一王通『中説』訳注稿(四) 中説卷第四周公篇(一)子謂周公之道、曲而當、私而恕⑴。其窮理盡性、以至於命乎⑵。
先生が周公の道を評して言った「すべてに手配が行き届いて正しく、身近な人間から国を安寧へと導いた。物事の道理を究明し人間の心情を把握し、そうすることで命を極めた存在なのだなあ」。
⑴ 曲而當、私而恕 阮逸注「攝政誅管蔡、曲而當也。代武王笞伯禽、私而恕也」、張氏注「曲而當、私而恕、指周公輔成王、封同姓、誅管蔡、營洛邑之事」、『史記』管蔡世家「管叔鮮・蔡叔度者、周文王子、而武王弟也。……武王既崩、成王少、周公旦專王室。管叔・蔡叔疑周公之爲不利於成王、乃挾武庚以作亂。周公旦承成王命、伐誅武庚、殺管叔、而放蔡叔、遷之。與車十乘、徒七十人從」、『史記』魯周公世家「其後武王既崩、成王少、在强葆之中。周公恐天下聞武王崩而畔。周公乃踐阼、代成王攝行政當國。……於是卒相成王、而使其子伯禽代就封於魯。周公戒伯禽曰、……」。⑵ 其窮至命乎
『周易』
説卦傳「和順於道德而理於義、窮理盡性、以至於命(韓康伯注、命者生之極、窮理則盡其極也)」。 (二)子曰、聖人之道、其昌也潛、其弊也寢、亹亹焉⑴若寒暑進退、物莫不從之、而不知其由也⑵。
先生が言った「聖人の道というのは、栄華の時代には密やかに、衰退の時代にはゆるやかに、いつも止まることがない様は、まるで寒くなったり暑くなったりする中で、万物がそれに順応しながらも、そうある所以に気がついていないかのようだ」。
⑴ 亹亹焉 阮逸注「亹亹、循環不絶貌」、『禮記』禮器「是故天時雨澤、君子達亹亹焉(鄭玄注、亹亹、勉勉也。君子愛物見天雨澤、皆勉勉勸樂)」。⑵ 物莫至由也 阮逸注「顯諸仁則民從之、藏諸用則民不知」。問易篇「民不知其由也、其惟明主乎」。
(三)溫彥博問、嵇康・阮籍⑴何人也⑵。子曰、古之名理者⑶、而不能窮也。曰、何謂也。子曰、道不足、而器有餘。曰、敢問道器。子曰、通變之謂道⑷、執方之謂器⑸。曰、劉靈何人也。子曰、古之閉關人也⑹。曰、可乎。曰、兼忘天下⑺、不亦可乎。曰、道足乎。曰、足則吾不知也⑻。
温彦博が質問した「嵆康・阮籍とはどういう人物ですか」。先生が言った「その昔、名と理について談じながらも、それを究明できなかった人
王通 『中説』 訳注稿 (四)
池
田 恭 哉
二
たちだ」。(彦博が)言った「どういうことでしょうか」。先生が言った「『道』という点では不足がある一方、『器』という点では余りがあるのだ」。(彦博が)言った「ずばり『道』と『器』についておうかがいします」。先生が言った「物事の変化に通じることを『道』と言い、定まった形に囚われることを『器』と言う」。(彦博が)言った「劉霊(伶)とはどういう人物ですか」。先生が言った「昔の内面を充実させて外部には欲求を断った人だ」。(彦博が)言った「それでよかったのでしょうか」。(先生が)言った「天下のことまで忘れ去ったのだから、よくないわけがなかろう」。(彦博が)言った「『道』については十分だったでしょうか」。先生は言った「十分だったかどうかは、私はわからない」。
⑴ 嵆康・阮籍 阮逸注「嵇康、字叔夜。山濤擧之自代、康絶交。其介局如此。阮籍、字嗣宗。居喪用琴酒、且曰、禮豈爲我輩設。其放曠如此」。⑵ 何人也 天地篇(四)注⑴、參照。⑶ 名理者
『三國志』
魏書・鍾會傳「及壯、有才數技藝、而博學精練名理」。⑷ 通變之謂道
『周
易』繫辭傳上「極數知來之謂占、通變之謂事(韓康伯注、物窮則變、變而通之、事之所由生也)」。⑸ 執方之謂器
『論語』
爲政「子曰、君子不器(何晏集解、包曰、器者、各周其用、至於君子、無所不施)」。⑹ 劉靈至閉關人也 阮逸注「劉靈、字伯倫。性淡黙、不交遊、以酒自樂、常攜壺、使人荷鍤隨行、曰、死則埋之」、顏延之「五君詠」劉參軍(『文選』卷二十一)「劉靈善閉關、懷情滅聞見(李善注、言道德内充、情欲俱閉、既無外累、故聞見皆滅。臧榮緒晉書曰、靈潛嘿少言。老子曰、善閉者無關鍵而不可開。王弼曰、因物自然、不設不施、故不用關鍵繩約、而不可開解)」。⑺ 兼忘天下 『孟子』
盡心上「古之人得志、澤加於民。不得志、脩身見 於世。窮則獨善其身、達則兼善天下」。張氏注「莊子・天運、使親忘我易、兼忘天下難。兼忘天下易、使天下兼忘我難」。⑻ 曰、道足乎。曰、足則吾不知也 王道篇(三四)注⑵、參照。
(四)陳守謂薛生曰、吾行令於郡縣而盜不止、夫子居於郷里而爭者息、何也⑴。薛生曰、此以言化、彼以心化⑵。陳守曰、吾過矣⑶。退而靜居、三月盜賊出境。子聞之曰⑷、收善言、叔達善聽。
陳叔達が薛収に言った「私が命令を郡県に下しても盗みがなくならないのに、先生が郷里に居られるだけで諍いが起こらなくなるのは、何故なのでしょうか」。薛収が言った「こちら(陳叔達)は言葉(命令)によって教化しようとし、あちら(先生)は心(道)によって感化しようとしている」。陳叔達が言った「私が間違っておりました」。引き下がってじっと道に思いを巡らせていると、三カ月で盗人どもはその治域を逃げ出した。先生はそれを聞くと言った「収の言はよいもので、叔達はそれをしっかり聞き入れた」。
⑴ 陳守至何也 阮逸注「陳守、叔達也。薛生、収也。夫子、謂文中子」。⑵ 此以言化、彼以心化 阮逸注「行道感人」。張氏注「論語・顏淵、克己復禮爲仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。爲仁由己、而由人乎哉。子路、其身正、不令而行。其身不正、雖令不從」。⑶ 吾過矣
『禮
記』檀弓上「子夏投其杖而拝曰、吾過矣、吾過矣」、同檀弓下「子思之母死於衛(鄭玄注、嫁、母也。姓庶氏)。赴於子思、子思哭於廟。門人至曰、庶氏之母死、何爲哭於孔氏之廟乎(門人、弟子也。嫁母與廟絶族)。子思曰、吾過矣、吾過矣。遂哭於他室」。⑷ 子聞之曰
『論語』
八佾「子入太廟、毎事問。或曰、孰謂鄹人之子知禮乎。入太廟、毎事問。子聞之曰、是禮也」、又見于公冶長・子罕・憲問。
三王通『中説』訳注稿(四) (五)房玄齡問、田疇何人也⑴。子曰、古之義人也⑵。
房玄齢が質問した「田疇とはどういう人物でしょうか」。先生は言った「昔の節義のある人物だ」。
⑴ 何人也 天地篇(四)注⑴、參照。⑵ 房玄齡至義人也 阮逸注「田疇、字子泰。幽州牧劉虞使疇奉使於天子、及迴、虞爲公孫瓉所害。疇哭虞墓而去。魏祖欲封疇、疇不受。此節義人也」。田疇、『三國志』魏書・列傳十一。
(六)子謂武德之舞勞而決、其發謀動慮、經天子乎⑴。謂昭德之舞閑而泰、其和神定氣、綏天下乎⑵。太原府君曰、何如。子曰、或決而成之、或泰而守之、吾不知其變也⑶。噫、武德則功存焉、不如昭德之善也⑷。且武之未盡善⑸久矣。其時乎。其時乎⑹。
先生は(漢・高祖の)「武徳の舞」はよく動いて決然としており、それは計略を巡らして天下を治めた様子を表すのかなあ、と評した。(漢・文帝の)「昭徳の舞」は穏やかで鷹揚としており、それは精神を研ぎ澄まして天下を安定させた様子を表すのかなあ、と評した。太原府君(弟・王凝)が言った「如何でしょうか」。先生は言った「一方は決然として創業し、一方は穏やかにそれを維持し、私はその間というものを弁えてはいない。ああ、武徳の方は功績があるが、昭徳の素晴らしさには及ばない。しかも武徳の方がまだ素晴らしさにおいて完全ではないこと、随分になる。その時の成せるものだったのだな。その時の成せるものだったのだな」。
⑴ 子謂至經天子乎 阮逸注「漢高祖廟奏武德舞、狀干戈勤勞决取、以經營天下也」。⑵ 謂昭德至綏天下乎 阮逸注「漢文帝廟奏昭德舞、狀修文物、以綏安天下也」。『漢書』禮樂志「高祖廟奏武德・文始・五行之舞。孝文廟 奏昭德文始四時五行之舞。……武德舞者、高祖四年作、以象天下樂己行武以除亂也。……孝景采武德舞、以爲昭德、以尊太宗廟」、『漢書』景帝紀「元年冬十月、詔曰、蓋聞古者祖有功而宗有德、制禮樂各有由。歌者、所以發德也。舞者、所以明功也。高廟酎、奏武德・文始・五行之舞(孟康曰、武德、高祖所作也。……武德者、其舞人執干戚)」。⑶ 或決至變也 阮逸注「凡帝道、有成之者、有守之者、樂舞象焉、其變在文武相須」。⑷ 武德至善也 阮逸注「功立一時而已、德必常守於萬世」。⑸ 未盡善
『論語』
八佾「子謂韶、盡美矣、又盡善也(何晏集解、孔曰、韶、舜樂名。謂以聖德受禪、故盡善)。謂武、盡美矣、未盡善也(孔曰、武、武王樂也。以征伐取天下、故未盡善)」。⑹ 其時乎 阮逸注「湯・武革命、一時之功、周行典禮、萬世之道」。
(七)子謂、史談善述九流⑴、知其不可廢、而知其各有弊也。安得長者之言哉⑵。
先生が評した「司馬談は九流の学術をしっかり闡明し、排除してはならないものを知りつつ、それぞれの流派が持つ弊害もわかっていた。一体どこからそんな優れた言葉を手に入れたのだろうか」。
⑴ 史談善述九流 阮逸注「司馬談爲太史、故曰史談。九流、一儒家、二道家、三陰陽家、四法家、五名家、六墨家、七縱横家、八雜家、九農家」。張氏注「司馬談撰文論六家要指、述九流者乃班固」。⑵ 子謂至言哉 阮逸注「逸謂、九流異道、猶五方殊俗、在致治者、因而利之、器而使之、故不廢而同歸於儒矣。長者言殊道無不容、無不通也。不廢則容之、有弊則排之。非真儒變通、不能極此」。『漢書』循吏傳・龔遂「王生曰、天子即問君何以治勃海、君不可有所陳對。宜曰、皆聖主之徳、非小臣之力也。遂受其言、既至前。上果問
四
以治狀、遂對如王生言。天子説其有讓、笑曰、君安得長者之言而稱之。遂因前曰、臣非知此、乃臣議曹教戒臣也」、『後漢書』朱浮傳贊「朱浮議諷苛察欲速之弊、然矣、焉得長者之言哉(李賢注、前書龔遂……)」。
(八)子曰、通其變⑴、天下無弊法。執其方、天下無善教。故曰、存乎其人⑵。
先生が言った「物事の変化に通じれば、この世に弊害のある法などなくなる。物事の法則に縛られれば、この世に善なる教化はなくなる。だから『すべてはそれを行なう人にかかっている』と言うのだ」。
⑴ 通其變
『周易』
繫辭傳上「參伍以變、錯綜其數。通其變、遂成天地之文。極其數、遂定天下之象。非天下之至變、其孰能與於此」、同繫辭傳下「神農氏沒、黄帝堯舜氏作、通其變、使民不倦(韓康伯注、通物之變、故樂其器用、不解倦也)」。⑵ 存乎其人
『周
易』繫辭傳上「神而明之、存乎其人(體神而明之、不假於象、故存乎其人)」。
(九)子曰、安得圓機之士⑴、與之共言九流⑵哉。安得皇極之主、與之共敘九疇哉⑶。
先生が言った「どうしたら囚われのない人物をつかまえて、彼と一緒に九流の学術について語り合うことができるのか。どうしたら世界の中心にいる人主に巡り会い、その方と一緒に政治の九疇について話し合うことができるのか」。
⑴ 圓機之士
『莊
子』盗跖「若是若非、執而圓機、獨成而意、與道徘徊」。⑵ 九流 周公篇(七)注⑴、參照。 ⑶ 安得皇極之主、與之共敘九疇哉 皇極、王道篇(一)注
六三德、七稽疑、八庶徵、九五福。皇極居九數之中、當主位也」。 九疇、阮逸注「九疇、一五行、二五事、三八政、四五紀、五皇極、 ⑿、參照。
(一〇)杜淹問、崔浩何人也⑴。子曰、迫人也。執小道、亂大經⑵。
杜淹が質問した「崔浩とはどういう人物でしょうか」。先生が言った「威迫する人物である。つまらない道に固執し、大いなる道を掻き乱した」。
⑴ 何人也 天地篇(四)注⑴、參照。⑵ 杜淹至大經 阮逸注「崔浩、字伯淵。好星暦及真君長生之術、蓋迫小不知通儒之道」。
(一一)程元曰、敢問豳風⑴何也。子曰、變風也⑵。元曰、周公之際、亦有變風乎。子曰、君臣相誚、其能正乎。成王終疑、則風遂變矣⑶。非周公至誠、孰能卒正之哉。元曰、豳居變風之末、何也。子曰、夷王已下、變風不復正矣⑷。夫子蓋傷之者也。故終之以豳風。言變之可正也、唯周公能之、故繫之以正⑸、歌豳曰周之本也。嗚呼、非周公孰知其艱哉⑹。變而克正、危而克扶⑺、始終不失於本。其惟周公乎。繫之豳、遠矣哉⑻。
程元が言った「ずばり質問しますが、『詩』豳風とはどういったものでしょうか」。先生が言った「変風である」。元が言った「周公の時代にも、変風があったのでしょうか」。先生が言った「君主と臣下が互いに咎め合っていて、正風であり得ようか。成王がずっと周公を疑うこともあり得たわけで、そのまま変風と相成ったのだ。周公の心からの誠がなければ、誰がその状況を正しきに導けただろうか」。元が言った「豳風が変風の末尾に置かれたのは、何故なのでしょうか」。先生が言った「夷王より時代が下がって、変風はもう正風となることはなかった。孔子はそのことを歎じられたのであろう。だから豳風で変風を閉じたのである。
五王通『中説』訳注稿(四) その意味は、変風を正せるのは、ただ周公だけであり、そのために続けて雅があって、豳風を詠って周室の根本だと言うのである。ああ、周公でなくて誰がこの苦心を解し得ようか。変風でありながらそれを正せ、危機にありながらそれを扶け起こし、いつでも根本を外すことがない。それは周公だけであろうか。その詩を豳風に置く、深遠な配慮であるなあ」。
⑴ 豳風 張氏注「豳風、詩・國風之十五、收錄七月・鴟鴞・東山・破斧・伐柯・九罭・狼跋等七詩」。⑵ 變風也 張氏注「變風、舊以邶風至豳風十三國風爲變風」。⑶ 君臣至變矣 阮逸注「儻金縢未開、則終疑周公」、『書』金縢「公歸、乃納册于金縢之匱中。……武王既喪、管叔及其羣弟、乃流言於國、曰、公將不利於孺子。……于後公乃爲詩以貽王、名之曰鴟鴞。王亦未敢誚公(孔安國傳、成王信流言、而疑周公。故周公既誅三監、而作詩解所以宜誅之意、以遺王。王猶未悟、故欲讓公而未敢)。……王與大夫盡弁、以啓金縢之書、乃得周公所自以爲功代武王之説」。『經典釋文』毛詩音義中「七月第十五(豳者、戎狄之地名也。夏道衰、后稷之曽孫公劉自邰出而居焉。……周公遭流言之難居東都、思公劉大王爲豳公、憂勞民事、以此叙己志、而作七月・鴟鴞之詩。成王悟而迎之、以致太平。故大師述其詩、爲豳國之風焉)」。⑷ 夷王已下、變風不復正矣 阮逸注「夷王下堂而見諸侯、周始衰微、國風遂變、不復雅正矣」、『禮記』郊特牲「覲禮、天子不下堂而見諸侯(鄭玄注、正君臣也)、下堂而見諸侯、天子之失禮也。由夷王以下(夷王、周康王之玄孫之子也。時微弱、不敢自尊於諸侯)」。⑸ 繫之以正 張氏注「繫之以正、繼之以雅」。⑹ 非周公孰知其艱哉
『詩』
豳風・七月序「七月、陳王業也。周公遭變、故陳后稷先公風化之所由、致王業之艱難也(鄭玄箋、周公遭變者、管蔡流言、辟居東都)」。 ⑺ 危而克扶 張氏注「論語・季氏、危而不持、顛而不扶、則將焉用彼相矣」。⑻ 繫之豳、遠矣哉 阮逸注「周公之詩、不繫周而繫豳者、正其本、存乎遠也」。
(一二)子曰、齊桓尊王室而諸侯服、惟管仲知之⑴。苻秦擧大號而中原靜、惟王猛知之⑵。或曰苻秦逆。子曰、晉制命者之罪也⑶、苻秦何逆。昔周制至公之命⑷、故齊桓・管仲不得而背也。晉制至私之命⑸、故苻秦・王猛不得而事也。其應天順命、安國濟民乎。是以武王不敢逆天命背人而事紂、齊桓不敢逆天命背人而黜周。故曰、晉之罪也、苻秦何逆。三十餘年⑹、中國士民、東西南北、自遠而至、猛之力也。
先生が言った「斉・桓公が周王室を尊崇して諸侯がそれに臣服したが、管仲だけがそのことを真に理解していた。前秦・苻堅が国号を掲げて中原が安寧を迎えたが、王猛だけがそのことを真に理解していた」。ある人が苻堅は反逆の徒だと言った。先生は言った「晋という命令を発する側の過失であり、苻堅が何の反逆をしたというのか。その昔、周公の発した命令は至公無私のものであり、ために斉・桓公と管仲もそれに背くことはできなかった。晋は身勝手な命令ばかりを発し、ために苻堅と王猛はそれに仕えることができなかった。天命に順応し、民衆を安定させるということだろうか。この点において武王は、天命に逆らったり民衆を裏切ったりしようとせずに、紂王に服事したことがあったし、斉・桓公は、天命に逆らったり民衆を裏切ったりしようとせずに、周を退けたことがあったのだ。だから晋の過失であって、苻堅が何の反逆をしたのか、と言ったのである。三十数年を経て、中国の民衆たちが、あらゆる地方から、遠方も厭わず帰心したのは、王猛のお陰である。
⑴ 齊桓尊王室而諸侯服、惟管仲知之 阮逸注「管仲、字夷吾。齊桓公伯諸侯、仲之力也。故曰知之」。『論語』憲問「子路曰、桓公殺公子
六
糾、召忽死之、管仲不死。曰、未仁乎。子曰、桓公九合諸侯、不以兵車、管仲之力也。如其仁、如其仁」、同「子貢曰、管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之。子曰、管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下。民到于今受其賜。微管仲、吾其被髮左袵矣。豈匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆而莫之知也」。⑵ 苻秦擧大號而中原靜、惟王猛知之 阮逸注「前秦苻堅、得天下三分之二、故曰中原静也、亦其相王猛之力」。⑶ 晉制命者之罪也 制命、『左傳』閔公二年「夫帥師、專行謀、誓軍旅、君與國政之所圖也、非大子之事也、師在制命而已(杜預注、命、將軍所制)」。『大戴禮記』王言「夫政之不中、君之過也。政之既中、令之不行、職事者之罪也。明王奚爲其勞也」。⑷ 周制至公之命 阮逸注「若策命曰、五侯・九伯、汝實征之。是至公也」、『左傳』僖公四年「管仲對曰、昔召康公命我先君大公(召康公、周太保召公奭也)、曰、五侯九伯、女實征之、以夾輔周室(五等諸侯九州之伯、皆得征討其罪、齊桓因此命以夸楚)」。⑸ 晉制至私之命 阮逸注「惠帝已後、賄賂大行天下、謂之互市」。⑹ 三十餘年 張氏注「三十餘年、前秦自苻洪立國、至建元十九年苻堅兵敗被殺、凡三十三年」。
(一三)子曰、苻秦之有臣、其王猛之所爲乎⑴。元魏之有主、其孝文之所爲乎。中國之道不墜⑵、孝文之力也⑶。
先生が言った「前秦・苻堅に優れた臣下が集まったのは、王猛の作用によるのだろうかね。北魏に優れた君主が存在したのは、孝文帝の作用によるのだろうかね。中国の道が失墜しなかったのは、孝文帝の力によるのである」。
⑴ 其王猛之所爲乎
『周易』
繫辭傳上「子曰、知變化之道者、其知神之所爲乎(韓康伯注、夫變化之道、不爲而自然、故知變化者、則知神 之所爲)」。⑵ 中國之道不墜
『論語』
子張「衞公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉學。子貢曰、文武之道、未墜於地、在人。賢者識其大者、不賢者識其小者、莫不有文武之道焉。夫子焉不學、而亦何常師之有」。⑶ 孝文之力也 阮逸注「都洛邑、興文物」。
(一四)太原府君曰、溫子昇何人也⑴。子曰、險人也。智小謀大⑵。永安之事、同州府君常切齒焉、則有由也⑶。
太原府君(弟・王凝)が言った「温子昇とはどういう人物でしょうか」。先生が言った「険凶な人物である。取るに足りない知識ながら逞しい謀略を企てる。永安年間のことについて、同州府君(三世祖・王彦)がいつも憤慨していたのは、理由のあることなのだ」。
⑴ 何人也 天地篇(四)注⑴、參照。⑵ 智小謀大
『周易』
繫辭傳下「子曰、德薄而位尊、知小而謀大、力小而任重、鮮不及矣」。⑶ 太原至由也 阮逸注「溫子昇、字鵬擧。掌魏國文翰。性似静而實深險。其後與元瑾謀逆坐誅。永安、莊帝年號也。時魏國大亂。切齒、未詳」。張氏注「永安三年、孝莊帝誅殺權臣爾朱榮、爾朱氏遂作亂。十二月、爾朱兆・爾朱度律襲京城、帝出雲龍門。兆逼帝幸永寧佛寺、後遷帝於晉陽、害帝於城内三級寺。見魏書・孝莊紀」。
(一五)子讀三祖上事⑴、曰、勤哉、而不補也⑵。無謂魏・周無人。吾家適不用爾。
先生が三世の祖・王彦の事績を読んで言った「何と勤勉でありながらも、世に益することができなかった。北魏・北周の時代に人材がいなかったと言ってはならない。我が王家がたまたま任用されなかったに過ぎない」。
七王通『中説』訳注稿(四) ⑴ 子讀三祖上事 阮逸注「讀魏書也」。⑵ 勤哉、而不補也 阮逸注「見同州府君勤王事跡也」。
(一六)子之家廟、座必東南向、自穆公始也。曰、未志先人之國⑴。
先生の家の廟は、必ず東南の方を向いており、それは穆公(四世祖・王虬)より始まった。言うには「先人のいらした国(東晋と南朝宋)のことを忘れてしまわないようにするのだ」。
⑴ 子之至之國 阮逸注「穆公虬、自宋奔魏。自是廟座向東南」、張氏注「先人之國、謂東晉與南朝宋。王通祖上随晉室南遷、居江東三世、至穆公奔魏北歸、始家河汾、故云。問易篇、未忘中國、穆公之志也」。
(一七)遼東之役、子聞之曰⑴、禍自此始矣⑵。天子不見伯益讚禹之詞⑶、公卿不用魏相諷宣帝之事⑷。
遼東の役のことを先生は耳にされて言った「災禍はここから始まったのだ。天子は伯益が禹に進めた助言を目にせず、公卿たちは魏相が宣帝を諫めた故事を採用しなくなった」。
⑴ 子聞之曰 周公篇(四)注⑷、參照。⑵ 遼東至始矣 阮逸注「煬帝大業八年征遼、二百萬衆並陷。九年又征之、山東始亂。十年又征、天下遂喪」。『史記』蕭相國世家「召平謂相國曰、禍自此始矣」。⑶ 天子不見伯益讚禹之詞 阮逸注「益讚于禹曰、惟德動天、無遠弗届。禹乃班師振旅、七旬苗格」、『書』大禹謨「益贊于禹曰、惟德動天、無遠弗届(孔安國傳、贊佐、届至也。益以此義佐禹、欲其修德致遠)……禹拜昌言曰、俞、班師振旅(昌、當也。以益言爲當、故 拜受而然之、遂還師。兵入曰振、旅言整衆)。帝乃誕敷文徳(遠人不服、大布文徳以來之)、舞干羽于兩階(干楯、羽翳也。皆舞者所執、修闡文教。舞文舞于賓主階閒、抑武事)。七旬有苗格(討而不服、不討自來。明御之者必有道)」。⑷ 公卿不用魏相諷宣帝之事 阮逸注「漢宣帝使趙充國擊匈奴、魏相諫曰、臣聞恃大威者爲驕兵、兵驕者滅、非但人事、乃天道也」、詳見于『漢書』魏相傳。
(一八)王孝逸謂子曰、天下皆爭利棄義、吾獨若之何。子曰、舍其所爭、取其所棄、不亦君子乎⑴。
王孝逸が先生に言った「世の中の人がすべて利益を争い正義を放棄しており、私一人でどうしたらよいものでしょうか」。先生が言った「彼らが争っている物を放捨し、棄てているものを握取すれば、それこそ君子ではないですか」。
⑴ 不亦君子乎
『論語』
學而「有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」。
(一九)子謂賈瓊・王孝逸・凌敬曰、諸生何樂。賈瓊曰、樂閑居。子曰、靜以思道、可矣。王孝逸曰、樂聞過⑴。子曰、過而屢聞、益矣。凌敬曰、樂逢善人。子曰、多賢、不亦樂乎⑵。
先生が賈瓊・王孝逸・凌敬に言った「君たちは何を楽しみとしているか」。賈瓊が言った「のんびりと暮らすことを楽しみとしています」。先生が言った「静謐であることで道に思いを致す、それはよい」。王孝逸が言った「自らの過失について知ることを楽しみとしています」。先生が言った「過失があってそれを常々耳にする、それは自分のためになる」。凌敬が言った「優れた人間の知遇を得ることを楽しみとしています」。先生が言った「賢人が多くいる、それは何と楽しいことではない
八
か」。
⑴ 王孝逸曰、樂聞過 阮逸注「思益」、『論語』衞靈公「子曰、吾嘗終日不食、終夜不寢、以思無益、不如學也」。⑵ 子曰、多賢、不亦樂乎
『論
語』季氏「樂友賢友、益矣」、又周公篇(一八)注⑴、參照。
(二〇)薛收遊於館陶⑴、適與魏徵歸。告子曰、徵、顏・冉之器也。徵宿子之家、言六經⑵、踰月不出。及去、謂薛收曰、明王不出而夫子生。是三才九疇 ⑶屬布衣也。
薛収が館陶に遊学し、たまたま帰り道で魏徴と一緒になった。先生に報告して言うには「魏徴は顔回・冉有といった類の人物です」。魏徴が先生の家に投宿し、続六経について語って、一ヶ月を越えても先生の家を出なかった。立ち去る段になって、薛収に対して言った「賢明なる君主が登場せずとも先生がお生まれになった。三才九疇の学問が一介の民たる先生の手にかかっているということだ」。
⑴ 館陶 阮逸注「魏有館陶縣」。⑵ 言六經 張氏注「六經、謂續六經」。⑶ 三才九疇 三才、王道篇(一)注
⒀、參照。九疇、王道篇(一)注
參照。 ⑿、
(二一)劉炫⑴見子、談六經、唱其端、終日⑵不竭。子曰、何其多也。炫曰、先儒異同、不可不述也。子曰、一以貫之、可矣、爾以尼父爲多學而識之耶⑶。炫退、子謂門人曰、榮華其言⑷、小成其道⑸。難矣哉⑹。
劉炫が先生と面会し、続六経のことを語ると、その端緒についての言葉だけで、一日を費やしても止まなかった。先生は言った「何でそんなにも語るのか」。炫が言った「先儒の言説の異同を、述べ尽くさないで はいられません」。先生は言った「一つの根本でもって貫かれていれば、それでよく、あなたは孔子が学問を様々に積んだ結果としての物知りだとお考えか」。炫が引き下がると、先生は門人に言った「誇らしげに多くを語り、取るに足りない道を達成しようとする。これでは孔子の一門には入り難いなあ」。
⑴ 劉炫 張氏注「劉炫、字光伯、河間景城人、隋代名儒、與劉焯並稱二劉。隋初嘗奉敕參修國史及天文律暦。時牛弘奏請購求遺逸之書、炫僞造古書百餘卷、題爲連山易・魯史記等、送官取賞、事發除名。太子勇敕令事蜀王秀、炫遷延不往、枷送益州。及蜀王廢、與諸儒修定五禮。煬帝即位、牛弘引炫修律令。除太學博士、歳餘去任、奉敕追詣行在所。或言其無行、乃罷歸河間。時羣盗蜂起、凍餒而死。見隋書・儒林傳」。⑵ 終日 周公篇(一九)注⑴、參照、又『論語』陽貨「子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉」。⑶ 一以至之耶
『論語』
衞靈公「子曰、賜也、女以予爲多學而識之者與。對曰、然(何晏集解、孔曰、然謂多學而識之)、非與(孔曰、問今不然)。曰、非也。予一以貫之(善有元、事有會。天下殊塗而同歸、百慮而一致、知其元、則衆善擧矣。故不待多學而一以知之)」。又同子罕「大宰問於子貢曰、夫子聖者與。何其多能也(孔曰、疑孔子多能於小藝)。子貢曰、固天縱之將聖、又多能也(孔曰、言天固縱大聖之德、又使多能也)。子聞之曰、大宰知我乎。吾少也賤、故多能鄙事。君子多乎哉、不多也(包曰、我少小貧賤、常自執事、故多能爲鄙人之事。君子固不當多能)」。⑷ 榮華其言 程頤「顔子所好何學論」(『河南程氏文集』卷八)「後人不達、以謂聖本生知、非學可至、而爲學之道遂失、不求諸己而求諸外、以博文強記巧文麗辭爲工、榮華其言。鮮有至於道者、則今之學、與顔子所好異矣」。
九王通『中説』訳注稿(四) ⑸ 榮華其言、小成其道 張氏注「莊子齊物論、道隱於小成、言隱於榮華」。⑹ 難矣哉 阮逸注「難入尼父之門矣」。又注⑵、參照。
(二二)凌敬問禮樂之本、子曰、無邪⑴。凌敬退、子曰、賢哉⑵、儒也。以禮樂爲問⑶。
凌敬が礼楽の根本を問うと、先生は言った「感情が正しいところに帰着することだ」。凌敬が引き下がると、先生は言った「賢儒と言うべきだなあ。礼楽について問うとは」。
⑴ 無邪 阮逸注「禮樂本乎情、情無邪、則貌恭而氣和。恭、禮也。和、樂也」。『論語』爲政「子曰、詩三百(何晏集解、孔曰、篇之大數)、一言以蔽之(包曰、蔽猶當也)、曰、思無邪(包曰、歸於正)」、『詩』魯頌・駉「思無邪、思馬斯徂(鄭玄箋云、思遵伯禽之法、專心無復邪意也)」。⑵ 賢哉
『論
語』雍也「子曰、賢哉、回也。一簞食、一瓢飲。在陋巷、人不堪其憂。回也、不改其樂。賢哉、回也」。⑶ 凌敬至爲問
『論語』
八佾「林放問禮之本(鄭曰、林放、魯人)。子曰、大哉問。禮、與其奢也、寧儉。喪、與其易也、寧戚(包曰、易、和易也。言禮之本意、失於奢、不如儉。喪、失於和易、不如哀戚)」。
(二三)子曰、大風安不忘危、其霸心之存乎⑴。秋風樂極哀來、其悔志之萌乎⑵。
先生が言った「大風の歌が安定の中で危険に気を配るのは、漢・高祖に覇王たらんとの心意気があったからだろうか。秋風の歌が楽しみを極めた先に哀しみを催すのは、漢・武帝に後悔の思いが萌生したからだろうか」。 ⑴ 大風安不忘危、其霸心之存乎 阮逸注「漢高祖歌云、安得猛士兮守四方。此不忘武備、而心在雜霸也」、『史記』高祖本紀「酒酣、高祖撃筑、自爲歌詩曰、大風起兮雲飛揚、威加海内兮歸故郷、安得猛士兮守四方」。⑵ 秋風樂極哀來、其悔志之萌乎 阮逸注「漢武歌云、歡樂極兮哀情多。此悔悟前過、志形哀痛之詔也」、漢武帝「秋風辭」(『文選』卷四十五)「歡樂極兮哀情多、少壯幾時兮奈老何」。
(二四)子曰、詩・書盛而周⑴世滅、非仲尼之罪也。虚玄長而晉室亂、非老・莊之罪也⑵。齋戒修而梁國亡、非釋迦之罪也⑶。易不云乎。苟非其人、道不虚行⑷。
先生が言った「『詩』『書』が盛んに行なわれながら周王朝が滅んだのは、仲尼の罪ではないのだ。虚静玄遠の道が流行して晋王室が乱れたのは、老子・荘子の罪ではないのだ。仏法の道を崇信して梁王朝が滅んだのは、釈迦の罪ではないのだ。『周易』にも言うではないか。『然るべき人物でなければ、道というのは虚しくして行なわれない』と」。
⑴ 周 元作秦、張氏注「秦當爲周之誤、説見尹協理・魏明『王通論』(中國社會科學出版社、一九八四年、第三三頁)」。⑵ 虚玄長而晉室亂、非老・莊之罪也 阮逸注「老・莊存太古之教、非適時之典。晉賢蕩焉、故亂」、『晉書』儒林傳序「有晉始自中朝、迄於江左、莫不崇飾華競、祖述虚玄」。⑶ 齋戒修而梁國亡、非釋迦之罪也 阮逸注「釋氏本空寂之法、非化俗之原。梁主惑焉、故亡」。⑷ 易不云乎。苟非其人、道不虚行 阮逸注「聖人非不知太古之樸、空寂之性、然而應物致理、必有制焉。晉賢蕩、梁主惑、非立人之制也。故虚行者爾」。『周易』繫辭傳下「苟非其人、道不虚行」。
一〇
(二五)或問佛。子曰、聖人也⑴。曰、其教何如。曰、西方之教也⑵、中國則泥⑶。軒車不可以適越⑷、冠冕不可以之胡、古之道也⑸。
或る人が仏について質問した。先生は言った「聖人である」。(ある人が)言った「その教えは如何でしょうか」。(先生は)言った「西域の教えであり、中国はそれに耽溺した。大夫以上が乗る車も越の国では走れないし、立派な衣冠も夷狄の地位には役立たず、昔からそのようなのだ」。
⑴ 聖人也 阮逸注「聖人之寂滅者」。⑵ 西方之教也 阮逸注「西方化外可行、非中國禮義之俗可習」。⑶ 中國則泥 阮逸注「泥猶溺也」。⑷ 軒車不可以適越
『莊子』
逍遥遊「宋人資章甫而適諸越、越人斷髮文身、無所用之」。⑸ 古之道也 阮逸注「越舟而不車、胡髪而不冠。古者夷不亂華」。『論語』八佾「子曰、射不主皮、爲力不同科、古之道也」。
(二六)或問宇文儉⑴。子曰、君子儒也⑵。疏通知遠⑶、其書之所深乎。銅川府君重之、豈徒然哉⑷。
ある人が宇文倹について問うた。先生は言った「君子たる儒者だ。物事の大綱をすっきりと提示し、はるか過去の事跡にまで精通しているのは、『書』の深遠さを体得しているのだろうね。銅川府君(父・王隆)が彼のことを重んじたのも、理由あってのことだったのだ」。
⑴ 宇文儉 張氏注「宇文儉、宇文泰第十三子、字侯幼突。北周明帝武成初、封譙國公。武帝天和中、拝大將軍。尋遷柱國、出爲益州總管。建德三年、進爵爲王。五年、東伐、以本官爲左一軍總管。六年拝大冢宰。是歳、稽胡反、詔儉爲行軍總管、與齊王憲討之。有胡帥自號天柱者、據守河東。儉攻破之、斬首三千級。宣政元年二月薨。見周書・文閔明武宣諸子傳。其深於書之事不詳」、墓誌見于羅新・ 葉煒『新出魏晉南北朝墓誌疏證』一〇六(中華書局、二〇〇五)。⑵ 君子儒也
『論
語』雍也「子謂子夏曰、女爲君子儒、無爲小人儒(何晏集解、孔曰、君子爲儒、將以明道。小人爲儒、則矜其名)」。⑶ 疏通知遠
『禮
記』經解「孔子曰、入其國、其教可知也(鄭玄注、觀其風俗、則知其所以教)。其爲人也、……疏通知遠、書教也。……書之失誣……疏通知遠而不誣、則深於書者也(言深者既能以教、又防其失。孔穎達疏、書錄帝王言誥、舉其大綱、事非繁密、是疏通。上知帝皇之世、是知遠也)」。⑷ 豈徒然哉
『後
漢書』朱浮傳「求之於事、宜以和平、而災異猶見者、而豈徒然」、同梁冀傳論「況乃傾側孽臣、傳寵凶嗣、以至破家傷國、而豈徒然哉」。
(二七)子遊太樂⑴、聞龍舟五更之曲⑵。瞿然⑶而歸、曰、靡靡樂也⑷。作之邦國焉、不可以遊矣。
先生が太楽署に出かけると、龍舟五更の曲を耳にした。驚愕して地元に戻ると言った「淫靡なること甚だしい音楽である。これが国中にはびこっているようでは、その役所に出かけて行ってはならない」。
⑴ 太樂 阮逸注「樂署」、張氏注「太樂、即太樂署、屬太常寺。見隋書・百官志下」。⑵ 聞龍舟五更之曲 阮逸注「煬帝將遊江都宮、作此曲」。⑶ 瞿然
『禮
記』檀弓下「公瞿然失席曰、是寡人之罪也(陸德明・經典釋文云、瞿、本又作惧)」。⑷ 靡靡樂也 阮逸注「紂作靡靡之樂、亡國之音也」、『禮記』樂記「桑間濮上之音、亡國之音也。其政散、其民流、誣上行私、而不可止也(鄭玄注、濮水之上地、有桑閒者。亡國之音、於此之水出也。昔殷紂使師延作靡靡之樂、已而自沈於濮水。後師涓過焉、夜聞而寫之、爲晉平公鼓之、是之謂也)」、『史記』殷本紀「(帝紂)愛妲己、妲己之
一一王通『中説』訳注稿(四) 言是從。於是使師涓作新淫聲、北里之舞、靡靡之樂」。
(二八)子謂姚義、盍官乎⑴。義曰、捨道干祿⑵、義則未暇。子曰、誠哉⑶。
先生が姚義に言った「どうして仕官しないのか」。義が言った「道を打ち捨てて俸禄を追求することに、私は係っている暇はありません」。先生が言った「本当にそうだなあ」。
⑴ 盍官乎 事君篇(四)注⑴及
⑵干祿 ⑽、參照。
『論
語』爲政「子張學干祿(何晏集解、鄭曰、干、求也。祿、祿位也)。子曰、多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤。多見闕殆、愼行其餘、則寡悔。言寡尤、行寡悔、祿在其中矣(鄭曰、言行如此、雖不得祿、亦同得祿之道)」。⑶ 誠哉 阮逸注「信有此」、『論語』子路「子曰、善人爲邦百年、亦可以勝殘去殺矣(王曰、勝殘、殘暴之人使不爲惡也。去殺、不用刑殺也)。誠哉是言也(孔曰、古有此言、孔子信之)」。
(二九)或問荀彧・荀攸。子曰、皆賢者也。曰、生死何如⑴。子曰、生以救時、死以明道、荀氏有二仁焉⑵。
ある人が荀彧と荀攸について質問した。先生は言った「いずれも賢者である」。(ある人が)言った「一方(荀彧)が死に、一方(荀攸)が生きたという点は、如何でしょうか」。先生は言った「生きては時代を救い、死んでは道を明らかにし、荀氏には二人の仁なる人物がいたのだ」。
⑴ 生死何如 阮逸注「彧死攸生」。⑵ 或問至仁焉 阮逸注「彧、字文若。佐魏祖有大功。或謂魏祖宜加九錫、彧曰、本起義兵、所以正朝安國也。君子愛人以德、不宜如此。魏祖聞之不悅。彧飲藥而死。彧從子攸、字公達。魏國初建、參謀帷幄、擧事慎密、雖子弟不能知。魏祖常稱曰、荀令君之仁、荀軍師之 智。又曰、令君擧善、不進不休、軍師去惡、不去不止。然彧初仕漢、漢亡則死。攸獨仕魏、魏存則生。明道救時、皆謂仁矣」。張氏注「論語微子、微子去之、箕子爲之奴、比干諫而死。孔子曰、殷有三仁焉」。又事君篇(三〇)注⑵、參照。
(三〇)子曰、言而信、未若不言而信⑴。行而謹、未若不行而謹。賈瓊曰、如何。子曰、推之以誠、則不言而信⑵、鎮之以靜、則不行而謹⑶。惟有道者能之⑷。
先生が言った「発言して信義があるのは、発言せずとも信義があるのに及ばない。行動して恭謹であるのは、行動せずとも恭謹であるのに及ばない」。賈瓊が言った「どういうことですか」。先生は言った「自らというものを誠でもって展開していけば、発言せずとも信義があり、自らというものを静なる状態に落ち着けていれば、行動せずとも恭謹である。ただ道を弁えた者だけにできることだ」。
⑴ 言而信、未若不言而信
『周易』
繫辭傳上「黙而成之、不言而信、存乎德行(韓康伯注、德行、賢人之徳行也。順足於内、故黙而成之也。體與理會、故不言而信也)」、『禮記』樂記(又見于祭義)「天則不言而信、神則不怒而威」、同中庸「故君子不動而敬、不言而信」、同表記「子言之、歸乎、君子隱而顯、不矜而莊、不厲而威、不言而信」。⑵ 推之以誠、則不言而信 阮逸注「心至誠、雖未言、人已知其必信矣」。⑶ 鎮之以靜、則不行而謹 阮逸注「性復静、雖未行、人知必謹」。⑷ 惟有道者能之
『老子』
第七十七章「孰能有餘、以奉天下。唯有道者。是以聖人爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢」。
(三一)楊素謂子曰、甚矣⑴。古之爲衣冠裳履、何樸⑵而非便也。子曰、先王法服⑶、不其深乎。爲冠所以莊其首也、爲履所以重其足也。衣裳襜
一二
如⑷、劍佩鏘如⑸。皆所以防其躁也⑹。故曰、儼然人望而畏之⑺。以此防民⑻、猶有疾驅於道者。今捨之曰不便、是投魚於淵、寘猿於木也、天下庸得不馳騁而狂乎。引之者非其道也⑼。
楊素が先生に対して言った「すさまじいなあ。古の冠・服飾・履物は、何と飾り気なく不便なことだろう」。先生が言った「先王の時代の正装とは、深い意図が籠められているのだなあ。冠とはその頭部を荘厳にするためのもので、履物とはその足部を大切にするためのものだ。服飾は立派に整い、帯びた剣は威儀を示す音がする。どれも軽薄な行動を慎むためのものだ。だから『人々が厳かなものとして仰ぎ慕って畏怖する』と言うのだ。このように民衆の至らぬ点を補っても、なお巷では悪事に手を出す輩がいる。今それらの事実を無視して「不便」などと言うのは、魚を水中に投げ入れ、猿を木々に放つようなもので、世の中の人々が狂気の方向に走り出さないわけがなかろう。民衆を率い導く人間が道に則っていないのだ」。
⑴ 甚矣 事君篇(七)注⑴、參照。⑵ 樸 阮逸注「樸、虚裝貌」。⑶ 先王法服
『孝經』
卿大夫章「非先王之法服不敢服(唐玄宗注、服者、身之表也。先王制五服、各有等差。言卿大夫遵守禮法、不敢僭上偪下)」、『世説新語』方正「操絲比竹、蓋樂官之事、不可以先王法服、爲伶人之業」。⑷ 襜如
『論語』
郷黨「揖所與立、左右手、衣前後、襜如也(朱熹集注、襜、整貌)」。⑸ 劍佩鏘如 阮逸注「帶劒示威、垂珮合節。鏘如、響聲」。⑹ 皆所以防其躁也 阮逸注「威重有節、則躁無自入焉」。⑺ 儼然人望而畏之
『論語』
堯曰「君子正其衣冠、尊其瞻視、儼然人望而畏之、斯不亦威而不猛乎」。⑻ 以此防民
『禮記』
坊記「子言之、君子之道、辟則坊與、坊民之所不 足者也(鄭玄注、民所不足、謂仁義之道也。失道則放辟邪侈也)」。⑼ 引之者非其道也 阮逸注「責素不以禮引人」。『詩』大雅・行葦「黄耉台背、以引以翼(毛傳、台背、大老也。引長翼敬也。鄭玄箋、台之言鮐也。大老則背有鮐文、既告老人、及其來也、以禮引之、以禮翼之。在前曰引、在旁曰翼)」。
(三二)董常歌邶柏舟⑴。子聞之曰⑵、天實爲之、謂之何哉⑶。
董常が『詩』邶風・柏舟のうたを歌った。先生がこれを耳にして言った「天がそうさせたのだ、それをどうしろと言うのか」。
⑴ 董常歌邶柏舟 阮逸注「言仁不遇也。衛頃公之時、仁人不遇、小人在側。卒章云、憂心悄悄、愠於羣小」。『詩』邶風・柏舟序「柏舟。言仁而不遇也。衞頃公之時、仁人不遇、小人在側(鄭玄箋、不遇者、君不受己之志也。君近小人、則賢者見侵害)」、同卒章「憂心悄悄、愠于羣小(毛傳、愠、怒也。悄悄、憂貌。箋、羣小、衆小人在君側者)」。⑵ 子聞之曰 周公篇(四)注⑷、參照。⑶ 天實爲之、謂之何哉 阮逸注「此北門篇也。刺仕不得志。煬帝任羣小、仁人憂之。言董常不遇者天也」。『詩』邶風・北門「序。北門。刺士不得志也。言衞之忠臣、不得其志爾(箋、不得其志者、君不知己志、而遇困苦)。……已焉哉、天實爲之、謂之何哉(箋、謂勤也。詩人事君無二志、故自決歸之於天。我勤身以事君、何哉、忠之至)」。
(三三)邳公⑴好古物、鐘鼎什物、圭璽錢具必具。子聞之曰⑵、古之好古者聚道⑶、今之好古者聚財⑷。
邳公(蘇威)は古い品が好みで、鐘や鼎、日用の器物から玉璧・印璽・貨銭に至るまで、取り揃えない物はなかった。先生はそれを耳にして
一三王通『中説』訳注稿(四) 言った「古の世で古を好んだ者は道を備えようとし、今の世で古を好む者は財物を集めようとする」。
⑴ 邳公 阮逸注「蘇威封邳國公」、張氏注「邳公、指蘇威。蘇威字無畏、京兆武功人、蘇綽之子。初仕周、隋文帝受禪、徴拝太子少保。追贈其父爲邳國公、以威襲焉。威與高熲參掌朝政、同心協贊、天下稱治。煬帝嗣位、尊重莫與爲比。宇文化及弑逆、以威爲光祿大夫・開府儀同三司。化及敗、歸於李密。未幾密敗、歸東都、越王侗以爲上柱國・邳公。王充僭號、署太師。秦王平王充、威請見、王遣人數之。尋歸長安、至朝堂請見、又不許。卒於家、時年八十二。見隋書・蘇威傳」。⑵ 子聞之曰 周公篇(四)注⑷、參照。⑶ 聚道
『周
易』革「用大牲吉(王弼注、全乎聚道、用大牲乃吉也。聚道不全、而用大牲、神不福也)」。⑷ 聚財 阮逸注「聚珍異之器」。
(三四)子謂仲長子光曰、山林可居乎。曰、會逢其適也、焉知其可⑴。子曰、達人哉⑵。隱居放言也⑶。子光退、謂董・薛曰、子之師、其至人乎⑷。死生一矣、不得與之變⑸。
先生が仲長子光に対して言った「山林ではお暮しになれますか」。(子光は)言った「たまたまそこに暮らせることになるのであって、暮らせるかどうかは、わかりますまい」。先生が言った「道理がわかった人だなあ。隠れ住んで世の中のことに言葉を費やさない」。子光は引き下がって、董常・薛収に向かって言った「あなた方の師匠は、この上ない人(至人)ではないですか。生と死が一つのものであり、その変化に惑わされないのです」。
⑴ 會逢其適也、焉知其可 阮逸注「會當其意有所適、則居之耳。不知 其可不可也」。王績「答馮子華處士書」(『王無功集』卷下)「夫人生一世、忽同過隙。合散消息、周流不居。偶逢其適、便可」。『論語』爲政「子曰、人而無信、不知其可也(何晏集解、孔曰、言人而無信、其餘終無可)」。⑵ 達人哉 事君篇(二〇)、參照。⑶ 隱居放言也
『論語』
微子「謂虞仲・夷逸隱居放言(包曰、放、置也。不復言世務)、身中清、廢中權(馬曰、清、純潔也。遭世亂、自廢棄以免患合於權也)」。⑷ 子之師、其至人乎 至人、事君篇(一二)注⑻、參照。杜淹「文中子世家」「(子)寢疾七日而終。門弟子數百人、會議曰、吾師其至人乎。自仲尼已來、未之有也」。⑸ 死生一矣、不得與之變 阮逸注「極乎道爲至人、死生不變其道者、一貫天下者也」。『莊子』德充符「老聃曰、胡不直使彼以死生爲一條、以可不可爲一貫者、解其桎梏、其可乎」、『淮南子』精神訓「以死生爲一化、以萬物爲一方」。『莊子』德充符「仲尼曰、死生亦大矣、而不得與之變」。
(三五)薛收問隱。子曰、至人天隱⑴。其次地隱⑵。其次名隱⑶。
薛収が「隠」ということについて問うた。先生は言った「最高の人は生まれたままの本性の中に没入する。その次は山林の中に退避して高潔を全うする。その次は世に紛れて名声を掻き消す」。
⑴ 至人天隱 阮逸注「藏其天真、高莫窺測」。⑵ 其次地隱 阮逸注「避地山林、絜身全節」。⑶ 其次名隱 阮逸注「名混朝市、心在世外」。『論語』憲問「子曰、賢者辟世(何晏集解、孔曰、世主莫得而臣)、其次辟地(馬曰、去亂國適治邦)、其次辟色(孔曰、色斯擧矣)、其次辟言(孔曰、有惡言、乃去)。子曰、作者七人矣(包曰、作、爲也。爲之者凡七人、謂長沮・
一四
桀溺・丈人・石門・荷蕢・儀封人・楚狂接輿)」。
(三六)子謂姚義能交。或曰簡。子曰、所以爲能也⑴。或曰廣。子曰、廣而不濫。又所以爲能也⑵。
先生が姚義は交友に長けていると評した。ある人が「穏やかで物静かです」と言った。先生は言った「だから交友に長けているのだよ」。ある人が「交際の幅が広い」と言った。先生は言った「幅広くありながらでたらめではない。これまた彼が交友に長けている理由なのだ」。
⑴ 所以爲能也
『戰國策』
楚三「夫䲷棊之所以能爲者、以散棊佐之也」。⑵ 廣而不濫。又所以爲能也 阮逸注「泛愛中有擇」。
(三七)子謂晁厝⑴、率井田之序、有心乎復古矣⑵。
先生が晁錯を評して言った「井田制の実施を唱え、古へと戻ろうという心意気があったのだ」。
⑴ 晁厝 張氏注「晁厝、即晁錯、潁川人、早年學申商刑名、文帝時爲太子家令、數上書言削諸侯事、遷中大夫。景帝即位、遷爲御史大夫。晁錯奏請削諸侯之地、收其枝郡。呉楚七國以誅錯爲名反、上令晁錯衣朝衣斬東市。見史記・袁盎晁錯列傳」。⑵ 子謂至古矣 阮逸注「晁厝説文帝曰、五口之家、服作者不過二人、能耕者不過百畝。古者一夫一婦、受田百畝、此井田之制也。文帝不能行、故漢致治不及三代。文中子惜其有復古之心焉」。
(三八)賈瓊問續書之義。子曰、天子之義、列乎範者有四。曰制⑴、曰詔⑵、曰志⑶、曰策⑷。大臣⑸之義、載於業者有七。曰命⑹、曰訓⑺、曰對⑻、曰讚⑼、曰議⑽、曰誡⑾、曰諫⑿。
賈瓊が『続書』の義例とは何かを問うた。先生は言った「天子の義例で 範式として列せられているのは四つある。「制」であり「詔」であり、「志」であり「策」である。大臣の義例で順番に記載されているのは七つである。「命」、「訓」、「対」、「讃」、「議」、「誡」、「諫」である。
⑴ 曰制 阮逸注「制、命也。秦改命爲制、漢因之」。⑵ 曰詔 阮逸注「詔、令也。秦改令爲詔、漢因之」。⑶ 曰志 阮逸注「志謂帝王有志於治道、而未形乎制詔者也」。⑷ 曰策 阮逸注「求直言而策慮之」。⑸ 大臣 事君篇(一一)注⑵、參照。⑹ 曰命 阮逸注「爵命」。⑺ 曰訓 阮逸注「師訓」。⑻ 曰對 阮逸注「奏對」。⑼ 曰讚 阮逸注「襄讚」。⑽ 曰議 阮逸注「評議」。⑾ 曰誡 阮逸注「監誡」。⑿ 曰諫 阮逸注「箴諫」。
(三九)文中子曰、帝者之制、恢恢乎⑴其無所不容。其有大制、制天下而不割乎⑵。其上湛然、其下恬然⑶。天下之危、與天下安之、天下之失、與天下正之⑷。千變萬化⑸、吾常守中焉⑹。其卓然⑺不可動乎。其感而無不通乎⑻。此之謂帝制矣⑼。
文中子が言った「帝王の制度は広大であって何物をも許容してくれる。大いなる制度であって、この世を統制するが細切れに区分はしないのだ。お上は穏やかで落ち着き、下々は安らいで静かでいる。この世の危機に際しては、世の人々と一緒にそれを安寧へと導き、この世に過失があれば、世の人々とともにそれを是正する。どんな変化があろうとも、私はその振れない真ん中を墨守しようと言う。すっくと抜きん出て動揺させられないのか。すべてを感じ取って精通しないものはないのか。こ
一五王通『中説』訳注稿(四) れを帝王の制度と言うのである」。
⑴ 恢恢乎
『老 子』第七十三章「天網恢恢、疏而不失」、『莊子』養生主「彼節者有間、而刀刃者无厚、以无厚入有間、恢恢乎其於遊刃必有餘地矣」。⑵ 其有大制、制天下而不割乎
『老子』
第二十八章「樸散則爲器、聖人用之、則爲官長、故大制不割(王弼注、大制者、以天下之心爲心、故無割也)」。⑶ 其上湛然、其下恬然 阮逸注「湛・恬、皆靜」。⑷ 天下之危至與天下正之 阮逸注「凡擧一事、必以天下同之」。⑸ 千變萬化 『列子』
周穆王「千變萬化、不可窮極」。⑹ 守中焉 阮逸注「吾常、假帝制自謂也」。張氏注「守中、虚懷以待。老子五章、天地之間、其猶槖籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言數窮、不如守中」。⑺ 卓然 『論語』
子罕「如有所立、卓爾雖欲從之、末由也已(何晏集解、孔曰、……其有所立、則又卓然不可及)」。⑻ 其感而無不通乎 張氏注「易繫辭上、易無思也、無爲也、寂然不動、感而遂通天下之故」。⑼ 文中至制矣 阮逸注「言二帝之典、三王之誥、兩漢之記、皆同制矣」。帝制、王勃「倬彼我系」(『王子安集注』卷三)「爰述帝制、大蒐王道」。
(四〇)文中子曰、易之憂患⑴、業業焉⑵、孜孜焉⑶。其畏天⑷憫人、思及時而動乎⑸。繁師玄曰、遠矣。吾視易之道、何其難乎⑹。子笑曰⑺、有是夫⑻。終日乾乾⑼、可也。視之不臧、我思不遠⑽。
文中子が言った「『周易』の作者には憂い悩むことがあって、危惧し怠ることがなかった。天の存在を畏怖して人々を気にかけ、その思案が然るべき時になって発揮されたということか」。繁師玄が言った「深遠で すね。私には『周易』の道を捉えようとしても、何と難しいことでしょう」。先生は笑いながら言った「そんなことがあるかな。『一日中努力を重ねる』、それでよいのだ。『あなたは善道を行なおうとしないらしいが、私には善道を隔たったところにあるものとするわけにはいかぬ』」。
⑴ 易之憂患
『周
易』繫辭傳下「作易者、其有憂患乎(韓康伯注、无憂患、則不爲而足也)」。⑵ 業業焉
『書
』臯陶謨「兢兢業業、一日二日萬幾(孔安國傳、兢兢、戒慎。業業、危懼。幾、微也)」。⑶ 孜孜焉
『書
』益稷「帝、予何言。予思日孜孜(孔穎達疏、孜孜者、勉功不怠之意)」。⑷ 畏天 張氏注「論語・季氏、君子有三畏。畏天命、畏大人、畏聖人之言」。⑸ 思及時而動乎 張氏注「易・乾・文言、君子進德修行、欲及時也、故無咎。繫辭下、君子藏器於身、待時而動、何不利之有」。⑹ 吾視易之道、何其難乎 禮樂篇「陳叔達謂子曰、吾視夫子之道、何其早成也」。⑺ 子笑曰 『論
語』陽貨「子之武城、聞弦歌之聲。夫子莞爾而笑(何晏集解、莞爾、小笑貌)曰、割雞焉用牛刀」。⑻ 有是夫
『論語』
述而「子謂顏淵曰、用之則行、舍之則藏、唯我與爾有是夫」。⑼ 終日乾乾
『周易』
乾「九三、君子終日乾乾、夕惕若厲无咎」。⑽ 視之不臧、我思不遠
『詩』
鄘風・載馳「視爾不臧、我思不遠(毛傳、不能遠衞也。鄭玄箋、爾女、女、許人也。臧、善也。視女不施善道救衞)」。
(四一)越公聘子。子謂其使者曰、存而行之、可也⑴。歌干髦而遣之⑵。既而曰、玉帛云乎哉⑶。
一六
越公(楊素)が先生を招聘した。先生がその使者に言った「この招聘の礼をお残しになれば、それでよろしいでしょう」。『詩』鄘風・干旄を歌って使者を帰した。そうこうして言うには「玉だの帛だのが礼だと言うのか」。
⑴ 存而行之、可也 阮逸注「姑存此聘禮即可、非得聘賢之實也」。⑵ 歌干髦而遣之 阮逸注「干髦、衛詩、美臣子多好善」。『詩』鄘風・干旄序「干旄。美好善也。衞文公臣子多好善、賢者樂告以善道也」。⑶ 玉帛云乎哉 阮逸注「果求賢、不在虚飾」。『論語』陽貨「子曰、禮云禮云、玉帛云乎哉(何晏集解、鄭曰、玉、圭璋之屬。帛、束帛之屬。言禮非但崇此玉帛而已。所貴者、乃貴其安上治民)」。
(四二)子謂房玄齡曰、好成者、敗之本也。願廣者、狹之道也⑴。玄齡問、立功・立言⑵、何如。子曰、必也量力乎⑶。
先生が房玄齢に言った「何か成し遂げようとするばかりなのは、失敗に行き着く大本である。何かより大きなものを望むことは、小さいものに終わる道である」。玄齢が質問した「功績を打ち立てたり、立派な言葉を残したりは、どうですか」。先生は言った「それはきっとその人の能力次第であろうかね」。
⑴ 好成至道也 阮逸注「欲速不達」。⑵ 立功・立言
『左傳』
襄公二十四年「豹聞之、大上有立德、其次有立功、其次有立言」。⑶ 必也量力乎
『左傳』
隱公十一年「鄭・息有違言、息侯伐鄭。鄭伯與戰于竟、息師大敗而還。君子是以知息之將亡也。不度德、不量力、……其喪師也、不亦宜乎」。必也某某乎、王道篇(三六)注⑵、參照。 (四三)子謂、姚義可與友。久要不忘⑴。賈瓊可與行事。臨難不變⑵。薛收可與事君。仁而不佞⑶。董常可與出處⑷。介如也⑸。
先生が評した「姚義は友人とすることができる。昔からの約束を忘れない。賈瓊は一緒に物事に取り組める。難題に立ち向かって動じない。薛収はともに君主に仕えることができる。仁を有していて言葉ばかりの人ではない。董常は進退をともにすることができる。しっかり自立している」。
⑴ 久要不忘
『論
語』憲問「見利思義、見危授命、久要不忘平生之言、亦可以爲成人矣(何晏集解、孔曰、久要、舊約也。平生猶少時)」。⑵ 賈瓊可與行事。臨難不變
『論語』
述而「子曰、暴虎馮河、死而無悔者、吾不與也。必也臨事而懼、好謀而成者也」。⑶ 仁而不佞
『論
語』公冶長「或曰、雍也、仁而不佞。子曰、焉用佞。禦人以口給、屢憎於人、不知其仁。焉用佞」。⑷ 出處
『周易』
繫辭傳上「君子之道、或出或處、或黙或語」。⑸ 介如也
『晉書』
隱逸傳序「介焉超俗、浩然養素」。
(四四)子曰、賤物貴我⑴、君子不爲也⑵。好奇尚怪、蕩而不止、必有不肖之心應之⑶。
先生が言った「他者を鄙視して自身を尊重するのは、君子のしないことである。奇異なことを好んで怪異なことを重んじ、ほしいままにして止むことがないのは、きっと愚かな心がそうさせているのだ」。
⑴ 賤物貴我 阮逸注「賈誼曰、小智自私、賤彼貴我」、見于賈誼「鵩鳥賦」(『文選』卷十三)。『莊子』秋水「北海若曰、以道觀之、物无貴賤、以物觀之、自貴而相賤」、『淮南子』要略訓「欲一言而寤、則尊天而保眞。欲再言而通、則賤物而貴身。欲參言而究、則外物而反情」。⑵ 君子不爲也
『論語』
子張「子夏曰、雖小道必有可觀者焉(何晏集解、
一七王通『中説』訳注稿(四) 小道謂異端)。致遠恐泥(包曰、泥難不通)。是以君子不爲也」。⑶ 必有不肖之心應之 『莊子』
人間世「尅核太至、則必有不肖之心應之、而不知其然也」。
(四五)薛宏請見六經⑴、子不出。門人惑⑵、子笑曰⑶、有好古博雅君子、則所不隱⑷。
薛宏が続六経を見たいと願い出たが、先生はそれを取り出して来なかった。門徒たちが不思議に思っていると、先生は笑って言った「古を好み幅広く正しい学問に励む君子に対してならば、隠すことはしなかったよ」。
⑴ 薛宏請見六經 阮逸注「薛宏未見。經、續經也」。⑵ 門人惑
『論 語』述而「互郷難與言。童子見、門人惑(何晏集解、鄭曰、互郷、郷名也。其郷人言語、自專不逹時宜。而有童子來見孔子、門人怪孔子見之)」。⑶ 子笑曰 周公篇(四〇)注⑺、參照。⑷ 有好古博雅君子、則所不隱 阮逸注「言宏非好古者」。孔安國「尚書序」(『文選』卷四十五)「若好古博雅君子、與我同志、亦所不隠也」。
(四六)子有内弟之喪、不飲酒食肉⑴。郡人非之⑵、子曰、吾不忍也。賦載馳卒章而去⑶。
先生は妻の弟の喪に際して、酒を飲んだり肉を食べたりしなかった。郡の人がやり過ぎだと非難すると、先生は言った「私にはどうしても我慢ができないのだよ」。『詩』鄘風・載馳の最終章を歌って立ち去った。
⑴ 子有内弟之喪、不飲酒食肉
『禮記』
曲禮上「居喪之禮、頭有創則沐、身有瘍則浴、有疾則飲酒食肉。疾止復初」。⑵ 郡人非之 阮逸注「非其過禮」。 ⑶ 吾不忍也。賦載馳卒章而去 阮逸注「鄘國詩、卒章云、大夫君子、無我有尤。百爾所思、不如我所之。此言我自不忍而然」。『詩』鄘風・載馳「大夫君子、無我有尤(鄭玄箋、君子、國中賢者。無我有尤、無過我也)。百爾所思、不如我所之(毛傳、不如我所思之篤厚也)」。
(四七)鄭和⑴譖子於越公曰、彼實慢公⑵、公何重焉。越公使問子。子曰、公可慢、則僕得矣、不可慢、則僕失矣。得失在僕、公何預焉⑶。越公待之如舊⑷。
鄭和が先生のことを越公(楊素)に誣告して言った「あの方は何とあなたを慢侮されているのに、あなたはどうして彼を重んじられるのですか」。越公の使者が先生に(そのことを)尋ねた。先生は言った「あなたを慢侮すべきなら、私はそうしますし、すべきでないならば、私はそうしません。するかしないかは私次第であり、あなたとどんな関係があるのでしょうか」。越公の接し方はそれまで通りであった。
⑴ 鄭和 阮逸注「未見」。⑵ 彼實慢公 阮逸注「彼、謂文中子」。⑶ 公何預焉
『文心雕龍』
祝盟「然義存則克終、道廢則渝始。崇替在人、呪何預焉」。⑷ 鄭和至如舊
『資治通鑑』
隋紀三・文帝仁壽三年「或譖通於素曰、彼實慢公、公何敬焉。素以問通。通曰、使公可慢、則僕得矣、不可慢、則僕失矣。得失在僕、公何預焉。素待之如初」。
(四八)子曰、我未見勇者⑴。或曰賀若弼。子曰、弼也戾、焉得勇⑵。
先生が言った「私は勇者を見たことがありません」。ある人が、賀若弼がそうだと言った。先生は言った「弼は暴戻なるだけで、どうして勇だなどと言えよう」。