には寡黙に存在 している。そ こか ら素晴 しい又は不思議な何かを発見 してゆ く事は,我 々に課せ られた義務であ り喜びでも ある。 自然は造形の神である。人間の能力では,はるかに及ばぬ造形力を有 している。天 より下 る水滴はそ の集合 した力に よって,美 しくも膜烈な渓谷美を彫 り出し,その侵蝕作用に よって複雑な海岸線を形成す る。
空間と存在と時間と
1 5
‑ ソ リ‑ ・ムーアはそ こか ら様 々な事を学んで 自己の作品の中に昇華 してい る.又,雨滴に よって穿たれた 石は,いかな る勝れた彫 り師の手にかか るものに も勝 って美 しいのは,長い時の経過を見過 ごす事がで きな い。古い塗料の剥げかか った仏像や古寺 の擦 り減 った石段が美 しいのは,正に, この時間の魔力にあ る,そ れは正に滅びゆ く物 の美 しさであると同時に時の力に よって熟成 され,円やか さを帯びている。その落ち着 いた風情は人 々に安 らぎと潤いを与えて くれ るのであ る。
揺
以上述べて来た よ うに彫刻には空間 と存在 と時間 とについて,様 々な角度か ら見直 し,考察 してゆかねは な らぬ多 くの問題が未解決のまま, まだ まだ残存 している。従 って我 々は これ らの諸問題について大いに気 を新たに し取組 んでゆきたいものであ り,ゆかねばな らない。そ して事物 の存在の認識 と同時に 自己 と彫刻
との関 り合い方について確認 してゆ く必要性を痛感す る次第であ る。
<註>
( 1 )
柳亮ほか 「象牙海岸にみ る民族 の 美‑ ブラ ック ・ア フ リカ芸 術 展」 カタログ1 9 7 2. 6
アフ リカ協 会 ・東京新聞( 2 )
渡部ひろし編 「未来‑の遺産」第2
集1 9 7 5. 8
学習研究社p p. 4 6 ‑5 0
(3)三木多聞ほか 「現代美術の用語」『美術手帖
』
11月号1 9 6 7, 1 1
美術 出版社p. 6
(4)東京,国立西洋美術館( 5 )
アルベル ト・ジャコメッテ ィ 矢内原伊作 ・宇佐見英治編訳 「私の現実」1 9 7 6. 1 0
みすず書房p. 7 4
(6)‑‑/ミー ト・1)‑ ド 「近代彫刻史」1 9 6 5. 8
紀伊国屋書店p. 21 6
( 7 )
新海竹蔵 「彫刻の技法 ・木彫」1 9 61. 6
八版 美術 出版社p. 7 4
(8)本間正義編 「オ ブジ ェとしての彫刻」『近代の美術‑ 円空 と橋本平八』所収
1 9 7 3. 5
至文堂p
p. 4 5 ‑4 6
「彫刻の芸術的価値は,その天然の模倣でないことは勿論であるが,それ と全 く撰 を異に し, 而 も天然 自然の実在性を確保す る性質の もの即ち同 じ石に も石であ り乍 ら,石を解脱 して石を超越 した 生命を持つ石,そんな石が不可思議な魅力で もって,芸術的観念に働 きかけて くる。 さ うした石が石の うちに存在す る。石の石 らしさを超越 した石O (中略)左様な石が稀にあるのだか ら妙であ る。その石 の不可思議 と同 じ感興を,他の人物 な り動物 な り,或は人物 の部分,例えば指な り,顔貌な りに も是が 有 るわけで,通例 自分は彫刻的神秘的等の言葉で もって感受す るのであ るが,仙 とか神 とか も左様な形 式か ら導入す ることもあ る様だ。」(橋本健吉編集に よる橋本平八の手記 『純粋彫刻論』p. 2 3 8 ) ( 9 )
中原佑介 「現代芸術入門」1 9 7 9. 7
美術 出版社p. 2 3 7
(昭和