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パロディ化された「問題解決」的思考 原 野利 彦

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パロディ化された「問題解決」的思考

原 野利 彦

Parodied Problem‑Solving Thinking Toshihiko HARANO

問題意識

 「問題解決」的思考について,我々はその過程の各局面(問題設定,仮説,推理,検証な ど)が可能であると無造作に考えがちである。しかし思考過程は記号活動であり,それを 構成している記号群は様々な働き,力関係にあるのだから,各局面として抽出することす

ら困難であることを痛感すべきである。異議を挿し挟まれ,遅らされ,脇に逸らされ,塞 き止められたりして,絶えず食い違いが生じる状態にある。この記号の力学をどう理解す るか,これが小論のねらいである。

 (1)各局面のズレ

 問題解決の各局面が存在することは平凡な明証事であって容易に合意が得られるものの ように見える。各局面はそれぞれに固有の文脈をもっているものと前提してかかることに より,我々は大いに思考のエネルギーを節約している。つまり文脈という境界によって大 幅に状況を縮減しているのである。この暗黙の,しかし構造的には漠然とした一種のコン センサスによって生み出された或る慣習的なコンテキストがあらかじめ存在するのである。

たとえば問題設定はそれぞれの国語や用語をもって構成されねばならないこと,その問題 に対しては,その分野にふさわしい解答様式があるなどという慣習である。

 それでは問題解決の各局面は何を意味しているのであろうか。ここで「拡張」Extension という概念を導入してみよう。たとえば「問題設定」の局面は,なんらかの経験的制約に ある事態を解放し,長い射程へと展望を開きうる。これは音声や身振り,文書によって,

またはもっと強力なメディアによって伝達される。しかしここでは次のことが前提されて いる。つまりそこには一つの連続的な,同質のエレメント(境位)が成立しており,その エレメントが侵害されるのはすべて偶有的なことである,と。

 問題設定の局面というものは,問題として設定すべき内容があること,これを思いつく 想念が設定に先立っていること,その設定の仕方,伝達の方法についてはしかるべき準備 がなされていることなどがある。諸混乱を同質の固まりにし,事態を把握しやすいように 縮減する行為として問題設定があるという前提である。

 そしてこの設定された記号群は,アナロジーを通じて未だ存在しない仮説を構成する記 号群を呼び起こし,やがて推論という働きを通じて検証に至るというように考えられてい

る。

 しかし「問題解決」の過程は,その各局面における記号間のズレのみならず,各局面間

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のズレを通して,問題解決という自己自身の図式そのものを危機に陥れる。たとえば問題 定立という局面,仮説という局面,検証という局面は,それぞれ別々の局面と見徹されて いるが,それらの問にはなんらかの連続性があり,したがってルールもあるはずだとされ ている。つまり,それらは論理関係などとして跡付け直す操作が可能だとされているので ある。「問題解決」的思考という「類」の中で,各局面という「種」が相互に関連し合うと いう図式である。ところがこれらが破綻しはじめるのである。

 そこで起こってくる問題は,各局面を区別している違いdifferenceは何か,ということ になる。この時我々は各局面は相互に反復が可能だという前提に潜んでいる「距離」「差異」

というものを極端に重視しなければなるまい。それも,各局面が「同じ」過程での局面で ありうるには,相違を貫いて繰り返しが可能であるための機関としてのコードが存在し,

それが連続性を保証するということの対比において距離が強調されねばなるまい。

 更に次のように見ることも可能である。各局面は他の局面とのコミュニケーションの地 平を絶たれ,解釈や意味づけの地平から絶たれ,多義性という概念とは区別され,文脈と いう概念から切り離された地点に立つものだと見ることも出来る。各局面は文脈との何ら かの断絶する力を含んでいる。反復すると同時に他者性を持つというパラドクス。

 今や実験・治療過程の思考理論の中核的位置を占めている「問題解決」理論は上で指i滴 したような疑問を予め排除されて形成されてきたものであることがわかる。

 しかも学校での活動は知性的であるとされてきた。この場合知性的であるということは,

彼らが「体験」する時空間を越えて,抽象的次元での「連続性」を生きることを意味する。

たとえばJ.Dewyは学校には3つの機能(単純化され,順序づけられ,均衡のとれた環境 の提供)があると言う。これが教育化されたSituationsの組織化としての学校というので ある。現代の子供達が社会変化に翻弄されて,きわめて表層的な適応しか出来ないと考え ることはおそらく正しいだろう。だが学校教育が彼らに時空間に深く位置付き,深く時空 間を生きる力を育てるように目指すことが可能だと前提できると考えることはできまい。

学校において生きる力を培うことを追及することが実は彼らを「教育的文脈」という連続 性の中に閉塞させることの繊密化である場合もありうる。たとえばJ.Dewyは労働をモデ ルにして学習活動論を展開した。しかし各局面として集まっている記号群のもつ解放性は,

弁証法的アウフへ一ブングにおいて解消可能なものだとするわけにはいかないのである。

各経験:はそれが或る単位をなすための同一性をもつが,それが反復可能であるというまさ にその理由によって,自己同一性を有する一つの単位であることが出来ないのである。そ の単位元は自分の文脈から分離され得るし,自分からも分離され得るのである。各経験の 同一性は逆説的に自己との分離ないし分割なのである。

 (2)イノベーション型慣習への呪縛

 学校で時空間に深く根付くを追及すること自体が或る領域への閉塞を強いることの合理

化に繋がるとはどういうことか。それは単に学校教育が慣習の網の目の中の役割への固定

的呪縛である場合のみを言うのではない。それが電子メディアの時代に即応するようなイ

ノベーション型慣習への呪縛である場合もいうのである。勿論,電子メディア時代のイノ

ベーション的思考はただ一つの視点だけを持つ遠近法を尊:重するという近代的思考を越え

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ようとしている。つまり多様で多次元的なものの見方を奨励する。近代初頭から大量生産 時代までを貫いていたような,時空間を科学的に操作可能な等質的な場として形成したり,

実存的場として形成するプロセスをもって,教育的とする考えを越えようとしている。だ が多視点型の主張も見かけとは異なり,閉塞型の一視二型遠近法を根底に据えたままであ る。なぜなら,上述の自己同一性と分離・分割という経験のもつパラドクスを考慮してい ないからである。事実,事態はもっと表面的であって,主体としての個人を原点にし,トー

トロジカルに一貫性を追及するヴァリエーションとして多気二型の主張があるにすぎない のである。「問題解決」における問題的状況(岐路的状況)とは「選択行動」という電子的 メディアを駆使する代替案への勧誘にすぎない。「生と死(再生)」の,問題は「成長」や

「活性化」へと倭小化される。存在からの呼びかけは「意味」の追及へと小市民化される。

 近代教育は中心となる一視点(例えば教師の眼差し)から時空間を支配・操作できるよ うに,単調な線型リズムの時間性と等質的な碁盤目状空間性において営まれることを基調 としている。時間割の表,座席表はこれを端的に示してくれる。例えば,座席表の教師の 位置は,中心となる一視点を明確に示す(試問割の場合は教師は立案者として背後に隠れ

ている)。このパターンは工場的大量生産のリズムと空間をモデルとしている。この大量生 産システムのモデルは学校のみならず,劇場の額縁舞台,美術館などの展示方法などにま で影響を及ぼしたのである。むしろそのモデルによって再構成されたと言った方が適切で ある。M・フーコーがパノプティコンについて明らかにしたように,近代的学校の時間空 間は工場型なのである。

 一視点の遠近法はダ・ヴィンチらの「再現」による認識の称揚以来,生命の奥行きを活 写するものとして特権的地位を確保していた。しかも一視点の再現(コピー)は大量生産 の時代には一層のリアリティを保持し得た。〈オリジナルーコピー〉の図式が現実性を持っ ていた。しかし電子メディアの時代,大量消費の時代,多様な選択肢の時代というコピー

(増殖・過剰)の時代には,この「再現」は生命の拡張・深化・深い喜怒哀楽を人々にも たらし得ない。相互にコピーしあい,虚実の不分明なこの時代には,近代的遠近法は多様 で細かいリズムを可能にする複雑な分化を時空間に施すことができないのである。たとえ ば〈オリジナルーコピー〉の図式も現実性を持たなくなる。

 だが複線型の思考がこの大量生産型の尺度を越えるように見ても,それは単線型のモデ ルが再定義され,複雑化されたものにすぎない。教育上の「望ましい経験」として教師に よって「構想」される多様な指導過程も単線型システムの複雑化にすぎない。そもそも大 量生産型のコピーは単に画一的な製品の上に成立するだけのものではなく,多様な生産 物・多様な消費物としても現れるものだからである。だからこそボードリヤールは,それ を深層での一元性に支えられる表面上の多様性だと断じ得た。そしてそれを表面上の多様 性の誘惑によって,一元化した社会へ還元するものだと批判し得た。しかし「隠れた次元」

「隠れたCurriculum」というような,深層と表層を区別し,一元的法則性を見い出そうと する近代的試みの単なる変形は挫折する。コピー(増殖・過剰)は表層,深層などの区別 を越えて,多様体の迷宮を生みだしているからである。

 この大量生産・大量消費というコピーのシステムは多様な工程や製品を生み出すが,こ

れらは多様性という名の分離され浮遊する断片的な経験を生み出す。我々はこれらを概括

するために「情報」をハントする。だがこれは単に粗野な有用性のレベルにおける経験を

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可能にするだけである。消費の言葉だけが場(situations)を定義出来るように見える(評 判,売れ筋,ゴシップ)。つまり個々の「体験」は混乱が常態化した日常の不整合なシェー マに当て嵌められ,コピー関係は輻軽し,世界はますます迷宮化していく。そもそもCurric−

ulumとは知性による世界の組織化であるというが,この増殖(コピー)の世界は市場的言 語によってしか方向づけが出来なくなる。これはCurriculumという「知的」行為の幅を狭 め,綾小化し,子供の生を空洞化する。

 しかもこれは近代的遠近法を無視する知性ではない。「望ましい経験」,「展望をもつ」,

「計画」,「評価」,「ねらい」の名においてこの知性は働いている。たとえ「遊び」を重視 すると言っても,それはイノベーションの常態化としての近代的慣習の推進の網の目に子 供たちを絡めとることになってしまう。イノベーション物語に子供の成育を当て嵌めてい くことを前提にした問いの形と,技術主義的傾向への誘導から逃れることは困難である。

遊ぶ力を育てようとする努力が深い解放感をもたらすと主張することは表面的議論にすぎ

ない。

 (3)「体験」を「知性」の下位に置いた近代

 現代ではすべての物事が「問題解決」という認識法の枠組みに入り得るかのように見え る。なぜなら,我々の状況が刻々と変わり,表面的な多様化を招いているとしても,深層 においては一様化をもたらしているからである。恒常的なランドマークがなくなったかわ りに,多国籍企業の商品が繰り広げる世界は益々標準化された看板,店構え,商品,サー ビスを提供している。このように大衆化され,等質化された状況は,絶えざるイノベーショ ンという慣習によって支えられている。これが「問題解決」という認識法の枠組みに現実 感を与え,それを維持させるのである。

 しかもこのイノベーションという「慣習」も今や記号化してしまっている。商品という コピーによって境界線は流動化し,視覚に頼ろうにも等質化されてしまった景観に取り囲 まれている。凡庸化された見回れた風景がどこまでもついてまわる。区別し求心化するた めのシンボルも衰退し,すべてが記号化され抽象化されてしまっている。矢印や頭文字の 羅列に囲まれた,増殖する商品によって白け切った世界は,エスキモーの白の自然の世界 とは異なる。それは空気の匂い,風の方向の触覚,雪や氷の音を鋭敏に触知しえる状況を もたらしはしない。こうしてすべての物事が「問題解決」という認識法の枠組みに入り易 くなる。すべての要素が脱色され,取り扱いやすい記号となるように消毒されている。

勿論,すべての物事が「問題解決」的に処理し得るものではないことは言うまでもない。

しかし我々は「問題解決」的思考法以外を必要とする状況らしきものを第二義的に扱い,

それに関わる思考も第二義的なものとして「問題解決」的思考の支配下に置いてきた。そ れは「現実」の名において深い感情を消毒し,小市民的に無害化された感情の称揚に至る まで多様な形態をとっている。

 現代では,この近代的思考法の限界が意識され,伝統文化のもつ象徴的世界への回帰,

学習が強調されるに至っている。しかしこの事態はまさにパロディとしてのみ存在する。

確かに伝承文化の時代は象徴性に満ちた景観があった。それは表層を越えて奥深い意味を

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持ち,住民の愛着を育んでいた。しかし現代の景観はそれとは異なり,記号システムになっ ている。都市や家々は「〜時代風」のイメージを表面に貼り付けられ,由緒ありげに見せ 掛けられている。しかもこれが「文化」という意味を与えられている。すべては小市民的 な顧客の注意をひく程度には取り入れられるが,強烈な存在は毒気を抜かれて行儀良く並 列化されてしまう。「問題解決的思考」のみが「現実」性をもち,解決しうる問題に還元さ れない,解決不能の問題は「非現実」とされる。「体験」のもつ象徴性はパロディ化された 記号へと転落する。

 ここでは人々はIdentityを確保するために「問題解決」的思考を貫くことは困難であ る。現代のハイパーリアルな表層的景観の中を人々は漂うが,それは形式(差異)が優位 を保っている世界であり,人々は「体験」のキッチュだけをもつにすぎない。人々は「自 分を〜風に見よ」という押し付けがましい景観の中に住まわざるを得ない。夢の作業とし ての圧縮などに類する比喩的思考が称揚されるが,実は曖昧なところが一つもない,オー ブンで深みのないハイパーリアルな機能的思考のみを育てる。このような背景によって近 代的理性による一元的還元(「問題解決」的思考)は可能となるのである。だがここでは人々

は方向感覚を失わざるを得ない。つまりシンボルによる縮減によって己の位置づけが出来 なくなる。「体験」重視が叫ばれるのは「体験」が空転しているからである。

 我々は親近感と信頼をもてる小世界の中で自己形成してきた伝統社会とは異なり,親し みの持てる世界から追放されている。それは「問題解決」的思考によって機能的によそよ そしく定義仕直された大世界に住まわざるを得なくなっているからである。馴染み深い焦 点や枠組みの欠如と明白で単純化されてはいるが困惑させる状況の連続をもたらす機能的 に定義仕直された世界に住む。確かにこの官僚的消費社会は心地良さと効率的で安全な生 活をもたらしはする。だが,それは深い場所への関わりを阻害し,世界的な規模で平均化

しようとするプロセスに我々を巻き込んでしまうのである。

 「体験」重視というスローガンがもっている隠された問いは,正統的整序能力(慣習)の 形成と化した「問題解決」能力の育成がシンボル的な次元を獲得し得るかということであ

る。「問題解決」は「体験」を包摂するほど強力なものであるのか,また,そのようなこと を「問題解決」的思考に求めるべきか? むしろ思考一般が「体験」を包摂することなど 出来ず,機能的な異質性の排除に傾く一元化なのではないのかという問題である。「体験」

を救い,この複雑な世界の縮図を入手し把握する方法はシンボル的思考か,もしくは機能 的思考かという対立の図式では解き得ないのではないのかという問題なのである。だが「問 題解決」的思考法や価値観は大衆に第一義的なものとして自己内化されている。

 それでは如何にしてこれを自覚的に越えることができるのか。これは教育が「体験」概

念を核にして局所的な状況に深く位置付き,場を作ることを通して深く空間を生きること

を可能にするとはどういうことであろうか,と問うことである。これには慣習的思考を破

ると称する情報化が我々から「体験」を奪い,倭小化することであることを批判的に指摘

することから先ずはじめねばならない。それは情報化を飼い慣らしの巧妙化として捉える

ことである。確かに「問題解決」の各局面は場の構成である。そして「問題解決」による

自己形成を考察する際に個々の場が多様で様々なレベルをもつことに着目することもでき

る。ラバポートのいうように「場を作ることは世界の秩序付けである」とすれば,「問題解

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決」の過程は「体験」を可能にするはずである。しかしなぜ「問題解決」は「体験」を可 能にしないのか?

 (4)ピューリタン的謹直さへの映笑をもたらす「体験」

 操作的な行為の遂行にのみ適用できる「問題解決」という枠組みは,或る範囲内を一歩 も出まいとする近代の謹直な,ある意味では臆病で倭小な同語反復的営みに人間の活動を 閉じ込めてきた。たびたび言うように,それは自己という幻想・幻想としての自己によっ て我々を支えてきた。それは役に立つものであり,これにより生存が可能であるとされて きた。だがこのような近代的自己概念によっては生存が危うくなり,かかる思考は今や退 屈なものとなり,秩序づけのエネルギーを失っている。自己というものが疑問の集合体で あり一元的に平板化された「問題解決」的思考において暗黙のうちに前提されている自己 の同一性の幻想では沈黙させられないものであることが実感されているかちである。また このような要素として自己を成立させる前提としての平等な社会も疑問に付されている。

このような思考の枠組みに狭苦しさを感じ,「自由」を求め,これを嘲笑う事態が生じる。

これが近代的思考の枠を越える行為としてのパロディである。

 我々は「問題解決」的行為をして,それが状況を見いだし,様々な選択的行為を経て,

状況を作り出す過程を認識する方法だと思い込んでいろ。しかし,それは次のような変遷 を辿っている。つまり,それが生産活動にモデルをとる意識や行動の習慣の形成である概 念であることから始まって,消費社会における商品交換にモデルを求める概念へと変化し ているということである。問題を解決するために仮説を立て検証していく「一貫した行為」

identityを美徳だとすることから,多様な選択肢の前でたじろがず,賢く多様な生き方をす ることが求められるに至っている(変身・分身)。だが今ではむしろ選択的行為自体が惰性 的なものではなかろうか,という疑問に我々は苦しめられている。一貫した自我よりも多 様に変身し分身することを求めること自身が退屈な行為となっている。

 学習の形態も大きく変わりつつある。現代の教育は「差異による誘惑」というエネルギ ーによって動いていた。それは「差異の展示」,つまり選択肢をメニューとして与えること であった。だが商品の展示をモデルとするこのような多様な世界への誘いもエネルギーを 失い,退屈なものとなってきた。商品の世界そのものを見てもそのことが分かる。かつて はショーウインドウに展示された商品は説得力のあるレトリックと希少なシンボル価値の 提供によって,文化的意味の先取りを許すかのように振るi舞い,我々を変身へと誘惑して いた。ある商品を中心にライフスタイル全体に思いを巡らすことは映画のセット並みに生 活の理想化されたヴィジョンを提供してくれていた。これに基づき子育て,夫婦関係など のあるべき生活のリハーサルが可能となり,商品はあるべき生活の様々なパッケージを提 供してくれていたのである。しかしあるべき家庭の姿は人間を抑圧するものとして映り始

めるとき,それを背景にした商品は生彩を失いつつある。

 更に,自己を育むべき景観すらも場所を単なる位置づけ(ロケーション)として扱われ ることを越えて,位置づけ不明の浮遊する時空間になっている。それは代替可能なもの,

選択可能なものとして時空間を扱えなくなり夢幻の境地のヴァーチユアル・リアリティの

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世界となっている。人々は自分の場,景観を専門家によって与えられる選択さるべき代替 物と思い込むことを止め,自分自身で作るものと考え始めたようにあるが,その手ごたえ のなさ,手触りの希薄さになやんでいる。我々は多様な時間や空間が輻鞍し,交換可能で ある紛い物(キッチュ)でもない霞のごとき状況のなかを漂っている。均質で不毛な記号 や物体で取り囲まれていた生活の方がまだ現実感があったと言えるほどである。

 また,かつては商品は少しずつグレードアップ出来るような小刻みなステップを提供を していた。それは「学習」の擬制をつくり,世界をアクセス可能なもの,手近なものにし てくれていた。商品は夫々の系列において豊富で精緻な差をつけられ,つねに上のレベル が存在するような世界として提示されていた。人々は誘惑されるがままに「主体的に」「選 択」していた。この分節は精緻を極め,非常に学習しやすいものとなっており,しかも「本 当の文化」は消費財の購入の次元を越えて常に手の届かないところで安全に地位を保って いるために,学校で与えられる「正統な文化」が商品世界と共存出来るかのような,また は商品世界の俗悪さを免罪してくれるものとして人々の心を慰めていた。

 商品は次々にスタイル変化を取り替えることによって意味の変化の担い手を装ってきた が,もはやその力は衰えつつある。人々は商品によって変身・分身の戦略(文化戦略)を たてることが出来なくなった。商品は変身を夢見る錯覚を保証する装置として人を変化に 駆り立て続ける力を失いつつある。割賦の制度化,カードによる支払いなどは益々生活の 中に浸透しているが,「接近可能性」は距離感の喪失によって動機づけを強化し得なくなっ ている。商品購入が来たるべき生活のリハーサル,消費訓練の役割を果たさなくなり,意 味全体を借称し得なくなっている。商品は簡単に陳腐なものとして廃棄できるものではな くなり,「収集」の行動を促す。我々はすべてのものを骨董品や美術品のように身の回りに 保管し始めている。こうして物流は停滞する。

 人々は「問題解決」的思考を,まず「生産的」用語(目的,手段,検証,評価)で語り,

次いで「消費的」用語(選択肢一コ口ュー化,ユーザーを助けるアドバイザーとしての教 師,販売者など)で行ってきていた。消費社会的文脈において「感性の復権」などが叫ば れるが,それは今や博物館化と同義になっている。むしろ博物館がそのコンセプトを変え 現代性を主張している。モノをその占めていた場から引き離し,その時その時の歴史意識 に応じて配列・展示し,教育機関としての役割を果たしていたリアリズムの時代は過ぎ,

更に多様な商品の陳列に似た展示の時代を過ぎ,今や夢幻のヴァーチュアル・リアリズム の博物館となっている。そしてこれが人々にリズムの多様さとIdentityと指針を与える場 として,表層的な文化の権威に服従している慣習からの離脱を図るものとされる。この場 は設計図や抽象的概念からではなく,具体的で意義深い経験から導きだされたものとされ る。具体的要素を操作のための単なる変数として扱ったり,固定した視点しか形成しない 場は克服され,愛着のある場所,光や音や感触のある特定の場所の経験からインスピレー

ションを引き出す場所であるとされる。こうして「問題解決」は意義深い場所に結び付き

たいという本源的な欲求の満足を目指すものとして,人間的な地理学を取り戻すプロセス

つまりCurriculumとなる。……これはまさにCurriculumのパロディ化である。

参照

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