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80
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にお ける記憶 と感性
白 井 成 雄
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序
<S:失われた時を求めて≫を善 くに際 して,Proustが意志的記憶 と無意志的記 憶の区別を重視 し,後者の与える回想を専 ら作品の素材 とした事は,Proust自
(1)
身が述べ,又多 くの批評家達が Proustの言葉をそのま ゝ引用 しなが ら解 説を
(2)
試みた息である。併 し,それに も拘 らず,無意志的記憶を中核 とす る彼の精神 の営みについては.諸家の論がかな らず Lも一致 して い る と は い え な い。
Proust研究の初期においては,例えは Benjami nCr6mi euxの如 く.追 憶 の
(3)
世界,退去時の次元のみが Proustの精神生活を構成す るものであった と説 く 評者が多か った。併 し. この よ うな説は現在では皮相な説 としてすでに斥 け ら れているO皮相である由縁は,手近な論をあげるな ら,平井啓之氏の優れた <S: プル ←ス ト論≫に詳 しく説かれてい るところだ。そ して現在においては,過去
(4)
時 の次元 と共に現在時の次元 つ ま り感受性 の機能 も又 Proustの精神生活に おいて大 きな役割をはた していることが明 らか とな ってい る。
だが, この二つの次元の関係は ど うなのか ? <S:囚れの女参で 話 者 は ヴ ァン 十ウイユの音楽 を開 きなが ら 「兵 の感動 を与え る音楽がある精神的現実に●●●●●
対応 していない害はない‑・・・か くしてマJt,タ ング ィJt,q)鐘楼やパルペ ックの道 の並木の前で,更に又 この小説の冒頭で一杯のお茶を飲みなが ら感 じた喜びに ヴ ァン トゥイユの楽節ほ ど似てい るものはなか った」 と述べてい るが, この文
(5)
か ら判断すれば 「マルタ ンヴ ィルの鐘楼」の場合の如 き現在時 の感受性の もた
81 らす喜び と, 「一杯のお茶」 の場合の如 き無意志的記憶の もた らす喜びが同質 の ものだ とい う事になろ う。言葉を代えて言 うな ら知覚 の次元 と記憶の次元 と が深い親近性を持つ もの として考え られてい るよ うだ。だが何故そ うなのか ? 如何なる点で この二つの喜びは同質なのか ? Proust研究の第一人者 Hemi Bonnetは この二瞳の喜びを結びつけ るもの として知的な要 素を板入れた。 彼 に よれば, 「一杯のお茶」の もた らす喜びは,記憶の浄化作用に よ り過去の本
(6) ●●'●
質が純粋 な状態で捕え られた と意識す る ところか ら生れ る知的な喜びであるが,
●
他方, 「マ/レタ ンゲ イ/レの鐘楼」を始め とす る現在時の美的印象 も又 ,言葉にお きかえ られ る事に よってその本質をきわめ られ るのであ り,か くして無意志的●●
追憶 も美的印象 も同様 に吾 々に事象の本質を捕え させ, ここか らどち らの場合●●●●●
に も同質 の知的喜びが生れ る とい うのだ。だがはた してそ うだ ろ うか ? 無論 Bonnetの論ず る如 く,Proustは神秘主義者ではな く,彼に とって知覚な り記
(7)
憶 な りの与え る印象が,知的認識を通 して始めて完全 な もの とな りえた事は言 う迄 もない。そ もそ も 「書 く」 とい う行 為 自 体が.それが真 撃 な ものである 限 り.己 れ の 心 の内にすでに明確な形で存 してい る観念な り印象な りをその●●●●
ま ゝの形で筆に移す事ではな く,逆 に, 「書 く」 ことに よって吾 々は己れの印 象や観念を明確に規定 し,己れ 自身に対 してそれ等を明 らか な もの としてゆ く ものだか らだ。だか らProustの精神生活は究塩において 「知性」 の次元で統 一 され るとい うBonnetの論は正 しい。併 しこの よ うな知性的解釈が当面の吾 々の問題である 「知覚 と記憶の与 える同質の喜び」にまで持 ち込 まれ るめは無 理な論ではあるまいか ? 何故 なら,Proustの記述に従 うなら
,
「一杯のお茶」の もた らす喜びは過去時 の喚起以前に 「話者」に よっては っき りと感 じられて い るか らだeこの点だけを考えてみて もBonnetの論は正 しくない.
(8)
では如何なる意味で記憶の与え る喜び と知覚の与える喜びは同質 なのか ? 言葉をかえて言 うならProust精神 の二大横能 とされ る無意志的記憶 と感受性, 過去時の次元 と現在時の次元は どの様 な結びつ きを持つのか ? 先に掲げた <
?I.{・・tT・1i....4.7・.6:。:I":・.i..一川.・TTtTJr]:n:Lry・.,.iTFTm・Tr・.べヨ1司切欄欄笥j眉屈欄濁頂周頚1月jJ頂T・T・:JW..T・1.TTT題凋届欄Jj1̲
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82
囚れ の女≫ の一 節 に依 れ ば . 「精神 的現 実」 とい う言葉 の内 に当 面 の二 瞳 の喜 び が , 「パ ルペ ックの道 の並 木 」 の前 で感 じ られた 喜 び と共 に等 しく内包 され
(9)
てい る様 に 思 え るが, この 「精 神 的 現 実」 或 はた だ 単 に 「現 実 」 とい うProust に よ って多種 多様 な意 味 に使 ほれ てい る言葉 が , 「知覚
」 .
「記 憶」
,「想像力」 .
な どとい う諸 機 能 と どの様 に関 係づ け られ ,如 何 な る意 味 を与 え られ てい るか を一応 考察 の 目安 と しな が ら論 を進 めれ ば ,当 面 の問題 に益す る ところが あ る ので は ない か ? 以下 , この様 な観 点か ら論 を進 め よ う。
(註)
1)この拙論で, 「記置」 といえば Mgmoire〔FacuZtddeconserverleら id6es ant6‑
rieurementacquises〕を, 「追憶」 といえばSouvenir〔Impressim,ide'equela m6moireconserved'une impression pr6C6dente〕を一応意味す るもの とす る。併
しこの区別は厳格には守 られていない。何故な らこの様な分類 自体がはなはだ観念 的な もので,現実には M61nOireとSouvenirは一一体 とな ってい るものだか らであ る。だか らこそ,言 う迄 もない事だが,M6moireとい う語 とSouvenirとい う語は 上記の定義を離れて,混同して使われ るのだ。
2)RobertDreyfts :SouvenirssurMarcelProust,pp.287‑292・なおここに再録 され てい るProustの書簡の要点は邦訳 「スワンの恋
」,
Ⅱの 「あとが き」の部 分に, 井上究一郎氏の手によって相介 されてい る。3)Benjam in Cr6mieux:LaM6moiredeProustdamsDuc8t6dechezMarcelProust. lknjam inCr6mi eux:XX eSi占cle,p.41
4)平井啓之 :プル‑フ ト論, 「ランボ‑か らサル トルへ」中の‑論文,なおこの優れ た論に小生の拙論は多 くの暗示を受けている。
5)A laRechercheduTempsPerdu,tomeⅡ,p.374,同 じような記述はⅡ,p.886に も見 られ る。なお 「失はれた時を求めて」か らの引用に際 しては優れた現行邦訳に 主 として依 ったが,‑,二私訳を試みた箇所 もある。
6)Henria)met:L'Eud6monismeesth6tiquedeProust,PP.90‑110.特にSh s.Ouvenirsaffectifspursinvolontaire,SLe souverain bien,及 SLe s souvenirs involontairesetlesimpressionses血6tiques参照。
7)Henria)met:Ibid,pp・237‑258,iL'intellectlPlismedeProust参照, 8)TomeI,p.45.
9)いずれ後述す るがこの印象は普通 「偽 りの再認」 と呼ばれ るものである。
Ⅰ 無 意志 的追憶 の表 れ る箇 所
論 を始 め るに際 し, まず 「無 意 志 的 追 憶」 とい う現 象 が <失 ほれ た 時 ≫ の ど の よ うな場 面 に表 れ てい るか を考 え よ う。古 来 この現 象 を考 え る に 当 って,
:】' . ‑ILL.V ■'. ‑ ,‑'L. ノ/ ・ ・ ̲ L■ ‑、一丁
83 r一杯のお茶」, 「ア ドル フ叔父 の部屋」,「バJI,ペ ックの三本の木」. 「心の 間畝」,
「
≪見出 された時≫の諸体験」等 とい う限 られた場面のみが考慮に入 れ られがちであった。併 しこの拙論 においては, 「無意志的追憶」 とい う言 葉 で.上記の言はは 「特権的瞬間J,い さ ゝか神秘的に見え る諸体験 の場面 のみ でな く, よ り多 くの場面を示 したい と思 う。例えは,作品 冒頭におけ る眠 られぬ夜 々に続 く 「コンプ Vにおけ る幼時 の就 寝」 の場面の追 憶か らして,「話者」には兎角 として もProust自身にはは っき
(1)
りと無意志的追憶 と意識 されていた等であ る。 この事は ≪ジャン ・サ ン 十ゥイ ユ≫の≪サ ン ・ジェルマ ンの夕べ≫を一読すれば明 らかであろ う。 こ の 節 モ Proustは,母が 「お休みの接吻」 を Lに来 て くれないた めt/こ悩む幼い ジャン の姿 を描いた後に. 「こ うした幼時 の瞬間は彼 の心の金属板 に鳴 りひびいた の だ った。 その とき発 した音は,彼 の,むが固 まった ときには一層重 々しく,ひび 入 った よ うに深みを増 し.遂には ジ ャン自身の音 とな っていつ まで も残 った の である」 と述べ, さ らに ジャンが大人 とな ってか らも日頃の習慣 と異 った就寝
(2)
の仕方をす るとど うして も寝つかれない事を述べた後で次 の様 に説 明 し て い る, 「躍起にな ってあす の朝の ことを考えなが ら孤独 と暗黒か らのがれ よ うと して も無駄であ った。彼 の幼時 の魂,眠れない子供の ころの慰め られ ない魂が きまって影の よ うに立ち もどって きて,彼 の周囲に,鋭い,だがなつか しい叫 びを発す るのだ」 と。 この文を考慮に入れ るな ら≪失われた時≫ 冒頭の 「幼時
(3)
の就寝」 の場面の追想が.GermaineBr6eの指摘に も拘 らず,Proustに とっ
(4)
て無意志的追憶の一例であ った事は明 らかだ。
別の例をあげ よ う。 <ス ワン家 の方へ≫ の琴三部で,「話者」は幼年時代に シI ャン・ゼ 1)ゼ公園で ジルベJI,tと遊んだ時の事を回想 し,天気 が悪い と遊べなか った ので朝早 くか らバル コニ ーに映え る陽光に一喜一憂 した事を想い出す ので あるが, この追想 とて この場面 の原形である<時評集≫ 中の一文 ≪バル コニー
の上の陽光≫を考慮に入れ ゝは Proustに とって無意志的追憶 と意識 された事
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〜…議 :‑̲71頭 潤:〜;・・..f・,...'.4...4'・.g7..r・W・.e・.Tr.TTT・W.PWヨヨーバ」竃.雪月1一題qtmyTT.TV...r。.jq遥11で.gqd一一'11一'一
一題欝磯滞 貰.LrTf・′古7Fせ鷹野野腎洋三叩‑帯常時‑‑m',轡警甲巧1√門号づ婿 耶 撃‥聯 軍野 ゝ
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84
は明 らかだ。この文で もProustはやは り≪ ス ワン家の方へ>・の場合 と同様 ,/i ル コニ ーに映える陽光か らシャン ・ゼ リゼ時代を追想す るのだが, この文の最 後に次 の様 な重要な言葉がある, 「ついで人生が も う何 も喜びを もた らさな く なる日がや って来 る。だがその時,喜びに同化 した陽光が吾 々に喜びをかえ し て くれ る。時 のたつ うちに吾 々は陽光を人間化 しえた のであ り,陽光は最早吾 々に とって幸福 の追想以外の何物で もな くなるのである。 そ して陽光の輝 く現●●●●●●
在 の瞬間 と陽光が想い出させ る過去の瞬間 と同時に吾 々は喜びを味 うのた。 と●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
言 うよ りかむ しろ二つ の時の間に.時 を超えて,陽光は永遠の喜びを兵に作 る●●●●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●●■●●
のだ」 と。 この説明は
「 <
見出された時>の諸体験」について話者の下す説明 (5)と同 じではないか。
あるいは.聾者が こ ゝに掲げた誰で もが体験 し得 るよ うな二例に比 して.古 来 「無意志的追憶」 の例 として示されて きた「話者」の体験 があま りに も特異だ
と思えるか もしれない。併 しそれは本質的な事ではない。いずれ後に論 じ右が.
無意志的追憶 とはな る程 ある外的対象や状況を媒介 として喚起 されはす るもの の,それは決 して受動的な機械的な現象ではな く,主体の生命の横転的な営み なのである。 そ して上述 の二例 と古来か ら例の違いは現実の外的状況‑ 例え は 「バル コニ ーの陽光」 とか 「一杯 のお茶.」‑ と.喚 起 され る世界‑ 「パ ル コニ ‑の陽光を気に していた幼時 の己れの姿 と,公園で女友達 と遊んだ楽 し い 日々」 とか 「幼年時に コソプ レで過 した生活」‑ との間に存す る関係が強 いか弱いかの差に帰せ られて しま うのである。そ して関係の弱い場合は関係の 強い場合に比 して,主体の生命の横転的干与が よ り強い とい うだげ の事であ り,●●●●
本質的な差異はないのだ。
(6)
要す るに作者 Proustの立場か らすれば<失われた時>,は無意志的追 憶.特 権的瞬間で満ちてい る。ただ 「話者」は この事実にあま り気づかないのであ り.
それ故に又無意志的退 隠 とい う現象が 「話者」に よって正面切 って板上げ られ る事 も少 く,吾 々に説明され る事 も少いのだ。いや, 「想い出され る話者」に
ヽ芦 ヽ1
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1
せ よ 「想いだす話者」にせ よこの事実にあま り気 づかない とい うだ け で は な い.気 づいてはいけない場合だ ってあるのだ.例えは≪時評集>における上述 した Proustの言葉を,≪ス ワン家 の方へ> で 「想い出す話者」が 口にす る事 は許 され ない。 それは≪見出 された時≫に到 るまで許 されないであろ う。 その
叩)
様 に作者に よって 「話者」はあやつ られてい るのだ。だか ら Proustの精神 の営
(8)
みを対象 とす る吾 々は 「話者」の立場に こだわ る必要はないのである0 (註)
1)TomeI,pp.9‑43
2)Jean SanteuiltomeI,p.70なお井上 ・島田 ・鈴木氏訳を信用 した.
3)Ibid.p.71
4)Gem aineBrae:DuTempsPerduauTempsRetrouv6,p.78 5)Chroniques:p.104
6)あるいは人は 「歓喜」を もって古来か らの 「無意志的追憶 」の場面の特質 とす るか もしれない。併 しそれは当 らない。何故な ら 「心の間飲」の場面に「歓喜」は存 し ないではないか。
7)だか らこそ,≪失われた時≫は冒頭 と結末が一致す る円環的小説だ とす る通説は Br6eの論ず る如 く誤 ちである.cf.Brae:Ibid.p.27
8)なお この作において作者の介入が一番は っきり表れ るのは 「比愉」を述べ るとい う 形 を取 ってである。 この事は昌頭か ら明 らかだ。
Ⅱ 「現実」 と 「追憶」
さてこの様 な広い意味での 「無意志的退 隠」 と 「精神的現実」 との関係は ど うか ? まず テクス トを掲げ よ う。≪ ス ワン家 の方へ≫で 「話者」は次の様に 回想す る。 「・・・・・.だが,私は メゼグ 1)‑ズの方やゲルマ ン トの方のことを,心 の地盤 の最深層 ,い まなお私の よ りか ゝる,堅固な地盤 と考えないでは一.、られ ない。 この両方の道で知 った物や人だけが,今で も私に とって真実なまじめな 存在の よ うに思われ,喜びの種であるわけは.その両方の道を歩 き廻 っていた 頃に.私がそ うした物や人を信 じきっていたか らにはかな らない。創造す る伝 念が私のなかで滑れはてて しまったためか.それ とも現実が記憶 のなかで しか●●●●●●●●●●●
形成 されないためか.今 日,初めて眼にす るよ うな花は,私に とっては,真実
●●●●●●●●●
の花ではない よ うな気がす る」 と。
(1)
T;tL.'1[...'.1'.AT.?・rr.‑[・・TT・'r'..A".::議ぺ還唱'頭領8叩項ヨ題唱噂瑠17PTT.'・T.yvpm・FT当欄∃一周周月川13憎j壇遷「jF#E7,.=頚11予当‑
、ヽ(イJl 86さて「現実」は「記憶」のなかでしか形成されないと説くこの件りにおいて.逆説的ではあるが,Proustが「記憶の内に存する世界はすべて現実を構成する」とは言っていない事に注意せねばならない。「今日初めて眼にする花」のみが「真実の花でない」だけではない.昨日見た花でも.幾年か前に見た花で 〜 も「真実の花」と思えない事もあろう。つまり追憶の世界が「現実」を構成す ●
るためには.まず第一に,その世界が実際生きられた時「信じきられる」必要があるわけで,言いかえるなら過去において意識的にせよ無意識裡にせよ密度高く生きられた世界のみがProustの精神的現実を構成する素材となりえ,Proustの現在の精神をなおも惹きつけるのだ。それは少年時代に親しんだコンプVの自然であり,ヅヤy.・ゼリゼ公園で愛したジ/レベ/レトであり.又バ/レペックの海と乙女達,ゲルマント家を中心とする社交界と同性愛の世界,それにア/レベ/レチーヌへの恋と苦悩.更には芸術の世界でもあろう。Proustは己れの作品のあまりにも細かな描写をある評者から非難された時,その的外れな非難を欺いて,「私の作中人物は誰一人として窓を開けたりなぞしません」と答えた事があるが.Proustは己れの生命に強く結びついた世界は徹底的に知る必要を感じた代りに,自余の唯単に些細な事象,自己の生命に深い結びつきを持たなかった事象は全く顧みなかったのだ。この事は必然的にProustをして客観的.外的対象を知るという道よりも,己れを知るという道へと進ませるであろう。自分がかって「信じきった世界」を知るという事は,且って生きた外的世界を記憶の内に捕えるという事を一方で意味するのは無論であるが.それと共に,その世界を己れにとって重要ならしめその世界を媒介として自分白身に明らかにされた己れの生命それ自体を知るという点にこそ重点がおかれる事は明らかだ。Proustは次の様に言う,「吾々は諸事物のなかに.吾々の精神がそこに投げかけた反映を探し求めようとするのだ」と。かくして「迫 (2)
憶」の内に求められる「現実」とは過去の「物」や「人」であるよりは.この 「物」や「人」に対して抱いた「信頼の気持」,「己れの精神の反応」そのも
87 のだ といえ よ う。例えは ,幼年時の読書を語 ろ うとす るたび ごとに,Proustの輩 が ,幼時の読書そのものではな く.読書に結びついた幼時の豊かな精神的感情生 活を描 く事にな って しま うのも, この事を考えれば十分納得がゆ くであろ うし, 又,Proustが 自然を描 く時印象主義風になるの も同 じ理 由か らであろ う。併 し, この 「現実」を何故 Proustは 「追憶」の内に求めるのか ? この 「現実」が, その根本において己れの生命の発露 とい うよ うなはなはだ現在時的性格を持 っ ているのに,その 「現実」を何故 Proustは過去時 の次元に求め る の だ ろ う か ? その理由は この 「現実」が 「客観的現実」 ではな く 「精神的現実」だ と い うその点に まさ しく存す る。吾 々は己れの本質を直接的に把握す る事は出来 ない。 それは外的状 況を媒介 とし,その状 況 と一体 とな って発露 され る ものな のだ。だがその場合で もなお, この生命の発露が,まるで物質的に決定 された 不動の客観的対象の如 く.吾 々の意識に よ り直ちに.決定的に把握 され るとい う事は少い。吾 々の本質は,生命の昂揚の練返 しの内に,徐 々に吾 々に意識 さ●●●
れ るのであ り,更に又昂揚の瞬間か ら一歩退いて, この瞬間におけ る外的対象 と吾 々の精神的反応に記憶の内で慣れ親 しんで こそ捕え うる ものなのだ。 この 事実を Proustは次 の様 に述べる, 「私は 自分 自身の奥底にあるものに, 現実 のなかで到達す ることの不可能なのをあま りに もこれ まで体験 して きた のだ っ た。 ‑‑私が動かぬ ものに しっか りとどめ よ うと考えていたそんな印象は,症 接 その場に臨んで触れ る段にな ってみ ると,ただ消え失せて しま うはか りで, うま く引 き出す ことが出来 なか った。 そんな印象を. よ りよ く味 うただ一つの 方法は,それ の見出され る場所,即ち私 自身のなかに於いて, もっと完全にそ れに馴染み,それの奥底 まで明る くす るよ うに努めることだ った」 と。
(4)
以上を一応 まとめるな ら,Proust的 「現実」が形成 され るためには ,まず 第
‑に彼が己れの生命を激 しく燃や した とい う事が前提 とな り,ついでその 「現 実」 とは燃や された生命の 「対象」である よ りも,その 「対象」を媒介 として 明 らかに された己れ の生 命それ 自 体であ り,そ してその 生 命は己れの本質を
frvf.・Tn.I..rJL.;・tJbT.I.孝.し・ノ‑
''i一環 ヽ叫
・ミt*・芸き .、≠
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88
明 らかにす るために 「追憶」 の世界でな じまれ る必要が あるのだ。 ス ワンの次 の言葉は以上の 「現実」 の定義を具体的且つ集約的に示 している, 「.・・‑・・・も う それ らのこと亡以前恋を していた時の色 々な こと〕に執着 しな くな ってか らも, そこに執着 した とい うことは絶対に どうで もいい とい うわけではない, とい う●●●●●●●●●●●●
の は そ れ は他の人 々にはわか らない理由のためだ ったか らだ。そ うい う感情●●●●●●
の記憶は否 々の中だけにあることを吾 々は感ず る,それを眺めるには否 々の心●●● ● の中に入 って見な くてはな らない・・‑‑」 と。
●●●●●●●●●'●●●●● (5)
だが, Proust的「現 実」が一応は この よ うに考え うるとして も. この「現実」
が, この節 の冒頭に掲げた文に見 られ る如 く
,
「話者」に とって「今で も真実なま じめな存在 と思え.喜びの種であ一り」 ,又 .スワンに とっては ,過去の感情 の記 憶が今で も 「絶対に ど うで もいい とい う訳ではない」 ものである以上,過去時 におけるProustの生命の発露や過去の感情 に関す る記憶が現在時 の彼の生 命 に も秘かな関係を もつ ものでないか とは十分想像 され うる点だ。つ ま りProust 的 「現実」は単に記憶の次元 と結びつけてのみ解 さるべ きではないのだ。 ある いは,言葉を代えて言 うな ら,Pmust的 「追 憶」そのものが,否 々が常 識 的 な意味で考えている退 隠とい う現象 ‑ つ ま り過去わ体験がそれ 自体で充足 し て現在時 の主体の生命 とは直接関係な く回起 され る‑ をは るかに超え るもの なのではなかろ うか と考え得 るのである。だが こ ゝで節を改め よ う。(註)
1)TomeI,p.184 2)TomeI,p.87
3)Cf.Journ6esdeLecturedamsPastichesetM61anges,JeanSauteuil.tomeI, pp.172′‑188
4)TomeⅡ,p.877 5)TomeⅡ,p.703
Ⅲ 「現実」 と 「想像」
前節 の結論か ら否 々は直ちに Proustの 「現在時」に言及すべ きか と思える
、■'''''?:・・( トー、ハ、一一Y・/7了 /'1‑'・÷一∴:将1‑I.、 ー'・I'‥.吋 ヾ‑〜.I‑ ̀.‑.117、.・㌣・.・."./・;"
89 が.併 しその前に本節 では.識者に よって よく問題 とされ るProustにおける
「想像力」の問題を と りあげて,彼 の言 う 「想像力」 とは如何なる機能を持ち, 又如何なる位置を Proust的 「現実」 において占め るかを明 らかに しておきた い.何故 な ら, この点を明 らかにす る事は吾 々の論 を進めるに当 って決 して無 益な ことではないか らだ。
さてProustにおけ る想像力が,未知の世界,未来時を指向す るとい う常 識 的な意味での機能の他に,過去を美化す るとい う機能を持 ち,そ して前者の横 能 よ りも後者の機能が重視 され るべ きであるとは平井氏に よ り鋭 く指摘 された 点である。だが拙論 を進めるために,又論述 の方法において氏の論 と少 々異る
(1)
点 もあるた桝 こ,以下 このす でに指摘 された正論 を自分な りに も う一度繰返そ う。
≪失われた時≫を手に した読者は ,幼い 「話者」の夢想が どれ程激 しく未だ見 ぬ人,見ぬ土地に向け られ るかをいや とい う程知 らされ るであろ う。Proustは
<失われた時>・を出版す るに当 ってその第‑巻を 「名の時期」 と越 したい と考 えた時 もあった よ うだが,幼い話者の想像はまさしく 「名」を己れの想像 力が 働 きかける母体 としなが ら,幻想的な世界を構成す るのだ。 これは 何 も 幼 い
「話者」にのみ言はれ る事ではな く,成人 した 「話者」に も共通す る現象であ り,言いかえれば Proust自身の運命で もあったのだ。 <S:ソ ドムとゴモラ参で
「話者」は 自分が嘗 って愛 した幾人かの女性を思い出 しなが ら次 の様 に反省す ち. 「現実性の大部分が私の想像力のなかに存す る幻影や人 々しか追い求めな い事が私の運命だ った」 と.そ して,事実≪失われた時>は未知の世界に投げ
(2)
かけ る 「話者」の想像 とその幻滅 とで満ちているのである。
この よ うな 「話者」 の‑ ひ いては Proustの‑ 性格に も拘 らず, 何故吾 々は未来を指向す る想像力を問題 としな くて もよいのだ ろ うか ? それは普通 言はれ る如 く,己れの過度 の想像力のため ,実人生において Proustがいつ も幻 滅を味わい,そのため未知を鹿 向す る想像力の機能に彼が信をおかな くな った
ゝ
項 .‑.:義
:,e・・〜:・チ・!・:‑・・・‑,i・・・・・・・*・・・・・・.・・・・・・・・!・1、1・・一・一J・t'・・・・・・・・I・一項∃一11jl:..‑.I.rT.ML′
誓 ,‑.1▲ ̀、.i‑'軒 1 1r モー1‑r'・ I '1 1
90
か らではない。想像力過剰 とい うよ うな個人 の生命の本質を形成す る機能は, た とえその機能のた めに絶えず彼が幻滅を味い,又その機能に信をおかな く,な った として も.やは り彼 の内において働 き続け るであろ う。 それ故 .一個 の人 間 としての Proustを全体的に問題 とす るにあた っては, これはなん とい って も重視されねばな らない機能だ。だが作家 としての次元か らこの間題を考えれ ば問題は少 し違 う。作家 としての彼は, 「実人生に よって内心に刻み残 された 思想は, どんな思想であろ うとも,それ らの具体的な形象,即ち印象の痕跡が あ くまでその思想の必然的真実性を保証す る」 と述べて,この様 な具象的真実
(3)
性に裏打ちされた思想のみを作品に定着せん と願 ったのである。 そ して こ ゝに 未来を指 向す る想像力が Proustに とって問題にされ なか った理由が存す るの だ。つ ま り,更に PfOuStの主観に近 く立 って この事を言いかえれば, 吾 々ほ 前節 で Proust的 「現実」 を構成す る原因 と して 「彼 の 生 命 の発 露」 とい う 点をあげたが .未来時 とは己れが未 だ存 しない次元であ り,己れ の自我が外的対 象 と出会 って発露 され ない次元である故に問題 とされ ないのである。 そ して こ の よ うな未来を指 向す る想像力の働 きは.その働 きが過去の彼の人生において もた らした悲喜劇 と共に ,彼の生命 の発露 として回顧的に作家 としての●●●● Proust に重視 され るにす ぎないのである。そ して こ、ゝか ら,未知 の世界へ の 「話者」
の憧れ と幻滅に満ちた≪失われた時>・全体が ,作家 ProuStに とっては 退去時 の昇華 として捕え られ てい るとい う現 象が生れ ることになろ う。
(4)
さて未来を指向す る想像力を重視す る必要がな くな った今,過去を美 化す る想像力に焦点を合は し, この想像力の本質が如何 なる点にあ り,又,Proust 的 「現実」 において如何なる位置を 占め るか を明 らかに しよ う。まず <S:囚れの 女>か らテ クス トを掲げ よ う。
「7ルベルチーヌの遠出に随いて行かなければ,私の心は却 ってひ ろび ろと さまよいでる。 この朝を感覚 に よって味わ うことを拒否すれば,これ と同 じあ
J■王さ '‑
′ ● ・.' ,Lり・ . ・t '':㌣ ■. ■町 ∴、∴
91 らゆる朝 .過 ぎ去 った朝.可能な朝を想像 のなかに楽 しむ のである。 もっと正●●
確に言えは朝 の一つの型を楽 しむのであ り,同 じ瞳操のすべての朝は この型 の 間歓的な現れにす ぎず. しか もその型 の朝を私はす ぐさまそれ と認めたのであ った。 ‑‑この観念 の朝は, このよ うな凡ての朝 々と 同一な. 永 遠 の現実で●●
私 の 精 神 をみた し.病気 の状態に もめげぬ歓喜を私に伝えて くれ る の だ っ た」 と。 この文は全 く重要であるが.否 々は この文を二つに分けて 解 釈 し よ
(5) う。
1)まず否 々は この文で 「知覚界 」 と 「想像界」 とが対立的に考え られてい る事を知 らされ る。知覚 と想 像 力 とが意 識 の異 った二つの型 である こ と は Sartreが十分論証 した点であるが, Proustも又内省的直観 でこの事実を知 っ
(6)
ていた。つ ま り知覚意識は知覚対象 と強 く結びつ き対象に投入す るものである (7)
故に. アJt,ベJt,チ ‑ヌについて遠出に行けは 「朝」 を感覚的に.断片的に しか 味わえず.心が広 々とさまよいでて.想像力が 自由に発露 され る事が不能 とな るわけだ。だがそ うはい うものの,否 々は この点を よ り正確に論 じるために更 に引用 を重ねねばな らない。
幼年時に夏休みを過 ごした コソプ レの自分 の部屋を追想 しなが ら. 「話者」
は <S:ス ワン家の方へ≫で こ う述べ る. 「そんな部屋のほの 暗 い涼 しさ と 街 頭 の 日向 との関係は, さなが ら影 と光 との対照であ り,言葉をかえていえは.ほ の暗い部屋の涼 しさは.街頭の 日向同様 に明禄で私の想像力に夏 の光景を十全 に伝えて くれ るのであるが. これが もしも私が散歩 に出ていたのであれは,私 の感覚は断片的に しか夏の光景を楽 しめなか ったにちがい ない」 と。状 況は先 の引用文 と全 く同 じだ。 そ して こ ゝで注 目すべ き事は 「話者」が夏の光景に結 びついている 「̀ほの暗い部屋の涼 しさと街頭 の 日向」を感覚 で味わ ってい ると い う点であ り, このよ うな意味におい ては先の引用文の箇所にお い て も 「話 者」が 「朝 の感覚」を実際に味わ っている事は疑いえないのである。 この<囚 れの女>か らの引用文のす ぐ前に否 々は次 の様 な言葉を見出す. 「喜びを味わ
溺 凋F欄rP 感潤 欄 潤欄 篭憎 絹欄欄閉 僧腰 謂 唱欄周潤周頚眉闇濁闇欄眉項笥同 周欄周題濁欄濁竃題欄澗周周碩潤潤 肇澗 頂 欄濁唱欄頂欄題遇欄欄周欄周濁題摘眉欄葛
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お うとす る自分勝手な欲望‑ 気 ま ぐれな.純粋に私ひ とりの気持だけでは, 喜びを手近かに引寄せ ることはで きなか った ろ う。 そのためにはiその時 々の 特殊 な天候が, こ うした喜び の過去の追憶を私の心に呼び さま して くれ るばか りでな く‑‑‑喜びの実際の存在をは っき り告げて くれ なければな らないのであ る」 と。
(9)
この点は見逃 されてはな らない。人間は言 うまで もな く全 く受動的に感覚の 世界を受入れ るわけで もなければ.又逆に想像的意識が外界 と全 く独立 して盗 意的に働 くわけ で もない。如何なる場合 において も,吾 々の意識 とは感覚 の次 元 と想像の次元一 言葉 を変 えれば吾 々を坂巻 く外界 と,物質的 決定か ら解放 された吾 々の内的生命‑ とが互いに作用′しあい.融合 しあってい る世界 なの
だ 。 「一杯 のお茶」を始め とす る幾度か の特権的瞬間 も何等かの意味において 外的媒 介を必要 とした如 く,上に引用 した 「話 者」 の想像的意識 も又 それを砺 巻 く外的状況 な しには起 りえなか った事は明 らかである.そ して特 に Proust の如 き感性 の豊かな人間にあっては,想像界 も無論 大切ではあるが ,それ を背 後か ら支 える程度において知覚界 も又必要 であ った とは言い得 るであろ う。
2)さて この様 に知覚 で支え られてい る彼 の想像力は過去に向け られ る。 な る程文 中に 「可能な朝」 なる文句が見出され るが, この 「朝」は 「過 ぎ去 った 朝」 と同質な朝である以上, 「想像の内で渠 しまれ る可能 な朝」 とは完全 に未 知な,盗意的 な朝ではな く.少 くともそれ と同質の朝が過去 において十分体験 され ている朝なのだ。 この文 の重点が 「過 ぎ去 った朝」 におかれている事は明 椋 であ り, ここで Proustの使 う 「想 像」 とい う語を 「記憶」 とい う語にお き かえて もおか しくない事は明葦 であろ うO言 葉をかえて言 うな ら.Proust的 想像力 とは人間精神 の慈意的 な自由性を端的に示す もの として考え られ てい る Sartre的想 像力 とは異 るのである。 Sartre自身 こ う述べ る, 「追 憶の定 立 作用 とイマ ージュの定立作用 との間には本質的 な違 いが存す る。 もし私が過去 の生活の一事件を想起す る とすれば,私はそれ を想像す るのではな く.それを
93 憶い出す のである。す なはち私はそれを不在の所与 (donn61absent)としてで はな く過去における現実 の所与 (donn6‑presentaupass6) として 措定す るの
」山川「'だdL
と。そ して Proustにおける想 像界が donn6lPr6Sentaupass6を特質 と 自分の想像に浮ぶ世界が過去に実際に存 した とい う深い実在感を特質 とし ている事は明 らかだ。
では何故 こ ゝで 「記憶」 とい う言葉が使ほれないのか ? こ9点は Proust に とってはあるいは言葉の問題で しかなか ったか もしれない。併 しあえてい う な ら. 「記憶」が常識的にはある特定の時間的空間的な枠を持 った事象を喚近 す るものであるのに反 し,今の場合想像の内に楽 しまれ る世界が この種の枠か ら解放 された「朝の一つの型
」 ,
多 くの 「朝」 に共通す る「朝の本質」とい うふ う に考え られ る性質の ものだか らである 。そ して元来 自然現象間に鞍似性は存す るとして も,
「朝 の一つの型」とい うものは Proustの感性がそ うと認めて こそ, その様な 「共通性」が多 くの朝の間に認め られ るもの故, 「想像の内に楽 しま れ る朝 の本質」 とは過去か ら現在に到 るまで変 る事な く続 き,時 に応 じて無意 志裡に,間歌的に発露 され るProustの梶本的感性の‑形式だ と考え られ よ う。この点は重要だ。吾 々は前節 で Proust的記憶が感情 の記憶であることを 速 べたが.感情 の記憶であ り己れの生命の発露の回帰であるとい うまさにその理 由に よ り. この記憶は過去 のある特定の客観的事象に結びつ くことな く,常識 的 な意味 での記憶の枠を超え,彼 の感性の‑形式の発露せ る諸瞬間を内包す る のである。だか らこそ先にあげた引 用文で 「話者」は凡ての朝に共通 な 「永遠 の現実」を感ず るのであ り,そ し.てこの 「永遠の現実」 とは Proustの梶本的 な自我の発露に他な らないのだ。
以上を要す るに Proust的 「現実」 とは単に前節 で述べた如 くある過去時に おける自我の解放に とどまらず.その自我は時間的空間的 な枠を こえて発露 さ れ る彼の変 らざる自我の‑形式なめである。そ.Lてこの自我?発露が現在時 に おいて回帰的に捉え られ る際.その回帰 を うなが し支 えるもの としての役を現