構成原理としての社会契約説
白石正樹
構成原理 としての社会契約説
一二
三
四 目次
はじめに
ルソーにおける理論形成
﹁社会契約﹂の論理構造
政治社会と倫理
一はじめに
ジャンHジャック・ルソー(冨9㌣冒8ロoω閑o霧ωo霊"罵這‑目ミ︒︒)が﹁自然﹂という言葉を好んで用いたことはよく知
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られている・﹁降熱から幸禍にいたる正当化の運動これこそ︑ルソーの思想において最も特徴的なもの﹂なのである︒多面体の輝きをもつルソーの諸分野にわたるーしかも二律背反的な1思想を︑内面から統一し︑相互に関
連づけているものは︑彼の﹁自然﹂の観念である︒この観念は︑外的自然としての大宇宙を替美する表現の中に︑ま
た︑内的自然としての人間の心情を吐露する表現の中に見出される︒しかし︑その思想性においてもっとも重要な内
( 2 )
実は︑清浄無垢な生命にほかならない︒ルソーの処女作﹃学問芸術論﹄b跨8ミ勉偽ミN$偽鳥§ら象ミN塁卜︑ぬ(ミαO)および第二論文﹃不平等論﹄
b鋳ら§諺偽ミN︑O註鷺謹ミN翁︑§§ミ§跨§N︑奪曹N蹄転建こミN題箏ミ︑博ミ偽(ミ窃窃)は︑その思想的基調をい
えば純粋な﹁自然﹂昌碧貫⑦に依拠して︑腐敗した﹁人為﹂①答を批判したものである︒さらに︑彼の最も充実した
作品.教育論﹃エミール﹄肉ミミ♪§§N︑肉蹴§ミ凡§(ミo・︒)︑および政治論たる﹃社会契約論﹄b§○§鳳ミ艦向︒ミ鼻
ミ中§も骨a載ミb︑︑︒蹄きミ鳶ミ(嵩①卜Ω)は︑﹁自然﹂を規矩とした完全な﹁人為﹂の理念を提示したものと考え
ヘへることができる︒なぜなら﹁開始された人為(ΩoHけOO旨PH口似昌OO)が︑自然に対してなした悪を︑完成された人為(⇔答
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需﹁h8什一8鼠)のうちに改善﹂することが彼の意図であったからである︒﹁人為﹂とは︑一切の文化的︑社会的所産を意味し︑人間の理性能力をそのアクチヴな原理として作り出された︑
﹁価値﹂(正価値︒反価値を含む)を指している︒これに対し︑﹁自然﹂とは︑人間の働きかける以前の大自然であり︑
かつ︑人間の本然的な実存︑すなわち生命そのものを意味している︒こうした﹁自然﹂の純粋性を根拠として︑文化
的︑社会的営為を批判したことが︑ルソー思想の消極的意義といえよう︒しかし︑それのみにとどまらず︑ルソーは
人間生命の純粋性をそこなうことなく︑文化を創造し︑社会を構成する原理を考察しているのであり︑これが彼の思
想の積極的意義といえよう︒本稿の目的も︑彼の社会契約説を政治社会の構成原理としてとらえ︑その理論形成なら
びに論理を明らかにすることにある︒
(1)傍点原文︒多田・樋口・鶴見﹁ルソi・プロパガンディスト﹂(桑原武夫編﹃ルソー研究﹄第二版︑一九六入)︑二八一
頁︒
(2)ルソーのH人問の自然﹂ド昌9霞①匹o一ゴo白日¢という表現は示唆的である︒彼が﹁人問の自然﹂を純粋かつ絶対なもの
として宣揚する時︑それはもはや︑今日的意義における﹁人間の尊厳﹂﹁生命の尊厳﹂に接近せずにはいないであろう︒
(3)傍庶筆者︒この個所を︑ルソーは最初︑人間の自然ないし人問性(宣口讐霞oげロヨp︒ロo)と書いた︒ζ鋤妻ω︒円凶け血oZ①〒
良鋤梓9蝿︒︒劇9h︒①増︒"鱒o器︒︒09・〜O§ミ題9愚ミ題(29︒酵猪似9Ω")(霊二ω℃切崔δ爵8¢Φ締貯℃蚕器ρ一〇窃011y
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一一ルソーにおける理論形成
思想家としての出発ーそれは︑ルソーにとって︑﹃学問芸術論﹄の執筆ならびに成功であった︒一七四九年十月
のある日︑ルソーはヴァンセンヌに監禁されていたディドロ(H︾Oロ一ωH)一山O﹃Oけ)に会いに行く途中︑歩きながら﹃メル
キュール・ド・フランス﹄誌を読んでいた︒ふと︑ディジョンのアカデミー(︾︒器o日δ創︒Uごo口)の懸賞論文の課題
﹁学問・芸術の復興は︑習俗を純化するのに貢献したか﹂を目にした彼は︑なにか突然の霊感といったものにおそわ
( 1 )
れた︒﹁これを読んだ瞬間︑わたしは別の世界を見︑わたしは別の人間になった﹂︒この有名なヴァンセンヌ途上の体験
が思想家ルソーの︑いわば原点となったのである︒
( 3 )
翌五〇年︑ルソーの論文が当選した︒彼は一躍有名になった︒それまで無名であった一・作家が︑わずか六〇頁の小論文を書いて︑社交界のすみずみに︑名を知られるようになった︒ルソーの友人達が︑サロンで︑この雄弁である
が︑パラドクスに満ちた作品を激賞するや︑人々は著者と知り合いになることを願った︒こうして︑新鮮な文明批評
( 4 )
家としてのルソーの存在が︑当時におけるヨーロッパの花の都パリから︑遠方にまで喧伝されていった︒しかし︑ルソー自身はこのことによって︑都会風の外面的道徳のヴェールを払い︑内心の徳の蘇生と︑幼少の頃よ
り親しんでいたプルタルコス的ヒロイズムの復活を味わうことができた︒彼は︑社会的偏見を離れて自然の思想に生
( 5 )
きるため︑'﹁自己革命﹂誌ho﹃日Φ℃興のo口昌Φ=¢を企てた︒そして︑独立と無欲を主義として大蔵省収税局長フランクイユ氏の出納官の職を辞し︑楽譜写しの仕事で生計をたてることにした︒また︑五二年には︑田園劇﹃村の占者﹄
卜免b鳴鼠謡§ミN隷鷺の大成功によって得ることになった国王ルイ十五世からの年金を︑辞退した︒その理由の一
( 6 )
つは︑﹁年金を受け取れば︑もう阿談するか︑沈黙するかしかない﹂という用心であった︒ところで︑この﹃学問芸術論﹄は︑ルソー自身が認めているように︑熱と力に満ちてはいるが︑論理と秩序がまっ
たく欠けており︑彼の書いたもののうちで︑理論的に弱く・修辞のまずい文章からなるものの一つであ菊しかし・
この作品は︑彼の全著作のいわば﹁序文﹂的位置を占めるものである︒﹃学問芸術論﹄と﹃不平等論﹄と﹃エミー
ル﹄とは︑共にヴァンセンヌ途上の体験i社会体制のあらゆる矛盾︑諸制度の弊害︑人間の自然的善性の自覚ー
を原点として書かれた作品であり・内容的にも切り離せな峰α4﹁人間探求﹂というルソー思想の基本的性格は・次に
見るように︑第一論文の冒頭にすでに表明されている︒すなわち︑人間理性の光が︑それをおおいかくしてきた暗闇
を払いのけ︑太陽の如く宇宙の広大な領域を駆けめぐるのを見ることは偉大な光景である︒しかし︑さらに一層偉大
( 9 )
で困難なことは︑人間の内部に沈潜して人間を研究し︑﹁人間の自然︑義務︑目的﹂銘昌讐霞ρω①ω血①<o貯ωoけ銘暁貯を知ることである⁝⁝︒五〇年十一月に︑この論文が出版されると︑文芸を擁護する論客がいっせいに反駁して
きた︒ルイはこれらの馨に反批判を加え登﹂とによって・しだいに自己の思想を明確にしていつ範論争は数年
間つづき︑彼のポレミストとしての才能は︑この際にたくましく鍛えられた︒
一七五三年︑ディジョンのアカデミーは再び懸賞論文を募集した︒論題は﹁人々の問における不平等の起源は何
か︑そしてそれは︑自然法によって是認されるかどうか﹂◎ミNN馬免亀N︑o識鷺ミ§N︑き曹ミへ㌧ミ§こ象ぎ§ミ舞
ミ鴇偽N鳶免怠自ミミ鋳尋㌧ミ登N竃謡ミミ無冷随というもので︑﹃メルキュール・ド・フランス﹄十一月号に発表さ
れた︒これを見たルソーは︑同アカデミーがよくもこういう大問題を提出したものだと驚いた︒しかし︑アカデミー
にそれだけの勇気がある以上・自分もこれを論ずる勇気をもってもいいわけであると考え・論文の作成を開始し浦的
人間は自然的には善良であるが︑社会における諸々の制度︑諸々の偏見によって悪くなる︒これがルソーの根本的
自覚であった︒第一論文における﹁知識﹂批判を終え︑またこの論文によって引き起こされた論争を経たことによっ
て︑彼の思想はしだいに深まり︑論理的で雄弁な文章に表現されるようになった︒第二論文における不平等の起源に
っいても彼はそれを﹁自然﹂から﹁人為﹂へ︑純粋無享の生命から偏見に満ちた社会的人間への経過の中に求めてい
った︒
﹁不平等の起源は何か﹂この問題を考えるため︑ルソーは内妻テレーズと数名の友人を伴って︑パリ西方にあ
るサン・ジェルマン(ω叶・O①旨餌冒)の森へ︑一週間ほど旅行した︒そこで一日中︑森の中に分け入って︑原始時代の
おもかげを求め︑見出し︑その歴史を思索していった︒そして︑人間の自然を赤裸々に示し︑その自然をゆがめてき
た時代と事物の進歩の跡をたどり︑﹁人為人﹂一ゴoヨ目①山①一渉o言ヨ⑦と﹁自然人﹂一︑70旨言①昌讐霞①一とを比較す
ることによって︑そのいわゆる進歩改良(ω呂b︒Hh8鉱︒暮︒旨①巨づ同警⑦巳コ)の中にこそ︑人間の悲惨の真の原因がある
ことを示そうとした︒彼の魂は︑そうした探究・冥想によって高められ︑崇高な自然の内奥にまで飛翔していった︒
その境涯から︑文明社会に生活する人々の偏見︑過失を知見し︑結論として︑人間の一切の不幸は人間自身から生じ
( 12 )
ていると内心で叫ぶのであった︒﹃不平等論﹄は︑五五年六月︑レイ書店から出版された︒その前年(五四年)︑ルソーは論文をディジョンのアカデ
ミーに送付したものの︑議論があまりにも大胆すぎるので︑当選の見込みはないと思っていた︒案の定︑この論文は
落選した︒
一七五四年六月︑ルソーは誕生の地・ジュネーヴへ旅行した︒その途中︑シャンベリにて﹃不平等論﹄の﹁献辞﹂
∪①象88餅冨菊⑦陰げ凱ρロ⑦ロ①○①昌α<①を仕上げた︒土ハ和熱(①口爵2ω冨ω日o菰陰票8一昌)にひかれての訪問なので︑
﹁献辞﹂の文章にも至純の愛国心があらわれている︒この﹁献辞﹂にはまた︑次のように︑人民主権の原理が表明さ