北魏洛陽における治安維持官 ― 六部尉をめぐって ― A S tudy of L iubu w ei ︵
六 部
as t he S ecu rit y P olic e i n L uo yan g
︵ 尉 ︶洛 陽 ︶
,
the N ort he rn W ei
角 山 典 幸
要旨
北魏王朝の都︑洛陽で治安維持に当たった六部尉の実態には不明な点が多い︒そこで︑六部尉について基礎的な検討を行う︒職務については︑犯罪者の逮捕を基本としたが︑宮女の探索︑皇帝遊行時の住民隔離︑餓死・病死者の収容・埋葬といった臨時の職務も遂行した︒また︑六部尉は経途尉・里正を統属し︑街路で発生した犯罪と里︵囲壁居住区画︶内で発生した犯罪の両方を取り締まった︒官僚機構の上では︑六部尉は県に所属したが︑任官者の家格が低く︑南朝では役割が低下した可能性がある︒北魏では初め流外官であったが︑後に流内官に高められ︑東魏・北斉時代を通じて重視された︒六部尉の配置については︑北魏洛陽では郭内東側が左部尉︑郭内西側が右部尉で︑郭外東側が東部尉︑郭外西側が西部尉であった︒六部尉と同様に北魏洛陽の治安維持に当たった兵が羽林・虎賁で︑﹁遊軍﹂として洛陽城内外で犯罪者の逮捕・監視︑要人警護︑災害復旧等の任務を臨機応変に遂行した︒
キーワード北魏︑洛陽︑治安維持︑六部尉
は じ め に
筆者は以前︑北魏王朝の都︑洛陽における行政組織として県を取り上げ︑司州―河南郡の下に洛陽・河陰両県が 洛陽城内の行政を執行していたことを指摘した ︶1
︵︒そこで︑次いで問題となるのは︑北魏洛陽における治安維持組織
の態様である︒
北魏洛陽は︑戸数十万九千余の多数に上る大都市であり ︶2
︵︑その住民は鮮卑族のほか漢族等から構成されていた︒
このように多数の人口と複雑な民族から成る洛陽において︑治安の維持が大きな課題となったことは想像に難くな
い︒北魏は洛陽遷都八年後の景明二年︵五〇一︶に里︵囲壁居住区画︶を建設し ︶3
︵︑住民をここに収容した︵図一︶︒そ
の狙いが治安の維持にあったことは︑﹃魏書﹄巻一八・太武五王伝・広陽王嘉伝︵四九七頁︶に︑
司州牧に遷り︑嘉表して京の四面に︑坊三百二十︑各周一千二百歩を築かんことを請ひ︑三正の復丁 ︶4
︵を發し︑
以て茲の役に充てんことを乞ふ︑暫勞有りと雖も︑姦盜永らく止まんと︒詔して之に從ふ︒
とあることから窺うことができる︒しかし︑後に述べるように︑北魏洛陽における治安維持の問題は︑里の設置の
図一 北魏洛陽城里配置図
図中 の各 グリッ ドが 一つ の里 を表 す︒中国 社会 科学 院考 古研 究所 洛陽 漢魏 故城 隊﹁
河南 洛陽 漢
魏故城北魏宮城閶闔門遺址﹂ ︵﹃考古﹄二〇〇三年第七期︶所載の図を改変︒
みでは解決しなかった︒そこで北魏が着目したのが︑六部尉であった︒六部尉とは︑六部に分割された都の境域そ
れぞれに配置された尉で︑担当部内における治安の維持を職務とした︒詳しくは後述するが︑北魏は六部尉の職能
を高めることで治安の悪化に対処したのである︒
このように︑北魏洛陽の治安維持の鍵となる役割を果した六部尉ではあるが︑これに関わる論考は︑北魏前後の
時期を含めても少数かつ簡略である︒先行研究には︑曾資生氏︑厳耕望氏︑張金龍氏︑任重・陳儀両氏︑兪鹿年氏︑
王鍾傑氏の論考があり ︶5
︵︑六部尉に対する理解はおおむね次の通りである︒すなわち︑漢代以来の県尉の制度を基に
して西晋が六部尉を創始し︑都の置かれる洛陽県の境域を左・右・東・西・南・北の六部に分割して各々尉を配置
することで治安維持担当官とした︒これを東晋・南朝︑北魏・東魏・北斉の各王朝が引き継いだというものである︒
また︑周一良氏は︑都の境域を数部に分けて尉を置く制度は後漢の四部尉に始まるとし︑その後の展開を概観して
いる ︶6
︵︒龔留柱氏︑陳智勇氏は︑漢代から魏晋南北朝時代までの県尉の職務を﹃後漢書﹄志第二八・百官志五の﹁盜
賊を主り︑姦宄を案察す﹂のくだりで表している︒両氏は﹁六部尉﹂の語を用いていないが︑南朝の都︑建康の行
政を担った建康県に﹁六尉﹂が置かれたとしている ︶7
︵︒﹁六尉﹂が六部尉を指すものと考えられる︒
六部尉の研究状況は右の通りであるが︑専論はなく依然として不明な点が残っている︒それは第一に職務である︒
先に掲げた﹃後漢書﹄百官志には﹁盜賊﹂﹁姦宄﹂とあり︑犯罪者の捕縛であったことは想像できる︒しかし︑それ
以外の任務についてはよく分かっていない︒第二に︑六部尉の官僚機構上の位置付けが不明確である︒第三に︑六
部尉それぞれの管轄範囲が明らかになっていない︒第四に︑北魏洛陽で治安維持に当たった羽林との関係が明らか
でない︒そこで本稿では︑北魏洛陽を中心に据え︑晋代ならびに南北朝時代における事例を参照しつつ︑六部尉に
ついて基礎的な検討を行う︒
一 六部尉の職務
﹃唐六典﹄及び﹃通典﹄には︑六部尉の沿革・職務を述べた箇所がある︒両史料は先行研究により度々引用されて
いるが︑制度の概要を知ることができるので︑以下に掲出する︒
まず︑﹃唐六典﹄巻三〇・三府督護州県官吏・京県畿県天下諸県官吏︵中華書局標点本七五〇―七五一頁︶に︑次の
ように記される︒
萬年・長安・河南・洛陽・奉先・太原・晉陽︑令各一人︑正五品上︒⁝⁝尉六人︑從八品下︿漢氏長安に四尉
有り︑分かれて左・右の部を爲す︒城の東・南に廣部尉を置く︑是左部たり︒城の西・北に明部尉を置く︑是
右部たり︒並びに四百石︑黄綬・大冠︒盜賊を追捕し︑姦非を伺察することを主る︒後漢洛陽に四尉を置き︑
皆孝廉より作す︑東部・南部・西部・北部尉有り︒魏氏之に因る︒晉洛陽に六部尉を置き︑江を過ぐるも︑亦
た建康に於いて六部尉を置き︑宋・齊・梁・陳並びに之に因る︒北齊鄴縣にも亦た三尉を置く ︶8
︵﹀︒
前漢長安に東・南・西・北の四尉を置いたとし︑その職務を﹁盜賊を追捕し姦非を伺察することを主る﹂とする︒
また︑後漢・曹魏洛陽に東・南・西・北の各部から成る四部尉を置き︑西晋洛陽・東晋南朝建康に六部尉を設置し
たとする︒
次に︑﹃通典﹄巻三三・職官一五・州郡下・総論県佐・尉︵中華書局標点本九二一―九二二頁︶には︑
尉︑漢の諸縣に皆有り︿長安に四尉有り︑分かれて左・右の部を爲す﹀︒後漢の令・長・國相も亦た皆尉有り︒
大縣二人︑小縣一人︑盜賊を主り︑姦宄を案察し︿應劭の漢官に曰はく︑﹁大縣の丞左・右の尉︑所謂命卿三人
なり︒小縣の一丞一尉︑命卿二人なり﹂と﹀︑諸曹の掾史を署す︒邊縣に障塞尉有り︑羌夷の塞を犯すを禁備す
ることを掌る︿洛陽に四尉有り︑東南西北の四部︑曹公の北部尉と爲るは是なり﹀︒魏之に因る︒晉は洛陽・建
康に皆六部尉を置く︒宋・齊・梁・陳並びに之に因る︒餘の縣は漢の制のごとし︒諸縣道の尉は︑銅印黄綬︑
朝服︑武冠︒江左は止だ單衣介幘のみ︒北齊は郡縣に三尉を置く︒
とある︒この史料は︑漢代の諸県に尉が置かれたことを述べた上で︑前漢長安に四尉を︑後漢洛陽に四部尉を設置
したとし ︶9
︵︑その職務を﹁盜賊を主り︑姦宄を案察﹂することとする︒また︑西晋洛陽・東晋南朝建康に六部尉を配
置したとする︒ただ︑洛陽・建康両県を除く﹁餘の縣﹂については︑﹁漢の制のごとし﹂と記される︒それゆえ︑六
部尉が置かれた西晋洛陽︑東晋南朝建康を除く一般の県には︑県尉が置かれていたことになる︒
このように︑﹃唐六典﹄及び﹃通典﹄が六部尉の職務を県尉と同列に扱っていることから︑六部尉と県尉の職務に
本質的な違いはないことが理解できる︒また︑尉の職務が窃盗・強盗・傷害・殺人等の罪を犯した者の逮捕であっ
たことが分かる︒
そこで︑六部尉の職務を具体的な事例に即して見ていく︒初めに晋代について︒
﹃晋書﹄巻六九・劉隗伝
︵一八三七頁︶に︑
晉國既に建ち︑御史中丞を拜す︒周嵩女を嫁すに︑門生道を斷ちて廬を解き︑斫りて二人を傷つく︑建康の左
尉變に赴き︑又斫らる︒
とある︒これは東晋が成立した建武元年︵三一七︶の記事と見られる ︶10
︵︒傷害事件の発生に対応して建康の左部尉が駆
け付けている︒これにより︑六部尉が傷害犯を逮捕したことが確認される︒
次いで南朝の事例を見る︒﹃宋書﹄巻四一・后妃伝・明帝陳貴妃伝︵一二九六頁︶に︑
世祖︵孝武帝︶常に尉司をして民間の子女の姿色有る者を採訪せしむ︒⁝⁝尉其の容質の甚だ美しきを見︑即
ち以て世祖に白す︑是に於いて迎へて宮に入らしむ︒路太后の房内に在りて︑二三年を經︑再び呼ばるれども︑
幸せられず︒太后因りて上に言ひ︑以て太宗︵明帝︶に賜ふ︒
とある︒劉宋の孝武帝︵在位四五三―四六四︶が後宮に入れる女性を民間に求め︑﹁尉司﹂に容色が優れた者を探させ
ている︒﹁尉司﹂は︑﹃資治通鑑﹄巻一四二・斉紀八・東昏侯上とその胡三省注︵中華書局標点本四四五六頁︶に︑
尉司鼓を撃ちて蹋み圍み︿晉は初め洛陽に六部尉を置く︒江左の建康にも亦た六部尉を置く﹀︑⁝⁝︒
とあるように︑六部尉であることが明らかである︒このことから︑六部尉は民間において宮女を探索していたこと
が分かる︒
南朝の事例はほかにも挙げられる︒﹃南斉書﹄巻二二・豫章文献王嶷伝︵四一四頁︶に以下のように記される︒
永明の末︑車駕數 しばしば游幸し︑唯だ嶷のみ陪從す︒上︵武帝︶新林苑に出で︑輦を同にして夜歸り︑宮門に至り︑
嶷輦を下りて辭出せんとす︑上曰はく︑﹁今夜行せば︑尉司の呵 しかる所と爲さしむること無からんや﹂と︒嶷對
へて曰はく︑﹁京輦の内︑皆臣の州に屬す︑願はくは陛下過慮を垂れざらんことを﹂と︒上大いに笑ふ︒
南斉の永明年間︵四八三―四九三︶の末︑武帝の遊行に従い︑夜になって帰還した豫章王蕭嶷が宮門の前で輦を下り
て帝と別れようとしたため︑帝は︑嶷が﹁尉司﹂に咎められることを心配している︒このことから︑六部尉が夜間
街路を出歩く者を取り締まっていたことが︑理解できる ︶11
︵︒
また︑﹃南史﹄巻五・斉本紀︵一五二頁︶に次のようにある︒
陳顯達平らぎ︑︹東昏侯︺漸く出でて游走し︑人をして之を見しむるを欲さず︑百姓を驅斥し︑唯だ空宅を置く
のみ︒是の時率 おほむね一月に二十餘出で︑既に往くも定處無く︑尉司常に罪を得るを慮り︑東のかた行きて西を驅
り︑南のかた行きて北を驅り︑旦に應じて出づれば︑夜便ち驅逐し︑吏司奔り驅り︑叫呼路に盈つ︒鼓を打ち て蹋み圍み︑鼓聲の聞こゆる所︑便ち應じて奔走す︑臨時の驅迫は︑衣は披 きるに暇あらず︑乃ち徒跣走出に至 る︑禁を犯す者は應 ただちに手づから格殺す︒
この記事は︑南斉の東昏侯が江州刺史の陳顕達を討滅した南斉・永元元年︵四九九︶頃のものである︒東昏侯が建康
を見物する際︑人に見られるのを嫌ったことから︑﹁尉司﹂すなわち六部尉が鼓を打ち鳴らすなどして住民を遠ざけ
たという︒
これまでに確認した事例から︑東晋・南朝における六部尉の職務には︑傷害犯の逮捕︑夜行の取り締まりがあっ
たと理解できる︒これらは六部尉の恒常的な職務と考えられるが︑その一方で︑六部尉にはその時々の状況に応じ
て様々な臨時の任務が課せられたと見られる︒それが︑劉宋・孝武帝による民間における宮女の探索であり︑南斉・
東昏侯による建康遊行時の住民隔離であった︒
それでは︑北朝における六部尉の職務は︑いかなるものだろうか︒﹃魏書﹄巻六八・甄琛伝︵一六四六―一六四七頁︶
には︑宣武帝期︵四九九―五一五︶末の河南尹甄琛による上表 ︶12
︵が載せられている︒長文であるが︑北魏洛陽の治安悪
化の状況︑六部尉の職務の一端を窺うことができるので︑以下に引用する︒
琛表して曰はく︑﹁⁝⁝今遷都已來︑天下は轉 うたた廣がり︑四遠赴き會し︑事は代都を過ぐ︑五方雜沓し︑備簡に可 た
へ難し︑寇盜公行し︑劫害絶へず︑此く諸坊混雜し︑釐比精ならず︑主司闇弱なるは︑檢察に堪へざるに由る
故なり︒⁝⁝六部里尉は即ち堅を攻 をさむるの利器なれども︑貞剛精鋭に非ず︑以て之を治むる無し︒⁝⁝里正は 乃ち流外四品︑職は輕く任は碎︑多く是 これ下才なれば︑人は苟且に懷き︑督察する能はず︑故に盜をして容姦を
得しめ︑百賦理を失ふ︒⁝⁝京邑の諸坊︑大いなる者は或いは千戸・五百戸︑其の中は皆王公卿尹︑貴勢の姻
戚︑豪猾の僕隸︑蔭養の姦徒︑高門の邃宇なれば︑干問するべからず︒⁝⁝請ふ武官の中の八品將軍已下の幹
用にして貞濟なる者を取り︑本官の俸恤を以て︑里尉の任を領せしめ︑各其の祿を食むに︑高なる者は六部尉
を領し︑中なる者は經途尉を領し︑下なる者は里正を領せんことを︒爾 しからずんば︑少 やや里尉の品を高め︑下品の
中の應遷の者を選び︑進めて之と爲さんことを請ふ︒則ち督責に所有り︑輦轂清たるべし﹂と︒詔して曰はく︑
﹁里正は進めて勳品に至らしめ︑經途は從九品︑六部尉は正九品の諸職の中より簡取すべし︑何ぞ必ずしも武人
を須ゐんや﹂と︒琛は又羽林を以て遊軍と爲し︑諸坊巷に於いて盜賊を司察せしめんと奏す︒是に於いて京邑
は清靜となり︑今に至るまで焉を踵 つぐ︒
ここに伝える治安悪化の状況は︑甄琛の言に﹁京邑の諸坊︑大いなる者は或ひは千戸・五百戸﹂とあることから︑
景明二年︵五〇一︶の洛陽における里の設置後に属す︒本稿冒頭に掲げた﹃魏書﹄広陽王嘉伝では︑広陽王元嘉が里
の設置によって︑﹁姦盜永らく止﹂むであろうと述べている︒しかし実際には︑甄琛が﹁寇盜公行し︑劫害絶へず﹂
と指摘するように︑窃盗・強盗・傷害・殺人が横行していたのである︒甄琛はまた︑洛陽で治安が乱れている原因
を︑遷都以来人口が増え続けている上︑里内に王公等有力者が多数居住し︑地位の低い六部尉・里正では取り締ま
ることができないためとしている︒このことから︑六部尉が里正と共に里内で発生した犯罪の容疑者逮捕を職務と
したことが理解できる ︶13
︵︒
甄琛の上表に対する宣武帝の詔によると︑六部尉は正九品︑里正は勲品︵流外一品 ︶14
︵︶とされている︒このことか
ら︑六部尉の下に里正が統属し︑共に里内の治安維持を担っていたと考えられる︒
それでは︑六部尉は里の外側すなわち街路で発生した犯罪には対応しなかったのだろうか︒甄琛の上表には経途
尉なる官が見え︑この官は詔の中で正九品の六部尉に次ぐ従九品に位置付けられている︒これにより︑六部尉に経
途尉が統属していたことを︑任重・陳儀両氏︑兪鹿年氏が指摘している ︶15
︵︒また︑曾我部静雄氏は︑﹁經途﹂が﹃周
礼﹄冬官考工記匠人条の﹁經涂﹂で︑都の主要街路を意味することから︑経途尉を﹁大通りを取締る役人﹂として
いる ︶16
︵︒張金龍氏︑兪鹿年氏も︑城内の主な街路において治安維持を担当したとしている ︶17
︵︒このように︑経途尉は六
部尉の配下にあってこれを補佐し︑城内の主要街路で治安維持に当たっていたのである︒六部尉が街路の治安を維
持した経途尉を統属したことから︑六部尉は里内ばかりでなく街路における治安維持も管轄していたことが理解で
きる︒先に︑南斉の建康において六部尉が夜行を取り締まった事例を紹介したが︑これと同様に北魏の六部尉も街
路で発生した犯罪を取り締まったのである︒
ところで︑先に見たように︑南朝における六部尉は犯罪者の逮捕とは別に︑様々な臨時の任務が課せられた︒北
魏洛陽における六部尉も臨時の任務が課せられたのだろうか︒
﹃魏書﹄巻八・世宗紀
︵二四一―二四二頁︶に次のように記される︒
︹正始三年︵五〇六︶五月︺丙寅︑詔して曰はく︑﹁⁝⁝今時澤未だ降らず︑春稼に已に旱たり︒或いは孤老餒疾
すれども︑人の贍救無く︑因りて以て死を致し︑溝塹に暴露する者有らば︑洛陽の部尉法に依りて棺埋せよ﹂と︒
宣武帝が詔を発し︑餓死あるいは病死した者を収容して埋葬することを六部尉に命じている︒したがって︑北魏洛
陽における六部尉も南朝の六部尉と同様︑必要に応じて臨時の任務が課せられたのである ︶18
︵︒
ここまで︑晋代及び南北朝時代における六部尉の職務を検討した︒その結果︑東晋・南朝で傷害犯の逮捕︑夜行
の取り締まりが行われたこと︑北魏で窃盗・強盗・傷害・殺人犯の逮捕が行われたことを確認した︒また︑犯罪者
の逮捕に加え︑宮女の探索︑皇帝遊行時の住民隔離︑餓死・病死者の収容・埋葬といった臨時の任務を遂行した︒
さらに︑北魏洛陽における六部尉は経途尉・里正を統属し︑里の内部ばかりでなく街路で発生した犯罪も取り締ま
っていた︒
六部尉の職務が明らかになったことで︑次に問題となるのは︑六部尉の官僚機構における位置付けである︒そこ
で︑章を改めてこの問題を考えたい︒
二 六部尉の官僚機構上の位置付け
初めに両晋南朝について検討する︒﹁はじめに﹂で述べたように︑六部尉の制度は漢代以来の県尉を発展させて西晋時代に創始された︒したがって︑六部尉が県に所属したことを容易に推測できる︒実際︑﹃晋書﹄巻二四・職官志
︵七四七頁︶に︑
縣に皆方略吏四人を置く︒洛陽縣に六部尉を置く︒江左以後︑建康も亦た六部尉を置き︑餘の大縣に二人を置
く︑次縣・小縣に各一人︒鄴・長安に吏を置くこと三千戸以上の制のごとし︒
とある︒また︑﹃宋書﹄巻四〇・百官志下︵一二五八頁︶に︑
晉は江右の洛陽縣に六部都 ︶19
︵尉を置き︑餘の大縣に二人を置く︑次縣・小縣に各一人︒宋の太祖の元嘉十五年︵四
三八︶︑縣の小なる者は又之を省く︒
とある︒これらの記事から︑西晋の六部尉は洛陽県に所属していたことが分かる︒﹃晋書﹄巻一四・地理志上・司
州・河南郡︵四一五頁︶にも︑
洛陽︿尉を置く︒五部・三市﹀︒
とある︒この﹁五部﹂が︑厳耕望氏が主張するように﹁六部﹂に対する﹁小異 ︶20
︵﹂なのか︑あるいは曾資生氏が主張
するように五部尉から六部尉に増員される過程を示すもの ︶21
︵かは定かでない︒しかし︑西晋の洛陽県に六部尉が所属
していたことは明らかである︒
東晋では︑前掲﹃晋書﹄職官志に﹁江左以後︑建康も亦た六部尉を置﹂いたとあり︑建康県に六部尉を配置した
ことが窺える︒また︑前章に引用した﹃唐六典﹄﹃通典﹄からは︑東晋南朝すべての王朝で六部尉が建康県に配置さ れたことが知られる ︶22
︵︒
このように︑両晋南朝の六部尉が県所属の官であったことが確認された︒そこで︑六部尉に任命された者の官品
と階層を探る︒
﹃宋書﹄巻四〇・百官志下
︵一二六五頁︶に︑
諸縣署の丞︑尉︒右第九品︒
とあり︑諸県の丞と尉が共に九品であったことが分かる︒県尉が九品であったことから︑六部尉は少なくとも九品
であったはずである︒宮崎市定氏によると︑南朝において起家官が六品の者は﹁門地二品﹂と呼ばれる上級貴族で︑
起家官が七品から九品の者は寒士であった ︶23
︵︒したがって六部尉には︑家格の低い家の出身者が就いたのである︒
このように︑六部尉は家柄の低い者の就任するポストとして存在したが︑南朝では有名無実化した可能性がある︒
﹃太平御覧﹄巻二六九・職官部六七・県尉︵中華書局影印本一二六〇頁︶には劉宋武帝︵在位四二〇―四二二︶の詔が載
せられており︑
百里の任は︑總て官長に歸せよ︒縣尉の實効甚だ微なれども︑其の費少なからず︒二品の縣 ︶24
︵は一尉を置くべき
のみ︒餘は悉く停省せよ︒
とある︒県尉の実効が薄く経費がかかることから︑小県から県尉を省くとしている︒また︑前掲﹃宋書﹄百官志に
よると︑劉宋文帝の元嘉一五年︵四三八︶にも小県の尉の廃止措置が取られている︒さらに︑南朝後期すなわち梁・
陳における六部尉関連史料は︑﹃唐六典﹄﹃通典﹄以外に見られず︑当該期の県尉関連史料も見出し得ない ︶25
︵︒南朝の
六部尉は︑官僚機構の上では県に所属していたものの︑実効性を伴って運用されていなかったのではなかろうか ︶26
︵︒
次に北魏では︑正光四年︵五二三︶の紀年を持つ張孃墓誌︵洛陽市邙山郷山溝出土 ︶27
︵︶に六部尉の官僚機構上の位置が
表れている︒そこには以下のように記される︒
十五にして笄し︑同郡︵南陽郡︶の何氏に許嫁す︒鴈幣未だ陳ぜざるに︑疆場の小虞掠來して此に至るところと
爲る︒貴戚に承奉し︑機敏を失ふ無し︒裁冠制服に至り︑号を國巧と爲す︒小心戰戰なること︑冰火を履むが
ごとし︒君子其の善意を嘉し︑舎して河陰右部の民と爲す︒趙氏に適して妻と爲り︑二男三女を生む︒
張孃は戦時に略奪されて南陽郡から洛陽に徙され︑高貴な家に真心を尽くして仕えたため︑釈されて ︶28
︵﹁河陰右部の
民﹂となり︑趙氏に嫁いだという︒﹁河陰﹂は前稿 ︶29
︵で明らかにしたように︑洛陽遷都後の正始二年︵五〇五︶に河南
郡下の洛陽県から析出され︑洛陽県と共に北魏洛陽を構成した河陰県を指す︒ゆえに﹁河陰右部﹂は︑〝河陰県の右
部〟を意味する︒このことから︑六部尉の一つである右部尉が河陰県に所属していたことが知られる︒したがって︑
北魏の六部尉も両晋南朝と同様︑県に所属したのである ︶30
︵︒
それでは︑東魏・北斉の都︑鄴はどのようであったのだろうか︒東魏については︑﹃魏書﹄巻一〇六上・地形志
上・司州・魏尹︵二六九二頁︶に︑
鄴⁝⁝︿南部・右部・西部尉有り﹀︒⁝⁝臨漳⁝⁝︿左部・東部・北部尉有り﹀︒
とある︒これにより︑東魏の六部尉が︑鄴の行政を担当した鄴・臨漳両県に所属していたことが分かる︒北斉につ
いては︑﹃隋書﹄巻二七・百官志中・司州・清都郡所掲北斉官制︵七六一頁︶に︑
鄴・臨漳・成安三縣令︑⁝⁝鄴は又右部・南部・西部三尉を領め︑⁝⁝臨漳は又左部・東部二尉を領め︑⁝⁝
成安は又後部・北部二尉を領め︑⁝⁝
とあり︑鄴・臨漳・成安の三県に左・右・東・西・南・北部尉のほか後部尉を加えた〝七部尉〟が所属していた︒
ここで七部尉に増されているのは︑鄴県から成安県が析出されたこと ︶31
︵を受けた措置であろう︒ゆえに︑七部尉は本
質的に六部尉と変わりがない︒六部尉︵七部尉︶は︑北魏・東魏・北斉とも県に所属していたのである︒
六部尉任官者の官品については︑第一章で述べたように北魏で正九品であった︒ただ︑﹃魏書﹄巻二一上・献文六
王伝上・高陽王雍伝︵六二七頁︶所載の宣武帝に対する高陽王元雍の上表に︑
臣又部尉の資品を見るに︑本流外に居る︒
とあり︑もとは流外であった︒しかし︑流外官では地位が低く治安維持の任を果たせなかったため︑甄琛が宣武帝
の末期に六部尉の地位向上を提言したことは︑前章で見た通りである︒高陽王雍は︑右の上表で続けて以下のよう
に述べる︒
諸の明令を刊し︑之を行ふこと已に久し︒然れども近 ちかごろ里巷に多く盜を爲す︑其の威輕く肅せざるを以て︑品を
清流に進め︑以て姦宄を壓さへんと欲す︑甄琛啓して云へらく︑﹁法を爲すは施して之を觀︑便ならずんば則ち
改む﹂と︒竊かに謂 おもふ斯の言採用すべき有り︑聖慈昭覽し︑更めて宰尉の秩を高めんことを︒
上表中の甄琛の言は︑前章に引いた甄琛の提言に見られる ︶32
︵ので︑高陽王雍の上表は甄琛の提言後になされたことに
なる︒宣武帝は︑甄琛と高陽王雍の相次ぐ具申を受け︑前引﹃魏書﹄甄琛伝所掲の詔を下して六部尉を流外から正
九品に高めたのである ︶33
︵︒こうして北魏では︑六部尉の治安維持能力を強化したのである ︶34
︵︒
﹃魏書﹄甄琛伝に見える宣武帝の詔では︑六部尉を文・武官を問わず﹁諸職﹂から選び出すことも命令されてい る︒﹁諸職﹂とは︑いかなる者だろうか︒宮崎市定氏は︑﹁諸職﹂を﹁職人﹂とし︑流外官の意味に解釈している ︶35
︵︒
宮崎氏の所説に従えば︑六部尉は流外官から選出されたことになる︒しかし前章で見たように︑甄琛は八品の将軍
以下の武官で働きの良い者に六部尉を兼任させるか︑六部尉の官品をやや高くした上で下品の官人から任命するこ
とを提案している︒さらに︑宮崎氏が流外官とする﹁職人﹂とは︑北魏における流内官を指す用語であることが︑
岡部毅史氏によって指摘されている ︶36
︵︒したがって︑北魏洛陽における六部尉は︑流外官から任命されたのではなく︑
流内官から任命されたのである︒
六部尉が流内官から任命されたことは︑北斉の鄴においても同様であった︒﹃隋書﹄巻二七・百官志中所掲北斉官
制︵七六九―七七〇頁︶に︑
清野將軍︑子・男國郎中令︑⁝⁝七部尉︑諸郡尉︿已前上階﹀︒⁝⁝第九品たり︒偏將軍︑諸宮教博士︑⁝⁝諸
縣丞︿已前上階﹀︒⁝⁝諸幢主・遙途尉 ︶37
︵︑⁝⁝從第九品たり︒
とある︒北魏の六部尉が正九品で︑北斉の七部尉が正九品上であったことから︑七部尉も流内官から任命されたと
考えられる︒さらに︑北魏及び北斉の六部尉︵七部尉︶に流内官が就任したことから︑東魏の六部尉も流内官が就い
たと見て大過ないであろう︒
このように︑北魏・東魏・北斉の六部尉︵七部尉︶は県に所属しており︑もとは流外であったが北魏宣武帝末期に
正九品とされて流内官となったのである︒ただ︑ここで注目すべきは︑右に掲げた﹃隋書﹄百官志所掲北斉官制が︑
七部尉を正九品上とし︑諸県丞を従九品上とすることである︒これは︑北斉の都︑鄴の構成県を除く諸県の丞が七
部尉より下位であったことを示す︒これに対して劉宋では二度に亙って小県の尉を省く命令が出され︑梁・陳では
六部尉存在の痕跡が薄い︒つまり︑役割が低下したと見られる南朝の六部尉とは対照的に︑北魏時代に官品を高め
られた六部尉は︑東魏・北斉に至るまで治安維持官として重視されたと考えられるのである︒
三 北魏洛陽における六部尉の配置
前章で述べたように︑六部尉は県所属の官であった︒それゆえ︑彼らは都城の中だけでなく︑城外に広がる県の境域をも職務の執行範囲としたはずである︒また︑﹁はじめに﹂で触れたように︑六部尉はそれぞれ担当区域を異に
していた︒それでは︑北魏洛陽における六部尉は︑どのように配置されていたのだろうか︒
この問題は︑前章に掲げた正光四年︵五二三︶の張孃墓誌の記述が手掛かりとなる︒本誌には︑墓主を﹁河陰右部
の民と爲す﹂と記されており︑北魏洛陽の河陰県に右部尉が置かれたことが知られる︒河陰県は北魏洛陽城内外の
西側を境域とした ︶38
︵︒したがって︑洛陽城内外西側のいずれかに右部が設定されていたことになる︒
張孃墓誌の後文には︑
正光三年︵五二二︶歳次壬寅十二月戊申朔十九日丙寅を以て︑中練里に終はる︒
とあり︑墓主が中練里で死没している︒中練里は河陰県に属し︑外郭城牆内側の居住空間︑すなわち郭内の西側に
位置したことが確認されている ︶39
︵︒したがって︑右部尉は郭内西側に設定されていたのである︒
郭内西側が右部尉の管轄範囲であったことは︑必然的に郭内東側が左部尉の管轄で︑左部尉・右部尉の外側が東
部尉・西部尉の管轄であった可能性を生じさせる︒このことの当否を検討するために︑正史が六部尉を叙述する際︑
どのような序列にしているのか確認する︒ただし︑そのような記事は北魏洛陽に関しては存在しないので︑北魏洛 陽城を模して建設された東魏北斉鄴城 ︶40
︵における序列を見る︒
東魏の鄴城では︑前章に引いた﹃魏書﹄地形志に︑鄴県が南部尉・右部尉・西部尉を統属し︑臨漳県が左部尉・
東部尉・北部尉を統属したとある︒東魏鄴城は︑曹魏時代建設の北城の南側に南城を築き︑その外側に外郭を設け
たものである ︶41
︵︒六部尉の叙述の順序が︑鄴県では南部尉・右部尉・西部尉︑臨漳県では左部尉・東部尉・北部尉で
あることから︑右部尉・左部尉の外側に西部尉・東部尉が配置されていたことが読み取れる︒
この状況は︑東魏鄴城を引き継いだ北斉鄴城も同様であった︒前章で一部を引いた﹃隋書﹄巻二七・百官志中・
司州・清都郡所掲北斉官制に︑
鄴・臨漳・成安三縣令︑⁝⁝︒鄴は又右部・南部・西部三尉を領め︑又十二行經途尉を領む︒凡そ一百三十五
里︑里に正を置く︒臨漳は又左部・東部二尉を領め︑左部は九行經途尉を管 つかさどる︒凡そ一百一十四里︑里に正を
置く︒成安は又後部・北部二尉を領め︑後部は十一行經途尉を管る︒七十四里︑里に正を置く︒
とある︒東魏鄴と比較すると︑鄴の構成県が鄴・臨漳・成安の三県となったことに伴い︑後部尉が増置されて七部
尉となった点︑鄴県において右部尉が南部尉より先に記される点が異なる︒しかし︑叙述の順序から︑右部尉・左
部尉の外側に西部尉・東部尉が配置されていたと見られることに変わりはない︒
また︑上田早苗氏は︑北斉鄴城における七部尉の配置を検討している︒それによると︑左部尉が南城の東半分と
郭内東側︑東部尉が郭外東側︑右部尉が南城の西半分
と郭内西側︑西部尉が郭外西側︑南部尉が郭外南側︑
後部尉が北城︑北部尉が郭外北側を管轄したことを想
定している ︶42
︵︵図二︶︒さらに上田氏は︑臨漳・鄴・成安
三県下の里の合計が三二三里で︑北魏洛陽城内に設け
られた里の数と一致することを指摘している︒上田氏
は依拠した史料を明示していないが︑右に掲げた﹃隋
書﹄百官志に依拠したことは明らかである︒上田氏も
筆者と同様に左部尉の外側に東部尉︑右部尉の外側に
西部尉が置かれたと考えている︒
ただ︑前掲﹃隋書﹄百官志は︑臨漳県では左部尉が
行経途尉を管轄し︑成安県では後部尉が行経途尉を管
轄したとするのに対し︑鄴県では右部・南部・西部の
三尉が行経途尉を管轄したとしており︑記述に整合性
を欠く︒行経途尉は︑第一章で触れた経途尉と同一の
官で︑城内の主な街路において治安の維持に当たった
と見られる︒したがって︑郭内に配置されていたはず 図二 上田早苗氏による北斉鄴七部尉想定図上田早苗﹁後漢末期的鄴地与魏郡﹂︵谷川道雄編﹃日中国際共同研究地域社会在六朝政治文化上所起的作用﹄玄文社︑一九八九年︶より転載︒
である︒﹃隋書﹄百官志の記述に従うと︑郭内に配置されたはずの行経途尉が︑鄴県では右部だけでなく︑南部・西
部にも広がり︑郭内西側の空間が突出することになる︒したがって︑上田氏が図示するように︑郭内西側は︑右部
尉が管轄していたと考えるほかない︒このように︑北斉鄴においては︑左部尉・右部尉が郭内東側・郭内西側すな
わち外郭城牆の内側を管轄し︑東部・西部・南部・北部の各尉が各方角の郭外すなわち外郭城牆の外側を管轄して
いたと見られるのである ︶43
︵︒
ここまで︑東魏鄴において左部尉・右部尉の外側が東部尉・西部尉の管轄範囲であったこと︑北斉鄴における左
部尉・右部尉が郭内東側・郭内西側を管轄し︑東・西・南・北の各部尉が各方角の郭外を管轄したと見られること
を確認した︒これは︑左部尉・右部尉が郭内東側・郭内西側を管轄し︑その外側を東部尉・西部尉が管轄したとす
る張孃墓誌の分析結果に符合する︒したがって︑北魏洛陽における左部尉・右部尉はそれぞれ郭内東側・郭内西側
を管轄し ︶44
︵︑外郭城牆を境としてその外側を東部尉・西部尉が管轄していたのである︒
四 北魏洛陽における羽林の治安維持活動
前章までの検討で︑北魏の六部尉は県所属の下級官人ではあるものの︑都城内外における犯罪者の取締官として重視され︑餓死・病死者の収容・埋葬等の臨時の任務も遂行したことが明らかとなった︒ただ︑前掲﹃魏書﹄甄琛
伝には︑洛陽の治安維持を担当した官として六部尉・経途尉・里正のほか羽林が挙げられ︑﹁遊軍﹂と表現されてい
る︒そこで︑次に問題となるのは六部尉・経途尉・里正と羽林の職務分担である︒
羽林の職務については︑浜口重国氏が北魏の兵制を検討する中で触れている︒それによれば︑羽林は禁軍の長官
である領軍将軍麾下の左衛・右衛それぞれに所属し︑皇帝の宿衛・儀仗及び都の防守︑戦時の出征︑辺境への駐屯︑
都城内の警察捕盗を任務とした ︶45
︵︒したがって︑犯罪者を捜索する点において六部尉・経途尉・里正と変わるところ
がない︒しかし︑決定的に異なる点は︑甄琛伝所載の宣武帝の詔に見えるように︑六部尉・経途尉・里正就任者が
﹁武人﹂の出身であるか否か問われなかったのに対し︑羽林が武勇に優れた者から充てられたことである ︶46
︵︒このこと
から︑羽林の職務は六部尉よりも武力の行使に傾いていたと見られる︒そこで︑実例に即して北魏洛陽における羽
林の職務を検討する︒
﹃魏書﹄巻二一上・献文六王伝上・咸陽王禧伝
︵六一一頁︶に︑
洛水を渡り︑栢谷塢に至るに︑從ふ者は唯だ禧の二舅及び︹尹︺龍虎のみ︒⁝⁝俄かにして禧擒獲され︑華林
都亭に送らる︒世宗親ら事の源を問ひ︑千斤の鎖を著けて龍虎を格し︑羽林之を衞ることを掌る︒
とある︒この記事は︑景明二年︵五〇一︶に咸陽王元禧が謀反に失敗して捕らえられた際のものである ︶47
︵︒禧配下の尹
龍虎に千斤の鎖を付けて動けないようし︑これを羽林が監視している︒
次に︑﹃魏書﹄巻二一下・献文六王伝下・彭城王勰伝︵六五四頁︶に︑
京兆︹王愉︺・廣平︹王懷︺の暴虐不法に及び︑宿衞の隊主に詔して羽林虎賁を率ゐ︑諸王を其の第に幽守せしむ︒
とある︒仏教信仰を加熱させて荘厳を競い合った京兆王元愉・広平王元懐兄弟 ︶48
︵に対し︑宣武帝が羽林・虎賁を出動
させて愉・懐をそれぞれの邸宅に幽閉している︒羽林が里の内部に立ち入り︑武力を背景に任務を遂行した状況が
想起される︒
また︑﹃北史﹄巻五・魏本紀︵一八一頁︶に︑
帝︵西魏文帝︽元宝炬︾︶は性強果︑始め太尉たりし時︑侍中の高隆之勃海王高歡の黨を恃み︑公卿に驕狎す︒公
會に因り︑帝酒を勸むるも飲まず︑怒りて之を毆り︑罵りて曰はく︑﹁鎭兵︑何ぞ敢へて爾 しかりや﹂と︒孝武︵北
魏孝武帝︶歡の故を以て︑帝の太尉を免じ︑第に歸し︑羽林に守衞を命ずるも︑月餘にして位に復す︒
とある︒後に西魏文帝となった元宝炬が︑太昌元年︵五三二 ︶49
︵︶︑宴会の場で政界の実力者高歓の一党であった高隆之
を殴打して罵声を浴びせかけたかどで免職され︑邸宅に蟄居させられている︒この時︑羽林が元宝炬を護衛している︒
ここに掲げた要人の護衛は︑邸宅のある里の内部でなされたはずである︒しかし︑羽林の活動範囲は里内に止ま
らなかった︒﹃魏書﹄巻五八・楊播伝附椿伝︵一四〇九頁︶には︑孝荘帝に致仕を許された楊椿が帰郷するありさま
が次のように記されている︒
是に於いて賜ふに絹布を以てし︑羽林の衞送を給ふ︑羣公百寮城西の張方橋に餞し︑行路の觀る者︑稱歎せざ
る莫し︒
楊椿は帰郷に際して羽林の護衛を受け︑洛陽城西の張方橋で朝臣の送別を受けている︒羽林は里内だけでなく︑里
の外でも要人を護衛したのである︒
これまでの検討で︑羽林の職務が罪人の監視︑要人の警護であったことが明らかとなった︒ただ︑羽林はほかに
も様々な任務を遂行した︒﹃洛陽伽藍記﹄巻一・城内・永寧寺条︵三一頁︶に︑
永熙三年︵五三四︶二月︑︹永寧寺の︺浮圖火の燒く所と爲る︒︹孝武︺帝凌雲臺に登りて火を望み︑南陽王︹元︺
寶炬・録尚書事長孫稚をして︑羽林一千を將ゐて救はんとして火の所に赴かしむれども︑悲惜せざる莫く︑垂
涙して去る︒
とあり︑永寧寺の仏塔が火災に遭った際︑羽林千人が消火活動に当たっている︒一方︑同書巻二・城東・景興尼寺
条︵六四頁︶には︑
金の像輦有り︑地を去ること三丈︑上に寶蓋を施し︑四面に金鈴︑七寶の珠を垂れ︑飛天伎樂︑之を雲表に望
む︒作工甚だ精なれば︑揚榷すべきこと難し︒像出づるの日︑常に羽林一百人に詔して此の像を舉げしむ︑絲
竹雜伎︑皆旨に由りて給ふ︒
とある︒行像︵仏像を装飾した宝車に載せて城内を練り歩く儀式︶のたびに︑詔を受けた羽林一〇〇人が本寺の仏像を手
車に載せて引いたという︒
このように︑羽林は犯罪者の逮捕・監視︑要人の警護を任務として治安維持に武力をもって対応し︑災害の復旧
等にも臨機応変に対応したのである︒
ところで︑羽林と共に禁軍を構成した部隊として虎賁が存在する︒羽林と虎賁の違いは能力の程度で︑羽林を最 上とし︑次を虎賁とする ︶50
︵︒したがって︑虎賁も羽林と同様の任務を遂行していたのではなかろうか︒
先に引用した﹃魏書﹄彭城王勰伝では︑羽林と共に虎賁が京兆王愉・広平王懐をそれぞれの邸宅に幽閉している︒
また︑﹃魏書﹄巻二一上・献文六王伝上・北海王詳伝︵六三四―六三五頁︶には︑北海王元詳が庶人とされた時のこと
として次のように記される︒
後に高肇の譖る所と爲り︑詳︹茹︺皓等と與に謀りて逆亂を爲すと云ふ︒時に詳は南第に在り︑世宗中尉の崔
亮を召して入禁せしめ︑敕して詳の貪淫を糾し︑茹皓・劉冑・常季賢・陳掃靜等の專恣の状に及ぶ︒⁝⁝并び
に皓等を劾し︑夜即ち南臺に收禁す︒又虎賁百人︑詳の第を圍守し︑其の驚懼奔越を慮る︒
正始元年︵五〇四 ︶51
︵︶︑高肇によって騒乱の首謀者とされた北海王詳は︑宣武帝の敕によって平生の貪婪さを糾問され
た上︑虎賁一〇〇人によって自邸を囲まれている︒虎賁が詳の邸宅を包囲したのは︑動揺した詳が逃亡することを
防ぐためであった︒これは︑﹃魏書﹄彭城王勰伝に見える羽林・虎賁による京兆王愉・広平王懐の幽閉と同様の措置
である︒
虎賁は謀反の首謀者を捕らえてもいる︒本章初めに触れた景明二年︵五〇一︶の咸陽王禧による謀反について︑﹃魏
書﹄巻三一・于栗磾伝附烈伝︵八二四頁︶に次のようにある︒
太尉・咸陽王禧の謀反するや︑武興王楊集始北邙に馳せて以て告ぐ︒時に世宗野に從禽し︑左右分散し︑直衞
幾ど無く︑倉卒の際なれば︑計の出づる所を知る莫し︒⁝⁝駕の宮に還るに及び︑禧已に遁逃す︒烈に詔して
直閤の叔孫侯をして虎賁三百人を將ゐて之を追ひ執へしむ︒
虎賁三〇〇人が謀反を起こした咸陽王禧を捕らえている︒禧の拘束された場所は︑前掲﹃魏書﹄咸陽王禧伝により︑
洛陽城外東の栢谷塢附近と判明する ︶52
︵︒この事例は︑羽林による犯罪者逮捕と同様の職務とみなし得る︒
右のように︑虎賁の職務は要人の監視と犯罪者の逮捕であり︑羽林の職務と共通する︒したがって︑洛陽の治安
維持に関わる羽林と虎賁の職務内容に大きな違いはなかったと見られる︒﹃魏書﹄甄琛伝が羽林を﹁遊軍﹂と表現す
るように︑両者は洛陽城内外で犯罪者の逮捕・監視︑要人の警護︑災害復旧等に臨機応変に用いられたのである ︶53
︵︒
これは︑北魏王朝による洛陽遷都後の羽林・虎賁が︑皇帝近侍の武官から宿衛の兵に変質していったこと ︶54
︵の反映と
考えることもできるであろう︒
お わ り に
以上︑四章に亙って六部尉の職務︑官僚機構上の位置付け︑配置︑羽林との関係について︑北魏洛陽を中心に論じてきた︒その結果を約すると次のようになる︒
︵一︶六部尉は犯罪者の逮捕を恒常的な職務とし︑宮女の探索︑皇帝遊行時の住民隔離︑餓死・病死者の収容・埋
葬といった臨時の職務も遂行した︒北魏洛陽における六部尉は経途尉・里正を統属し︑街路で発生した犯罪と里の
内部で発生した犯罪の両方を取り締まった︒
︵二︶六部尉は県所属の官僚であったが任官者の家格は低く︑南朝では役割が低下した可能性がある︒北魏では初
め流外官であったが︑宣武帝末期に正九品に高められて流内官となり︑東魏・北斉時代を通じて重視された︒
︵三︶北魏洛陽における六部尉の配置は︑郭内東側が左部尉︑郭内西側が右部尉で︑郭外東側が東部尉︑郭外西側
が西部尉であった︒
︵四︶六部尉と同様に北魏洛陽の治安維持に当たった羽林・虎賁は︑武勇に優れた者から任命された兵で︑洛陽城
内外で武力を背景に犯罪者の逮捕・監視︑要人の警護︑災害復旧等の任務を臨機応変に遂行した︒
本稿での検討を通じて︑北魏洛陽の治安を維持する上で六部尉が中心的な役割を果たし︑東魏・北斉時代にかけ
て重視されたことが︑おぼろげながら見えてきたであろう︒しかし︑西魏・北周と隋・唐の時代には︑六部尉が確
認されない︒北周では武環率・武候率が︑隋文帝期には左右武候府が治安維持を担当し ︶55
︵︑唐では左右金吾衛がこれ
を担った ︶56
︵︒
しかし︑唐・開元八年︵七二〇︶の京兆府功曹韋希損墓誌 ︶57
︵には︑
秩滿ちて渭南・藍田二縣尉を歷︑下車未だ幾 いくばくならずして︑穆 やはらぐこと清風のごとし︒時に京尹の河東薛公昶君 の才を偉とし︑引きて四部尉と爲し︑□□萬年縣□ ︶58
︵西自り東に徂 ゆく︑政不易□︑臺伯鼎相︑能を誇る者は久し︒
とあり︑韋希損は京兆尹薛昶に引き抜かれて﹁四部尉﹂に就いている︒その後の文は欠字があって文意を読み取れ
ないが︑唐長安城内に県治の置かれた﹁萬年縣﹂の字が見える︒本墓誌の記述により︑左右金吾衛及び左右巡使が
中心となって治安維持に当たっていたはずの唐・開元年間の長安 ︶59
︵で︑﹁四部尉﹂なるものが活動していたことが知ら
れる︒
唐長安における﹁四部尉﹂の存在は︑後漢洛陽に四部尉が置かれたことを想起させる︒また︑﹁四部尉﹂が六部尉
を継承する制度であった可能性も生じさせる︒北魏・東魏・北斉の時代に治安維持が期待された六部尉が︑その後
の歴史の中でどのように展開︑あるいは消滅していったのか︑解明の糸口となる史料の出現に期待したい︒
注︵
授古稀記念アジア史論叢﹄白東史学会︑二〇〇八年︶︒ 1︶角山典幸﹁北魏洛陽城研究の一視角―河陰県治の位置を中心として―﹂︵中央大学文学部東洋史学研究室編﹃池田雄一教
︵
︵ 出版社︑一九五八年︾︶による︒ 餘﹂と記す︒なお︑﹃洛陽伽藍記﹄の頁数は︑周祖謨校釈﹃洛陽伽藍記校釈﹄︵中華書局︑二〇一〇年第二版︽初版は科学 2︶﹃洛陽伽藍記﹄巻五・城北・巻尾︵二一二頁︶は︑北魏末の状況として﹁京師は東西二十里︑南北十五里︑戸十萬九千
︵ の基本問題編集委員会編﹃魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題﹄汲古書院︑一九九七年︶を参照︒ である︒北魏では︑﹁坊﹂は俗称で﹁里﹂が正式な名称であった︒妹尾達彦﹁都市の生活と文化﹂︵魏晋南北朝隋唐時代史 發して京師に三百二十三坊を築き︑四旬して罷む﹂とある︒なお︑ここに見える﹁坊﹂がすなわち囲壁居住区画の﹁里﹂ 3︶﹃魏書﹄巻八・世宗紀︵中華書局標点本︽修訂本︾二三二頁︶に︑﹁︹景明二年︵五〇一︶︺九月丁酉︑畿内の夫五萬人を
︵ 政制度︵中央研究院歴史語言研究所︑一九六三年︶六八六―六八七頁︒ 丁﹂と読み下し︑﹁三長の戸で征戍の役を免除された丁男﹂と解釈した︒厳耕望﹃中国地方行政制度史﹄魏晋南北朝地方行 征戍が党長戸三名︑里長戸二名︑鄰長戸一名に限り免除されていたことから︑復除とする︒そこで︑本文では﹁三正の復 4︶厳耕望氏は︑原文の﹁三正復丁﹂の﹁三正﹂を三長制の党長・里長・鄰長とする︒﹁復﹂については︑民衆に課せられる 5︶曾資生編著﹃中国政治制度史﹄第三冊魏晋南北朝︵龍門書店︑一九四四年︶二七五―二七六頁︑注︵
︵ 社︑二〇〇九年︶一〇―一一頁︒ 二頁︑兪鹿年﹃北魏職官制度考﹄︵社会科学文献出版社︑二〇〇八年︶三〇四頁︑王鍾傑﹃唐宋県尉研究﹄︵河北大学出版 〇〇三年︽初出一九九九年︾︶︑任重・陳儀﹃魏晋南北朝城市管理研究﹄︵中国社会科学出版社︑二〇〇三年︶一五一―一五 三三五―三三七︑六三三―六三四頁︑張金龍﹁北魏洛陽里坊制度探微﹂︵同著﹃北魏政治与制度論稿﹄甘粛教育出版社︑二 4︶厳耕望前掲書
︵ 6︶周一良﹁六部尉与四中郎将﹂︵同著﹃魏晋南北朝史札記﹄中華書局︑一九八五年︶︒
︵ ﹃中国古代社会治安管理史﹄︵鄭州大学出版社︑二〇〇三年︶七七︑一一一頁︒ 7︶朱紹侯主編︵龔留柱執筆︶﹃中国古代治安制度史﹄︵河南大学出版社︑一九九四年︶一七六―一七七︑三一五頁︑陳智勇
︵ 8︶以下︑引用史料中の︿﹀で囲まれた部分は︑注であることを表す︒
なお︑正史の頁数は中華書局標点本による︒ ︵二頁︶に︑﹁年二十︑孝廉に舉げられて郎と爲り︑洛陽の北部尉に除せらる︑頓丘令に遷り︑徵されて議郎を拜す﹂とある︒ 9︶後漢洛陽に四部尉が存在したことは︑曹操が北部尉に就任したことから窺い知られる︒﹃三国志﹄巻一・魏書一・武帝紀
︵
︵ られる︒ めに劉隗が侍中を兼ねたことを記述している︒したがって︑この事件の発生時期は︑東晋初年の建武元年︵三一七︶と見 10︶本文に掲げた﹃晋書﹄劉隗伝は︑周嵩の門生による傷害事件の顚末を記した直後に︑太興年間︵三一八―三二一︶の初 11︶後漢の事例であるが︑注︵
︵ の北部尉となった曹操が夜行を取り締まっていたことが知られる︒ 後數月︑靈帝の愛幸せる小黄門蹇碩の叔父夜行し︑即ち之を殺す︒京師迹を斂め︑敢へて犯す者莫し﹂とあり︑後漢洛陽 や︑四門を繕治す︒五色の棒を造り︑門の左右に各十餘枚を縣け︑禁を犯す者有らば︑豪彊を避けず︑皆棒もて之を殺す︒ 9︶前掲﹃三国志﹄武帝紀の裴松之注に引く﹃曹瞞伝﹄に︑﹁太祖初めて︹北部︺尉廨に入る 宣武帝期の末としている︒注︵ 12︶厳耕望氏は上表の時期について︑甄琛の年齢が上表時に六十余歳で︑宣武帝死没時に六十三︑四歳であったことから︑
︵ 4︶厳耕望前掲書六三四頁︒
ている︒注︵ 13︶張金龍氏は︑甄琛の上表中の﹁六部里尉﹂なる呼称により︑六部尉が里内における犯罪者の逮捕を任務としたと指摘し 0
︵ 5︶張金龍前掲論文︒
︵ 書社︑二〇〇四年︶二三八―二三九頁︒ 14︶勲品の官品を流外一品とすることは︑陶新華氏の所説に従った︒陶新華﹃北魏孝文帝以後北朝官僚管理制度研究﹄︵巴蜀 15︶注︵
5︶任重・陳儀前掲書七二頁︑注︵
︵ 5︶兪鹿年前掲書三〇四頁︒
︵ 16︶曾我部静雄﹁都市里坊制の成立過程について﹂︵﹃史学雑誌﹄第五八編第六号︑一九四九年︶︒ 17︶注︵
5︶張金龍前掲論文︑注︵
︵ 5︶兪鹿年前掲書三〇四頁︒
ている︒注︵ 18︶厳耕望氏もこの事例を挙げ︑六部尉の本来の職務は盗賊の逮捕であったが︑そのような﹁武事﹂に止まらなかったとし
︵ 4︶厳耕望前掲書六三四頁︒
︵ 19 ︶﹁都﹂は衍字であろう︒
20︶注︵
︵ 4︶厳耕望前掲書三三五頁︒
21︶注︵
︵ 不明︶二〇九頁も︑五部尉が増員されて六部尉になったとする︒ 5︶曾資生前掲書二七五頁︒また︑清・紀等撰﹃歴代職官表﹄巻二〇・五城・歴代建置・晋︵中華書局︑出版年 22︶﹃太平寰宇記﹄巻九〇・江南東道二・昇州・上元県︵中華書局標点本一七八八頁︶にも﹁古の建康縣︑初置は宣陽門内に
在り︒⁝⁝咸和六年︵三三一︶苑城を以て宮と爲し︑乃ち徙して宣陽門外の御街の西に出だす︑今の建初寺の門路の東是れなり︒時に七尉部有り︑江尉は︑三生渚に在り︒西尉は︑延興寺の後巷の北に在り︒東尉は︑呉の大帝陵の口に在り︑今の蔣山の西門なり︒南尉は︑草市の北湘宮寺の前に在り︒北尉は︑朝溝邨に在り︒左尉は︑青溪の孤首橋に在り︒右尉は︑紗市に在り﹂とあり︑東晋の建康県に配置されていたことが窺える︒ただし︑六部尉ではなく︑﹁西尉﹂﹁東尉﹂﹁南尉﹂﹁北尉﹂﹁左尉﹂﹁右尉﹂に﹁江尉﹂を加えた﹁七尉部﹂とする︒これについて厳耕望氏は︑六部尉・七部尉のいずれであったか不明としている︵注︵
︵ 4︶厳耕望前掲書三三五―三三六頁︶︒
︵ 法﹄として岩波書店︑一九九二年再刊︶全集一九八―二〇九︑二一四―二二〇頁︒ 23︶宮崎市定﹃九品官人法の研究―科挙前史―﹄︵東洋史研究会︑一九五六年︒佐伯富ほか編纂﹃宮崎市定全集六九品官人 行われていたことを指摘し︑本文に掲げた﹃太平御覧﹄を例に︑﹁二品縣﹂を県令の官品が六品の県としている︒注︵ 24︶原文の﹁二品縣﹂について宮崎市定氏は︑起家官と郷品の関係に基づいて六品官を二品官と称することが西晋以来広く
︵ 宮崎市定前掲書二二五―二二七頁︒ 23︶ 25︶梁・陳時期の県尉関連史料の不存在については︑注︵
︵ 治社会史研究﹄︵同朋舎︑一九八六年︽初出一九七四年︾︶に指摘がある︒ 4︶厳耕望前掲書三三六頁︑礪波護﹁唐代の県尉﹂︵同著﹃唐代政
︵ く︑水・火・劫・盜を司る﹂とある︒劉宋における都官従事の設置は︑六部尉の役割低下に対応する措置ではなかろうか︒ 治安維持に当たった︒﹃南史﹄巻二・宋本紀中︵六〇頁︶に︑﹁︹大明元年︺九月︑建康・秣陵二縣に各都官從事一人を置 26︶劉宋で小県の尉が省かれた後の大明元年︵四五七︶には︑建康の行政を担った建康・秣陵両県に都官従事の官が置かれ︑
︵ 明校注﹃漢魏六朝碑刻校注﹄︵線装書局︑二〇〇八年︶ナンバー六一八︒釈文は﹃洛陽新獲墓誌続編﹄による︒ 27︶洛陽市第二文物工作隊・喬棟・李献奇・史家珍編著﹃洛陽新獲墓誌続編﹄︵科学出版社︑二〇〇八年︶ナンバー七︑毛遠 れていたことから︑毛氏に従う︒注︵ 28︶毛遠明氏は︑原文の﹁舎﹂字を釈す意味に取る︒張孃は戦時に略奪されて洛陽に徙され︑下婢として衣冠を製作させら ゆる
︵ 27︶毛遠明前掲書︒
29︶注︵
︵ 1︶角山典幸前掲論文︒
北魏洛陽における六部尉と県及びその上級衙門の統属関係は以下の通り︒司州牧︵従二品︶―河南尹︵正三品︶―洛陽・河 30︶なお︑﹃魏書﹄甄琛伝と太和後令︵洛陽遷都後の太和二三年︽四九九︾制定︒﹃魏書﹄巻一一三・官氏志掲載︶によれば︑
陰両県令︵従五品下︶―六部尉︵正九品︶―経途尉︵従九品︶―里正︵流外一品︶︒︵
︵ 宣帝鄴縣を分けて成安縣を置く︑清都尹に屬す﹂とある︒ 31︶﹃元和郡県図志﹄巻一六・河北道一・相州・成安県︵中華書局標点本四五三頁︶に︑﹁其の地は舊鄴縣に屬し︑高齊の文
︵ 觀︑便ならずんば則ち改む﹂とある︒ ひ宜しきに從ひ︑弦を改めて調べを易ふ︑明主の急とする所なり︒先朝は品を立つに︑必ずしも即ち定めず︑施して之を 32︶甄琛の言葉は︑第一章に引用した﹃魏書﹄甄琛伝所掲の上表の中略箇所︵一六四七頁︶に見え︑﹁王者の立法は︑時に隨 前の六部尉・経途尉はそれぞれ流外二品・流外三品であったとしている︒注︵ 33︶宮崎市定氏は︑﹃魏書﹄甄琛伝に里正が流外四品から勲品︵流外一品︶に上げられたとあることから︑官品を上げられる
︵ 23︶宮崎市定前掲書三三六頁︒
34︶厳耕望氏も﹃魏書﹄甄琛伝を取り上げ︑六部尉・経途尉・里正の官品を高め︑その職務を重視したとする︵注︵
︵ 耕望前掲書六三四頁︶︒ 4︶厳 35︶注︵
︵ 23︶宮崎市定前掲書三三六頁︒
︵ 年︽初出二〇〇六年︾︶︒ 36︶岡部毅史﹁北魏北斉﹁職人﹂考―位階制度研究の視点から―﹂︵同著﹃魏晋南北朝官人身分制研究﹄汲古書院︑二〇一七
︵ 参照︒ 字に誤ったとする︒本稿ではこれに従い︑当該箇所は本来﹁經﹂字であったと考える︒中華書局標点本当該巻の校勘記六 制に﹁行經途尉﹂とあること︑北魏が設置した経途尉を北斉が継承したことから︑﹁經﹂字を﹁逕﹂字に誤り︑さらに﹁遙﹂ 37︶﹁遙途尉﹂について中華書局標点本の校勘者は︑第三章で引用する﹃隋書﹄巻二七・百官志中・司州・清都郡所掲北斉官 38︶注︵
︵ 1︶角山典幸前掲論文︒
39︶注︵
︵ 1︶角山典幸前掲論文︒
な再現としている︒村元健一﹁北朝鄴城の復原研究﹂︵同著﹃漢魏晋南北朝時代の都城と陵墓の研究﹄汲古書院︑二〇一六 して之に從ふ﹂とある︒また︑村元健一氏も考古調査結果と文献史料の記述に基づき︑東魏北斉鄴城を北魏洛陽城の忠実 度の創始︑營構の一興は︑必ず宜しく制に中るべし︒上は則ち前代に憲章し︑下は則ち洛京を模寫すべし︒⁝⁝﹄と︒詔 40︶﹃魏書﹄巻八四・儒林伝・李業興伝︵二〇一二頁︶に︑﹁遷鄴の始め︑起部郎中の辛術奏して曰はく︑﹃今皇居徙御し︑百
年︽初出二〇〇七年︾︶︒︵
︵ 41︶朱岩石﹁東魏北斉鄴城の内城の成立について﹂︵﹃史観﹄第一四五冊︑二〇〇一年︶︒
︵ 九八九年︶︒ 42︶上田早苗﹁後漢末期的鄴地与魏郡﹂︵谷川道雄編﹃日中国際共同研究地域社会在六朝政治文化上所起的作用﹄玄文社︑一 43︶上田氏は北斉鄴における左部尉・右部尉の管轄範囲について︑南辺のラインを南城南牆としている︵図二参照︒注︵
︵ 歴史と文化﹄第四〇号︑二〇〇六年︶︒ 現与発掘﹂︵﹃考古﹄二〇〇三年第一〇期︶︑朱岩石﹁鄴城遺跡趙彭城東魏北斉仏寺跡の調査と発掘﹂︵﹃東北学院大学論集 あったと考える︒中国社会科学院考古研究所・河北省文物研究所鄴城考古隊﹁河北臨漳県鄴城遺址東魏北斉仏寺塔基的発 管轄範囲は︑南城南牆のラインから︑本寺付近まで南下させるべきであり︑その南すなわち郭外南が南部尉の管轄範囲で よって︑東魏北斉鄴城の外郭が本寺付近にまで及んでいたと考えている︒したがって︑北斉鄴における左部尉・右部尉の 氏は︑寺院址の位置・規模・平面形態・構造から︑本寺の建立に東魏あるいは北斉の皇帝が関係したとし︑本寺の存在に ートル︑趙彭城村の南西から︑約四三〇メートル四方もの敷地を有する仏教寺院址が発見された︒発掘報告者及び朱岩石 上田早苗前掲論文︶︒しかし︑上田氏の論考発表後の二〇〇二年に︑鄴南城南牆の中央に位置する朱明門の南約一三〇〇メ 42︶ 界を南宮南門と南城南門を結ぶ南北方向の中軸線として図示する︵図二参照︒注︵ 44︶なお︑郭内における左・右部の境界については︑上田氏と佐川英治氏が触れている︒上田氏は︑北斉鄴の左・右部の境
魏洛陽が東の洛陽県︑西の河陰県に分治されていたとする注︵ 42︶上田早苗前掲論文︶︒佐川氏は︑北
︵ 必要があろう︒ 年︶︒佐川氏の所説は興味深いが︑左・右部が中軸線を境に截然と分かれていたとする点については︑なお慎重に検討する 原型を北魏洛陽に求める︵佐川英治﹁鄴城に見る都城制の転換﹂窪添慶文編﹃魏晋南北朝史のいま﹄勉誠出版︑二〇一七 南北に貫く中軸線とする︒その上で佐川氏は︑隋唐長安の朱雀門街を東西両県の境界かつ都城全体の中軸線とする制度の 1︶拙稿を踏まえ︑両県及び左・右部の境界を都城全体を
︵ 年︽初出一九三五年︾︶︒ 45︶浜口重国﹁正光四五年の交に於ける後魏の兵制に就いて﹂︵同著﹃秦漢隋唐史の研究﹄上巻︑東京大学出版会︑一九六六 46︶﹃魏書﹄巻七下・高祖紀下︵二一一頁︶に︑﹁︹太和十九年︵四九五︶八月︺乙巳︑詔して天下の武勇の士十五萬人を選び
て羽林・虎賁と爲し︑以て宿衞に充つ﹂とある︒︵
︵ 47︶﹃魏書﹄巻八・世宗紀︵二三二頁︶に︑﹁︹景明二年︵五〇一︶五月︺壬戌︑太保・咸陽王禧謀反し︑死を賜ふ﹂とある︒
︵ 冀州刺史と爲す﹂とある︒ 頗る相ひ夸尚し︑奢麗を競慕し︑不法を貪縱す︒是に於いて世宗愉を攝りて禁中に推案し︑愉を杖つこと五十︑出だして 48︶﹃魏書﹄巻二二・孝文五王伝・京兆王愉伝︵六六四頁︶に︑﹁又佛道を崇信し︑用度は常に不接に至る︒弟の廣平王懷と
︵ 寶炬事に坐し降して驃騎大將軍・開府と爲し︑王は故のごとし︑第に歸し︑羽林をして衞守せしむ﹂とある︒ 49︶﹃魏書﹄巻一一・廃出三帝紀・出帝平陽王︵三三四頁︶に︑﹁︹太昌元年︵五三二︶六月︺丁卯︑太尉公・司州牧・南陽王 50︶注︵
︵ 羽林・虎賁の下位に﹁直従﹂の名が見えるが︑職務が判然としないため︑ここでは取り上げない︒ 45︶浜口重国前掲論文︒なお︑浜口氏が引用する﹃魏書﹄巻二一上・献文六王伝上・高陽王雍伝︵六二六頁︶には︑
︵ とある︒ 51︶﹃魏書﹄巻八・世宗紀︵二三六頁︶に︑﹁︹正始元年︵五〇四︶︺五月丁未朔︑太傅・北海王詳罪を以て廢して庶人と爲す﹂
︵ は洛陽東の偃師付近に位置した︒ 北し︑偃師城の東を逕ぎ︑東北して鄩中を歷︑水の南は之を南鄩と謂ひ︑亦た上鄩と曰ふなり﹂とあり︑百谷塢︵栢谷塢︶ 52︶﹃水経注﹄巻一五・伊水︵江蘇古籍出版社本一三二一―一三二二頁︶に︑﹁洛水又東し︑百谷塢の北を逕ぐ︒⁝⁝洛水又
︵ 53︶なお︑太和後令に見える﹁羽林﹂﹁虎賁﹂の名が付く官の最高位は羽林監・虎賁中郎将で︑共に正六品下である︒
︵ 54︶張金龍﹃魏晋南北朝禁衛武官制度研究﹄︵中華書局︑二〇〇四年︶七五三―七六〇頁︒
︵ 七八九頁︶︒ 55︶﹃唐六典﹄巻二五・諸衛府・左右金吾衛︵六三八頁︶︑﹃通典﹄巻二八・職官一〇・左右金吾衛︵中華書局標点本七八八―
︵ 56︶室永芳三﹁唐都長安城の坊制と治安機構︵上︶﹂︵﹃九州大学東洋史論集﹄第二号︑一九七四年︶︒
︵ 主編﹃唐代墓誌彙編﹄︵上海古籍出版社︑一九九二年︶開元〇九五︒ 57︶北京図書館金石組編﹃北京図書館蔵中国歴代石刻拓本彙編﹄︵中州古籍出版社︑一九八九年︶第二一冊一一七頁︑周紹良
︵ 58︶﹃八瓊室金石補正﹄巻五一・唐二三︵呉興劉氏希古楼刊本八b︶は︑この空格の文字を﹁丞﹂とする︒
59︶注︵
56︶室永芳三前掲論文︒