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高橋敏

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第一次UNEFの撤退について 高橋敏

ON THE WITHDRAWAL OF UNEF I

Satoshi TAKAHASHI

I問題の概要

Ⅱ任務の終了について

Ⅲ実際の検証

I問題の概要

1956年11月以後はエジプトとイスラエルの国境線にそって平穏さがゆきわたっ ていたが、中東の他の地域、特にイスラエルとヨルダン問のそしてイスラエルと シリア間の前線には引続いて緊張がたえなかった1964年にPLOとその主たる グループであるアル・ファタの創設以来、パレスチナ人の特攻隊の編成と訓練と いう新しいレベルが出現するに至った。主としてヨルダンとシリアの領土からお こなわれるイスラエルに対するパレスチナ人の襲撃は日常的に発生していて、そ してイスラエル軍は徐々に拡大的な武力による報復でこたえていた。エジプトの 国境線とその他の地域での対立状況は著しいコントラストをみせていた1967年 の早くにイスラエルとシリア間の緊張は危険な水準に達した。ティベリア湖(L Tiberias)の近くの非武装地帯内の耕作権をめぐっての紛争が主たる原因であっ た。何年もの間、シリアは、その非武装地帯内のアラブのパレスチナ人に属する 土地をイスラエルが不法に奪い取っていると苦情を提起していた。そしてその紛 争地の耕作問鱒はイスラエル軍とシリア軍の頻発する発砲事件へと発展してき た。 「混合停戦委員会」での努力は失敗した1967年4月7日に、問題の農地の 頭越しの砲火の応酬はシリア砲兵隊によるイスラエルの村落爆撃とシリアの標的 に対するイスラエルの集中的な空爆に発展した‑ 1956年以来の最も深刻な衝 突であった。この4月7日の事件は、ウ・タント事務総長の自制の呼びかけと

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UNTSOによる和らげる努力にかかわらず、その全域の緊張の高まりへと続い

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5月16日の夕方、 UNEF Iの司令官はエジプト軍の司令長官から国境線にそ って監視所を設営している全ての国連の部隊の撤退を求める要求書を受けとった。

UNEF Iの司令官にそのメッセイジを渡したその将官が彼に言うには、 UNEF Iはテイラン海峡とそれゆえ紅海と南部イスラエルのアクセスを制しているEI SabhaとSharm elSheikhからの即時の撤退の司令を出さなければならないとい うものだったUNEF Iの司令官は自分にはその権限がないと答えた。知らせ を受けた事務総長は、現地のUARの当局との関係で、出来るだけ物わかりをよ

くしてかつ出来るだけ外交的にする一方、しっかりUNEF Iの陣地を維持する よう司令官に指示をした。事務総長はカイロからの説明を求めたが、エジプト軍 はUNEF Iの前線まで移動してきていくつかの国連の監視所を占拠してしまっ た。事務総長はUNEF Iの「諮問委員会(The Advisory Committee)」の委員と 会い、現地での出来事を彼らに伝え、もしエジプト政府からUNEF Iの撤退を 求める正式の要求がくれば彼は応ぜざるをえないだろうことを知らせた。彼が指 摘したことには、国連軍はエジプト政府の同意があるからこそその領土に駐留し ているのでありそれがなければそこにとどまることができないとした。彼は、ま た、安保理事会のメンバー達とも相談した。事務総長は、様々な会合をもったが、

国連の内部には採られるべき行動の方途について諮問委員会や安保理事会のメン バーの問に深い分裂があることを知った。事務総長は、 「諮問委員会」と相談し たあと、エジプト政府が自国の領土に好きなようにその軍を展開することについ ては何ら論難しないが、 UNEF , Iの部隊が駐留している地域にエジプト軍の部 隊を展開することはUNEF Iとその領域でのその継続的プレゼンスにとっては 非常に重大な意味をもつことになろうとエジプト駐国連大使に伝えた。その間に、

カイロにおいては、エジプトの外務大臣は、 UNEF Iに部隊を提供している諸 国の代表達を集め、 UNEF Iがエジプトとガザ地区での任務を終えたことと直 ちに立ち去るべきことを彼らに伝えた。インドとユーゴスラビアの両政府は、事 務総長の決定がどうであれ、 UNEF Iからその部隊を引き揚げることを決めた。

5月18日のその同じ日には、エジプト兵は、 UNEF Iの部隊がその監視所に入 るのを阻止した。このような行動が生じている最中に、事務総長はイスラエル政 府に対しUNEF Iを休戦ラインのイスラエル側にも駐屯させて緩衝地帯とする 問題を提案したが、イスラエルにとって全く受け入れがたいと返答された。その 後まもなく、エジプトの駐国連大使は事務総長に対し、エジプト領土とガザ地区

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でのUNEF Iのプレゼンスを終止させることと、できるだけすみやかに撤退の ための措置を要求する彼の政府の決定を伝えた。事務総長は部隊提供国に対しこ の件について総会と安保理事会に報告することを伝え、その権限を有する諸機関 がこの問題をとり上げて審議するかどうかは国連加盟国の諸国次第であると述べ た。そこで、彼はエジプトに対し、彼の大きな失望を現しながら、その要求に従 うだろうことを伝えた。 UNEF Iの司令官は、 5月19日に始まり6月の最後の 日に完了させるための撤退のための必要な行動をとるよう指示された1967年5 月16日から18日までの張りつめた2日間、事務総長はUNEF Iの撤退を要求し ないようにエジプトを説得すべくまたイスラエルに対しては国境のイエラエル側 にもその軍を受け入れるよう説得すべく彼に出来るすべてを行った。しかし、両 政府とも協力に応じなかった。このような情況の中で、ウ・タントは憲章の第99 条を援用してこの問題を安保理事会の前に持ち出すことも出来たのであったが、

彼はそうすることを選ばなかった。なぜなら、この問題についてアメリカとソ連 が固くなに対立していて理事会は何らの行動もとれないことを知っていたからで

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あった。

国連の平和維持活動が同意の原則に基づいていることは基本的な事実である。

エジプト政府の意思に反してエジプト内にUNEF Iを維持することは、事実は そうではなかったのであるがもしそうすることができると仮定するなら、将来の 受け入れ国に対して将来の国連の平和維持活動を自国の領土に受け入れることを 嫌わせる危険な先例を作ったことであろうUNEF Iの場合においては、その 撤退、それ自体では、必ずしもその地域に戦争を導かなかったであろう;事顔総 長のア、ソピールに続いてイスラエル政府がり・タントに知らしめたことに、政府 としては自重するが、しかし開戦の名目としての国境沿いのテロ活動の再開とか イスラエルの航行に対するテイラン海峡の封鎖とかを考えるであろうと述べた。

UNEF Iの撤退のあとただちに、ウ・タントは休戦ラインに国連のプレゼンス を提供するためにエジプト・イスラエル混合停戦委員会のUNTSO監視員の増 員を行い、そして彼はエジプト・イスラエル間の国境に沿って可能な安全の取極 めを検討すべく5月22日にカイロを訪問する準備をした。しかしながら、彼がカ イロに到着する直前に、ナセル大統領はテイラン海峡の封鎖を発表した。この決 定で、さいは投げられたのである。そして6月5日、堂々たる戦争が勃発した。

帰国を待っていたいくつかのUNEF Iの部隊はガザでの戦闘にまき込まれて、

15名の国連の兵士達が犠牲となった。 6月17日に離れた司令官とスタ、ソフの将官 らの小人数グループは除いて、全て軍事要員は6月13日までにエジプトを去っ

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以上に簡単に経緯をみてきたように、 UNEF Iの撤退のあといわゆる「六日 戦争」が勃発したので、この撤退に問題はなかったか議論されるのである。

Ⅱ任務の終了について

国連の平和維持活動の任務が終了する場合に、合意の文書とか国連の決議文に、

タイム・リミ、ソトが規定されている場合は、比較的理解しやすい。最近ではこの タイム・リミ、ソトを規定するのが慣行であるが、 UNEF IやONUCの場合はこ れが規定されていない。従って問題が複雑である。また、タイム・リミットの規 定と関係がなく事情の変化による効果としての終了又は完了も考えられるであろ う。この問題については、 AntoniettaDiBlaseの考え方が参考になるので、以下 にみてみよう。

UNEF IとONUCに関して、受け入れ国政府と事務総長との間でとりかわし た覚え書を調べてみても、それらは広い用語で述べられており、その活動の終止 に関して受け入れ国の同意の重要性について何ら手がかりかない。特に、 UNEF

Iについて1956年11月24日に総会によって承認されたエジプトと国連との間の

「誠実の覚え書」のパラグラフ1は次のように述べている。 「エジプト政府は、

UNEFの駐屯と活動に関するあらゆる問題についてその主権を行使するときは、

1956年11月5日の総会決議第1000 (ES‑ 1)号を受け入れたことにかんがみて 誠実に行動する(itwillbeguided, ingoodfaith、)と宣言する。」パラグラフ2 は次のように述べている。 「[‑‑‑]国連は、 UNEFの駐屯がエジプト政府の意 にかなうとの了解のもとに、 UNEFの任務が完了するまでUNEFを維持するこ とがエジプト政府の意思であることを確認する。」ところで、この文章は2つの 相反する解釈が可能である。エジプトは国連に対し任務の履行について一方的に 決定する排他的権限を与えたと考えられてもよいかもしれない。この見方は、そ の覚え書が総会の決議とその軍の任務の完了とに言及されている点で支持される かもしれない。これに対し対照的であるが、エジプト政府の意思に言及があるこ とは、その活動の遂行をエジプトの意思に従属せしめてもよいとする国連の意の 一つの表現と解釈されるかもしれない。後者の見方に従うならば、この覚え書の 合意は、エジプト政府が都合がいいと判斬するときはいつでも軍の撤収を要求で きるエジプトの権限を制限していない。前者の見方は、この「誠実の覚え書」を 承認した1956年11月24日の決議が採択された前後に、総会でカナダとイスラエル

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によって表明された。イスラエルの代表は、エジプトの都合のいい期間だけ国連 軍がエジプトとイスラエルの両軍を引き離すべきであるというその提案をばかば かしいと強調した。ニュージーランドの代表は特に次のような主旨の宣言をして もらいたいと表明した。即ち、 UNEFの任務が完了したという決定は国連にと っての問題であるべきであってエジプトとかあるいは他の国にとっての問題では ない。また、それ故、軍の引き揚げの決定は、国連にとっての問題であって、エ ジプトとかあるいは他の国にとっての問題であるべきではない。ソ連、インドそ してエジプトはその活動の継続にはエジプトの同意の必要を強調した。特に、ポー ランドと自ロシアはエジプトが要求すればただちに軍の撤収をしなければならな い無条件の義務があるという考えに賛成した1956年11月「その合意」の事務総 長の解釈はその制限説にも任務の終了を決定するエジプトの排他的権利を支持す る意見にも一致しなかった。実際に、事務総長は総会で次のように述べた。 「実 際問題として、その同意は明らかに国連のその活動にとってひとつの道理に合っ た基礎を提供するというような形で性格づけられねばならない(G.A.O.R., XI, P. Mtgs., 649, para. 111). 」 1958年の彼の「研究摘要(SummaryStudy)」の中 で、さらに次のように述べている。 「受け入れ国政府と国連の問の協力にもとづ いて、その活動はそのような協力に自然な形で遂行されねばならないし、そして なかんずく駐留と維持の問題に関してはそうでなければならない(Doc. S!3943、

para. 138),」そこで、この陳述に従うなら、エジプトがその軍の撤退を決定し うるとか、あるいはまた、国連がUNEF Iの任務の完了の時を決定しうる排他 的権限をもつという考えは否定されねばならない。両当事者はその軍を設置した 決議から結果する義務に対して必ず誠実に応じなければならないという他はない。

UNEF Iの任期については、その決議にも「誠実」の合意の両方ともに何らタ イム・リミットの規定が置かれなかったので、 「誠実」に言及したということは 任務の終了を互いの協議に基づいて決定するように両者がコミットしたものとし

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て解釈されてもよいのである。

明らかに事務総長はエジプトが自己の鎮土にその軍をおくことにした「誠実」

の合意について失効通告を出すエジプトの権限を排除しなかった。受け入れ国は 自己の領土に国連軍をおくことに合意していた時期に関連して、事情の変化を理 由に国連軍の撤退を要求しうるであろう。たとえ事情の変化が予想され得なくて も、失効通告の権限は、紛争の最終的解決までその地域に必要な平和的状態を維 持する任務を託された平和維持軍の暫定的性格に固有であると受けとめられても

よい。そのような軍の非恒久性にかんがみて、終了に関する規定のない条約の廃

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乗を規定している原則を適用してみてもよいかもしれない。その原則は何人かの 学者の意見に従って1969年のウィーン条約において取りきめられた。受け入れ国 がその同意を撤回する意図を通告しなければならないその適切なタイミングの誠 実な検討においては、受け入れ国は国連がその平和とその国の統一性に対する脅 威を終止せしめるために直ちにまた急いで行動をとらねばならないことが考慮さ れねばならない。一方では、その国は、もし国連がただちに引き揚げる決定をす るならば、軍の撤退に関する技術的要請をまじめに考慮しなければならない。同 時に、その国は、撤退の要求に続いてその軍の任務を変更した方がよいと国連が 判断する可能性についても考慮しなければならない。誠実に行動しなければなら ない受け入れ国の義務は、憲章に従って遂行される活動において国連に援助を与 えるという加盟国の義務を規定している第2条第5号で述べられている。国家間

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の誠実の一般原則はまた憲章の第2粂第2号にも言及されている。

1967年5月に、すでにみてきたように、エジプトがその領土からUNEF Iの 撤退を要求した後まもなく、事務総長は司令官に撤兵を下命した。その時、事務 総長はエジプトが国連軍の撤退を決定する権限があると主張した。なぜなら、エ ジプト政府の都合でその同意を廃する同国の権限を何らか制限をしているかある いはUARがその領土からいつでもUNEF Iの除去を求めたり確保する権利を ともかく放棄していたことを示しているそのような公式の国連の文書がないため であるとした(Reportof26June 1967, Doc. S!6730, para40)。 UARの外務大 臣に対する1967年5月8日の書簡の中でUARの駐国連代表に対する以前の言明 に従って、事務総長は次のように指摘した;UNEFは貴国政府の同意をもって エジプトの領土に入った、そして事実その同意が継続するかぎりそこにとどまる ことができる。事務総長は、 1956年11月7日の総会決議1001 (ES‑I)によっ て設置された諮問委員会にこの問題を提出しそして総会と安保理事会に報告する 意思を表明したが、これらの国連の機関の承認は撤兵に必要であると思わなかっ た。事務総長のその緊急軍の引き揚げの決定はその委員会では多数の賛同を得た、

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そして彼はこの問題を総会にも安保理事会にも持ち込もうと要請しなかった。 A.

D. Blaseはこの点について強く事務総長を批判している。つまり、これらの機 関のいずれにも相談しなかったことは諮問委員会を設置した1956年11月7日の総 会決議によってほとんど正当化され得ないものであるとする。実際にその決議は、

軍の規則や命令を出したり、 UNEF Iの任務の運営と履行に関する他の行動を

とる彼にだけの権限を事務総長に与えている。しかし、その決議は、軍の撤退の

ような大きな問題に関してのいかなる決定権限をも事務総長には与えていないと

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(7I

する。事務総長の態度は、 1956年と1958年の以前の表明された考え方とその活動

:蝣:蝣:

の始めの頃に一般に広まっていた諸国の意見と矛盾している。しかし、事実総長 はハマーショルドからウ・タントに変っているのであり、それぞれの考えにもよ

るであろう。

諮問委員会や総会の内外で、 1967年、いくつかの諸国はウ・タント事務総長と 反対の考え考を表明した。イスラエルの代表は、総会の第5特別会期で、ウ・タ ントが軍司令官に撤退を下令する前に総会かもしくは安保理事会にこの問題を諮 らなかったという理由で彼の行動を激しく批判した。カナダの国務長官である マーチンは、国連軍に対するUARとその任務の完了との間の関係についてのハ マーショルドの私的なメモにおいて表現されたハマーショルドの考えに賛成する と述べた。マーチンによれば、そのメモは国連軍を設置した決議のエジプトの受 諾が政治的平和と活動の安定性の角度から受け入れ国の主権に対するある制限を

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含んでいると指摘した。このメモをとりあげた人はマーチン以外にもいて、前米 国国連大使代理であったグロス氏(E.Gross)は、 1967年5月26日のニューヨー ク・タイムス紙の投書欄で、アラブ連合は国連と交した覚え書によって同意を撤 回する権利を失ったと主張し、その根拠として、 1957年8月5日の日付のあるハ マーショルドのメモを公表した。このメモには覚え書の作成にいたる経緯と、そ の内容に対する彼の解釈がしるされている。しかし香西教授も指摘するように、

ウ・タント事務総長も直ちに反駁したように、このメモは国連の公式文書でなく、

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このような私的な文書を根拠に問額を論じるのは適切とはいえない。アメリカの ジョンソン大統額は、 1967年5月23日の彼の声明の中で、 UNEF Iの性急な撤 退についてさらに総会もしくは安保理事会によって何ら行動がとられなかったこ とについて深い関心を表明した。イギリスとフランスの両政府は、そのような決 定の合法性については問題にしなかったが、しかしむしろ、撤退がその地域にお

ける緊張を悪化させる結果になったその政治的見識を問題にした。安保理事会の 内部においては、多くの諸国が事務総長の行動を支持した。彼らは国連軍の駐留 は同意に基づいていることとその受け入れ国の同意の撤回がその軍の即時の撤退 を伴うことを強調した1967年にほとんどの諸国によって表明された意見に従う なら、 UNEF Iの活動の完了は、国連とその受け入れ国の間の合意書の中にこ の権限を制限する明文の規定がないことにおいていつでもその受け入れ国によっ て一方的に決定しうるとするものである。この考え方は国家間の協定に関する一 般原則と異なるものであり、その原則によるなら、条約の効力期限についての規 定のない場合においては、その条約の義務から解放されたい当事者はその意思の

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タイムリーな「予告」を与えねばならないのである。この原則に対比させるなら、

その時一般に広まっていた考えは、国連の活動は全面的にその受け入れ国の意向

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に従属しているという考えであった。

以上にコメントしなからBlaseの論説をみてきたが、特に「誠実」の覚え書を 交したことはUNEF Iの任務の完了の決定は相互に相談して決めるべきである ことや、権利行使にあたっては予告しなければならないことを示唆したのは適切 であった。

香西教授も同じ主旨の考えを展開しているので以下にみてみよう。ハマーショ ルド事務総長が1958年の総会に提出した前述の報告書「研究摘要」の中には、

UNEF Iの駐留、撤退の問頬がふれられており、 「誠実の原則」の覚え書につい ての事務総長の「公式」の説明がなされている。それ故、覚え書の解釈はむしろ この報告書によるべきだろう。そこでは次のように説明されている。つまり、一 方において、国連軍の駐留、活動は受入れ国の主権に何ら制限を課するもでなく、

UNEF Iの撤退要求も、受入れ国の主権行為としてこれを否定するものではな い。と同時に、国連側も独自に緊急軍の撤退の時期を決定する権利をもつことを 確認したものである。ただ、双方の側で誠実義務を宣言したことの結果として、

国連とエジプト政府との間に撤退問題について意見のくい違いがあるときは、意 見の交換を行い、相互の立場の調和をはかることになる。これが誠実原則の意味 である、と述べている。以上の説明によると、少くともこの覚え書によっては、

一部の人が主張するように、エジプト政府の撤退要求権そのものが制限または放 棄されたとみることはできない。エジプトの撤退要求に対して、国連側が末だ任 務が完了していないと判断したとき、双方の協議で調和をはかると述べているが、

その調整が困難なとき、最終的にはどちらの側の立場が優先するかについては述 べていない。少くとも国連側に拒否権は与えられていないのである。にもかかわ らず、この覚え書が法的に全く無意味な一片の文書であると考えることはできな いのであって、そこに述べられている「誠実」の意味があらためて吟味されねば ならないだろう。およそ信義誠実の原則は、権利濫用の禁止などの基本原則と同 様、権利の内容そのものに対する制約でなく、権利行使の仕方に対して適用があ るとみるべきであろう。そうとすれば、信義則とは権利を悪意的なかたちで行使 してはならないという意味に解されるのであって、これを当面の問題にあてはめ るとき、受入れ国による国連軍の撤退要求に当っては、これを悪意的に行っては ならず、そのためには十分な予告を行い、相手方と協議をつくす態度が要求され

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るであろう。

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Ⅲ実際の検証

この章において残っている二つの問題を整理してみたいと思うO第一はエジプ ト政府に関するもので、 UNEF. Iの撤退要求が「誠実」に行われたかどうかで ある。第二は国連側の問題として、この問題を総会とか安保理事会に諮らなくて もよかったかどうかの問題である。以下に順番にみていこう。この問題について は、 1967年7月に国連事務局の広報課より出された事務総長の報告書「国連緊急 軍(UNEF)の撤退」を見ることが適切だと考えられる。

1967年5月16日20時GMT, 22時ガザ現地時間、UAR軍の参謀長であるFawzy 大将からの通信文がUNEFの司令官であるRikhye少将によって受けとられた。

それは「国境線沿いの監視所を設営している全ての国連部隊」の撤退を求めるも のであったFawzyの手紙をRikhyeに手渡したMokhtar准将はその時彼に次 のように語ったUAR軍は16日の夜EISabhaとSharmelSheikhの二つの地点 をコントロールできるようにしなければならないので、この二つの地域から国連 の部隊を直ちに撤兵してもらわねばならない。これに対しUNEFの司令官は適 切に応対し、そのような命令にもとづいてその陣地から部隊を引き揚げる権限が なく、事務総長からの指示にのみもとづいてできるのであって、彼としては今ま で通りUNEFのシナイでの活動を続けねばならないとした。それでは、その夜、

紛争になるかもしれないので、司令官がUNEF部隊にEI SabhaとSharm el Sheikhの兵舎にとじ込もるように命令を出してほしいとMokhtarは司令官に語 った。この要求に応ずることはできないとRikhyeは答えたRikhyeは関係部 隊の指揮官にもちろんこの事情を伝えた。彼はまた国連本部にも伝え、事務総長 から指示があるまでUNEFの活動を続けるという申し入れをした,2130GMTに、

事務総長はRikhyeからの電報を受けとった2245GMTに、事務総長はUARの 駐国連代表を呼び、明確な説明のために本国政府と連絡をとるように求め、

UNEFの撤退のためのいかなる要求もUAR政府から直接事務総長に対して求め られるべきことを指摘した2344GMTに、 UNEF司令官の報告によれば、同日 午後以来のEI Arish地域においてはかなりの軍事活動が観察されたということ であった。翌日の17日、 0800GMT、同司令官の報告によれば、 UAR軍の13人 の兵士がシナイのEISabhaを占領し、そこのUNEF監視所の至近地帯にUAR 軍が展開しているとのことであったQまた、 EI Sabhaのユーゴスラビアの UNEFキャンプの近くに3台のUAR軍の装甲車がとまり、 15人づつのいくつか の支隊がEI Amrのユーゴスラビア部隊のキャンプの北と南に陣地を作ってい

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る。全てのUNEFの監視所はいつものようであるが、いくつかの地点ではUAR の部隊も境界線に出ているとのことであった。同日1030GMT,同司令官の報告 によれば、 UARの部隊はEI SabhaのUNEFの監視所を占領していて、 El QuseimaとEISabhaのユーゴスラビアのUNEFキャンプは今ではUAR軍の陣 地の後に位置している。司令官はUARのリエーゾソ・スタッフの責任者にこの ことを伝えたところ、 EI Sabhaの監視所の即時の明渡しに同意した。その後し ばらくして、実施の報告がなされた。しかしながら、その責任者は今後の誤解を さけるためEISabhaのユーゴスラビアの監視所は直ちにEIQuseimaキャンプま で引き揚げるべきだと要求した1200GMT、その責任者はFawzy大将の要求と してシナイのUNEFのユーゴスラビアの部隊を24時間以内に撤退するように求 めた。さらに続けて、 48時間内にSharm el SheikhからのUNEFの撤退を求め たUNEFの司令官はそのような移動は事務総長からの指示を要すると答えた。

1330GMT、同司令官の報告によれば、 UARのかなりの部隊がEI Kuntillaの UNEF地帯に移動して入り込みつつあるとのことである。翌日の18日, 1321 GMT、シナイのEISabhaの監視所に詰めようとして出向いたUNEFの兵士は UARの兵士達によってポストに入ることを阻止され、その地帯にとどまること をも阻止された。国連軍兵士はその時撤退を強制されたといえる。他の地点でも 撤退を強制されるに至った。同日、 1220GMT、 UARの兵士がEIAmrキャンプ の正面にある国境線上のUNEFの監視所に入ってきてユーゴスラビアの兵士の 撤退を強制した。後で、 UARの2人の将官がEIAmrキャンプを訪問し、 15分 以内の引き揚げを要求した1210GMTに、 SharmelSheikhでも同様なことが生 じた。同じ5月18日、 1600GMT、事務総長はUARの国連代表からUARの外 務大臣M. Riadからの通信文を受けとった。それはできるだけ早くUNEFの撤 退を求めるものであった。(13)

以上のようにクロノロジーをみてきたが、いくつかの点が明らかである。まず、

撤退要求を政府のレベルの外交ルートにのせずに、軍部側が現地のUNEF司令 官に求めたことである。これは誠実ではない。さらに政府の正式な文書が事務総 長に届く以前に軍事行動を始めている点とまた軍部では通告とはぼ同時に撤退を 強制しはじめたこと。予告がなかったことは言うまでもなく、信義誠実の原則に 反していることは明らかである。

次に、協議の余地であるが、これは全くないものであったRiad外相の書簡 を手渡したUAR代表は、これは固い決意であり、決して再考を求めるような努 力をしないではしいと述べたことである。また5月22日、事務総長はカイロに向ID

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ったが、ナセル大統領は何らの配慮も見せず、逆にティラン海峡の封鎖まで、到 着をまたずに決めてしまった。

最後に総会に諮らなかった問題であるが、撤退のような問題は諮問委員会にか けられることになっていた0 18日のニューヨーク時間で夕方5時から、諮問委員

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会がもたれた。しかし総会にかけるという提案はまとまらなかったUNEF I は「同意」を原則としていたので、すでにみてきた状態のエジプトを考える時、

その「同意」が撤回されれば、 UNEF Iは引き揚げざるを得ないのであって、

ウ・タント事務総長にはまちがいがなかったとみるのが自然であろう。安保理事 会にかける問題は、第1章でも述べたように、諮る以前から解決のありえない各 国の政策の対立が明らかであったので、敷術はいらないであろう。

(l) United Nations, Department of Public Information, "The Blue Helmets: A Review of United Nations Peace‑Keeping ', 1985, p. 73.

(2) Ibid., op. cit., pp. 73‑75.

(3) Ibid., op. cit., p.75.

(4) Antonietta Di Blase, "The Role of the Host State s Consent with regard to Non‑coer‑

cive Actions by the United Nations in A. Cassese ed. , "United Nations Peace‑Keep‑

ing ‑ LegalEssays , 1978, pp.69‑71.

(5) Ibid‥

(6) Ibid., op. cit., p.72

(7) Ibid‥

(8) Ibid‥

(9) Ibid., op. at., pp.72‑73

00)香西茂「国連の平和維持活動‑同意原則の再検討」国際法外交雑誌第69巻第 四・五・六合併号124頁。

(ll) Blase, op. cit., p.73.

(10香西前掲論文124‑125頁。

(1頚United Nations, Office of Public Information, "The Withdrawal of the United Nations Emergency Force (UNEF) ‑ Report of the Secretary‑General , 1967, pp. 2‑6.

(14) Ibid..

(1S Ibid., op. cit., pp.6‑7.

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