国家神道を考える
著者 ロコバント エルンスト
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名 : 日文研フォーラム, 開催地 : 国際交流基 金 京都支部, 会期 : 1989年7月11日, 主催者 : 国 際日本文化研究センター
ページ 1‑26
発行年 1991‑03‑29 その他の言語のタイ
トル
The meaning of state Shinto for present‑day Japan
シリーズ 日文研フォーラム ; 13
URL http://doi.org/10.15055/00005757
第13回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
一国家神道 を考 える
TheMeaningofStateShintoforPresent‑dayJapan
■
エ ル ンス ト・ロ コバ ント
ErnstLokowandt
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあた
り︑一九八七年に髑設された事業の一つであります︒その主な目的
は海外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあり
ます︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長梅原猛
● テ ー マ ●
一 国 家 神 道 を 考 え る 一
TheMeaningofStateShintoforPresent‑dayJapan
● 発 表 者 ● エ ル ン ス ト ・ロ コ バ ン ド
ErnstLokowandt
・発 表 者 紹 介
エ ル ン ス ト ・ ロ コ バ ン ト ErnstLokowandt
東 洋 大 学 助 教 授
1944年 生 ま れ 。1969年 ボ ン 大 学 附 属 現 代 東 洋 語 研 究 所 に て 日 本 語 デ ィ プ ロ7ム 取 得 。 1970年 一1972年 国 費 留 学 生 と し て 国 学 院 大 学 国 史 学 科 大 学 院 に 留 学 。1972年 ボ ン 大 学 に 復 学 。 1976年 ボ ン 大 学 文 学 部 に て 博 士 号 取 得(科 目 は 日 本 学 、 国 家 法 学 、 比 較 宗 教 学 、 論 文 はr明 治 前 半 に お け る 国 家 神 道 の 法 的 発 展 』)。1978年
一1985年 社 団 法 人OAGド イ ツ 東 洋 文 化 研 究 協 会 研 究 主 事 。1985年 東 洋 大 学 文 学 部 助 教 授 、
現 在 に 至 る 。1985年 一1989年OAG理 事 、
1986年 よ り 副 会 長 。 主 な 論 文:
O"DierechtlicheEntwicklungdesStaats‑
Shint indererstenH舁ftederMeiji‑
Zeit(1868‑1890)",Wiesbaden1978 0"Zu皿Verh'稷tnisvonStaatundShint im
heutigenJapan.EineMaterialsammlung", Wiesbaden1981
0r国 家 神 道 の 成 立 時 期 に つ い て 」 、r東 洋 大 学 紀 要 教 養 課 程 篇 』 第26号 、 東 京1987年
○"DasjapanischeKaisertum‑religiNose FundierungundpolitischeRealit舩", 0AGaktuell,Tokyo1989
0"DieStellungdesTenn inderStaats‑
f rung‑DierechtlicheRegelungder HerrschaftsbefugnissedesKaisersunter derMeiji。Verfassung",OriensExtre皿us,
国家神道の前段階・一
歴史に関するテーマですから最初のところかち始めたいと思います︒と言いま
すのは国家神道は僕の感覚では一八八四年〜一八九〇年当たりから存在して︑そ
の前に二つの前段階があったと考えます︒一八六八年つまり明治元年から︑いき
なひ国家神道になったわけではありません︒最初の前段階と言いますのは︑明治
元年から明治四〜五年までで︑神道をそのままに国教にした時期です︒神道の思
想を国家が受けて︑神道の要求する立場を神道に与えた時代です︒完全なる国教
でした︒
神道を国教にするために︑まず元の神道を復活させる必要があり︑仏教的要素
を排除する必要がありまして︑神仏分離を行いました︒その神仏分離は実際の問
題として︑廃仏策に発達したところが多いのですが︑それはどうやら政府の意思
によるものよりは︑地方の行き過ぎ︑政府の意思の誤解とか色々な要素があって︑
政府は意識的に仏教を圧迫しようという気配はあまりなかったようです︒勿論政
府の中にある神祗官は別ですが︒ただ政府の政治的部門にはそういうつもりはな
かったと私は思います︒しかし仏教を守ろうとする気持ちもなかった︑仏教はど
うでもよい︑ともかく邪魔物ですから切り捨てようという感覚でやったように思
います︒
最初に神仏分離が行われて︑またそれと平行して神道を国教とする具体的な現
れとしては︑明治元年からの神道に関する最高官庁の経歴なんですが︑最初に神
祗事務課が設立されまして︑政府には七つの課ーー今の省に相当するもの11が
あって︑その第一位を占めたのが神祗事務課です︒それは間もなく局と改名され
て神祗事務局になって︑総裁局の後の第二位に位置付けられました︒明治二年の
神祗官制度では︑神祗官は太政官と並んで最高の権威を占めたのです︒その繁栄
の時期は約二年半くらい続いて︑格下げになって神祗省を経て︑教部省になった
のですが︑その繁栄の時期が示しているのは︑神道の思想が国家に精神的基盤を
与える︑祭政一致の精神を実現する︑という思想の現れだったと思います︒
官庁だけでは煎く︑神社は明治四年には世襲制の社家を廃止して︑神社には
﹁国家の宗祀﹂という性格を与えました︒国家の宗祀とは国家の祭式・国家の儀
式を行う場所という意味ですが︑国家の宗祀という性格を与えて︑その性格は一
九四五年まで続きました︒再び排除されることはありませんでした︒
もっと前からなんですが︑神主も官僚化されました︒官僚化は格上げを意味す
るだけではなく︑その代償も高かったと思います︒つまり官僚となれば元々神主
でない人も神主になりうるし︑また転勤にもなります︒神道の場合にその地方別
の習慣・慣習・やり方︑柏手を三回か二回か︑あるいは八回打つか︑など場所に
よって違うのですが︑そういう地方性の高い宗教の場合は︑神主さんが転勤とな
ると宗教色が薄れるという心配だけではなく︑実際にその弊害もありました︒
又は統一的な官僚主義の感覚で︑幾つかの伝統的な神職の類が廃止になりまし
た︒例えば明治まではいた祝(はふり)がいなくなりました︒今は宮司・禰宜・
主典・宮掌しかないのです︒神道の宗教性︑宗教色︑宗教としての権威がそのた
めに落ちたことは否定できません︒一方国家の権威を借りて︑権威を得たという
側面もあって︑そのプラス・マイナスを計算しますと︑どちらの方が強かったの
かは分かりません︒しかしマイナスの面もあったということだけを強調したいと
思います︒
そして一番重要な措置なんですが︑明治四年の五月に神社を国家の宗祀にする
という宣言をした日と同じ日に︑社格制度を作りました︒図のように神社に位を
与えました︒
その日に何もしなかったのは伊勢神宮で︑伊勢神宮は格別なものなので法規は
触れなかったのです︒要するに伊勢はトップにあってその下に官幣大社・官幣中
社.官幣小社︑国幣大社・中社・小社︑そして明治五年から小社と同じランクで︑
天皇と国家のために頑張った人︑豊臣秀吉とか湊川神社の楠木正成などをまつる
別格官幣社も加わってきます︒後ほどの靖国神社はこの類です︒
官幣社と国幣社は同格で︑ただ順序としていつも官幣社の方を先に並べます︒
月給も同じでした︒その下に府県社があって府社・県社︑最初は藩社もあったの
ですが︑郷社︑そして村社もその後に出来たのです︒約二〜三か月後に郷社定則
が出来︑それによって氏子と郷社との関係に関する決まりが細かく出来︑また氏
子調べがされました︒氏子調べとは江戸時代の宗教政策の延長で︑ただお寺と変
わって今度は神社に︑各々の全ての日本人はどこかの神社に所属しないといけな
くなりました︒氏子調べはすぐ一〜二年後に廃止されたのですが︑しかし一度あ
ったために全ての日本人は︑神社への所属が明確になった︒つまり神社ピラミッドに制度的につながったことになります︒
そうしますと国民の信仰が︑最も下層の無格社や︑村社から︑ずっと伊勢まで
導かれました︒そして伊勢は皇室・政府につながりました︒逆に上からのイデオ
ロギーは宗教の面を通して︑国民に浸透することになります︒精神史・思想史に
てらしてみると非常に上手く導くようにしたのです︒それがこの時期の宗教政策
の一番重要な点で︑後々まで一番効果のあった処置でした︒
しかし神道をもって︑つまり古代の概念をもって近代国家を設立しようという
試みは︑当然無理がありました︒その精神的な力︑イデオロギー的な力は神道に
はありませんでした︒
国家神道の前段階・二
政府には辞めるか改造するかの二つの選択があって︑神道を改造することにし
たのが︑明治四〜五年の宗教政策の改革の意味です︒明治五年から神道を道具に
して格下げさせまして︑そして教えを中心とする宗教に改造しました︒そのため
に不完全な祭教分離・祭と教義の分離を試みて︑しかし不完全に行い︑祭祀を式
部寮の管轄にし︑またその時に以前にあった神祗官の神殿が宮中に移り︑今の宮
中三殿の一つになりました︒祭式統一の色々な措置も行いました︒
祭祀は宮中または式部寮の行うところとし︑残ったものつまり宗教的な側面を
政府が定義して︑その内容を政府が決めたのです︒大教宣布運動の時代となりま
す︒大教宣布運動とはー1当時神道︑もっと正確に言えば祭政一致の思想を大教
と言ったのですがー1これを国民に広げることでした︒その大教宣布運動で教え
たのは︑宗教的なもめだけではなく︑一般道徳的なものも︑または近代国家の基
礎知識︑例えば権利義務の概念︑それはそれまでの日本にはなかったのですが︑
富国強兵のようなものも説教のテーマとなりました︒つまり説教というよりは啓
蒙的運動.宗教的道徳的政治的側面のある啓蒙運動でありました︒全ての神主さ
んがその担い手となりました︒しかし神職だけではなく︑ついでに︑力が足りな
かったせいでしょうけれども︑仏教の坊さんも全部動員され︑さらには落語家な
ど︑話しの上手な人も使いました︒
この国家の定めた教え以外はどんな説教も禁止されました︒仏教に対する政策
の面で面白いのは︑政府の定めた大教宣布運動の内容を伝えることは許されても︑
仏教的説法は禁止されたことです︒仏教に対する以前の神仏分離政策︑廃仏棄釈
政策よりも厳しくなったと思われます︒仏教にとっては一見再び国家に関係が出
来て︑良い結果という解釈も出来るでしょうが︑実際を見ますともっと厳しい政
策になりました︒
こういうふうにして神道に教えを持たせ︑それを神道の中心的なものにしよう
という試みでした︒このような政策は一八八二年〜一八八四年まで続きました︒
八二年とは神職と教導職の兼任が禁止になった年です︒教導職とは大教宣布運動
の担い手です︒そしてその二年後大教宣布運動の教導職そのものを廃止したので
す︒なぜ廃止したのかといいますと︑一つに当然仏教からの反対が強かったから
です︒もう一つは神道が教法宗教ではない︑神道の性格に反した政策であったた
め︑続くわけにはいかなくなったからです︒大教宣布運動は成果を上げたか︑上
げなかったかという評価は下しにくいのです︒文献を見ますと︑著者によって評
価が違うし︑今更それを調べる方法もあまりないでしょう︒しかし︑それを続け
ることが不可能になったという意味では失敗に終わりました︒その後の継続性は
ありません︒行き止まりとなって︑政府は明治四〜五年の宗教政策の改革に戻ら
ざるをえなかっ允︒といいますのは当時中途半端に行った祭教分離を︑今度は徹
底的に行いました︒徹底的と言ってもしかし︑完全ではありません︒しかし以前
よりも遙かに徹底的に祭教分離を行いました︒
一方で教派神道の独立を認めました︒そうすると黒住教とかその類のものは︑
神道の宗教的側面の担い手を得ました︒一方神社に対して説教とか葬式を禁止し
ました︒葬式とは︑すべての日本の学者が言うように︑単に葬式だけではなく︑