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(1)

335   −97−  

紹  介  

グラースゴク大学市民法教授(1761−1801)  

と.してのジョン・ミラー  

山  崎   怜  

これは,Wiliiam C。Lehmann, John Mi11ar,Pro董essor of CivilLaw at Glasgow  

(1761−1801), in:.IuridicalReview,VOl.VI(New Series),Dec.1961,pp・218−33  

(1)  

の紹介である。レーマン教授はこのはかにミラ」一についての,ひとつの論説とひとつの閲  

(2) 拓老的労作をかいているが,いわば法社会学老ミラL一にかんする,社会学者レーマンの認  

識主体としての眼からみた個別論文が前者にあたるとすれば,逆に認識対象たる法学者ミ  

\3)  

ヲ一に即した特殊論文がおなじく別に必要となるのであって,ここに紹介する論説が,後   者の労作とかなり重複する部分をもつにもかかわらず,あたらしく法雑誌に発表された所  

以もそこにあるだろうし,われわれがあえて:紹介するのもそのためである。レL−マン教授  

の私信(1962年8月5日付)に・皐れば,これは my aIticle on MillaI王工Oma mOre  

distinctlylaw−Standpoint, ,だそうである。なお,注は以下のものもふくめて全部紹介者   のもの七あり,原注は注(7ノの学生筆記ノートの保管場所をかいた部分をとりいれた以外は  

すべて.省略した。そのうえ,節分けもそのタイトルも便宜上,紹介者のつけたものである。  

忘れられた巨像  

1761年から1801年にかけてグラ−スゴク大学市民法教授で挙ったジョン・ミラーを知る  

(4)  

ものはおそらく,はとんどあるまい。ごくわづかなものが,アダム・スミスやケイムズ卿に  

(1)W.C.Lehmann, JohnMillar:HistoricalSociologist, in:BYiiishJouY・ndloj   

5∂CよクJ〃g.γ,MaICb1952,pp…30−46‖ この論説を紹介者は,小論「18世紀スコットラ   

ンドの歴史家たち(ⅠⅠ)」(『香川大学経済論叢』算33巻罪6号,1961年3月)のなかで,   

かなりくわしく紹介した。  

(2〉 W‖C.Lehmann,John MillarofGlasgow(}735−1801):His Li.f冶andThought   

and his ContYibutions to Sociological.4nal.ysis,Cambridge,at the University   

PエーeSS,1960 

(3)別のことばでいえば,節1論文は法社会学者ミラ・−の法社会学者の側面を,欝2論文    は法社会学者のそれをとりあつかうのである。  

(4)こ・こでレ・−マン教授は./〟γ・≠離cαJ肋よβ抑辛いう,いわばSイ小P・且の旗律版たる雉   

(2)

滞39巻 算3号  

・−9g 一−   336  

むすぴつけたり,早期の議会改革運動一有名なこの運動の殉教者トマス・ミュ∴−アはミ   ラーのかつての学生だった一一把・かんれんして恩起するか,David Mur柑yの肋∽∂タ■よ−♂ぶ  

Ofthe Old Glasgow College(Glasgow,1927)をよんだものが,そのなかでの明確な  

ミラー俊一ミラーはこの法研究生の注目を浴びた伽に気づくであろうが,じつにこう   したことに.専門的な関心をもつ少数の学者をのぞいて,ミラーの著作の塵をはらうものは  

なく,かれが忘却のふちに・おとされて久しい。 

し 

義者にとっては.,その名ほ呪われたもののそれだったが,他方でほ本業の法学者としての  

名声もまた格別であった。   

ミラ−が1761年このRegiusChairにつくまで,E:.の講座はみすぼらしく,初代のウィ  

リアム・フォ・−プズの1714年から45年にかけての献身的な努力やハ−キュリーズ・リンズ  

ィの卓越した仕事ぶりにもかかわらず,法学教室ほせいぜい4,5人の学生をもつのみだ   ったところへ,ミラ−が就任する・やいなや,事態は∵・変して,数年のうちにあらたまり,  

市民法の学生は約40名,政府論にほさらにおおい学生の出席があった(.J,クレイグ)。当   時の,あるグラー・スゴクの訪問者ほ「学生たちがブリテンのあらゆる地域から,ここへ,  

しげしげよりあつまるのほ,かれの講義をきくためだった。要する紅エディンバラが  

医学のそれとして有名であるようにグラースゴウは法学の教室として名をなしている」と  

いい,また,公正なノー.Hいグレイは『自伝』のなかで,「グラ−・スゴク大学に多数の非常   に.有能かつ優秀な不屈のウィッグたちがあつまるのはミラーーゆえであり,かれらのあいだ   では,ミ.ラ」−の講義への出席が強固な政治教育の必須部分とみなされた。かれは,過去   5,60年における自由主義の側で政治的に抜群だった多数の人々の精神をつくりあげたと  

かんがえられる」とのべた。   

あるいはまた,やや政治的色彩をもつかも知れぬが,ずっとのちに.なっても,ミラ」−の   彩轡をうけたチャールズ・ペルの生涯をえがくにあたり,『エディンバラ・リグユ・−』の  

1批評家ほ,ミラ・−の講義の若い青年に・あたえた自由主義国家原理の要さ,次代をに・なう  

政治家や法律家の訓練場となったその教室の意義にふれ,さらにそうしたかれらが「晩年  

誌の読者にたi、して二,読者や蘭とんどは.ミラーーの名をきいたこともないだろう,となげ  

いている。スコットランドの今日の法学者や法学生やは,みずからの偉大なる先人につ  

いて,アメリカ人の,しかも社会学者濫よって漸く教示される事情をふかく恥じなけれ  

はならない。   

(3)

337  グラースゴク大学市民法教授(1761−1801)としてこのジョン・ミラー・ 一員9−一  

に,生涯を通じて.自分を鼓舞した衝撃の最初ほミラーの講義だ」と感謝をこ.めてかたった   ことや,『1エディンバラ・リグユー』の創刊思想の基本線はミラーによっですえつけられ   た,とさえいいほなったのだった。   

汐、エ.イムズ・ミルはミ∴ラー・の講義を「青年の知性に.あたえられたもっとも有益なもの」  

にかぞえ,ジョン・レイほ『スミス伝』のなかで「当時のスコットランドに.おけるもっと  

も俊英で影響力をもった自由主義の使徒」といい,デイブイッド・マレイは「当時におけ   るもっとも高名で好評をえた教師」とみたようだし,故W、Rりスコットのごとき慎重な   ものですら,基本的に,かかる評価に.同調したことは興味ふかいが,よりいっそうに・,そ   れをじっさいに.ものがたるのは,のちに.弁護士,裁判官,官界人,研究者や学者として名   をなした,ミラーの遣接の門弟たちのことである。  

門下生たち   

ここでは偲んの1部のものだけを指摘しよう。まず,のちに財務裁判官となったデイブ  

(5)  

イッド・ヒュームが,かれの叔父たる哲学者ヒュ.−ムの肝いりで,ミラ−の「寄宿学生」  

としてこの教育をうけるぺく,グラーヌコクにおくられた。甥ヒュ.−ムのスコットランド法  

と刑法にかんする発給はいわずもがなである。つぎにスコットランド議会議事録の研究者  

で有名なトマス・トムスンがおり,かれに.ついてほコクバーン卿が「スコットランドにお  

けるもっ2=も熟達した貿明なantiquaryであり,だれもわが歴史記録をかれのように・整   理したり説明したりできない。かれの本当の値うちほ‥…これから500年たてば,なおさ  

ら偉大であるだろう」といった。トムスンはミラ−の決定的な影智をみずからもかたって   

いる。   

実際界でのもっとも有名なのは,うたがいもなく,ウイリアム・ラム(メルバ−ン第2   代子爵)であり,若きヴィクトリア女王の顧問,最初ほウィリアム4世,あとは女王のも   

(5) resident student というのは先生た′る教授宅に「寄宿」し,教授およびその家族,   

あるいほ他の「寄宿」した学生と起居をともに.して,教育をうける学生のことであり,   

これはひとつ紅は固定給のすくない教授の収入源−したがって教室ばかりでなくここ    でも教師の例の自由競争上の能力が必要とされる−となること,ふたつにはグヲ−   

スゴク大学伝統の人間教育にあったとおもわれる′。ミラ・−の寄宿生のきわだってサぐれ    た人物だったことは,かれの教育能力のおそろしく優秀だったことの,赤裸々な証拠で    あった。それほ,第1に.かれの能力が優秀のゆえに学生たちが偉大な人間に.なったとい    う,算2におなじくミラ・−の優秀のゆえに.,すぐれで将来性のある有為の学生たちが    競ってつめかけたという,ニ重の意味紅おいでである。なお,ミラ・−の「寄宿学生」紅   

ついては,さしあたり小論「ミラ・一夫妻とその家系」(『香川大学経済学部研究年報』2,  

1962年号,1963年3月,38−9ぺ・−汐,注38)をみよ。   

(4)

第39巻 第3号  

338  

−ヱ0クー  

とで合計8年間にわたり首相の位置をしめた。かれもまたケイムブリッジでの学業をおえ  

(6)  

たあと,またロ−ダーデイル伯の尽力でウィリアム=フレダ.リックの兄弟が「寄宿学生」  

としてミラ−の自宅で薫陶をうけられることをメルバーン夫人が確約されたあと,ミラ−  

のもとでの勉強という明白な理由でグラ・−スゴク紅おくられた。著作者としても令名をも   っが,実際界でもすぐれた門弟に.汐エイムズ・メイ下ランド(第8代ロー・ダー・デイル伯)  

がいた。フォ・ツクスの熟烈な支持者でピットの反対者であり,議会改革運動の指導者,反   奴隷貿易運動のウィルバー・フォ・−スの支持者たるかれもまた,ミラ一家の「寄宿学生」で   あって,かれらの友情は生涯きえることがなかった。   

さらにレ.ストン卿(デイダイソド・ダグラス,アダム・スミスの燐),クレイグ卿,サ   ー・ジェイムズ・モンクリーフ,ジョー汐・クランスタウン,ウィリアム・アダムやその   他法曹界,外交界,官界に.活躍した大勢の門下生があったが,とくにふれずにおれないの  

は,のちの詩人キャンベルで,かれはつぎのごとくのぺた。「わたしほはんの16才の時分   に,かれのロ−マ法の講義をきいた。それはふつうの技傭でほまったく無味乾燥なものだ   が,しかしかれの手にかかると,Heineccius も注意しで謹聴するのがうれしくなった」  

し,「ミラーは諸君を研究への意欲をかきたて−,義理への愛をよぴおこして−,かれ特有の  

主義を忘れさせる不思議な秘訣をもっていた。かれのどの講義もほじめからおわりまで楽  

しみとなった‥川」と。そしてまた「わたしのこ.こ.ろにあたえたミラ・−の講義の衝撃ほそ  

の講義をきいたあとも長いあいだつづいた。法学と歴史とへのわたしの愛好が詩その  

ものをはとんど忘れさせた。=㌧その当時もし法律を学びつつ糊口の資をうるわづか数百   ポンドをもっていたなら,わたしは詩紅別れをつげて弁護士界にはいっていただろう」と  

までかいた。  

教授就任と語義内容   

26才の若さの1761年,丁度エディンバラで弁護士となってから1年後に,ミラ−は教授  

に選出され,まだ元気−・杯だった66才の1801年に急死するまで在職した。この任命に.ほかつ   て1751年そのさいしょの講義を若いミラ−・がきいた,かのアダム・スミスの支持があった  

し,高裁の判事で名だかいケイムズ卿の推挙もあった。ミラ」−は2年間ケイムズ家でその  

息子の家庭教師だったこともある。ケイムズは経験ゆたかな弁護士などにしかゆるされな  

い,高等民事裁判所内の窒で屠ならぶ判事のまえでの訴訟の申したてをミラ・一に・させたり  

(6)フレダリックは,「寄宿学生」の限でみたミラ・一家のありさまを母への手紙でかいた   

が,こ.れについても小論,同上,11−2ぺ・−汐を参照。   

(5)

339  グラ−スゴウ大学市民法教授(176トー1801)としての汐ヨン・ミラ−  −JOJ−  

する,異例の栄誉をかれに.あたえた。   

かれは.40年蘭にわたり,講義計画を大して変更せずに.,市民法,すなわちユステイ・ニア   ーヌのJ乃5fオf〝fβ∫ と 劫乃♂♂Cねに.したがってローマ法に.かんする講義をした。これは,  

この講座本来の仕事であったが,しかしまた,隔年ごとにスコットランド法の,晩年の   数年はこれとかわるがわるにイングランド法の講義を,またこれにつけくわえて,毎年,  

公法またはかれのいわゆる「統治の原理」についてもしゃぺった。その50回くらいの講義   のうち,第3部は「イギリス政治の現在の状態」と題されたが,この講義はカ■クスフヵー  

ドのブラックストーンだけを除外すれば,当時のグレイト・プリテンの諸大学で類をみな  

いものであった。   

講義のすぺてほ先任者リンズィに即応して,イギリス語でおこなわれ,ただ試験だけは 

弁護士試験が依然ラテン語でなされていたのを考慮して,ラテン語で実施した。博記作者   クレイグは,この母国語講義こそが,著名な裁判所やすばらしい図書館や司法官生活をも   つ首都のエディンバラ大学法学講座の非常な有利さをしのいで,グラースゴク大学の強力  

な指導性をあたえた主要な要因だとしている。   

こうしたすべて−の講義のなかで,ミラ−は何よりも社会における個人をみちぴくのため  

の確立した諸規則の体系たる法の性質をとらえ,しかもそれ 

なくて,公権力によってなすことを強いられたものとする見地から,つかまえた。ミラー一   における主題の一・般的な構成は,かれの学生だったジェイムズ・レディが市民法にかんれ   んしで簡略にのぺた。「市民法において−,われわれほ権利と訴訟とを区別する。権利は夫  

婦や親と子や主人と召使とのかんけいから生ずる。権利は対物権と対人権とからなり,前   者は所有権,用益権などからなり,対人権は契約や犯罪などから生起する。訴訟とはその   開始,手続き,判決などのなされる方法を意味する」と。この構成をレディは今日(1847   年)までに.法学によって用意されたもっとも満足すべきもののひとつとみた。   

ミラ・−はつねに広汎な歴史的で比較論的パ−スぺクデイブのもとで法をとりあつかった  

けれども,J形5わゎ加ざの基本課程ほテキストゐ巨大な解説であーり,学生の心底に主贋な事   実をはっきりと印象づけようとしていた。学生の筆記ノ・−トによれは,「わたしは〔さき   に.〕ロ・−マ法の諸事実−−−イカ・ざ〜よg〝gβ・ざが公刊される意図をめぐっての主要なことどもー  

について説明しようとつとめた。そのさい,わたしはそうした諸法規が基礎づけられてい  

る原理をかんがえることを避けたが,いまや主題を転じて,第2に.この原理を主たる考廣  

の対象とすべきであり,この探究のなかでローマ法と他の国々のそれとの比較をなすであ   

(6)

第39巻 第3号   340   一員久2−−  

ろう0それほたんに∴ロ−マ法の知識を,それでわれわれの弁護士兼務を規制するために・,う    るためというだけではなく−なぜなら〔今日のわれわれに.は.一〕それはいかなる典拠とも    なりえ.ない−,それを大帝国で広汎に実施した無数の法魔人の経験として価値があり,   

したがって増補され改良されたシステムとして注目に低いする。ただしくそれをみるため    に・ほ,それを他の諸国のシステムやわれわれ自身の感情と比較しなければならぬ」といっ   

ている。停記作者クレイグもおなじく以下のように・つたえた一法学(.TurispIudence)の   名のもとでミラーは「あらゆる国民の法典を普及させ,また,その起源を人間楷神にうえ    つけられた正義の感情のなかに.もつ法原則を」論じた。「かれほ,はじめに正義の自然原   

理におけるそれぞれの権利の起源や基礎を探索し,そのあと,人類のさまざまの状態をつ   タログレス   

うずるその進歩発展をあとづけ,ある特定の国の既知の条件から当然ありがちな,一般原   理からのズレを指示し,人類の道徳感惜に・は安定性ないしは正確性がある字する思想とは    そうでなければ矛盾するかにみえ.るにちがいない法における多様性をもっとも満足すべき    方法で説明した」と。  

(7〉   

これらの講義のなかで,現在のこ.されている学生筆記ノ−トの検証が示すところだが,   

かれは歴史的で比較論的な方法,あるいはかれみずからの表現でほ「哲学的な」方法がま    すます重要な指導原理となった。かれは講義のは.じめに人間性の欲求や人間社会の必要紅   

おける法の起源を考察する。たとえば夫婦かんけいは,さまざまの社会,また社会のさまぎ    まの発展段階一狩猟,牧畜,農業,商業・虚言菜社会一山一における両性のかんけいの考察    を意味する。+−−・夫多妻制は,それが特殊な条件の社会で生起すること,人口や遺徳や相   続・過言などにかんする諸法律への,その効果を論ずる。親子かんけいもまた父権の歴史  

(7Iこのノ・−トのおおくは,すでに.名前のでたデイブイッド・マレイが苦心してあつめ   

て,現在はグラ−スゴク大学図青館にあるマレイ文書中にあり,他の若干のものほナシ    ョナル・ライブラリとエディンバラ大学図書館に保存されており,レ・−マン教授のご厚   

志によって紹介者の手もとにはそれらのリプリントされたものがある。レ−マン教授は,   

それらの主要部分の公刊をのぞんでいるし,紹介者もそれをくりかえし教授に熱望して    いるが,どこでも学術苔の出版事情はなかなか容易でなく,いまだに実現されていな    い。紹介者のそれのごとき階神的応援だけではどうにもならないのである。なお,つい /    でにかけば,同時にレ・−マン教授はケイムズにかんする著苗を計画して言おり,すでにそ    の部厚いタイプ原稿が紹介者のもとに送付されてきている。ここは場ちがいであるが,   

すでに6カ年以上にわたる,1888年11月29日うまれの老教授の学問的友情に,紹介者は  感謝のことばを知らない。ごくさいきん軋,ミラー統治論講義にかんする未発表の論説    をかいたり,近刊予定の打階級起源論』のドイツ語版への編集序論をしたためたりで,   

あいかわらず教授は嬉々として18世紀スコットランド思想界をかけめぐっておられる。   

(7)

341  グラースゴク大学市民法教授(1761−1801)としてのジョン・ミラー・ 一jO3㌦   

的展望をもち,その流行,絶対性,その解体または廃止なさまざまな時代と国にかんして   おとなうのである。教育や学校,学科のもんだいですら,そうした方法のもとで議論され   る。主従のかんけいも歴史的で経済的な考究によって;ローマにおける奴隷制や封建制・  

近代におけるそれ,また経済的・社会的・政治的含意における商業社会での労働者階級の  

解放をかえりみる。   

かれのさいしょの著書たる『階級起源論』の主たる土台となったのほ法学にかんする,  

こうした講義であり,この著作ほ当時,異例であったはと常,絶讃されたし,「統治にか   んする講義」のうち,とりわけグレイト・ブリテンにかんれんする部分は,チャ−ルズ・  

フォ・ツクスに献詞された『イギリス政治の史的考察』の基礎となったのであり,この著書  

もまたイギリス国家構造史のさいしょのこころみであると適切に・もいわれてこいる。   

タα〝dβCf5め講義について.は,学生の筆記ノー=はのこされているが,わたしはよく知   らない。スコットランド法のそれは,スコットランドで弁隊士をめざす学生たちの魅力で   あり,かれはスコットランド法やそ・の司法制度や司法業務のスコットランド的特殊性を強  

調し,封建退制がイングランドよりもスコットランドでつよい支持をうけ,それはかれの   時代ですら色濃く残存することを指摘した。とく紅土地法,限定相続など,相崩堰かんす  

るものに,それはいちじるしかった。このこ.とほ.,おおくの点で,1部は「スコットラン   ドとイングランドとの敵対」からくる,前者とフランスとの,王朝的・政治的・教育的・  

文化的に緊密なむすびつきによる。スコットランドにおける法のきびしさ,ちょっとした  

犯罪でも死刑にふせられる処理はしばしば言及されているし,ロ・−マ法の影響がイングラ  

ンド法よりもスコットランド法紅つよければつよいはど,前者ではコモン・ロクがいっそ   う重視される。奴隷制の議論にあっては,かれほ,緩和されてはいたが,スコットランド   の炭坑夫や塩英夫のあいだに,奴隷制が依然として残存することに,くりかえし,ふれて   はそれを憂えたし,スコットランド宗教制度の特異性にもまた注目した。   

イングランド法の講義で特,スコットランド法に・おけるような第1次資料の判例や法令   によるのでなく,コククやブラックストーンのごときイングランド人の権威に依存した。  

のこされている学生筆記ノ」−トからあきらかなことは,ここで他のものよりもいっそう,  

法の歴史的背景や発展におおくの時間をついやしたようである。かれほ序論的な予告のな  

かで,イングランド法の特徴をつぎのようにのべた。(1)そのいちじるしい精密性,(2)経験  

と観察からの発生というよりも,それがつくられた時代の限られた規則からできあがった  

こと,(3)おびただしい数の技術的用語や慣用句の群れ,それらほうたがいもなく無学な開   

(8)

342  

第39巻 第3号   

・檜JO4−  

来者〔弁護士などの二〕に.よることから起因する,(4)まずく配列された法の実用的な体系,  

であると。イングランド法は主にコモン・ロクであるから,その文書は制定された法令隼 

ではなく,裁判所の判決のなかにみいだされる。  

ミラー講義の評価   

さて,こうした講義ほどのくらいあたらしいものであったか。ミラーは狭義の法律学  

(Science oflaw)に・,また広義での法学(Jurisprudence)に・どんな貢献を−もしあり   とすれば−なしたか。あるいはそれらの教育にたいしてこもどんな寄与をなしたか。こう   したこ.とは,ことに.かれの法学講義の学生でなかったものに.は,ミラー・が法辞そのものに   ついて著作することのすくなかったことをかんがえると,こたえ.ることの容易でないもん   だいである。   

まず第1に,そのころグレイト・ブリテン紅は大学に・おける法学教習の侍統がきわめて   すくなかった。たいていの法律家はその訓練を徒弟として∴私的な法律事務所(弁護士事務   所)でうけるか,イングランドではときに/法学院(法廷弁護士協会)でそうするといった  

ありさまだった。もちろん,スコットランド諸大学では,道徳哲学コ・−スにおける法学  

(J11risprudence)があり,ハチスン,スミス,フア・−ガスン,ベアディなどの講義がそれ   な示しているし,アバ−ディ−ンのキングス・カレジでは時々,法学(Law)プロパーーが講  

義されたのだが,しかし法学(Law)の講座はわづかに1エディンバラーふたつあって,3   分の1ほ休止中の公法一一−とグラ−スゴク…ひとつだけ・−−一にあり,まったく卒たらし   かった。ベイコン,トマス・スミス,コクク,マッケンジ−・,ステアは大学のそとで仕事   をした。カ・クスフォードのブラックストーンはミラ−の同時代人であって,10年とはさきだ  

ってほいなかった。ケイムズほ歴史法学の迫をきりひらきつつあったし,スミスは「市民   社会史」に.みずからのデーーマをひろげつつあった。このはかに・は,ミラ・−と比較すべきも   のはすくなかった。   

われわれはたんにつぎのようにいいうる。法学へのかれのアブロ・−チは広汎な学識と把   持カとをもって対象にせまり,その著書や学生筆記ノ・⊥トの不十分な証拠からしても,法  

律的・歴史的な資料のおそろしくゆたかな分孟によってみずからの説を論証したこと,法   概念をひろげ,これに人間性をふきこみ,大勢の学生たちに,ヒュ−ムやトムスンやレデ  

ィをふくむ学生たちに,無味額法学への興味と関心をかきたて二,法学界や官界での成功を  

うながせたこと.であった。ケイムズ卿の回想記をかいたタイトラ−は,ミ.ラ」−の「講義に  でたもので学問的カの増加のなかったものはすくない。かれの著作を熟読したもので見聞   

(9)

343  グラーースゴウ大学市民法教授(1761−1801)としてのジョン・ミラー  叫∴拓唱∴〜   

をひろげなかったものもすくない」といい,同時代スコットランド人の様相を側面からつ   たえてこくれるラムズィはミ.ラー・を「危険人物」−「無神論哲学」および政治と法学との  

混合から a dangeI・OuS man, とみるにもかかわらず,「■かれの欠点がな紅であれか  

れが多数の秀逸な学問人を養成したことほ同意される。事実かれの法学にかんする一・般的   な見解ほ見事であった。  かれはすばらしい能力と椅勤さで市民法を教えた。要する  

に,かれほ.,たったひとりの教授が30年間以⊥紅わたって〔本当は40年間であった〕ある   固定した計画を着々とおしすすめて,何がなされうるかの証人である」とたたえた。   

法と法学とを人間化し,生気づけ,学生のあいだにそれへの人気をつくったことについ   ては,かれが重き生きとした情熱的人物であり講義のあとや家庭での討論のさいの学生に   たいする,労をおしまぬ教導にあったことのはかに,そのひろく,かつ深遠な洞察力と学   識とを現実生活の想像ゆたかな描写とむすびつける,かれの能力紅よるところが大であっ   たにちがいない。かれは学生に・たいして二法というものを生きた,意味ぶかいものとして示  

すことができた。再婚のはあいの家庭生活の説明やまま子や異父・異母兄弟姉妹や私生児  

やの相続健の説明に感銘しない学生ほいないだろうし,長子相続権や限定相続,独身や晩   婚がロンドンのような都市に・おける,グラ−スゴクのような町でさ.え,はびこっている売   嬉制にもつ影響,あるいはまた,子供へ・の父親の権威についても同様だろう。スコッFラ  

ンドの田舎からやってくる学生で,隣人を突く雄牛の所有主の責任や隣人の羊を殺傷する   犬の持ち主の貴任について,どのて言いどまで,どんな条件で,といったもんだいに関心を  

いだかないものはないだろう。あるいほさら把,合邦以来,とくにそのころ生じてきたス  

コットランド法とイングランド法との混乱や衝突に・ついても。   

かのクレイグは,「ミラ−はその学生たちにただしい見方や正確な知識をあたえようと   つとめるはかりでなく,かれの腐心したのは,かれらに・創造的思考と哲学的究明紅眼をむ  

け,それを習慣づけるようなやり方なのであり,かつては法律家に.だけ有用な講義とされ   ていたものを,一♪般教育の重要な教室としたのだ」という。こ.れは,結局,法学研究への  

ミラーの明白な貢献でなくてなにであろう。かれは法学教育や法学研究を,開業弁護士虹   とって依然重要であるとはいえ,たんなる法律技術やたんなる法の些細事な知識から,大   学払おける,れっきとした職能にあたいするもの軋ひきあげたのであって,この点につい   て,われわれはさいごに・,ミラ−を十分に知っていた人物による,かれへのふたつの重要  

な変賞状紅ふれたい。   

ケイムズ卿は.その方J捉C〜dα如〃5への序言のなかで,当時のスコットランドの法学教師   

(10)

欝39巻 欝3号  

−J∂6−・  

344  

たちをとらえ,その教育方法をなじって,かれらは「みずからの推論能力があたかもそれ   をつかうとさびつくかのよう紅節約して.」「つまらない諸事実の堆積した山を,なんらの  

評価判断にかけるこ.となく,おろかな精神に.つみかさねでしまう」といいざま,脚注をふ   して,「ブラ−スゴク大学法学教授ジョン・ミラー・をのぞかなければ,わたしが人に用い   たものに∴ついて,わたしこそ非難されるぺきものに.なる」とつけくわえた。   

もうひとつは,1820年代のおわりごろ,スコットランド諸大学を調査した『王立調査   団』の報告であって,この報告はとくにミラ−・を念頭においた文脈をもっているとおもわ   れる。むろん,このことほ絶対に.たしかだとはいえないが,われわれは,報告者がミラー  

の伝統からほとんどまったく出発したミラー・の麿接の後継者をきびしく訊問する立場にあ  

り,この後継暑がふたたび4人か5人の学生しかいない講座に.墜落させ,市民法でほさら   に.すくないといった状態に.までおとしいれたことや,『調査団』のメムバL一のうら,4人   でなければ3人までが,また,グラースゴク大学への調査小委員会のメムバーのうち2人   以上がミラーのかつての学生であったことをおもえば,はとんど確実だといえるだろう。  

報告苔はいう∬「社会の其の利益ほもし法研究コースが学生たちの憩像上の利益に適応  

させられれば,実質上はかんぜんに.犠牲となる。祖国は∴その財産と自由とをまかせてある  

弁護士の人格・独立心・感化カにふかい利害をもつ。弁護士の独立と人格は法研究が進歩  

した哲学的なプランにみちびかれないばあいに維持されうるとするのはむなしい希望紅す   ぎない。  

「主題〔法学て〕の巨大な拡大はもっばら学生の教育がこまごまとした技術の習得に制限   されるぺきでないことを指示する。開発弁儲士の手びきのための材料を提供するばかりだ  

と,法哲学と法科学が犠牲となる。   

「主題〔法学〕が大学で教えられる方法は必然的に・,かつ強度に.それが一・般に研究され  

る方法を決定するだろう。   

いずれ紅してこも,大学における法学講座の機能と役割にかんするこの叙述がミラ−の有   してこいたものと正確に・一徹する。ミラーはこの理念実現のために,みずから最茎の努力と   旺盛な知的精力とを40年ものあいだ,かたむけつづけた。   

これは.スコットランド法学史上のはんのエビソ−ド略すぎぬかも知れない。たしかにミ  

ラ・−・ほスコットランド法学教育の地平に突然に㌧顔をだし,その死後,はとんどおなじよう  

に不意うちに,「視界から消えさった」ようにみえる。だが,それに.もかかわらず,多年  

にわたるかれの指導下にあった何百人という学生たちのなかから,かれの恩憩と教訓とを   

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345  グラーースゴク大学市民法教授(1761−1801)としてのジョン・ミラー  −JO7一   

個に.秘めて,弁護士界や法廷や官界における公的生活の気風を変革していった,数十人の  

立派な指導者が輩出したのは,もっともなことであった。 

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