退職給付制度における企業の選択動機
退職一時金は「暗黙のリスク移転」か?
柳 瀬 典 由
■アブストラクト
本稿の目的は,わが国の確定給付型の退職給付制度における企業の選択動 機について,2000年度から2010年度までの上場企業のデータを用いて実証的 に検証することである。具体的には,事業主である企業の立場から,内部留 保型の退職一時金が外部積立型の企業年金制度に対してどのような優位性を 持ちうるのかという点を論じたうえで,退職一時金のみを採用する企業が有 する財務的特徴を探る。検証の結果,退職一時金のみを採用する企業の特徴 として,⑴規模が小さく,⑵レバレッジが高い一方で手元流動性や現金保有 が高く,⑶キャッシュフローの収益性が低いという点が浮き彫りになった。
これらの結果は,退職一時金のみを採用する企業が退職一時金の原資である 安価な内部資金を活用することで流動性リスクへの備えを行い,その結果,
株主から従業員への 暗黙のリスク移転 が生じている可能性を示唆するも のである。
■キーワード
退職一時金,企業年金制度,暗黙のリスク移転
本研究は,東京経済大学2012年度共同研究助成費による研究の一部である。
*平成23年10月23日の日本保険学会大会(神戸学院大学)報告による。
/平成24年10月23日原稿受領。
1.はじめに
退職給付制度の設計は,人的資源管理や税務戦略,財務政策に関わる企業 の重要な意思決定課題の一つである 。本稿では,退職一時金のみを選択す る企業の財務的特徴を明らかにすることで,確定給付(Defined Benefit,
DB)型の企業年金制度と退職一時金の選択動機を実証的に検討する。
わが国では退職一時金は古くから存在してきたが,税制上の優遇措置を盛 り込んだ退職給与引当金として制度化されたのは1952年のことである。制度 の創設当初は,引当金繰入額の全額が課税所得算定上の損金に算入されてい たが,その後は段階的に優遇措置が縮小されてきた。そして,2002年の税制 改正によって,退職給与引当金そのものが段階的に廃止されることが決定さ れた。これにより,退職一時金における税便益は事実上消滅することになっ た。
他方,戦後のわが国の企業年金制度は退職一時金の原資を企業年金制度へ 移行する形で始まったが,その本格的な発展には当時の税制が障害となって いた。当時の税制では,企業の拠出する掛金は損金算入されず,他方で従業 員の課税所得が過大に算定されてしまい,毎期の手取り所得が減少してしま うという事態が生じていた。また,折からの高度成長期で退職一時金の支給 額も増加傾向にあったことから,その支払負担の平準化を求める声が経済界 からあがっていた。こうした税制上の問題を解決して本格的な企業年金制度 の普及を図るために,1962年の法人税改正によって,掛金の100%を損金算 入することができる社外積立型の適格退職年金が導入されることになった。
その後,適格退職年金に加え,1966年に創設された厚生年金基金の二本建の 体制でわが国の企業年金制度は発展し,21世紀に入ると新たに確定給付企業
1) 本稿では確定給付型の退職給付制度内での制度選択の問題を直接の考察対象 とする。したがって,確定拠出型と確定給付型の企業年金制度の選択問題等に ついては射程範囲外とし,今後の研究課題とする。
脚注が入らないため,アキを作成しております。
年金が制度の中核に加わることになった 。いずれの企業年金制度において も,事業主である企業の掛金に関しては全額損金算入が認められており,こ の点,段階的に優遇措置が縮小されてきた退職一時金とは異なる特徴だとい える。
また,内部積立型であるか外部積立型であるかという点も,退職一時金と 企業年金制度の特徴的な差異である。退職給付債務に対応する原資を企業経 営上の資産や負債とは独立した勘定で積み立てる外部積立型とは異なり,内 部積立型の場合,退職給付の原資に対する経営者の裁量の余地が大きい。既 に述べた通り,戦後のわが国の企業年金制度は退職一時金の原資を企業年金 制度へ移行する形で普及が始まったわけだが,当時の大半の企業は全ての退 職一時金原資を企業年金制度に移行する全部移行ではなく一部移行で対応し たといわれる。企業年金制度に移行する際には,既発生の退職一時金の支払 いに見合った資金を外部に拠出しなければならないが,高度成長期の最中に あった当時の企業にとって安価な内部資金の確保は重要な経営課題であった。
そこで,多くの企業は退職一時金制度の一部を企業年金制度に移行するに留 め,退職一時金の原資を企業経営上の内部資金として活用したのである。
以上の歴史的経緯をふまえ,企業が退職一時金を選択する動機について要 約すると,以下の2点にまとめられる。第一に,税便益の享受である。戦後 長らくの期間,税制上の優遇措置が退職一時金にも存在してきたわけだから,
節税効果の便益は一つの重要な動機であったと予想される。実際,1960年代 以降に企業年金制度が普及しはじめた際,多くの企業が企業年金制度に全面 的移行しなかった原因の一つとして,当時の退職給与引当金における税制上 の優遇措置が影響していたと指摘する研究もある(伊藤ほか,1997)。
第二に,安価な内部資金として退職一時金の原資を活用することができる という便益の享受である。そもそも,退職一時金の名目でプールされた引当
2) 2001年の確定給付企業年金法の成立に伴い,適格退職年金については原則的 に2002年4月以降の新規設立が認められず,2012年3月をもって廃止されるこ とになった。
金は,外部積立を旨とする企業年金制度とは異なり,退職給付債務に対する 資産の積立に関する規律付けの仕組みとしては脆弱である。どの程度の積立 水準が維持されているのかを外部から客観的に把握することは困難だからで ある。また,退職一時金の原資を退職給付目的以外の使途に利用することも 許容される。資金調達順位に関するペッキングオーダー仮説に基づけば,こ れは低コストの資金調達手段である内部資金を従業員から調達しているとい うことに他ならない(Myers/Majluf,1984 ほか)。別の見方をすれば,暗 黙の雇用契約下における従業員から株主への 富の移転 あるいは,株主か ら従業員への 暗黙のリスク移転 という現象が,退職一時金を選択するこ とによって顕著に生じている可能性がある(Ippolito,1985;Rauh,2009 ほか)。
Yoshida/Horiba(2003)は退職一時金からDB型の企業年金制度への移 行動機について主に税便益の観点から実証的に検討した最初の研究であり,
本稿と直接的に関連する重要な先行研究である。彼らの議論を要約すると以 下のとおりである。退職一時金と比べ企業年金制度の採用には税便益の享受 というメリットが相対的に大きい。ところが,そもそも将来利益が十分に期 待できない企業においては掛金の損金算入をする合理性が小さいので,節税 メリットはさほど生じない。そうであるならば, 企業年金制度に移行する という経営者の行動には,経営者しか知る余地のない企業の将来の利益期待 に関する情報,すなわち,経営者の私的情報が顕示されている可能性があ る 。そこで,Yoshida/Horiba(2003)は,1975年から1995年までの日本 企業を対象として,退職給付制度の選択という経営者の行動が当該企業の株 価に与える影響をGARCHモデルに基づく推計手法を用いて検証した。実
3) 特定の企業年金制度の採用や制度間の移行という経営者の行動が私的情報を 顕示するだけでなく,一旦選択した制度のもとでの経営者の行動もまたその私 的 情 報 を 捕 捉 す る 可 能 性 が あ る。例 え ば,柳 瀬 ・ 後 藤(2011)や
Goto
/Yanase
(2011)はDB
型企業年金の積立政策が将来の株式リターンを予測す ることを示しており,その解釈の可能性として経営者の私的情報による経路に ついて論じている。証分析の結果,退職一時金から企業年金制度への重要な移行動機として税便 益が重要な役割を果たしている可能性を論じている。
ここで次のような問題意識が生じる。先行研究で議論されたように,退職 給付制度の選択において税便益の制度間差異が重要な要因であるとするなら ば,特に最近時においては退職一時金の税制上の優遇措置は事実上消滅して いるわけだから,退職給付制度全体に占める退職一時金の割合は急速に低下 するはずである。ところが,実際には,退職一時金のみを採用する企業が退 職給付制度に占める割合が2000年代を通じて一貫して増加しているのである。
本稿ではこの興味深い現象をふまえ,2000年代のわが国上場企業のデータを 用いて,退職一時金の選択動機について検討を行う。
2000年度(2001年3月期)から2010年度(2011年3月期)までの東証1部 および2部に上場する全ての企業(金融・保険を除く)を分析した結果,退 職給付制度内で退職一時金のみを採用する企業の特徴として,以下の点が明 らかになった。一つ以上の企業年金制度を有する企業と比べて,退職一時金 のみを採用する企業は,⑴規模が小さく,⑵レバレッジが高い一方で手元流 動性や現金保有が高く,⑶キャッシュフローの収益性が低いという点である。
この結果は,退職一時金のみを採用する企業が退職一時金の原資である安価 な内部資金を活用することで流動性リスクへの備えを行い,その結果,株主 から従業員への 暗黙のリスク移転 が生じている可能性を示唆するもので ある 。
論文の構成は以下のとおりである。第2節ではわが国の退職一時金を取り
4) ロイターニュース(2009年5月25日付)が,欧州金融危機における信用収縮 とドイツの退職金制度との関連性について興味深い視点を提供している。記事 は,大手保険ブローカーのエーオン(AON)のコメントとして,ドイツ企業 が欧州金融危機のなか比較的軽症ですんだ一つの理由として,ドイツ企業の多 くが内部積立型の退職金制度を採用していたため,それが一時的・急激な流動 性ショックを吸収したのではないかという見解を紹介している。詳しくは,
European “reserve”pensions weather crisis, Business & Financial
News, Breaking US & International News, Reuters. comを参照のこと。
巻く制度的背景を要約し,第3節では議論したい問題の所在を明らかにする。
第4節では本研究の主題でもある株主から従業員への 暗黙のリスク移転 に関する議論を行う。第5節では分析対象とするデータの説明と若干の分析 結果を報告し,第6節では本稿の結論と課題について簡単に述べる。
2.制度的背景
. . 退職一時金から企業年金へ
わが国では退職一時金は古くから存在しており,江戸時代の暖簾分けがそ の起源ともいわれる。しかしながら,事業主による従業員に対する退職後の 金銭給付という意味における退職一時金は,明治以降の近代化によって給与 所得者が増加するなかで形成されていったといわれる(坪野,2005)。熟練 労働力の長期雇用という労務管理上のインセンティブの仕組みとして,この 退職一時金が当時活用され始めたのである。1952年にはドイツの制度を手本 として,税制上の優遇措置を盛り込んだ退職給与引当金制度が導入され,退 職一時金はさらに普及することになる(西成田,2009)。
しかしながら,その後,退職者の増加に伴う巨額の退職一時金支給は経営 の不安定化を招くことになり,退職金コストの平準化の観点から退職一時金 の年金化が志向されはじめた。1960年代の高度成長期以降は,退職一時金か らの全部あるいは一部移行という形で,企業年金制度が発展することになる。
その後,退職一時金に対する税制上の優遇措置が縮小される一方で,企業年 金制度に関する税制上の優遇措置については,適格退職年金や厚生年金基金 の創設を通じて一貫した整備がなされてきた。
実際,1995年に東証一部上場企業を対象に実施した吉田 (2008) のアンケ ート調査によれば,企業年金制度への移行理由として,税制上の優遇措置や 退職金コストの平準化といった税金を含めたコストの節約がその重要な理由 であることが報告されている。勿論,退職給付の安全性すなわち保全水準の 確保という観点から,政策的に企業年金制度への移行が促されてきたという 背景がここにあることは容易に想像できる。
. . 税制上の優遇措置
退職給与引当金制度のもと,退職一時金に関しても長らく税法上の優遇措 置が存在していた。これは,1952年の法人税法改正により導入されたもので,
期末要支給額,すなわち,決算期末で従業員全員が自己都合退職した場合に 必要となる退職金総額の100%が当初の計上基準であった。ところがその後,
1956年には期末要支給額の50%,1980年には40%,さらに1998年には段階的 に期末要支給額の20%まで引き下げられた。そしてついに,2002年の税制改 正において退職給与引当金制度の廃止が決定され,大企業の場合は4年,中 小企業等の場合は10年をかけて段階的に廃止されることになった。
このように退職一時金に関する税便益が縮小する一方で,企業年金制度の 税制上の優遇措置に関しては,事業主である企業の拠出する掛金についてそ の全額の損金算入が認められており,両制度間の税便益の差異は近年特に拡 大している。
. . 退職一時金の原資の保全
退職一時金は, 退職給付引当金相当の資金を他の事業用資産と区分して 保全することまでを求めるものではない (坪野,2005)ので,退職一時金 の原資がいかに保全されるかという問題は,事業主である企業の財務健全性 に依存することになる。しかしながら,企業の財務健全性が悪化するような 状況では,退職一時金の原資の保全状況も悪化していることは容易に想像で きる。例えば, 企業が倒産するような事態では企業の財務状況は極めて劣 化しており,退職給付金が支給されないケースが多々発生 (坪野,2005)
することになる。そこで,企業の倒産時においても退職一時金の支給が確保 されるべく,事業主である企業が事前に資金的な手当てを講じることを促す 必要性が議論され,1976年に 賃金の支払いの確保等に関する法律(以下,
賃確法 )が制定された。
賃確法 の第五条では,労働契約,労働協約あるいは就業規則等におい て労働者に退職手当を支払うことを明らかにした場合に,事業主は当該退職 手当の支払に充てるべき額の保全を講ずるように努めなければならないと規
定されている。しかしながら,保全措置による要保全額(最低限保全すべき 金額)が十分でないことに加え,退職手当の保全措置はあくまで努力義務に すぎない。さらに,社外積み立ての企業年金制度を実施している企業や,組 合等との間で保全措置について法令の定める措置によらない旨の協定を結ん でいる企業では,この保全措置の努力義務すら免除される。
表1は,最近の退職一時金の保全措置の状況を示している。これによると,
全体の86.9%が保全措置を講じていないことが分かる。もちろん1,000人以 上の企業規模のグループでは,社外積み立ての企業年金制度を採用する企業 が比較的多いと考えられるため,保全措置を講じていない企業の割合が94.4
%とかなり高くなっているが,1,000人未満の企業規模のグループでも約8 割の企業が保全措置を講じていない。なお,企業が倒産した際に保全措置が 設定されていない場合には,退職給付は賃金債権の一部として一般の先取特 権を有するとされるが,他の債権者との競合が生じる恐れもある(坪野,
2005)。以上のように,退職一時金の原資が安全に確保されるかどうかとい う点については, 賃確法 は不十分と言わざるを得ない。
0.5%
0.9%
0.4%
保全措置を 不明 講じていない 保全措置を
講じている 企業規模
86.9%
12.7%
合計
‑ 94.4%
5.6%
1,000人以上
78.7%
20.4%
300〜999人
‑ 78.3%
21.7%
100〜299人
89.9%
9.6%
30〜99人
(注)社外積立の企業年金制度を実施している企業等は,保全措置の努力義務が免 除となっている。
(出典)厚生労働省 平成20年就労条件総合調査結果の概況 第14表をもとに作成。
表1 退職一時金の保全措置の状況
3.問題の所在
退職一時金と企業年金の税便益の差異は近年特に拡大している。退職一時 金から企業年金への移行の主なインセンティブが節税効果にあるならば,企 業年金制度への移行が近年より活発化するはずである。表2は実施状況別企 業数の割合の推移を示している。これによると,退職年金制度を有する企業 の割合は,1997年の52.5%から2008年の44.7%に減少している。さらに,退 職年金制度のみの企業の割合に至っては,1997年の20.3%から2008年の12.8
退職一時 金のみの 企業
退職年金 制度があ る企業
退職年金 制度のみ
退職一時 金制度と の併用
56.7 45.6 41.2 27.1 31.9 69.9 50.9 43.7 27.7 33.9 67.7 51.3 41.7 25.8 32.2
24 23.7 17.7 9.9 12.8 19.1 26.4 21.6 18.3 19.6 22.7 31.2 23.1 18.2 20.3
80.7 69.3 58.9 37 44.7 89 77.3 65.3 45.9 53.5 90.4 82.4 64.8 43.9 52.5
19.3 30.7 41.1 63 55.3 11 22.7 34.7 54.1 46.5 9.6 17.6 35.2 56.1 47.5
100 100 100 100 100 100 100 100 100 100 100 100 100 100 100
95.2 92.2 88 81.7 83.9
97.1 95.7 89.5 84.7 86.7
99.5 97.7 95.9 85.7 88.9
1,000人以上 300〜999 100〜299 30〜99人 平成20年
1,000人以上 300〜999 100〜299 30〜99人 平成15年
1,000人以上 300〜999 100〜299 30〜99人 平成9年
退職給付制度の形態(単位
%)
計 退職給付 (一時金・
年金)が ある企業
(出典)厚生労働省 (2008) 就労条件総合調査報告 をもとに作成。
企業規模
表2 退職給付制度の実施状況別企業数の割合
%に大きく減少している。その一方で,退職一時金のみの企業の割合は,
1997年の47.5%から2008年の55.3%と増加している。このような傾向は,企 業規模が大きい従業員1000人以上の企業において,特に顕著である。
図1は,有価証券報告書における退職給付関連の情報に基づき,上場企業 を対象に退職一時金のみを採用する企業数の割合を計算した結果である。こ の結果は本稿独自の集計による大規模サンプルであり,連結財務諸表あるい は財務諸表の 注記情報 に記載されている 年金資産 と 退職給付債 務 の金額を上手く活用することによって,退職給付制度として退職一時金 のみを有する企業とそうでない企業との分類を行っている。具体的には,
年金資産 と 退職給付債務 の金額がともに記載されていない場合には,
DB型の退職給付制度を全く有していない企業と判断する。例えば,確定拠 出(Defined Contribution,DC)型の企業年金制度のみを採用している場 合はこれにあたる。また,少なくとも一つ以上のDB型企業年金制度を有す る企業の場合には, 年金資産 と 退職給付債務 の両方の金額が記載さ れることになる。これに対し,DB型の退職給付制度として退職一時金のみ を有する企業の場合は, 退職給付債務 の金額のみが記載され 年金資産 の金額は空欄となる。
本研究では上記の退職給付関連データが有する特徴に着目することで,退 職一時金のみの企業と退職給付制度(退職一時金・企業年金の一方あるいは 両方)を有する企業数を集計することにした。集計の結果,表2の結果と同 様,こちらのデータからも,過去約10年間にわたって退職一時金のみの企業 が増加している様子が浮き彫りになった。
繰り返しになるが,これは非常に興味深い現象である。税便益の観点から は企業年金制度が退職一時金よりも優位であるにもかかわらず,退職一時金 を選好する企業が一貫して増加しているのである。なぜこのような現象が見 られるのであろうか。本稿では,退職一時金のみを採用する企業についてそ の固有の特徴を探ることにより,退職一時金の選択動機について実証的に検 討する。
4.株主から従業員への 暗黙のリスク移転
はじめに,内部資金調達としての退職一時金という点を再確認する。既に 述べたように,わが国の企業年金制度は退職一時金の原資を企業年金制度へ 移行する形で導入された。当時,大半の企業が全部移行を行わず一部を移行 という形をとった理由は,退職一時金の原資を経営者の裁量の内におくこと で,財務上の柔軟性を確保することにあったといわれる 。
(注)縦軸(%): 退職一時金のみの企業数
╱
退職年金制度を有する企業数 横軸:年度(2000年度は2001年3月期を意味する)(出典)Astra Manager(
Quick
社提供) から,3月期決算の東証上場企業(1部 及び2部)で金融・保険を除く全企業の退職給付関連データを入手したう えで独自に計算した。図1 退職一時金のみを採用する企業の割合(2000〜2010年度)
5) 例えば,坪野 (2005) は 退職一時金制度は,退職給付制度のうち積立金や 保険契約を伴わない内部留保型の制度として実施事業主の事業資金の確保等,
高度成長期には一定の役割を果たしてきた と述べている。吉田(2008)もま た, 企業活動との関係では,退職金の準備という名目でプールされた引当金 は経営資金として利用され,長期的な成長を実現するための資金源となった と述べるとともに,1965年時点の894社を対象に調査した結果,自己資本に対
こうした現象は資金調達に関するペッキングオーダー仮説によっても説明 できる。一般に,経営者と外部の資金提供者(債権者や株主)との間には情 報の非対称性が存在し,この情報の非対称性は資金調達の際の内部資金(内 部留保)と外部資金(負債や新株発行)との間に序列を生み出す。ペッキン グオーダー仮説とは,企業が資金調達手段をミックスして選択するのではな く,低コストの内部資金からよりコスト高の外部資金の順に資金調達を行う という考え方である。既に述べたように,退職一時金の原資については,そ の用途を外部から観察することはできないし,その制限も特にない。また,
退職一時金の債務に対応する資金の保全ルールもきわめて脆弱である。
したがって,退職一時金に相当する退職給付債務は事実上,従業員からの 低コストの資金調達と解釈することが出来る。従業員からの借入れと考えれ ば,純粋な内部資金とは言えないが,少なくとも銀行や社債保有者などの外 部債権者と比べると明らかに情報の非対称性は小さいはずである。すなわち,
退職一時金という形の従業員からの借入れは限りなく内部資金調達に近く,
したがって調達コストはかなり低いといえる。
このように,ペッキングオーダー仮説に基づけば,退職一時金は低コスト の資金調達手段である内部資金を従業員から調達しているということに他な らない。しかも,内部積立型の退職一時金の原資の保全義務はきわめて脆弱 であり,企業が財務上の困難に陥った場合には,事実上,退職一時金が減額 される可能性も否定できない 。このように考えれば,退職一時金が積極的 に選択されることによって,Ippolito(1985)の指摘するところの暗黙の雇 用契約下における株主から従業員への リスク移転 が生じている可能性が ある(Ippolito,1985;Rauh,2009ほか) 。
する退職給与引当金は約8.1%であり,自己資本の10%程度の内部留保が退職 給与引当金の利用によって行われていたことを明らかにしている。
6) 事業主である企業が倒産した場合や著しい業績不振に陥った場合,退職金規 定が変更されること等により退職一時金は減額される可能性がある。この点,
森戸(2003)や労務・社会保険法研究会(2010)に詳しい。
7) 株主から従業員への リスク移転 という現象は,本稿で考察する退職一時
5.上場企業の実態調査
. . データ
本節では株主から従業員への 暗黙のリスク移転 を論じるための予備的 検証として,退職給付制度内において退職一時金のみを採用する企業の特徴 を探る 。対象とするサンプルは,3月決算の東証上場企業(1部および2 部)のうち,金融・保険業を除くすべての企業である。データはQuick社
年金給付目的でのみ利用 保全水準は高い 税便益は大きい 全額損金算入(掛金)
安価な内部資金として利用 保全水準は低い 税便益は小さい(ない) 制度創設以降,段階的に縮小 1952年 要支給額の100%
1956年 要支給額の50%
1980年 要支給額の40%
1998年以降 要支給額の20%
2003年 撤廃
内部資金調達 保全措置 (資金的裏付け) 税制上の優遇措置
確定給付型の企業年金制度 退職一時金
(出典)筆者作成。
表3 退職一時金と企業年金制度
金と企業年金制度の選択問題に限らず,より広い観点から企業年金制度の選択 問題として研究されている。たとえば,Stone(1991)や
Petersen
(1994)は 米国企業を対象として,DB型からDC
型の企業年金制度への移行を進める企 業の財務的特徴を検証した結果,業績や財務状況が悪い企業ほどDB
型からDC
型の企業年金制度への移行が進展しており,彼らはこうした現象を株主か ら従業員への リスク移転 の文脈で論じている。また,吉田 (2009) は,わ が国企業を対象にDC型の企業年金の選択動機を実証的に検討しているが,米
国のような頑強な結論を得るまでには至っていない。さらに,最近では,DB 型とDC
型のハイブリッド版ともいえるキャッシュ・バランス(Cash balance,CB)型の企業年金制度の選択動機についても研究が盛んである。例えば,米
国企業を対象としたNiehaus
/Yu(2005)や Kapinos
(2009),わが国企業を 対象とした吉田(2009) などがその代表的な研究である。8) ロジットモデルやプロビットモデルなどの二値選択モデルの手法を用いた回 帰分析によって,業種ダミーを含む様々な変数をコントロールした分析への拡 張も考えられるが,この点は本稿の射程範囲外とし,今後の課題としたい。
提供のAstra Managerから入手した。欠損値などの影響を考慮した結果,
最終的なサンプル数は16,843社(2001年3月期から2011年3月期までの11年 間)となった。なお,サンプル期間中に新規上場,あるいは上場廃止になっ た企業もサンプルに含まれている。
. . 業種別の傾向
表4は,前節で述べた全サンプルに関して,退職給付制度内において退職 一時金のみを採用する企業の割合(以下, 一時金シェア )をTOPIX17業 種区分ごとに示したものである。したがって,サンプル期間でプールした企 業数であり,計算された 一時金シェア は業種別の11年間の平均値という ことになる。これによれば, 一時金シェア が高い業種として,不動産業
(35.2%)や小売業(26.6%),情報通信業ほか(19.2%)が目立つ。その一 方で,電力・ガス業(1.9%)や食品業(4.0%),建設・資材(4.1%)など,
一時金シェア が低い業種もあり,業種間でばらつきがあることが確認で きる。
次のページに図があるため,アキをいれてます
表5は,本研究のサンプル期間の期初(2001年3月期[2000年度])と期 末(2011年3月期[2010年度])の2時点において,業種別の 一時金シェ ア を示したものである。これによると,全業種(銀行・保険除く)で平均 10.8%ポイントの増加であるが,特に,不動産業(34.6%ポイント)や小売 業(32.4%ポイント),情報通信業ほか(22.7%ポイント)の増加が目立つ。
このように,業種によっては,近年,退職一時金のみを採用する企業が急増 していることが見て取れる。
9.9%
9.9%
9.7%
8.8%
26.6%
35.2%
7.9%
7.2%
8.8%
19.2%
4.0%
4.8%
1.9%
6.4%
4.1%
5.5%
15,181 1,352 815 743 437 247 1,860 359 1,422 1,701 807 139 208 2,089 2,040 962 退職年金 制度があ る企業[C]
1,662 148 88 72 158 134 160 28 138 405 34 7 4 142 88 56 退職一時 金のみ
[A]
16,843 1,500 903 815 595 381 2,020 387 1,560 2,106 841 146 212 2,231 2,128 1,018 合計
[B]
914 67 14 6 173 54 26 21 10 470 1 0 0 49 22 1
合計 商社・卸売 運輸・物流 鉄鋼・非鉄 小売 不動産 素材・化学 医薬品 機械
情報通信・サービス・その他 食品
エネルギー資源 電力・ガス 電機・精密機器 建設・資材 自動車・輸送機器
TOPIX17業種区分
[A]/[B]
退職給付制度がある企業 退職給付
制度がな い企業 2000〜2010年度
(出典)Astra Manager(
Quick
社提供) から,3月期決算の東証上場企業(1部 及び2部)で金融・保険を除く全企業の退職給付関連データを入手したう えで独自に計算した。なお,[B]=
[A]+
[C]である。表4 退職給付制度の実施状況(業種別)
. . 退職一時金採用企業の特徴
最後に,退職一時金のみを採用する企業の特徴を探りたい。具体的には,
少なくとも1つ以上の企業年金制度を採用する企業群と退職一時金のみを採 用する企業群との間で,規模やレバレッジ,収益性といった指標の平均値に おいて重要な差異が生じているかどうかを確認する。
表6によれば,退職一時金のみを採用する企業群の特徴は次のように要約 することができる。第一に,従業員数および総資産のいずれの指標で見ても,
1,521 126 81 78 51 26 193 37 145 152 82 15 17 210 211 97
70 7 4 4 7 4 8 1 7 11 3 0 0 10 4 0
4.6%
5.6%
4.9%
5.1%
13.7%
15.4%
4.1%
2.7%
4.8%
7.2%
3.7%
0.0%
0.0%
4.8%
1.9%
0.0%
1,455 137 80 70 52 34 168 34 135 194 70 12 20 188 169 92
224 21 9 7 24 17 18 4 17 58 4 1 2 14 16 自動車・輸送機器 12
建設・資材 電機・精密機器 電力・ガス エネルギー資源 食品
情報通信・サービス・その他 機械
医薬品 素材・化学 不動産 小売 鉄鋼・非鉄 運輸・物流 商社・卸売
合計
13.0%
9.5%
7.4%
10.0%
8.3%
5.7%
29.9%
12.6%
11.8%
10.7%
50.0%
46.2%
10.0%
11.3%
15.3%
15.4%
13.0 7.6 2.7 10.0 8.3 2.1 22.7 7.8 9.1 6.6 34.6 32.4 4.9 6.3 9.8 10.8
[A]/[B]
退職一 時金の み[A] 退職給
付制度 がある 企業[B]
[A]/[B]
退職一 時金の み[A] 退職給
付制度 がある 企業[B]
差異 2010年度
2000年度
TOPIX17業種区分
表5 業種別退職一時金の割合(2000年度 vs. 2010年度)
(出典)Astra Manager(
Quick
社提供) から,3月期決算の東証上場企業(1部 及び2部)で金融・保険を除く全企業の退職給付関連データを入手したう えで独自に計算した。退職一時金のみを採用する企業は小規模である。退職一時金のみを採用する 企業群の従業員数(平均)が961人であるのに対し,企業年金制度を採用す る企業群のそれは7,112人である。総資産でも同様の傾向が確認され,前者 の平均が57,644(百万円)であるのに対し後者の平均が384,073(百万円)
と,いずれの指標でも両者に約7倍の開きがある。
第二に,退職一時金のみを採用する企業はレバレッジが高く資金制約が大 きいという傾向が確認される。これは,DB型からDC型の企業年金への移 行要因を株 主 か ら 従 業 員 へ の リ ス ク 移 転 に 求 め たStone(1991)や Petersen(1994)らの研究と整合的である。ところが,興味深いことに,
手元流動性比率,現金保有率といった指標で見てみると,退職一時金のみを 採用する企業群において,手元流動性が高く現金保有が大きいという結果が 確認される。そもそも,退職一時金の原資が旺盛な設備投資に活用された高 度成長期とは大きく異なり,現在の日本企業を取り巻く状況は,純現在価値
(Net Present Value, NPV)が正の投資プロジェクトが少ない。特に,
2000年代後半のサブプライム・ローン危機以降,企業の流動性リスクに対す る懸念は極めて高く,退職一時金をより積極的に採用することにより,安価 な資金調達に起因する資金を設備投資ではなく手元流動性や現金保有を高め る方向で活用している可能性がある 。
第三に,退職一時金のみを採用する企業において,キャッシュフローの収 益性が低いという傾向が確認できる。この点は,退職一時金のみを採用する 企業が収益性の高いプロジェクトに投資するのではなく,当面の手元流動性 や現金保有を高めることにより,まずは流動性リスクに対するヘッジ行動に 動いているとする解釈と整合的である。
9) この点を頑強に論じるためには,言うまでもなく追加的な分析と証拠が必要 である。ここでは現在の日本企業を取り巻く環境に着目することで,その解釈 の糸口を探っているに過ぎず,あくまで予備的見解である点,留意したい。
次のページに図があるため,アキをいれてます
6.結論と課題
1960年代以降の退職一時金から企業年金制度への移行は,両者の税制上の 優遇措置に差異を生じさせることを通じて,政策的に推進されてきたといわ れる。ところが,近年の特に上場企業の動向を観察すると,退職一時金の税 制上の優遇措置は事実上消滅しているにもかかわらず,一貫して退職一時金 のみを採用する企業の割合が増加している。本稿では,この興味深い現象を ふまえ,2000年代のわが国上場企業のデータを用いて,退職一時金の選択動 機について検討を行った。
2000年度から2010年度までの東証1部および2部に上場する全ての企業
(金融・保険を除く)を検証した結果,DB型の退職給付制度内で退職一時 金のみを採用する企業の特徴として,⑴規模が小さく,⑵レバレッジが高い 一方で手元流動性や現金保有が高く,⑶キャッシュフローの収益性が低いと いう点が明らかになった。これらの結果は,退職一時金のみを採用する企業 キャッシュフローの収益性
現金保有率 手元流動性比率 有利子負債比率 総資産
従業員数
%
% 倍
% 百万円
人
4.23 (N=1,552)
17.52 (N=1,662)
3.22 (N=1,662)
215.41 (N=1,377)
57,644 (N=1,662)
961 (N=1,662)
5.51 (N=14,831)
11.90 (N=15,181)
1.94 (N=15,178)
154.45 (N=14,085)
384,073 (N=15,181)
7,112 (N=15,181)
4.1 15.2
8.7 1.8 25.7 33.5
⎜t値⎜
退職年金制度が 退職一時金のみ ある企業
単位
(注)等分散の
F
検定を実施したうえで,平均値の差の検定(Welchの方法)を 実施している。有利子負債比率は,有利子負債を自己資本で除した値であり,手元流動性比率は,手元流動性(現金・預金+有価証券)を売上高(1ヶ月 分)で除した値である。また,現金保有率は,現金・預金を総資産で除した 値であり,キャッシュフローの収益性は,営業キャッシュフローを期首(前 期末)の総資産で除した値である。
表6 退職一時金のみ採用企業の財務的特徴
が退職一時金を採用することによって確保された安価な内部資金を用いて流 動性リスクへの備えを行い,株主から従業員への 暗黙のリスク移転 を生 じさせている可能性を示唆するものである。この点は本研究の重要な発見,
貢献であると思われる。
しかしながら,課題も多い。本稿では主要な指標を用いた平均値の差の検 定に留まり,あくまで予備的考察に過ぎない。より頑強な議論を進めるため には,例えば,ロジットモデルやプロビットモデルなどの二値選択モデルの 手法を用いた回帰分析によって,業種ダミーを含む様々な変数をコントロー ルした分析も必要であろう。さらに,株価やベータなどの市場変数などを用 いて,株主から従業員への 暗黙のリスク移転 という現象が株式市場でど のように評価されているのかという点についても掘り下げた検証を行うべき である。いずれも今後の課題としたい。
(筆者は東京経済大学経営学部准教授) 参考資料
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