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絵本忠司先生の思 い出

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Academic year: 2021

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絵本忠司先生の思 い出

言語セ ンター長

松本先生 は早稲 田大学大学院で ロシア文字 を学 ばれ,昭和

3 2

年 にロシア語 担 当専任講 師 として小樽商科大学 に迎 えられた。その時,先生 は弱冠 28歳で したか ら,新進気鋭 の研究者 としていか に将来 を嘱望 されていたか想像 に難 くあ りませ ん。昭和

4 2

年 に私が小樽商科大学 に赴任 した とき,先生 はすで に 大人 の風格 をそなえ,中堅助教授 として活躍 されていた。43年 には教授 にな られ

,4 7

年か ら

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年 まで短期大学部主事 を兼務 された。大学紛争 の最 も多難 な時期 を無事 にの りきることがで きたの も, その大半 は常 に公正 に考 え果敢 に決断 を下す,先生 の責任 ある態度 とその侮 り難 い弁舌 に多 くを負 ってい ま す。その後,昭和 57年か ら平成 4年 3月 に定年退官 され るまで,松本先生 は 附属図書館長 として重責 を果た された。

言語 セ ンター新設 の過程 で もどれ ほ ど先生 に助 け られたかわか らない。「こ れ はや らな ければな らない ことです」 とい う先生 の ご発言がな けれ ば, どう なっていたかわか らない局面が何 回 もあった。互 いに理想 を掲 げて語 り合 っ た言語 セ ンターの理念 を忘れず に地道 に前進 してい くのが,先生への恩 に報 い ることだ と思 ってい る.

思 い返 してみれ ば,先生 とのお付 き合 い は長 くい ろい ろな場 でお話 をうか が う機会 も多か った。先生 は商大 の歴史 に詳 し く, まだ大学が小 さ く語学教 官 を蔑視 す る風潮が あった頃の話 な ど克明かつ辛殊で,誰諺 に満 ちてお り何 度聞 いて も楽 しか ったが,それ は自分 に厳 しい者 でなけれ ばいえない言葉 で,

自戒 の念 を新 た にさせ られ るものであった。先生 は話術 の大家 であったか ら 松本語録がで きるほ どた くさんの名文句 を残 されたが,何 といって も感動的

なの はマ クシム ・ゴー リキイ との出合 いである

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4

85

若 い頃の先生 は, この ごろ学生 には もう死語 となって しまった, いわゆる 苦学生 で,冬 は雪深い山で伐採 に従事 し,夏 には伐 り倒 した木 を運搬 す る ト

ロ ッコ軌道 を作 る とい う仕事 をしなが ら文学書 を読 みふ けってい られた。後 に先生 のライ フワーク となるゴー リキイ と出会 ったの はそんな時であった。

その頃の ことを振 り返 って先生 は次の ように書 いてお られ る

新聞 もラジオ もな く,お よそ文化 とい うもの に縁遠 い山奥 の飯場小屋 の生 活。 ここで私 に辛 うじて残 された唯一 のたの しみは読書 であった。 出稼 ぎ

に出 る ときはいつ も,知 り合 いの文学好 きの青年か ら数冊 の本 を借 りるこ とに して,仕事 のあい まに ‑ 青空の下で,ほの暗 いランプの灯の もとで, 私 は読 みふ けった ものであ る。そ うしたなかで,私 はゴー リキイの名 を知 っ た。

マキ シム ・ゴー リキイ は,松本先生が秋 田県小坂 町 に生 まれ る

61

年前 の

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年 に先生 の誕生 日と同 じ

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28

日に,ロシアはニー ジニイ・ノーヴゴロ トで生 まれた。誕生 日が同 じとい うのは偶然 の一致 にす ぎないが,人間の一 生 を決 める偶然 だ ってある。悩 み多 い多感 な青年 には 『どん底』 は自分 の こ

とを書 いてい る と思 えた。先生 はゴー リキイ を読 みなが ら, 自分 の人生 を追 体験 し,人間 とは何 か,生 きる とは どうい うことか と問い続 けて こられた。

それが 『ゴー リキイ研究 :作家への道』 『ゴー リキイ文芸書簡』 (

2

巻) を は じめ とす る多 くのロシア演劇研究 として まとめ られた。最近 で は大作 「ロ シア ・イ ンテ リゲ ンツイヤ精神史」 を執筆 中である とうけた まわ ってい る

先生 の御研究 は, 「新批評」華 やかな りし時代 に作品 を分析的 に読 む ことを 教 えられた私 の ような ものに とって は,正直 いってなかなか馴染 めなか った。

そんな者 の懸念 を尻 目に,松本先生 は文学 を生 き, さっそ うと演劇活動 をな さ り,道 内だ けでな く中央 で も演劇人 として名 をな した。 また多喜二記念祭 実行委員長 を務 めるな ど小樽市 の文学活動 を リー ドして こられた。歴史 ・伝 記的研究が再 び脚光 を浴び るようになった現在,先生か ら学ぶのが あま りに

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松本忠司先生 の思 い出

5

も少 なかったのが 悔や まれ る。戯 曲だって,先生 に習 って演劇作 りの内側か ら見 ることを学 んでいた ら, もっ と別 の読 み方がで きていた ろう。

先生 は情熱的な人 で,教室で もよ く歌 を うた って学生 にきかせ ていた。私 にはあれ はスラブ民族 の魂 の叫び声 に聞 こえた。 あの腹 の底 か ら歌 う声 を校 舎 で聞かれな くなったの は寂 しい限 りであ る 小樽商科大学 の発展 と語学教 育 の充実 のために尽 くされた先生 の ご貢献 に感謝す る とともに, いつ まで も お元気 で 「大文字 で は じまる人間についてゴー リキイを語 り続 け,われわ れ を啓発 して下 さるようお願 い し,松本先生 の御退官 を記念 す る特別号 に寄 せ る言葉 に換 えさせていただ く。

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