ふたたびロシア語版
『経済学批判要綱』について(2)
山 本 義 彦
まえがき
〔凡例〕
Ⅰ ロシア語版第Ⅰ部の「注」(Ⅲ叩北門am兄)
〔1〕ノートⅡ
〔2〕ノートM
〔3〕ノートⅠ
〔4〕ノートⅡ(以上前号掲載)
〔5〕ノートⅢ(以下本号掲載)
〔6〕ノートⅣ
〔7〕ノートⅤ
Ⅱ ロシア語版第Ⅱ部の「注」
〔8〕ノートⅤ(つづき)
〔9〕ノートⅥ
〔10〕ノートⅦ
〔11〕ノートM,B/,B〝,(特)
Ⅰロシア語版第Ⅰ部の「注」(つづき)
〔5〕ノートⅠⅠI
127ノートⅢの8ページからはじまる手稿は、ノートⅡのつづきをなすテキ ストである。8ページにはじまっている句の冒頭はノートⅡの保存されていな い〔散逸した〕29ページにある。ノートⅡのはじめの7ページは俗流経済学者 バスティアとケアリーにかんする未完の草稿の2、3カ月前に書かれたものを 含んでいる(本巻、第1部、3−16〔⑤955−966〕ページを参照せよ)。
243〔200㊥212(26)「……同じ主体の」にはじまる文の冒頭の注〕
128労働者階級の、労働日を10時間に法的に制限することをめざす、闘争は
ふたたびゴシア語版『経済学批判要綱』について(2)
イギリスで18世紀末から行われ1830年代の初めからは、広範なプロレタリアー トの大群を引きいれた。未成年者及び婦人のみに通用された10時間労働日にか んする法律(法案)は1847年6月8日に議会で採択された。イギリスの米国の
イングランド人労働者階級の標準労働日をめざす闘争をマルクスは『資本論』
第1巻第8章(本版、23巻、287−306〔364−391〕ページを参照せよ)におい て詳しく考察している。−244〔201④213(27)「10時間労働法」
129『資本論』第1巻第5章の類似の箇所を比較せよ。−「労働手段とは、
労働者によって彼と労働対象とのあいだに入れられてこの対象への働きかけの 導体として彼のために役だつ物またはいろいろな物の複合体である」(本版、
23巻、190〔235〕ページを参照せよ)。−250〔206④218(25)「その両方し かないのである。」〕
130 シェルビュリ工は労作Richesse ou pauvret6、パリ、1841年の16ペ,
ジにおいてつぎのようにのべている。「資本は原料、道具、生活手段貯備〔appro−
Visionnement〕〈『要綱』邦訳では「給養品」〉である」。同じ本版、26巻第3 部、374−413〔471−515〕ページを参照せよ〔シェルビュリ工の上の句は、同 書、邦訳、471ページに引用されている一訳者〕。一251〔207④219(22)「シ
ェルビュリ工のいわゆる給養品(approvisonnement)」〕
131向日有、向日的存在(Fiirsichsein,Filrsichseiendes)は、その決定 性における、その相対的な完結性における全き質を示す、ヘーゲル哲学の 用語である。−254〔209④222(1)「対日的に存在している」〕
132『剰余価値学説』の中で、イギリスの社会主義者トーマス・ホジスキン についての篇の中で、マルクスはイギリスの社会主義者のこの見解の一般的特 徴づけを与えている(木版、26巻、第3部、306−307〔385〕ページを参照せ よ)。イギリス社会主義者ジョン・プレイにかんする未完の篇〔項〕において
(同書、333〔421〕ペpジを参照せよ)、かれの労作Labour,s Wrongs and Labour sRemedy、リrズ、1839年、59ペpジの中からプレーの次のような ことばを、特に引用している。「生産者たちの作業にとって重要な意義をもっ ているのは、資本であって、資本家ではない。そして、この二つのもののあい だには、船荷と船荷証券とのあいだにあるはどの大きな違いがあるのである」。
−256〔211④223(18)「無理もなかろう。」
133マルクスはトーマス・ホジスキンの匿名で出版されたパンフレット
Labour Defended againstthe ClaimsofCapital;Or,the Unprodukti−
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veness of Capital Proved(ロンドン、1825年)を主に考慮にいれている。
その中では「資本の不生産性」が証明されている。このパンフレットの詳しい 分析をマルクスは『剰余価値学説』(木版、26巻第3部、272−326〔345−411〕
ページを参照せよ)において行った。一257〔213④225(8)「生産的ではな い」〕
134A.スミスの労作AnInquiryinto the Nature and Causes of the WealthofNations(ロシア語訳、244−257ペ,ジ)第2分冊第3章を参照せ
よ。一257〔212④225(〈手稿原注〉2)「スミスがこの区別をおこなって以来。」〕
135マルクスはシーニアの労作Principes fondamentaux del,6conomie politique、パリ、1836年、197−206ページを考慮にいれている。生産的労働 と不生産的労働の問題にかんするシーニアの俗流的構想の批判に、マルクスは
『剰余価値学説』の特別の篇〔項〕をささげた(本版、26巻第1部、282−287
〔350−357〕ページを参照せよ)。−257〔212④225(〈手稿原注〉7)「ではな かろうか?」〕
136そのど、『剰余価値学説』において、マルクスはさらに詳細にこの典型 を考察しつぎのように示した。すなわち、「ピアノ製作業者の労働者は生産的 労働者である…これに反し、かりに私がピアノをつくるのに必要なすべての材 料を買って(または、それを労働者白身が所有しているとしてもかまわない が)、売りもののピアノを買う代わりに、私の家で私のためにそれをつくらせ
る、としよう。この場合には、ピアノ製作者は不生産的労働者である。という のは、彼の労働は直接に私の収入と交換されるからである」(本版、26巻、第
1部、142〔171〕ページ)。
同じ時期にマルクスは以下のようにのべた。「自分だけの力で自分の歌を売る 女歌手は不生産的労働者である。ところが同じ歌手でも、金を儲けるために彼 女を歌わせる企業家に雇われた場合には、生産的労働者である。なぜなら、彼 女は資本を生産するからである」(同書、410〔510〕ページ)。「同じ種類の労働 が、−マルクスは要約する−、生産的でもあり うるし、不生産的でもありう る」(同所〔邦訳、同所〕)。−257〔212④225(〈手稿原注〉9)「交換するに すぎない」〕
137マルクスは自分の抜すいノートⅩの40ページを引用している。ここには マルサスの著書 Principles of Political Economy、第2版、ロンドン、
1836年、47ページから引用したテキストにひかれたものが含まれている。とこ
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ろが、実際には、これはマルサスの言葉ではなくて、マルサスの考えを正確に する目的をもった、その書物の第2版(遺著)の編集者のことばである。−258
〔213④226(〈手稿原注9〉)「マルサスが言っている(ⅠⅩ,40)」ロシア語版 では「(Ⅹ,40)」と訂正されている〕
138D・リカードp、OnthePrinciplesofPoliticalEconomy,andTaxa・
tion、第3版、ロンドン、334−337ページ(ロシア語訳、第1巻、235−237 ページ)を参照せよ。資本の不生産的性格にかんするD.リカードーの見解につ
いては、本版、26巻、第2部、514〔626−627〕ページ、第3部、272−273〔345
−346〕ページを参照せよ。またJ.C.L.シモン・ド・シスモンディ、Etudes Surl iconomie politique。第1巻、ブルユツセル、1837年、22ページも参照 せよ0−262〔216㊥229(13)「資本は生産的ではないと言っている。」〕
139 注115を参照せよ。 −263〔216㊥229(30)「説明するとき、そうで ある。」〕
140J.B.セ一、Trait6d 6conomie politique、第3版、第2巻、パリ、
1817年、425、429ページを参照せよ。 −263〔216⑧230(3−4)「資本の生 産的用役」ロシア語版では、この語は引用符をもって印刷されている〕
141ブルードンの労作Systとme des contradictions6Conomiques,Ou Philosophie dela misare、パリ、1846年、第1巻188ページからのプルp ドンの言葉le travailproduit,le capitalvaut(「労働は生産し、資本は価 値をもつ」)をマルクスは『哲学の貧困』の中に引いている(本版、4巻、
92〔85〕ページを参照せよ)。−263〔216⑧230(7−8)「「資本は価値をもち、
労働は生産する」」ロシア語版とは順序が逆、フランス語の引用にあっても逆に なっている〕
142 Gratuit6 du Cr6dit.Discussion entre M.Fr.Bastiat et M.
Proudhon、パリ、1850年、177−181ページを参照せよ。本巻、第1部、214
−215〔④186−187〕ページと比較せよ。 −265〔218④232(7)「ブルー ドン君がやっているように」〕
143 述語がたんに判断の主体に帰結する内容をのみあきらかにするような 判断が、カントの用語法にしたがえば、分析的判断とよばれるものである。そ れは、そのうちにおいて述語が、判断の主体に帰結することなき特徴を主体に つけ加える、総合的判断とは区別されている。 −267〔220④234(12)「分 析的なもの」〕
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