経済学説史の方法−経済学の現状に
ついての批判と展望のための(1)
川田俊昭
『社会科学の成果なんて貧弱なものだし,方法も幼稚だから,どっちみち, 然る可き御要望には,到底お答え出来る筋合ではないのです。 』 (J. A.シュ ムペーター『社会科学の過去と未来』より。)
J. A.シュムベーターは,遺稿『経済分析の歴史History of Economic Analysis』 (以下, 『分析』と略す)に謂う。
「‑・‑科学とは,常に改良せんとする意識的な努力の対象となっている様 な種類の一切の知識をいう‑‑‑。 」 (7貢,訳12貢。 )
我々は,このテーゼを,我々(少くとも,経済学的研究を志し,携わる者 逮)に与えられた,自明のものと考える。
このテ‑ゼに対して,我々の多くの者(というより,殆どその総全部) が,些かの抵抗,反論をも示さないということにおいて,まさしく,このテ
ーゼは,自明のものである。
と同時に,我々が単なる(或は偽りの) "知ったかぶり〝を装うことによ って,その実,このテーゼの真の意味を理解し得ていない(無論,上滑りの 理解は別としても),という二重の意味において,このテーゼは,自明のも
のである。
更に,このテーゼは, (如上の様に)斯く看過されることによってはそれ 以後のすべてが無に等しい,ということによって(それ程に重大な意味を有
しているということによって, ‑‑三重の意味において),自明のテーゼと 言うことが出来る。
勿論,筆者は,のっけから,犬儒主義を気取るわけでなく,このテーゼの
指し示す事柄の重要さに賭けて,斯く言うのである
O然して,筆者が,斯く言うところの意味(重要な)が,人々には全く理解 されていないということは. (甚だ遺憾乍ら)事実である。
シュムベータ一一一この偉大な経済学者(社会科学者,真の怠味でのぷ 人)については,我々の当面の(限定された)問題に関わる限りにでも,数 多の(自称)シュムベータ一通(シュムベーターの、経済学
11、経済学 史グの真の理解者)を.<箱舟>に一杯抱えこんでいるのが,実状である
Oしかし乍ら,<理解されざる傑作>は, (逆説的な表現をもってすれば一一) 理解されざることによってこそ傑作なのであって,決してその反対ではな い。容易に,凡府且つ低次元の理解が可能であっては,それは駄作であって
も,決して傑作ではない。
シュムベーターの(百目的)讃仰者をもって任ずる一ーというが知きは,
話は又別の事柄に属する。しかし乍ら. (言うまでもなく)科学は理性的理 解の対象であっても,決して信仰の対象ではない。
シュムベーターの(科学的)偉大を,我々が容易に理解し得るというのな らば(偉大はただ偉大によってのみ理解される).そして又その様な (偉大 な)人士がかくも数多居るとすれば,それこそ, ノーベノレ賞(スウェーデン 科学アカデミー,経済学部門)の詮衡委員達は,真青になることは必定。し かし,現にその様な徴候がないということは,我々におけるシュムベータ一 通の政庖なる現象が,御本人達の一人よがりは別としても,実質的には乙れ
も御伽噺の部類に属するということを,悟らされるに過ぎない。
「同様なものによっては,唯同様のもののみが,その本質を認識される。」
(w.
ゾムバルト)
筆者は,シュムベーターの理解者を気取るわけではなく(せいぜいのとこ
ろシュムベーターのファンの一人というに過ぎないので)一一筆者に理解さ
れる相対的限度内での,筆者自身のこの方面の校索(それは,筆者がシュム
ベーターに避追する以前から持続しているのであるが).それに合せる限り
でのシュムベーターの理解,という文字通り極めて限定された(謙虚な)約
束,条件の下に,以下,本題についての若干の校索,試行を行うものであ
る 。
悶みに,本稿は, 二十年前の筆者の講義ノートを, 主 な る 典 拠 と し て い る
D「我々の分野における知的成果に対して,経済学苦 l 乙lE21の立を表明せんと する者は,屈めて稀であり,殊l と経済学者自身の m では,殆ど見
mし難い。そ の上過去・現在を通じて,我々の業績は. W ‑ l と悦ましやかなものであったばか りではなく,それが更に組椴立てられてもいない。過去においても,現在にお いても,我々の或る者によって,標準以下であるか乃宅ほ原則的に誤っている とさえ考えられているような,
7jE実発見的方法や分肝方法が, 広く仙の者述の
n
日に普・及している。……我々は……物理学者や、数学者が持っているような深い 確信をもって,語る乙とが出来ないのである。その結果,我々は, 『わが
Fド 主 の現状』を,他の場合と等しく,満足のいくような仕方で,纏め上げること を,相互に期待し得ない。否,少くとも,現に期待していないのである。斯く て,この総括的に纏めるという仕事のもつ欠陥に対する明白な治療策は,学説 史の研究をおいて他にはない。
J(シュムベーター『分析
J• 6頁,沢
10頁 。 〕
分相応,筆者は次の如く,単純・単簡に,本題の問題提起を行う。
( 1 ) 経済学説史とは何か。
( 2 ) 経済学説史は如何にして可能か。
( 3 ) 結果 r 経済学の現状」は如何口その現状,更にその過去・未来は如 何に考えらるべきか。
一科学(乃五一学科)の現状を考えること(即ち, 問題提起( 3 ) ) は , それ 自体, 一体如何なることを窓味するか。 順次その解明を行う以前 l こ , それが 実は,先ず, その歴史(我々の科学が経済学であるならば一一<経済学の慌 史>)と不可分離である乙と一一換言すれば ( 3 ) の問題は ( 1 ) . . . …そして ( 2 ) と , 即ち ( 1 ) ,( 2 ) , ( 3 ) は , お互い密接な相互関聯にあることを, ここでのこの機会
l
こ,取敢ず註しておく。
シュムベーターは,乙の聞の論理を,次の桜に,簡明且つ極めて適切に,
述べている。
日く
o「……(現在の)ある問題なり方法なりの怠義や妥当性は,以前の問題や 方法についての知識がなくては,決して充分に理解し得るものでなく,実に この問題や方法は,以前におけるそれらに対する(試案的な)答えに他なら ないものである
O……従って,荷も『科学の現状』を伝えんとする一切の論 考は,歴史的に条件つ
aけられると共に,自らの源となっている歴史的背景に 結びつけられてのみ意味をもつような方法,問題乃至結論を実際に伝えてい るのである。……ある一定時点における一切の科学の状態も,その中に過去 の歴史を背負っているので,この暗々裡の歴史を明示的なものにしなくて は,現状を満足に伝えることが出来ないのである。
J(r 前掲書J1,
4頁 , 訳
6‑7頁。)
斯くて,乙の章の最初に置かれたシュムペーターの言葉(再援用)にも及 ぷ。
即ち,日く
O「……その結果,我々は
rわが科学の現状』を,他の場合と等しく,満 足のいくような仕方で,纏め上げるととを,相互に期待し得ない。否,少く
とも,現に期待していないのである
D斯くて,乙の総括的に纏めるという仕 事のもつ欠陥に対する明白な治療策は,学説史の研究
studyof doctrinal historyをおいて他にはない。たとえば,物理学におけるよりも,経済学に おいては,現代の問題なり方法なり結論なりを,経済学者がどうして現在あ るように考えるに至ったかの何等かの知識がなくては,充分に理解し得ない という乙とが,一層真理なのである
oJ(r 前掲吉J1,
6頁,訳10‑11 頁 。 尚,シュムベーターが来日の折,神戸大学で行った講演に
I経済学の現状
Present State of EconomicsJな る 表 題 の も の が あ る こ と も , 併 記 し よ
う口)
更に,シュムベーターは,経済学(的認識,乃至経済学説史)における
勺比判" (、否定 、矛盾'一一更には、闘争 、破壊")の契機一ー その生産的・創造的役割を,
G W. F.へーゲ〉レ(或は
K.マノレクス)顔 負けの程に,強調していることを,記しておく。
即ち,言う口
「……科学的分析は,単に若干の素朴な観念
primitvenotionsから出発 し,しかる後に(観念の既成の)ストックにそのまま附加せられるような,
一つの論理的に一貫した過程〈たとえば,へーゲルの拒否した連続的な発 展,所謂、有機的生長'一一筆者),ではない。……むしろ,それは,我々
自身や我々の先輩の心の創造物との絶えざる闘争であり,もしも『進歩があ る』としても,それは交文状態においてであり,論理が指令するままのもの ではなくて,新しい観念,新しい観察,新しい必要が与える街撃の結果とし て,更に又新しい人間の傾向や気質の結果として,生れるもの〔連続におけ る断続,断続的な……シュムベーターの所謂「創造的破壊の過程
J)なので ある。
J(r 前掲書J1,
4頁,訳
6‑7頁。)
「……我々は,経済学の主題とするところが,それ自体一つのユニークな 歴史的過程たること,従って,異る時代の経済学が,大部分は具った肌合の 事実や問題を取扱うという明々白々の事実のもっている意味内容に,注意を 促したい。乙の事実だけでも,学説史に対する関心を増加せしむるに,充分 であろう
o……科学的経済学は,歴史的述続に欠けてはいない。実際のとこ
ろ,科学的諸観念〈概念〕の系統化〔進化)
Fi1iatio~ of Scientific. ldeasの過程一一経済現象を理解せんとする人聞の努力が,無限の連続の中に,分 析装置を作り出し,改良し,破壊していく過程〈即ち
I創 造 的 破 壊 の 過 程
J)ーーとも呼ばれ得るものを記述することは,我々の主要な目標であ る
o更に又, この過程が,基本的には,他の知識の・分野における類似の過れ と異るものではないということも,本書において樹立さるべき主要テーゼの 一つなのである。
J(r 前掲書
J,
5‑6頁,訳
9‑10頁。)
シュムベーターの主著の一つ,
r(経済)学説並びに〈・〕方法〈・史〕
の諸段階〔諸紀元)
Epochen der Dogmen ‑und Methodengeschichtel J
は , (筆者をして言わしむれば一一)そのタイトノレそのものが,一言半句洩 らせぬ程,彼の経済学(乃至経済学説史)観を,遺憾なくよく物語ってい る
Oよって,邦訳におけるが如く, (便宜的にせよ)
r経済学史』とタイト ノレを変えること自体,むしろ重大な過誤・過失というべきである
Oシュムベーターの(認識において,或は存在について)問題とするところ 一一それは,単なる連続,単なる流れとしての(量的)進化ではない。(そ れが望ましいものであるか否とに拘らず一一) (内的)契機に飛躍を含むと いう(質的)意味での発展
Entwicklung, 即ち(真に)歴史的なるもので ある。
シュムベーターは, (前著同様)主著の一つである『経済発展の理論』に おいて,書いている
O「……純粋に経済的一一
r(経済)体系内部的
innersystemat ischJなも のであって, しかも連続的には行われず,その枠や常軌そのものを変更し,
且つ『循環』からしては理解出来ないような他の種類の変動……斯かる種類 の変動,並びにその結果として生れる諸現象乙そ,我々の問題設定の対象た るものである
oJ (93‑4頁,訳1
55頁。)
シュムベーターの最初の著(矢張,主著),
r理論経済学の本質と主要内 容』一一既に,そ乙において,斯かる問題意識の萌芽を,我々は見ることが 出来る。
即ち,言う
O「……少くとも,人間の文化〈精神〕の発展,特に知識の発展は,全く飛 躍的に起る……。力強い跳躍と沈滞の時期と,溢れるばかりの希望と苦々し き幻滅とが交代し,たとえ新しきものは古きものに根差していようとも,発 展は決して連続的
stetigではない。我々の科学〈経済学〉は如実にこれを 示しているのである
oJ (8頁,訳
8頁。)
勿論,乙の場合,我々は, 、自然は飛躍せず
naturanon facit sa1tumll'の命題を標語とした
A.マーシヤノレ,に始まる……マーシヤ
jレ一一D. リカ
アド,
J. M.ケインズ一一
T. R.マルサス,
R. F.ハロッド一一
J.S.ミ ノ レ ,
J.ロビンソン一一
A.スミス……といったジョン・プル的馴合の、述 続'は,これを無視するケインズについては,シュムベーターの一部批 難がある
o )更に,シュムベーターにおいて, (我々の認識が連続的でなく断続的であ る理由として一一)マルクスの所謂「唯物史観
Jの公式(マルクス
J経済学 批判』序言において,殊更に顕著,明確な)の論理(の一部)と,全く同様 なものが,そのまま考慮されていることも,興味ある一事実である
Oその要所を拾えば,こうである。
「……すべての既成の科学における授業は,初心者の心を鋳型にはめこ み,彼が持っているかもしれない独自 J I 力の発育を,止めていることもあり得 る
o乙のため,更に一つの且つあまりに明確でない帰結が, もたらされる。
(科学における)展望とか方法とかの大変化は,既存の科学的椛‑造のもつ抵 抗力のために,最初のほどは阻止延引せしめられるが,やがては漸次的移行 という形よりもむしろ市.命という形で,出現するのである。……
J(r 分 析
J, 46 頁,訳 89 頁。)
その部分は,マノレクスによれば(殆ど同じく) , こうである。
「……社会の物質的生産諸力は,その発展がある段階に達すると,今迄そ れがその中で動いていた既存の生産諸関係,或はその法的表現に過ぎない所 有諸関係と,矛盾するようになる
Dこれらの諸関係は,生産諸力の発展諸形 態から,その桂拾へと一変する。このとき,社会草命の時期が,始まるので
ある。……」
「独自 J I 力」と「生産力
J,……「既存の科学的構造」と「既存の生産諸関 係
J,……「草命」と「社会草命」……。……シュムベーターとマルクス は,そっくり相照応する。
加えて,シュムベーターには,マルクスの等関にしている一考慮(なぜ草 命か,についての)がある
1一度樹立された既存の(科学的)構造が持続 せんとする傾向をもっという事実……
J,これである
o( シ ュ ム ベ ー タ ‑
f
分析
J, 46 頁,訳 90 頁。)
乙の考慮は,シュムベーターの『資本主義・社会主義・民主主義』に.( 1社
会学者マルクス」への註釈として),既に存在していた。唯物史観一一「歴 史の経済的解釈……乙れには,最初から一つの明白な制約がある
D社 会 構 造,様式,態度は,容易に融けない硬貨の如きものである。それらは,一度 形作られたら,恐らくは数世紀問も存続するであろう
J,と
o (12頁,訳20
頁。〉発展として、飛躍'の存在する一つの理由が,ここにある
o「哲学は歴史的
J(1.カント),
i哲学は哲学史
J(へーゲノレ)……シュ ムペーターが,殊にへーゲ
Jレばりに,種々な場合(存在,認識……その他 の)に,歴史を一一或は同じ乙とであるが,その(内的)モチーフ
Motiv,
Beweggrundを,如何に尊重するかは,惇くばかりである。
それは(自称)シュムベータ一通(
i哲学
J,
i歴 史 」 と い っ た 基 礎 教 養,センスの欠如しているととろの)の,到底窺い知ることの出来ないとこ ろであろうが……。(ヘーゲ
Jレの全体としての解釈ーーについての筆者の見 解としては,雑誌「東南アジア研究年報
J,第2
2集,参。)
勿論,筆者は,ここで,哲学そのもの(それがへーゲノレの哲学であろう が,その他の哲学者の哲学であろうが)を,直接問題にしているわけではな い。況して,シュムベーターの如き創造的な才能が,形而上学の指示するが ままに動いたとか,或はへーゲノレにそのまま倣った,などと主張しているわ けでもない。筆者の意味せんとすると乙ろは一一それが何れの分野であれ,
我々が,我々自身の問題をヨリ根本的, ヨリ厳密に究めようとする時, ( そ の基礎としての)哲学,乃至勝れて哲学的なるものに親縁をもっ, という
(程度の)主張に過ぎない。
哲学自体,或意味では,ヨリ洗練された常識としてある
o換言すれば,
(筆者によれば)シュムベーターの論著の如きは,その内容,叙述自体,哲 学〈認識論)としても立派に適用する。(シュムベーターのよく考え抜かれ た無駄のない精績な叙述そのものが
Fその一つの証明である
o)従って,例えば,筆者が<科学批判>となしているもの(後述)を
i科
学の哲学
J(同様,後述)としてではなく, (ドイツ語風に言えば)
I(諸) 科学の科学」と言い換える乙とには, (誤解さえないの竜も問題はないわ
けである
o「……諸科学の科学(科学論
Wissenschaftslehre)……この科学は,論理学や,ある程度はまた認識論からも出発して,他の個別的諸科学におい て用いられている研究の手筈の一般的ノレールとも言わるべきもの,を取扱う のである
oJ(シュムベーター『分析
J,
33頁,訳6
1頁。)
正直言って,筆者は又,その程度にしか,哲学の科学への適用を,評価し ていないわけである。(畢克すると乙ろ,哲学も相対的なもの一一我々自身 における考え方の一つに過ぎない。)
然して,この件に関して是非共言及の必要のある乙と(又そのためにこ そ,筆者のこの註釈は書かれたのであるが)としての一一シュムベーターの 哲学嫌い(彼の著書の処々方々に見られる,殊にへーゲ
Jレ哲学についての) 乙そは,その実, (少くとも,筆者には体験上そう受取れるのだが)シュム ペーターが哲学そのものを嫌ったわけではなく,哲学(殊に形而上学,究板 的なものの問題に関わる)の科学への安易な適用(我国の俗流においては在 り来りの)を嫌ったのだ,ということで説明がつく
o(事実,シュムベータ ーは書いている
0) I形而上学的概念を経験科学の領域内で使用するのを嫌 悪することが,常に必ずしも形而上学そのものに対する嫌悪を怠味するもの でない。
J(r 前掲書.B,
20頁,訳36 頁。)
無内容なもの(乃至歪曲されたもの)に神秘的・思弁的外衣を着せるだけ が目的の(或はそうとしか受取れぬところの) ,ペテンの一程としての一一一 哲一学の科学への適用,それは哲学,文学等についても教養深い魂の持主 である反面一一)知性高く,科学的・合理的思考に長けたシュムベーターに
は,その厭わしさは,全く我慢のならぬ代物であった。
それは又,へーゲノレ癖のあるマルクスさえも,嫌悪したところのものであ
る
o(結果的に言って一一マルクスは,彼の科学的論理そのものを,哲学に
よって偽装したことはなかった。)
へーゲ、
jレ自身は実際はそうでなかったのであるが(筆者はそう考えるので あり,一つはマルクス自身にもへーゲルについての同情がなく,或は誤解が あったと思うのであるが)ー一一(たとえば)マルクスは,へーゲルの弁証法 (の神秘的性格)に関し(彼自身のへーゲノレ癖が,一つには亜流への反発に 由るものであるという釈明と同時に) ,次の如く書いている。
「私は,へーゲノレの弁証法の神秘的側面を,
30年程前に,即ち,尚それが 流行していだ時代に批判した。……教義あるドイツで大言壮語しているあの 厭わしい不遜な凡庸の亜流が……『死せる犬
Jとして,へーゲルを取扱って いた。従って,私は,公然と,かの偉大なる思想家の弟子であることを告白 した。そして価値理論に関する章の諸所で,へーゲソレに特有の表現法をとっ てみたりした。弁証法は,へーゲノレの手で神秘化されはしたが, しかし,そ のことは,決して,彼がその一般的な運動諸形態を,先ず包括的で意識的
〈科学的,
allgemeingu1tig)な仕方で説明したのだということを,妨げる ものではない。弁証法は彼において頭〔精神‑形而上学〉で立っている
D神 秘的な殻に包まれている合理的な中核〈物質‑科学〉を見出すためには,乙 れをひっくり返さなければならない。
J(r 資本論
J,第 2 版後書。)
哲学について言われたこと一一同じこと(批判,批難)は,数学一一数学 の解法それ自体に依拠しているに過ぎない一派(経済・経済学的問題意識ゼ ロの,従って又同様に,その方の単なる亜流に過ぎないところの)について も公平に,適用さるべきである。
亜流としての彼等の方法を象徴するのは,狭い盤上でのチェス遊びであ る。その認識価値は,それ以上のものでもなしそれ以下のものでもない。
唯,それだけのものである
oとりわけ
r数学的優雅への願望のために,経済的真理が犠牲に供せられ るという之とは,断じて許されることが出来ない。
J( J .
G. K.ウィクセ
J
レ )
関話休題。ともあれ,<経済学の歴史>を,そして次には,<科学批判>
を,我々の問題の最初に,セットしよう
o(歴史的立識と哲学的意識との双 方が条件……。)
二十年近く前,筆者の自発により「経済学説」を開講(近年
r経 済 学 説 j を「経済学説史」に変更),その際, 筆者の採った講義題目は一一
経済学の方法
であった。
一一経済学の歴史と科学批判との結節点としての経済学方法論 (=経済学)一一
この場合,<経済学の歴史>とは,端的には.
r経済学は如何に進歩した か
J(の問題)を,経済学の進歩そのものを,直接に指示する
o「経済学は如何に進歩したか」という問題は,それ自体の(聞の)内実 l 乙,経済学乃至経済学の歴史(の全体)についての,ある種の否定一一ー(否 定を内に合み,否定に限定された限りでの)肯定,即弘 、反省'の契機を 予め含ましめている,という乙とが出来る。
今一つの<科学批判>とは,言うまでもなく(主体的な,哲学的なもの としての) 、反省'の契機を,正面切って打ち出したもの,に他ならない。
「科学批判
Wissenschaftskritik……科学の拠って立つ所の根底〔基礎的 仮定・前提その他〉を明らかにする乙とは,同時に,科学の標梼する所の真 理なるものが如何なる意味
C本質,価値〉を有するか,又科学の認識が如何 なる限界を有するか,を知らしめる。
J(田辺元『科学概論
J)それは,時に,経済学を,単なる安康と安定(消極)の中にではなく,む しろそのダイナミックさと生産性の獲保(発展・創造,積極)のために,そ れを,その歴史的過程(いわば科学の<戦場>)に追いやるべく, (強力 な)枢動力として機能するものである
Dシュムペーターの所謂「改良せんとする意識的な努力」……分析を推し進
める力,エンジンとしての、反省'。……「反省することは,同時に……学
の内容を生産する乙となのである
oJ(田辺元『哲学通論
J)……方法論
の生産性……、作られたものから作るものへ'… 。
然して,<経済学の歴史>と<科学批判>との二つを併せ考慮することに は,微妙な問題がある。何故ならば,我々が単に経済学史について語るため には,<科学批判>は必ずしもその条件たり得ないからである。むしろ,
<科学批判>の理由は,そこに我々が一旦(或は一刻那)立止ること,次い で飛躍乃至爪革命'を予定せざるを得ないあらゆるもの,を合志せしめてい るからに{也ならない。
シュムベーターは, (ここでも偶然ではあるが,筆者の指摘するものと略 同じ事態,略同様の説明とおもわれるものを)次の如く述べている
o「……(科学における〉展望とか方法とかの大変化は,既存の科学的構造 のもつ抵抗力のために〔一一それ故にこそ,<科学批判>は重大な一つのな 味を有するのであるが),最初の程は阻止, 延引せしめられるが,やがては 漸次的移行という形よりも,むしろ草命という形で出現するのである 問題と方法とは,環境が変るが故にのみ変るのではない。それらは又,ある 科学の一定の構造の中
Jこ具現されている分析的仕事が, (上記の如く漸次的 移行に抵抗し,ある時期が来たら一挙に草命的に飛躍するといった)いわば 抵抗を含む変化の仕方で変化する(という事実)の帰結としても,変化する のである。
J(r 分析 j ,
46頁,訳89‑90 頁。)
むしろ,然してこそ,経済学の歴史は,その存在理由を有するのである
O「経済分析の歴史とは,経済現象を理解する〔即ち,人聞が精神(内)に とり入れる〕ために人聞が試みてきた知的努力の歴史を,意味する。
J (W前 掲書
J,
3頁,訳
3頁。)
従って又,<科学批判> (の問題)は,そこにおける、反省'が歴史的な ものとして在ることを,我々は看過してはならぬ。
「哲学は,一つの強力な歴史的力である。
J( J . M. ボへンスキー)
<経済学の歴史>と<科学批判>……二つのものの結節点(と考えられ
るもの)としてのく経済学方法論(=経済学) >一一それは,如上二つのも
の自体が,一見簡単の様であるがその実複雑なものであるが故に,その所以 からしても,その結節点は,ヨリ一層複雑且つ微妙なものとならざるを得 ぬ 白
即ち,それは,巷聞の,無雑作に「経済学
J(或は「経済学史
J)と呼ぶ には,厳しさに過ぎる哲学的洗礼を受けたもの一一むしろ哲学と経済学との
はぎま
聞にあるもの(所謂<経済学方法論>),である
Dそ乙における聞は一一経済学は如何に在れば良いか,経済学のあるべき 姿・「正しい在り方」とは何か,これである
D換言すれば,それは,哲学的
・方法論的検討に耐え得るだけの(資格をもっ) <経済学>である
O一ーた とえば,体系としてあることは,その不可欠な条件の一つである口(体系の 条件は,批判である。)
同様に,斯かるもの(未だ二,三の条件を挙げたに過ぎないが)としての
< 経 済 学 > (乃至<経済学説史>)は,経済学の歴史,科学批判
(RPち,歴 史,動力……)……と媒介を経るものだけに,少くとも歴史性を欠くとと 一一(歴史的連鎖・必然性を欠く,一枚のウスッペラな数表よろしき)偶然 的・単一の、経済学" (或はそれらの五目並べよろしきものとしての、経済 学史")ーーは,到底,考えられぬ。と同時に,我々の場合においては,
(理性)必然的な内的聯関一一体系(但し,歴史的体系=歴史的法則)をも っということが, 自明となる
D歴史の中(を貫通するものとして)の経済学(所謂、通論") , しかも歴 史必然的(ヨリ厳密に言えば,歴史体系的=歴史体系必然的・本質的)な全 体としての経済学としてこそ,経済学は経済学なのである
D経済学は,いわば発生的・本質的に言って,歴史的科学である
O歴史科学としての最重要の基本的設問(へーゲ
j, レ マノレクスにも共通
ω一一「……何故に現在の如きものであってそれ以外のものでないのか……
一一何が,如何なる方法で,又如何なる理由で,続いて生起して来るか…。」
(シュムベーター『前掲
illJ,
5頁,訳
8頁。)
経済学とは何か一一経済学は,<経済学説史> (但し,理念としての)と
してこそ,経済学なのである(経済学説史=経済学,或は経済学=経済学説
史)。
そして又,斯かる経済学は,<経済学説>となる(可能性をもっ)。
筆者の謂う「経済学説史」が,通常の「経済学史
J(或は「経済学説史
J)と異るのは,単に命名だけの理由でないととに,以後も注意せよ
o(シュム ベーターの場合,既に斯かる立脚点にある
o )我国の場合,悪しき二元主義,……即ち,過去‑経済学史,現在一経済以 論……。……が,しかし, 、過去を反省するのも現在のため。グ (或は)
「へーゲ
jレは,哲学は哲学史であると規定した。」……「ある一定時点にお ける一切の科学の状態も, その中に過去の歴史を背負っている……。
J( シ ュムベーター『前掲書
J, 4頁,訳 7頁。)
従って,斯かる考慮一一そこから生れる自明の論理として,我々における 経済学の習得について,差当り,二つの学習方法が,工夫され得る
O一つは,<経済学の歴史>を代表するところの所謂、古典'につき,そこ における問題を可能な限り究めることによって,その、古典'の限界(本質,
価値)と発展の可能性,即ち<科学批判>の契機,を掴むことである。(そ の時一一それが成功した時,我々には,経済学の全体が把握されている。)
今一つは,我々(自身)における現在の問題を徹底して追及することによ って,その過程裡に<経済学の歴史>をクローズ・アップせしめ,従って 又,自ずから,その反省,即ち<科学批判>のチャンスを,発見することで ある
o前者の場合,かなり便宜的ではあるが,ごく一般的な方法である筆者 は,講義では,便宜上,乙の方法を採っている
O……、古典'が単数乃至単 数 l 乙近い場合, ヨリ困難となると共に, ヨリ強力な方法となる。) しかし乍 ら,それが真に強力な方法であろうとすればする程ーーその前提として,後 者の方法による助力を不可欠とする
o一一筆者の立場は, ど ち ら か と 言 え
ば,後者の方法による(後述)
但しL.れら二つの方法が, (力点がどちらに置かれようとも)お互いに
補完を必要とすることについては,筆者としても,全く異論はないのである
o何れにせよ,我々は,ここで,その何れが始めか終りか(即座には)分明 になし得ないと乙ろの,又その何れもが不可欠・不可分であるところの一一 三つ巴(、三すくみ
Hか)の関係(図)を得る。(第 l 図)
第 1 図
経済学の歴史¥¥、
│ 経済学方法論
科学批判‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑‑ ( =経済学説,経済学説史)
如上の筆者の(俗説からすれば)些か(多分に,か)主観的・ドグマチッ クな見解一一それを,裏付けし,且つ客観化すべく,他からの, しかも最小 限度の,援用を行おう
o田辺元『哲学通論』は, 斯かる便宜(手段)のために,恰好の書であ る
o(r 哲学」を「経済学」と入れ替えよ
o)同書「緒言」に言う
D「……哲学は,不断にして徹底的なる反省の学である
O然るに,斯く哲学 が反省の学であり主観の自党を媒介とするということは,一歩進んで考える と,……カントが区別した哲学と哲学思索とを,半面において,再び統一す るという結果を導く。他の科学において,その立場とか方法とかの反省は,
その科学の内容をなすものではない。それは,それらの科学と区別せられた 哲学の内容に,属するのである
D然るに,哲学においては,哲学の立場,方 法の反省そのものが,主観の自覚として,哲学の内容に属する
oJ「……哲学的思索を学ぶために,哲学の立場と方法とを反省する乙とは,
同時に,哲学の内容を生産する乙となのである
D……『哲学の哲学』は,哲
学に対して,或は序説,或は政語の位置を占めるとも考えられると共に,そ
れ自身が,哲学の本文なのである
o……哲学の立場と方法との自覚は,単に
哲学の始めをなす序でも終りをなす践でもなく,それ自身本文であると共
に,始めでもあり終りでもあるのである
O……哲学通論は,このような対立 の統一的なる媒介となることを,それの職分とする。……哲学通論は,斯か る意味において,哲学の入門たると同時に,哲学の究極内容たらんことを,
期する
o……『哲学とは何か j ,という哲学の始めにして終りなる問……。」
(前述の)筆者の流儀に従って,以上(の援用)を整理すれば,次の如く なる
o( 第 2 図)
第 2 図
哲│学一一‑‑‑‑‑‑‑‑一‑
‑ > < ‑ 品 、 マ 入品 的 思 索 ///74)
(反省)
そ れ を 更 に
Dialetik(正一反一合の構造,乃至その発展)で示せば(第
3図)一一
正
i ¥ ¥
長 /
~ ¥
第
3区
l、J
但し, 田辺元の場合については, (筆者の立場上からして)次の修正 が,必要である
O( 1 ) 少くとも,筆者の場合,経済学(という科学)一一「科学において,
その立場とか方法とかの反省は, c むしろ,肯定的に〉その科学の内容 をなす……」。
筆者は,当時の講義ノートに,註している
D日く
O「哲学に限らず,学問は凡て
r反省の学』ならざるはなし。その時
i緒より,反省,反省……反省の繰返し(自然科学は実験,社会科学は分 析,抽象を媒介とする)によって,学問一般は形成せられる
oJ( 2 ) 斯くて1"哲学の哲学」がある如く,同様に,経済学の哲学(科学の 哲学,即ち<科学批判>)が可能である
O田辺元の場合, 以上 2点(の修正が必要であるということ)は,
r哲学 と科学との問.] (或は『科学概論.])という著が別にある(科学の方法にも 明るい筈の……但し自然科学の)著者としては,甚だ奇妙,不審である。
(悪い意味での偏自然科学の所為か口)
もっとも,経済学(社会科学)が漸く科学としての体裁を整え始めたの は ,
18世紀後半に入ってからという冷厳な歴史的事実を,我々は噛みしめる 必要がある口反面, 自然科学(殊に物理学,化学)には,実験という際立っ て優越した武器がある。一一対象,手段それ自体、客観的
objektiv"であ
る
O以上,改めて,科学と哲学夫々の場合を,比絞,対照すれば,端的には,
次の如く示される
o( 第
4図)
科学の哲学,即ち我々の場合は「経済学の哲学
J,という言葉を使ってい る一人として一一
w.スタークは,その著『経済学の思想的基礎.], 日本版 への序において, (筆者の趣;古;同様,但し経済学説史=経済学という粍の徹 底はないが)次の殺に言う
D「経済思想史〈筆者の全体としての「経済学説史
J.ヨリ限定された形では
く科学批判>に相当〉は,或はそう思われるかもしれないように,既に廃棄
第
4図
一一…一一一一一一一仮定・前提 科 学 科学の哲学
された学説,既に完了し,用済みになった学説の研究に携わるのではなく,
むしろ,経済学全体の, ヨリ深い性質とヨリ深い意味をもった,永続的な
J問 題に関わるのである。それは,いわばこの科学の参加者に鏡を示して,彼等 に次のように言う
O乙れが諸君の姿である
o諸君自身の性格を考え,そして 諸君自身に,果して諸君は諸君があり得るもの,あるべきものになっている かどうかを尋ねて見よ,と
O大凡どんな学問部門も決して健全ではあり得な い。……乙うして,経済思想史は,本質的に経済学の哲学である。実際,そ れは,経済学をして常にそれ自身の諸傾向を評価し,その弱点を発見してこ れを放棄し,その力を見出してこれを発展させる経済学の良心である
0・
この不断の努力……。……近代経済学者は,部分的に哲学的な体系から純粋 に実証的な体系への移行を,進歩と看倣す傾きがある
O……経済学者をして 彼等の思考を彼等の主題のヨリ狭い,準技術的な局面に局限させたのは,大
きな知的危機であった。」
「経済学者の権利・義務とは,先ず入念に科学の哲学を研究すること,に あるのではあるまいか。
J( L . ワノレラス『純粋経済学要論 j )
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