放火罪の主観的犯罪要件 : 「危険の認識」をふく めて
その他のタイトル The subjective elements of arson
著者 武田 誠
雑誌名 關西大學法學論集
巻 44
号 3
ページ 447‑476
発行年 1994‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00024641
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
本稿は、私にとって、「具体的公共危険1放火罪についての一考察~」(『刑法理論の探究』中
祝賀)、「抽象的公共危険—~放火罪についての一考察ー」(本論集四三巻三号)につづく、放火罪についての第三
論文である︒本稿の考察対象は︑放火罪の主観的犯罪要件であるが︑まずはじめに︑前二稿の結論を紹介しておきた
は じ め に
│
﹁ 危 険 の 認 識
﹂ を ふ く め て
1
ー は じ め に
二焼殿の認識と危険の認識
三﹁不要説﹂の内容とその検討
四 判 例 の 検 討 五 む す ぴ に
放 火 罪 の 主 観 的 犯 罪 要 件
武
一七
九
田
︵四 四七
︶
義勝先生古稀
誠
断することは妥当でない︒ 第一論文の結論は︑
を意味する︒この結論にいささか説明をくわえるならば︑﹁一0
八条
︑
体的には︑現住建造物の内部にいる人あるいはその周囲にいる人︑さらに非現住建造物の周囲にいる人に対する︑
︵具体的︶危険を意味する︒延焼の危険の内容をこのようにとらえるならば︑さらに︑﹁不特定または多数人の生命︑
身体︑財産に対する危険﹂を付加する必要がないともかんがえられるが︑なおこれ以外のばあいの︵具体的︶危険の
( l)
考察の必要性もあろうかとおもわれるので︑この部分ものこしておきたい︒②﹁危険性﹂は︑行為︵結果の発生をふ
くめて︶時に存在した客観的事情を基礎にして判断すべきであって︑﹁一般人の危惧感﹂という基準にしたがって判
第二論文でえられた結論は︑以下の四点である︒①放火罪は危険犯であり︑その危険を実質的に理解するかぎり︑
危険の発生を擬制する﹁抽象的危険犯﹂という概念は採用できない︒②﹁独立燃焼説﹂を︑判例のような意味で︑使
用することは妥当ではない︒すなわち私見によれば︑独立燃焼説は︑多くのばあい︑未遂時期を画する機能を果たす
ことになる︒既遂時期を画するのは︑︵具体的︶危険の発生時である︒③現実の放火行為に各本条を適用するにさい
しては︑原則として︑点火された客体によってそれを決定すべきである︒たとえば︑行為者の最終的な放火﹁目標﹂
を重視して罰条を決定するような︑主観重視の適用は妥当性を欠く︒④危険判断にさいしては︑放火された客体の内
部に人が存在したか︑その周囲に人が存在したか︑さらに︑不特定または多数人の生命︑身体を︵具体的︶危険にさ
ま ︑
'
と ̀
v o
10
八条
︑
関法
第四四巻第三号
10
九条の物件に延焼する危険性﹂とは︑具 つぎのようなものであった︒①刑法一0
九条
二項
︑
︱
10条 ︑ 10
九条の物件に延焼する危険性︑さらに不特定または多数人の生命︑身体︑財産に対する危険性 ︱一六条二項にいう公共の危険 一
八〇
︵四
四八
︶
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
︵ 注 ︶
10
八条
の客
体と
して
右記
以外
に汽
車︑
電車
︑艦
船︑
鉱坑
︑
らすような延焼媒介物が存在したか︑といった諸要素が考慮される︒
私の基本的発想は︑放火罪を客観的かつ実質的に解釈することにある︒前二稿でえられた結論を簡潔に要約すれば︑
つぎのように表現できるであろう︒放火罪は︑﹁危険犯﹂として構成するかぎりは︑客観的かつ実質的な﹁具体的危
険﹂の発生をもって初めて既遂となる︒放火罪を︑抽象的危険犯と具体的危険犯に分類することは妥当ではない︒し
たがってたとえ放火行為が存在しても︑上述の危険が発生しないばあいには︑未遂罪または毀棄罪としての処罰を肯
( 2)
定することができるだけである︒私見によれば︑このような解釈も現行刑法のもとでなお十分可能である︒
10
九条一項
10
九条二項
︱1
0条一項
︱1
0条二項
︱︱一条一項
︱︱一条二項 1
0八条
への延焼 他人所有の建造物以外の物の焼徴+危険の発生自己所有の建造物以外の物の焼蝦+危険の発生1
0九条二項または︱
10
条二項物件の焼蝦+危険の発生‑‑10八条または一0九条一項物件
︱1
0条二項物件の焼殿+危険の発生ー│‑︱0条一項物件への延焼 自己所有の非現住かつ非現在建造物の焼蝦+危険の発生 他人所有の非現住かつ非現在建造物の焼蝦+危険の発生 現住あるいは現在建造物の焼搬+危険の発生
︹故
意犯
︺
放火罪の各本条の客観的犯罪要件はつぎのとおりである︒
一八
︵四 四九
︶
10
九条
の客
体と
して
艦船
︑鉱
坑が
ふく
まれ
てい
るこ
2 1
第四四巻第三号
のうちかなりの部分が﹁公共の危険の認識﹂の論述についやされることになろう︒
︵四
五
0)
第一︑第二論文でえられた以上の結論を前提として︑本稿では︑放火罪の主観的犯罪要件が考察対象となるが︑そ
第一
論文
︵﹃
刑法
理論
の探
究﹄
平成
四年
成文
堂︶
四六
七ー
四六
八頁
︒
第二
論文
︵関
法四
三巻
三号
︶九
三頁
︒
内田教授も︑放火罪の既遂は︑一〇八条であれ︱
10 条であれ﹁公共危険の発生﹂によってはじめて肯定されるべきであ る︑とされる﹁焼蝦と放火罪の既遂︑未遂﹂判例タイムズ五三五号七五頁︒もっとも︑内田説が︑私見のように︑抽象的危
険犯と具体的危険犯の区別の否定まで主張するのかは定かではない︒
焼 慨 の 認 識 と 危 険 の 認 識
すべての犯罪の成立要件を理論的に分析すれば︑客観的要件と主観的要件に分類される︒通説の犯罪論体系が︑
まず客観的要件の充足を問題にし︑そののち︑主観的要件の存否を問う︑という論理構造の上に成立していることは
(1 )
周知の事実である︒この犯罪論体系を前提にすれば︑犯罪の成立を認定するために︑まずは客観的要件がみたされる
必要があるが︑それがみたされるだけでは十分ではない︒その客観的要件に対応する主観的要件の存在も要求される
( 2)
わけである︒それは︑たとえば︑犯罪事実の認識が必要であるといった表現をもちいて説明されている︒ ︱一六条二項 ︱︱六条一項 ︹
過失
犯︺ 関
法
10
九条二項または一︱0条物件の焼熾+危険の発生 10八条または一〇九条一項物件の焼穀+危険の発生
とは
︑い
うま
でも
ない
︒
J¥
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
およぼすことの認識である︒ て
おき
たい
︒
いわゆる独立燃焼説は︑独立燃焼時に焼熾の事実が生じるとし︑さらに︑その時点で危険が発生するという解釈を
している︒私見も前者は肯定する︒しかし︑後者については大きな疑問がある︒焼殿の事実が生じても危険は生じて
いない︑という事態はありうるのである︒その意味で︑焼熾の事実の発生と危険の発生は︑論理的に︑明確に区別さ
( 3)
れなければならない︒放火罪の客観的成立要件は︑たんに焼殿の事実が生じるだけではたりず︑さらに︑危険の発生
がなければ充足されないのである︒とすれば︑その客観的要件に対応して要求される主観的要件もおのずから明白で
あろう︒すなわち私見によれば︑放火罪の主観的要件は焼搬の認識ならびに危険の認識である︒放火罪の成立にとっ
て﹁危険の認識﹂は必要かという従来の論争にかんし︑本稿は︑﹁必要説﹂に立脚することを︑まずここで明確にし
では︑それらの内容はどのようなものであろうか︒詳細は以後の考察であきらかにしていくことにして︑とり
あえ
ず︑
一般的な説明をしておく必要があるだろう︒まず焼殿の認識とは︑自己の放火行為によって客体を焼くこと
( 4)
の認識であり︑危険の認識とは︑客体の焼熾による火力によって︑不特定または多数人の生命︑身体︑財産に危険を
10
八条を例にとろう︒XがYの現住建造物に放火したというばあいである︒現住建造物に放火するという認識
ー焼殿の認識ーがないばあいには︑失火罪︵︱‑六条一項︶
の成立がかんがえられる︒ただし私見によれば︑失
火罪の成立にとっては客観的に危険の発生が必要であるから︑焼熾の事実は生じたが危険は発生しなかったときには︑
失火罪は成立しない︒つぎに︑焼搬の認識はあったが危険の認識がなかったばあいである︒たとえば︑Yの現住建造
物内に人は現在せず︑かつその周囲にも人の存在はなく︑延焼の危険もない︑とXが認識していたとしよう︒客観的
一八
三
︵四 五一
︶
はほかに家は立っていないし︑火が燃え広がるような物もない
10
九条の故意︵焼蝦ならびに危 ︵それは︑客観的事実でもある︶が︑この時刻︑今ま 念のため︑さらに例をあげてみよう︒X
が ︑
Yの所有する空き家に放火したというばあいである︒そのさいX
は ︑
その空き家のなかに人が現在しないことを確認している︒ただX
は ︑
つぎのようにかんがえていた︒この家の周囲に
での経験からすれば︑この家の前はかなりの人通りがある︒この家に放火して火の勢いが強くなったときには︑たま
たま家の前をとおりかかった人に害がおよぶかもしれない︒このケースのX
には
︑
険の認識︶があるといえよう︒たまたまとおりかかったA︑B︑Cの三名があやう<難をまぬかれた︑というばあい
には
一
0九条一項の既遂がかんがえられよう︒これに対し︑火災の折りに︑たまたま通行人がなく︑危険の発生がみ 以上の考察は︑原則的に︑︱
10
条の各本条にも妥当するとかんがえられる︒
第四四巻第三号
状況がXの認識どおりであったばあい︑つまり危険が発生していなかったばあいには︑毀棄罪の成立がかんがえられ
る︒ではXに錯誤があり︑現実には危険が発生したばあいはどうであろうか︒このケースでは︑
件は充足されている︒しかし主観的要件のうち︑危険の認識が欠けているわけであるから︑
みとめられず︑結果的には毀棄罪を肯定しうるにとどまるであろう︒つまり︑
10
八条の既遂︑故意の責任を問うた
めには︑客観的には焼熾︑危険の発生という両事実の存在が必要であり︑主観的には焼徴︑危険の両認識が必要であ
るということになる︒そして放火罪の﹁故意﹂は︑焼熾︑危険の二つの認識から構成され︑
ば故意はない︑といわなければならないであろう︵もっとも焼殿の認識を欠きながら危険を認識するというような
ケースはほとんどかんがえられないが︶︒ちなみに放火罪の未遂は︑焼蝦︑危険の認識をもって放火行為に着手した
が︑客体の焼熾は生じたものの危険が発生しなかったばあいに成立する︑といえよう︒
10
九条
︑
関法
一八 四
︵四
五二
1 ︶
0八条の客観的要
やは
り一
0八条の成立は
いずれかの認識が欠けれ
さいごに︑失火罪︵︱‑六条︶にも論及する必要もあろう︒私見によれば︑ な
い︒
︶
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
およぽし︑さらにYの現住建造物に延焼したというようなばあいに成立する︒当然それに対応して主観的要件が要求
される︒もしそのさい︑
認識がなければ︑ たとえば 本
罪は
︑
それではつぎに︑延焼罪(‑︱一条︶はどうであろうか︒
一八 五
一項︑二項ともに︑失火罪の成立に
︱
10
条
10
九
10
九条二項または︱
10
条二項の結果的加重犯であり︑それぞれの罪を犯して延焼させ︑より重い結果
を発生させたが︑延焼の結果について故意がないばあいに成立する︑と理解されている︒その客観的構造は︑
条二項または︱
10
条二項物件の焼椴←危険の発生←一〇八条または一〇九条一項物件への延焼︵一項︶︑
二項物件の焼慨←危険の発生←︱
10
条一項物件への延焼︵二項︶というプロセスで説明されるであろう︒本罪では︑
危険が発生しないで延焼結果が生じたばあいが理論上想定しうるが︑客観的要件として危険の発生を要求する以上︑
本罪を適用することはできず︑失火罪を問題としうるにとどまるであろう︒私見によれば︑本罪の基本行為の故意は︑
やはり︑焼徴ならびに危険の認識でなければならない︒そして︑基本行為と延焼結果とのあいだに因果関係が存在す
るだけではたりず︑その重い結果についての過失の存在が必要である︒すなわち︑本罪の主観的要件は︑焼慨の認識︑
危険の認識そして延焼結果についての過失︵認識可能性︶
︱一
条一
項は
︑
であ
る︒
Xが︑自己の所有する非現住かつ非現在建造物を焼搬し︑その結果︑近傍の人に危険を
Xに危険の認識がなかったとすれば︑失火罪を問題としうるにとどまるであろう︒︵危険の
Xの主観は︑自己の財産を火力をもちいて処分することのみに向けられており︑非難の契機は生じ とめられなかったとすれば未遂が成立する︒
︵四 五三
︶
第四四巻第三号
ないことをしめしているだけであるが︶︒問題となるのは︑
前者では毀棄罪の成立がかんがえられ︑後者では失火罪︵一項︶
︵四 五四
︶
とっては危険の発生が必要である︒したがってここでは︑客観的要件としての焼熾の事実と危険の発生がともに存在
している︑という前提で議論をすすめてみたい︒そのような客観的状況下︑焼熾の認識と危険の認識という︑主観的
要件がどのように機能するかを検討してみよう︒念のために言及しておけば︑これら両主観的要素が存在しているば
10
八条
から
︱ 10
条二項までの各犯罪の既遂︑故意犯が成立する︒とすれば逆に︑これら両主観的要素
が欠如すれば︑過失犯の成立がかんがえられるということになろう︵もっとも正確に表現すれば︑それは﹁故意﹂が
いずれかの主観的要素を欠くばあいである︒論理的には︑
焼殿の認識が存在し危険の認識が欠如するばあいと︑焼椴の認識が欠如し危険の認識が存在するばあいがあるが︑後
焼殿の認識はあったが危険の認識はなかった︑というばあいをどのようにかんがえるべきであろうか︒すでに︑V
りかえし言及してきたように︑放火罪の﹁故意﹂をみとめるためには両主観的要素の存在が必要である︒結論はあき
らかである︒すなわち︑このばあいにも故意をみとめることはできないのである︒つまり︑失火罪の成立が考慮され
るということになる︒︵ただし︑客体が他人所有物であるばあいには︑焼熾の認識が存在するのであるから︑毀棄罪
10
八条は所有による区別をしていないが︑そこでも︑他人所有の現住建造
物を焼燦し危険を発生させたばあいと︑自己所有の現住建造物を焼熾し危険を発生させたばあいが区別可能である︒
の成立がかんがえられる︒︶以上の考察をまとめて
みよう︒すなわち失火罪が成立するためには︑まず︑消極的には﹁故意﹂が否定されなければならない︒それは具体
的には︑焼熾︑危険の認識のうち︑すくなくとも一方を欠くばあいである︑と表現できるであろう︒しかしそれだけ の成立がかんがえられよう︒ちなみに︑ 者のばあいは事実上ありえないであろう︒ あ
いに
は︑ 関法
一八 六
放火罪の主観的犯罪要件 ︱一六条二項 ︱一六条一項 では︑たんに︑故意がないということを述べるにすぎない︒失火罪が成立するためには︑さらに積極的に︑非難に値する心理的要素の存在が必要である︒そしてその心理的要素は︑当然︑客観的要素に対応するものでなければならない︒つまり︑焼蝦の認識可能性と危険の認識可能性である︵一方の可能性しか存在しないばあいに失火罪が成立しな 10
九条一項
10
九条二項
︱1
0条一項
︱1
0条二項
︱︱一条一項
︱︱一条二項 焼熾の認識+危険の認識焼熾の認識+危険の認識焼澱の認識+危険の認識焼熾の認識+危険の認識焼殿の認識+危険の認識焼熾の認識+危険の認識+延焼結果の認識可能性
焼徴の認識+危険の認識+延焼結果の認識可能性
焼殿の認識可能性+危険の認識可能性
焼蝦の認識可能性+危険の認識可能性
(1
)
主観的違法要素をめぐる興味ある論争は︑本稿の直接の対象ではないので︑残念ながら︑ここではその問題にふれないで
おく
︒
(2
)
﹁故
意﹂
の成
立に
﹁違
法性
の意
識﹂
を必
要と
する
か︑
とい
う議
論に
も言
及を
ひか
えて
おく
︒
10
八条 放火罪の各本条の主観的犯罪要件はつぎのとおりである︒ いことは︑これまでの考察からあきらかであろう︶︒
一八
七
︵四
五五
︶
るときは︑当該可能性の認識は︑現実には一〇八条又は一〇九条一項の未必の故意を構成することになるから︑公共
( 3)
の危険の認識を故意の要件としてもあまり実質的意味がない﹂︑とされ︑また︱
10
条にかんしても︑﹁公共の危険 のが論理的のようでもある︒しかし︑公共の危険を︑
10
八
・1
0九条一項の物件への延焼の可能性ある状態と解す 構成要件事実に属するとするならば︑責任主義の基本原則からいって︑公共の危険の発生の認識を故意の要件とする 不要説の論者として︑まず︑藤木博士があげられる︒博士は︑
10
九条二項について︑﹁公共の危険の発生が ︱
10
条一項にかんし︑不要であるむねを説示した最高裁の
(3
(4
第四四巻第三号
第二
論文
︑八
九頁
以下
︒
同八
一頁
︵注
( 4 2 )
︶︒
危険
は火
力以
外に
も︑
たと
えば
ガス
によ
って
も生
じる
︒
関法
﹁不 要説
﹂ の 内 容 と そ の 検 討
主観的要件のうち︑危険の認識については︑かねてから﹁不要説﹂と﹁必要説﹂が対立し論争が繰り広げられ
(l )
てきている︒学説は︑不要説と必要説にわかれており︑
( 2)
判決
があ
る︒
もっとも︑必要説といっても︑かならずしもすべての放火罪に危険の認識を要求しているわけではない︒それはた
だ︑具体的危険犯との関連でのみ論じられている︑というのが実状である︒しかし︑すでに一章であきらかにしてお
いたように︑私は抽象的危険犯と具体的危険犯の区別を否定する︒したがって私見によれば︑危険の認識はすべての
故意の放火罪に要求される︒そのことは︑二章でいくつかの仮定的事例をもとにしてしめしてきたはずである︒本章
では︑不要説の主張を紹介し︑それが妥当でないことを論じてみたい︒
一八
八︵
四五
六︶
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
一八
九
とは︑既述のとおり火が現住建造物等に延焼するおそれのある状態をいい︑たとえば住宅への延焼の可能性を認識し
て放火したときは︑住宅放火の故意となるから︑公共の危険の認識を要するといっても︑その内容は︑せいぜい︑単
に抽象的に危険な行為だと認識した︑というにすぎないから︑公共の危険の認識を要件としても︑その実体的内容は
( 4)
皆無にひとしい﹂︑と論じられる︒藤木博士の主張は︑論理的観点からのものというより︑むしろ︑実質的根拠にも
この点について︑中博士は︑必要説に立脚されたうえで︑その内容の実質化に腐心され︑﹁危険の故意とは︑延焼
の危険はないがなおその幻影におびえるのが一般的であるということの認識を意味する﹂とされ︑なおつぎのように
説明される︒﹁たとえ放火者が一応予想される延焼の危険を回避するに相当と思われる予防措置をとり︑したがって
延焼すべき物件に対する放火の未必的故意も否定される場合にあっても︑なおかかる回避措置が十分に施されている
という事情を知らぬ一般人はある程度の火勢ないし黒煙を認めて不安の念をいだくべく︑したがって一般人に対する
この程度の影響を知りながら火力を用いる者は︑延焼物件に対する放火行為を否定される場合にもなお公共の危険発
(5 J)
生の認識を否定されるものではない﹂︒その後︑この中説は︑谷口正孝判事に引用されている︒すなわち︑谷口判事
( 6)
は︑最高裁昭和五九年四月︱二日判決で︑﹁危険の予見と延焼の予見とが論理上区別できることは否定し難いところ
であり︑その具体的内容としては︑﹃公共の危険発生の予見はあるが︑延焼を予見することのない心理状態﹂すなわ
ち︑放火行為により﹃一般人をして延焼の危惧感を与えることの認識﹄と考えてよいと思う﹂と説示されている︒
ここで︑中説の論理をかんたんにあとづけてみよう︒まず︑公共の危険発生とは︑延焼の危険発生を意味する︒そ
こで前者の認識をもちつつ︑その危険を回避する有効な程度の措置を講じないで火を放つばあいには︑すくなくとも とづくもののようにおもわれる︒
︵四
五七
︶
第四四巻第三号
延焼物件に対する未必の故意がみとめられる︒この未必の故意と︑同一の結果に対する認識ある過失との境界に中間
領域を認め︑そこに危険の故意を位置させることは理論上不可能である︒したがって︑公共の危険発生の認識と延焼
の未必的予見とは︑質的にことなるものと把握せざるをえない︒ところで︑公共の危険とはかならずしも物理的客観
的な危険であることを要せず︵前者は︑たいていは︑後者の存在にうながされて発生するものではあるが︑つねに後
( 7)
者がなければならないというものではない︶︑心理的客観的な危険を意味する︵いわば︑影におびえるといった心理
を想定することが可能である︶︒これに対して︑延焼の危険は物理的客観的危険を意味する︒この両者には︑延焼の
幻影に対するおびえが一般的な状態であっても︑延焼の幻影がただちに延焼の危険を意味するわけではない︑という
関係が存在しうる︒そこで︑危険の故意も︑本来なら︑物理的客観的意味での危険発生の認識︵延焼の予見︶をふく
むはずであるが︑それは延焼物件に対する放火の故意︵すくなくとも未必の故意︶を意味するから︑これを除外し︑
延焼の危険はないがなおその幻影におびえるのが一般的であるということの認識を意味する︒
中博士の説明じたいに疑問がないわけではない︒というのは︑はじめに︑公共の危険発生は延焼の危険発生を意味
するとされながら︑のちになって︑その認識のレベルで﹁質的にことなる﹂とされ︑公共の危険
11
心理的客観的危険︑
延焼の危険
11物理的客観的危険という区別に説明が転移しているからである︒むしろ端的に最初から︑公共の危険と
延焼の危険は質的にことなる︑と簡明に説明されるべきではなかったかとおもわれる︒しかし︑そのような疑問点の
存在にもかかわらず︑従来必要とされながら︑かならずしも明確ではなかった危険の認識の意義ならびに内容が︑中
説であきらかにされたことは評価されるべきである︒そこでは︑必要説からのひとつの具体的な説明が提示されてい
るといえよう︒ただ︑私見からすれば︑この中説に対しても疑問は生じる︒まず第一に︑公共の危険は延焼の危険に 関法
一九
0
(四
五八
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
般人の不安の念﹂を提示することが妥当か︑という諸点である︒
一 九
︱
10条についても同趣旨の根拠にもとづいて︑必 つきるものではなく︑それをふくむ︑さらに広範な概念ではないか︒つぎに︑公共の危険
11
心理的客観的危険︑延焼
の危険
11
物理的客観的危険という区別は妥当か︒そしてそのことと密接に関連するが︑公共の危険の内容として﹁一
しかし︑中説の存在にもかかわらずなお︑﹁公共の危険発生の予見はあるが︑
絶対に延焼するとは思わないという心理状態﹂を︑現実にみとめめうるのか疑問であって︑両者の区別は必ずしも容
( 8)
易でない︑という評価は存在する︒さきに紹介した藤木説も︑論理的にはともかく︑実質的な観点から危険の認識の
不要説に立脚されていたのである︒しかし︑必要説に対するこの批判はあたっているであろうか︒博士は︑公共の危
険を
一〇
八条
︑
10
八条
︑ 10
九条一項の物件への延焼の可能性ある状態と解すると︑当該可能性の認識は︑現実には一〇八条︑
10
九条一項の未必の故意を構成することになるから︑実質的意味がないとされるが︑はたしてそうであろうか︒こ
こでは︑さきに述べておいたように︑﹁公共の危険を一0八条
・1
0九条一項の物件への延焼の可能性ある状態と解
する﹂ことが問題とされるべきである︒危険の発生を実質的にかんがえる私見によれば︑
物件への延焼の可能性ある状態と︑危険の発生は︑論理的かつ実質的に区別できるのである︒たとえば︑Xが自己の
所有する空き家を焼いて︑その前を歩いていた人に危険をおよぽしたが︑周囲に家がなかったので延焼の可能性はな
かった︑という事例がかんがえられよう︒この事例でのXは︑その客観的な状況から︑およそ未必的にも一〇八条︑
10
九条一項の故意を有することはないであろう︒しかし︑危険の認識にかんしては︑その状況に応じて︑その有無
を問題にすることが十分に可能である︒危険の認識は︑実質的に︑
という藤木説は︑的を射た批判たりえないといえよう︒博士は︑
10
八条
︑
10
八条
︑ 10
九条一項の
10
九条一項の未必の故意を構成する
︵四
五九
︶
10
九条一項の建造物に
をふくめて︶危険の発生が必要であり︑主観的には できよう︒宮本説の趣旨は十分理解でき︑かつ︑妥当である︒
第四四巻第三号
10
九条一項所定の物件に延焼したとし 要説を批判しておられるが︑ここでも同様にその批判は論拠を欠くといえよう︒
現在︑もっとも積極的に不要説を主張されているのは︑香川教授である︒必要説の妥当性を主張する者は︑香
川教授の論拠の検討を避けることはできないであろう︒ただ︑香川説に対しては︑そのあげられている論拠について︑
( 9)
斉藤誠二教授が逐一反論をくわえておられる︒それは︑いわば︑通説的な観点からの香川説批判といえるが︑本稿で
はその紹介を省略し︑私の立場からの香川説に対する反論をこころみたい︒
まず︑基本的なことにふれておこう︒これは︑斉藤︵誠︶教授によっても指摘されていることであるが︑香川教授
( 1 0 )
は︑宮本英脩博士による必要説の論証が﹁その趣旨不明で理解しがたい﹂︑と述べておられる︒はたして︑そうであ
ろうか︒宮本博士は︑﹁自己の所有にかかる物の焼徴は本来適法行為か又は少なくとも放任行為であるから︑斯やう
( 1 1 )
な行為から生じた結果は常に純粋な過失犯である﹂︑とされている︒私なりにいささか︑注釈をくわえてみよう︒本
来︑自分のものを焼くことじたいは犯罪ではない︒したがって︑その行為によって危険を発生させるという認識がな
ければ︑その主観を非難することはできない︒その結果︑危険が発生したとしても︑それはせいぜい過失犯としての
責任を問われるだけの行為であり︑さらに︑その火が︑たとえば一〇八条︑
ても︑それも過失犯であって︑けっして延焼罪となるものではない︒宮本説の趣旨は︑以上のように理解することが
一︑二章であきらかにしておいたように︑私見によれば︑放火罪が成立するためには︑客観的には︵故意︑過失犯
︵故意犯のばあいには︶焼搬の認識と危険の認識が必要である︒
したがって︑たとえ客観的に危険が発生したとしても︑危険の認識がなければ﹁故意責任﹂を問うことはできない︒ 関法
一九
四六
0)
放火
罪の
主観
的犯
罪要
件
提示される︒以下︑その論拠を検討したい︒
︵四 六
私の放火罪の理解からすれば︑﹁必要説﹂は当然の帰結である︒そしてその根拠は︑すでに︑宮本説によって明確に
されていたということになる︒危険の認識をめぐる論議は︑宮本説を出発点としなければならないのである︒
香川教授は︑公共の危険の発生を客観的処罰条件と理解される立場から︑それを犯罪成立要件とする見解に疑問を
教授
は︑
A1
1放火の意思と
B1
1公共の危険発生の認識とが必要ならば︑この二要素の組み合わせによって︑
m
A︑
Bとも存在するばあい②Aが存在しBが存在しないばあい③Aが存在せずBが存在するばあい④A︑Bとも存在しな
いばあい︑の四通りがあるとされ︑①は故意犯︑④は失火罪の枠内に落ちつき︑③は実例としてはかんがえにくいの
で︑②の類型が放火罪に組み込まれるか︑失火罪に移行させられるかが︑当面の課題としてクローズ・アップされる︑
と指摘される︒
この第②類型について︑教授はまず︑過失概念におよぽす影響と変動という論点を提示されている︒そこでは︑い
わば︑半分だけ犯罪事実の認識があるということになるが︑教授は︑それを﹁過失﹂にふりわけることに躊躇をおぼ
える︑とされるのである︒しかし︑ご自身もみとめておられるように︑過失が認定されるためには︑それに先立って
故意の存在が否定されなければならない︒そして︑故意の成立を認定するためにはA︑B両要素の存在を必要とする
以上︑すくなくとも一方の要素が欠ければ故意はみとめられず︑過失に移行すると解することは当然である︒そこで
は︑過失概念に対するどのような影響も変動もありはしないのである︒教授は︑この基礎づけに対して︑さらにつぎ
のような疑問も提示される︒すなわち︑AとBとがなぜそうした意味で非独立ないし不可分なものとして把握されな
ければならないのか︑という疑問である︒﹁たとえば抽象的公共危険犯のばあい︑通常は放火の意思があればたり︑
一九
三
犯をみとめない︒私見によれば︑
第四四巻第三号
別途に公共の危険発生に対する認識を必要としないとされている︒そのかぎり︑放火の意思は独立した存在として要
求されているわけである︒この点は︑異論のないはずである︒このように︑単独でも独立性を取得しうる放火の意思
が︑なぜこと具体的公共危険犯となると︑その独立性を喪失するといいうるのか︒それが問題となりうる余地もある
からである︒したがって︑非独立・不可分とするのなら︑なぜそうなるのかの事情を説明する必要がある﹂︑と教授
は述べておられる︒この点にかんしては︑私も香川教授と同感である︒抽象的危険犯としての放火罪の主観的要件は
放火の意思でたりるが︑具体的危険犯としての放火罪のばあいは危険発生の認識をも必要とする︑というかんがえか
たには︑ある種の不自然さがかんじられる︒香川教授の指摘されるように︑その事情の説明が必要だとおもわれる︒
︵これは結局︑抽象的危険犯と具体的危険犯を区別し前者に危険の発生を擬制する︑という基本的思考についての評
価の問題に帰着するであろう︒︶私見によれば︑この点についての香川教授の批判は正鵠を射るものといえよう︒こ
こでは香川教授が指摘されているように︑通説︵あるいは通説的見解︶はあきらかに︑その欠陥を露呈しているよう
におもわれる︒しかし︑この香川批判は︑私見には妥当しない︒すでにたびたび論じてきたように︑私は抽象的危険
めに要求するのである︒A︑B両要素が﹁非独立・不可分﹂である事情は︑これによって説明されるであろう︒
ついで必要説に投じられている疑問は︑放火罪︑失火罪の既遂時期の確定についてのものである︒香川教授は︑必
要説にたてば︑従来自明の理とされていた焼巌の結果発生時のみに既遂時期を限定する必要性がなくなるのにもかか
わらず︑この点に対する反省が必ずしも十分になされていない︑と指摘される︒私は︑この点についても︑香川教授
とおなじ疑問をもつ︒危険の認識を主観的犯罪成立要件とするのであれば︑犯罪の既遂時期は︑認識されていた﹁危 関法
10
八条の放火罪も︑客観的には危険の発生︑主観的にはその認識をその成立のた
一九 四
︵四 六
放火罪の主観的犯罪要件 に対してはつぎのように答えられよう︒すなわち︑ 疑問はさらに失火罪に関連して︑通常︑過失犯は結果犯であると了解されているが︑その結果犯である失火罪に︵抽象的であれ具体的であれ︶危険犯を予定することがはたして可能なのか︑というかたちで提示されている︒これ的な危険という一種の﹁結果﹂の発生が必要なのであると︒そのように理解すれば︑危険の発生を客観的処罰条件とする必要はないし︑危険発生についての認識を必要とするという発想を放棄しなくてもよい︑ということになる︒教 と
いえ
よう
︒
険の発生時﹂でなければならないのではなかろうか︒その意味で︑香川教授の批判は︑従来の通説︵あるいは通説的
見解︶に妥当する︒危険の認識を要求しながら︑焼殿の事実の発生時にのみ既遂時期を設定することは︑論理的整合
性を欠くといえよう︒ここでも通説︵あるいは通説的見解︶
一九
五
︵四 六
は︑その欠陥を露呈しているといえよう︒︵もっともこ
れに対しては︑抽象的危険犯のばあいには危険の認識は不要であり︑そこでは既遂時期は焼慨の結果発生時であり︑
具体的危険犯のばあいには危険の認識が必要であり︑そこでは既遂時期は危険発生時とするのであって︑どのような
矛盾も生じない︑との反論は予想される︒︶この点にかんし︑私は第二論文で︑焼熾の事実発生時
11
独立燃焼時はか
ならずしも放火罪の既遂時期を確定せず︑むしろ未遂時期を確定することのほうが多く︑
妥当性を欠くと強調しておいた︒既遂時期は︑あくまでも客観的かつ実質的な危険の発生時でなければならないので
ある︒その前提にたてば︑ここでの香川批判も私見には妥当しないということになろう︒すなわち私見によれば︑ま
さに教授が指摘されているように︑主観的にA︑ いわゆる﹁独立燃焼説﹂は
B両要素を有して放火行為に着手したものの︑﹁焼熾の結果は発生
したが公共の危険が未発生の間は︑未遂犯とせざるをえない﹂のである︒つまりここでも︑論理的な矛盾は生じない
︱一六条が成立するためには︵一︑二項を問わず︶客観的で実質
ろその必然的帰結であると﹂いわなければならない︒
第四四巻第三号
一︑二項の区別なく焼蝦の結果が発生すれば︑それだけで失火罪 は成立し︑したがって既遂に達したということが可能となり︑その意味で一︑二項に共通して同一の法理を作用させ うる︑くわえて︑既遂時期も焼殿の結果発生時で統括できる︑と主張される︒しかし︑統一的な説明は︑成立要件説︑
必要説を採用しても可能といえるだろう︒統一的な説明が︑成立要件説︑必要説の立場から可能であるとすれば︑
﹁客観的処罰条件という︑とかく議論のある︑成立要件とは別個の範疇﹂はみとめるべきではなく︑くわえて︑﹁責 任主義という近代刑法における原則に準拠するとき︑公共の危険発生に対する認識は故意の内容とすることが︑むし 以上︑不要説にたつ代表的な見解として藤木説と香川説をえらび︑その内容を検討してきたが︑両説に︑必要説を
否定できる充分な根拠のないことが︑あきらかにされたこととおもわれる︒必要説は積極的に支持されるべきである︒
(l
)
学説の状況については︑斉藤誠二﹁放火罪と公共の危険ーー直ハ体的危険犯と公共の危険﹂ロー・スクール三0号八八頁が
くわしい︒学説では必要説が多数説であるようにおもわれるが︑本文で紹介する論者以外に必要説に立つ論者を若干あげて
おく︒草野豹一郎﹁放火罪と公共の危険の認識﹂﹃刑事判例研究一巻﹄︱一七頁︑尾後貫荘太郎﹁放火罪と公共の危険の認識﹂法学志林三八巻一号八六頁︑宮原一︳一男﹁放火罪﹂﹃刑事法講座四巻﹄六八九頁︑生田勝義﹁刑法︱
10
条一項の放火罪
と公共の危険発生の認識の要否﹂法学セミナー一1一七五号六六頁︑江口三角﹁公共危険の認識﹂﹃刑法判例百選各論︵第三
版︶﹄一四八頁︑内田文昭﹁道路上の車両を炎上させる行為と往来妨害罪の﹃痙塞﹄︑建造物等以外放火罪の﹃公共危険﹄﹂判例タイムズ五四二号七六頁︑大谷貨﹁刑法︱
10
条一項の罪と公共の危険発生の認識の要否﹂法学セミナー三八一号一五
二頁︑甲斐克則﹁建造物等以外放火罪と公共危険の認識﹂ジュリスト八六二号︵昭和六0年度重要判例解説︶一五七頁︑振
津隆行﹁放火罪と危険概念﹂法学セミナー三四六号四八頁︑堀内捷三﹁刑法︱
10
条一項の罪と公共の危険発生の認識の要
否﹂四察研究六一巻五号四一頁︒
授は︑処罰条件説を採用し︑不要説を採用すれば︑
関法
一九
六
四六
四︶
放火罪の主観的犯罪要件 前章までの検討によって︑放火罪の客観的ならびに主観的構造が︑
四
(2
)
昭和六0年三月二八日第一小法廷判決︒本判決については次章で検討をくわえる︒
(3
)
﹃注 釈刑 法③
﹂一 七九 頁︒
(4
)
﹃刑法講義各論j九ニー九三頁︒
(5
)
﹃刑
法講
座五
巻﹄
一︱
︱
1 0
頁 ︒
(6
)
第一小法廷判決︒次章で検討をくわえる︒
(7
)
﹁心理的客観的危険﹂とは︑一般人が当該行為をみて危険であると感じる︑ということを意味する︒
( 8 )
高橋省吾﹁刑法︱
10
条一項の罪と公共の危険発生の認識の要否﹂ジュリスト八四0号七一頁︒同様の評価は以下の諸家
にもみられる︒阪村幸男﹁この区別は明らかに困難であるし︑しいて区別しようとすれば認識を必要としない説と差がなく
なってしまう﹂ジュリスト増刊﹃刑法の争点﹄一六七頁︑平野龍一﹁公共の危険を認識するということは︑燃えうつる危険
を認識していることであり︑それはほとんど焼殿の故意があるということに近い︒もちろん︑厳格にいえば両者の間に差異
はある︒しかし実際上その区別は困難である﹂法学セミナーニニー号四六頁︑只木誠﹁このような心理状態を認めることは
実際上困難ではあるまいか﹂﹁刑法︱
10
条一項の罪の成立と公共の危険発生の認識﹂法学新報九三巻三ー五号一九六頁︒
さらに︑堀内説では︑実際には両説の間にはほとんど相違はなく︑危険の認識の要否はあまり重要な意味をもたず︑それは
理論的︑観念的問題である︑との評価がしめされている︵注
(1
)掲記の論文︶が︑その評価は妥当であろうか︒
(9
)
ロー
・ス
クー
ル︱
︱
1 0
号八 八頁
︒
( 1 0 )
﹁放・失火罪と公共の危険﹂﹃刑法解釈学の現代的課題﹂三三0頁︒以下の香川説の検討は︑すべて本論文にもとづいて
おこ なう
︒
( 1 1 )
﹃刑 法大 絹﹄ 四三 三頁
︒ 判
例 の 検 討
一九七︵四六五
ほぼ︑あきらかにされたこととおもわれる︒放
わりきって検討をくわえてみたい︒ 第四四巻第三号
火罪を﹁危険犯﹂ととらえるかぎり︑客観的に危険の発生が必要であり︑主観的にはそれに対応して危険の認識が必
要であるという結論は︑きわめて単純である︒しかし︑この単純な結論は︑そのあまりの単純さのゆえにか︑多くの
論者から省みられてこなかったようにおもわれる︒私は︑この単純な論理にこそ妥当性が存在すると強調したい︒
さて︑本章で検討する判決の数はかならずしも多くはなく︑かつ︑残念ではあるが本稿の問題意識にそった分析を
可能にするケースばかりではない︒その意味では︑あくまで放火罪の主観的要件が問題になった一連の判決として︑
10
八条の判例
( l)
①大審院昭和四年一月三一日判決︒事案は︑現住建造物に接続する便所に放火︑その内部を焼きさらに居宅の軒の
一部を焦がしたというものである︒火災が発覚した時点で被告人じしんがまず駆けつけ︑消火に努めたという事実が
ある︒大審院は︑被告人の上告を棄却し一〇八条の成立を肯定している︒上告理由のうち二点を紹介する︒被告人は︑
10
八条の犯意を肯定するためには︑焼熾の認識と公共危険発生に対する認識の存在を必要とする︑と主張する︒ち
なみに放火の動機は﹁うらみをはらす﹂ことにあったようであるが︑この点についての被告人の主張はつぎのとおり
である︒﹁放火の真意は︑けっして居宅を焼くことにはない︒火を付ければ驚愕して騒ぐ︑騒げばうらみははれるの
で︑そこでじぶんが駆けつけて消火するので︑けっして大事に至ることはない﹂︒すなわち︑本件では危険の認識が
なかったのであるから︑犯意に欠けるところがある︑と主張したわけである︒これに対して大審院は︑﹁他人の居宅
に火を放ち燃焼作用を起こさしむるにおいてはその全部を焼徴し他に延焼するおそれあるべく従て公共の静謡を侵害 関法
一九
八
︵四
六六
︶