辺雑記(戯言;老化,劣化, 悔悟)老いてこそ言え る─
著者 山中 一郎
雑誌名 明治学院大学社会学・社会福祉学研究 = The Meiji
Gakuin sociology and social welfare review
巻 151
ページ 41‑62
発行年 2019‑02‑28
その他のタイトル Discord with an extraordinary senile change ―Safety chat; I think in the daily
pleasure and grief. Every day regret and reflection.
URL http://hdl.handle.net/10723/00003587
前説
老いてこそ言える~
「わが心悲しみ,望みは去りゆき, 身に中に 冷たき血潮のみ流れめぐる やがて,この生命をはるとき,君のみぞ わが憩ふ土のうへにすすり泣かむ」
「今こい希うのは,ただ友と友の情け」(バイロン;阿部知二訳,昭和25年,新潮社,
p.39)
前回,2018年,唐突と思えるような文章を書いた事について,いささか,挙 措を欠いたところがあり,このままでは理解に苦しむと言われかねないと思い,
あえて一言,釈明と言うか弁明をしておきたい。当時,私は心理的,精神的に 混乱した状況にあった。そうした状況の中で,ある人から贈られた百田尚樹氏 の「夢を売る男」 (幻冬舎文庫)を読むよう言われた。小説の内容は,現代社会 の強烈な風刺(?)で,私はこの原稿を書くべきか,否か,迷った。この様な状 況と無縁でなかったからである。以前なら,なんの躊躇もなく書いていただろ う。しかし,この歳になって今更という気持ち,不安が襲ってきた。今でも,
突然「不安」になることがある。手が動かなくなるのである。当時私は,数人 の親友,同僚を失った。二人は,一週間以内に死亡すると余命宣告され,それ を不安も見せることなく受け入れていた友人である。K氏は,学部内で,あえ て孤立し,誰とも妥協しなかったが,私には気楽に接してくれていた。彼は医
生きると言うこと:楽しみと悲しみの中で思う
──身辺雑記(戯言;老化,劣化 , 悔悟)老いてこそ言える──
山 中 一 郎
師から余命一週間の「死」を宣告された。彼の友人を通じて会いたいとの連絡 を受け病院で面会した。彼は私と会った数日後,亡くなった。H氏は突然電話 をくれた友人である。その声は,目前の「死」を自覚しながらも朗らかでさえあっ た。私に「山中伸弥教授の『身体』という本を読むと良い」と勧めたのが最後 の言葉となった。自ら,泰然とその「死」を受け入れていたし,まさにそのよ うな死であった。M氏は「孤独死」であった,東京を去る前に,彼は私にアメ リカ留学のことを楽しそうに語った。お三方とも,それぞれ個性的なパーソナ リティの持ち主であつた。パーソナリティの語源「ペルゾナ」は「仮面」であ る。人生は仮面をかぶり続ける連続性で構成されていると言える。基礎的パー ソナリティから完全に解放されることはないと言えよう,運命論的であるかも 知れないが。私も此れまでに幾つもの「仮面」を被り,様々な自分を演じてき た。私は,本心,今このお三方の冥福を祈りたい。私にとっても,おそらくこ れが最後の執筆の機会,原稿になるかと思うから。
【プロローグ:寒い・凍る;についての弁明も含めて】
「自らのことについて語るな」 (誰も他人の私事に興味なんか持ってはいない から)と言うのは常日頃,言われていることである。しかし,人は自分のこと を誰かに聞いてもらいたいと言う思い,欲望を(時に密かに秘めて)持った生き 物である。また,世の中,詮索好きな人が,少なからず「存在」していること も確かである。私は,内容に客観性を持たせるため,あえて自分自身を少々露 呈しつつ,その上で抑制的に述べて行くつもりである。
最近,「自らの体感・意識のずれ,感覚」に困惑することが多くなった。要
するに,余りにも周囲の変化が早く,そうした「変化」に対応しきれなくなっ
たようである。それも,他者から見たら「微妙というか,ほんのとるにも足ら
ない僅かな変化」である。原因もよくわからないような高齢者に固有とも言え る異常な行動が,自分にも最近,見られるようになったと感じる。こうした「一 寸した,微妙な心の変化」が,他者には問題行動にみられるのかもしれない。
20~30数年位前と比べて,「心的規制」を促すような「公的,時には自主的規 制」が,かなり多くなった。その「規制」が「苛立ち」を強め,自らを抑制出 来なくなった人もいるであろうし,「他者」に対し強く,異常行動に及ぶ人も いるであろう。また,相手をリスペクトする人も少なくなった。「感謝の気持 ち」を持ち,それを表現する人も減ったようだ。「礼節の国・日本?」も無く なりかけているのだろうか。このように「自らに対する抑制」「相手をリスペ クトする心,感謝する気持ちの喪失」が,暴力の横行にも影響しているように 私には思われてならない。心の中の漠とした不安の遠因は,私の場合,パソコ ン,インターネットの出現による生活・研究空間の革命的とも言える変化への 対応の「鈍さ」も関係しているようにも思える。
# 私自身のことはさておき,この辺りから,内容が,本題とは少しばかり,
関係性が薄れるので;「暴力横行に関する,様々なバックグラウンド」について,
いささか私見を述べてみたい。 今,刑事事件,それも凶悪事件は,60年前に 比べて減少していると言われる。確かに,私が生きた戦後は刑事事件が多かっ た。とりわけ「バラバラ殺人事件」のような凶悪な事件は,極めて稀な事件と 考えられていた。最近は,また「殺人事件」「幼児虐待・殺害」と言った残忍な 事件が多い。そのような刑事事件が今「日常的に発生」しているのは問題では なかろうか。ではこの間,日本人は「狂暴化」したのか。私にはそうは思えない。
では,このように異常とも言える犯行がなぜ多くなったのか,ここに,ある仮 説が立てられるだろう。「被虐待児」の名前を見てまず思うのだが,随分可愛ら しい名前の子が多い。さぞ親が,この子の未来を考え抜いて,「幸せであって欲 しい」「頑張って生きて欲しい」と思ってつけた名前であろうと思われる。昭和
の時代は,いささか命名については簡単と言うか,安直と言うか,そのような ところがあったようだ。私の名前も,ありふれた名前のように見える。親に聞 くと,そんなことは無いという。一応「姓名判断の専門家」に聞いて,つけた 名前だという。今日でも変わりないとすれば,そのようにして産んだ子供をな ぜ育児放棄したり,殺害したりするのか。「瞬間的快楽を享受したいと言う欲望」
の結果,産んでは見たものの,育児がこれ程,大変なものと言う認識をもった ことが,これまで一度もなかつたのか。不思議に思える。私は,20~30代前半,
親になった。子供が産まれたとの知らせを受けた時の心境には「厳粛,緊張感」
があつた。「頑張らねば」と言う覚悟を一層強く感じたものだ。現在は,いじめ,
幼児虐待を含む家庭内暴力も日常化している。「暴力行為も殺人事件」も日常化 している。テレビ等でも,人を殺すと言う場面は日常化し,その場面は,極めて「リ アル」に表現される。以前は,死体を見せると言う場面は,ほぼ無かったよう に思う。ますます刺激性の強いものになってきている。そして,これと言った「殺 人」の理由もなく,簡単に人を殺す。「人を殺す,殺したくなった,相手は誰で もよかった」,「彼らは世の中の役に立たない人間だから殺してもいい」と考え て,それを躊躇なく実行に移すのである。「報復」「恨み」等,無くても。彼にとっ ての日常は「非日常」である。これでは,もはや抑止は不可能に近い。「犯罪は 醜悪で,卑怯な行為」であるからこそ,われわれはそれを回避してきた。その 回路はもう遮断されているようだ。
ところで「美と醜は表裏一体である」とも言われる。 「醜悪な行為」に「美学」 (リ
アリズム等)がつくと,この行為も「正常化?」される。また「たとえ老醜を
晒そうと,他人に何と言われようと気にしない,ひたすら生きることこそ,自
らの生にとってふさわしい事だ」「いや,もう自分は存分に生きてきた,これ
以上生きて,老醜を晒したくはない」。この二者択一が老後の自分に負わされ
た課題,美学(如何に生きるか,生きるべきか)に通ずると思ってきた。だが今
日,こうしたことを真摯に考える人も少なくなったように思う。私も,以前は 出来ることなら「生涯現役でいたい」と考えていた。また出来るとも思っていた。
「死ぬまで現役」は人生究極の理想であろうが,誰もがそれを成し遂げること は出来ないのが現実か,と考えるようになった。「出来た人」は「幸運な人で あり,稀有な人」である。私は,図らずも定年後「絶不調」の身体と「精神的 な脆さ」を抱えてしまった。かつては「介護保険の世話にはならない」と大言 壮語, 「生涯現役」を目指してきた私だが,今は残念ながら「要支援2」の身になっ てしまった。最後に私を打ちのめしたのは, 「腰部脊椎管狭窄」である。外出中,
それも横断歩道を渡っている時に急に襲われた。下肢が突然,針で刺されたよ うな痛みに襲われた。どうにか自宅まで帰ったものの,次の日,その痛みが痺 れに変った。医師は,レントゲン撮影後,脊柱管に異常があると診断し,腰部 脊柱管狭窄症を宣告した。その前に発症した「慢性硬膜下血腫」は2年足らず で自然に吸収され「寛解」と言われるまでになったものの,別の思いもよらぬ 症状が出てきた。これは厄介な症状である。「間欠跛行」と言った症状である。
すでに外出も介助なしでは難しい状況であり,私は「劣化・退化(deterioration)
と言った方が適切かも知れない状況にあるとさえ思っている。これは,思いも よらぬ突発的な出来事であり,まさに ‘senile’ (anile) (weakness)である。「一 寸先は闇」。歳を取ると,いつ何が起きるか分からない。平均寿命が延びたから,
全ての人の「老化度」が遅くなるわけではない。今,政治に関わっている人は,
この事実を理解できているのだろうか。老いても健康は望ましいが,健康でい られない状況に生理的,身体的に止むなく陥らざるを得なくなる人,頑張ろう にも,頑張れなくなる人も居ることを無視することは出来ない。
【老いの仲間たち;追憶と巷間噂話】
「すべては終った─そのことを夢に見た いまは,未来は希望に輝くこともなく
幸福の日々は,消え去ろうとす。肌寒い薄倖の嵐に身は冷えて
私の人生の曙は暗くかき曇る 愛よ,希望よ,歓びよ,ともに,さらば
否,追憶にすらも,さらば,と叫びたいものを。」(バイロン;追憶:上携書,p.30-31)
まだ60歳台,現役の頃,夏,高齢者が冷房の効いた部屋に入ると,「寒い,
寒い」とぶつぶつ言いながら,持ってきたカーディガンを羽織る姿を見ては 高齢者は大変だなと考えていた。「被介護者」を見ては,「介護保険のお世話 にだけはなるまい」と考えてきた。その反面,歳を取ると言うこと,老化は 生理的に外的な規制に適切に作用しえなくなり,気温の変化に対しても鈍感 になりすぎるのだろうとも考えていた。「鈍感」「無感動」「無関心」 (自己中心 性=頑固さ)は,「老化」の一現象とさえ思っていた節がある。いま多くの同 世代の高齢者,70歳代,とりわけ80歳から100歳前後の高齢者(被介護者)との交 流を深めるにつけ,このような考えに,いささか,疑問を持つようになった。
彼らは,ある意味で非常に敏感,デリケートである。しかも「せっかち」で もある。始末に負えないと言ってもいい。90歳を目前にした私は,この歳に なって,ようやく彼らの気持ちを多少とも素直に理解できるようになったと 思う。高齢者と言っても「多様」である。私は,寒さに弱く,暑さにも弱い。
いつもクーラーのお世話になっている。なかには暑さ,寒さを,全く気にし ない人もいる。介護関連施設で働く人たちは,こうした我々の我が儘に対応 しなければならない。被介護者の言い分には,絶対に反対しない。被介護者 への対応は大変である。「詮索好きな被介護者」「セクハラまがいの行為をす る被介護者」も少なくない。「寒さ,暑さ」への対応にも悩んでいるようである。
「うつ」の被介護者が多いかと思っていたが,こちらの方は意外と少ないよう
である。私には,この「うつ」の傾向があり,よく強迫観念に捉われ,「体調
についての事柄,不安等」を連絡帳に延々と書くことで,介護者に迷惑を掛
けているようだ。また最近,「死」に対する「ある憧憬」に悩まされることも
多くなって,夜通し, 「死と生」について考えることも多くなった。と言って「死」
が恐怖であるわけではない。時に「安息・安らぎ・解放」と思う時すらある。
これは私にとっての持病のようなものである。
ここの被介護者は,場所柄(中心市街地・旧広島大跡地;まだ昭和の広島大 がここに存在していた頃からの古書店,喫茶店等が僅かながら残っている)の 故か,比較的恵まれた人が多いようである。と言っても中産階級の人たちであ る。この辺りは町の中心部で,小規模店主,ビルのオーナーと言ったところで ある。こう言えば,恰好よく聞こえるが,多くは築60年はとっくに過ぎている。
今では新築のビル,マンション等が多く,ゴキブリ,ネズミと言った類の棲み 処のようなと言った方が適切な表現と言える。これは,私が勝手に言っている のではない。ある民生委員が私に,このあたりの個人所有のマンションの多く は,管理費修繕積立費等を勝手に使い込んでしまって修理どころの話ではない と言うのが現状だと話してくれたことがある。彼は,また自分の担当するこの 地区は,生活保護を受けている人が,まったくいないとも言う。そうだろう,
この地区は官公庁,大きな病院,事務所のビル,マンションが多く,日常生活 を送るには,不自由だし,結局,生活感が全く感じられない極めて「無機的な 雰囲気」の町だから。被爆者もいるが,小金持ち,資産家もいると言った状況 である。私など,ここでは貧乏人の類である。資産を持っているわけでもなく,
地元の生まれでもなく,友人が特にいるわけでもないから。しかも,幼稚園以 降,小学校からは,東京,横浜育ちでは,真の「地元市人」ではない。ここは,
特別な町である。被爆の町として,医者が多かった。今も多い方だが,かなり 減ってきている。「被曝者手帳」で「風邪」でも医療費免除で,これを医者が多 かった原因の一つに挙げる人が多い。今は,被曝者の数も年々減少している。
70歳以下に被曝者はいないはずである。弁護士も多い,これはH高等検察庁と
か高等裁判所等があるからであろう。彼ら公務員の宿舎も沢山建っている。さ
らに大手を含む中小の企業の支店も多い。だからと言うか「歓楽街・飲み屋・
割烹」の類の店では客への呼称として,先生,支店長,部長が多く使われる。
まあ無難な接遇の際の用語なのだろう。だから,リハビリで「先生でした」と 紹介されたとき,私と同年の女性が「全く先生が多いね,世の中には」と皮肉 まじりに呟いたのが,今でも心に突き刺さっている。私は,それが嫌で,退職 後,自己紹介では「年金生活者です」と言ってきた。このような時,とりわけ 悔恨が残るまさに「惨めな老人なのに」。‘senile’ なのにと!
そして,最近は,少なくなってきたが,それでも風俗関連らしいホテル(所 謂ラブホテル)が多い。最初,街中にあることに,不思議な感じがし違和感を 感じた。その隣が高級マンションであったり,中級のマンションであったりす る。これも「支店」の多い町と関係があるらしいと勝手に思っているが。ま た広域暴力団が多い所でもあり,それとも関係があるのかも知れないとも思つ たりする。また「北東アジア系外国人」との関係も否定できない。最近の事情 は,大手資本,中小の資本によるマンション建設の異常なともいえる多さであ る。もともと,川の多い町である。「地盤も良い」とは言い難いし,「液状化の 危険性」も多々あるにも関わらず超高層建造物が林立し始めてきている。然も 人口は,全体として減少傾向にある。需要が多いとは思えない。支店も,この 処,統合傾向にあり,減少しつつある。かつては地方大手で老舗と言われたデ パートも閉店した。デパートは,元からあまり景気がいいとは思えなかった。
首都圏で生活した者には,この店内の閑散ぶりは異常と思えるだろう。よくこ れで経営が成り立っものだと不思議に思った程だ。さらに,この町の都市計画 はどうなっているのか,気になるところである。県民性としては,保守的。一 度,決めたことが,突然ひっくり返されるし,なかなか決定できないようなと ころもある。その反面,ある意味で強引なところもある。野球では,町全体が
「赤一色」に染まる不思議な町である。通常でも,赤いユニホームを着て,街
中を歩く人も多いし,お店でも,銀行内でも職員全員がユニホームを着て接遇 をしているところもある。「赤」は私にとっては,神経をイラつかせる色である。
また地方テレビ局(すべて地元球団の応援,NHKさえも)の中継も多く,その 際の声援が全体主義を連想させる。「ユニホームの赤い色」がこれも,私にとっ ては,神経をイラつかせる堪らなく嫌なことの一つである。このような町で,
このような人たちと,一緒に生活をし,リハビリをしている。 (これは,個人的 な問題かも知れないが?)
ところで冬時など足首が冷えて困っている。最近は殊に夏でも冷える。年中 冷えを感じている。体温も,低い,通常は35度台半ばから36度台半ば,時に 34.8度,動くと36度半ば過ぎまで上がる。殆ど「低体温症」と言えるのかも知 れないし,冷えを常に足首に感じるのは「冷感」と言う症状かも知れない。丁 度,足の踝の上が異常に冷える感じなのだ。夏,30度を超える日でも,汗をか くことが減った。時季を問わない。常時そういう状態なのである。 「凍るようだ,
凍るようだ」と言う言葉で始まる,あるイギリス詩人の詩。それはまたシェイ クスピアの戯曲の中にも引用されている。私も,引用したが,書いている時,
まだ冬でもないのに,身体的,感覚的にも,非常にと言うか, 「病的」な程, 「寒 い」「凍るような」思いをしていた。この原稿の初めにも書いたように,当時 の私は,多くの人たちの「訃報」に接し,殊更「寒さ」「冷え」(心理的・肉体 的)を敏感に受け止めていたように思う。その時の私は,彼等に対する思い, 「哀 感」「儚さ」「寂寞感」を書き留めておきたかった。日本人は,極めて繊細な感 情の持ち主であるし,その為の「感情表現」も持ち合わせている。「老い木に 花の咲く」ように,「老いる,老い行くこと」にも意味を感じ,「風の音に,季 節の移ろいを」「鹿のなく声に,秋の哀しさを思う」心,心情の持ち主である。
このような情感は大切にしたいものである。今の私に,そのような情感がある
のかと言われると,はなはだ心もとないが,あると言いたい。
若い頃は,心も肉体も,ある程度充実していたし,時に傲慢でさえあった。
そして歳を取るほどに,充実感から程遠い自分を自覚するようになった。それ と,自分自身をなかなか「相対化して客観的」に見る,捉えることが出来なくなっ てきている。「円熟」と言う言葉がある。「枯れていく」と言う言葉もある。「円 熟」も,いつかは「枯渇」して「無」となるのであろうが。そうであるからこ そ,可能なこともあるであろう。また無謀なことも,ある程度は許される,出 来るということもあるであろう。若い頃は,高齢者は「季節,気温に鈍感」「周 囲には無頓着」「我儘で自分勝手」「自己中心的」であり,私は「老醜・老臭は 晒したくないね」と言うくらいの認識しか持っていなかった。だが,今になっ て思うと,この問題はそれ程単純な問題ではないことが,次第にわかってきた。
では,どうすればいいのかとなると,それがさっぱり分からないのである。誰 かに教えて欲しいといった問題でもない。自分自身で尋ね,求め,解決するし かないのであろう。「求道」と言う言葉がある。私は,前回,研究ノートに相 応しくない文章を冒頭に書いたことに極めて強い「悔悟・悔恨」の念を持った からである。書いた後,私は自分の心情に影響されるべきでは無かったと思っ たからである。この文章は,自分の弱さに負けたことへの反省でもある。この
「弁明」を書いたのも,「粘着性・強迫的気質」が今なを残っていて書いたのか もしれない。これが「凍るようだ・寒い,寒い」と書いた文章への「弁明」で ある。
【昭和から平成へ;平成から~感慨と悔恨を込めて】
「年号が変わる」と言うことは,その年号の時代を生きた人にとって感慨深 いものがあるようだ。とりわけ明治時代を生きた人は,明治天皇崩御の前後,
その時の感慨について,多くの「文章として」残している。まず,田山花袋は「明
治天皇陛下,中興の英主, (中略)その聖上のご一生を思うと,涙の滂沱たるを 誰も覚えぬものはなかった。」と書いている。夏目漱石は友人への手紙の中で「明 治のなくなったのは御同様なんだか心細く候。」と書き,小説「心」の中の「先 生と遺書」で,次のように書いている。
「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精 神が天皇に始まって天皇に終わつたような気がしました。最も強く明治の影響 を受けた私どもが,そのあとに生き残つているのは必竟時勢遅れだという感じ が烈しく私の胸を打ちました。」
芥川龍之介は45年8月2日の友人への手紙で,天皇崩御の号外が出た時,「あ けがたの暗いうちに来た黒枠の号外を手に取ったときやはり遥拝に行ったほう がよかったとしみじみそう思った。 (略)実際崩御の号外が出た時には僕のうち のものは皆泣いたんだ。」
大正天皇の崩御に際しての記述は,昭和天皇(皇太子)の摂政期間が長かった からか,また時代の風潮のためか,余り感慨深い類の感想等は見られないよう である。時代的には,興味深い所が多かったと思うが。しかし,それなりに自 粛ムードは有ったのであろう。
私は,昭和5年の生まれである。人生の殆どが「昭和」である。だから,「昭 和の時代の最後」は,この目で確かめたかった。「希望のない戦争」を体験,
そして「敗戦」による「絶望と虚無」,その後,只管「時勢に流され,それを
運命と自認」し,「昭和元禄と言われた好景気」を傍で見ながら,最後の時を
体験できなかったのには悔恨が残る。昭和63年4月から,平成元年(昭和64年)3
月にかけて,約1年間,日本を離れていた。63年秋頃から,友人の手紙などで,
「近頃は天皇のご容態の悪化で,自粛ムードが広がり,繁華街なども寂しくな りました」という知らせを受けていたが,繁華街でも軒並みネオンが消え,騒 ぐ人も居なくなったとは想像も出来なかった。日本は今,大変な状態なのだろ うと考えていたものの,日本の状況は殆ど知らされずにいたと言ってよい。昭 和天皇崩御のニュースは,ニュージーランド,ウエリントンのホテルのテレビ で知った。テレビでは,夜,日本特集番組が流された。敗戦から復興までの様 子が紹介されていた。戦後,40年近くたつているのに,概してマスコミは,好 意的とは言い難く,街中の電信柱に「号外」が幾枚も張られていた。内容は「戦 争犯罪人:ヒロヒト死す」と言うものであった。私も言いたいことは沢山ある が…複雑な思いとしか言えない。 (昭和天皇は,最後まで自分の言葉で話した君 主ではなかった,自分の気持ちを表すのに明治天皇御製を多用されていたよう に思う。そこに昭和天皇の限界を感じる。)それと,支配者は《I am sorry.》と は,殆ど言わないようだ。《I apologize.》若しくは,《I regret so terribly.》で ある。これは何故なのか。私など,直ぐ謝ってしまう。時間的にも,感情的に も,それが全体として得策だから。余り遺恨は残さない。未来に対しても,心 理的にも,それが良いと考えるからであろうか。この表現の微妙とも言える違 いを教えてもらいたい。私は,英語には疎いので。是非。
ウエリントンのテレビ局は,崩御の日,多くの時間を割いて,日本の戦後復 興の歩みを特集で報じていた。「重厚長大」 (JUKO-CHODAI)型産業社会から,
「軽薄短小」 (KEIHAKU-TANSHOU)型社会への変遷と,今の日本の復興と繁 栄を取り上げていた。その時,もはや,この「表現」が日本語(ローマ字表記)
で紹介れているのに,いささか驚いた思いがある。内容は,日本に好意的なも
のばかりではなく,きわめて,我々にとっては嫌な思いを持たざるを得ない場
面もあった。これは,数十年前まで,敵味方に分かれて,お互い殺し合いをし
ていたのだから仕方がない,真実でもあるのだから。当時,ニュージーランド
の人たちも,イギリス連邦軍の一員として戦い,戦後は中国地方を中心に駐留 もしていたことから,様々ではあるが,特別な思いもあったのだと思う。私た ちが付き合いを持っていた人たちは,大学関係者でそれなりに,感情の表出に 際して一応の配慮,抑制の心があったのだと思う。もうすでに忘れ去った過去 の出来事と考えていたのに。彼らの心の内まで氷解してはいなかった。確かに,
イギリスでも,差別意識は感じていた。だが多くの知識階層の人たちは,決し て面と向かって言うことはなかった。それから数日後,オーストラリアのシド ニーで,イギリス在住の時,親しくなった大学教授夫妻の自宅に招待された。
彼の車でシドニーの港をめぐっていた時,戦時中,日本海軍の特殊潜航艇に攻 撃され,それ以後,この辺りから多くの住人が奥地へ避難,地価も暴落したと いう話を聞かされた。それだけに,戦争への辛い思いは,なかなか消え去らな いものだと痛感した。ただ,敗戦後,日本に「進駐軍」の一員として派遣され てきた連中は,あの時は良かった,パラダイスだとも話していた。人様々だと 言う思いも感じた。私が最初に滞在していた英国のケンブリッジでも,戦後,
占領軍として日本に進駐していた体験者は,あの頃はよかった,まさに自分た ちにとって日本はパラダイスだったと懐古の言葉を述べた。だが日本軍とビル マ戦線で直接戦った退役軍人「ビルマの星」と言う勲章を胸にした軍人は,イ ギリス内を一緒に旅行した時も,一言も我々に話しかけてはこなかった。目す ら合わせようとしなかった。異常なまでの無視であった。
私は,はからずも昭和から平成への転換期を体験せぬままに平成の時代を過 ごすことになった。いささか残念な思いがある。昭和の終焉をこの目で確かめ たかった。「無条件降伏」による戦後は,悲惨であり,つくずく,「平和」とは 良いものだとの思いを強くした。戦争なんか,もう御免である。私は,小学校,
中等学校と,当時としては身長が高かったし,そこそこの成績を取っていたこ
ともあって,いつも何か事あるごとに,全体責任の代表役として「身体的暴力」
(時に教師は跳び上がって,我われ生徒の頬を平手打ちし,床に倒れる程なぐ られたりしたものだ。その代表が私;教室の掃除の仕方が悪い,窓枠のレール のところに埃が残っている等,些細な事ばかり。不条理には慣らされていた)
を受けた。今は,天国である。しかし,教師に懲罰を受けるのは「我が家の伝 統かも」と思う時もある。今,このようなことが起これば,社会的に大問題,
社会問題化し兼ねないが,実際に有ったことである。私の長男は,小学校でい じめを受けた。中年の女性教師から,単に「反抗的」と言う理由で,給食の時,コッ ペパンで自分の机の上をゴシゴシとこすらされた上,そのパンを生徒全員の前 で食べさせられたと言う。当時,教職員組合の強かった時代,また我々夫婦も 若く,共稼ぎで,忙しいこともあって抗議に行く暇もない時代であった。しかし,
「山中のゴシゴシパン事件」として,学年で知らぬ者は無かったと言う。だが,
その時は誰も,我々に教えてはくれなかった。後である人から聞かされ,この ことを知った。さすがに不憫で,余りにも可哀そうで,無念の涙が出た。大学 の教師の子供と言うことで,様々ないじめにあったとも言う。今では考えられ ないことであろう。戦後といえども,辛い時代もあった。時代は,急速に変わっ た。変わらないのは自分だけであるようだ。当時,夫婦共働きは多くはなかっ た。われわれは懸命に働いていた。そのしわ寄せが子供に惨めな思いをさせた ようだ。後悔先に立たず。これ以外にも寂しい思いをさせたこともある。私に とっての「昭和は,ひたすら苦難と忍耐の戦い」の時代であったと言える。
平成の天皇は,私と同時代である。少し年下なので「疎開組」であった。戦 争の苦労,悲惨さを,同時に共有した世代である。「敗戦」についての想い出は,
立場上われわれの想像以上のものがあったであろう。天皇は,皇后共々,平成 の30年を「戦争被害者の追悼。謝罪」のために使われ,静かに去って行かれる。
長い間,ご苦労様と言いたい。
【私の中の「8月15日」への思い:8月6日,広島原爆の日に平和の鐘 の音を聞きながら】
「1945年8月15日」,日本が全世界を相手に戦い,「刀折れ矢尽き」て敗戦を宣 言した日である。「明日からどう生きるか」分からず,今後の日本の立ち位置 すら分からなかった。 「奥山に逃げようと言う人も居たし」 「自刃した人も居た」。
当時,中学3年(旧制)の私は勤労動員中止,夏休み期間中でもあり,家に帰さ れ,自宅待機。とは言うものの,どうしようもない状況だった。「絶望感」,時 に「虚無感」が私を襲った。友人を誘い,中学の建物があった旧青山師範の跡 地を訪ねた。校舎は空襲ですっかり焼けていた。その焼け跡に行く途中,表参 道で,まだ赤く「憲兵」と書かれた腕章をした兵隊が交通整理をしていた。8 月であり,まだ東京湾上のアメリカ戦艦「ミズーリ号」での,降伏文書の調印 式は行われておらず,東京に,アメリカ占領軍の姿はなかった。様々な憶測が 飛び交い,まさに「カオス」の状態であった。私は毎日,ただ,何することも 無く,放心状態であったようだ。その一方,庭に出て,焼け野原になった東京 都心部を眺め「国破れて山河あり,城春にして草木深し,時に感じて花にも泪 をそそぎ,別れを恨んで鳥にも心を驚かす」の杜甫の詩を叫んだりしたものだ。
その後,様々なことが起こった。異様なことも。その度に,私の心は翻弄され つづけた。落ち着き始めたのは1948年を過ぎた頃からか。記憶は次第に薄れて きてしまった。その頃の,私は,未だ「ポット出」の「田舎者」で,東京の事 など殆ど分かってはいなかったように思う。私の中の「東京」とは,当時,都 電の走っている,山手線の圏内であった。圏外は,私にとっては,みな「田舎」
であった。東京の至る所に「原っぱ」と呼んでいた空地があった。と言うこと もあって,大学は,徒歩でも行けるような近くの大学を選んだ。
大学院に在学中,丁度,朝鮮戦争で連合国軍が劣勢に立たされ,戦死者,負
傷兵の多くが北九州の大学病院等に運ばれていると言う噂が東京まで届いた頃 の話である。戦死者負傷兵の処置,手当などに学生がアルバイトで大量動員さ れているという噂が東京まで流れてきた。真偽のほどは明らかでない。だが戦 争の状況はアメリカ軍の相次ぐ敗退,さらに第6軍司令官のウオカー中将まで 戦死するということで,全体に暗い雰囲気が漂っていた。その頃はまたフラン スで人口減少が話題になり,今やその現象は「フランス病」とまで言われるよ うになって話題になり始めた頃でもあった。
日本は当時,人口問題など話題にするような悠長な時代ではなかった。生き ることに懸命で,またいかに生きるかが話題,フランスの社会問題など,どこ か他人ごとのように捉えていた時代であった。また日本は,講和条約の締結で,
敗戦後の連合国軍による規制(公職追放等)がなくなり,高度経済成長に向かっ て,只管,突き進み始めた頃であった。さらに当時の時代状況は労使の対立抗 争(三井三池の闘争に代表される)の激化,日米安全保障条約の締結をめぐり国 論は二分され,冷静な議論がなされると言った状況ではない。「パワハラ,セ クハラ」と言う言葉自体,まだ存在していない日本であった。東京オリンピッ クが開催されたものの,世情は危機感をはらんでいた。それが爆発したのが,
所謂「大学・学園闘争」であった。私の,生涯はまさにこの時代と同調していた。
これを除いたら私の人生はまさに「無」になると言っていいだろう。生きる時 期を誤ったと言えるかもしれないが,まさに運命だったと考えるしかない。今 の若者には理解しがたいであろうが,今は幸せな時代である。戦争経験も,敗 戦も,飢餓の体験も無いのだから。私たちの世代は余りにも多くの事を見聞き した。他人には言えないことを見てしまった。死んでも言えないようなことも。
裏切られたり,騙されたりもした。しかし,それをすべて今,語ったら多くの
人の名誉と人生が崩壊するとさえ思っている。それ程,混沌とした社会の中に
いたと言える。これは,私の誇大妄想,被害妄想ではない。しかし,何ほどか
は私の専攻した分野が特殊だったこととも関係があるかも知れない。
高度経済成長で企業も多くの人も「疑似・中産階級的生活と意識」を体験した。
しかし,その夢からも覚醒し,日本の現実を直視,「少子高齢社会」の問題に 戸惑いを見せ始めた。いつの間にか,時代が,時代の空気が変わってきた,い や「革命」 (IT革命)が起きたのである。企業も「重厚長大型産業」から「軽薄 短小型産業」へと移動した。多くの企業が,この間,破産したり,倒産した。「生 活」の全てが変わったのである。我々世代は,今までの無策に落胆失望している,
と思うのだが,どうもそうでも無いらしい。未だに「戦後処理」は終わってい ない。ある種の樂観主義と,いささか理解し難いのだが,「無能な政治指導者」
たちの「機を見る能力の欠如」を容認している我々の存在である。あまり露骨 には言えないのがもどかしい。だが自らの責任においてこれには対処せねばな らないのだと思うと,わが頭の悪さ加減に侘しさを感じる。
【高齢者の人たちに見る;迫りくる貧困の影】
今,スーパーでの買い物客の動向,老人介護施設での生活ぶりを見聞きする
とき,私には到底対処し難い(?)気がする。私の友人の殆どは,55歳定年退職
であった。彼らは85歳まで生きるとして,30年間が定年後の生活である。定年
後の生活の方が,働いていた年数より長いのである。私は,よくぞここまで生
きてきたと思う。では,その彼らを支えていたものは何か。殆どが「家族」で
ある。 「家族」が唯一の精神的な支えであったと言えるのではないだろうか。 「定
年」を過ぎると,出来る「仕事」は少ないし,それこそ「稀有」な能力の持ち
主か,家業を継いできたものしか残りえないように思う。その「家族」が,次
第に崩壊し,孤立化を深めたのが,「高度経済成長」「大都市一極集中化」であ
る。バブルの頃,我々のような職業では,高収入は期待できなかった。ただひ
たすら「高度経済成長で浮かれている人達」を横で見ているだけであった。そ の後,高度経済成長も鈍り,所謂「バブル崩壊」が急速に訪れた。だが,バブ ル崩壊後も,私たちの生活は,変わりなく推移した。結局,われわれには関係 ない事であったと言うしかない。教師など,しがない職業だが,自由であった のが何よりであると言えるだろう。
地方都市は,今,いずこも衰退し,元気を失いつつある。その速度は顕著で ある。人口は減少,空き家は増加。中古マンションの多くは外国からの移住者 によって占められている。このような状況の中で,周囲を見回す時まず写るの は「スーパー元気な女性高齢者」の存在である。だが,元気すぎるのも問題,
私が70歳で広島に来て,まず最初にしたことは「運転免許証」の自主返納であっ た。その理由は最初に危機感を感じたのが,自転車の多い事,高齢者による,
それも80歳代後半,時に90歳代の人も自動車を運転している事であつた。免許 証の自主返納には,反対されもしたが,横浜にいた時から体調不良と言うこと もあって返納は考えていた。確かに,生活に必要なこともあろうが,自分の命 も,他人の命もともに大切である。私の縁戚にあたる女性が(多分90歳前後),
孫の通学の際,運転していると聞いて驚いたことがある。未だその頃は,この ようなことは「日常的」なことであった。今でも80歳以上と思われる人が運転 している。ここは保守的な町である。しかも高齢化率は25%を超え,ここ数年 で,極めて高くなっている。かくいう私も,来て5年で,後期高齢者にされた。
周りを見回すと,杖をついて歩いている人が,この数年で急激に増えたように
思う。彼らの購買行動を見ると,スーパーを歩き回りいろいろ手にとってみた
ものの,最後のレジでの支払いは,千円以内一品が多いのである。景気よく買
い物するのはやはり若年層,60歳以下と思われる人か,玄人筋の人である。杖
をついての買い物姿は侘しいものである。
【孤独死ついての私見】
他人ごとではない。最近,この問題は社会問題にまでなっているのに。その 数字は,正確には把握されていないと言う。警察庁によると,年間,約300人 位だろうと言う。「孤独死は孤立死・独居死」でもあり,通常「変死」の扱い を受けると言う。そうなると,数千人,恐らく3,000人にはなるだろうとの事 である。孤独死の70%は男性と言う。ここにも,女性と男性の,違いがみられ る。女性は,天性とも言えるコミュニケーション能力を持っているようだ。
それが,長生きの秘訣の一つではないかと思う。彼女らの会話を聞いている と,まず「愚痴っぽい」ことは言わない。常に前向きである。一人暮らしの女 性でも,自然体である。食事に対する不満も言わない。男性は,暮らしについ て「愚痴」は言うが,改善のための努力はしない。「愚痴」の第一は,食事に 対する不満である。施設の食事は食べられたものではない。顔を合わせると,
まずこの不平を聞かされる。不平,不満は言っても,何も事態は改善しない。
それを中にため込むだけで,解決に向かって努力しない。したがって,フラス トレーシヨンばかりが溜まり,他者に攻撃的になったり,陰湿的な悪さをする ようになる。またパラノイア的傾向,ディメンシアの人もいるが,自覚が無い だけに,始末に負えない。身体が,まだ弱っているか,脳・血管障害の後遺症 の場合は,ある程度,諦めもあるようだが。身体的に,なまじ自信のある人は,
最悪である。リハビリに来ても,リハビリを行う意味を理解しない人も多い。
我々のリハビリは,筋肉隆々の人になる為のリハビリではなく,身体的機能の 保全,回復が目的であることを理解出来ずにいる人が多い。誤解も多い。老化 は劣化でもある。劣化は止める事が出来ない。多くの人が「無駄な抵抗」をし ていると私には思える。「虚栄」を張ると必ずお返しが来るのが「老化」である。
私が「腰部脊柱管狭窄症」を発症したのは,まさに自分の虚栄(みえをはる)の
結果であると思っている。「若いものに負けないぞ」と,自分の実力以上の行
動をしたのが原因の大きな要素の一つと考えている。今頃,反省しても致し方 ない。だが,何時,「心停止」するのか,こうした不安を何時も抱え,脳裏を よぎっていることは否定しない。「孤独死」への不安は常にある。だが女性た ちは,達観しているようである。高齢になるほど,落ち着いている,何故なの か,一度聞いてみたい。
私がまだ60歳になる前,厚生労働省関係の機関から, 「老後についての調査票」
が送られてきたことがある。結果は知らされなかったので,何とも言えないが,
最後の質問のところが,確か「歳を取って一人残されたときのことを考えたこ とがあるか」と言う設問だったと記憶している。私は,生来,病院に入院した 経験が無いので,その時は,「家で何も食わず,死を迎えます」と書いたよう に思う。今もって,この考えはあまり変わっていない。
【エピローグ】
「バラ色の老後なんか本来存在しない。バラ色の老後など幻想に過ぎない」
と思う。「バラ色の人生」,このような人生を過ごせる人は,ほんの僅かであり,
殆どの人には,無縁な存在ではなかろうか。「人の一生は重荷を背負つて遠き 道を行くがごとし」とは,よく言ったものである。しかし,反対に「バラ色の 人生は存在する」と言う夢をもって努力することも大切かも知れない。そのよ うにしないと,もっと悲惨な人生に陥るかも知れないから。「努力するにして も」,「強く生きる」という力を持つ事も必要だが,あくまで「自分の人生,自 分がそれで十分満足」であると思えばそれでいい。これが結論だ。自由な討論 が出来なくなった昨今の風潮。建前論でなく,時にはタブー無き討論も求めら れて好いのではなかろうか。老いることは,醜悪であると言うことは,身体的,
肉体的,心理的にもそうだと思う。「老醜を晒したくない」とは,私自身も感
じている。だが,何時までも恰好良くありたいという願望も持っている。しかし,
現実は冷酷であり苛酷である。老醜を晒していることは確実である。このよう な文章を書くこと自体,老醜を晒していることに他ならない。このような自戒 を込めて,もう少し生きてみたい。出来れば,「平成の時代」の終焉を見たい。
そして,何時までも「平和」であり続けたいものである。
補遺
1 .この原稿は2018年7月30日に,一応脱稿した。これで最後かと思う時もある。この夏が,
無事越せるかと思うほど,瀬戸内の夏は暑かった。殊に。広島の夏の「夕凪」は有名である。
今年の夏は,5週間近く,雨が全く降らなかった。6月に,雨が4日ほど降った。それが「猛 烈な豪雨」で,多くの被害が出た。山陽本線は,広島と三原の間で不通,呉線も殆ど不 通となった。山陽新幹線が,命綱的役割を果たしている。未だ,9月まで猛暑は続くと言う。
2 .参考にした文献は,殆どないが強いて言えば白水社のクセジュ文庫,ポール・バイア の「老年の社会学」,「原っぱ」については,永井荷風の「日和下駄」が参考になるであ ろう。最近は禁止用語が多く,書くのも苦労である。
3 .本文中の,H市は,お分かりであろうが広島市である。中核的な地方都市の代表と言 われていたこともあるようだ。だが「被曝者の存在」を考えると,そうとは言い切れない。
特に医療,介護の面である。この処,被爆者の高齢化と人口の減少で,大きな変化が起 きている。だが住民の連帯感,癒しの面では,他の都市との間に違いは見られない。大 都市との違いは,小学校,中学,高校による同窓の結びつきが強いことである。東京な どの大都市は,戦争中のアメリカ空軍による爆撃で,戦後の居住地域がほゞ分かりづら くなっている。その上,地方からの人口の流入,核家族化の進行で,小学校等地域密着 性の強い所ほど,同窓生の把握は困難,それに戦災による学籍簿等の資料消失が一層困 難さに輪をかけている。その点,広島市は,原爆による被害を受けながらも,連帯感が 逆に強まっているように見られる。何よりも,プロ・スポーツで町中一色に染まる光景 は,ここならではの感じである。「XX愛」が遺伝子として組み込まれているのかも知れ ないと思う時もある。私には,もはや理解不可能でさえある。そうした彼らの行動,心 理を思うにつけ,不思議なことは「県庁」の建物のお粗末なことである。日本一,質素で,
危険な建物かも知れない。災害時の司令塔として,十分な機能を果たしうるのか,甚だ もって疑問である。県民の生活優先ということであれば,素晴らしい「公僕意識」の持 ち主と言うことになるが,危機管理と言う点からは大丈夫かと言う疑問も無いでもない。
公共的な土地利用と言う点では,常に利害対立が起きる。
4 .「風姿花伝」「和歌」等にみられる日本人の心性,細やかな感情は言うまでもない。そ の際思うのは「豊臣秀吉による朝鮮出兵とその際の朝鮮人陶工の拉致,さらに朝鮮に降
伏し,その後,朝鮮に帰化した日本人武士の話」である。些か複雑な思いを持つ。ここ で「挙措を失っては」どうしようもない。ただ無力な自分を嘆くのみ。
5 .「生涯現役」について考えることがある。昔。といっても昭和の戦後の話である。「志 ん生」と言う落語家がいた。晩年,歳を取るほど「洒脱」になったように思う。高座で 話しているうちに瞬時,居眠りをしたりと言うこともあった。その時代,これも芸のう ちと感じさせる何かがあった。話の中身は「長屋の貧乏暮らしの話」。その頃は,沢山の 人が貧乏暮らしをしていたので,妙に共感を持ち,ともに笑ったり,ほろりとしたりし たものだ。テレビの普及で事態はガラっと変わった。落語家も変わった。「志ん生」の 頃は,いつの間にか「ご隠居さん」になる人がいたが,今は聞かない。
6 .パソコンなくしては,暮らして行けない時代になった。コミュニケイションもフェイ ス・ツウ・フェイスではなく,スマートフォンか携帯電話,インターネットである。家 の中で,家族同士,スマホでやり取りする時代。「絆」と言う言葉が,頻繁に使われな がら,反面「人間関係の希薄化」が話題になる。私は,電話が貴重な時代に育った。戦 後,電話を家に繫げるのにも「優先順位」があった。緊急度の高い1から,低い10まであっ たように思う。1が,医師,10が一般人。次第に,一般家庭にまで普及しはじめたのは,
昭和25年くらいかと思う。未だ,多くの庶民には高嶺の華だった。電話は,必要度の高 い順に応じて設置されていた。使用も必要最小限が原則であり,常識であった。この時 代の,ある体験がPTSDとなって,私に終生,影響し続けている。大学院在学中,会社 に就職した友人に電話した時のこと,つい長話になってしまった。それも20秒位の会話。
彼の声が突然変わった。声の背後で,何を長話してるんだと言う,彼の上司らしき人の 叱責の声がきこえた。私も彼もそそくさと電話を切った。その頃の会社員の勤務はすご く大変だと感じるとともに,それ以降,私は電話恐怖症になった。今の人達は,何時で も,気兼ねなく,電話出来て羨ましく思うことが多い。しかし,相手のことを考え過ぎ てしまうと,私のようになってしまう。おかげで,その時の私の友人は,会社員として は成功し,社長まで上り詰めた。
7 .最初に述べたように,昨年は,百田尚樹著「夢を売る男」,今年は,同じく百田氏の「大 放言」を読まされた。タイミングよくである。つい書く気持ちを削がれたが,かえって 反撥,書いてしまった。しかし,「身辺雑記」に終わってしまった。それも,本当ならもっ と,一つ一つ念入りに書くべきことを,大雑把に書いたようで,残念である。従って,
英文題名の副題は,‘Safety chat’ でもかまわないし,‘Repeat of old age’, ‘Stupid word of aging’ でもいい。