ゲゼル遺跡におけるエジプト官邸跡
著者 渡邉 浩明
ページ 739‑746
発行年 2011‑08
その他のタイトル Egyptian Residency Remains at Gezer
URL http://hdl.handle.net/10228/00008144
ゲゼル遺跡におけるエジプト官邸跡
渡 遺 浩 明
I は じ め に
後期青銅器時代(紀元前
16〜
13世紀)の 古代パレスチナは実質的にエジプトの支 配下に置かれており、エジプトに隷属する パレスチナ各都市の支配者達と、巡回する エジプト人官僚によってこの地域の統治は なされていたと考えられるほ
igginbotham 1998: 69)。この時代の古代パレスチナ遺跡 には(第 l 図)、支配者の官邸と目される エジプト様式の住居跡が出土しているこ とから、これらの遺跡を基盤として政治 的、経済的、また軍事的支配をエジプト が行っていたと考えられている(
Leonard 1989: 31: Hoffmeier 2001: 6)。本論では、各 都市における官邸跡を概観した後、ゲゼル 遺跡にもエジプト官邸跡があったのかどう か、という疑問に回答を試みる。
E 官 邸 跡
官邸跡はパレスチナ考古学の初期の段階 で既に認識され始めていた。テル・エル・
ファラ(S )遺跡の発掘の際、ベトリ ーは ある重要な住居跡を発見し、この都市の支 配者またはエジプト人官僚の官邸跡と呼ん
アフエツク 。
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テル・エル・
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60km
ベト・シャン。
第1 図パレスチナ遺跡図
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998 93, 第
2図の
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テル・ジェメ
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官邸跡
1 テル・セラ 2 テル・マソス 3 ベト・シャン 4
テル・エル・へシ
6テル・エル・ファラ(S
)7
アフェック(Hase !1 9 9 8 :
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6
第
2図ベ ト ・ シ ャ ン 第
VI層にもみられる
(Jameseta l 1 9 9 3 : 1 ‑ 5 ;
McGovern et al 似通った住居跡は、1 9 9 3 : 1
3; Mazar 19 9 7 ;
697 0
;第2
図の3
)。他にもテル・セラ第I X
層(Oren1 9 8 4 :
39‑45; 2図の
1)、テル・
テル・マソス第
IDA
層(Ke m p i n s k i & F r i t z 1 9 7 7
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図の4
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ジェメ第 J K
層(Ha s e l :1 9 9 8 :
93‑94; 2図の
5、 )
2 図の 2 、 )
ゲゼル遺跡におけるエジプト官邸跡
アフェック第 X ‑1 2 層( K o c h a v i1 9 8 1 : 7 8 ,第 2 図の 7 )、そしてデイル・エル・パラでも出土して しミる ( K i l l e b r e w e t a l 2 0 0 6 1 0 0 。 )
これら住居跡の共通点は、ほほ正方形の形をしていること、石の礎石なしにレンガが積まれて いること、入り口がおおむね角にあること、中央に中庭のような空間があること、その周りに 部屋や階段が配置されていることである( Oren1 9 8 4 : 5 2 )。この建物のプランは、テル・エル・ア マルナの特権階級の住居のものに似通っている( K i l l e b r e w2 0 0 5 5 8 )。細部の違いはあるものの、
エジプトの住居様式がパレスチナの建造物の伝統に取り入れられたと考えられる。また、これ らエジプト様式は、中庭式、 三部屋式などいくつかのタイプに分類が可能である( Higginbotham 2 0 0 0 ・ 2 6 3 ‑ 3 0 1 。 )
これらの住居跡がエジプト人によって居住された証拠もいくつか挙げられる。ベト・シャンで は、パレスチナの遺跡にもかかわらず彫像や碑文を含むエジプトの遺物が多数出土しており、こ こがエジプトの要塞であったことは間違いない。アフェックでは、住居跡の破壊層から粘土板文 書が出土しており、それはウガリットの知事である
Takuhlinaという人物から
Hayaというエジ プトの高官に宛てたものである( Owen1 9 8 1 : 1 ‑ 3 )。このことは、この高官がアフエツクに滞在し ていたことを示している( H a s e !1 9 9 8 : 9 5 )。テル・セラで出土した神聖文字の碑文は、エジプト 人もしくはエジプト人に訓練を受けた書記官が、税として取り立てた穀物の記録をとっていたこ とを示している( G o l d w a s s e r1 9 8 4 : 8 6 。 )
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第 3 図ゲゼル遺跡図( Devere t a l 1 9 7 4 ・ P l a n1 , B u n i m o v i t z 1 9 8 8 : 7 1 )
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m ゲゼルの官邸跡一論争と評価
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第 4 図 M a c a l i s t
erの版
IZI(A地区)
(Macailster
1 9 1 2 : 2 0 7 :
Singer1 9 8 6 : 2 8 )
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第 5 図
Singerによる提案図(
Singer1 9 8 6 : 3 0 )
ゲゼル遺跡 ( 第
3図
Aの部分)に おいて は、初期の発掘者
Macalisterが官邸跡のようなものがあったこと を示唆している(1 9 1 2 ・ 2 0 6 ;第4 図 ) 。 後に、確かにこれは官邸跡であると
いう指摘が Singer ( 1 9 8 6 )によって なされた。それによると、ここで出 土した遺物の中に大きな石台が含ま れており、それには神聖文字で 「 黄 金」を意味する文字の半分が刻まれ ていた。また、この建物が他のパ レ スチナ遺跡の官邸跡に類似している ことが理由として挙げられる(
Singer1 9 8 6 : 2 8 ‑ 3 0 : 1 9 9 4 : 2 8 8 。 )
Singerの 提 案は第 5図の ようになる。
Singer の 提 案 に 対 し て Maeir ( 1 9 8 8 )は、 この住居跡はさらに古 い時代、中期青銅器時代に位置づけ られるべきであり 、官邸跡としては 認められないと主張 し ている。また、
エジプトの土器も欠知しているこ とから 、エジプ ト人の居住は なかっ たと考えている ( 1 9 8 8 : 6 6 ) 。一方、
Bunimovit
z( 1 9 8 8 )は 、 官邸跡は
B地区にもあるのではないかと主張し
( 第
6図 )、その図面の提案をしてい る(第 7 図 。 )
Higginbotham
( 2 0 0 0 ・ 2 7 9 )は、
A地区の住居跡について、正方形であり分厚い壁を持っている ことは確かだが、それだけでは官邸跡と しては不十分で、はないかと指摘している。この住居跡 の中央には他の遺跡でみられるような正方形もしくは長方形の部屋はない。 また、
Maeir( 1 9 8 8 )
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ゲゼル遺跡におけるエジプト官邸跡
の指摘にもあるように、年代も確定で きていないのでは、という主張であ る。さらに、 B 地区の住居跡につい ても、中央には他の遺跡でみられる ような正方形もしくは長方形の部屋 はないと指忠商している( Higginbotham 2 0 0 0 : 2 8 1 。 )
Macalister が発掘した A 地区の住居 跡は最も重要な建造物と考えられた ので、初期の発掘では取り去ることは しなかったと記されている( M a a l i s t e r 1 9 1 2 : 2 0 6 ‑ 9 )。しかし、再発掘を手がけ た Dever によると、残念なことにこ の住居跡の床面はすべて初期の発掘 で掘り抜かれてしまい、場所によって は岩盤まで発掘されてしまっていた ことが分かった。それだけでなく、大 部分の壁そのものが除去されており、
平面図と合致していなかった(第
8図 ) 。 このような困難さはあるものの、この 住居跡が後期青銅器時代のものであ ることは確認された( Dever1 9 9 3 : 4 0 。 ) 従って、時代が違うのではないかとい
う主張は否定できる。
初期の発掘が 20 世紀初頭に行われ
1 0 フィート 0 6 i m $ n :
1 0 20 3 0
b
一 一 一 一
‑‑f I第 6 図 M a c a l i s t e r の原図( B 地区) ( M a c a l i s t e r 1 9 1 2 PL XLIX 2 ; B u n i m o v i t z 1 9 8 8 7 3 )
0 5m
h
圃
C :澗
Eコ 圃
第
7図 Bunimovitz による提案図( B u n i m o v i t z1 9 8 8 : 7 3 )
たため発掘技術が未熟であったこと、そして Macalister が一人で現地の住民を指揮したため統 制がきかなかったことは事実である。筆者とともに再発掘に参加した Hase! ( 1 9 9 8 : 9 3 )が指摘し ているように、このような状況では、遺物そのものが発見されずに捨てられてしまった可能性が 高く、エジプトの土器は見つかっていないという主張は残念ながら当てはまらないと言えよう。
むしろ、エジプトの土器等はあったと考える方が妥当である。
ゲゼル遺跡で出土した粘土板文書はファラオからゲゼルの支配者に宛てた手紙であり、この支
配者がファラオに会いに来ないこと、またエジプト人の役人が正しくもてなされていないことを
嶋 崎 同